« 2011年11月 | トップページ | 2012年1月 »

2011年12月

2011年12月31日 (土)

良い年をお迎え下さい

Kiyomizu1112311

災害に明け暮れ、社会不安が広がった2011年、今年の漢字に選ばれたのは絆でした。確かにこれしかないという文字ではありますね。

Kiyomizu1112312

その漢字が書かれたパネルの前には、ふれあい観音が置かれていました。奥の院が改修中であるための臨時の措置らしいのですが、これほど相応しいツーショットも珍しいのではないでしょうか。御仏との絆で、世の中が少しでも明るくなれば嬉しいですよね。

さて、今年も当ブログを訪れて頂きありがとうございました。毎年同じ事を書いていますが、一年間無事に続けてこられたのは、読んで下さる皆様のおかけです。特にコメントやトラックバックを頂いた方々には感謝しています。

2012年が皆様にとって良い年でありますように。
来年も当ねこづらどきをよろしくお願いいたします。

2011年12月30日 (金)

都・洛東 師走の風景2011 ~清水寺~

Kiyomizudera1112301

師走の東山散策は、清水寺で締めましょうか。とは言っても、ここも残り紅葉の記事になってしまうのですが。

Kiyomizudera1112302

清水寺もまた遅く紅葉が始まるポイントなのですが、それほど極端に遅いという訳ではありません。例年なら、10日過ぎには散ってしまうのではないかな。でも、今年は25日になってもまだ名残の紅葉を見る事が出来たのです。

Kiyomizudera1112303

残っていたのは主として舞台周辺でして、こんな具合に紅葉を透かした舞台を撮る事が出来たのも、名残の紅葉ならではの事でしょう。さすがにこの日でほとんど散りかけていたので、今頃は冬枯れの姿になっている事でしょうけどね。

Kiyomizudera1112305

今はどこへ行っても山茶花の見事な花を見る事が出来ます。ここ清水寺でも、本堂裏の木が満開見頃になっていましたよ。

Kiyomizudera1112306

一時期少なくなっていた外国人観光客も、最近は元に戻ってきた様です。この日もそこかしこで中国語の会話が聞こえており、ここはどこの国だと思ってしまうほどでしたよ。何にしても観光が表看板の京都ですから、お客様が増えるのは良い事ですよね。

来年はまた1年を通して観光客で溢れる京都に戻って欲しいものだと思います。

2011年12月29日 (木)

京都・洛東 師走の風景2011 ~八坂神社~

Yasakajinjya1112291

ねねの道を経て八坂神社へとたどり着きます。すると、ここでもまた紅葉のお出迎えが待っていました。

Yasakajinjya1112292

八坂神社も例年遅くまで紅葉が残る場所なのですが、25日現在で盛りどころか、まだ緑の残るもみじすらあるといった状況でした。本当にどうなっているのでしょうね。

Yasakajinjya1112293

紅葉が残っているのは主として西楼門の内側で、他はさすがにほとんど散っていました。なぜか紅葉の周辺が立ち入り禁止になっていて、思う様な構図で撮る事が出来なかったのが残念だったなあ。

Yasakajinjya1112295

たぶん、初詣の時点で紅葉が残っているのは確実でしょうね。それも、見頃の紅葉が残っている可能性が大です。季節がずれたと言うか、冬がひと月短くなったと言うべきなのかな。冬枯れの青空に凧が舞うといった景色は、遠い昔語りになってしまった様ですね。

2011年12月28日 (水)

京都・洛東 師走の風景2011 ~ねねの道~

Nenenomiti1112271

高台寺からねねの道を円山公園に向かって歩きます。その途中にある大雲院でも、見頃の紅葉が残っていました。さすがに盛りは過ぎていた様ですけどね、日差しを浴びて輝いて見えまていました。

Nenenomiti1112272

そこから暫く歩くと、あれっという景色に出会いました。なんと、芭蕉堂が抹茶体験の店になっているのですね。

Nenenomiti1112273

7月に来た時には無かったと思うので、たぶんその後に開店したのでしょう。抹茶体験千円とあり、他にも茶道具やお土産物などを扱っている様です。芭蕉堂の中も公開している様であり、もう少し良く見てくれば良かったかな。何にしても、わすが半年足らずの間に、思わぬ変化に出会うものではあります。

Nenenomiti1112275

変化と言えば、祇園女御塚跡にもありました。まず、名称が祇園寺から京都祇園堂に変わっています。そして、出入りが自由となり、奥に祀られている阿弥陀如来像に拝観が出来るようになりました。もっとも、この日は休館日という事で入る事は出来なかったのですけどね。

Nenenomiti1112276

そして、一時八幡市に移転していた供養塔が、元の場所に戻されています。何があったのかは判りませんが、色々と紆余曲折があったのだろうなとは想像が付きますね。これで、この祇園堂が何なのかという説明があれば、もっと良いのですけどね。依然として、正体は謎のままです。

でも、大河ドラマを前に、主要なポイントが復元されたとは言えましょうか。祇園女御塚と刻まれた供養塔があれば、ここが平家物語縁の地である事が判るでしょうからね。きっと、ドラマ開始と共に大勢の人で賑わいを見せる事でしょう。

2011年12月27日 (火)

京都・洛東 師走の風景2011 ~高台寺 台所坂~

Koudaiji1112271

昨日の記事で少し予告した、高台寺台所坂の紅葉です。ここは毎年遅くまで紅葉が残る場所なのですが、12月25日の時点でまだ盛りを保っているとまでは思っていませんでした。

Koudaiji1112272

この時期に残っている紅葉は、葉が縮れたようになっている場合が多いのですが、ここは瑞々しさを保っています。これだけ綺麗な紅葉を見せて貰えるとは、嬉しい誤算ですよね。

Koudaiji1112273

この翌日には雪が降ったとの事で、紅葉と雪のコラボレーションはさぞかし綺麗だった事でしょう。1日違いで惜しい事をしたな。

Koudaiji1112275

こちらは山門近くのトウカエデです。もみじの黄葉と少し異なる色合いがまた良いですね。この日でほぼ散りかけていたので、今頃はもう冬枯れの姿になっている事でしょう。

ここまで紅葉が遅いのはどうかという気もするけれど、見方を変えれば、遅くまで紅葉を楽しむ事が出来る貴重なスポットの一つとも言えそうですね。

2011年12月26日 (月)

京都・洛東 師走の風景2011 ~八坂の塔~

Yasakanotou1112261

師走の景色を探しに東山界隈を歩いてきました。今年は京都取材にあまり行けなかったのですが、振り返ってみると東山を通して歩くのは7月以来となります。こんなに間が開いたのは、いつ以来かしらん?

それはともかく、冬空を背にすっくと建つ八坂の塔は、花や紅葉の装飾は何も無いのですが、それだけでも京都らしい景色なのはさすがと言うべきでしょうか。

Yasakanotou1112262

ところが、年の瀬に紅葉を見ることが出来るのが今の京都なのですね。ここ春光院では、名残のもみじが綺麗に残っていました。せっかくだから八坂の塔とのコラボレーションを撮らせてもらったのですが、とても12月25日の景色とは思えないでしょう?

Yasakanotou1112263

そして、高台寺の台所坂では、名残どころではなく、今が紅葉の真っ盛りでした。この坂の紅葉は明日アップしますが、それは綺麗なものでしたよ。その坂の途中から撮った八坂の塔と紅葉のツーショットがこの写真です。

表題を師走の風景ではなく紅葉事情と変えた方が良い様な写真が続きますが、これが東山の現状ですね。冒頭の冬枯れの写真が私にとってのデフォルトの師走風景なのですが、これを探す方が難しいという奇妙な感覚に襲われた冬の散策でした。

2011年12月25日 (日)

第23回女子全国高校駅伝

Jyosiekiden1112251

歳末の京都を彩る風物詩、女子全国高校駅伝の観戦に行ってきました。今年は観戦のポイントをいつもの鞍馬口から大徳寺前に変えてみたのですが、中継点から離れているという事もあってか、とても空いていて快適な観戦ができましたよ。

ここは第二区間の中間を少し過ぎたあたりになるのですが、最初に現れたの地元の立命館宇治でした。これは良い展開になったと思ったのですが、この後逆転をされてしまいます。

Jyosiekiden1112252

その逆転劇を演じたのが愛知県の豊川高校でした。後からNHKのサイトで確かめたのですが、中継点の手前からの凄いスパートで京都代表を引き離したのですね。

Jyosiekiden1112253

こちらは石川、福島、広島などによる中段の争いです。こうした集団による競い合いは、見てみても迫力があって良いですね。

Jyosiekiden1112255

でも、単独走となっても懸命に走る姿には変わり有りません。ペース配分など、集団で走るよりむしろ大変なのでしょうね。

Jyosiekiden1112256

折り返しで先頭に立っていたのは豊川高校と兵庫県の須磨高校でした。見ていた時は経過を知らなかったので、あれっという感じでしたね。この後、第3中継点で須磨高校が逆転し、一時的にトップに立ちます。

Jyosiekiden1112257

実は流し撮りをししようと道路を渡らずに居たのですが、すぐに折り返す第二中継所と違って手前の車線は通行止めにはならないのでした。なので、京都だの大阪だのは、車やバスに邪魔されてちゃんと撮れなかったのです。これはちょっとした誤算でしたね。

Jyosiekiden1112258

今年の優勝は豊川高校でした。連覇を狙った興譲館は2位に終わり、やはり毎年選手が入れ替わる中での戦力維持は難しい様ですね。そして3位が仙台育英高校。毎年上位に来る強豪とは言え、震災の影響を考えれば大したものなのではないでしょうか。

仙台育英のみならず、今年はやはり東北のチームが目が止まりました。とても練習どころではないというチームも多かったのではないかな。そんな中で、力走を見せてくれた姿には拍手を送りたいと思います。

なお、詳しい結果についてはこちらを参照して下さい。

2011年12月24日 (土)

Merry Christmas 2011

Syokubutuen1112241

クリスマスイブの今日、日本は寒波に襲われています。クリスマス寒波と言うけれど、本当にこの時期に寒波が襲来する事が多いですね。あまりの寒さに、今日は京都取材にも出かけず仕舞いでした。でも、せっかくのイブなので、先日撮ってきた京都府立植物園のクリスマスツリーをお届けします。

この木はハリモミですから、文字通り本物のクリスマスツリーですね。

Syokubutuen1112242

このイルミネーションのテーマはクリスマスですから、当然サンタも居ます。場所は温室の入り口で、沢山群れていましたね。やはり世界中にプレゼントを届けなければならないので、人数も多くなければやってられないのでしょう。

そのサンタを追跡するノーラッドのイベントが今年も行われます。カナダにある北アメリカ航空宇宙防衛司令部が毎年大まじめに運営しているサイトで、高速で世界を飛び回るサンタを追跡し、その姿をリアルタイムで伝えてくれるのですね。

毎年趣向が凝らされるのですが、今年はグークールアースと連動して3Dで見る事が出来るようです。この記事を書いている時点ではまだサンタは動いておらず、どんな具合になるのかは判らないのですが、楽しみにしているところです。

さて、我が家はこれから家族でクリスマスパーティーを開くところです。家族4人でプレゼント交換をするのが一番の楽しみなのですよ。まあ、プレゼントとは言っても100均で探してくるというささやかなものですが、それぞれが趣向を凝らしているところが面白いのです。

何かと大変な年でしたが、今夜くらいは静かに過ごしたいところですね。

いつも当ブログを訪れて下さる皆様に、Merry Christmas!

2011年12月23日 (金)

平清盛 景清爪形観音 ~清水寺~

清水寺に行くと、随求堂の前にお地蔵様と並んだ四角い石の祠があります。正面に細長い穴が二つ開いているだけで、ぱっと目にはこれが何かは判らないのですが、中に小さな石仏が納められています。これが景清爪形観音、平家の郎党である平景清が爪で彫ったという伝説を持つ石仏です。

平景清は正しくは藤原姓の人で、伊勢の住人であった事から伊藤景清とも呼ばれます。ドラマでは、父親の忠清が伊藤姓で登場する様ですね。

平家物語では弓流しの段に登場し、景清の強さに恐れをなして逃げ出した源氏の武者の錣を後ろから掴み、そのまま引き千切ってしまったという「錣引き」のエピソードで知られています。この錣とは兜の後ろに付いている首を保護するパーツの事で、頑丈な紐で幾重にも編み込まれているため、手で引きちぎれるという事は通常あり得ません。

物語の中では上総悪七兵衛景清と名乗っており、京では名を知られた存在だったと誇示しています。ここで言う悪とは勇猛という程の意味で、平家の郎党の中でも勇将として知られていました。その強さ故か謡曲や歌舞伎、浄瑠璃の題材として取り上げられる事が多く、様々なエピソードで飾られていますが、史実として伝わる部分はほとんど無い様ですね。

景清は壇ノ浦で捕らえられた後、八田知家という鎌倉方の武将に預けられ、その屋敷で自ら絶食して果てたとされます。しかし、この石仏にまつわるエピソードはそれとは少し異なり、捕らえられた景清は牢の谷の監獄に入れられました。その獄中で自らの爪で刻んだ観音像を清水寺に奉納したのがこの石仏だと言うのですね。また別には、頼朝の命を狙って清水寺に潜伏していた時に刻んだとも言われています。このあたり、浄瑠璃や落語の影響が色濃く反映されている様な気がしますが、どこまでが事実かは定かではありません。

ちなみに牢の谷とは実在した地名で、今の五条通の中、若宮八幡宮の前あたりにあった様ですね。幕末には貧民窟になっていたと言われ、桂小五郎が一時身を隠した場所としても知られます。

祠の中は真っ暗でまず石仏が見える事は無いのですが、天気の良い日には見える事もある様です。景清は歌舞伎ファンなどの間では有名ですが、一般にはあまり知られていないのかな。ドラマでも、今のところ人物相関図には出ていませんね。でも、平家方随一の勇将であり、創作とは言え様々な伝説に彩られた人物を知るきっかけとしてこの祠を訪れてみるのも悪くないと思いますよ。

2011年12月22日 (木)

平清盛 厳島神社 ~京都御苑 九条池~

Itukusima1112221

安芸の厳島神社と言えば、平家が篤く信仰した神社として知られます。絢爛豪華な装飾が施された平家納経がある事で有名ですよね。

この平家と厳島神社の関係は、高野山から始まるとされています。

清盛が安芸守だったころ、高野山の大塔の修復工事を請け負っていました。その修復がつつがなく終わり、高野山を訪れた清盛の前に、白髪の老僧が現れます。僧侶は清盛に向かって、いま安芸の厳島神社が長く荒廃している、これを修復すれば官位が上がり、他に並ぶ者が居なくなるだろうと告げます。老人はかき消す様に姿を消したため、清盛はきっと弘法大師が現れられたのだと考えます。

清盛は安芸守の任期を4年延長し、その間に厳島神社の再建を進めました。社殿を新たに起こし、鳥居を建て替えます。海上に回廊を巡らすという今の姿になったのはこの時でした。

神社の完成後、社殿に籠もっていた清盛は霊夢を見ます。夢に現れたのは神の使いという天童でした。天童は小長刀を清盛に与え、この剣をもって国家の鎮護となるべしと託宣を告げます。目を覚ました清盛は、今度は大明神のお告げを聞きます。大明神は、以前に聖に言わせた事を覚えておるか、もし悪行があれば官位繁栄は子孫にまで及ばないと言って昇天されました。

これ以後の清盛の出世ぶりは周知のごとくで、清盛は厳島神社に対する傾斜を次第に深くして行きます。清盛は後白河法皇や高倉天皇の御幸まで実現させたのですが、これは当時破天荒の事と言われました。今でこそ名高い厳島神社ですが、当時ははるか海上にある一地方の神社に過ぎなかったのですね。清盛は厳島神社をして畿内にある格の高い神社と同列に並べようとしたのですが、これが各方面から反発を呼ぶことになってしまったのでした。この事が平家の孤立を招く一要因になったとも言われます。

その清盛にゆかりのある厳島神社が京都にも残されています。それが京都御苑の南、九条池の畔にある厳島神社ですね。この神社は、清盛が母である祇園女御のために安芸から勧請したのが始まりと伝えられます。その後時代が下って室町時代の後期に、足利義晴によって細川高国の邸内に移され、さらに明和8年(1771年)に九条道前がその邸内に移しました。それが現在残っているこの神社ですね。

祭神は本来の宗像三女神に加えて祇園女御が祀られているそうです。現地の説明書きでは故あってとだけ記されており、祇園女御が加えられた理由はよく判らない様ですね。推測ですが、本来は祇園女御のための神社であった事に敬意を表し、祭神として加えたのかも知れません。たぶんですが、祇園女御を祀った神社はここだけではないでしょうか。(追記:NHKの特集を見たのですが、そこでは清盛自身が祇園女御を祭神に加えたと説明していました。宮司さんも一緒だったので、神社にはそう伝わっているのでしょうね。そうすると、女御の死後に追悼の意を込めて祀ったという事になるのかな。何にしても、現地の説明書きに追記して欲しいところではあります。)

笠木を唐破風形にした石鳥居は京都三珍鳥居の一つとされ、重要美術品に指定されています。一説に清盛が厳島に建立したとも言われていますが、実際には室町時代の作である可能性が高い様ですね。

祇園女御の数少ない縁の地であり、ドラマの放映とともに注目を集める事になるかも知れないポイントの一つです。

2011年12月21日 (水)

京都・洛北 北山ウエディングストリート クリスマスイルミネーション2011

Kitayama1112211

北山にあるウェディングストリートで、今年もクリスマスイルミネーションが実施されています。地下鉄の松ヶ崎駅周辺にあるブライダル関連施設のライトアップですね。

Kitayama1112212

その中心となるのが京都ノーザン・チャーチ北山教会です。このライトアップは、いつ見ても美しいですね。

Kitayama1112213

今回は中庭まで入ってみました。周辺の木々が緑色にライトアップされ、良い雰囲気になっていますね。この日はここまででしたが、イベントによっては協会の中に入れる様ですよ。

Kitayama1112215

北山ル・アンジェ教会では教会の中まで入る事が出来ます。冒頭の写真が教会の内部、この写真が中庭から見上げたところですね。昨日は100万人のキャンドルナイトに協賛したキャンドルサービスが行われたはずで、きっと幻想的な世界が広がっていた事でしようね。

Kitayama1112216

廊下の照明も中世ヨーロッパ風で、ここにふさわしい良い感じですね。ただ、ここは結婚式場ですので、式やパーティーが開かれている場所には入る事は出来ません。

Kitayama1112217

この通りは、昼間通ると少し違和感を感じるのですが、このイルミネーションは素晴らしいですね。京都離れをしているというか、こうした窓にも異国情緒を感じます。近くの植物園のライトアップと一緒に見て回るのがお薦めのコースですね。

2011年12月20日 (火)

京都・洛中 京都ホテルオークラ イルミネーション2011

Okura1112201

この時期の恒例イベントの一つ、京都ホテルオークラのクリスマスイルミネーションが今年も点灯されています。

Okura1112202

今年は例年と趣向を変え、クリスマスツリーが登場しました。高さ10mのモミの木で、なかなか立派なものですよ。その代わり、去年まで行われていた地階の木に対するイルミネーシヨンは無くなっています。そこはちょっと寂しい部分ですね。

Okura1112203

ホームページの告知に拠れば、このツリーは27日まで、周辺のクリスマスイルミネーシヨンは来年の2月14日まで行われるそうです。また、23、24、25日の3日間は、クリスマスコンサートやカフェ&屋台が開催される様ですよ。

Okura1112205

こちらは、近くのゼスト御池の入り口にあるイルミネーションです。こうして見ると、ホテルオークラのイルミネーションと一体化して雰囲気を盛り上げてくれていますよね。このゼスト御池でもクリスマス期間中はディスプレイの展示やコンサートが行われている様です。

この他にも三条通から御池通にかけては、新風館や京都セントアンドリュース教会のイルミネーションなどクリスマスムードに溢れた演出がいくつもあり、少し回り道をしてみるのも面白いかも知れませんよ。


2011年12月19日 (月)

京都・洛北 クリスマス・イルミネーション2011 北山門編 ~京都府立植物園~

Syokubutuen1112191_2

京都府立植物園のクリスマスイルミネーションの会場は、大きく正門側と北山門側に分かれます。メインは正門側になりますが、北山門側にも捨てがたい見所がありますよ。その一つがこのトウカエデのライトアップですね。この美しいイルミネーションを見るだけでも、ここに来た値打ちがあるというものです。

Syokubutuen1112192

昨年まではここに銀河をイメージしたゲートがあったのですが、今年は小球根ガーデンを覆う光のカーペットになっていました。

Syokubutuen1112193

何となくですが、昨年までのゲートをばらして並べ直した様にみえるのですが、気のせいでしょうか。門が無くなったのは寂しい気もしますが、これはこれで綺麗でしたよ。

Syokubutuen1112195

光のカーペットの側にはトナカイが何頭もあり、たぶんトナカイの森をイメージしているのでしょうね。これで雪が舞ったらさぞかし風情はある事でしょう。ただ、寒くてやりきれないでしょうけど。

Syokubutuen1112196

トナカイは正門へと続く通路沿いにも居ました。一緒においてあるかごは、青い鳥のイメージなのかしらん?

ここでも節電モードになっており、少し寂しい感じにはなっていましたね。来場者も少なめで、冒頭のトウカエデの写真を撮っていたのも私一人でした。でも、そのぶんゆっくりとイルミネーションを楽しむことが出来るというもので、この冬お薦めのイベントの一つですよ。

2011年12月18日 (日)

京都・洛北 クリスマス・イルミネーション2011 ~京都府立植物園~

Syokubutuen1112181

京都府立植物園でクリスマス・イルミネーション2011が開催されています。今年で7回目を迎える冬の恒例行事ですね。

Syokubutuen1112182

正面玄関を入ると、まず花壇を埋め尽くす光のカーペットが出迎えてくれます。これは去年から始まった趣向ですね。

Syokubutuen1112183

そのカーペットの前で観覧者を出迎えてくれるのが天使のファンファーレの隊列です。この天使は7年前からずっと変わらずにラッパを吹いていますね。

Syokubutuen1112185

こちらはハリモミの巨大ツリー。高さ15mと言いますから、本当に迫力のあるクリスマスツリーですよ。

Syokubutuen1112186

これも高さ15mという銀杏のライトアップです。あたかも黄葉しているかのごとく、黄色に染められているのが印象的ですね。

Syokubutuen1112187

また、冒頭のエンジェル像、実際に乗って記念写真が撮れるトナカイの橇など、おなじみの展示は今年も健在ですよ。

Syokubutuen1112188

ただ、地球温暖化防止に加えて節電が叫ばれる昨今とあって、少しずつイルミネーションは減らされている様です。あまり目立たない様に工夫されていますが、以前の写真と見比べると寂しくなっているのが判りますね。こうしたイベントには厳しい世相になって来ている以上、やむを得ない事なのでしょう。

この日は入っていないのですが、観覧温室も夜間開放が行われています。館内ではポインセチア展が開催されているほか、19日と22日には京都ノートルダム女子大学ハンドベル部によるハンドベル演奏が行われます。クリスマスムード満点のイベントですね。

なお、ハンドベル会場に入るには整理券が必要ですのでご注意下さい。詳細はこちらを参照して下さいね。

明日は北山門のライトアップをお届けします。

2011年12月17日 (土)

平清盛 ~仏御前  祇王寺~

Giouji1112171

これまでに何度か取り上げてきている祇王寺ですが、今回は祇王ではなく仏御前に焦点を当ててみたいと思います。形の上では祇王のライバルとなる仏御前ですが、物語ではその名の通り仏心を持った女性として描かれています。

白拍子の名手だった祇王が清盛の寵愛を受ける様になってから3年後、また一人上手と言われる者が出て来ました。それは加賀国の人で、仏と呼ばれる16歳の少女でした。彼女は白拍子としての名声を一身に集めたのですが、今を時めく清盛に気に入られてこそ本物だと考えます。そこで、自ら売り込むために、呼ばれもしないのに西八条にあった清盛邸に押しかけます。この時の台詞が、

「遊び者の倣い、何が苦しかるべき。推参してみん。」

というもので、若さと自信に任せた暴走と言うべきでしょうか。いや、遊び者の心意気と言った方が良いのかな。果たして、清盛はいきなり訪ねてきた仏御前には会おうとせず、追い返そうとします。諦めて帰りかけた仏御前を救ったのが祇王でした。彼女は同じ道を歩んできた白拍子として、仏御前の気持ちが判ったのですね。遊び者の推参は常のならいだと言い、まだ幼い者をすげなく追い返すのは可哀想だから会ってやってはどうかと清盛に勧めたのでした。

仏御前に会った清盛は、あまりに祇王が薦めるので会ってやった、かくなる上は今様でも歌ってみよと命じます。仏御前は承知しましたと言って歌い始めます。

君を初めて見る折は 千代も歴ぬべし姫小松 
御前の池なる亀岡に 鶴こそ群れいて遊ぶめれ

(我が君(清盛)を初めて見る時は、姫小松(仏御前)は千年も寿命が伸びる気がします。
御前の池にある亀岡で、鶴が群れて遊んでいるかの様です。)

この歌を3度繰り返し歌ったところ、その出来の良さにその場に居たものは皆感心し、清盛もいたく気に入りました。今度は舞を見せよと命じると、仏御前は見事に舞いきって見せます。その美しさに心を奪われた清盛は、仏御前の虜となってしまいした。

ところが、清盛の寵愛が自分に移った事を知った仏御前は、自分を招き入れてくれた祇王に済まないと思い、暇乞いをします。このあたりが仏御前の並の人ではない所ですね。自分の芸を認めて欲しいとは思ったものの、祇王に取って代わって栄華を極めたいという野心までは持っていなかったのでした。ところが、清盛はそんな仏御前の気持ちは斟酌しません。そんな事を言うのは祇王が居るからであろうと言って、祇王を追い出しに掛かるのでした。仏御前は、そんな事をされたらとてもここには居られない、また呼ばれたら来るので今日は帰して欲しいと頼みますが、清盛は3度に渡って使いを出し、祇王を即日追い出してしまうのです。

祇王は泣く泣く、

萌えいづるも 枯るるも同じ 野辺の草
いずれか秋にあわではつべき

と障子に記して西八条の屋敷を後にしたのでした。


その傷心の祇王に、清盛は追い打ちを掛けます。翌年の春になって、仏御前が退屈しているので今様を歌い、舞を舞って慰めよと祇王に命じたのでした。あまりの仕打ちと返事をしなかった祇王でしたが、清盛に逆らっては都に住めなくなると母に説得され、泣く泣く妹の祇女を伴って西八条へと向かいます。

屋敷に着いてみると、祇王が通されたのはかつて自分が住んでいた部屋ではなく、遙か格下の部屋でした。あまりの事に思わず涙ぐんでしまう祇王。これを知った仏御前は、あれはどうした事でしょう、せめてここに呼んであげて下さい、さもなくば私に暇を下さいと清盛に迫ったのですが、その必要はないとすげなく却下されてしまいます。

やがて祇王と会った清盛は、今日は舞は良いから今様を歌って見せよと命じます。祇王は涙をこらえて、

仏もむかしは凡夫なり われらも遂には仏なり
 いずれも仏性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ

と二度繰り返し歌うと、その場にいた平家の人々は皆、感涙に臥せったのでした。清盛もいたく感心し、これからは毎日ここに来て、今様と舞で仏御前を慰めよと命じたのでした。

もはやこれまでと自害を思った祇王でしたが、妹と母に身を挺して止められます。そして、これ以上憂き目に遭うよりはと親子3人で出家し、嵯峨野の奥に庵を結んで住まう様になりました。

その後は念仏三昧に時を過ごしていったのですが、その年の初秋の頃、黄昏時も終わろうとする時に、竹の網み戸を叩く者が居ました。こんな時分に誰がと怪しみ、魔縁が来たのかと恐れる親子でしたが、穏やかに叩き続ける様子を見て、念仏を唱えながら恐る恐る扉を開けます。すると、そこに立っていたのは仏御前でした。驚く祇王に、ここに来た事情を話し始める仏御前。

祇王のとりなしで屋敷に上がる事が出来たのに、代わりに祇王が追い出されてしまった。自分も暇乞いをしたのだが、思うに任せず押しとどめられたのはとても辛い事であった。そして、いつかは自分も追い払われる時が来ると思うと、余計に憂鬱になってしまう。祇王が「いずれか秋にあわではつべき」と書かれていたのを見ても、そのとおりだと思った。そして祇王が呼び出されて今様を歌わされた時にも、この世は儚いものと思い知らされた。清盛に暇乞いを許して貰えなかったけれども、このままでは後生が浮かばれないと思って、今朝飛び出して来ました。

そう言って仏御前が被っていた衣を取りのけると、尼となった姿が現れました。

世を恨んで尼となった自分と違い、わずかに17歳にして浄土を願う仏御前こそ真の大道心だと言って、共に念仏を唱えて暮らそうと誘う祇王。その後は4人で仏に仕える暮らしをし、遅早はあったものの、それぞれが本懐を遂げる事が出来たのでした。

以上が平家物語にある祇王と仏御前の物語ですが、二人とも実在の人物とされています。祇王は近江国野洲の人とされ、彼女が清盛に願って作られた祇王井川という川が、今でも野洲市に残っているそうですね。

一方の仏御前は、平家物語においては加賀国の人とだけ記されています。つまり今の石川県にあたる訳ですが、ネット上の情報に依れば生誕地まで特定されているようですね。現在の小松市原町がそうで、現地には屋敷跡や墓石、そして仏御前の像まで残されているそうです。

昔、百済国から加賀に渡ってきた白狐が僧に姿を変え、阿弥陀経を唱えていました。その地は霊地とされ、弥陀が原と呼ばれていたのですが、花山天皇がここをを通った時にいたく感じ入られ、五重塔を建てられました。そして、この塔を守る役職が定められて都から派遣されていたのですが、その塔守の一人である白河兵太夫の娘が仏御前なのだそうですね。本名は千歳と言ったのですが、小さい頃から仏を尊んでいたので、いつしか仏と呼ばれる様になったそうです。

仏御前は14歳の時に都に上り、やがて平家物語に記されたように白拍子の名手となって、清盛の寵愛を受けるようになります。世を儚んで出家したのは17歳の時で、平家物語には記されていないのですが、この時仏御前は懐妊していたようですね。この事に気付いた仏御前は、出産の為に故郷に帰ろうとしますが、その途中の美濃国で産気付き、その地で子を産みました。しかし、子供は育つことなく、すぐに死んでしまいます。

加賀に帰った仏御前は出家としての暮らしを続け、やがて21歳の時に亡くなってしまいました。

これがネット上で知り得た仏御前の生涯ですが、恐らくは現地に伝えられている伝承なのでしょうね。生没年まで特定されているところを見ると、あるいは文献も残されているのでしょうか。

何にしても、以前なら現地に行かなければ知り得なかった情報が、居ながらにして得る事が出来るようになった事とは、ネット社会の恩恵ですね。京都を中心に考えているとどうしても祇王ばかりに目が行ってしまうのですが、仏御前にもまたドラマがあった事が判ったのは収穫でした。

ただ、この物語に出て来る清盛は、あまりにも酷く描かれすぎていますね。これじゃあ、ただのヒヒ爺じゃん。こんなに人の気持ちが判らない人が一門の総帥として立てられる筈もなく、相当な脚色が入っていると思われます。

そしてもう一つ、祇王の没年は祇王寺に残る墓石から1172年と推定されているのですが、先のリンク先に拠れば仏御前は1160年生まれであり、出家したのは17歳(かぞえ年)の時ですから1176年となるので二人は出会っていない事になるのですね。このあたり、この物語が全くの創作なのか、それとも二人の生没年の推測が誤っているのか、これ以上知る術が無いのですが、いつか明らかにされる時が来るのでしょうか。

良く知っているつもりのエピソードでも、少し調べると新しい事項がいくつも出て来ます。これだから平家物語の世界を旅するのは、面白くて止められないのですよね。

2011年12月16日 (金)

平清盛 ~伝・平重盛邸門  建仁寺勅使門~

Kenniji1112158

建仁寺には、平重盛邸ゆかりとされる門が残されています。それが境内の南の正面に位置する勅使門です。

勅使門は切妻造りの四脚門で、鎌倉時代の作風を伝えると言われます。文字通り天皇の勅使を迎えるための門で、勅使以外は通る事が出来ないため、普段は閉じられたままになっています。

そうした格式のある門なのですが、扉や柱に矢の跡がある事から矢の根門、あるいは矢立門とも呼ばれます。格式の高さとは裏腹に、戦乱の時代を潜って今に至っている事を示す痕跡ですね。

この門には平重盛邸から移設されたという伝承があり、事実とすれば貴重な遺構という事になりますね。だとすれば、この門に残る矢の跡は源平時代のものという事になりそうなのですが、必ずしもそうとも限らない様です。

この門には、重盛邸の門という説とは別に平教盛邸の門、あるいは六波羅探題の北門ともいう説もあるのですね。また、移設の時期は応仁の乱後とも言われ、矢の跡は応仁の乱の時に付いたとも考えられるのです。

すべては伝承であり、どの説が正しいのか決め手となる根拠は無い様です。そして、この門の様式は鎌倉時代の後期に属するとも言われており、そうなると重盛の時代にまでは遡らない事になりますね。だとすれば、六波羅探題の北門という説が有力なのかなという気もして来ます。

そうではあるとしても、重盛の存在を彷彿とさせてくれる事は確かであり、伝承の地として訪れてみるのもおもしろいと思いますよ。

なお、門の屋根は元はこけら葺であったのが、防火上の配慮で銅板葺に改められています。

2011年12月15日 (木)

京都・洛東 京都紅葉事情2011 ~建仁寺 12.10~

Kenniji1112151

平成23年12月10日の建仁寺です。さすがに訪れる時期が遅いかと思っていたのですが、境内の紅葉はまだ見頃を保っていました。

Kenniji1112152

ここに来る度に紅葉の目安にしているのがこの木なのですが、上半分は縮れた状態になっっていたものの、下半分は見頃と言って良い状態でした。あたかも高温が続いて難しかったという今年の紅葉を象徴しているかの様ですね。

Kenniji1112153

今の建仁寺は三門や開山堂などで補修が行われており、定番の写真は撮りにくい状況になっています。何かと撮りたい構図に制約があって、その点はちょっと残念でしたね。

Kenniji1112155

境内をよく見渡すと、すでに枯れ果てた木がある一方で、まだ色付きの浅い木もありました。ですので、もう暫くは紅葉を楽しむことが出来るかも知れませんよ。

Kenniji1112156

この日は時間が無かったので方丈には入っていないのですが、ネットで見る限り潮音庭の紅葉は良い感じに染まっていた様です。これなら、無理をしてでも見てくれば良かったかなと思ったりしています。

Kenniji1112157

境内の南の端では、何本かの銀杏が綺麗に色づいていました。今頃は地面を黄色く染めている頃かも知れませんね。

明日はこの銀杏の近くにある、平家縁の史跡について紹介します。

2011年12月14日 (水)

京都・洛中 京都紅葉事情2011 ~相国寺 12.10~

Syoukokuji1112151

平成23年12月10日の相国寺です。この日は鐘楼南側の植え込みを中心に紅葉が見頃を迎えていました。

Syoukokuji1112152

相国寺は紅葉の名所と呼べる程ではないのですが、毎年鮮やかに染まる木が何本かあります。その一つがこの植え込みの中のもみじで、正確には西側の2本の木ですね。

Syoukokuji1112153

大きく枝を張った二本の紅葉がほぼ同時に同じ色合いで染まってくれるので、この小さなスペースでもボリューム感のある紅葉を楽しむ事が出来るのです。

Syoukokuji1112155

東側にはまだ若木の2本があるのですが、こちらは一足先に散っていました。あと何年か経てば、さらに見事な紅葉を楽しませてくれるようになるのでしょうか。

Syoukokuji1112156

若木と言えば、鐘楼の北側にも株立ちしたもみじがあり、毎年きれいな黄葉を見せてくれています。この木も今後の成長が楽しみなのですが、どんな姿になって行くのでしょうね。

Syoukokuji1112157

紅葉は、法堂の南側でも見る事が出来ます。鐘楼の周辺よりも一回り大きな木なのですが、まだオレンジ色が強く残っており、見頃と言うには少し早かった様です。それとは逆に、放生池周辺のもみじは早くに色付いたらしく、既に枯れ果てていました。

Syoukokuji1112158

西日を受けて輝いていたこの紅葉は山桜です。山桜は木によってばらつきがあるようですが、紅葉の美しさではもみじに負けていませんね。もう少し早い時期に来ていれば、沢山の葉が残っていてもっと綺麗だった事でしょう。ある意味、相国寺の見所の一つかも知れませんね。

2011年12月13日 (火)

京都・洛中 京都紅葉事情2011 ~御霊神社 12.10~

Goryoujinjya1112131

平成23年12月10日の御霊神社です。この日は見頃に染まった紅葉が境内を鮮やかに染めていました。

Goryoujinjya1112132

御霊神社の紅葉は、本殿裏手をコの字型に取り囲む様に広がっています。今年はどういう訳か本殿東側の塀の内側にあるもみじが先に散っており、ボリューム感に欠ける状態になっていました。

Goryoujinjya1112133

その点だけが残念だったのですが、全体として状態は良く、なかなか見応えのある紅葉でしたよ。

Goryoujinjya1112135

銀杏の黄葉も残っており、落ち葉が地面を黄色く染めていました。ギンナンも沢山落ちており、誰も拾いに来ないのが不思議なくらいでしたね。

Goryoujinjya1112136

一際鮮やかだったのが稲荷社の周辺でした。でも、まだ色付きが浅い感じだったので、もう暫くは見頃が続くのかも知れません。

Goryoujinjya1112137

この日は曇りがちで、時折雲間から薄日が差すという状況でした。その一瞬を捉えてみたのですが、逆光で見る紅葉はやはりきれいなものですね。

御霊神社を訪れる人は本当に少なく、これだけの紅葉をほとんど独り占め状態でした。おかげ様で、とても静かで充実した時間を過ごす事が出来ましたよ。

2011年12月12日 (月)

京都・洛北 京都紅葉事情2011 ~下鴨神社 12.10~

Tadasunomori1112121

平成23年12月10日の下鴨神社・糺の森です。この日は全体として色づき、見頃となりつつあるところでした。ただ、盛りというにはまだ早く、ピークを迎えるのはもう少し先になりそうでした。

Tadasunomori1112122

例えばここは馬場の南詰めなのですが、比較的紅葉が進んでいて良い感じの雰囲気は出ていますよね。でも、色づき加減は浅く、ちょっと物足りない感じです。

Tadasunomori1112123

参道の東側では何本かの銀杏が色づき、見頃になっていました。銀杏の黄葉ともみじの紅葉のコントラストが鮮やかでしたよ。

Tadasunomori1112125

また、参道の北詰めでは、みみじが黄葉していました。こんな具合に、部分的には見頃の紅葉を見ることは出来ます。

Tadasunomori1112126

ただ、まだ緑の木もそこかしこにあり、特に泉川沿いは全くと言って良いほど色づいていません。わずかにこの木がパステルカラーになっていたのと、黄葉していた木が一本あった程度かな。

Tadasunomori1112127

神社の境内では御手洗川のほとりにある銀杏の木はすでに落葉しており、寂しい景色になっています。その一方で西の鳥居にあるこのもみじは、丁度見頃に色づいていました。

Tadasunomori1112128

糺の森の見頃はこれからで、おそらくは年末まで紅葉は残ると思われます。それどころか、初詣を紅葉が出迎えてくれるかも知れませんね。ちょっと前までは異常な光景でしたけど、これからはごく普通の景色になって行くのかもという気がしています。本当に、季節感がどんどん狂わされていく一方ですよね。

2011年12月11日 (日)

京都・洛東 京都紅葉事情2011 ~真如堂 12.10~

Sinnyodou1112111

平成23年12月10日の真如堂です。この日はさすがに紅葉の盛りは過ぎてはいましたが、それでもそこかしこに見所は残っており、ゆっくりと名残の紅葉を楽しむ事が出来ました。

Sinnyodou1112112

中でも一際鮮やかだったのが山門前で、まさに旬の色合いを見せて貰えましたよ。

Sinnyodou1112113

でも、一歩引いてみるとボリューム感が減っているのが判り、見頃としてはぎりぎりのタイミングだったのかも知れません。

Sinnyodou1112115

境内で比較的見頃の紅葉が残っていたのは、吉祥院前の階段沿いでした。特に石段の登り口にある一本は綺麗な赤色に染まっており、記念写真を撮るのに順番待ちになっていましたね。

Sinnyodou1112116

こちらは参道の北側の植え込みの様子です。冒頭の南側の植え込みと同様、敷き紅葉が素晴らしく綺麗でしたよ。これぞ晩秋の風情ですよね。

Sinnyodou1112117

本堂の裏手もまた、敷き紅葉が鮮やかでした。今年は盛りの時には来る事が出来なかったのですが、この景色に出会う事が出来たのだから良しとしなければならないのでしょうね。

Sinnyodou1112118

その本堂裏は落葉が盛んでボリューム感は減りつつあったのですが、それでもまだ見頃の木が残っており、白壁との対比が鮮やかでしたよ。

Sinnyodou11121110

境内で一番の盛りだったのは、理正院前の池のほとりにあるこの木だったかも知れません。正確には喜運院前の木と言うべきなのかな。丁度見頃に染まっており、葉もほとんど散っていないという良い状態でしたね。ただ、日陰にあるせいかあまりぱっとしない印象なのが残念でした。たぶん、西日でも当たれば相当に映えると思うのですけどね、この日は曇り空だったので余計にそう思ったのでしょう。

この道沿いにはあまり人が来ないのですが、もしこれから行く予定があるのなら足を運ばれては如何でしょうか。3枚上の敷き紅葉もまた、同じ場所で見る事が出来ますよ。

2011年12月10日 (土)

京都紅葉事情2011 ~洛東・洛中 12.10~

今日は久しぶりに京都に出かける事が出来ました。名残のもみじを求めて洛東と洛中を巡って来たのですが、まだまだ見頃のところが多いですね。また、人出もそれに比例してか、結構多いのに驚きました。まだ写真の整理が追いつきませんので、とりあえずテキストにて速報をお伝えします。

1.真如堂

全体として盛りは過ぎていますが、まだ見頃の場所はいくつか残っています。

まず、山門前は今が見頃旬ですね。とても鮮やかな赤色に染まっていて、見応えがありました。

次に、参道は盛りは過ぎていますが、南側にオレンジ色の紅葉と北側に赤い紅葉が部分的に残っています。それよりも、両方の植え込みの中が敷きもみじになっていて、とても綺麗でしたよ。

また、吉祥院前の石段に、見頃の紅葉がありました。

本堂裏手はボリューム感が減って見頃を少し過ぎつつあるところですが、ここも敷き紅葉が見事でした。

後、理正院前の池のほとりにあるもみじが、一本だけですけど見頃旬でしたよ。

2.糺の森

驚いた事に、12月も10日になっているというのに、まだ見頃には至っていない様です。結構あちこちで色付いていはいるのですけどね、まだ色付きの浅い木が多く、ピークを迎えるのはもう少し先になりそうです。そんな中で、比較的綺麗なのは馬場の南詰めと参道沿いだったかな。あと、神社の西の鳥居脇にあるもみじは、鮮やかに色付いていましたね。

なにしろ、まだ緑の木がそこかしこにあって、この分だと新年になっても紅葉が残っているというパターンになりそうです。特に遅いのが泉川沿いで、ほとんどの木が色付いていませんでした。

3.相国寺

鐘楼南側にある一群のもみじが見頃を迎えています。とても深い赤色に染まっていて綺麗でしたよ。また、法堂南側のもみじも色付いていましたね。今年は放生池北側のもみじの方が先に色付いたらしく、既に散ってしまった後でした。

4.阿弥陀寺

お地蔵様の背後のもみじは、色付いてはいるのですが、縮れた葉が多く外れ年と言わざるを得ない状況です。ただ、木の下部の方3分1程度は、まずまずの色に染まっていました。

5.慈福寺

わずかに葉を残している程度で、ほぼ終了しています。

6.御霊神社

本殿裏側の木が既に散っているのでボリューム感に欠けるのですが、他の紅葉は綺麗だったので見頃が続いていると言っても良いのでしょうね。特に稲荷社周辺の紅葉は見頃旬でしたよ。

7.建仁寺

境内しか見ていないのですが、ここもまだ見頃が続いていると言っても良いと思います。ただし、そこかしこで修復工事が行われており、絵になる写真は撮りにくいですね。

8.八坂の塔

まだ紅葉は残ってるのですが木の上半分は散っており、見頃は過ぎています。近くの高台寺山門付近では、トウカエデや銀杏のが綺麗に色付いていましたよ。

2011年12月 9日 (金)

平清盛 ~平重盛屋敷跡 小松谷 正林寺~

清盛の嫡男として知られるのが重盛です。武勇に優れながらも温厚にして周囲に対する気配りが効き、清盛の後継者として大いに期待されていました。しかし、一門に暗雲が立ちこめ始めた頃に清盛に先立って亡くなり、その事が平家滅亡を早めたとも言われます。小松谷に住んでいた事から小松殿と呼ばれたり、その家系を指して小松一門と呼ぶ事がありますね。

ところが調べていくと、この重盛は必ずしも清盛の後継者としての地位は盤石ではなかった様ですね。その原因はと言うと母にありました。重盛を生んだのは高階基章の女とされるのですが、その実家はおよそ有力とは言い難い家柄でした。そして、その母が生きていればともかく早くに亡くなったため、清盛の後室は後妻の時子によって仕切られる事になります。

清盛によって嫡男の地位は与えやられたものの、一門の主導権は時子が握っていたのですね。特に子に対する母親の影響力は大きく、その実家の実力もまた子の出世のためには大事な要素でした。重盛の場合は実母の実家からの援助はほとんど見込めず、継子である彼は一門の中ではやや浮いた存在だった様ですね。小松一門という呼び方には、先妻の子の系統という意味合いも含まれていた様です。

それでも、その実力と人望で自らの地位を築いた重盛でしたが、やがて挫折の時を迎えます。それが鹿ヶ谷の陰謀でした。この事件は後白河法皇の近臣が平家の勢力を除こうと画策したとされますが、その賛同者の中に藤原成親が居ました。この成親は重盛の妻の兄にあたる人だったのですね。重盛は義兄を助けるべく奔走したのですが、その甲斐むなしく成親は流刑に処せられてしまいます。これに対して、重盛は左大将を辞任して抗議の意を表したのですが、追い打ちを掛けるように成親は流刑先で殺害されてしまいます。一連の処分は清盛から出されており、重盛は嫡男としてこれを阻止しようと計ったのですが、ことごとくが無視されてしまい、重盛の面目は潰され、政治的地位も失われてしまったのです。

この事件以降、重盛は政治の表舞台に出る事は無くなり、やがて病を得て亡くなってしまいました。代わって一門の嫡流となったのは、重盛の子である維盛ではなく異母弟の宗盛でした。つまり、清盛の後妻である時子の子が主流となったのですね。これ以後は、小松一門とは、平家の中でも傍系に置かれた人々という意味合いを持つようになります。一枚岩の様に見える平家ですが、その内実は複雑な色合いを持っていたのですね。

その重盛が邸宅を構えていた小松谷は、今で言う西大谷の南、馬町から東側一帯がそれにあたります。庭園に48の灯籠が据えられていた事から灯籠大臣とも呼ばれたとも言われており、相当に広大な邸宅であっただろうと想像出来ますね。その邸宅跡と言われているのが正林寺で、浄土宗の始祖である法然の霊跡の一つとして知られます。

正林寺に行くと、門柱には小松谷と書かれた木札が掛けられており、また門前には小松谷御坊と刻まれた石碑が建てられています。ここが小松谷と呼ばれる地である事を示している訳ですが、実はそれ以外には重盛邸があった事を示すものは何も残されていません。

一歩山門を潜るとそこは保育園になっており、およそ観光目的で行く場所ではないですね。また、保育園と寺の区別があいまいで、カメラを持った男が一人でウロウロしづらい雰囲気でもあるのですよ。なので、あまり境内を知らないのですが、ネットで調べてみると本堂に参拝したり出来る様ですね。

わずかに重盛との繋がりを感じさせるものとして、阿弥陀経石という一種の石仏があるそうです。これは、かつて重盛が中国の阿育王寺という寺に寄進を行った返礼としてかの国から送られてきたものなのだそうですね。もっとも、ここにあるのは江戸時代に刻まれた模刻で、オリジナルは九州の宗像神社にあるそうです。

おそらくは、ここが重盛の古跡である事を示すために据えられたものではないかと思われますが、唯一と言って良い小松殿の存在を彷彿とさせる痕跡ではありますね。もっとも、私もまだ実物を見た事が無いので、機会があれば確認してきたいと思っているところです。

2011年12月 8日 (木)

平清盛 ~額打論 清水寺炎上~

永万元年7月27日、二条天皇が崩御されます。二条天皇については昨日少し触れましたが、後白河法皇の第一皇子で、六条天皇の父でした。後白河法皇とは実の親子ではあったものの折り合いが悪く、常に対立関係にあったと言われます。非常に優れた人物であったとされ、後白河院政の影響を排除して天皇親政を実現させようとしていました。そのために清盛を頼りとし、一時は法皇を第一線から退ける事に成功するのですが、やがて病に倒れて志し半ばにして身罷ったのでした。その死の前に、満一歳に満たない六条帝に譲位したのは昨日書いたとおりです。

さて、二条帝が崩御された後、その葬儀は香隆寺の艮、蓮臺野の奧、船岡山にて行われました。この頃の天皇の葬儀においては南都北嶺の各寺が墓所の周囲に額を打つという習慣があり、この時も各寺から衆人が集まっていました。この額打ちには決まった作法があり、東大寺、興福寺、延暦寺、三井寺の順に行う事なっていました。ところがこの時、何を思ったのか延暦寺の衆人が興福寺の前に額を打ってしまったのです。南都の衆は口々に罵り、あげくは延暦寺の額をたたき落として散々に割り砕いてしまいます。この時は、延暦寺の衆は特に抗議もしなかったのですが、その実恨みは深く抱いていたのでした。

果たして、29日になると叡山の大衆が退去して下山するという噂が走ります。朝廷では検非違使たちを坂本に派遣してこれを阻止しようとしたのですが、大衆は苦もなくこれを排除し、洛中に乱入しました。この時、どういう訳か、後白河法皇が大衆に命じて平家を討とうとしているのだという噂が流れます。平家は俄に緊張し、六波羅に軍勢を集めて警戒に当たりました。法皇もまた驚いて、身に覚えの無い事と証明するためでしょう、六波羅に入られます。

そうした政治的緊張を孕む中、叡山の大衆が向かったのは清水寺でした。清水寺は法相宗(現在は北法相宗として独立)に属しており、興福寺の末寺だったのですね。いわば平安京における南都の出城の様な存在だったのですが、叡山の大衆は先日の額打ちの時に受けた辱めに対する報復として、清水寺を襲撃したのです。

大衆の乱暴狼藉は凄まじく、一宇の僧坊も残さない程の徹底的な破壊が行われました。そしてその焼け跡には、「観音火坑変池はいかに(観音は燃えたぎる火の穴も池に変えるという功徳があるというが、この様はどうした事か)」という札が立てられていました。その翌日には、「歴劫不思議力及ばず(観音の功徳は人智ではかれるものではない) 」という札が返されていました。

大衆が叡山に帰ったため、法皇もまた院の御所にお帰りになりました。この時は重盛が送って行ったのですが、清盛は噂があった事を用心して同行しませんでした。帰って来た重盛に清盛は、「法皇の御幸があったとは恐れ多い事だ。しかし、普段から平家倒滅を口にされていたからこそ、こうした噂も立ったのだろう。決して心を許してはならない。」と告げます。かねて清盛と法皇の仲が悪くなってきている事を苦にしている重盛は、「決してその様な事を口にしてはならない。法皇の意に沿うように、また人に情けを施すようにしていけば、きっと神明の加護も下る事でしょう。」と諌めました。これを聞いた清盛は「なるほど重盛は大物だな。」と苦笑するのでした。

一方の法皇は、なぜあんな噂が立ったのかとしきりに不思議がっておられました。すると切れ者として知られた西光法師が、「きっと平家の横暴を快く思わぬ天の声というものでしょう。」と答えます。これを聞いた人々は壁に耳ありという、恐ろしい事だと話し合いました。

以上が平家物語に記された額打論ですが、事件そのものは確かにあった史実です。額を打つ順番を巡って大騒動を起こすなど如何にも子供じみているのですが、天皇の葬儀の場の出来事であった事を考えるとなおさらですね。それほどに、当時の南都北嶺の大衆は驕り高ぶっていたという事でしょうか。そして、噂に振り回される平家と法皇もまた、大衆の力を恐れていたという事にもなるのでしょう。

平家物語には書かれていないのですが、この後も事件の余波は続いており、南都の大衆が退去して押し寄せ、天台座主の流罪を主張するという騒動が起こっています。また、叡山側は祇園社が報復の対象とされる事を恐れ、多数の僧兵を入れて終夜気勢を上げたと言われます。本来国家鎮護にあたるべき寺社がこの有様では、まさに末法の世と呼ぶに相応しい状況だったと言えるでしょう。

今は観光地として平和の象徴の様になっている清水寺ですが、こうした騒乱に巻き込まれた歴史もあるという事は知っておく必要があるのでしょうね。業火に包まれた清水寺など想像もしたくないのですけど、846年前にはこの恐るべき光景が確かにあったのでした。

2011年12月 7日 (水)

平清盛 ~小督出家の地 清閑寺~

平家物語には、本筋とはあまり関係の無いサイドストーリーがいくつかあります。その中で悲恋として伝わるのが小督と高倉天皇の恋物語ですね。

高倉天皇は後白河法皇の第7皇子にして清盛の義理の甥でした。この頃の皇統は政治的駆け引きのせいで乱脈を極めており、先代は甥にあたる六条天皇で、数え年2歳(満年齢で7ヶ月)の時に即位し、6歳にして退位するという異常さでした。その後を叔父の高倉天皇が継いだ訳ですが、それでもわずかに8歳で帝位に就いています。このあたりは二条天皇と後白河法皇、そして清盛の主導権争いが関係しているのですが、こうした力関係の中で擁立された天皇である事を覚えておいて下さい。

さて、高倉天皇の中宮として配されたのは、清盛の娘である徳子でした。後に建礼門院となる徳子は、天皇の従姉妹でもあったのですね。この徳子が使っていた女童に、葵前という少女が居ました。天皇はこの葵前がお気に入りで、自分の侍女であるかの様に側に召されていました。この様子を見て人々は、やがて葵前が后に立つに違いないと噂し、葵女御と呼ぶようになります。この事を伝え聞いた天皇は、葵前を遠ざける様になりました。

事情を知った時の関白は、葵前を自分の猶子にするので近くに召されよと薦めましたが、天皇は位を下りた後ならその様な事も出来るだろう、しかし在位中では後世の誹りを受ける事になると言って、これを退けます。

その後、天皇は薄い緑色の紙に、古歌を思い出しつつ、

しのぶれど色に出にけり我恋は、物や思ふと人のとふまで

と認められました。この手習いを冷泉少將隆房が貰い受けて葵前に見せたところ、顔を赤らめて気分が悪くなりましたと言って里に下がってしまいます。そして、5、6日臥せった後に亡くなってしまったのでした。

ここまでが話の前段ですね。前提を知らずに読んでいると、天皇が年端も行かない少女に恋をするなんてと思ってしまいますが、まだ10代前半の年頃であった事を考えると何とも切ない話と思えてきます。

さて、葵前を失った天皇は、毎日を沈んだ気持ちで過ごされていました。これを見かねた徳子が、小督という女房を天皇の下に参らせます。小督は櫻町中納言重教卿の娘で、宮中一の美女との声が高く、また琴の名手としても知られていました。

ところが、小督は隆房卿の想い人でもありました。小督は泣く泣く隆房との関係を断ち切って主上の下に上がったのですが、隆房は思い切る事が出来ませんでした。そこで、

思かね心は空にみちのくの、ちかの鹽釜近きかひなし

という歌を認めて、小督の居る御簾の内に投げ入れます。しかし、小督は後ろめたくはあったものの、主上のためだと思って女童に命じて、中も見ずに文を外に放り出させました。これを見た隆房は、恨みにこそ思ったけれども、誰かに見られてはまずいと思って文を拾って一人立ち返り、

玉章を今は手にだにとらじとや、さこそ心に思ひすつとも

と歌い、いっそ死んでしまおうと考えます。

この隆房もまた、清盛の娘婿でした。事情を知った清盛は、小督一人に婿二人を取られてしまうと激怒し、いっそ捕らえて殺してしまえと命じます。これを漏れ聞いた小督は、私が居ては主上のためにならないと考え、姿を消してしまいます。葵前に続いて小督まで失った天皇は、前にも増して嘆き悲しみました。しかし、清盛はこれも小督のせいだと言って、天皇から女房たちを遠ざけ、臣下の者も近づけない様にしてしまいます。

8月10日の頃、この日も天皇は涙ながらに月を見ていました。そして夜が更けて来た頃、誰かあると呼ばわります。その日、宿直だった彈正少弼仲國が御前にまかり出ると、天皇から小督の行方を知らないかと尋ねられます。仲國が知らないと答えると、天皇は嵯峨野の辺りに隠れ住んでいると伝え聞いた、その家の主人の名は判らないがどうか探し出して来て欲しいと涙を流して頼まれます。

仲國はつらつらと考えました。小督は琴の名手だから、こんな月夜の日には、主上を想って琴を弾いているかも知れない。嵯峨野の辺りで琴を弾く者はそう多く無いだろうから、琴の音を頼りに訪ねてみよう。そして、何も持たずに人の家を訪ねていく訳にもいかないからと言って、天皇に一筆書いてもらう事にしました。天皇はもっともな事と一筆を認め、寮の馬を使って行けと命じます。

さて、仲國は馬に乗って嵯峨野まで来てみたものの、琴の音はどこからも聞こえませんでした。もしかしたら、どこかの寺に参っているかも知れないと思って釈迦堂などを見て回ったのですが、小督らしき人は見あたりません。どうしたものかと思いながら馬を進めていくと、いつしか法輪寺の近くにまで来ていました。すると、亀山の近くからかすかに琴の音が聞こえて来るではありませんか。良く耳を澄ませていると、それは妻が夫の事を想いながら詠うという想夫恋という曲でした。仲國はこれは小督に間違いないと思い、その琴の音が聞こえる家を訪ねていきます。

仲國は門を叩き、内裏よりの使いで参ったと声高に呼ばわります。琴の音は止み、誰も答える人は無かったのですが、やがて一人の女房が現れました。彼女は門を細目に開けて顔を覗かせ、家を間違っているのではないか、ここには内裏からの使いを受ける様な者は居ないと言います。仲國は門を閉められては面倒と思い、無理矢理押し入ってしまいました。そして、妻戸の内に向かって、どうしてこの様な所に居られるのか、主上は嘆き悲しんで、明日の命をも知れないほど弱っておられると語りかけます。さらに、自分が天皇の使いである証拠として、書き付けを女房に手渡しました。小督が文を開いて見ると、紛れもなく主上の筆跡でした。小督は返書を認め、女房装束を添えて扉の外に差し出します。仲國は女房装束を肩に担ぎながら、なお直に返事が頂けないのは残念だと呼ばわります。小督はそれももっともと思い、これまでのいきさつを語り始めました。

清盛怖さの一心で内裏を抜け出し、ここまで逃げてきた。この様な荒れ家では琴も弾く事はないだろうと思っていたが、明日よりは大原の奥に引きこもると決めると名残惜しくなり、主上を想って弾いてみた。まさか誰も聞いていないだろうと思っていたのだが、案に相違して簡単に見つけられてしまった。

仲國は涙ながらにこれを聞いていたのですが、小督が大原に引きこもってしまったのでは主上の嘆きは収まる事がなくなってしまうと考え、出立はしばし待って欲しいと言い、家来を見張りに残した上で内裏へととって返します。

内裏に着いたのは明け方でした。天皇は仲國の帰りを寝ないでずっと待っており、小督の返書を見るや、今夜にでも連れて帰って欲しいと仲國に頼みます。仲國は清盛が怖くもあったのですが、これも天皇の命令であるからと思い、牛車や雑色を整えて小督を迎えるために嵯峨野へと向かいました。

内裏に戻った小督は、密かに隠れ住みながら天皇と睦み合い、やがて一女を設けます。この姫は、後に範子内親王となったのですが、この事が清盛に知られてしまいます。怒った清盛は小督を捕らえ、無理矢理に尼にして放逐してしまいます。この時、小督は23歳、やつれ果てて嵯峨野に隠れ住んだと伝わります。

天皇はこの様な辛い日々が続いたためやがて衰弱し、若くして亡くなってしまわれたのでした。

以上が平家物語で描かれた小督の悲恋物語です。ここでは小督が出家した場所は特定されていないのですが、清閑寺に伝わっている寺伝に拠ればそれは同寺の事で、小督はその後もこの寺に住み続け、そのまま亡くなったとの事です。さらにこの話には後日談があって、高倉上皇は亡くなる時に、死んだ後は小督が居る清閑寺の側に葬って欲しいと遺言されたため、今も清閑寺陵に眠っておられると伝わります。

小督は実在の人物で、範子内親王を産んだのも事実です。その娘を一人残して内裏を去ったのも事実で、恐らくは清盛の逆鱗に触れたのではないかと言われています。ただし、その理由は明らかになっておらず、平家物語では清盛が悪人として描かれ過ぎているという気もしますね。

また、高倉天皇は21歳で亡くなっていますが、それほど軟弱な人だったかと言うと、そうでもない様ですね。高倉天皇を擁立したのは前述のとおり後白河法皇と清盛でしたが、時と共に平家にとって重要な存在へと変わっていきました。つまり、清盛の血を継ぐ安徳天皇こそ平氏にとっての本命でしたが、即位したのはわずか2歳の時で、天皇に代わって実際に政務を執る人物が必要でした。その人物として父である高倉上皇が期待されたのですね。

高倉上皇は平家との関係が良好で、後白河法皇の影響を排除して自らが政務を執る意欲に溢れていたと言います。安徳天皇が即位したのは、清盛が後白河院政を覆すために起こした政変によってであり、この時法皇は平家によって幽閉されています。つまり、高倉上皇にとっては好機到来だった訳であり、清盛も高倉上皇に期待する所が大きかったと言われますが、残念な事に志を遂げる前に病で亡くなってしまったのですね。清盛は、やむなく後白河法皇の幽閉を解き、その院政の復活を認めざるを得なくなったのです。

こうしてみると、病弱ではあったものの、小督に去られたからと言って嘆き死んでしまうような人とは思えないですね。物語としては小督の話は面白いけれど、かなり脚色が入っているのかなという気がしています。

なお、小督が晩年を過ごしたという清閑寺には彼女の供養塔が残されていますが、最後の地は嵯峨野という説も有力ですね。また、嵯峨野には、小督にちなむ史跡が残されており、琴聴橋や彼女の墓があるとの事です。実はまだそれらの史跡は確認できていなくて、今度嵯峨野に行った時には、是非探して来ようと思っているところです。

2011年12月 6日 (火)

平清盛 ~平康頼供養塔 双林寺~

祇園女御塚跡のすぐ近く、音楽堂の東側に双林寺という寺があります。創建は805年(延暦24年)に遡り、伝教大師の開創と伝えられる古寺ですね。今は本堂と飛び地境内の西行庵しかないという小さな寺ですが、かつては数万坪の境内に17の子院を有するという大寺でした。祇園女御の在世当時にもあった事になり、もしかしたら女御が住んでいたのは双林寺の境内の一角だったんじゃないかという気もしますね。

この寺もまた平家物語に縁があり、史跡の一つに数えられます。その縁とは平康頼と関係があります。

平康頼(生没年不詳)
後白河法皇に仕えた北面の武士。元は中原氏の出で、平保盛に仕えていた事から平姓を賜ったと言われています。尾張の国の目代を勤めていた時、源義朝の墓が荒れ放題であった事を哀れみ、これを整備しただけでなく、後の管理のためにと土地を寄進したという事がありました。義朝は康頼にとっては敵将であったのですが、この事は情けを知る武将であると彼の評判を高め、後白河院の近習に取り立てられるきっかけとなります。そして、院の引きで検非違使左衛門尉を勤めた事から、「平判官」とも呼ばれました。

ところが、順調だった彼の人生にも、波乱の時が訪れます。後白河法皇の近臣が画策したという鹿ヶ谷の陰謀に加担し、捕らえられてしまったのですね。彼は、俊寛・藤原成経と共に鬼界島に流されました。この途中、周防で出家して性照と号しています。

鬼界島では、成経と共に熊野三所権現を勧請して帰洛を願いました。また、京に住んでいる老母を偲んで

「思いやれしばしと思ふ旅だにも なほふるさとは恋しきものを」

と、

「さつまがた沖の小嶋に我ありと 親には告げよ 八重の潮風」

という2首の歌を千本の卒塔婆に書き、都に届けと祈念して海に流したところ、その内の1本が安芸の厳島神社へ流れ着きました。たまたま厳島へ来ていた康頼と親しい僧がこれを拾って都へ持ち帰り、康頼の母の下に届けてやります。この話が法皇さらには清盛の知るところともなり、哀れを誘いました。

翌年、懐妊した建礼門院の健康が優れず、これは鹿ヶ谷の変で処罰された人々の恨みによるものかも知れないと考えられました。流人もまた生き霊となって祟りをなすと考えられていたのですね。このため大赦が行われる事となり、鬼界島の康頼と成経もまた呼び戻される事となります。しかし、一緒に流された俊寛は罪が深いとして、ただ一人許される事はありませんでした。

長々と書いてきましたが、双林寺との縁はここから始まります。康頼は、都に帰った後は双林寺にあった自分の別荘に住み、仏教説話集「宝物集」を編纂したと平家物語は記しているのですね。

平家が滅亡した後、康頼は源頼朝の推挙により阿波麻殖保の保司に補されました。これは、かつて康頼が義朝の墓を弔った事に対する頼朝の返礼で、かつての善行によって彼は再び官途に就く事が出来たのですね。その後は阿波に住み続けたのですが、その死後に遺骨を分骨し、双林寺にも埋葬されたと言われます。

この康頼の別荘跡や墓は現存していませんが、後代に建てられた供養塔は残されています。本堂の西側に3基の石塔が並んでいるのがそれですね。双林寺のホームページに依れば、この寺と縁の深い西行法師、頓阿法師それに康頼の供養塔であり、好事家によって建てられたものではないかとありますね。つまり、史跡としての価値は低いという事なのでしょうけど、例えそうだとしてもここに康頼が居たという事を知る手かがりとはなります。

今度のドラマで康頼が登場するかどうかは判りませんが、こうした知られざる史跡を訪ねてみるのも面白いと思いますよ。


2011年12月 5日 (月)

平清盛 ~祇園闘乱事件 八坂神社~

昨日は清盛生誕に関わる忠盛灯籠を紹介したところですが、八坂神社は忠盛親子にとってもう一つの大きな出来事に関わりを持っています。それが祇園闘乱事件で、順調に出世の道を歩んできた清盛が、初めて味わう蹉跌でもありました。

事件が起きたのは久安3年(11417年)6月15日の事で、この時清盛は30歳、前年に正4位下に叙せられ、安芸守に任じられたばかりでした。(ただし、安芸守就任については異説もあります。)この日は祇園社の御霊会の翌日にあたり、朝廷や摂関家を初めとして、広く諸家から奉納祈願が行われる日でした。清盛もまた宿願成就を祈願するため、田楽を奉納すべく、郎党を率いて祇園社を訪れていたのです。

ところが、清盛の郎党が武装していた事を祇園社の社人が咎めた事から小競り合いが発生し、郎党が放った矢が神殿や神官に命中してしまいます。その場はひとしきり揉めただけで治まったのですが、24日に延暦寺がこの事件について朝廷に訴え出た事で事態は急展開を始めます。

このあたり、なぜ延暦寺が出て来るのかが分かり難いのですが、祇園社はこの地にあった観慶寺(または祇園寺)の天神堂から始まっており、神社というより寺として認識されていたのですね。そして、初めは南都の興福寺に属し、この頃には延暦寺の末寺として位置付けられていたのです。

忠盛は訴えが出された事を知るや、下手人7人を検非違使に差し出し、事態の収集を計りました。しかし、延暦寺の大衆は収まらず、日枝大社の御輿を担ぎ出して忠盛、清盛親子の流罪を求めて強訴する勢いを示します。この時は鳥羽法皇の治世だったのですが、法皇は検非違使や軍勢を派遣して大衆の乱入を阻止しました。そして、その一方で使者を立て、訴訟は道理に任せて裁許する旨を通知したため、大衆は一旦比叡山に引き上げます。

その後、法皇は関係する公卿を集めて協議し、下手人の尋問や現地の調査などを行いましたが、容易に結論は出ませんでした。そのうちに10日が過ぎ、怒った大衆は再び洛中に乱入する勢いを示します。これに対して法皇は、忠盛を除く源氏、平氏の軍勢に命じて比叡山の麓を固めさせ、防御する態勢を整えました。この時、出陣する武士達はそれぞれの家に伝わる武具を携え、綺羅を飾って法皇の閲兵を受けたと伝わります。あたかも、武士の時代がすぐそこまで来ている事を暗示するかの様な出来事ですね。この出兵は交代で行われ、半月に及びました。

裁断が下ったのは7月27日の事で、贖銅30斤という罰金刑が科せられただけで済まされています。法皇は大衆が要求した流罪をはねつけたのですね。ここで再び揉めそうなところなのですが、延暦寺では事件の処理を巡って内紛が生じ、再度の強訴に及ぶどころではなくなったため、いつしか事態は収束に向かったのでした。

この事件は、延暦寺に対して法皇が強気に出たという希有の例で、忠盛親子に対する信任の厚さが窺えると言われます。忠盛たちは白河法皇に続いて鳥羽法皇にも近侍して身分を上昇させ、法皇もまたその財力や武力を利用するという相互依存の関係が成り立っていたのですね。平氏は鳥羽法皇にとって、最も信頼のおける武家の一つだったのでした。

しかし、清盛にとっては、この事件は一時的にせよ、彼を主流の座から押しやる事になってしまいます。事件後も鳥羽法皇の近臣としての立場は変わらなかったのですが、弟である家盛が急速に頭角を現してきたのです。家盛は忠盛の後妻の子で、清盛より5歳の年下でした。事件後は清盛に代わって朝廷から重んじられる様になり、官位もまた従4位下と清盛と並ぶ勢いを示すようになったのです。

このまま行けば清盛の嫡流の座は家盛に奪われるのではないかとも思われたのですが、その家盛が久安5年(1149年)に急死してしまいます。この時も清盛に代わって、鳥羽法皇の熊野詣に同行する途中の出来事でした。家盛は病を押して同行していたとされ、法皇の信任を守ろうとして裏目に出たのですね。

この家盛の死によって、清盛に再び光が当たる事となります。事件の後およそ1年半の間は、清盛が味わった数少ない挫折の時でした。この後は一族の内に清盛の立場を脅かす者は居なくなり、仁平3年(1153年)には忠盛の死と共に平氏一門の棟梁となるに至っています。

もし、家盛がそのまま存命していたらどうなっていたのでしょうね。清盛は存在感を無くしたまま、歴史の中に埋もれてしまったのでしょうか。あるいは平家は二つに割れて、源氏の様に一族が相争う様になっていたのか。そう考えると、この祇園闘乱事件は、もっと大きな意味を持つ可能性のあった出来事だったのかも知れません。

2011年12月 4日 (日)

平清盛 ~八坂神社 忠盛灯籠~

昨日の記事で少し紹介したのですが、平家物語には忠盛が祇園女御を賜るきっかけとなった事件が記されています。

5月20日過ぎの五月雨の降る夜、白河法皇が殿上人二人と北面の武士数人を供として、お忍びで祇園女御の下に通おうとしていました。暗闇の中、女御の住まいの近くのお堂まで来た時、その側に光るものが現れます。その首は銀を磨き上げたように輝き、片手には槌の様なものを持ち、もう片方の手には光るものを持っていました。法皇と近臣たちは、あれはきっと本当の鬼だろう、手にしているのは打ち手の小槌に違いない、どうしたものかと騒ぎます。忠盛は北面の武士としてこの場に居合わせたのですが、法皇が誰かあの者を射殺せと命じられたのを聞き、畏まって進み出ます。

忠盛は内心、これはそれほど獰猛なものには見えず、きっと狐狸の類だろうと見当を付けていました。そして、これを射殺すのは思慮が足りない、それよりも生け捕りにしてやろうと考えながら近寄ります。怪しのものは二、三度明滅を繰り返しますが、忠盛は走り寄ってこれに組み付きました。組み付かれた怪しのものは、これはどうした事だと叫び声を上げます。その声を聞き、法皇たちはこれは変化のものではなく人だと気付きます。そして、灯りで照らし出したところ、60歳くらいの法師でした。

例えて言えば院の御所に仕える承仕法師(雑用を勤める法体の者)の様な者で、灯明を灯そうとして片手に油を入れた手瓶を持ち、もう片方の手には土器に火を入れて持っていました。そして、法師は雨がよく降っているので、濡れないようにと頭に小麦の藁を結んだものを笠のようにして被っていたのですが、この藁が灯明に照らされて針の様に輝いて見えたのでした。

法皇は、これを射殺しあるいは斬り殺していたのでは、如何にも思慮が足りないという誹りを受けるところであった、忠盛の振る舞いこそ思慮が深いというべきで、弓矢を取るものは優れていると言い、その恩賞として最愛の祇園女御を忠盛に与えられたのでした。

この時、女御は懐妊しており、法皇は、生まれてくる子が女なら自分が引き取る、男なら忠盛の子として弓矢を取る者に育てよと言い渡します。そして生まれたのは男の子であり、忠盛の子として育てられ、後に清盛となったのでした。

以上が平家物語の記述なのですが、改めて読むと、取り立てて武勇伝と言うほどでもない出来事ですよね。この程度の事で、法皇が最愛の祇園女御を手放すというのはやはり考えにくい事だと思われます。まあ、当時は鬼の存在が本気で信じられており、それに臆する事なく立ち向かうというのは相当な勇気が必要であったのは事実でしょうけどね。

ここにはお堂としか記されていないのですが、現在の八坂神社にはこの時の舞台となった場所として、忠盛灯籠が残されています。本殿の東側、悪王子社の隣にあるのですが、以前はもっと西よりにありました。史跡を移動させるのはどうかとも思えるのですが、実は伝承の域を出ない存在の様ですね。というのは、この灯籠はその形式から見て平安時代よりもずっと後の時代のものらしく、とても当時からあった灯籠とは考えられないのだそうです。この話の信憑性そのものを疑う向きもあるのですが、それを証拠立てる灯籠もまた、後の時代に比定されたものだった様です。

とは言え、平家物語の一場面を彷彿させてくれるには十分であり、暗がりの中の法師を見て物の怪とおののく法皇や、沈着に行動した忠盛の姿を思い描いてみるのも面白いと思いますよ。特に雨の日の夜は良いかもだけど、さすがにそれはちょっと怖いかも知れませんね。

2011年12月 3日 (土)

平清盛 ~祇園女御塚跡~

来年の大河ドラマは平清盛を主人公して描かれます。清盛が活躍した舞台は主として京都であり、縁の地も数多く残されています。当ブログではドラマの進行に合わせてレビューを掲載する予定ですが、それと平行して史跡の紹介も行っていこうと思っています。今回はその先取りとして、いくつかの史跡をアップして行く事とします。まずは祇園女御塚跡の紹介から始めましょうか。

祇園女御とは、平家物語において清盛の母とされている女性の事です。実在の人物とされますが、非情に謎が多く、その人物像については現在でも諸説が入り乱れているのが実情です。

まず、その読み方からしていくつかあり、「ぎおんにょご」、「ぎおんにょうご」、「ぎおんのにょご」、「ぎおんのにょうご」など資料によって様々ですね。ドラマでは「ぎおんにょうご」が採用されています。

白川法皇の晩年の想い人であった事は確かですが、その出自については諸説があり、町家の水汲み女説、皇后に仕えていた女性とする説、源仲宗の妻とする説などが主なところですね。ドラマでは白拍子の出身という設定になる様ですが、いずれにしても正式な女御の宣旨を受けていない事から出自が低かった事は確かな様です。

類い希な美人であったと言われ、白川法皇の寵愛を一身に集めていたとされます。その寵愛が彼女に権勢を与える事となり、法皇の死後もなお朝廷に対する影響力を持っていました。清盛の他に待賢門院(鳥羽天皇の中宮。崇徳天皇や後白河天皇の母。)を養っていた事でも知られています。

祇園女御と平氏の関係は古く、清盛の祖父である正盛の代から仕えていました。正盛は女御の世話で各地の受領を重ね、後の平氏の勢力の基盤となる財を蓄える事が出来たと言われます。その子である忠盛もまた父に引き続いて女御に仕え、密接な関係を築いて行きました。

平家物語においては、女御の下に通う白河法皇の供をしていた忠盛が、夜の祇園社で見かけた怪異の者を実は蓑を被った社人であると見破ったとあります。法皇は忠盛の沈着さを褒め、その褒美として女御を下賜されました。そして、その時女御は懐妊しており、生まれて来る子が男なら忠盛の子として育て、女なら法皇が引き取ると約束します。こうして生まれたのが清盛であると言うのですね。

この物語にある様に、女御が忠盛の妻となったかどうかについては意見が分かれている様です。話のストーリーはともかくとして下賜は事実で正妻となったと見る説と、父の代から仕えていた女性を妻とするなど有り得ないとする説とがあり、どちらかというと後者の方が有力である様ですね。

では、忠盛の妻ではなかったとした場合、清盛の母は誰かとなるのですが、女御の妹であるとする説が有力です。近江の「胡宮神社文書」という資料があるのですが、そこには女御の妹もまた白川法皇の寵愛を受けており、その懐妊が判った後に忠盛へ下賜され、やがて清盛を産んだと記されています。この女性が清盛3歳の時に亡くなり、哀れに思った女御が甥である清盛を猶子として慈しんだのではないかと考えられているのですね。

ただ、「胡宮神社文書」は鎌倉時代以降に書かれたものであり、その記述は平家物語の影響を受けていると疑問視する向きもあって、必ずしもこれが正しいとは言い切れない様です。

忠盛に早世した正妻が居た事は記録にあり、亡くなったのは清盛が3歳の時でした。仙院の辺りに伺候していた女性とあるのですが、この仙院とは上皇又は法皇の御所の事を指します。この女性を祇園女御と見るか、その妹と見るか、また全くの別人と見るかで結論が変わってくる訳ですが、いずれにしても清盛が法皇の落胤であるという可能性はついて回る事になります。この女性が女御やその妹ではなかったとしても、法皇の側に仕えていた事が確かである以上、お手つきの女性を下賜されたという可能性は否定できず、その事実が形を変えて平家物語に反映されたとも考えられる訳ですからね。

ドラマではこの落胤説を採っていますが、無論その反対意見も多くあって、どちらが正しいかは判らないというのが現状です。

元に戻って、祇園女御が実母でないとした場合になりますが、猶子というのは名目上の親子であり、必ずしも手元に引き取って育てた訳では無い様です。経済的な援助を与えたり、あるいは官途に就く時に口利きをしてやったりするという関係だった様ですね。清盛は若くして官途に就き、その出世が早い事で知られているのですが、そこには祇園女御のバックアップがあったと考える説が有力です。ドラマもこの線に沿って描かれる様ですね。

さて、その祇園女御の史跡ですが、大雲院の北隣、音楽堂の西にあり、今は祇園寺という小さな寺になっています。この寺と女御がどいう関係になるのか良く判らないのですが、数年前まではここに祇園女御塚と呼ばれる供養塔がありました。女御の住居跡と伝わり、小さな阿弥陀堂がその前にあったのを覚えています。ここには恐ろしい伝説があり、この塚にある物一切に触れると大変な不幸が訪れると言うのですね。女御は怨霊でも何でも無いのですが、こうした伝説があったのはなぜなのでしょう。石塔の背後には芭蕉が植えられていたのですが、その大きな葉が不気味さに一層の拍車をかけていましたっけ。それでも世話をする人はちゃんと居て、定期的に草は刈られていたようです。

それが、突然工事が始まって今の寺になったのですが、その間の経緯は判りません。寺の人に聞こうにも、いつも閉まっている感じなのですよ。来年は注目される場所であり、ちゃんとした説明が欲しいところではありますね。(追記:平成23年の年末に現地を確認して来たところ、名称が祇園堂に変更となり、さらに供養塔も帰って来ていました。詳細は別記事に記載していますので、参照して下さい。)


2011年12月 2日 (金)

京都の散歩道 紅葉案内 洛中編

これまでは主として郊外の紅葉の名所を紹介して来ましたが、町中にも数多くのポイントがあります。そのほとんどが12月に入ってから見頃となる場所なので、これからでもまだ間に合うと思いますよ。

ただ、範囲が広いので、これまでの散歩コースという形でまとめるのは難しいですね。自転車に乗ればそれこそ丁度良い距離になるのですが、説明が繁多になにるので、ここでは各ポイントの場所だけを示す事とします。

1.下鴨神社

下鴨神社のある糺の森は、京都で最も遅く紅葉するスポットの一つです。見頃になるのはまさにこれからで、12月中頃まで盛りは続くと思われます。年によっては年末はおろか、年明けまで紅葉が残っていたなんて事もありましたね。

何しろ広いので見所は多く、参道沿い、泉川沿い、瀬見の小川沿い、馬場の南詰め、糺池跡周辺などいくつもありますね。あと、西の通路沿いにも綺麗な紅葉がありますよ。境内では、西の鳥居近くに鮮やかに色付く木があります。

普段から人が多い場所ですが、紅葉の時期だからといって急に増えるという事もありません。それに人が少々居ても気にならない程、広々としています。

個人的に好きなのは落ち葉を踏みしめながら馬場を歩く事で、さくさくとした足の感覚と落ち葉の鳴る音は、掃除の行き届いた他の名所では得られない快感ですね。ただ、12月も半ばを過ぎると迎春準備としてなのでしょう、掃き清められてしまうのが残念なのですが。

森の中なので昼でも薄暗いのですが、そのぶんしっとりした紅葉を楽しむ事が出来ますよ。

最寄り駅は出町柳駅で、徒歩10分足らずかな。あと、隣接する家庭裁判所の構内も綺麗に色付くので、時間があれば前を歩いてみるのも良いかも、です。

2.相国寺

相国寺は、名所と呼ぶ程では無いけれども、綺麗に色付く木が何本かあります。その一つが鐘楼の南側にある通路沿いの木で、当たり年にはとても綺麗な赤色に染まります。何しろ通行量が多い通路沿いですから目立ちやすく、足を止めて見入る人も多いですね。

放生池の北側にも何本かのもみじがあり、ここは黄色く色付く木がありますね。ただ、日陰になるぶん先の木ほどには鮮やかさが感じられず、幾分見劣りがするのが残念なのですが。

相国寺で本当の見所は、たぶん開山堂でしょう。ここは普段は非公開なので外からしか見る事が出来ませんが、塀越しに見える紅葉はとても鮮やかで、ちゃんと庭から見ればどんなにか良いだろうと思ってしまいますね。

この寺は境内が通り抜け自由で、一般道の続きの様なものですから、とにかく気が張らないのが良い場所です。

最寄り駅は地下鉄の「今出川駅」ですが、出町柳駅からでも歩ける距離ではありますね。

紅葉の時期は11月末から12月初めにかけてが多いかな。放生池の方が色付くのは遅かったと思います。

3.寺町通沿い

寺町通にある小さな寺にも、鮮やかな紅葉を楽しめるスポットがあります。その一つが阿弥陀寺で、信長の墓がある事で知られる寺ですね。ここのポイントは、本堂前にあるお地蔵様の背後のもみじです。まあ、ほとんどこれ一本と言っても良いのですが、お地蔵様とのコラボレーションがとても素敵なのですよ。それに、当たり年には綺麗な赤色に染まりますので、見に行って損は無いです。ただし、この木が外れだと他には無いので、ちょっと辛いのですけどね。

その阿弥陀寺から二軒隣にある慈福寺もまた、鮮やかな紅葉がある事で知られます。ここも一本しかないのですが、当たり年には、それは鮮やかな赤色を見せてくれますよ。町中に不意に現れる紅葉ですから、とてもインパクトが強いですね。とても小さな寺なのですが、この時期は紅葉のおかげでどこよりも目立っていると思われます。

最寄り駅は地下鉄「鞍馬口駅」ですが、やはり出町柳駅からでも歩けない距離ではないですね。

紅葉の時期は11月末から12月初め頃が多い様です。

4.上御霊神社

相国寺の北に位置する神社で、初夏の一初の名所として知られていますね。そして、この時期は知る人ぞ知る、紅葉の名所でもあるのです。紅葉は境内の東側に集中しているのですが、住宅街の真ん中にあるとは思えないほどの美しさと奥行きを感じます。社殿とのコラボレーションも見事で、見とれている内にあっという間に時間が過ぎて行ってしまいますよ。ここがあまり有名にならないのが不思議なくらいですね。

訪れる人もまれで、本当の意味での穴場ですね。ここも11月末から見頃となり、12月に入っても見頃は続いている事が多いようです。最寄り駅は地下鉄「鞍馬口駅」です。

5.妙覚寺

妙覚寺は日蓮宗の本山の一つで、庭園の紅葉が美しい事で知られています。境内は殺風景なのですけどね、本堂に入るととても風情のある場所に変わります。美濃の戦国武将である斉藤道三が織田信長に宛てた国譲り状がある事でも知られ、実物ではありませんが、写真の展示はありますので、戦国ファンにも必見の寺ですね。

ただし、事前の予約が必要であり、飛び込みでは中に入れないので注意が必要です。あと、庫裏の玄関前の紅葉もなかなか綺麗ですよ。

紅葉の時期は11月中頃から後半にかけてが多いのかな。ですので、これから訪れるには、少しタイミングが遅いポイントかも知れません。最寄り駅は地下鉄「鞍馬口駅」、またはバス停「堀川寺の内」です。

6.妙顕寺

妙顕寺は妙覚寺のすぐ南側に位置する寺で、ここも日蓮宗の本山の一つです。参道や本堂の周囲にもみじがあり、綺麗な紅葉が見られるポイントです。しかし、今は本堂の修築工事のために仮覆いや通路が設置されており、見るべきところは山門付近ぐらいと限られています。この工事が完成したら、また穴場的スポットとして甦ってくれるものと思われます。

最寄り駅は地下鉄「今出川駅、鞍馬口駅」、またはバス停「堀川寺の内」です。

7.本法寺

本法寺は妙顕寺の西にある寺で、やはり日蓮宗の本山の一つですね。山門前は小川通に面しており、門前には裏千家の不審庵、その南隣には表千家の今日庵があるという、京都でも独特の風情のある一角となっとています。

紅葉のポイントの一つめは庫裏へと通じる通路にある大銀杏で、紡錘形の姿の良い木ですね。11月末頃に色付く事が多く、見事な黄葉を見せてくれます。

もう一つは巴の庭で、数本のもみじが美しい彩りを見せてくれます。ただ、それほど広くない庭なのですが、木によって紅葉する時期が異なっており、最も美しい時期に訪れるのはなかなか難しい様ですね。概ね11月末から12月初め頃にかけて紅葉が続きますが、どの状態が見頃かは、見る人によって異なると思われます。

ここも訪れる人は少なく、穴場と言っても良いと思いますよ。

最寄り駅はバス停「堀川寺の内」、または地下鉄「鞍馬口駅」です。

2011年12月 1日 (木)

京都の散歩道 紅葉案内 洛西編 8

昨日は直指庵までの道を紹介したので、帰りは大徳寺バスターミナルからとしました。でも、この散歩道での推奨は清涼寺から引き返すコースなので、ここから野宮神社経由で嵐電嵐山駅まで戻る道順を紹介しておく事にします。

清涼寺の仁王門を出た後、森嘉の方には行かずに正面の道を真っ直ぐに進みます。ここは一方通行の細い道路ですが、歩道があるので歩きにくいという事は無いと思います。でも、嵯峨野らしさとは無縁の道なので、あまり歩いていても楽しくは無いですね。ずっと歩いていくと、新丸太町通との交差点に出て来ます。

この交差点をひとまず渡ると、右の角に料理店があるはずです。この店の向こう側、小さな神社との間に細い道があるのですが、この道に入って下さい。少し歩くとやがて左手に竹藪が見えてきます。これが竹林の小道を形成する竹林の北辺ですね。この竹林の反対側は駐車場になっているのですが、その道をおよそ200mほど歩いて下さい。すると左手に竹林の中に入っていく道が現れるはずです。ここで一度竹林がとぎれて角に民家が建っているので、たぶん判ると思います。

これから歩く道は竹林の小道から分岐している道で、あるいはその一部と言っても良いのかも知れません。ただ、このあたりの竹林は少し荒れた感じがすると言ったら叱られるかな。

竹林の中を歩いて行くと、前方に踏み切りが見えてきます。これはJR嵯峨野線の踏切ですね。嵯峨野らしい風情の中に突然現れる異質な存在なのですが、このミスマッチもまたこの散歩道の楽しさの一つです。また、この踏切を渡る時に眺める線路の景色は、旅情が感じられて結構良いものですよ。

この踏切を渡ると右手に野宮神社が見えてきます。表皮を剥かないクヌギの丸太を使用した黒木鳥居が目印ですね。

野宮とは斎王が身を清める場の事です。伊勢神宮に仕える斎王に選ばれた女性は、野宮で1年間精進潔斎をした後、伊勢に向かったのでした。野宮は天皇の即位毎に選定されていたのですが、嵯峨天皇の時に今の場所に定められた後は、継続して使われる様になりました。源氏物語の舞台ともなっており、六条御息所と光源氏がここで別れを告げています。

斎王の制度は南北朝の戦乱の中で廃絶となったのですが、野宮は神社として存続して来たのですね。今は流行のパワースポットの一つとして知られ、特に恋愛成就にご利益があるとして人気を集めています。ですので、この神社の周辺は常に混雑していますね。

紅葉は境内右奥の苔の絨毯と呼ばれる一角が見所となります。美しい苔と紅葉のコラボレーションは、なかなか見応えがありますよ。紅葉の時期はかなり遅く、11月末から12月始めにかけて見頃になる事が多いと思われます。嵐山花灯路の時にまだ見頃だったりしますね。

野宮神社からの帰り道は、鳥居を出た後、右へ真っ直ぐに進んで下さい。すぐに分かれ道があるのですが、そこを曲がってしまうと大河内山荘に向かってしまうので、間違えないようにして下さいね。後は道なりに歩いていくと、嵐山のメインストリートに出る事が出来ます。嵐電の駅に向かうには、この道を右に歩いていけばたどり着けますよ。

また、JRの駅に向かうには、嵐電とは逆に左に曲がり、一筋目を右に入ればあとは真っ直ぐとなります。ちなみに、アニメ「けんおん!」で、修学旅行の時に道に迷う場面がありますが、右に曲がってから一筋目を左に入って行ったあたりが舞台です。実際にあそこまで迷う事は無いとは思いますが、川があって道が途切れているなど、位置を失いやすい場所ではありますね。最初に曲がる方向を間違えると面倒なので、注意して下さい。

以上で洛西編を終わります。まだ紹介出来ていない所もあるのですが、それは実際に歩きながら見つけて下さい。思わぬところに発見があるのも、嵯峨野の楽しみ方の一つですからね。難点は、ほとんどのところで拝観料を取る事かな。一カ所だけなら知れたものではあるのですが、何カ所も回っていると結構な出費となるのですよ。そのあたりも考慮に入れて、嵯峨野散策を楽しんで下さいね。

« 2011年11月 | トップページ | 2012年1月 »

ねこづらどき

最近のトラックバック

無料ブログはココログ