日記・コラム・つぶやき

2012年3月24日 (土)

寺田屋事件 ~三吉真蔵日記より~(後編) 

前編からの続きです。)

私は手槍で迎え撃つ。坂本氏は捕り手の一人に向かって拳銃を轟発した。弾は逸れた様だが、捕り手は腰を抜かして部屋の外へと這い出した。その隙にと別の捕り手が坂本氏に挑みかかる。坂本氏は再び拳銃を号発した。今度は弾が中たったのか、捕り手は部屋の外に転がり出た。

私は何度も敵の襲撃を防いだ。しかし、防ぎきれずに、襖の隙間から一人の捕り手が、脇差しで坂本氏に斬りかかった。坂本氏は拳銃で刀を受けた様だが、浅手を負った様子だった。坂本氏は4発目を轟発した。今度は中ったかどうかは判らなかったが、捕り方たちは恐れをなした様子で、部屋に踏み込んでこなくなった。代わりに槍を投げ込んで来るが、避けるのは容易だった。

怒号と騒音の中、気がつくと、お龍さんは居なくなっていた。どうやら隠し階段から抜け出したらしい。

坂本氏の拳銃は6連発だった。しかし、1発は以前に試し打ちをしていたので、残りは1発だった。最後の1発となった坂本氏は、私に肩を貸せと言って拳銃を乗せ、捕り方の一人に十分に照準した。そして5発目を轟発すると、今度は確かに命中した。胸に弾が中った捕り方は、声も出さずに前のめりに倒れた。

この光景は他の捕り手に恐怖を与えるの十分だった。もはや部屋に踏み込もうとする者は誰もおらず、部屋の外から狂った様に叫ぶのが精一杯だった。盗賊灯もいつの間にか消えていた。明かりがあれば拳銃の的にされると思ったのだろう、部屋の中はほとんど真っ暗になっていた。

この隙にと、坂本氏は拳銃の弾込めを始めた様だった。しかし、暗がり故にか手間取っている様子である。私は坂本氏の隣で槍を構え、襲撃に備えていた。その内に、坂本氏が何やら投げ出した様子が窺えた。そして、私私の耳に、血で手が滑って弾込めが出来ない、拳銃は捨てたと囁いた。私はもはやこれまでと覚悟し、かくなる上は自分が敵に切り込むので、その隙に逃げるようにと坂本氏に言った。しかし、坂本氏は、今なら隠し階段から逃げられる、共に逃げて血路を開こうと言う。私たちはじりじりと後ずさりをし、階段の降り口に至った。幸い、捕り手たちは騒ぐのみで、明かりすら向けてこない。階下にも捕り手は居ない様子だった。私たちは、気付かれる事なく、階段を下りる事が出来た。

そのまま裏庭を突っ切り、裏の屋根に登った。そして、隣家の二階の窓を破り、一階に駆け下りてまた表戸を蹴破った。幸いな事に、路上には誰も居なかった。そこから二人で走ったが、すくに坂本氏の息が上がってしまった。坂本氏は風邪が治りきっておらず、その上に手に受けた傷からの出血が多いらしく、目眩がする様子だった。私は坂本氏を肩に担いで走り続けた。

やがて前方に寺が見えてきた。暫くここで隠れていようとしたのだが、既に探索の手が多数回っている様子だった。やむなく道を変え、堀端へと出た。水門があったのでそこを潜ると、材木小屋があるのを見つけた。二人でその中に入り込み、上の棚に上がった。

一息を付くと、急に寒さが身に堪えた。月明かりの中、坂本氏の様子を見ると、顔色は真っ青である。小刻みに震えているのは寒さのせいばかりではなく、よほどの出血をしているかららしい。周囲からは捕り手が吹く呼子の音がひっきりなしに響いている。あたかも、伏見の町に捕り手が充満しているかの様だった。

坂本氏をこれ以上動かすのは無理な様だった。私も不案内な伏見の町で、どこに逃げれば良いのか見当も付かなかった。捕り手はすぐ近くまで迫ってきている。切羽詰まった私は、坂本氏にここで腹を切りましょう、幕吏の手に掛かるよりは余程ましだと口走った。しかし、坂本氏は息も絶え絶えに、

「それが君たちの悪い癖だ、すぐに死ぬ死ぬと言う。しかし、生死は天が決める事、ともかくも薩摩藩邸まで駆けてみることだ。もし天が生かすと言うのなら君は薩摩藩邸にたどりつけるだろう。駄目だったら、私もここで腹を切るまでだ。」

と言う。坂本氏の言葉に、私もその気になった。薩摩藩邸はこの堀端沿いにあるはずだと言う。既に夜明けも近く、考えている猶予は無かった。私は坂本氏を棚の上に一人残し、階下に降りた。

ふと見ると、着物は返り血で汚れ、もの凄い格好になっている。足は裸足だ。私は堀端で着物をざぶざふと洗って血を流し、辺りを探して古草鞋を拾い、足に履いた。そして、旅人のふりをして、道を走り出した。二丁も走る内に、町では朝の支度が始まり、表戸を開き始めているのが判った。私はますます気が急いたが、足がもつれるばかりだった。目指す薩摩藩邸は、本当にこの先にあるのかは判らない。焦った私は、道を歩いていた商人風の男に、薩摩藩邸はどこかと聞いた。幸い、怪しまれる事なく、この道筋をあと三丁ばかり行ったところにあると教えて貰えた。私は息の続く限り走り続けた。

やがて堀端にある屋敷の門前に、薩摩藩の紋が入った提灯が掲げられているのが見えた。大戸は閉まっていたが、潜り戸が開いていたので、案内も請わずに中に飛び込んだ。すると男が一人そこに居た。彼は留守居役の大山彦八と名乗った。私は長府藩の三吉と名乗り、土佐の坂本氏が幕吏に襲われたと告げた。大山氏はその事を既に知っており、私が来るのを待っていたと言う。気が付くと、大山氏の背後にお龍さんが居た。寺田屋を抜け出したお龍さんは、一足先に薩摩藩邸に飛び込み、急を知らせていたのである。

私は堀端の材木小屋に坂本氏が隠れていると告げた。大山氏は承知し、すぐに配下に出立を命じた。大山氏に従うのは三名だった。大山氏は配下が豪川に浮かべた船に乗り込むと、自ら薩摩藩の旗を立てた。そして、配下が竿で操る船に乗って、流れを下っていった。

私はともかくも屋敷の中に入る様にと藩邸の用人に言われたが、とてもそんな気にはなれず、お龍さんと一緒に門内で待った。どれくらいの時間が経っただろう、気の遠くなるような時が過ぎたと思えた頃、門前に船が着く気配がした。やがて、4人に担がれる様にして、坂本氏が門内に入ってきた。私とお龍さんは、思わず坂本氏に駆け寄った。坂本氏はわずかに顔を上げ、やあ、二人とも無事だったかと答えた。その顔色は、紙の様に白かった。

慶応2年1月26日

この三日間、坂本氏は寝付いたままだった。京都から来た医者が傷を縫ったが、動脈が切れたらしく、ともかくも血が流れすぎていると言う。事によっては、命が危ないかも知れないとも言った。この間、お龍さんは甲斐甲斐しく看病をした。聞けば医者の娘だと言う。なるほど、何かと手慣れているのも頷ける。このお龍さんの看護の甲斐もあってか、坂本氏はどうにか命を取りとめる事が出来た。

大山氏から知らせを受けた京都の西郷氏は、直ちに一個小隊を送って来た。大山氏はこの小隊を指揮して、屋敷内を厳重に固めた。24日の夕刻、私と坂本氏がここに入った事を突き止めた幕吏が引き渡しを求めて来たが、大山氏は頑としてその様な者は居ないと言い切った。幕吏は密偵を放ち、しきりに邸内の様子を窺おうとしていたらしいが、藩兵が警戒に当たり、中を覗かせる様な事はさせなかった。

寺田屋の女将は厳しい尋問に晒されたらしい。また、幕吏が私たちの居た部屋を探索し、捨ててあった槍や拳銃を拾い、さらには坂本氏の残した書類を押収して行ったそうである。

慶応2年2月1日

京都の西郷氏から連絡があり、京都に移る事になった。伏見藩邸は手狭で、坂本氏の看病にも、また幕吏の手から守るのにも、何かと不便であったためである。京都からは吉井幸輔氏が一個小隊を率いて迎えに来た。私と坂本氏、それにお龍さんの3人は籠に乗り、小隊に守られながら京都藩邸に入った。

西郷氏は私たちを出迎え、諸事慰労してくれた。坂本氏は一室を与えられ、お龍さんがそのまま看護に付いた。薩摩藩では、小松帯刀氏、島津伊勢氏、桂右衛門氏の三名が家老で、西郷氏は中老格だった。藩邸では西郷氏のほか、大久保市蔵氏、岩下左次右衛門氏、伊地知正治氏、村田新八氏、中村半次郎氏、西郷新吾氏、大山弥助氏、内田忠之助氏、伊集院金次郎氏、中路権右衛門氏、野津七左衛門氏、鈴木武弥氏、児玉四郎吉氏、医師木原泰雲氏などが入れ替わり私の部屋を訪れ、薩長同盟後の諸情勢について語り合った。中でも始めて会った西郷氏の人柄は温かく、あたかも親子の情が通うかの様に感じた。

慶応2年2月29日

西郷氏は、幕府の長州攻めの動きに備えるため、小松氏らと共に鹿児島に帰る事になった。坂本氏とお龍さんも鹿児島に同道すると言う。私は馬関まで薩摩藩の船に便乗させてもらう事にした。夜になって、伏見に入った。およそひと月ぶりの伏見藩邸だが、襲撃を受けた夜の生々しい記憶が蘇る。

慶応2年3月1日

伏見を出て薩摩藩大坂蔵屋敷に入る。

慶応2年3月4日

朝、川船に乗って大川を下り、沖合に停泊している薩摩藩の蒸気船三邦丸に移乗した。

慶応2年3月5日

三邦丸出港。
船上では、坂本氏が西郷氏と談笑している。そして、お龍さんに拳銃を渡し、波間に浮かぶ板きれを撃ってみろと言う。お龍さんは、言われるままに拳銃を豪発した。すると意外にも弾は命中した。感嘆の声を上げる坂本氏と西郷氏。これから先はお龍さんも幕吏に狙われる身となるのだから、自分の身は自分で守らなくてはならないのだ。しかし、この腕と度胸があれば大丈夫かも知れない。


慶応2年3月7日

船は馬関に着いた。私は一度船を下りて、鶏や赤間関硯などを買い求め、西郷氏らへの惜別の品とした。坂本氏はまた馬関に来ると言う。私は坂本氏と再会を固く約し、船上で別れた。

慶応2年3月15日

先日本家の君主から刀を授かったのに続いて、今回の働きの恩賞として20石の加増に預かった。私は都合60石取りの身分となった。しかし、私はそれよりも、坂本氏という生涯の友を得た事が嬉しかった。次に坂本氏が馬関に来た時には、心逝くまで語り合いたいと願って止まない。

2012年3月17日 (土)

寺田屋事件 ~三吉真蔵日記より~(前編)

(「桂の木の下で」と「薩長同盟の夜」に続く創作の第3弾です。今回は2回に分けて掲載します。)


三吉慎蔵日記より

慶応2年1月19日

薩摩藩大坂藩邸で木場伝内氏から薩摩の船印を借りた我々は、八軒屋の船宿を訪れた。ここで船を仕立てて伏見に向かうのである。同道は坂本氏、新宮氏、池氏の三名。八軒屋では新選組が人別改めを行っていた。前日に大久保越中守に聞いたとおり、京都に向かう坂本氏を捕捉すべく警戒は厳重を極めている。しかし、薩摩藩の名は効き目が抜群で、特に怪しまれる事無く船に乗り込む事が出来た。

船は人足に曳かれて順調に淀川を遡る。途中八幡では淀藩が警戒に当たっていたが、ここでも薩摩藩の船印のおかげで怪しまれる事無く通過する事が出来た。伏見に着くと今度は水口藩が警戒していたが、やはり薩摩藩の名のおかげで咎められる事は無かった。こうして我々は無事に寺田屋に入る事が出来た。

慶応2年1月20日

この日、4人で京都に向かうはずだったが、薩摩藩の都合で3人にして欲しいと言う。やむを得ず、坂本氏、新宮氏、池氏の三名が京都に先行して現地の状況を探る事になった。私は遅れて京都で落ち合う事を約束し、寺田屋に潜伏して京都の情報を待つ事にした。

慶応2年1月21日

我々が伏見に入った事が幕府に知れたらしい。今日は朝から新選組が何度も人別改めにやって来た。その都度、二階の夜具入れや物置に隠れて凌いだが、警戒はとても厳しくなっている。

慶応2年1月22日

一橋公が伏見に来るというので、人別改めが厳重を極める。いよいよ進退窮まったかと思われたが、薩摩人という名目が効を奏し、怪しい者ではないと調べが付いたという知らせを受け、ほっとする。しかし、いよいよ用心しなければと思い、かねて用意してあった槍と拳銃を、寝るときも夜具の中で抱いて寝る。

慶応2年1月23日

坂本氏が京都から帰ってきた。過ぐる21日に桂小五郎と西郷吉之助が談判し、王政復古のための盟約を結んだ事を聞いた。そして、かねて打ち合わせのとおり明日京都まで同道する事とする。近来に無い快事であり、王道回復のために祝杯を挙げることにした。

祝宴は深夜まで続いた。八つ半頃に至り、そろそろ打ち上げと思った頃、不審な気配を感じた。外で六尺棒が鳴るような、からからという音が聞こえたのである。耳を澄ますと、階下でも忍び歩く気配がする。そうこうする内に、坂本氏の妾、お龍さんが部屋に飛び込んできた。素肌に袷一枚というあられもない姿である。お龍さんは、御用改めが来た、階下は捕り方で一杯だと言う。

私は手槍を構え、坂本氏には拳銃を手渡した。坂本氏は拳銃を手に、腰掛けに座る。坂本氏の袴は次の間に置いたままだ。

やがて一人の男が上がって来て、障子を薄く開けた。すかさず坂本氏が、

「何者か。」

と声を上げる。男は障子を開けて中に入って来る。しばし無言でにらみ合っていたが、男はそのまま部屋を出て行った。この隙に、坂本氏はお龍さんに唐紙を取り除けろと言う。お龍さんがそのとおりにすると、唐紙の向こうには手槍や六尺棒を持った捕り方がずらりと並んでいた。中には 盗賊灯を持った男も居る。

やがて先ほどの男がまた部屋に入ってきた。双方無言のまま、また暫くにらみ合った。やがて、坂本氏が声を出す。

「なにゆえ薩摩藩士に無礼をいたすか。」

「調べは付いている。嘘を言うな。」

これをきっかけに、捕り手たちは口々に、

「上意、上意。」

「御用、御用。」

と叫び始めた。彼らは槍や六尺棒を構え、盗賊灯を私たちに向ける。

「疑いがあるなら、薩摩藩屋敷に問い合わせていただこう。」

「何故にかように武器を所持しているか。不審がある。」

「武器を持つは武士の倣い。何の不審があろう。」

「話は奉行所にて聞く。尋常に同道されたい。」

このまま押し問答が続くかと思われたとき、突如坂本氏が拳銃を轟発した。天井へ向けての威嚇射撃だったが、捕り手たちの肝を潰すには十分だった。恐怖に駆られた彼らは、発狂した様に騒ぎ始めた。

「上意、上意。」

「神妙にしろ。」

口々に叫びながら、ある者は手元にあった火鉢を投げ込み、ある者は灰神楽の中を槍を構えて迫って来た。

(以下、後編に続きます。)

2012年3月10日 (土)

薩長同盟の夜

(「桂の木の下で」に続く創作です。前作はほとんど反響が無かったのでどうしようかと思ったのですが、せっかく第二作も書いたので掲載します。今回は龍馬をモチーフにしてみました。)

慶応2年1月20日夜、薩摩藩京都藩邸。底冷えのする一室で龍馬は眠れぬ夜を過ごしていた。

この日、龍馬は伏見の寺田屋を出て小松帯刀邸を訪ね、そしてその足でこの薩摩藩邸へとやって来た。

小松邸を訪れたのは、かねて中岡慎太郎と共に仲介して来た薩長同盟の進展を確かめるためだった。そこには下関から先行した桂小五郎(木戸寛治)が居て、薩摩藩の西郷隆盛と盟約について協議を進めているはずだった。ところが、話し合いは何も進んでいなかった。薩長両藩とも互いの主張を譲らず、全くの平行線を辿っていたのである。

桂に依れば、薩摩藩は、ともかくも幕府による第二次長州征伐を回避せよ、その為には幕府が求める謝罪に応じるべしと勧める。しかし、長州藩は既に謝罪は済ませており、二度に渡って謝る筋合いは無い。とてもではないがその方向で藩論をまとめる事は出来ず、幕府と決戦に及ぶより無いと考えている。薩摩藩には、そこまで踏み込む覚悟が無いのだと言う。

龍馬は、今から帰国すると言う桂をなだめ、直ちに二本松の薩摩藩邸に向かった。龍馬は西郷に向かって長州藩の窮状を訴えた。4カ国艦隊と戦い、蛤御門の変で破れ、そして幕府による征長によって痛めつけられた長州藩には、次の機会を待てるだけの余力は残っていなかったのである。龍馬は薩摩藩に再考を促した。しかし、西郷は直ちには返事を与えない。一晩時間が欲しいと言って龍馬を待たせたのである。

龍馬も悲痛であった。土佐を脱藩した後、拠って立つべき拠点と考えていた神戸海軍操練所は閉鎖され、やむなく薩摩藩を頼った。その薩摩藩の世話で亀山社中を起こしたが、小さな社中では出来る事は限られていた。その中で見つけた自らの活路が薩長同盟の斡旋であった。

一介の浪人に過ぎない龍馬にとって、財産と言えるのは志士としての人との繋がりであった。長州の桂、薩摩の西郷の二人に顔の利いた龍馬にすれば、その財産を生かす最善の策が薩長同盟だったのである。

偶然ながら、同郷の中岡も同じ事を考えていた。二人で協力して、一度は下関で挫折しかけた盟約をまとめ上げた。薩摩藩名義で長州藩の軍艦ユニオン号と小銃を購入し、薩摩藩への見返りには長州藩から兵糧米を贈る事にした。事実上、同盟を現実のものとし、後は薩長両藩の巨頭を引き合わせれば良いというところまでこぎ着けたはずだった。この日の朝、寺田屋を出る時までは、既に盟約はなったものと楽観すらしていた。ところが、京都に着いてみればこの有様だった。

この盟約に関わって以来、龍馬は要注意人物として幕府に知られる様になっていた。この日の前々日、大阪で旧知の大久保一翁を訪ねた時、龍馬が長州人と共に京都に向かっている事が幕府に漏れており、既に手配が回っていると警告された。危険を承知で上洛したのは、この盟約に全てを賭けていたからだった。自らの進退も、亀山社中の命運も、そして日本の将来も全てはこの盟約に懸かっていると信じていた。

その盟約が暗礁に乗り上げた。なるほど、龍馬は木戸をなだめ、西郷に再考を促す事で最善を尽くした。後は西郷の決断を待つだけだった。でも、もし、西郷が断ったとしたら?

藩邸の外には幕吏が満ちている。故郷の土佐藩では、勤王党への弾圧が進行していた。もし、西郷の回答が盟約の拒否であったならば、龍馬に引き返すべき場所は無かった。西郷がこの話を断るのなら西郷と刺し違えて死のう、龍馬はそこまで思い詰めていた。傍証がある。

この夜、龍馬は手紙を書いている。眠れぬ夜に思い出されるのは故郷の人たち、それも女性ばかりであった。この日行動を共にした池蔵太の家族に宛てた手紙には、蔵太の母と嫁、姉の乙女の事を思いつくままに認めている。

もう一人、姪の春猪にも手紙を書いている。

「春猪どの、春猪どの、春猪どのよ、春猪どのよ。」

という不思議な調子で始まるこの手紙は、この夜の龍馬の不安定な心の内を良く表していると言われる。

春猪は、あばたづらで決して美人ではなかった。その姪に向かって龍馬は、顔の凹凸を隠すべく白粉を分厚く塗り、もし転んだらでこぼこになって金平糖の鋳型の様になるのではないかと語りかけている。ひどい事を言う伯父もあったものだが、それほど春猪は隔意の無い、可愛い姪であったという事なのだろう。

続けて龍馬はもっと酷い事を書いている。春猪を見たら大抵の男は逃げ出してしまうので、何の気遣いも要らないと言う。何もここまでこき下ろす事もないと思うのだが、やはり親しい姪への愛情の表れなのであろう。

この手紙の本題はここから始まる。

龍馬は、春猪に向かって、これから先に起こる心配は、鎌でも鍬でも払う事が出来ないと言う。そして、だから精を出して長い歳月を送りなよと続けている。鎌でも鍬でも払う事が出来ない心配ごととは何を指しているのだろう。

龍馬の手紙はさらに続く。自分も死ななければ4、5年の内に帰るかも知れない、しかし、露の命ははかれないと言う。

切迫した夜にふさわしい、龍馬の心境がここに現れていると言えようか。この文言から、龍馬はもし盟約が成らなかった時には死ぬ覚悟であったという事が窺えるのだ。

その一方で、龍馬は盟約が成立するかも知れないとも思っている。それが「死ななければ」という言葉に表れている。この一節に、西郷の回答を測りかねて揺れる龍馬の心が見え隠れしている様な気がする。

龍馬の手紙は、「先々ご無事でお暮らしよ」という言葉で閉じられている。先に書いた「長い歳月を送りなよ」という言葉に重ねての言葉である。春猪に対する言い回しとしてはくどい程であり、この手紙が龍馬の遺言と呼ばれる理由がここにある。自らの破滅を予感し、せめて姪の無事を祈ったのであろうか。

長い夜が明けた朝、待っていたのは龍馬の提案を受け入れるという西郷の回答だった。この瞬間、志士としての龍馬の役割は成就し、その名は不滅のものとなった。龍馬の事績は数あるけれども、この盟約の斡旋が最大のものと言って良いであろう。

前夜、2通の手紙を書いていた龍馬は、歴史的時間の中に居た。その夜に語りかけた相手が春猪であり、乙女たちであった事は、龍馬という人物を知る上で、何らかの手がかりになるのではないだろうか。あるいはもっと普遍的に、人というもののあり方を物語っているかの様な気さえする。

龍馬はこの後、寺田屋で遭難する事になる。よくよくドラマチックに生まれついた男だが、それはまた稿を改めて書く事としたい。

2012年1月31日 (火)

桂の木の下で 2

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1からの続きです。予定より早く書き上がったので、土曜日ごとと言わず、続けてアップして行きます。)

一年が経ち、年長組になると小さな変化があった。

年長組になって最初の日も、相変わらず送迎バスは一番乗りだった。いつもの様に指定席に座ると、いつものようにバスは走り出す。大通りから左折して神社を南側に迂回すると、やがて大鳥居が見えてくる。先月までは右折して素通りするだけの場所だったのだが、この日は違っていた。道の角に見慣れない女の子と母親が立っていたのである。

「今日からやね。」

と先生が運転手さんに言うと運転手さんはうなずき、バスを女の子たちの前に止めた。先生と母親の間で、

「おはようございます。」

「よろしくお願いします。」

というあいさつが交わされた後、女の子がバスに乗ってきた。

「どこに座っても良いよ。」

と、私の時と同じように先生が言うと、彼女は私の前の席に座ろうとした。

「その席は、」

と先生が言いかけたのだが、

「今日からは満席になるから良いよ。」

と運転手さんが遮った。3月まではわずかに余裕のあった送迎バスも、この4月からは満席になったのである。そして、そのままバスは走り出した。

これまで遮るものが無かった私の視界の中に、彼女の後ろ姿が入ってきた。とても小柄な子ではあるが、たぶん同い年だろうと感じた。彼女の髪は、肩のあたりできれいに揃えられていた。とても細い髪で、きめ細やかに見えた。時にバスが東に向かうと、朝日が正面から差し込んでくる。その光が彼女の髪を透かせて黄金色に染めた。シルエットになった細いうなじと黄金色の髪と、私は何か不思議なものを見ている気がした。

幼稚園に着くと、うれしい驚きが待っていた。あの西山君が同じ組になっていたのである。これでもう休み時間に仲間を捜して歩かなくて済むと思うと、それだけで嬉しかった。

女の子では、吉田さんは隣の組となったが、大仏さんはまた同じ組だった。彼女は私を見ると近づいてきて、良かったねと言ってくれた。私もまた、からかい相手が居てくれる事は嬉しかった。

そして、もう一つの驚きがあった。今朝私の前に座った女の子が、同じクラスに居たのである。最初の時間に、先生が彼女を転入生として紹介した。私は彼女が鎌倉から引っ越してきたのだと知った。

鎌倉という町には、大仏があると聞いていた。また、東にあるという事もおぼろげながら知っていた。鎌倉についての知識はそれくらいでしかなかったのだが、彼女の言葉はとても新鮮に響いた。まったりした京言葉の中で育った私にとって、歯切れの良い彼女の関東弁は別の世界の言葉の様に感じられたのである。

彼女の名前は、正直言って覚えていない。それどころか、顔の記憶も無い。それはある時期、懸命に忘れようとしたからであるが、完全に記憶を消し去る事は出来なかった。そして、年とともによみがえり、今では彼女の言葉や声までも思い出す事が出来るのだが、どうしても顔と名前は出てこない。やむなく、ここでは亜紀ちゃんという名にしておく。

亜紀ちゃんは風変わりな女の子であった。それとなく様子を見ていたのだが、他の女の子たちと話をしようとせず、いつも一人で過ごしている様だった。その姿は寂しそうでもあり、平気な様にも見えた。暫くたった頃、私はお節介にも彼女に近づき話しかけてみた。

「ねえ、何で一人で居るん?遊ぼうと言ったら、みんな一緒に遊んでくれるよ。」

亜紀ちゃんの答えは、しかし、とても意外なものだった。

「放っておいてくれる?私はこの人たちとは遊びたくないの。」

思いのほか強い調子の彼女の言葉に私はたじろいだ。可憐な女の子に見えたのに、こんなに気の強い女の子だったのか。しかし、たじろぎながらも私は言葉を続けた。

「寂しくないん?」

「私は一人が良いの。」

ここまで強い拒絶に会ったのは初めてだった。どうしよう、もうこの子に話しかけるのはやめて離れようかと思っている私に意外な言葉が待っていた。

「それとも、あなたが私と遊んでくれる?でも、他の女の子と遊んじゃだめ。口も利いちゃだめ。その代わり、私もあなたとだけ遊ぶ。それでどう?」

思わぬ提案に、大仏さんや吉田さんの顔がよぎった。この子はいったい何を言い出すのだろう。他の女の子と口を利くなとはどういう事? 訳のわからぬ事を言うこの子と関わるのは止めた方が良い?様々な思いが忙しく私の頭の中を巡った。

しかし、亜紀ちゃんへの好奇心が捨てられないた私は、少しずるい考えを持った。いつも彼女が見張っている訳でもあるまいし、他の女の子とは彼女が居ないところで話しをすれば良いじゃないか。ここは彼女の言う事を聞くふりをしておけば仲良くなれるチャンスだ。

一瞬の間に考えをまとめた私は、

「ええよ。」

と亜紀ちゃんに答えた。そう言いながら、大仏さんたちに後ろめたい思いがよぎった。

「わかったわ。じゃあ、私の家に遊びに来て。でも遊ぶのは家でだけ。幼稚園では話しかけないで。」

何から何まで変わった提案に私はとまどうばかりであった。

「家って、どこにあるん?」

「私のバスの乗り場は知っているでしょう?鳥居の前から、下に数えて3軒目が私の家よ。」

「今日、行ってええの。」

「幼稚園から帰ったらすぐに来てちょうだい。もう私に話しかけちゃだめよ。」

そう言い終わると亜紀ちゃんは背を向けて向こうに行ってしまった。

家に帰ると、私は母に新しい友達の家に行って来ると告げた。母は珍しい事もあるもんだと言ったが、特に咎める事もせず、ただ行き先だけを聞いた。私が神社の向こうの家と答えると、そう遠くない場所と安心したのか、気をつけて行くんやでと送り出してくれた。私は幼稚園の制服のまま家を出た。

大鳥居に行くには神社を横切らなくてはならなかった。家から見える北の鳥居をくぐり、短い階段を下りるとすぐ左手に本殿が見える。その本殿の塀に沿って真っ直ぐ進むと、やがて階段の上に南の楼門が見えてくる。大鳥居はその楼門を潜った先にあった。

いつもバスで通る坂道を歩いて下る。坂の一番上は大きな料亭である。その長い壁がつきるところに、出格子の付いた二階屋があった。その隣は、白い塀で囲まれた料亭風の建物だった。その隣も同じような造りで、その家の玄関には暖簾が掛かっていた。暖簾の無い方が亜紀ちゃんの家だろうと見当を付けて、小さな階段を上がり格子戸を開けた。

格子戸の向こうにもまた階段があり、その先には庭が広がっていた。庭には植え込みがあり、灯籠があった。その庭を取り囲む様に洒落た建物がコの字型に建っていた。庭に面しては大きな窓になっていたが、どこも雨戸が閉まっていたのでどこか暗い印象がした。

一見して入り口が判らなかったが、左手に小さな格子戸があったので、そこを開けてみた。中は玄関になっていて、その奥がこぢんまりとした和室になっていた。そこには誰も居なかったが、右手に襖がありその奥から何人かの子供の声が聞こえてきた。気がつくと、足下の靴脱ぎに小さな靴がいくつも散らばっている。あれっ、と思いながら亜紀ちゃんの名を呼ぶと、少しの間を置いて、襖の向こうから彼女が現れた。

「いらっしゃい。こっちへ入って。」

亜紀ちゃんに招かれるままに玄関を上がり、襖の入り口を入った。すると、次の部屋で何人もの男の子が思い思いに遊んでいた。どの子も幼稚園で見た顔である。ただ、仲の良い子は一人も居なかった。彼女はそのまま部屋を横切り、向こうの襖を開けて

「こっちへ来て。」

と私を呼んだ。その部屋に入ったのは私一人だった。私は思わず亜紀ちゃんに言った。

「二人で遊ぼうという事やなかったん?何であんな子たちが居るん?」

それには答えず、

「ちょっと待って。」

と亜紀ちゃんは襖を閉めて、隣の部屋に戻って行った。そして、男の子たちに向かって、

「さあ、あの人が来たから帰って。」

と言って追い出しに掛かった。男の子たちはぐすぐすしている様子だったが、

「約束でしょう。早く帰って。」

と亜紀ちゃんが強い調子で言うと、仕方なしといった感じで帰っていった様だった。

「さあ、何して遊ぶ?」

部屋に戻ってきた亜紀ちゃんは、事も無げに言った。私はちょっとたじろぐ思いがした。亜紀ちゃんに興味を持った子は、私一人ではなかった様だ。その中から亜紀ちゃんは私を選んだらしい。それは意外でもありうれしくもあったが、あんな強い調子で物を言えるなんて信じられなかったのである。

「帰してしまって良いの?」

と私は亜紀ちゃんに聞いてみた。

「知らないわ。駄目と言っているのに、どうしても言うから来てもらっただけ。でも、あなたが来るまでよと言ってあったから大丈夫。」

まだ驚いている私の後ろに、亜紀ちゃんのお母さんが現れた。

「あなたが言っていたのはこの子?」

「そう。」

「判ったわ。でも、もうあんなに沢山呼んじゃ駄目よ。」

「判ってる。もう来ないように言っておいたから。」

「じゃあ、仲良くしてあげてね。」

お母さんは最後に私にそう言うと、また奥の部屋に戻って行った。

事情が良く飲み込めないまま、私たちは家の探検から始める事にした。家がコの字型になっているのは外から見たとおりである。後から考えれば、料亭用に造られた貸家だったのだろうけど、当時の私にはとにかく変わった家に思えた。

玄関にあった部屋は、部屋の準備が出来るまで待つための待合だったのだろうか。その隣に子供たちが遊んでいた部屋と私が通された部屋があり、さらに奥にお母さんの部屋があるらしかった。これが北側の棟の間取りである。

南側の棟は客室だったのだろう。長い廊下に面して畳の間が三部屋ばかりあり、廊下とは襖で仕切られていた。どの部屋もがらんとして中には何も置かれてはいなかった。そして、外から見たとおり、大きなガラス戸が庭に面して嵌められていたが、どこも雨戸が閉めてあるので中は薄暗かった。

どこにも明かりが無い中で、コの字の縦線にあたる部分に坪庭があり、唯一の明かり取りになっていた。このため、坪庭の周辺だけが薄明るく、その明かりが南の棟の中をわずかに照らしているのだった。

坪庭の横には階段があり、二階に上る事が出来た。二階も客室用の造りになっており、似たような部屋がいくつかあった。薄暗さは南の棟以上であり、その薄気味悪さが子供心にはおもしろく感じられた。

その後、何度かこの家に行ったが、その都度二階に上がりかけてはわざと怖がるという遊びをした。亜紀ちゃんも自分の家なのに、一緒になって怖がってくれた。

階段の下は物入れになっており、開けようとしたらお母さんに怒られると言って亜紀ちゃんに止められた。ここも秘密の部屋として、二人の遊び場となった。

亜紀ちゃんに父親は居なかったらしい。一度も父親の話は出たことが無く、家にも父親がいるらしい気配は無かった。はっきりと聞いた訳では無いけれども、たぶん母子家庭だったのだろうと思う。

お母さんは、いつも家に居たらしい。と言うのは、私が行ってもほとんど姿を見せなかったのだ。見かけたのは最初の日と最後の日、そしてあと一度は何時だったか、部屋に掃除機を掛けている姿だった。当時、掃除機はまだ珍しく、私の家にも無かった。これを見たとき、亜紀ちゃんの家はきっとお金持ちなんだなと思った記憶がある。ただ、姿は見えないけれども、いつも奥の部屋に居る気配は感じられた。

親がその場に居ないのを良いことに、良く磨かれた廊下をスケート場よろしく、靴下をはいて滑るという遊びも良くした。これをすると、足の裏が妙にくすぐったくて、気持ちが良かったのである。

今思えば、亜紀ちゃんは女の子らしい遊びをしようとは一度も誘わなかった。大抵は私が遊びを提案すると、すぐにそれに乗ってくれた。男勝りなところがあったのだろう、女の子ではなく、男の私を遊び相手に選んだ訳はここにもあったと思う。

以下3に続きます。

2011年3月11日 (金)

地震お見舞い申し上げます

突然襲った大地震。テレビの画面に映る大津波の威力を見て、ただ呆然とするのみです。

当ブログの読者にも東北、北海道の方が何人も居られ、無事だったのか気がかりです。

一刻も早く地震と津波が収束し、これ以上の被害が広がりません様に。

被害に遭われた地域の方々に、心よりお見舞い申し上げます。

ねこづらどき

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