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2012年8月

2012年8月31日 (金)

夏の旅2012 ~下関市巡り~

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長く続けた夏の旅のレポートですが、最後は源平と幕末以外の下関を巡って締め括る事とします。まずは火の山公園から始めましょうか。

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火の山は壇ノ浦の北側にある小高い山で、かつて狼煙台があった事からこの名が付いている様です。標高は268mあり、見晴らしはとても良いですね。頂上までドライブウェイが通じており、ロープウェイでも登る事が出来ます。ただし、ロープウェイの方は、運行期間が限定されている様ですから注意が必要です。

ここは以前は下関市民の憩いの場であり、休日には大変賑わったそうですね。ところが、最近では登る人が少なくなり、訪れるのは観光客ばかりになっているのだとか。タクシーの運転手さんは、レジャーの多様化が原因かなとおっしゃっていましたが、ちょっと勿体ない気もしますね。

その展望台の近くには、戦艦大和の砲弾が展示してありました。瀬戸内海から引き上げられたもので、鉄甲弾と書かれていましたから、この尖った先端で相手の船の装甲を打ち抜くのでしょうね。平和な公園には相応しくないけれど、これも歴史の一証人として貴重な存在かとも思えます。

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壇ノ浦にはちょっとした名所があって、それが関門トンネルの人道ですね。海の下を歩いて九州に渡れるという道です。

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長さは780mで、歩いて行ってもそう苦にはならない距離です。海の底を歩いて渡り、外に出れば九州と言うのですから面白いですよね。

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これが門司側から見た景色です。一緒に渡った息子達は、初の九州上陸だと言って喜んでいましたよ。

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赤間神宮の西隣には、春帆楼という老舗の料亭があります。日清戦争の時、講和条約が結ばれたのがこの場所でした。今は春帆楼は建て替えられていますが、講和記念館があってその中に交渉が行われた部屋が再現されています。当時の調度品まで再現してあって、歴史の一場面を見る様で興味深かったです。

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春帆楼には、ふくの碑というのもありました。下関では、河豚の事を「ふく」と濁らずに呼ぶのですね。この碑は次の様な話に基づいて建てられています。

明治の頃、ふくは毒魚として法令で食べる事を禁止されていました。明治21年、春帆楼に伊藤博文公が訪れたのですが、その時に海が荒れて出すべき魚がありませんでした。困った女将は、やっと手に入ったふくを料理しておそるおそる出したのだとか。伊藤公はこれを食べて、あまりの美味さにこれは何の魚かと尋ねます。女将が正直にふくですと白状すると、伊藤公は毒魚ではないかと戸惑います。そこで女将が、ちゃんと料理して食べれば大丈夫なのですと答えると、伊藤公はこんなに美味しい魚を食べないのは勿体ないと言いだし、時の山口県令と交渉し、禁令を解かせました。

こうして春帆楼はふく料理店の第一号となり、その百周年を記念して建てたのがこのふくの碑なのだそうです。下関ならではの、ちょっと面白い話ですよね。

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下関に縁のある人物として、乃木大将が居ます。日露戦争で戦った事で知られる乃木大将は長府藩士だったのですね。

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軍神と称えられた乃木大将は、そのまま神として神社に祀られています。境内には銅像のほか、復原した旧家、乃木記念館などがあります。

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この旧家は恐ろしく狭いですね。武士とは言っても、下の階級だとこんなものだったのかな。記念館では、日露戦争に関連した展示がありました。私としては、爾霊山という書が興味深かったですね。203高地を表したもので、やはり歴史の一証人として価値のあるものだと思いました。

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最後に立ち寄ったのが住吉神社です。新下関駅の近くにあり、長門国の一宮という由緒のある神社ですね。

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住吉神社は5柱の神を祀っており、そのため5つの社殿を有しているのですが、それを横に並べて連結した九間社流造という特異な形態をしています。こんな形の社殿は、ちょっと見た事が無いですね。室町時代の建築ですが、保存状態が良く、国宝に指定されています。

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境内には、武内宿禰が植えたという楠の木がありました。幹廻り60mという大木で、下関のパワースポットになっているそうですね。私も障らせて頂き、力を分けて貰いました。

さて、長々としたレポートにお付き合い頂き、ありがとうございました。二泊三日にしては、中身の濃い旅行だった事が判って頂けたかと思います。まあ、正直言って、詰め込み過ぎだったのですけどね。宮島、山口、萩、下関と、どこも興味深い場所ばかりでした。駆け足の旅行だったので、出来ればもう一度訪れて、理解を深めたいものだと思っています。あと、食べ物が美味しかった事が嬉しかったな。

お世話になった広島と山口の人に感謝しつつ、今年の旅のレポートを終わりたいと思います。

2012年8月30日 (木)

夏の旅2012 ~平家終焉の地 壇ノ浦~

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平家最後の戦いは、壇ノ浦の合戦として知られます。壇ノ浦は関門海峡の最も狭くなった部分の事を言い、今はその上を関門橋が通っていますね。

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その壇ノ浦を望む場所にみもすそ川公園があり、義経と知盛の銅像が建てられています。

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これは2005年の大河ドラマ「義経」の放映を記念して建てられたもので、現地には除幕式を行った主演の滝沢秀明さんや中越典子さんのサイン入り手形が設置されています。

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こちらは碇を担いだ知盛の像。平家物語では、碇を担いで飛び込むのは教盛と経盛なのですが、ここではドラマの演出に合わせて知盛にしている様ですね。

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壇ノ浦の戦いと言いますが、実際に戦が行われたのはもう少し東側でした。これは源氏の軍勢が集結したという満珠、干珠の島です。平家軍は壇ノ浦の対岸にある田浦に集結し、源氏に戦いを挑みました。

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この写真で言えば、右から左に掛けて平家軍が進み、左の奥で源氏軍が迎え撃ったという形になります。この時、潮流は西から東に流れており、平家方に有利だったと言われていますが、実際に潮の流れを見てみるとまさしく急流であり、この説も成る程と思えてきます。そして、午後遅くになると潮流が逆転し、源氏が有利になったと言いますが、実際には水夫を射るという、当時は禁忌とされた戦法を義経があえて採った事が決め手となりました。

この事も、下関の人達が義経を嫌う元となっている様ですね。なぜなら、撃たれた水夫は地元の漁師達であり、自分たちの先祖が無抵抗のまま殺されたとあっては、恨みが残るのも無理は無いでしょう。一般には判官贔屓として人気のある義経ですが、下関に限って言えば悪役になっている様です。

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壇ノ浦からは少し離れますが、下関には平家の落人が隠れ暮らしたという場所も残されています。それが平家塚ですね。

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火の山の東北、高畑という山手にあり、写真の様な五輪塔が残されています。これが落人の墓として伝えられているのですね。そして、この奥にはその霊を祀った霊神社があります。この近くには平家の末裔という人達が住んでいるとも聞き、今もなお下関では平家の伝説が生き続けているのです。

2012年8月29日 (水)

夏の旅2012 ~平家最後の根拠地 彦島~

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彦島、と言っても下関に行った事のない人にはピンと来ないでしょうね。かく言う私も名前を聞いた事があるだけで、実際にどんなところなのか全く知りませんでした。

彦島は下関市の西の端に浮かぶ島で、本州とは狭い瀬戸で隔てられています。でも、川の様な海ですから、予備知識が無ければ島に渡ったという実感は湧かないでしょうね。ほとんど、本州側の下関市内と一続きという印象でした。三井化学や三菱重工の大きな工場があり、2万8千人の人口が住むという、とても開けた場所です。

平安時代の末期、平知盛が、平家最後の拠点を置いたのがこの彦島でした。

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とは言っても、彦島には当時を偲ばせる場所はほとんど残っていません。わずかに平家との繋がりを窺わせるのがこの清盛塚ですね。彦島の中央部からやや東よりの山中にあり、知盛が清盛の遺骨を分骨して埋めたという塚が残されています。

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ただ、残念な事に道が草で覆われていた上に雨が降っていたので、現地に行くのは諦めました。ネットで調べたところ、こんな感じの様ですね。大河ドラマの舞台となるのだから、もう少し整備しておいて欲しいなというのが実感です。

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おそらくは清盛塚のところに砦があったのでしょうね。写真の右手、船が見えているところのやや奥になるのかな。関門海峡を望むには、丁度良い場所だったのかも知れません。

なお、手前にある小さな島が巌流島です。宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘した事で有名ですよね。また、龍馬とおりょうが花火を上げて楽しんだとも言われています。

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こちらは彦島の北部、小瀬戸を挟んで望んだところです。こうして見ると、やはり島だなあと判りますね。この本州側、伊崎町というところに、安徳天皇の遺体が上がったという場所があります。

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今はそこが赤間神宮の御旅所になっています。言い伝えに拠れば、地元の漁師が漁をしている時に、網に掛かったところを引き上げたとの事ですが、関門海峡に沈んだものが、この狭い瀬戸に流れ着くものなのかどうか疑問は湧きますね。潮の流れはどうなっているのでしょう。

安徳天皇の最期については様々な伝説があり、生存説も全国にある様です。でも、御旅所が作られるくらいだから、ここで亡くなったと信じても良いのかも知れません。

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この彦島側には、平家の女官が海に身投げをしたという岩場もあります。平家を滅ぼした義経軍は、そのまま暴徒と化し、彦島で略奪と狼藉の限りを尽くしたと言われます。女官達は前途を悲観して、海に飛び込んだのでしょうね。

そうした背景もあってか、下関の人達は平家贔屓の様です。京都でも、乱暴を働いた義仲は、今もって不人気ですからね。800年の時を経ても、彦島の人達を苦しめた義経は、恨みを買い続けている様です。


2012年8月28日 (火)

夏の旅2012 ~赤間神宮~

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平家は壇ノ浦で最後を迎えますが、その時に同行していた安徳天皇もまた、共に海に沈みました。その安徳天皇を祭神として祀るのが赤間神宮です。

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赤間神宮は、元は阿弥陀寺という寺でした。安徳天皇が亡くなった後、源氏はこの地にあった阿弥陀寺に陵を築き、御影堂を建てたと言われます。皇室では阿弥陀寺を勅願寺とし、大切に扱いました。

明治に至り、廃仏毀釈令によって阿弥陀寺は廃されて神社となり、初めは天皇社と呼ばれ、後に赤間宮と改称されています。この初代の宮司が、高杉晋作を援助し、奇兵隊の創設にも尽くした白石正一郎でした。さしもの豪商も、度重なる高杉たちへの援助で家産が傾き、維新後は破産状態にあったのですね。並の政商なら維新政府に取り入ろうとするところですが、恨み言の一つも言わずに一神主の座に甘んじたのが白石らしい潔さでした。

赤間宮はその後、昭和15年に官幣大社に列せられ、神宮号が与えられます。これ以後、赤間神宮となった訳ですね。しかし、第二次世界大戦で戦災に遭い、社殿は燃え落ちてしまいます。

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現在の社殿が復興されたのは昭和40年の事でした。楼門はそれに先立ち昭和33年に復興しているのですが、水天門と呼ばれ、竜宮城を模した造りとなっています。司馬遼太郎さんはこの門について「街道が行く」の中で次の様に推測されています。

まだ八歳だった安徳天皇が海に沈む時、二位の尼(時子)に「私をこれからどこに連れて行くのか」と問い掛けます。二位の尼は「海の中にも都はありまする」と言って、帝と共に海に飛び込みました。この事を受けて、楼門の設計者は少年帝を欺くまいと竜宮城の様にしたのではないだろうか。

私もこの門を見ていると、そんな気がして来ますね。

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神社の横には、安徳天皇陵があります。源氏が築いたという陵がこれなのでしょうか。門は閉じられていて中を見る事は出来ませんが、実は次に紹介する平家墓の前から覗き見する事が出来ます。八角形の陵墓である事が見て取れますよ。

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これが境内の一角にある平家墓ですね。本当の墓ではなく供養墓と考えられますが、これには次の様な伝説があります。

江戸時代の中頃のこと、関門海峡に嵐が続き、九州へ渡る船や漁船の遭難が続出しました。下関の人達は大変困っていたのですが、ある夜、荒れ狂う暗い海から泣き叫ぶ男女の声が聞こえてきました。そこで闇を透かしてみると、そこには成仏できずに海上を彷徨う平家の武者と官女たちの亡霊の姿がありました。 人々はこの嵐は平家の亡霊の祟りであろうと考え、それまで世話する人もなく放置されていた平家の墓を一カ所にまとめ、京都に向けて手厚く供養したところ、翌日から嵐は収まり、荒れる事はなくなりました。

この話の真偽はともかくとして、ここには霊気を感じたのは確かですね。

ここに祀られているのは平知盛ほか13人で、他に多数の五輪塔があります。 別に七盛塚とも呼ばれ、小泉八雲の小説、耳無し芳一の舞台ともなっています。

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耳無し芳一の物語は有名ですし、いまさら記す必要も無いと思いますが、もし忘れてしまったという方は赤間神宮のホームページをご覧になって下さい。そして、これが平家墓の側にある耳無し芳一の像ですね。物語にあるとおり、盲目で耳が無く、琵琶を抱えています。ただ、全身にお経は書かれてはいませんでした。既に平家の亡霊の供養は済み、もうお経の必要は無いという事なのかしらん。

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そしてこれは、墓の一角にある高浜虚子の句碑です。

「七盛の 墓包み降る 椎の露」

椎の木に覆われたこの墓の風情を詠ったものなのでしょうね。

赤間神宮は、その由来のとおり、平家の物語に包まれていました。史実と言うより、本当に物語の方が多いのですけどね、やはり平家を偲ぶ人は一度は訪れておきたい場所だと思います。


2012年8月27日 (月)

夏の旅2012 ~下関 龍馬の足跡~

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坂本龍馬は生涯の内に何度となく下関を訪れていますが、その晩年にはここを本拠地としていました。龍馬は伊藤助太夫邸の離れを借り、自然堂と名付けておりょうと共に住んでいたのです。

伊藤助太夫は下関を代表する豪商で、九州の諸大名が参勤交代の時に泊まる本陣の主でした。伊藤家は鎌倉時代から続くという名家であり、大年寄りとして下関の町政を司ってもいた様です。攘夷志士を援助した事で知られ、中でも龍馬とは深い繋がりがありました。いま残っている龍馬の手紙の中で、二番目に多いのが助太夫宛てなのだそうですね。自然堂を借りたのも、自然な成り行きだったという事でしょうか。

龍馬はほとんど外を飛び回っていたので、ここに住んでいたのはわずかな期間だけですが、それでもおりょうと仲睦まじく暮らす姿はあった様ですね。良く知られるエピソードとしては、稲荷町(下関にあった遊郭街)で遊び朝帰りした龍馬におりょうが噛みついたのですが、困った龍馬が三味線をつま弾きながら即興で俚謡を唄うと、おりょうも思わず吹き出して機嫌が直ったという話が伝わります。

今はその跡地には何もなく、春帆楼隣にある駐車場の入り口に、「本陣伊藤邸跡」と記した石碑が建つのみです。

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長府には、龍馬と親交のあった三吉慎蔵の生家跡があります。慎蔵は寺田屋事件の時に龍馬と共に戦った事で知られ、その後も龍馬が死ぬまで交流は続いていました。龍馬は自分が不慮の死を遂げる事を想定し、もしもの事があったらおりょうを頼むと慎蔵に言い残してもいたのですね。

不幸にもこの手紙は遺言となり、慎蔵はその言葉通りにおりょうを自宅に引き取って世話をしています。そして、おりょうを伴って京都の龍馬の墓に参り、最後は土佐の坂本家にまで送り届けました。本当に律儀な人だったのですね。

ここは生家跡ですが、もう一つ屋敷跡という史跡もあった様です。残念な事に今回は生家跡を見た事で満足し、屋敷跡がある事までは気が回りませんでした。龍馬が訪れ、おりょうが暮らしたのはそちらの方だった様ですね。ちょっと惜しい事をしたな。

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長府は城下町であり、こうした土塀があちこちに散在しています。なかなか風情のあるところですね。今は保存整備が進められているという事で、さらに良い雰囲気になるのかも知れません。ただ、破壊が進み過ぎており少し遅かったという見方もある様ですが、せっかくの資産なのだから大事にして欲しいですね。

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このほか、下関の龍馬関連の史跡には、龍馬が世話になった商人・白石正一郎宅跡、おりょうと一緒に花火を上げて遊んだという巌流島などがあります。これらの史跡には「龍馬と下関」という案内板が掲げられているのですが、大河ドラマ「龍馬伝」が放映された折、下関が俄に注目されたため、急遽整備されたものの様ですね。

高杉晋作の史跡と比べると寂しい感じもしますが、二人を合わせて維新史を巡る旅をするのも楽しいと思いますよ。

明日は平家に戻って、赤間神宮を紹介します。


2012年8月26日 (日)

平清盛 第33回 「清盛、五十の宴」

(院の御所。今様を歌い舞う後白河上皇。鼓を打ち、上皇の舞を見ているのは乙前。ここに来たのは清盛と関わりがあるのかと問う上皇。今は老い先短い白拍子と答える乙前。)

(清盛の館。朝義で音戸の瀬戸の開削が決められたと報告する重盛。すぐに人を集めろと清盛。反対する公卿は時忠が言いくるめたと宗盛。言いくるめたとは人聞きの悪いと時忠。朝廷を思い通りに動かすには一門の者を多く送り込む事だと清盛。)

(厳島に発つ清盛に、帰って来たら50の賀の宴をしたいと時子。誰が50なのだと問い返す清盛。殿がと答える盛国。あまりに目まぐるしくて気が付かなかったと清盛。)

(院の御所。舞を舞う滋子。見つめる客人達。降ってきた雨の中でも舞い続ける滋子。)

(雨の中で舞い続けた滋子を褒める西光、成親。そこに現れ、上皇に酌を求める滋子。はは、と応じる上皇。そこに訪れて来た以仁王。追い返せと上皇。八条院も一緒だと家人。)

(八条院の用件とは、以仁王への親王宣下でした。まあいずれと誤魔化す上皇。鳥羽院の覚え目出度かった八条院の養子である自分は、憲仁よりも帝となるに相応しいと言ってのける以仁王。よしなにと言って帰って行く八条院。)

(時忠を呼び出した滋子。平家の財を憲仁のために惜しみなく使ってくれと頼む滋子。平家の力で以仁王の親王宣下を阻んだ滋子。)

(厳島。景弘に厳島の社の修復を申し出る清盛。とまどう景弘に、音戸瀬戸の開削、大輪田泊の改修のために、厳島明神の力を借りたいのだと清盛。願ってもない事と景弘。)

(そこに子供を抱いた桃李を伴って現れ、小兎丸だと紹介する兔丸。子供を抱き、この子が大きくなる頃にはこの国も変わっていると清盛。うなずく兔丸。)

(内裏。廊下ですれ違った重盛たちを見送り、近頃の平家の振る舞いは目に余ると基房。武士風情に国造りなど出来るものではないと思い知らせてやりましょうと兼実。)

(五十の賀の宴当日、清盛の館。任地に赴く前に、清盛に挨拶に訪れた源頼政と仲綱の親子。かたじけない事と清盛。清盛の去った後、不服そうな息子になぜかと問う頼政。未だになぜ頼政が、平治の戦の折に平家方に付いたのか測りかねていると仲綱。それ以上は言うなと頼政。)

(五十の賀を述べる重盛。嬉しそうに今日は無礼講だと一門に勧める清盛。)

(賑やかな宴。重盛と宗盛に兄弟力を合わせて一門を盛り立てよと励ます清盛。)

(三人の子を清盛の前に座らせる経子。孫の可愛い口上に口元の綻ぶ清盛。そして、忠清に重太の乳父として武芸を仕込めと命じます。)

(別室。牛若を連れてきている常磐。驚く時子。牛若がどうしても清盛の宴に出たいと言って聞かないのだと常磐。今は一条成の妻となっている常磐ですが、牛若は五歳の時まで清盛の世話になっていたので、実の父は清盛だと思い込んでいるのでした。とまどいながらも、無礼講だからと牛若を清盛に会わせる時子。)

(上機嫌で牛若の相手をし、唐果物を手渡してやる清盛。そして知盛らに遊んでやれと声を掛けます。無邪気に遊びに出る牛若。義朝の子ゆえ、格別な思いがあるのだろうと時子。)

(そこに乱入してきた一人の男。色めき立つ郎党達。それは清盛の末の弟の忠度でした。しかし、誰も覚えていない清盛達。何と、と驚く家能。じっと忠度の顔を見ている内に、やっと思い出した清盛達。)

(上機嫌で忠度の賀を聞く清盛。頼盛はどこかと問う忠度。頼盛は太宰大弐となって現地に赴任しており、ここには居ないと清盛。兄として名乗りを上げる教盛、経盛、時忠たち。祝いに熊野の舞を披露すると忠度。)

(庭で剽軽な踊りを披露する忠度。笑い転げる一門達。そこに現れた基房と兼実。突然現れた摂政と右大臣に拝礼する一門。)

(平家一門の繁栄振りを褒めそやす兼実。しかし、厳島の社の修復について、それは王家や藤原摂関家など筋目正しき者の務めと横槍を入れます。花鳥風月など雅を解さない者には無理だと兼実。下らない話はそれくらいにと相手にならない清盛。色をなす基房。相手にせず、せっかくの宴、存分に楽しんで下さいと清盛。)

(豪華な膳を前に、祝いの印として舞を献上したいと言い出す基房。有り難き事と受ける清盛。)

(舞台で優美に舞う二人。見つめる一門。舞終わった二人に、さすがと褒める清盛。そして、重盛、宗盛、経盛に返礼をせよと命じます。)

(経盛の笛に合わせて、見事に待ってみせる重盛と宗盛。舞と糸竹の芸はどうにか仕込まれたと見えると嫌味を言う基房。次は和歌など如何と兼実。歌の上手は居ないのかと挑まれ、経盛を促す教盛。しかし、朝廷一の歌の上手と言われる兼実を相手に怯む経盛。その時、清盛が忠度に歌の相手をせよと命じます。ひげ面の男を見て、あざ笑う兼実たち。)

(題は恋と言って促す時子。)

(兼実の歌。)

(「帰りつる 名残りの空を ながむれば なぐさめがたき 有明の月」)

(さすがと感心する一門。)

(忠度の歌。)

(「たのめつつ 来ぬ夜つもりの うらみても まつより外の なぐさめぞなき」)

(兼実に劣らぬ出来に、ざわめく一門。)

(歌の応酬をする兼実と忠度。最後の忠度の歌を聞き、仏頂面で席に戻る兼実。)

(こんな事で自分たちをごまかせると思うな、所詮はまねごと、肩を並べたと思うなと負け惜しみを言う基房。そして、厳島の社の一件は断じて許さないと言い切ります。小さく微笑んで、仕方がないと言いながら、盛国にあれを持てと命ずる清盛。)

(盛国の持ってきた巻物を、基房達の前で広げてみせる清盛。それは厳島の社の意匠でした。海に浮かぶ社殿を見て、唖然とする基房。これは誰の思いつきだと兼実。私ですと清盛。これまでの社は上へ上へと目指してきた、それを横へ広げたいと思う、これが自分の国目指す国の姿だと清盛。絶句する基房たち。)

(夕方。基房たちが帰った後、溜飲を下げている一門。忠度の歌の上手さはどこからと経盛。父と母が好きだった故、手慰みに嗜んでいたまでの事と忠度。兄は知っていたのかと問う教盛。知らない、忠度に賭けてみたまでの事と清盛。笑いさざめく一門。賭けに勝つのは愉快だと清盛。飲み過ぎたと心配する皆を余所に、庭に出て舞い始める清盛。そして、こんな愉快な日は終わって欲しくないと言って扇で日を招きます。すると、不思議な事に暮れかけた日が再び輝きを増したのでした。瑞兆に驚く一門。面白やと舞い続ける清盛。)

(常磐と帰る牛若。母に向かって、父が扇で招くと日が再び昇ったと言い募る牛若。)

(院の御所。清盛が夕日を昇らせたという噂を上皇に伝える成親。大方、清盛を尊大に見せる為の作り話だと西光。微笑む乙前。)

(伊豆。時政に清盛の噂を伝える頼政。その清盛によって流された頼朝がどんな事になっているか知っているかと時政。)

(頼朝の館。呆然と柱にもたれている頼朝。頼朝の前に膳を置く藤九郎。うつろに籐九郎を見る頼朝。)

(庭先からその様子を見て、何とした事かと驚く頼政。清盛の仕業、京に居ながらにして、伊豆に住む者をこんな具合にしてしまう程の力を持っているのだと時政。惚けきった様子の頼朝。)

(清盛の館。厳島の社造営の為に旅立つ朝、倒れた清盛。)

今回は絶頂期に差し掛かろうとする平家一門の姿が描かれました。大半は創作でしたが、時忠が参議となり、頼盛が太宰大弐となった事などは史実を踏襲されています。また、挿話的に描かれた以仁王については、八条院が美福門院と鳥羽院の娘である事、近衛帝の死後に正統後継者として女帝の候補に挙がった事、その正統を守る為に以仁王を猶子とした事、憲仁のために親王宣下を滋子が阻んだ事などは史実のとおりですね。

厳島神社の造営については、少し年月を遡っており、実際に造営の願い出をしたのは太政大臣を辞任した翌年の事でした。表向きは景弘が願い出た事になっており、藤原摂関家が横槍を入れたという事実は無い様です。ここには先日訪れたばかりなので、見ていて感慨深いものがありましたね。あの海に浮かぶ壮麗な社殿には、当時の人もさぞかし驚かされた事だろうと思います。

義経については、2005年の大河ドラマ「義経」の設定を踏襲したものと思われます。史実としては、義経が清盛を父として慕っていたという記録はなく、作者が前回のドラマを生かそうと考えたと想像されますね。まあ、話の流れとしては、清盛が義朝を親友と捉えていたという設定からは、無理の無いストーリーと言えなくもないですか。

忠度については、歌人として優れていた事が知られており、熊野で育った事も含めて、今回の設定に生かされていました。ドラマで詠った歌は、実際に忠度が詠ったものですね。武芸にも優れていたとも言いますが、あんなひげ面だったかは定かではありません。だぶん、ドラマ上の設定なのでしょう。ちなみに、重盛よりも六歳の年下になりますが、そういう雰囲気でもなかったですね。

清盛が夕日を招き戻したという逸話は、清盛紀行にもあった様に音戸の瀬戸の開削工事の時として伝えられます。それを清盛絶頂の宴の時としたのは、これもドラマの演出上の事なのでしょう。もしかしたら、工事の場面までは描かないのかも知れませんね。

ドラマとしては、とにかく清盛の大人物らしさが強調されて描かれていました。そして、その大度が実像を離れて恐れられ、誤解を与えて行くという過程も丁寧に描写されていたと思います。巧みに伏線を張るこのドラマらしい描き方ですね。

次回は病に倒れた清盛とその波紋が描かれる様です。白河院も再登場する様ですね。もののけの血という主題が再び繰り返されるのかな。どんな描き方をされるのか、楽しみに待ちたいと思います。

2012年8月25日 (土)

夏の旅2012 ~下関 高杉晋作の足跡~

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下関を訪れて判ったのは、この町が晋作贔屓だという事でした。晋作の史跡が多く残り、町を歩くと晋作という名の店に出会ったりします。町を挙げて、晋作に惚れ込んでいる感じですね。

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晋作が下関に残した足跡で最も大きなものは、功山寺の挙兵でしょうか。この時期、長州藩は蛤御門の変で敗れ、四カ国艦隊の砲撃を受け、幕府の征長軍に四辺を包囲されているという最悪の状況にありました。長州藩では、幕府に恭順するという俗論党が主流をなし、晋作たち改革派は風前の灯火といった状態で逼塞していたのです。

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このままでは長州が滅びると憂慮した晋作は、逃亡先の九州から舞い戻ると、長府に集結していた諸隊に向かって決起を呼びかけます。しかし、どの隊長も晋作の挙兵を無謀と見なし、誰も応じようとはしませんでした。わずかに伊藤俊輔(博文)の率いる力士隊と、脱藩浪士の集まりである遊撃隊のみが賛同し、晋作は総計80余名での挙兵を決意します。

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挙兵にあたって晋作は、この時功山寺に居た五卿(禁門の変で都落ちした七卿のうちの五人。一人は亡くなり、もう一人は生野の変で挙兵し、その後潜伏していました。)にあいさつすべく立ち寄ります。晋作は挙兵の主旨を短く言い、出陣祝いの酒を所望し、やがて馬上の人となりました。この時、晋作が五卿に向かって言った台詞が有名ですね。

「今から長州男児の肝っ玉をお目に掛けます。」

冒頭の銅像は、その時の姿を現しているのでしょう。この日、境内には雪が積もっていたと言います。どこまでも劇的に出来ている男ですね。元治元年(1865年)12月15日の事でした。

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晋作は軍勢を率いて長府から下関に向かい、まず藩の出先である新地会所(厳島神社隣)を襲いました。ここにあるはずの兵糧と軍資金を得る事が目的でした。会所には抵抗出来る程の人数は居らず、占拠はあっさりと成功します。

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晋作が次に向かったのは、三田尻の海軍局でした。ここでも晋作は海軍局の占拠に成功し、三隻の軍艦を手に入れています。一説に依れば、海軍局では幕府軍の包囲を受けて謹慎しており、襲撃されても抵抗出来る状態には無かったと言い、各艦長たちも、幕府軍に船を奪われるくらいなら、いっそ晋作に協力しようと考えたと言われます。

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あっと言う間に下関を占拠し、軍艦を三隻手に入れた晋作を見て、諸隊は動揺します。そして、雪崩を打つ様に晋作の下に転じていったのでした。この頃、晋作が本部を置いていたのがこの了圓寺です。

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諸隊を率いて俗論党を一掃し、改革派の藩政府を打ち立てた晋作でしたが、今度は藩内の攘夷派に命を狙われるはめに陥ります。彼は藩政の改革のために、下関を支藩から取り上げて外国に開港しようとしたのですね。ところが、これが事前に漏れてしまい、支藩の藩士と攘夷派の怒りを買ったのでした。

写真はひょうたん井戸と言い、刺客団から命を狙われた晋作が、この中に1日隠れていたという伝説が残っています。この時、ずっと水に浸かっていたせいで晋作は体調を崩し、後に死に至る結核を患ったとも伝わっているようですね。

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晋作の最後の仕事は、第二次長州征伐のために来襲した幕府軍と戦う事でした。彼は海軍総督として参戦し、周防大島の奪還、小倉の攻略などに活躍し、長州藩を勝利に導きました。しかし、やがて持病の結核が悪化し、療養生活を余儀なくされてしまいます。

慶応3年(1867年)4月14日、晋作は波乱に満ちた短い生涯を閉じました。享年29歳。彼の劇的な生き様は多くの人を魅了し、今もなお慕う人は多いですね。その最後の地には、高杉東行終焉の地と記した石碑が建てられています。

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みもすそ川公園には、長州藩が外国艦への砲撃に使ったという長州砲が復原されています。立派な台車があり、砲身を上下させるハンドルも付いているという点では思っていた以上ですが、砲身は短く、大した威力は無かっただろうなと想像は付きます。よくこれで戦おうと考えたものだと思ってしまいますが、関門海峡の狭さを考えるとそれなりに効果はあったのかなとも思えますね。

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晋作は、この外国艦隊の砲撃には直接参加していませんが、二度大きく係わっています。一度目は外国艦隊の反撃に遭い、フランス軍によって砲台が占拠された時で、下関の防衛を任された晋作は奇兵隊を創設しています。これは上士からなる正規兵がまるで役に立たなかったためで、晋作は下士以外に百姓、町人から隊士を募集し、新たな戦力としたのでした。奇兵とは正規兵に対する反語ですね。この奇兵隊が端緒となり、様々な階層から集まった諸隊が結成されて行き(最大160以上とも)、やがて長州藩兵の主力となるに至ります。

もう一度は、四カ国艦隊が来襲した時で、脱藩の罪で自宅で監禁されていた晋作が呼び出され、外国との和議交渉を任されています。晋作は相手の要求を全て呑みつつも、賠償の請求は幕府に押しつけ、また彦島の租借の申し出は頑としてはね付けるなど、見事に役目を果たしたとされます。この時24歳だったと言いますから、大したものではありますね。

以上、下関にある晋作の足跡をざっと巡ってみましたが、思っていた以上に残っているものですね。それだけ晋作が下関の人達に愛されている証拠と言えるのかも知れません。なお、ここに紹介仕切れなかった史跡としては、桜山神社(晋作が創設した招魂社)、日和山公園(晋作没後90年を記念した陶製の像が建っている)などかあります。私としては、晋作の墓がある東行庵に行きたかったな。もう一度下関を訪れてみたいものです。

次は晋作の盟友、龍馬の足跡を巡ります。

2012年8月24日 (金)

夏の旅2012 ~萩 木戸孝允旧宅~

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木戸孝允は、天保4年6月26日に下呉服町の和田家の長男として生まれました。幼名は小五郎、生家は藩医の家柄でした。この旧宅は、その和田家の家なのですね。

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長男なのですからそのまま和田家を嗣ぎそうなものなのですが、生まれつき病弱であったため、和田家では姉に婿養子を娶って跡継ぎとしました。そして、小五郎は8歳の時に向かいの桂家に末期養子として出されます。ここで桂姓となり、桂小五郎と名乗る様になりました。

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しかし、桂家では養母までが亡くなったために、小五郎は和田家に引き取られ生母の下で過ごす事になります。ですので、この家が生家であると同時に育った家でもある訳ですね。

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和田家が藩医であったのに対し、桂家は150石の大組士という家柄でした。このため、小五郎は医者ではなく武士として身を立てていく事になります。そして、17歳の時に藩校の明倫館で山鹿流兵学教授であった吉田松陰に師事し、その門下生となりました。松陰は小五郎を見て、「事をなすの才あり」と高く評価したと言われます。そして、小五郎もまた、生涯を通して松陰に対する門人の礼を取り続けました。

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藩医の家から出た小五郎は、より武士らしくあらんとして剣術修行に打ち込み、やがて藩内で頭角を現します。そしてそれが認められ、20歳の時に剣術修行のために江戸に出ます。この時に家を出るまで、ここで過ごしたのですね。

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その後の小五郎の活躍は、改めて書くまでもないでしょう。勤王の志士として波瀾万丈の生涯を送り、やがて維新の三傑と称される程の人物となって行くのです。

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木戸姓になったのは34歳の時で、藩命によるとされています。孝允と名乗ったのは37歳の時で、45歳で亡くなるまで木戸孝允として過ごします。ですので、この家も木戸孝允旧宅と呼ばれているのですね。私的には桂小五郎の方が馴染みやすいのだけどな。

この旧宅の周囲は旧い町並みが保存されており、風情のある場所ですよ。近くには青木周弼旧宅、円政寺などがあり、じっくりと歩いて回る事をお薦めします。

夏の旅2012 ~萩 高杉晋作旧宅~

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高杉晋作の旧宅は、菊屋横丁と呼ばれる一角にあります。晋作は、天保10年(1839年)8月20日に、高杉小忠太の長男としてここで生まれました。高杉家は200石取りの上士の家柄で、代々毛利家に仕えてきた名門でした。世が世なら、晋作も上級藩士として穏やかな一生を送った事でしょうね。しかし、時代がそうはさせませんでした。

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晋作は8歳の時に寺子屋・吉松塾に入っているのですが、ここで久坂玄瑞と出会っています。この事が、後の晋作の生涯に大きな意味を持って来ます。14歳の時に藩校の明倫館に入学し、ここでは秀才として通っていました。そのまま行けば藩のエリートコースまっしぐらだったのでしょうけど、19歳の時に大きな出逢いが待っていました。松下村塾に入り、吉田松陰の門下生となったのです。この時、晋作を松下村塾に誘ったのが久坂だったのでした。

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松陰の影響を受けた晋作は、やがて尊皇攘夷運動に身を投じる事になります。彼の波乱に満ちた人生の始まりでした。そして、抜擢、脱藩、謹慎、入牢、逃走、帰藩を繰り返しながら、奇兵隊の創設、外国艦隊との交渉、長州藩を勤皇藩へと旋回させた功山寺の挙兵、幕府軍との戦いと勝利など、大きな足跡を残していきます。

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晋作は下関で、29歳の生涯を閉じています。「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し」と称えられた革命児である一方、父母には忠孝の道を貫いたと言われ、妻のまさとの間に一子を儲けて高杉家を存続させ、その恩に報いたとされます。現在を基準とすると、およそ捉えきれない生き方をした事は確かでしょうね。晋作については、下関でもう一度触れる事になります。

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高杉晋作旧宅の付近も、白い土塀が残る風情のある区域です。木戸旧宅と違って部屋の中には入れませんが、萩に行けば押さえておきたい場所の一つですね。

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萩には20数年前にも訪れているのですが、その間に大きく変わっていました。当時は江戸時代の地図があれば間に合うと言われ、信号も市内に一カ所しかないなどと喧伝されるほど旧体然としていたのですが、今は大きな道路が郊外を貫き、市内も随分と開発されています。主な観光名所は変わっていないのですが、時代の流れを感じさせられた旅でもありました。

やはり1日で山口と萩を見て回るというのは無理があり、省略した場所が沢山ありました。今度はじっくりと腰を落ち着けて、時間を掛けて回りたいですね。見逃した秋芳洞や秋吉台にも行きたいな。心残りではありましたが、次の目的地である下関へと向かいます。

2012年8月23日 (木)

夏の旅2012 ~萩 吉田松陰の足跡~

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萩では、まず吉田松陰の足跡から辿る事にしましょうか。松陰は、言うまでもなく数多くの志士たちを育てた事で知られる人物です。

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その教育の舞台となったのが松下村塾ですね。松下村塾自体は、松陰の叔父である玉木文之進が設立したのが始まりで、松陰もまたこの塾で学んでいます。松陰は三代目の塾長に当たり、当時はアメリカ密航を企てた罪で、実家の杉家に幽閉されている身でした。

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当初は家族相手に講義を行っていましたが、次第に近隣の子弟たちが集まる様になり、私塾へと発展して行きました。藩校としては明隣館がありましたが、そこには入れない様な身分の者たちが集い、さらには評判を聞きつけて高杉晋作の様な上士身分の者も通う様になります。塾の講義は風変わりなもので、松陰が教えるばかりではなく、塾生同士が議論をし合い、松陰もそれに加わるといった具合だった様です。また、学問以外にも水練なども行っていた様ですね。

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松陰がこの塾を主催したのはわずかに3年ばかりの事でしたが、その間に排出した人材は、その後の時代を動かすにに足る者たちばかりでした。主な名を上げれば、高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎などですね。なお、桂小五郎はこの塾には来ていませんが、明倫館時代の松陰に師事した事があり、松陰門下の一人として数えられます。

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塾の跡は松陰神社として整備されており、塾の建物と杉家の旧宅は当時のまま保存されています。この狭くて粗末な塾から、数多の人材が群がり出たという事からは、歴史の不思議さを感じずには居られませんね。なお、境内にある宝物殿「至誠館」では、松陰関係の資料を見る事が出来ます。

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松下村塾から山手に上がったところに、松陰の生家跡があります。東光寺のすぐ近くで、城下を見下ろす見晴らしの良い場所ですね。つまりは城下からは遠く離れた僻地であり、わずか二十六石とはいえ、武士の屋敷がなぜそんな所にあったのかと言えば、城下の火事で焼け出されてしまったからでした。家財が全て焼けてしまって城下での暮らしが立たなくなり、藩の許しを得て、百姓仕事を兼ねる為に田園地帯に出て来たのですね。松陰が生まれる14年前の事だったそうです。

敷地跡がブロックで区切られており、当時の間取りが判る様になっています。また、この生家跡から少し山を登った所に、冒頭に掲げた松陰の銅像が建てられています。下田でアメリカ艦隊に乗り込む時の姿で、弟子の金子重輔を従い、沖合の艦隊を眺めているところなのだとか。明治100年を記念して建てられたものなのだそうです。

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その生家跡から程近い場所に、松陰の墓がありました。松陰の百ヶ日忌に弟子達の手によって建てられたもので、遺髪が納められているとの事です。

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その同じ敷地内には、高杉晋作の墓もありました。彼の遺体は遺言によって下関市吉田に埋められたのですが、生まれ故郷の萩から遠く離れている為、ここに遺髪と臍の緒を埋めて招魂墓としたとの事です。

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そして、高杉と共に松陰門下の双璧と謳われた久坂玄瑞の墓もありました。彼は蛤御門の変で亡くなっていますが、師の側で眠らせてやりたいと遺族は考えたのでしょうね。

松陰縁の史跡としては、この他に野山獄舎跡や明倫館跡などがありますが、今回は時間が無くて回りきれませんでした。

松下村塾に関しては、松陰神社のホームページに詳しいですよ。

明日は木戸孝允旧宅と高杉晋作旧宅へと回ります。

2012年8月22日 (水)

夏の旅2012 ~瑠璃光寺~

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山口市の観光で、外せないものはやはり瑠璃光寺でしょう。この五重塔は大内文化を今に伝える唯一の遺構であり、気品に溢れた名塔です。

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瑠璃光寺の前身は香積寺と言い、大内義弘によって建てられました。義弘は6カ国の守護を兼ねた守護大名で、大内氏隆盛の基を築いた人物です。しかし、守護大名の勢力を削ろうとする3代将軍足利義満と対立し、応永6年(1399年)に堺で幕府軍と戦って戦って敗れ、戦死してしまいます。

後を継いだのが弟の盛見で、兄の菩提を弔うべく五重塔の建立に着手しました。盛見は没落しようとする大内氏を支え、防長二州の守護に返り咲くなど良く勢力を回復したのですが、永享3年(1431年)に九州で戦いに敗れて亡くなってしまいます。塔が完成したのは、その11年後の嘉吉2年(1442年)の事でした。義弘の死から数えると43年を経過しており、完成までにかなりの長期間を要した事が窺えます。

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香積寺は大内氏の滅亡後もこの地にあったのですが、慶長9年(1604年)に毛利輝元によって萩城の資材とするため(要するに金が無かったため)に破脚されてしまいます。しかし、五重塔だけは用材にならなかったのでしょうか、ただ一基のみこの地に残されました。その後、90年近く塔だけが放置されていたのですが、元禄3年(1690年)に至って別の地にあった瑠璃光寺がこの地に移され、以後は同寺の塔として管理される様になります。

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今は周囲一帯が香山公園として整備され、寺の境内というより緑地という雰囲気ですね。屋根に比べて塔身が細く、繊細かつ優美な姿をしています。二層目にだけ高欄があるというのも、面白い仕様ですね。何か意味があるのでしょうか。日本三名塔の一つに数えられ、国宝に指定されているのも成る程と頷ける美しさです。

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公園内には、義弘の父であり、大内氏の本拠を山口と定めた弘世の像が建てられています。京都の文化を山口に移し、大内文化の基を開いた人物として知られており、その縁で銅像が建てられているのでしょうね。馬の顔ははるか京都を望み、弘世は足下の山口を見ているという姿なのだそうですよ。

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この銅像のほか、幕末に薩長の志士が集ったという沈流亭や、手を叩くと鳴るという、うぐいす張りの石畳があります。上の写真がうぐいす張りの石畳で、本当にいい音が響きましたよ。ただ、狙って作ったものではなく、偶然音が反響する様になったものなのだとか。面白い現象ですね。

五重塔は夜間もライトアップされており、その姿を見る事が出来なかったのが心残りです。

明日は山口を出て萩へと向かいます。

2012年8月21日 (火)

夏の旅2012 ~山口市内 洞春寺など~

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今回の旅行はタクシーを利用したもので、山口市と萩市を一日で巡るという強行軍でした。このため、山口市内はざっと見て回る程度になってしまい、個々にじっくり拝観する時間が無かったのが残念です。

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ここは毛利元就公(洞春公)の菩提寺である洞春寺です。古くは大内氏の建てた国清寺があったのですが、毛利氏が防長を支配する様になってからは、同家の菩提寺となっています。

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冒頭の写真にある山門は国清寺創建(応永11年(1404年))当時のものと言われ、室町時代の禅宗様式を良く残すものとして重要文化財に指定されています。また、この観音堂は、元は上宇野令滝の観音寺(大通院)にあったのですが、大正4年に洞春寺に移築されました。二層に見えますが、下の屋根は飾りである裳階ですね。永享2年(1430年)の建立で、やはり室町時代の様式を良く止めているとして重要文化財に指定されています。

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山口市は今は県庁所在地ですが、長州藩時代には萩に藩庁がありました。関ヶ原の合戦に敗れた後、防長二州に押し込められた毛利家は山口に主城を築こうとしたのですが、その勢力の回復を恐れた江戸幕府が、地勢に優れた山口ではなく、交通の不便な萩を指定してそこに押し込めたと言われます。

幕末になると、長州藩では山口に政治堂を置き、事実上山口に首都を移し替えました。さすがに城を築く訳には行かず政庁だけだった様ですが、やはり防長二州においては、山口が中心となるに相応しい土地だったのですね。

その跡が県庁となっている訳ですが、幕末当時の面影を伝えるものとして、この門が残されています。いかにも武家の門らしい、いかめしい門構えですね。

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現在の県庁は鉄筋コンクリートの近代的な物となっていますが、旧い県庁も県政資料館として保存されています。京都にも数々の足跡を残している武田五一(他二名と合作)が設計したもので、重厚な洋式建築ですね。後期ルネッサンス様式と和風様式が融合した優れた建築物であるとして、重要文化財に指定されています。

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面白い場所があると言って、タクシーの運転手さんが連れて行ってくれたのが菜香亭です。山口市で有名だった料亭跡ですね。

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歴史は古く、明治10年頃に開業されました。命名したのは井上馨で、「香」の字は自らの薫の音から取って付けたとされます。

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井上が贔屓にした事によって、山口の著名人が利用する料亭となり、菜香亭は繁盛を続けます。その繁栄振りを示す物として、歴代総理大臣の扁額がずらりと飾られているのですね。山口県出身の総理は8人居るそうですが、そのうちの7人が筆を振るっており、残る一人の桂太郎は掛け軸を残しています。一番新しいのは安部元総理で、わざわざ東京から贈ってきたのだとか。

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ここは、戦後に佐藤派の根城となっていたそうです。佐藤元総理を中心に、田中角栄氏、竹下登氏らが宴会に興じる様子が写真として残されていましたよ。今は料亭を廃業し、建物は山口市に寄贈され、現在の地に移築、復原されました。戦前、戦後の政治史に興味のある方には、面白い場所でしょうね。

明日は瑠璃光寺を紹介します。

2012年8月20日 (月)

夏の旅2012 ~サビエル聖堂~

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山口市で、最初に訪れたのはサビエル聖堂です。小高い丘の上に立つ、カトリック教会の聖堂ですね。

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サビエル聖堂は、戦国時代に来日したフランシスコ・ザビエルが、大内義隆の許しを受けて山口で布教した事を記念して建てられたもので、現在の建物は2代目にあたり、平成10年に完成しています。このザビエル像が手を置いているのは井戸で、彼が人の集まる場所を選んで説教をしていた事を表しているのだとか。

なお、山口では「サビエル」と濁らないのが正式で、聖堂の名もそうなっています。

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サビエル聖堂を訪れるのは20数年ぶりの事で、前回は旧聖堂の頃でした。ザビエルの生まれたザビエル城を模したもので、今とはまるで違った風格のある建物でした。とは言っても昭和27年の建築でしたから、それほど古いという訳でも無かったのですけどね、荘厳な雰囲気に感激したのを覚えています。

残念な事に平成3年に火事で燃えてしまい、旧聖堂は失われました。現在の建物は全く違う姿となっており、わずかに2本の塔が名残を止めている程度かな。寂しい気はしますが、これはこれでセンスの良い、立派な聖堂ですね。

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この鐘は平和を祈念してローマ教皇から世界5大陸に贈られたという大聖年の鐘の一つで、日本では広島教区が選ばれたそうです。9時から17時の間は誰でも鳴らす事が出来ると言うので叩かせて貰ったのですが、わずかに触れた程度で大きな音が鳴ったのには驚かされました。良く出来た鐘は、響きも半端ではないという事ですね。とても澄んだ良い音でしたよ。

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内部は撮影禁止なので写真はありませんが、以前とは違って明るい雰囲気になっていました。地階にはザビエル関連の資料があって、興味深いものがありましたよ。でも、ここは観光名所というより祈りの場と言うべきなのかな。

カトリック教に興味のある人には、お薦めの場所でしょうね。

2012年8月19日 (日)

平清盛 第32回 「百日の太政大臣」

(永万元年(11565年)、内裏、清涼殿。武士として初めて大納言に昇った清盛。基実が抱く赤子の六条帝に向かって、忠節を誓っています。)

(朝議の場。大輪田泊の改修について提案する清盛ですが、基房はそれを無視して議事を進めてしまいます。それは清盛の出世に対する嫌がらせでした。)

(廊下でため息をつく清盛。その背後から現れ、いずれ大臣となれる様に計らうから、そう気落ちするなと声を掛ける基実。礼を言う清盛。時忠が赦免になったと基実。喜ぶ清盛。万事私にまかせられよと基実。よろしくお願いすると言って立ち去る清盛。)

(そこに現れた基房と兼実。清盛と仲の良い基実を皮肉る二人。)

(今様に興じる後白河院。院に清盛の近況を伝え、もう少し歩み寄ってはどうかと助言する成親。そんな事をしなくても、清盛はいずれひれ伏してくると院。)

(清盛の館。清盛の子息を相手に官職の講義をしている盛国。一番偉いのは太政大臣だと宗盛。それは少し違う、今は実務を伴わないお飾りの様なものなのだと盛国。一番偉いのは帝ではと徳子。清盛はその帝を支える大臣になろうとしているのだと盛国。そこに帰って来た清盛。父を誇らしげに囲む子供達。)

(院の御所。後白河院に貢ぎ物を持ってきた清盛。摂政には何かと協力して、院には貢ぎ物だけとはあからさまではないかと成親。それを無視して大儀であったと立ち去る院。)

(廊下で西光と出会った清盛。久闊を叙し、信西の目指した宋との交易を要とした国造りを進めていくつもりだと清盛。頼朝を死罪にしなかった事を咎め、清盛を信出来ないと西光。これは手厳しいと言って立ち去る清盛。)

(西光に上皇に仕えてくれないかと頼む朝子。自分は世を捨てた身だと西光。私の言葉は信西の言葉だと心得よと朝子。ひれ伏し、院に仕える事になった西光。)

(伊豆、蛭ケ小島。このところ八重姫の姿が見えない、様子を見てきてくれと籐九郎に頼む頼朝。)

(祐親の館。もう会えないと八重姫が言っていると籐九郎を追い返す家人。)

(夜、部屋で泣いている八重姫。そこに忍び込んできた籐九郎。)

(頼朝に、八重姫の母に関係を知られたのだと報告する籐九郎。二度と会ってはいけないと厳しく言いつけられたと八重姫。流人の分際を忘れた振る舞いだったと謝る頼朝。子供が出来たと泣き出す八重姫。母は別の男に嫁がせ、その男の子という事にしようとしていると八重姫。私が守るから、子供を産んでくれと八重姫を抱きしめる頼朝。)

(永万2年(1166年)7月。急死した基実。駆けつけた清盛。悲しみに暮れる盛子。心労が祟ったのだろうと兼実。武士になど肩入れするからこんな事になったのだと基房。摂政となった基房。)

(基房の台頭に、前後策を練る平家一門。父は偉い人だから大事ないと重衛。なんとかなるだろうと清盛。そこに訪れてきた邦綱。)

(基実の持っていた荘園を、盛子のものとしてはどうかと持ち掛ける邦綱。摂政と氏の長者は基房が嗣いだが、藤原摂関家の嫡流は基通であり、その義母が所領を納めるのは当然の事と邦綱。盛子はまだ11歳、それゆえ清盛がその代理として所領を預かるという大義名分が立つのだと邦綱。)

(捨てる神あれば拾う神もあると忠清。それだけの事をして来たからだ、だから助けて呉れる者も出て来る、自分に付いてくるが良いと清盛。)

(院の御所。清盛に憲仁の東宮大夫となってほしいと頼む滋子。大納言止まりでは発言権も無く、どこまで役に立てるか心許ないと清盛。微笑む滋子。)

(11月11日。内大臣に昇った清盛。ここから一気に右大臣にまで上り詰める、五節で舞姫の舞を奉納せよと重盛と宗盛に命ずる清盛。)

(内裏。警護する祐親に声を掛ける清盛。)

(伊豆。時政に八重姫との事を話す頼朝。とっくに生まれているはずなのに、何も言ってこないと籐九郎。自分は不幸だ、流人となる辱めを受けた上にここでまた罪を重ねていると頼朝。何を世迷い言をと籐九郎。きっと祐親も喜ぶはずと時政。)

(そこに赤子を抱いて現れた八重姫。子供は男の子でした。赤子を抱いて、もう身内など得られないものたと思っていたと涙ぐむ頼朝。微笑む八重姫。)

(内裏。五節の宴。重盛の用意した一の舞姫を追い出す兼実の家人たち。事情を知らずに宴に興じている清盛。一の舞姫が居なくなった事で狼狽えている重盛達。)

(清盛の背後に現れ、内大臣の座の座り心地はどうだと問う後白河院。身に余る誉れと清盛。邦綱に知恵を付けたのは自分だ、全ては憲仁のためと院。しかし、次は右大臣、左大臣だと、と笑う院。ここは自分の世だ、朝廷を清盛の勝手にはさせない、次に昇るのは太政大臣、名はあるが力は無いと言って賽を投げ、これで上がりだと院。上皇の掌の上で踊らされていたのかと清盛。武士はどこまで昇っても番犬のまま死んで行くのだと院。)

(その時、今様を歌い出した舞姫。その姿を見て、祇園女御様と驚く清盛。乙前と院。遊びをせんとやと、優雅に歌い舞う乙前。呆然と見入る清盛。)

(治天の君の掌の座り心地を知っているのは自分だけ、存分に味わい尽くすと院を振り返る清盛。笑みを浮かべる院。)

(清盛の館。今は青墓で暮らし、乙前と名乗っていると女御。あの平太がと思っているのでしょうと言いながら、双六の盤を置く清盛。双六に興じながら、この世の頂きに上り詰めてみせると清盛。)

(仁安2年(1167年)2月11日、太政大臣に昇った清盛。大納言となった重盛。その100日後、太政大臣を辞任した清盛。しかし、その間に一門の者の地位を上げられるだけ上げて、朝廷における平家の地位を盤石なものとしていました。)

(伊豆。八重子と共に千鶴丸をあやす頼朝。そこに現れた祐親。祐親に手を付いて謝り、断じて伊東一族には迷惑を掛けない、出家しても良いので母子と共に暮らしていきたいと頼朝。祐親に、孫ですよと言って千鶴丸を抱かせる八重姫。黙って子を抱き、そのまま出て行く祐親。後を追う八重姫。家人に止められる頼朝。)

(泣き叫ぶ千鶴丸。祐親が刀を抜く音。何をなさいますと叫ぶ八重姫。泣きやんだ千鶴丸。いやー、と叫ぶ八重姫。駈け寄ろうとする頼朝を押さえる籐九郎。頼朝の子だと、そんな事が清盛に知れたら伊東一族などひとたまりもないと叫ぶ祐親。子の名を呼び続ける八重姫。崩れ落ちる頼朝。自分の子を殺したのは清盛だと思う頼朝。)

今回は清盛の太政大臣就任と辞任、それに頼朝の悲劇が描かれました。史実としては清盛の方が大事ですが、ドラマ敵には頼朝の方がより劇的だったかな。

清盛の太政大臣就任については様々な見方があり、ドラマの様に朝廷が彼を形式的な地位に祭り上げて実権を奪おうとしたとする説もその一つです。ただ、これを唱えたのは元木泰雄氏ですが、実は御本人自らこの説を否定されています。なぜなら、清盛は太政大臣の辞任後も重要な政務に携わっていたからで、実権を取り上げられたという事実は無いからですね。

清盛の大臣就任は極めて異例なもので、その理由については皇胤説、内大臣から実権を伴わない太政大臣へと進む事があらかじめ決められていたからとする説などがあります。実際にどうだったのかは判りませんが、清盛としては太政大臣まで勤めた事で権威を上げ、官位から引く事でより自由な立場で政治に関わろうとしたのではないかという見方では一致していますね。

そして、自分が引いた後に重盛を据え、より平家の地位を盤石なものとしようとしたのも確かでしょう。なお、東宮大夫の地位もまた、重盛に譲られていますので付記しておきます。

少し前後しましたが、基実が亡くなった事で清盛が慌てた事も事実です。六条帝を支える後ろ盾が居なくなった訳で、不本意ながら後白河上皇に院政を開かせる以外に道は無くなったのでした。ドラマではそのあたりの説明が無かったのですが、清盛が後白河院の事を治天の君と呼び、院がこの世は自分のものだと言っていたのはその事を指していると思われます。

基実の所領を盛子が引き継ぎ、それを献策したのが邦綱だったというのも史実にあるとおりですね。これにより、平家は大きな利益を得ると共に、摂関家はさらなる後退を余儀なくされたのでした。

ドラマに戻って、祇園女御がここで出て来たのは、あまりにも不自然でしたね。いったい幾つという設定なのでしょうか。元々年齢不詳の人物ではありますが、この時清盛は49歳でから、少なくとも70歳を越えていたはずで、下手をすれば80歳近いんじゃないかしらん。無理が有りすぎる設定というものです。視聴率回復に焦っているのかな。なお、五節の宴に、重盛と宗盛が舞姫を献上したというのは史実にあるとおりです。

頼朝と八重姫の子の悲劇については、良く知られるところです。ドラマでは祐親が斬ったかの様に演出されていましたが、伝えられる話では川に沈められたと言われています。どちらにしても、平家を憚った祐親が、頼朝の子を殺したのは確かですね。ただ、これも伝説の域を出ないらしく、史実かとうかは判らない様です。

千鶴丸は可哀想ではあったけれど、八重姫の嘆き方が少し弱いと感じたのは私だけなのでしょうか。もっと必死になるものなんじゃないかしらん。

次回は清盛五十の宴として、風雅を愛する平家が描かれる様です。そして、清盛が病に倒れる様ですね。どんな展開を見せてくれるのか、楽しみに待ちたいと思います。

2012年8月18日 (土)

夏の旅2012 ~湯田温泉~

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初日の宿泊先は、湯田温泉を選びました。山口市の郊外にある温泉地ですね。ここは狐によって見つけられたという伝説を持つ事から、駅前では巨大な白狐が出迎えてくれます。

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温泉街には、流行の足湯が6カ所設けられています。これはその一つですが、旅の疲れをちょっと癒すには良いでしょうね。

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ここでも狐が入浴客を出迎えてくれます。ただ、可愛げの無い、少し怖い狐ですね。

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かと思うと、こんなユーモラスな狐も置かれています。またゆう太くんとゆう子ちゃんというゆるキャラも居る様です。

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この日の宿は松田屋ホテルでした。創業300年以上という老舗で、湯田温泉では最も格式の高いホテルの一つです。維新の志士たちにも利用され、宿に拠れば坂本龍馬も来た事があるのだとか。旅館にはそうした資料も展示されていますよ。

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司馬遼太郎さんの街道を行くにも出て来る宿で、調和の取れた落ち着いた旅館として紹介されています。実際そのとおりで、心配りの効いた気持ちの良い宿でした。

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そして何より、食事が美味しかったのが嬉しかったですね。洗練された料理の数々は、さすが老舗旅館だけの事はありました。

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これは椀物の甘鯛の潮仕立て。この後には鱧のフライと松茸のフライが出て来ました。この時期外れの松茸は、街道が行くの中でも出て来るので聞いてみたのですが、地元産では無かった様ですね。ただ、今でも早松茸は採れる事は採れるとの事で、わずかばかりながら手に入る事もあるそうです。

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そして、山口ならではの蕎麦が瓦蕎麦です。蕎麦を油で炒めてつゆで食べるというもので、少し変わった風味でした。余所では食べた事がない、独得の味わいですね。

湯田温泉は、泉質の柔らかい、良いお湯でした。掛け流しというのも贅沢で、気持ちの良いものですね。足の疲れもすっと取れましたよ。

明日はここから山口市内の観光へと出掛けます(20日にアップします)。

2012年8月17日 (金)

大文字送り火2012 ~左大文字~

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大文字の送り火、今年は左大文字に行って来ました。遠くからは何度も見ているのですが、近くに行くのは初めてです。

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左大文字は衣笠街道町にある法音寺という寺が世話をしています。ここだけの特徴として、松明の行列が行われると聞いていたので、点火前に訪れてみました。

松明行列の起源は昭和37年と意外と新しく、当時の町内会長の発案だったそうです。送り火を灯す裏方にも晴れの舞台を提供したいという理由だったそうで、今ではそれがすっかり定着しているのですね。

法音寺に着いたのは午後6時45分頃、もう遅いかなと思っていたのですが、まだ門前に人が集まりだした程度でした。でも、時間と共に人が増えて行き、7時頃には街道沿いにびっしりと人波で埋まるという感じになっていましたね。どうやら団体ツアーが何組か来ている様子でしたから、あっと言う間に増えたのかもしれません。

松明が動き始めたのは午後7時10分頃で、まず街道沿いの門火に点火するための火が出ていきます。本格的に松明が動き始めたのは7時20分頃でした。山門から次々に松明を持った保存会の方が現れ、山へと向かわれます。そして中程で大松明が出て来るのですが、その様子は動画に撮ってきたのでご覧下さい。

結構大きなものでしょう。これを山の上まで担いで上がるのですから、相当に大変なんだろうなと思います。

松明の行列は街道を北上し、西大路通を横断して金閣寺の方向へと進んで行きました。それ以上は付いていかなかったのですが、後ろから見ていても沢山の松明が動いていく様子は、なかなか綺麗でしたよ。

その後は衣笠カトリック教会の前まで移動し、点火を待つ事にしました。暫くすると、松明の行列が山に登って行くのが望見されました。火の列が段々と山に登って行く様子は、幻想的に感じましたね。その様子も動画に撮ってきたのでご覧下さい。

少しピントが合っていないのですが、雰囲気は判ってもらえたでしょうか。この火はやがて一カ所に集まり、一つの炎として燃えていました。おそらくは、松明の火は一旦消されたのでしょうね。

左大文字の点火は8時15分なのですが、山上の松明が動き出したのは8時10分頃でした。松明を持った人が、それぞれの持ち場に動き出したのですね。その様子は、まるで大の字を炎で書いていくかの様に見えます。この様子も動画でご覧下さい。

この動きは筆順どおりと聞いていましたが、そうでもないようですね。まあ、中心から動いていくのだから、当然なのかな。そんな感じに見えるというのが正解なのでしょう。

各自が持ち場に着き、8時15分になると、一斉に薪に点火されます。その以前に、暗いながらも大の字が浮かんでいるのが、左大文字の特徴でしょうね。見ていると、暗い大の字が俄に明るくなるといった印象でした。

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衣笠カトリック教会の前に着いたのは7時30分頃でしたが、その頃にはまだほどんど人は来ていませんでした。ここもやはり時間と共に人が増え始め、点火前には歩道上は身動きが出来ない程人で埋まり、車道沿いにも人垣が出来る程になっていました。点火近くになると急に人が増えるのは、どこのポイントでも共通していますね。場所としては左大文字にごく近く、障害物も少なくてなかなか良いロケーションでしたよ。

左大文字をじっくり見たのは初めてでしたが、松明の行列に始まる独自の点火方法が面白かったですね。先祖の霊を送るという宗教行事であると共に、京都の夏を飾る風物詩でもある送り火を、十分に堪能させて頂きました。


2012年8月16日 (木)

夏の旅 2012 ~厳島神社~

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厳島神社は、1400年以上の歴史を持つとされる古社です。宗像三女神を祭神とし、海上の守り神として知られています。

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海に向かってせり出すという特異な社殿を建造したのは平清盛で、自身の栄達に対する御礼と一門の更なる発展を祈願してのものでした。仁安3年(1168年)の事で、平家が絶頂期を迎えようとしている頃でした。

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訪れた時は干潮でしたが、満潮になると社殿の廻りは潮で満たされ、まさしく海に浮かんだ姿となります。清盛の発想の奇抜さには、驚かされるばかりですね。

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その象徴とも言える大鳥居は、地面に埋められているのではなく、自重で建っているですね。地盤は松材の杭と葺石で固められ、鳥居はその上に置かれているのですが、一番上の横木の中は空洞になっており、その中にお経を入れた小石が沢山入れられているのだそうです。その重さが7トンもあり、少々の波ではびくともしない仕掛けとなっているのですね。

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清盛は、地方の一神社に過ぎなかった厳島神社を、都周辺にある古社と同列の地位にまで引き上げようとした様です。この壮麗な社殿も、そのための下準備だったのでしょうね。そして、後白河法皇や高倉天皇の行幸まで実現させたのですが、この事が当時の宗教界の反発を招き、平家の立場を悪くする一因ともなりました。

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平家が滅亡した後も、厳島神社は源氏を初めとする時の権力者たちから尊崇を集め、繁栄を続けた様です。やはり海の守り神として、粗末に扱う事は憚かれたのでしょうね。しかし、戦国時代に入ると、次第に社運も衰えが見え始めました。

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これを救ったのが毛利元就でした。彼は厳島の戦いで陶晴賢を破ると厳島をその支配下に置き、神社を保護したのだそうですね。豊臣秀吉もまた、九州征伐の折に立ち寄って、御堂を寄贈したと言われます。

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こうして有力な保護者を得て発展を続けてきた厳島神社でしたが、江戸時代になると厳島詣が庶民の間に広まり、参拝者で賑わう様になります。しゃもじが土産物として考案されたのもこの頃の事ですね。

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厳島神社は、その華麗な歴史を反映して国宝・重要文化財の宝庫で、20基の建造物、261点を数える美術工芸品が指定されています。そして、今は世界遺産にも登録されていますね。一社でこれほどの存在は、他に例を見ないのではないでしょうか。

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一点異様に感じるのが、神社でありながら五重塔を有している事で、かなりの違和感があります。これは神仏混交の名残で、今は中の仏像は別の寺に保管されており、仏塔としての意味は持っていない様ですね。破壊をまぬがれたのはなぜだったのでしょう。もっとも、明治以前にはこんな景色が普通だったはずで、廃仏毀釈令の影響の大きさを改めて感じます。

予定ではこの後平和記念公園に行くつもりだったのですが、思っていた以上に厳島参拝に時間が掛かっため、広島市に寄る事は諦めて、宿に向かう事にしました。次は湯田温泉の記事をアップします。

2012年8月15日 (水)

夏の旅2012 ~厳島神社参道~

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今年の夏の旅、最初に訪れたのは厳島神社でした。「平清盛」のレビューを書いている以上、どうしてもここを外す訳には行かなかったのですよね。

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宮島には、JR「宮島口」からフェリーで渡る事になります。このフェリーには2系統あり、どちらも所要時間と料金、それに着く場所も変わらないらしく、乗り場では客を奪いあって激しい呼び込み合戦をしていました。我が家では大鳥居に近付くというJRの方に乗ったのですが、実際にはそれほど近くを通るという訳でもなく、どちらに乗ってもさほどの違いは無い様ですね。

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フェリーを降りた後は、神社まで1km弱の距離を歩く事になります。このルートにも海沿いを行く道など数通りがありますが、やはり商店街を行くのがメインストリートになるのでしょうね。ちなみに、この商店街の名は宮島表参道商店街と言うのですが、通り名は「清盛通り」となっていました。

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宮島と言えば、名物はしゃもじですよね。パンフレット等に拠れば、江戸時代の中頃に、、宮島の修行僧・誓真という人が、産業と言える程のものが無かった島民を救済する為に、厳島神社の参拝客のお土産用として、夢に現れた弁才天が手にされた琵琶の形を基に、しゃもじを試作して島民に教えたのが始まりなのだとか。

これが日本全国に知られる様になったのは日清戦争の時で、兵士達が広島の宇品港から出征する際に安全を祈願して厳島神社にしゃもじを奉納し、無事に戦場から帰った後は故郷に土産として持ち帰った事がきっかけになったのだそうです。意外と歴史は新しいものなのですね。

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商店街の中程には、世界最大というしゃもじが展示されていました。長さ7.7m、重さ2.5トンという巨大さで、2年10月を掛けて制作されたそうです。見入っている子供と比べると、その大きさが判って貰えるでしょうか。

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宮島に着いた頃に昼時となったのですが、何を食べようかと思っていたら、そこら中にあなご飯という看板が目に付きました。これが広島の郷土料理の一つなのですね。どこに入ろうかと迷った末に、厳匠という店を選択したのですが、これが正解でした。他の店より安いのに、とても美味しかったのですよ。この旅もなかなか幸先が良いなと思ったものでした。

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美味しいと言えば、おやつに食べたもみじアイス最中も、なかなかの美味でした。アイスクリームの中に餡が入っているのですが、程よい甘さで、すっきりとした味わいでしたよ。

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宮島には野生の鹿が生息しています。神の使いとして大事にされて来たそうで、鹿も人を全く怖がらないですね。普通に観光客の中に混じって歩いているのですから、奈良公園の鹿以上に人慣れしているかも知れません。ただ、数が増えすぎて問題にもなっている様で、餌やり禁止の看板をあちこちで見かけました。野生動物と人との共生は、なかなか難しいものがあるのかも知れません。

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ドラマの視聴率は低空飛行が続いていますが、宮島では清盛キャンペーンが盛んに行われています。その一つが平清盛館で、宮島歴史民俗資料館の企画展示として実施されています。内容はまさしくドラマの再現で、撮影に使われた衣装や小道具などが展示されています。歴史的な資料の展示は無いのですけどね、ドラマのファンとしては見応えがあるものでした。テーマ音楽がずっと流れているのも、雰囲気があって良かったですよ。

明日は厳島神社に参拝します。

2012年8月14日 (火)

夏の旅2012

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海に浮かぶ大鳥居。

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樹間に佇む古塔。

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数多の維新の志士たちを産んだ町。

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平家の人々の霊が眠る町。

今年の夏の旅は、平家と維新の志士たちの足跡を追って、広島と山口を巡ってきました。二つのテーマを追うという欲張った旅でしたが、それだけに収穫も多かったですよ。

まずはイントロダクションまで。明日から順次旅行記をアップして行きますね。

2012年8月11日 (土)

残暑お見舞い申し上げます

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何時の間にやら立秋も過ぎて、暦の上では秋となりました。季節が巡るのは早いと感じますが、まだまだ夏真っ盛りの今日この頃ではあります。皆様方におかれましては、残暑に負けぬ様、ご自愛されます様に。

さて、都合により当ブログの更新を明日、明後日と停止させて頂きます。再開は14日からの予定で、コメントバック等についても14日以降となりますので、よろしくお願いします。

2012年8月10日 (金)

京都・洛北 京の夏の旅2012 ~梅辻家住宅~

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京の夏の旅に合わせて行われる特別公開、今年は上賀茂の梅辻家住宅に行ってきました。

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梅辻家は上賀茂神社の神主になれる賀茂七家の一つで、格式の高い家でした。他の六家は移転してしまったため、上賀茂で唯一残る賀茂七家の遺構となっています。

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その格式を示す遺構の一つが長屋門で、上賀茂にはあと一つあるだけだそうですね。社家と言うより、武家を思わせる構えです。

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梅辻家の家格の高さは、書院を御所から拝領した事からも窺えます。内部は撮影禁止なので写真はありませんが、破風の木連格子が他の社家とは違う事を示しています。

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社家の特徴的な切り妻破風は白壁の中に束や貫の木が意匠として浮き出ているというもので、上の写真と比べるとその違いが良く判ります。切り妻の下に設けられているのが式台で、貴人を迎える為の表玄関となっっとています。

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普段の出入りに使われるのが内玄関で、社家の特徴として枠組みが鳥居の形になっているのですね。如何にも神職の家らしいと言えましょうか。

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上賀茂神社に仕える神職らしいと言えば、庭に双葉葵が植えられていました。葵祭には欠かせないこの植物ですが、かつては自前で調達したりしていたのでしょうかね。

他には、豊臣秀吉から貰った書状の写しや、徳川将軍家に拝謁する時の為の江戸城の絵図など、興味深い展示がありました。常時一般公開されている社家「西村家」とはまた違う、上賀茂の社家の姿を見る事が出来る、面白い機会だと思いますよ。

2012年8月 9日 (木)

京都・洛北 夏の黄昏時 ~京都府立植物園 8.4~

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夏の京都府立植物園に訪れてみました。昼間は暑くてとても花を楽しむどころではありませんが、黄昏時なら涼風も吹いて、花を愛でる気持ちにもなれるというものです。

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植物園の入園時間は午後4時まで、そして閉園は午後5時となっています。この日は4時少し前に入り、閉園時間の間際まで園内を歩いてみました。

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さすがにこの時間となると園内を歩く人も少なく、ゆっくりとした気分で楽しむ事が出来ましたよ。この暑い時期でも咲いている花が多いのは、さすがに植物園だけの事はあると言えましょうか。

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今の植物園で目立つのは、ダリアやハゲイトウといった派手な花たちですね。対照的なのがこのミソハギで控えめな感じなのですが、それでもやはり夏を感じさせてくれる花の一つです。

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カンナもまた、夏を代表する花の一つですね。その大きな草姿と共に、夏の暑さに負けない鮮やかな花色を見せてくれています。

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京都府立植物園には、蓮も沢山咲いていますね。以前より随分と増えたんじゃないかしらん。この日は日暮れ時という時間帯であったにも係わらず、こうして咲いている花があったのは嬉しかったです。でも、蓮はやはり朝一番に見に来るのが良いのでしょうね。

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瓢箪や瓜系の展示があるのも夏の植物園ならではです。大きくて面白い形をした実が、沢山実っていましたよ。

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閉園間際の大芝生地です。さすがに誰も居ないだろうと思っていたのですが、遠足に来たらしい高校生達が、まだ大勢残っていました。でも、みんな日陰に入っていたので、芝生地が広々と感じますね。

黄昏時の植物園は、静かで落ち着いた空間でした。たまには、こうした時間帯に来てみるのも良いものですね。

2012年8月 8日 (水)

京都・洛東 夏の黄昏時 ~祇園白川~

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京の七夕が始まるまでの時間、黄昏時の祇園白川を歩いて来ました。灯ともし頃の白川沿いは、京情緒で溢れていましたよ。

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これだけ暑くても、人が沢山集まるのが巽橋ですね。次から次へと記念写真を撮る人がやって来るので、誰も居なくなる瞬間を待つのが大変でした。それだけの魅力のある場所なのですね。

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その巽橋から続く切り通しもまた、人通りが絶える事がありません。時間が経つと共に、通る人が観光客から酔客、水商売の人達に代わっていくのもまた、この時間帯のこの通りならではの光景です。

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枝垂れ柳もこの界隈にはなくてはならないものですね。うだる様な暑さの中では鬱陶しく思う事もあるこの柳も、黄昏時には涼やかに感じるのが不思議です。

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店の前には打ち水が打たれ、行灯の明かりが客を招き入れる準備が整った事を知らせています。祇園の夜が始まる事を教えてくれる明かりですね。

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祇園で遊ぶ事には縁のない私ですが、焼き鳥くらいなら食べていけるかなと思ってしまいますね。ふとした誘惑を感じる、祇園白川の黄昏時でした。

2012年8月 7日 (火)

京都・洛中 京の七夕2012 ~友禅流し~

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「京の七夕」鴨川会場における人気のイベントが、友禅流しの実演です。これはかつて鴨川で行われていた友禅染の工程を再現したもので、その美しさとダイナミックな仕草が見所となります。

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友禅流しは余分な糊や染料を綺麗な水で洗い流す工程であり、その川面に映える美しさから鴨川における風物詩とされていました。反面、水質を悪化させる要因である事も確かで、今では環境保護の観点から工場内でのみ行われています。

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イベントでは既に洗浄の終わった反物が使用されており、染料が水を汚すという事はありません。ですから、その美しさだけを楽しむ事が出来るのですね。

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友禅流しでは、反物を丹念に揺すって洗い、水流で染料を落とす為に下流に向かって放り投げます。この時に美しい反物が宙を舞う訳で、とても綺麗な絵になるのですよ。高価な反物を使った、有る意味贅沢なイベントですね。

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友禅流しの実演は、11日と12日にも行われます。それぞれ19時と20時の2回行われますので、興味のある方はぜひご覧になって下さい。ライトアップされた中では、また違った美しさがある事でしょうね。

2012年8月 6日 (月)

京都・洛中 京の七夕2012 ~鴨川会場 8.4~

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今年も「京の七夕」が行われています。始まったのは2010年の事ですから、今年で3回目という事になりますね。旧暦の七夕に合わせて鴨川と堀川の両会場で実施される、夏の納涼企画です。

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会期は8月4日から8月13日までの9日間となっています。正確には今年の旧暦の7月7日は8月24日ですから、七夕の日は外れているのですけどね、まあそのあたりはこだわらないという事なのでしょう。

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毎年の事ですが、鴨川会場の初日と二日目は鴨川納涼の開催と重なります。こちらは今年で43回目を数えるという恒例行事で、各道府県の出店が出そろい、大変な賑わいを見せます。

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ただ、それを過ぎるとほとんど展示だけとなり、ちょっと寂しい感じにるのも毎年の事ですね。このあたりのギャップを埋めるのが、鴨川会場の課題ではないかしらん。

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とは言いつつ、展示内容が毎年工夫されているのも確かですね。今年は仙台の七夕祭にも似た、飾り付けが登場していました。

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竹灯りは恒例の展示ですが、透かし彫りが入ってより繊細な感じになっています。もう少し、これが長ければ良いとは思うのですけどね。

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堀川会場の方は、もっと展示も工夫されており、歩くだけでも楽しい様ですね。ただ、この日は午後から出歩いたので鴨川会場だけで疲れてしまい、堀川まで見に行く元気はありませんでした。今年はもう訪れる機会が無いので、来年は堀川の方をメインにしようかなと思っています。

明日は鴨川会場ならではのイベント、友禅流しの様子をお届けしますね。

2012年8月 5日 (日)

平清盛 第31回 「伊豆の流人」

(伊豆、蛭ヶ小島。流刑先で写経に励む頼朝。そこに魚を持って現れた藤九郎。彼は変わらぬ日々に繰り言を言いますが、頼朝は藤九郎にいつも済まぬと礼を言います。機嫌を直す藤九郎。そこに現れた目付の伊藤祐親。彼はそれとなく頼朝に探りを入れますが、さりげなくそれを躱す頼朝。はぐらかされて帰って行く祐親。)

(平治の乱から5年、往時を思い出す頼朝。彼にとっては全ての事が幻の様でした。)

(清盛の館。一門を相手に、宋の船を博多ではなく都近くにまで入れる様にしたいと説明する清盛。そうすれば無駄はなくなり、財は良く巡り、結果として国は豊になると盛国。そんな港がどこにあると相手にしない兔丸。大輪田辺りに作ればよいと清盛。途中の瀬戸は狭い、唐船は通れないと兔丸。広げればよいと清盛。どうやってと貞能。掘ればよいと清盛。面白い、やれば良いと笑い出す兔丸。後は海の守り神がおわす厳島の社だ、妻の桃李と力を合わせて守る様にと兔丸に命ずる清盛。照れて困る兔丸。)

(港を作るにも、瀬戸を広げるにも朝廷の許しが要る、しかし、先例が無いものを公卿達が許すはずがないと重盛。諮ってみなければ判らないと宗盛。お前は朝廷というところが判っていない、疎まれるだけだと重盛。それは判っている、まずは登る事だと清盛。)

(内裏。皇子の順仁が生まれた二条帝。)

(政の舞台から遠ざけられ、仏道に帰依した後白河上皇。しかし、教典を読んでも彼の苛立ちは収まりませんでした。彼の皇子、憲仁を連れてきた滋子。憲仁を抱きながら、帝に皇子が出来なければ東宮に出来たものをと上皇。少しは歩み寄ってはと滋子。歩み寄らないのは帝の方だと上皇。清盛が謁見したいと言っていると滋子。)

(後白河上皇に謁見し、千体仏を納める御堂を献上すると約束した清盛。)

(完成した蓮華王院を見て、狂喜乱舞した上皇。彼は自分の力を示す為に帝にも見せようと思いつきます。そして、清盛に褒美は何がよ良いかと問い掛けます。)

(朝儀の場で、参議となった重盛を紹介する清盛。居並ぶ公卿達を前に、あいさつをする重盛。自分にとっても義理の兄だと持ち上げる基実。面白くない様子の基房。)

(廊下で、いずれ港作りと瀬戸の開削について朝義に掛けると重盛に告げる清盛。蓮華王院を献上したのはそのためかと重盛。そうだと清盛。)

(頼盛に向かって、重盛が先に参議になるとは納得が行かないと宗清。保元の乱の時に、兄との間に深い溝を作ったのは自分だと頼盛。そこに池禅尼が呼んでいると呼びに来た須磨。)

(苦しそうに横になりながら、心配掛けて済まないと禅尼。脅かさないで下さいと頼盛。忠盛の妻となり、清盛の母となってからもう50年も経つと禅尼。今の平家があるのは禅尼の力あってこその事と頼盛。そう思っていたのだが、済まぬと頼盛に謝る禅尼。)

(伊豆、祐親の館。大番役の勤めに出る祐親。出立にあたり、頼朝の目付はくれぐれも怠るなと一同に諭す祐親。そこに現れた娘の八重姫。勤めを終えて八重姫に会うのが楽しみだと祐親。にこやかに父を送り出す八重姫。)

(頼朝の館。野菜を届けに来た時政。礼を言う頼朝。自分には畑仕事が向いている様だと時政。その時、葛籠の中から笙を見つけた藤九郎。母の形見だと頼朝。頼朝の母は熱田宮司の姫だったのだと藤九郎。そこに現れた客人。それを潮に帰って行く時政。)

(客人は祐親の家人の伊三郎でした。用件は頼朝から八重姫に都の事を教えてやって欲しいとの事。何故と藤九郎。祐親が帰って来た時に驚かせたいのだと伊三郎。頼朝はきっと断ると藤九郎。)

(そこにやって来た八重姫。彼女は無理を言ってはいけないと伊三郎をたしなめます。しかし、諦めないで藤九郎に食い下がる伊三郎。そこに聞こえてきた笙の音。その音に誘われて庭に入り、頼朝を見た八重姫。八重姫と目が合った頼朝。)

(院の御所。二条帝が一度も蓮華王院を見に来ないと怒る上皇。じっと恐れ入っている朝子。父を何と思っていると上皇。)

(内裏。二条帝に重盛を引き合わせ、一層の忠誠を誓う清盛。ご機嫌麗しい帝。その帝に、申し上げたい儀があると言い出す重盛。訝る清盛と時子。重盛は、未だに蓮華王院に行かないのはなぜか、相手は父であり一度くらいはと言いかけますが、その言葉の終わらぬ内に機嫌を悪くした帝が立ち上がります。控えよと重盛を制し、申し訳ございませんと謝る清盛。天使たるものに親など居ないと二条帝。)

(清盛の館。重盛を余計な差し出口をするなと叱りつける清盛。人として信じるところを言ったまで、これ以上上皇を政かせら遠ざけるとはいくら帝とは言っても賛同出来ないと重盛。上皇とは付かず離れずの関係を保つのが良い、自分たちが支えるべきは帝だと清盛。義兄の成親は上皇の近臣、それを無下にしろとはあんまりだと重盛。自分の考えが判らないのかと清盛。判らないと重盛。判らないならそれでよいが、邪魔だけはするなと一喝する清盛。)

(夜、経子を相手に酒を呑む重盛。保元の乱の前、鳥羽法皇と崇徳上皇の間を取り持とうとしていた清盛の姿を良く覚えていると重盛。しかし、時流の波に飲み込まれて後は、修羅の道をまっしぐらに進んでいる様に思えると重盛。その父を支える事が重盛の役目だと経子。)

(清盛の館。重盛はまるで若い時の清盛のようだったと盛国。あんなに青臭くはなかったと清盛。苦笑する盛国。そこに現れた宗盛、知盛、重衛の三人。彼らの用事とは、この国の絵図を重衛にも見せてやって欲しいという事でした。機嫌良く応じる清盛。)

(清盛の館。清盛に拝謁する祐親。勤めを怠るなと清盛。頼朝の様子はどうかと問う盛国。日々写経にいそしみ、つつましく暮らしていると祐親。それをじっと聞いている清盛。そこに現れ、清盛に耳打ちする貞能。はっとなる清盛。)

(急な病で倒れた二条帝。見舞いに駆けつけた清盛。謁見する清盛に向かって、すぐに順仁への譲位の支度をせよ、上皇に政をさせてはいけないと、病床から命ずる帝。黙ってそれを聞いている清盛。)

(7月7日、乳飲み子の身で六条帝となった順仁。20日余り後、23歳の若さで崩御した二条帝。)

(二条帝の葬儀。公卿達と共に参列している清盛と重盛。お労しい事、しかし何事も定めだと清盛。定め?と重盛。)

(そこに、太鼓と鉦を鳴らしながら現れた僧たち。率いているのは延暦寺の明雲でした。その僧侶達が担いでいた輿から下りてきたのは後白河上皇。驚いてひれ伏す一同。何事ですかと問う清盛。弔問だと上皇。二条帝の亡骸に向かって、なぜ蓮華王院に来なかった、そうすれば千体の観音か守ってくれたものをと語りかける上皇。上皇を見つめる清盛。突然笑い出した上皇。いぶかる一同。そちらがこないからこちらから来てやった、千人の僧が弔ってくれようと上皇。その言葉を合図に、打ち鳴らせと命ずる明雲。鳴り響く鉦と太鼓の音と読経。笑い続ける上皇。とまどう一同。その中で一人立ち上がり、止めよと叫ぶ清盛。それを無視する僧侶達。輿を突き飛ばし、無理矢理読経を止めさせる清盛。不埒なと怒鳴る明雲。明雲を睨み付ける清盛。押し黙る明雲。笑いを止めて佇む上皇。)

(上皇に向かって、相変わらず赤子の様な人だと清盛。上皇に向かってそんな事をと重盛。それを無視して、帝が親など居ないと言ったのも道理、あなたは手の掛かるやっかいな赤子だ、赤子にこの国を託す訳には行かないというのが亡き帝の悲痛な思いだったと清盛。清盛に向き直る上皇。上皇にひれ伏しつつ、亡き帝の志を全身全霊をもって守り抜く、お引き取りをと告げる清盛。悄然とうなだれ、輿をと一言言う上皇。しかし、清盛の前で足を止め、読めた、そなたは朝廷を思い通りに操るつもりなのだろう、危うく騙されるところだったとつぶやく上皇。黙って頭を下げている清盛。輿を出せと命ずる明雲。高笑いを残して去る上皇。驚愕して清盛を見ている祐親。)

(重盛の館。経子に向かって、修羅の道を進む父を景に日に支えて行くと決めたと語る重盛。茨の道となるでしょうと経子。覚悟の上と重盛。)

(清盛の館。清盛を大納言に任ずる事が決まったと告げる基実。謹んで受ける清盛。先日の振る舞いを褒め、これからは自分と共に朝廷の要となるが良いと基実。一心に勤めますと清盛。そこに現れた家人。)

(病床にある池禅尼を見舞う清盛。目を瞑っている禅尼に大納言に登ったと報告する清盛。大納言とつぶやく禅尼。武士が頂きに立つ世まで、あと一歩と清盛。あの世で忠盛に会ったら伝えなければと禅尼。須磨に向かって、先に逝くぞと禅尼。口々に禅尼に呼びかける平家の一門。、これだけ大勢の子や孫に囲まれて何と満ち足りた一生かと禅尼。断じて絶やしてはならぬと最後に頼盛に向かって言い、目を閉じる禅尼。そのまま息を引き取った禅尼。悲しむ頼盛と一門たち。)

(大納言として内裏を歩く清盛。その姿を見て、何か粗相をすれば伊藤一族などひとたまりもないとつぶやく祐親。)

(頼朝の館。笙を吹く頼朝とその側で聞き入っている八重姫。見つめ合う二人。八重姫を抱きしめる頼朝。)

今回は伊豆の頼朝の動向を挟みつつ、二条帝の崩御と清盛の国作りについて描かれました。第三部に入って、ドラマが少しずつ終盤に向かって動き出したという印象ですね。

まず、頼朝と八重姫については、頼朝の最初の妻となった人物として良く知られるエピソードです。流人として監視される身分であった頼朝が、目付役である祐親の娘と通じてしまったとは大胆不敵な事ですが、そういう艶福が頼朝にはあった様ですね。もっとも、これは伝承の域を出ないとも言われており、史実かどうかは判らない様です。

次に、清盛が宋との交易の為に大輪田の泊に港を開き、今の神戸の繁栄の基を築いた事も周知の事実ですね。これは清盛にとっての悲願であり、国造りの基本でもありました。この実現のためにはまだ一波乱も二波乱も有る訳ですが、これからのドラマの展開の中では、その事が軸のひとつとなって行くものと思われます。

清盛が後白河上皇のために蓮華王院、今の三十三間堂を建てた事も史実にあるとおりです。ドラマで描かれた様に、政治的には二条帝を支える一方で、後白河上皇には経済的な援助をして双方との関係を良好に保つというのが清盛の基本姿勢でした。ただ、史実と少し違うのは、蓮華王院の建立によって重盛が得たのは正三位という地位であり、参議となったのは二条帝の推挙によるもので、正三位となった一年後の事です。

蓮華王院に後白河上皇が狂喜した事も史実にあるとおりで、この落慶法要に二条帝を招こうとしたのですが、二条帝はこれに応じようとはしませんでした。この時、後白河上皇は、「やや、何の憎さに」と嘆かれたと言われ、二人の間が上手く行っていなかった事が判ります。もっとも、二条帝は後日蓮華王院を訪れたとも伝えられ、頑なに訪問を拒んでいたという訳でも無い様ですね。

その二条帝が俄の病に倒れ、急ぎ六条帝に譲位したとうのも史実どおりですね。この時、六条帝はわずかに二歳(満一歳)で、如何に後白河上皇に実権を渡したく無かったかが窺えます。実の親子でありながら、早くに後白河の手を離れて美福門院に養育されていた二条帝は実父に対する情が薄かったとも言われていますが、やはり後白河上皇の為政者としての資質に疑問を感じていたものと思われます。そして、自らの正当性を守りたいという思いもあった事でしょうね。

二条帝の死によって政界は一気に流動的なものとなりますが、赤子の六条帝の後ろ盾として期待されたのが関白の基実でした。そして、基実は平家の援護を期待して、清盛を大納言に取り立てたのですね。不安定ながらも、二条帝の遺志により、後白河上皇を政の場から外すという方向性は保たれていたのでした。でも、それほど忌避された後白河上皇って一体どんな人だったのだろうと思ってしまいますよね。その点、ここのドラマは上皇の人となりを象徴的に描いているとも思えます。

ドラマでは、二条帝の死にあたって延暦寺の僧侶を率いて後白河上皇が現れましたが、これは完全な創作です。でも、上皇と延暦寺、それに清盛を巻き込んだ騒ぎは確かにあり、平家物語では額打論として描かれています。この事については以前に書いた事があるのでここでは省略しますが、上皇と清盛の間にあった不協和音を、ドラマでは上手く取り入れていたと言えるのでしょうね。

この場面における清盛は格好良く描かれ過ぎているという気もしますが、このドラマにおける清盛の立ち位置を良く示した演出でもありました。単なる口舌の徒でもなく、阿諛の人でもなく、時の権力者に対してはっきりと者を言える骨のある人物だったのですね。これを地方の豪族である祐親から見れば、さぞかし恐ろしい人物として映った事でしょう。

最後に、池禅尼が亡くなりました。ドラマ前半を支えた人がまた一人消えた訳ですが、やはり寂しいという感じはしてしまいます。彼女にとっては、誰より頼盛が可愛かったのでしょうね。本音のところでは清盛より大事に思っていた事が、最後の場面に上手く表されていました。でも、結果として彼女の存在が頼盛を救った事になるのですから、人の運命とはどうなるのか判らないものです。

次回は清盛の太政大臣就任に絡めて政治力を発揮する後白河上皇が描かれる様ですね。ぼんくらの様でいて政治力は持っているというのがこのドラマの後白河ですが、清盛をどう翻弄するのか楽しみに待ちたいと思います。

2012年8月 4日 (土)

京都・洛中 桔梗2012 ~大光明寺 7.28~

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相国寺の塔頭、大光明寺で桔梗が咲いています。

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咲いているのは心字の庭の畔で、一群の桔梗が花を付けていますよ。

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ここに咲くのは毎年の事ですが、この清楚な庭に桔梗の花は良く似合っています。惜しむらくは、写真を撮るには反対向きに咲いている事かな。本堂側から見るには正面向きなのですけどね。

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その庭に置いてあるのが謎の置物です。なんでもご住職が中国から買ってこられた置物だそうですが、子犬の様でもあり、獅子の様でもあり、その正体は何だか良く判かりません。でも、不思議とこの庭に納まっているは確かだと言えそうですね。

2012年8月 3日 (金)

京都・洛中 芙蓉2012 ~妙蓮寺 7.28~

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妙蓮寺で、早咲きの芙蓉が咲いています。芙蓉の花期は8月から9月にかけてだと思うのですが、7月からでも咲いている花はあるのですね。

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咲いていたのは赤い花で、主として門前に咲いています。普通のピンクの花とは違って、ハイビスカスを思わす様な鮮やかな色ですね。

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まだこの花には早いかなと思って素通りをしようと思ったのですが、この印象的な花色に惹かれて、思わず自転車を止めてしまいました。

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ただ、妙蓮寺では本堂の修復作業中で、例年の様には自由に動き回る事は出来ません。芙蓉も本堂前は仮囲いのせいで近付く事が出来ませんから、魅力は半減していますね。早く元通りになって欲しいものだと思います。

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塔頭では、木槿の花が咲いていました。この花も芙蓉と同じ葵科ですので、花もどこか似ていますね。木槿も芙蓉もこれからが盛りです。工事中なのは残念ですけど、花盛りの頃を見計らって、また見に来たいと思っているところです。

2012年8月 2日 (木)

京都・洛中 蓮2012 ~立本寺 7.28~

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町中で見る事が出来る蓮の名所と言えば立本寺でしょう。本堂前に並べられた沢山の鉢植えが、毎年綺麗な花を咲かせてくれます。

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ここも相国寺と同様に、多種類の花が植えられていますね。そのせいか、やはり一度に咲き揃うという事はあまり無いようですが、色々な花を楽しめるという事でも共通しています。

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何より、垣根が無いので、すぐ目の前で花を見る事が出来るのが有り難いですね。そのせいで、毎年盗難や花の刈り取りといった事故が起こっているのですが、このスタイルを変えないところに、この寺の心意気を感じます。

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この日は訪れたのが午後だったせいか、閉じた花が多かったのが残念でした。やはり蓮を見るには、早朝が良いようですね。

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ここもまだまだつぼみが沢山あったので、見頃はこれからだと思われます。気楽に蓮を楽しむには、持ってこいの場所だと思いますよ。

2012年8月 1日 (水)

京都・洛中 蓮2012 ~相国寺 7.28~

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京都の蓮めぐり、今度は相国寺にやって来ました。ここは放生池の周辺に、鉢植えを中心とした蓮が咲いています。

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ただ、ここには何度も来ているのですが、一面に咲いているという場面には出会った事が無いですね。沢山の種類あるので、一度に咲くという事は無いのでしょうか。

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それでも、この日は数輪の花を見る事が出来ました。一度に咲く事は無いけれど、様々な花を見る事が出来るのがここの良さと言えるのでしょう。

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ここは周囲を高いフェンスで囲われていたのですが、今年は蓮を良く見える様にという事からなのか、上半分が取り払われていました。おかげで、花をよく見る事が出来たのは有り難かったですね。

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蓮の他には、睡蓮もわずかばかりですが咲いています。盛りの時期がなかなか掴めないのですが、そのぶん何時行ってもなにがしかの花は咲いているとは言えますね。とにかく多種類の花を見たいという人にはお勧めの場所かも知れません。

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ねこづらどき

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