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2011年10月

2011年10月31日 (月)

京都・洛東 紅葉の予感 ~今熊野観音寺~

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西国三十三カ所観音霊場の一つとして知られる今熊野観音寺も、紅葉の名所の一つです。少し奥まった位置にあるせいか、紅葉の時期でもそれほど混まない穴場的なスポットですね。

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昨年は11月19日に訪れているのですが、太子堂周辺で見頃になっていた他は色付き始めたばかりで、全体としては盛りには至っていないという状態でした。

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ここは谷間にある寺で高低差が激しく、かつ地形が複雑なせいか、境内が一度に色付く事は無い様に思われます。そう何度も通い詰めている訳ではないので確実な事は言えないのですけどね、これまで見てきた限りにおいてはそんな感じがしています。

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ここに来る度にこの寺らしい写真を撮りたいと思っているのですが、冒頭の多宝塔を絡めた構図意外には、なかなか難しいですね。赤い欄干の鳥居橋周辺のもみじが色付いていれば、それらしい写真が撮れるのかも知れません。

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ここは東福寺からも近く、泉涌寺も含めてセットで訪れるのが良い場所です。ただし、紅葉のタイミングが合うかどうかは微妙で、三カ所とも見頃という事は難しいでしょうね。この寺に関して言えば、どこかしら見頃になっている部分はあるかも、という気はしています。少し足を伸ばしてみても損はないと思いますよ。

2011年10月30日 (日)

江~姫たちの戦国~42 大坂冬の陣

(慶長19年11月19日、大坂冬の陣開戦。)

(江戸城。家臣たちに、大坂から届く全ての知らせを自分に報告せよと命ずる江。)

(籠城へと追い込まれた大坂方。)

(優勢になり、一気に攻め込もうと意気込む徳川方の諸将。諸将を押さえ、幸村の築いた出城「真田丸」の優秀さを指摘し、楽観を諌める家康。)

(真田勢に押さえられ、攻めあぐねる徳川方。俄に和睦を言いだした家康。秀忠にその真意を質され、恩賞が惜しくなったなどとあくまでとぼける家康。)

(和睦の使者が来た事を知らなかった秀頼。憤る秀頼に、和睦に応じるつもりは無いと言い切る淀殿。急ぎ和睦すべきだと主張する秀頼に、この城を出るのは家康が死ぬ時しかないと言い放つ淀殿。)

(真田丸で大勝利を収めた幸村。痛手を負った徳川方。)

(3度目の籠城となる淀殿。4度目の籠城となる常高院。もう止めてはどうかと薦める常高院。後戻りは出来ないと淀殿。)

(真田丸の優勢に気を良くし、秀頼出馬を淀殿に進言する治長。ならぬと言下に拒否する淀殿。)

(鎧姿に身を固め、諸将のたまり場に現れた淀殿。淀殿の激励に意気の上がる諸将。その中で、なぜ秀頼が出てこないと訝る後藤又兵衛。なすべき事は家康の首を上げる事だけだと幸村。)

(和睦の道を探り始めた秀忠。)

(江戸城。国松を相手に、豊臣は滅びよと打ち込む竹千代。それを見て、豊臣には伯母、従兄弟、それに千が居るのだとたしなめる江。竹千代を庇い、豊臣に殺された者の目を見よ、徳川家御台なら同じ目を持てと噛みつく福。)

(幸村を討ち取ると出陣を願い出る秀忠。もうすぐ戦は終わると家康。城に向かって穴を掘らせているのだと正純。また、夜を徹して鉄砲を撃ち掛け、夜討ちかと思わせているとも。子供だましだと秀忠。次の恐怖を与える前段だと家康。)

(且元を呼び、淀殿の居場所はどこだと確かめる家康。彼はそこに向かって大砲を撃ち込めと命じます。)

(俄に襲ってきた大砲に、恐慌に陥る淀殿の侍女達。気丈に振る舞う淀殿。傷つく秀頼。そこにもたらされた和議の知らせ。)

(和睦を受け入れようと主張する秀頼。家康の命は長くない、すぐにも恥を雪ぐ時が来ると治長。泣き崩れつつ、説得を受け入れた淀殿。)

(常高院に和睦の使者を頼む淀殿。拒む常高院に、誰も信じる事が出来ない、今の願いは城を出ずに済む事だけだと打ち明ける淀殿。引き受けた常高院。)

(家康の使者阿茶の局と談判する常高院。2日後、成立した講和。)

(江戸城。戦が終わったという知らせに胸をなで下ろす淀殿。しかし、堀を埋めていると聞き、かつて秀吉が家康に語った大坂城を落とす秘策を思い出す江。)

(徳川方が三の丸から二の丸まで手を出していると聞き、なぜだと憤る淀殿。騙されたと気付いても、すでに手遅れでした。無惨な城の様子を見て歩く秀頼。)

(なぜ二の丸にまで手を出しているのかと詰問する秀忠。豊臣方は自分が死ぬのを待っている、早く仕事を済まさなければならないのだと家康。何が何でも豊臣を滅ぼさなければならないと本音を漏らした家康に、約束が違うと叫ぶ秀忠。そんな約束はした覚えがないと嘯く家康。)

(正信に頼みがあると切り出す秀忠。)

(正信の従者に紛れ、秀頼の前に現れた秀忠。驚いて人払いを命ずる秀頼。)

(秀頼と淀殿を前に、家康の真意は豊臣を滅ぼす事にある、ここは何としても生き残って貰わなければならないと力説する秀忠。豊臣の為に戦えと飛ばした檄に、一人も応じる者は居なかったと詠嘆する淀殿。城を開けて生き残る道を選んで欲しいと力説する秀忠。秀忠に感謝しつつも、最後までこの城で戦い抜くと拒絶する淀殿。)

(失意の秀忠を呼び止めた使いの者。案内された先で待っていたのは秀頼でした。)

(秀忠の文に返事を出さなかった事を詫びる秀頼。今でも考えに変わりはない、淀殿の考えを変えてくれと秀忠。なぜ母が豊臣の天下にこだわるのか判らなかった。しかし、城が壊されていく様を見て、胸が痛んだ。生まれた時から暮らした城が崩され、徳川を初めて憎いと思った、この城は自分自身なのだと秀頼。城の外にも未来はあると秀忠。城を出た時、自分は死ぬ。秀忠と話が出来た事は嬉しかった、しかしこれからは敵同士だと言い渡す秀頼。)

(一人廊下を行く秀忠の前に現れた幸村。身構える秀忠に、戦は戦場にてしようと立ち去る幸村。)

(私は間違っていないかと淀殿。しかし、秀頼だけは救うつもりだと淀殿。)

(江戸に帰った秀忠。出迎えた江が見たのは、無精ひげを生やし、悄然とした秀忠でした。崩れ落ちながら、江に詫びを言う秀忠。訝る江。)

今回は副題どおり大坂冬の陣が描かれました。このドラマにしては珍しく、戦いの経過が比較的克明に再現されています。

まず冒頭の木津川口砦の戦いですが、これは大坂方が城の周辺に築いた砦を巡る戦いでした。

開戦に先立ち、幸村はいきなり籠城するのではなく、まず畿内を押さえた上で近江に兵を出し、瀬田川を挟んで戦うべきだと主張しました。そこで徳川方に一勝し、大軍を立ち往生させる事が出来れば、大坂方強しと観て豊臣方に内通して来る者が出て来るはずという目論見でした。後藤又兵衛らも賛同し同様の案を出したのですが、大野治長がこれに反対し、当初から難攻不落の大坂城に籠もるという策に落ち着きました。

その籠城に際して、大坂方は城の周囲に小規模な砦をいくつか築き、前線の守りとしたのですが、その一つが木津川口砦でした。この砦の守備兵はわずか800という小規模なもので、幸村は大軍に対してこの様な脆弱な砦を築く事に反対したと言われます。実際、この砦の存在に気付いた鉢須賀勢3000に襲われ、砦は瞬く間に落ちてしまいました。

これに続いて鴫野・今福、博労淵、野田・福島などの砦で相次いで戦いが起こったのですが、いずれも大坂方の敗退に終わっています。結果として治長が築かせた砦は幸村が危惧したとおりとなり、徒に兵を損耗しただけに終わっています。

次に真田丸についてですが、ドラマにあったとおり大坂城の唯一の弱点とされたのが南の守りでした。大坂城は上町台地に築かれているのですが、北は淀川、東は大和川(今は東流して堺市の北で大坂湾に注いでいますが、昔は北流して淀川と合流していました。)、西は大阪湾に囲まれており、それぞれが防衛線となっていました。ところが、台地の続きである南側には盾とすべきものが無く、秀吉もその手当てには頭を悩ませていたとされます。無論、堀はあったのですが、大軍で囲まれると心許ない場所でした。

自然、徳川方の主力も南側に集中し、前田、伊達、井伊、榊原、藤堂などの諸大名が布陣していました。この南の守りの任に就いたのが幸村で、城の南に真田丸と呼ばれる出丸を作ってその中に籠もりました。この真田丸は堀と何重もの柵に囲まれた一種の要塞で、夥しい銃が配されていたと言います。

ドラマでは絵図の中にだけ記されていましたが、この出丸の前に笹山という小さな丘があり、幸村はここにも柵を築いて兵を籠めていました。

この方面に対する家康の指示は真田丸を力攻めにはせず、野戦陣地を作ってそこから大砲を撃ちかけよというものでした。この陣地を担当したのが前田利常だったのですが、笹山からの妨害にあって陣地の構築が思う様に進みませんでした。

そこで利常はまず笹山を奪う事を考え、これを夜襲しようとします。ところが真田方ではあらかじめこの動きを察知しており、笹山から兵を全て引き上げていました。そうとは知らずに無人の丘に攻め上った前田勢を、真田方はさんざんに嘲弄します。この挑発に乗った前田勢は、そのまま真田丸に攻め掛かりました。

幸村は前田勢が出丸の石垣に取り付くまで引き付けておき、頭上から一斉に銃撃を浴びせかけます。この攻撃で前田勢は大損害を食らったのですが、この前田製の動きにつられて徳川方の諸隊が次々に真田丸に押し寄せました。幸村はこれらの敵勢を十分にに引き付けては銃撃するという戦法を繰り返し、徳川方に数千に上る損害を与えたと言われます。

この敗報は1万5千の損害という数字に膨らんで諸方に飛び、世間に徳川方の敗北を印象付けました。ドラマで治長が、やがて豊臣に味方する大名が出て来るに違いないと狂喜していたのも無理はなかったのですね。しかし、幸村の勝利も全体から見ると局地戦の勝利に過ぎず、大勢を決するまでには至りませんでした。

なお、秀忠が真田丸を攻めると言ったのは史実にあるとおりですが、ドラマにあった様に停戦を目指したものではなく、あくまで攻勢を貫くためでした。しかし、和議を考えていた家康に一蹴され、沙汰止みとなっています。

和議の決め手となった本丸への一斉砲撃は、ドラマにもあった様に淀殿への心理的圧迫を狙ったものでした。城の周辺から多数の砲弾が撃ち込まれ、その内の一発が淀殿の居室近くに着弾し、7、8人の侍女が即死したと言われます。

また、これもドラマにあった夜を徹しての銃撃や、坑道に依る攻撃も実際に行われています。いずれも現実の効果は薄く、あくまで心理戦を狙っての事でした。

こうした心理戦に加えて、城方では兵糧、弾薬共に不足を生じ始めており、和議に応じようという動きになった様ですね。この時、ドラマにあった様に治長は、家康の寿命は長くないと言って秀頼を説得したとされています。

城方の代表として常高院が選ばれたのはドラマで描かれたとおりで、徳川方の代表として阿茶局が出て来たのも史実にあるとおりです。ただし、常高院を指名したのは家康であったとされ、ドラマの様に淀殿が頼んだという訳ではなかった様ですね。

談判が行われたのは、京極忠高の陣でした。つまり、常高院の義理の息子の陣ですね。彼はこの時、徳川方の将として城攻めに加わっていました。彼は義母が籠もる城を攻めていた事になりますが、城方の代表となった常高院もまた相当に複雑な立場にあった事が判ります。しかし、だからこそこの場にある事が相応しかったとも言えそうですね。

この談判は2日に渡って行われ、一日目の談判は不調に終わり、二日目に修正案が出されてようやく締結に及んだと言われます。その条件とは、

1.本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、外堀を埋める。
1.淀殿を人質とはしない。
1.大野治長、織田有楽斎それぞれより人質を出す。

という事でした。また、了解事項として、外堀は徳川方が埋め、二の丸、三の丸は豊臣方が埋めるという約束があったものと思われます。しかし、徳川方は20万の軍勢を使って一斉に作業を始め、瞬く間に全ての堀を埋めてしまったのでした。これに対して、治長は抗議を申し込んでいるのですが、相手にされずに終わっています。

その後、秀忠が秀頼親子に会いに行ったというのは荒唐無稽な創作ですが、このドラマにおける秀忠らしさは出ていたと思います。正信の家臣に化けて行ったというのは、昔見た時代劇の様で面白かったですし、江との約束を果たすべく、真摯に秀頼親子を説く姿には好感を持てました。ただし、現実の秀忠は、そんな事はかけらも思っていなかった事でしょうけどね。

そして、城が壊されるのを見て、初めて徳川が憎くなったという秀頼の心理描写も面白いですね。これまで意外な器量者として描かれていた秀頼が、一転して城に依存した弱者に一変してしまいました。秀頼が城から出たのは二条城に行った時だけと言われており、その生い立ちを考えればこういう心理描写も有りかなとは思います。でも、あの凛々しい秀頼はどこに行ったんだとも思ってしまいますね。

最後に、淀殿の鎧姿は似合っていました。これから先、宮沢りえに、こんなオファーが来るかも知れませんね。

次回は大坂夏の陣が描かれる様です。副題も「淀、散る」と衝撃的ですね。絶望的な戦いの果てに訪れる淀殿、秀頼親子の最期がどう描かれるか、じっくりと見てみたいと思います。


2011年10月29日 (土)

京都・洛北 紅葉の予感 ~金福寺~

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圓光寺と並んで、紅葉が早く始まるポイントが金福寺です。詩仙堂も含めた一乗寺界隈にあるのですが、少し外れた位置にあるせいか、訪れる人はやや少なめという穴場的な寺ですね。

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この写真は昨年の11月19日に訪れた時のものですが、境内の西から南側をぐるっと縁取るもみじの並木が、とても良い色に染まっていました。

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その反面、芭蕉堂付近のもみじはまだ色付き半ばといったところで、庭から見上げる方向は絵になりませんでした。

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一つには光線の加減もあったでしょうね。この日は午後2時半頃に訪れたのですが、庭の大半が陰になっており、3枚目の様な角度は特に撮りにくかったのを覚えています。あらかじめどの時間帯が良いのか知っておけば避けられる事態なのでしょうけどね、週一カメラマンにとってはなかなか難しい事なのです。

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玄関前のもみじは一足先に見頃を過ぎており、見事な敷紅葉となっていました。こうした瑞々しい敷紅葉に出会う事は、なかなか無いのですよね。

金福寺はそろそろ色付き加減かなと思うのですが、今週末もまた出かけられなかったので状況は判りません。来週末こそ見てきたいと思ってはいるのですけどね、さてどうなります事か。

2011年10月28日 (金)

京都・洛北 紅葉の予感 ~圓光寺~

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圓光寺は、周辺の詩仙堂や曼殊院に比べると、見頃を迎えるのが少し早いポイントです。昨年は11月19日に訪れているのですが、ほぼ見頃になっていました。

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中でも本堂正面のこの木は、見事に染まっていましたね。どちらかというと落ち着いた色なのですが、それでいて人目を惹き付けて止まないという、和の美そのものの様な紅葉でした。

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いつもは空いている圓光寺なのですが、この日はかなり混雑していました。やはり見頃という情報は、どこからにともなく伝わって行くものなのかな。

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一つには、観光バス同士の情報交換もある様ですね。つまり、普段は走るコースが決まっているのが観光バスなのですが、この時期に限っては見頃の場所の情報を交換し合い、随時乗客を乗せて行くという事をしている様です。

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まあ、それも良いのですが、あまり小さな場所にまで押し寄せるのはやめて頂きたいですね。昨年は大法院に団体客が次々と押し寄せたため、一般客が入れなくなるという状況が生じていました。ガイドさんたちの話を聞いていると、やはり見頃という情報を元に乗客を連れてきた様でしたね。

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圓光寺の場合はタクシーかしらん?でも、身動きが取れなくなる程の事は無いので、それほど気にする事も無いですよ。ただし、本堂内からの額縁写真は諦めた方が良いでしょうね。

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圓光寺は敷紅葉も綺麗ですよ。苔の生えた広い地面があるので、写真的には盛りの頃よりも絵にしやすいかも知れません。盛りを過ぎて静かになった頃、じっくりと晩秋の風情を撮ってみるのも素敵だと思いますよ。

2011年10月27日 (木)

京都・洛北 紅葉の予感 ~曼殊院~

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曼殊院は修学院の地にあり、詩仙堂や圓光寺など共に紅葉の名所として知られています。昨年は11月19日に訪れたのですが、山門周辺のもみじが見頃になっていました。

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ここもやはり紅葉の順番があって、まず弁天池の周辺が染まりだし、次いで参道と山門周辺が色付きます。庭園はそれより少し遅れる事が多いようですね。弁天池が色付き始めるのは11月初め頃になるのかな。

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庭園は、小書院の東側にもみじが多くあり、滝の石組みの周辺と言い換えても良いかも知れません。この日はまだ色付き始めたばかりで、見頃には遠い状態でした。

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そんな中で、このもみじはオレンジ色に染まり、印象的な姿でした。このあと時間の経過と共に真っ赤に染まっていたのかしらん?ここも一番綺麗な状態の時を見たかった場所の一つです。

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これは上之台所の入り口近くから見た中庭で、黄色く染まっているのは多分イタヤカエデでしょうか。樹形と言い、大きめの葉の形と言い、周辺のもみじとは随分と違う風情を見せていました。

曼殊院も紅葉の時期はかなり混むポイントです。詩仙堂ほどではないのですが、乗り合いタクシーで来るプチ団体さんが多いようですね。ですので、思う様に写真を撮るのは結構難しいかも、です。

あと、廊下の手摺りには要注意です。触るなという注意書きがありますが、根元がぐらぐらになっているので、うっかり体重を掛けてしまったりすると大変な事になりそうですよ。以前にもたれて壊してしまった人が居るそうですが、混雑時には何かのはずみで手を突いてしまう事もあるので、くれぐれも注意して下さいね。

2011年10月26日 (水)

京都・洛東 紅葉の予感 ~東福寺~

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数ある紅葉の名所の中でも、最も人出が多いのが東福寺でしょうか。「そうだ 京都行こう」のキャンペーン以来なのかな、とにかく圧倒的な数の拝観者が押し寄せるポイントです。

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どれだけ凄いかと言えば、朝8時の開門時には既に長蛇の列で、いきなり1時間待ちなどという事があります。その後は推して知るべしで、京阪あるいはJRの東福寺駅のホームから山門に至るまで行列が途切れる事無く続くという事も珍しくありません。

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それだけの人を惹き付ける魅力を持った名所である事は確かで、規模と紅葉の見事さから言えば、京都でも一、二を争うと言えるでしょう。

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見頃になるのは標準からやや遅めといったところでしょうか。概ね、勤労感謝の日前後に見頃となる事が多い様に思います。無論、年によって前後一週間以上の幅がありますけどね。

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昨年は11月19日に行ったのですが、まだかなり早かったです。この写真を見ていると見頃の様に思えるでしょうけど、綺麗なところばかりを選んでだのでそう見えるだけです。中でも冒頭の写真は手前のもみじだけが赤く染まっていたのですが、あたかも境内全域が染まっているかの様に見えてしまいますね。なので、昨年は誤った情報を流してはいけないと思い、ブログには採用しませんでした。

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この日見頃だったのは通天楓で、この木らしい独特の色に染まっていましたよ。でも、少し盛りを過ぎていたらしく、落葉が盛んでした。

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もう一つ、高木も綺麗に染まっていましたね。この木はたぶんブナかしらん?このあたりのもみじは比較的良く染まっており、黄色と赤の対比が見事でした。

東福寺もまた、広い境内が一度に染まるという事はなく、最初に色付くのが通天楓、次に洗玉澗沿いから北側、そして南側へと続きます。最後に色付くのが洗玉澗の谷底ですね。ですので、見頃の定義は難しいのですが、やはり通天橋から見た時に一番染まっている時がピークと考える人が多いのかな。

ここは、出来れば休日は避けて、平日に訪れる事をお薦めします。どうしても無理という場合は、夕方にめがけて行った方が良いかも、です。まあ、時間切れで入れなかったという事もあり得るので、半分は賭けの様なものなのですが。あと、京阪なら鳥羽街道駅から行った方がいくらか空いていると思います。これも多分ですけどね。

2011年10月25日 (火)

京都・洛西 紅葉の予感 ~鳥居本~

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嵯峨野の奥座敷と呼ばれる鳥居本もまた、紅葉の名所として知られるポイントです。紅葉のタイミングはやや早めから標準の間といったところでしょうか。昨年は11月14日に訪れたのですが、部分的には見頃が始まったところでした。

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一口に鳥居本と言っても範囲は広く、化野念仏寺もまたその範疇に入ります。でも、紅葉の場合は一の鳥居付近を指す事が多く、ここでは化野とは区別して扱っています。

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その鳥居本の代表的な景色が、平野屋さんをもみじ越しに俯瞰したこの構図ですね。これを撮る為には、一度平野屋さんの前を通り過ごし、上の道路と交わる地点まで行ってその道路を引き返し、さらにガードレールを越えて崖の上に出なければいけません。でも、それだけの手間を掛けても惜しくない絵が撮れる事は確かですね。

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この日は紅葉としてはまだまだで、たぶん一週間後位にはオレンジ色だったもみじが赤く染まり、まだ緑だった木もかなり色付いていた事でしょうね。出来ればシーズン中に何度か訪れて、見頃の紅葉に出会いたい場所ではあります。

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一の鳥居に至る街道沿いにもいくつか紅葉はあって、その一つが高架道路に匍っていたツタでした。まあ、まだもみじが最高潮に色付いていなかったために気付いたとも言えるでしょうけど、たまには上を見て歩くのも悪くないと思った次第です。

2011年10月24日 (月)

京都・洛西 紅葉の予感 ~滝口寺~

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祇王寺の隣に位置する滝口寺もまた、紅葉のポイントとして知られる寺です。ここの紅葉が始まるのは早く、もしかしたら嵯峨野では一番最初に見頃となる場所かも知れません。

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昨年は二尊院と同じく11月14日に訪れているのですが、ほぼ見頃を迎えていました。ここの見所は上の写真の様に紅葉に囲まれた本堂の周辺と、その本堂の座敷から見たこの景色にあるのですが、両方の鍵となるのが正面のもみじの色付き加減ですね。この木がどの程度綺麗になっているかで、印象が大きく変わる事になります。

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無論、境内のそこかしこにもみじはあるので、他の場所でも紅葉を楽しむ事は出来ます。ただ、基本的に山の斜面にあるので、写真としては絵にはし難い場所なのですよね。

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でも、今見ると結構オレンジ色が強いですね。ですので、もしかしたらこの数日後に本当の見頃があったのかも知れません。そのあたりを確かめられなかったのが残念ですね。

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この滝口寺と祇王寺は、境内がほぼ連続しています。この写真の奥の方は祇王寺になるのですが、紅葉のタイミングは滝口寺とは随分と異なり、見頃は11月の末近くになる事が多いですね。一続きと言って良い程の位置にありながらこれだけの違いが出るのは、やはり日当たりの差が大きいという事でしょうか。

そういう事情があるので、人気の高い祇王寺とセットで訪れるのはなかなか難しい反面、あまり混む事が無いという穴場的なポイントでもありますよ。

2011年10月23日 (日)

江~姫たちの戦国~41 姉妹激突!

(江戸城。暴慢さが目立つ竹千代。)

(福を呼び、竹千代の教育方針について問い質す江。上に立つ者として、ある程度の暴慢さも必要だと嘯く福。竹千代はまだ世継ぎと決まった訳ではないと家康の言葉を伝える江。驚く福。竹千代を誰からも好かれる男子に育てよと命じる江。慌てて下がる福。それを陰で聞いていた竹千代。)

(近習とすごろくで遊ぶ国松。そこにやって来た竹千代。すぐに済むから次にと言う国松に向かって、今すぐやりたいのだと言って近習を押しのける竹千代。とまどう国松。賽子を庭に投げつけ、国松を睨み付ける竹千代。)

(将軍になって10年目の秀忠。しかし、依然として家康の許可が無ければ何事も進まない状態が続いていました。)

(竹千代の事を秀忠に相談する江。それどころではない様子の秀忠。話題を豊臣の事に変える江。特段の動きはないと秀忠。もう諦めたのだろうかと聞く江に、豊臣と徳川が並び立つという願いは無視されていると秀忠。そして、親父は73だったか、なかなか死なないとつぶやき、死なないならこちらから動くと秀頼に宛てた文を書く事を思い立ちます。)

(秀忠の書いた文には、秀頼が関白に就き、秀忠が将軍としてそれを支え、共に世を治めて行くという構想でした。)

(嬉しそうに秀忠の書いた文を眺める江。その江に、夫の気持ちに嘘偽りはないという文を書いてくれと頼む秀忠。)

(駿府城。秀忠の構想を家康に問う正純。主が二人居ては天下が乱れるばかりだと一蹴する家康。そして、まずは秀頼を一大名として臣下に置く事だ、そのためには大坂城から引きずり出し、大阪、堺の商人、そして朝廷から遠ざけなければならないと自らの構想を語ります。家康が悩む問題はその口実をどうするかでした。)

(大坂城。つかの間の平穏を楽しむ秀頼と淀殿たち。そこに、方広寺の鐘の撞き初めが終わったと報告に来た且元。あとは8月3日の開眼供養を待つばかりでした。)

(且元を見送り、豊臣が進めている社寺の修復事業について、背後で家康が動いている、あれは豊臣の財力を削るためのものではないかと案ずる治長。それしきの事で大坂城の金銀が減るものではないと受け流す秀頼。そして、修復事業は秀吉が殺めた幾多の人々に対する供養として、豊臣家が何よりも行うべき事だと治長を諭します。)

(駿府城。家康の前に方広寺の鐘銘の写しを広げ、「国家安康」「君臣豊楽」の文字を示して、家康を呪い、豊臣の繁栄を願うものに外ならないのではと問う正純。)

(大坂城。徳川からの詰問状に、言い掛かりだと吐き捨てる淀殿。鐘を鋳造する前に駿府に鐘銘も届けてあると且元。ならば家康も知っていた筈と淀殿。それでも弁明に努める他はない、抗弁すれば戦を仕掛ける口実とされると秀頼。受けて立つまでだと憤る淀殿を宥め、今一度駿府に行ってくれと且元に命ずる秀頼。くやしくはないのかと問う淀殿に、今は耐えようと答える秀頼。)

(夜、治長に戦支度を命ずる淀殿。)

(江戸城。家康の言い分は言い掛かりだと憤る江。親父はどうしても豊臣を追い詰めるつもりらしいと秀忠。どうすれば豊臣を救えるのかと江。豊臣が一大名になる事を甘んじる事と秀忠。それは姉がとても受け入れないだろうと江。それとも家康が先に死ぬ事かと秀忠。秀頼に宛てた文はと問う江に、届いている筈だがと答える秀忠。)

(駿府。城近くの寺で、ずっと待たされている且元。)

(大坂城。なかなか戻らない且元にしびれを切らし、私とが行くと立ち上がる淀殿。淀殿を宥めるため、秀忠と江から届いた文を差し出す秀頼。これが本当なら先に光が見えてくると淀殿。その文で、自分も夢を持つ事が出来たと秀頼。夢とはと問う淀殿に、自分一人では無理でも秀忠と二人でならこの世を泰平に出来ると答える秀頼。)

(二人のやりとりを見ていて、自分が行くと言い出す常高院。行き掛かり上、私が行きますと名乗り出る大蔵卿局。)

(廊下にて、母に向かって家康に会うという事がどういう事か判っているのかと突っかかる治長。豊臣に掛けられた疑いを晴らす事だと大蔵卿。相手は家康、母が敵う相手ではないと詰る治長。行くと言ってしまったと大蔵卿。こうなったら行って疑いを晴らして貰うしかないと開き直る治長。気が重くなってきたと大蔵卿。)

(駿府城。家康に拝謁している大蔵卿。彼女に向かって、豊臣をおろそかにするつもりなどなく、案じるには及ばないとやさしく伝える家康。)

(大坂城。大蔵卿の報告を聞き、安堵する秀頼と淀殿。そこに帰って来た且元。彼は徳川から難題を突きつけられたと言って、家康の書状を取り出します。そこには、大坂城を明け渡すか、淀殿または秀頼の身柄を江戸城に移し、徳川に二心なき証しとすべしと書かれていました。ここで事を荒げては戦となると迫る且元に、それは家康自身から聞いたのかと問う秀頼。しかし、且元が会ったのは正純でした。大蔵卿の話を聞き、真の事とは思えないと且元。)

(大蔵卿は家康に会い、且元は会えなかったのなぜだと秀頼。よもや寝返ったのではあるまいなと問い詰める淀殿。必死に否定する且元。ならば何故話が食い違うのかと詰問する淀殿。言い澱む且元。それぞれに違う答えを持ち帰らせ、こちらを混乱させる策かも知れないと家康の魂胆を見破る秀頼。それに違いないと同意する且元。)

(何にせよ、且元の言った事に従うつもりはないと言い切る淀殿。駿府に答えを持ち帰らなければと食い下がる且元を、下がりおれと一喝する淀殿。)

(寝返りの疑いを掛けられ、大坂城を退去した且元。)

(駿府城。且元が大坂城を離れたと報告し、これは話し合いを拒んだ事に他ならないと進言する正純。そして、治長がしきりに大名達に近付き、戦支度わしているとも報告する正純。これは黙っている訳には行かないと、諸大名に出陣を命ずる家康。)

(江戸城。豊臣と戦と聞き、愕然とする江。家康の狙いは豊臣を一大名に落とす事にあり、命まで奪う事はしないはずと秀忠。そして、そのために大阪に行くのだと言い切ります。)

(大坂城。秀忠からの文を手に、一人佇んでいる秀頼。)

(10月。戦支度で賑わう大坂城。)

(秀頼に、彼らを関ヶ原浪人だ、その数は10万を超えていると説明する治長。なぜ大名が集まらぬと不満げな淀殿。徳川を気にしての事だろうと言いよどむ治長。その徳川に叛旗を翻そうという骨のある大名は居ないのかと声を荒げる淀殿。この城は秀吉が築いた天下無双、どれぼとの兵が押し寄せようともびくともしないと話をすり替える治長。)

(どうしても戦は避けられないのかと秀頼。今更何をと淀殿。自分からもお願いする、千が哀れでならないと常高院。秀忠との約束もあると秀頼。その様な約束はもはや無きもの、この城は戦場となると冷たく言い放つ淀殿。そして初に向かって、千を連れて城を出るが良いと言います。その時、嫌ですと叫ぶ千。私は秀頼の妻だと言う千。自分も姉の側に居ると言う常高院。父と祖父に文を出したと千。江に文を書いたと常高院。有り難いが、既に戦は始まっていると淀殿。和平を諦めてはいけないと叫ぶ常高院。その声が聞こえなかった様に、江と敵味方に分かれる日が来ようとはなとつぶやく淀殿。すすり泣く千。その時知らせが入ります。嬉しそうに叫ぶ治長。)

(秀頼たちの前に現れた浪人の一行。それは幸村の一党でした。上田城の戦いで天下に名を馳せた名将、これ以上無い味方と紹介する治長。有り難いと思いますと淀殿。なぜか浮かない様子の秀頼ですが、絞り出す様な声で礼を申すと声を掛けます。宿敵徳川を相手とするのは、この上なき幸いと答える幸村。)

(江戸城。正信から幸村が大坂城に入ったと聞き、関ヶ原での悪夢が甦る秀忠。その心を見透かした様に、あの時の仇を討てるかもしれないと正信。そして、10万の兵が城に入った以上、かつて無い厳しい戦いになるかもしれないと楽観を諌める正信。)

(10月23日、出陣する秀忠に、天下布武の印判を持たせ、無事を祈る江。二人の息子に向かって、敵は伯母であり、従兄弟であり、さらには姉も居る。しかし、全ては天下泰平のために動いていると信じている言い、留守を頼むと伝える秀忠。出陣する秀忠に、よろしく頼みますと伝える江。)

(京、二条城。集まった諸大名を前に、此度は戦をするではなく、戦の火だねをもみ消す為に来て貰ったのだと切り出す家康。10万の浪人が大坂城に押しかけ、天下に争乱をもたらそうとしている。秀頼の嘆きはいかばかりかと言い、かくなる上は大坂城を囲み、力ずくで和議を結ぶ他はないと秀忠は考え、それに応えるべく自分も駿府から出て来たのだと諸侯に語りかける家康。そして、諸侯が集まった事を秀頼は力強く思い、あとはその働きに期するのみだと語り終える家康。)

(20万の軍勢で大坂城を囲んだ家康。どこから攻めようかとつぶやく家康に、和議の為に囲んだのではないのかと問う秀忠。豊臣が一大名に降りてくれればそれで良い、しかし場合によっては戦もやむなしと言う家康。豊臣と徳川が並び立つという自分の案について問い質す秀忠に、言下に無いと否定する家康。天下を泰平にするために、自分の思いを通すと言う秀忠に、これは天下を泰平にするための戦だと諭す家康。そして、自分にとってこれが最後の戦となるとつぶやく家康。)

(11月19日、開戦。)

(江戸城。姉たちの無事を祈る江。)

今回は大坂冬の陣の前夜が描かれました。

まず冒頭に出て来た社寺の復興ですが、秀頼の名で再建された社寺は近畿を中心に全国に広がり、85件に上ると言われます。この事業の文化的意義は大きいと言われ、応仁の乱以降失われ、荒れ放題だった社寺の多くが秀頼のおかげで復興を遂げています。主なところで言えば、北野天満宮本殿、相国寺法堂、東寺金堂などがそうですね。

この事業は家康が薦めたと言われ、豊臣の財力を削ろうという狙いがあったとされます。実際、夥しい費用が掛かったと思われますが、秀吉の残した財産はそれに数倍するものがあったらしく、ドラマにあった様に豊臣氏の経済を傾けるという程には至らなかった様です。

次に、方広寺鐘銘事件ですが、ドラマでは本多正純一人で組み立て様になっていましたが、実際には金地院崇伝という僧侶を中心に、林羅山、南光坊天海など家康の側近のブレーン達によって仕組まれた罠でした。

この鐘銘を書いたのは文英清韓という僧侶で、東福寺や南禅寺の住職を勤めた高僧です。豊臣氏とは縁が深く、世が大きく徳川氏に傾いたこの時期でも秀頼の顧問を勤めていたと言われます。先に掲げた崇伝もまた南禅寺の僧侶で、この清韓とは対立関係にあったとも言われますね。この銘文がことさら狙われたのも、そういった事が関係していたのかも知れません。

この鐘銘事件にあたっては、徳川方は京都の五山の僧侶に意見を求めているのですが、そのことごとくが清韓の非を鳴らすものでした。これはあらかじめ徳川方が手を回してあったとも言われますが、それによって単なる言い掛かりではないと権威付けられたのは確かです。

しかし、この銘文自体を本気で問題視していなかった事は、事件後も鐘がそのまま存置された事を見ても明らかで、本当に呪われたと思っていたのなら、きっと有無を言わさずに鋳つぶしてしまっていた事でしょう。実際、家康は豊臣方の言い訳には関心が無く、ドラマにあった様に大坂城を明け渡すか、秀頼か淀殿が江戸に出て来るという条件を突きつけています。要するに、鐘銘はこの条件を出す為のきっかけを作ったに過ぎず、役目を終えればどうでも良かったのでしょう。

ただ、銘文を書いた清韓は無事では済まず、南禅寺を追われた上、住まいとしていた東福寺の天得院は破却されてしまっています。ちなみに、この天得院は後に再建され、今では桔梗の寺として親しまれていますね。

この事件の時に使者となった且元と大蔵卿局の二人に対し、家康が別々の回答を与えたというのも史実にあるとおりで、大坂方を混乱させる事が目的でした。そしてその結果、且元が大坂城を退去した事もまた開戦のための口実としたのです。このあたりの家康の腹芸は見事としか言い様が無いのですが、そのあまりのあくどさ故に、後世に至るまで狸親父の悪名を着る事になったのでした。

豊臣方の誘いに乗って大坂城に入った真田幸村ですが、かつて真田家の人質として大坂城に住んでいた事があり、秀吉近くに仕えていたとも言われます。ですので、淀殿とは顔見知りだった可能性もありますね。関ヶ原の戦いで西軍の将として戦った大谷吉継の娘を妻としており、その事が父昌幸と共に西軍に付いた要因の一つとなったとも言われます。

関ヶ原の戦いの後は父と共に紀伊国の九度山に配流の身となっており、昌幸は大坂冬の陣の3年前に亡くなっています。この当時幸村の名はさほど知られておらず、戦の名人としてその名が轟いていたのは昌幸の方でした。実際、幸村が戦ったのは関ヶ原の戦いの時くらいの様ですからね。しかし、真田氏一族の出という事で、豊臣方の期待は大きいものがあった様です。

大坂城に入った浪人衆の中で特に有力な武将は大坂五人衆とも呼ばれ、幸村の他に後藤又兵衛、長宗我部盛親、明石全登、毛利勝永が居ました。この中で最も高名だったのが後藤又兵衛で、黒田家の家臣として活躍し、知勇を兼ねた武将として知られていました。たぶん、実戦経験も群を抜いて豊富だったんじゃないかな。

幸村は確かに有名な武将ですが、彼ばかりが強調されるこのドラマには少し違和感を感じますね。まあ、いまさら5人衆を出しても煩雑なだけという気もしないではないですが。

秀忠が秀頼に手紙を書いたというのは創作ですが、それを拠り所とするしかなかったドラマの秀頼というのも、何だか哀れに思えましたね。史実とはまるで違うとは判っていても、あの思いが通じていたらと、ふと思ってしまいます。

次回は大坂冬の陣、再び家康の悪辣さが発揮される戦いですね。そして幸村の活躍は描かれるのかしらん?淀殿の甲冑姿もあるらしいので、いろいろ楽しみな回ではあります。

2011年10月22日 (土)

京都・洛西 紅葉の予感 ~二尊院~

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嵯峨野の二尊院も紅葉の名所として知られる場所です。中でも山門から続くこの参道は紅葉の馬場と呼ばれ、両側に植えられたもみじが美しく色付く好ポイントです。

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昨年は11月14日に訪れているのですが、少しタイミングが早かった様ですね。部分的には綺麗に染まっていたのですが、全体としては見頃と呼ぶには今少しといったところでした。

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境内で一番綺麗な場所を撮るとこんな感じで、赤い木は丁度見頃でしたね。でも、黄色の木がまだ色付き半ばといったところで、まだら模様に見えてしまっています。

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これは九頭竜弁天の前から見た景色で、やはり見頃の木とこれからの木が混在しているのが判ります。たぶん、この数日後が一番綺麗だったんじゃないかしらん?

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ここもエリアによって紅葉の時期が異なると思われるのですが、正直言ってあまり把握出来ていません。そういった傾向が掴める程には通い詰めていのですよ。たぶん、紅葉の馬場が一番遅くに色付くのではないかなと思う程度ですね。

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ここは去年初めて見た茶室の紅葉です。この茶室は紅葉の時期にだけ公開される様ですね。確か実際にお茶を頂く事も出来たのではなかったかな。見頃のもみじと赤い傘がマッチしてとても綺麗でしたよ。

もし今年も行けるとしたら、この茶室でゆっくりとお茶を飲みながら、紅葉を愛でてみたいものだと思っているところです。

2011年10月21日 (金)

京都・洛北 紅葉の予感 ~詩仙堂~

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詩仙堂は、市内で最も美しい紅葉が見られるポイントの一つです。紅葉のタイミングは割と標準的と言えそうで、11月の半ばから後半に掛けて見頃になる事が多いようです。昨年は11月6日と23日の二回に渡って訪れました。

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上3枚は11月6日の様子で、まだほんのりと色付きはじめたばかりといった状況でした。地球温暖化と言われる前なら見頃になっていてもおかしくないタイミングなのですけどね、最近は11月も中旬を過ぎないと色付かないところがほとんどです。

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詩仙堂に数あるもみじの中でも、紅葉に関しては最も重要なのがこの木で、庭全体の基調をなすと言っても過言ではないと思っています。座敷から見える紅葉の左半分はこの木ですし、嘯月楼と絡めて見るにも好ポイントとなりますからね。

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11月23日に訪れた時は、とても綺麗に染まっていました。この前年が外れ年で残念な思いをしていただけに、嬉しい景色でしたね。

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惜しむらくは、この日の前日に雨が降っており、かなりの葉が落ちてしまっていた事でした。ですから、ボリューム感が少し減っていたのですよ。まあ、その分、敷き紅葉も楽しめたの゛ですから、悪い事ばかりでは無かったのですけどね。

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これが私がメインと思っている木で、この存在感は素晴らしいものがあるでしょう。下の庭からも正面にあたり、ススキや柿を絡めた景色も見ごたえのある木ですよ。

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これだけの色に染まるのは、普段の管理が行き届いているからなのでしょうね。害虫の駆除や施肥、それに枝打ちなどを含めて不断の努力をされているからこその紅葉なのだろうと思っています。

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さて、今年はどうなるでしょうね。来週半ばあたりから冷え込みが始まるそうですが、それがどこまで紅葉に結びつくかどうか。今年もこれだけの紅葉が見られると嬉しいのですけどね。結果が出るまであとひと月ほどです。

2011年10月20日 (木)

京都・洛東 紅葉の予感 ~天授庵~

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南禅寺塔頭の天授庵も、比較的早く紅葉が始まるポイントです。昨年は11月3日と21日の二度訪れているのですが、残念な事に盛りの時期に合わす事が出来ませんでした。

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11月3日はこんな様子で、冒頭の百日紅が黄色く染まっていた他は、まだ色付き始めたばかりといったところでした。早い年なら、もう少し雰囲気が出ているところなのですけどね。

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こちらは21日の様子ですが、本堂前庭園の北側は比較的色付いていました。ただ、まだピークとは言えず、盛りまであと少しと言ったところでしたでしょうか。

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同じ庭の南側では、まだオレンジ色が主体で、緑の葉も残っているといったところでした。この庭は北と南で進行具合に差があるのが普通で、全てを見渡して美しいという状態には、なかなか成りにくいのですよ。でも、昨年はいつも以上にタイミングが合っていない感じだったなあ。

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南庭は21日になってようやく色付き始めた所でした。こちらは本堂前庭園より1~2週間遅れるのが常なので、相対的に見ればこんなものたったかな。ただ、他のポイントに比べると例年より遅れているという気がしました。

天授庵は南禅寺の中にあって、比較的空いているポイントです。たぶん、境内を見るだけなら無料ですから、わざわざ料金を払ってまで見ようという人が少ないのかも知れないですね。でも、こじんまりとした庭は風情に溢れており、境内とは違った手入れの行き届いた美しさがありますよ。

もう一つ、夜間拝観を行っているのもここの魅力の一つですね。夜に見る紅葉は美しさが3割増しに見えると言いますから、是非訪れて確かめてみて下さい。

2011年10月19日 (水)

京都・洛北 紅葉の予感 ~源光庵~

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光悦寺のすぐ近くにあり、大抵セットで訪れるのが源光庵です。ここも昨年は11月6日と20日の二度訪れました。

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光悦寺とはお向かいさんと言って良い程の源光庵ですが、紅葉に関しては少し事情が異なります。こちらの方が1週間から2週間ほど進行が遅いのですよ。ですので、セットで訪れるとは言っても、両方が盛りの時に当たる事は難しいと思われます。

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昨年の11月6日の様子はこんな感じで、早い木はほんのりと染まっていましたが、まだほとんど緑のままと言って良い状態でした。

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こちらは2週間後の様子で、かなり良い感じに染まっていましたね。でも、まだ少し浅い感じだったかな。右のもみじが色付いていれば、また違う感じになったのかも知れません。

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ここも木や場所によって色付くタイミングが異なるようです。この日はこのもみじが綺麗な色に染まり、白壁と見事な対象を見せてくれていました。

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庭園の方はオレンジ色が強く、盛りまであと少しといった状態でしたね。こんな具合に全ての木が一斉に色付くという事はなく、訪れた時の盛りの木を愛でるという心づもりで居るのが良いと思われます。でも、やっぱり悟りの窓から見える木が色付いていて欲しいところではありますけどね。

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この日はススキも良い感じになっていました。源光庵は人気が高く訪れる人も多いのですが、それでも風情のある良い場所である事には変わりありません。

あと、交通が不便という事がネックかな。普通はバスでしょうけど、多人数の場合はタクシーを利用する手も良いかも知れませんよ。

2011年10月18日 (火)

京都・洛北 紅葉の予感 ~光悦寺~

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鷹峯の地にある光悦寺は、京都市内で最も早く色付く紅葉のポイントの一つとして知られます。昨年は11月6日と20日の二度訪れ、その素晴らしい紅葉に出会う事が出来ました。

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この写真は11月6日に訪れた時のものですが、光悦垣の周辺はまだほんのりと色付いているといった程度でしたね。ただ、木によっては綺麗に染まっているものもあり、さすがに光悦寺だと思わせるものはありました。

冒頭の写真がその二週間後の様子で、見事に染まっている事が判ります。

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この写真は再び11月6日のもので、拝観入り口から少し入ったあたりの通路の様子です。ここは比較的早くから色付く場所であり、10月の終わり頃にはこんな雰囲気になっていると思われますよ。

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20日には、境内のほぼ全域で色付いていました。昨年の紅葉については、さほど良くなかったという意見を聞きますが、私的にはまずまず綺麗だったと思っています。その一例がこの光悦寺ですね。

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光悦寺からは、鷹峯三山の黄葉も見る事が出来ますよ。全山が染まるという事は無いけれど、着物の模様の様な色付き方というのもまた良いものだと思っています。

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光悦寺もまた染まる順番があって、3枚目の通路付近から始まり、光悦垣の付近が色付く頃が最盛期かな、そして最後に参道のもみじか色付いてやっとシーズンを終えます。紅葉が始まるのは早いけれど、参道のもみじか散るのは11月の末頃だったのではないかしらん。そう考えると、結構息の長いポイントだと言えるのかも知れませんね。

2011年10月17日 (月)

京都・洛西 紅葉の予感 ~常寂光寺~

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嵯峨野に行けば大抵寄るのが常寂光寺です。小倉山の山懐に抱かれた、緑あふれる落ち着いた佇まいが良いのですよ。無論、紅葉の時期を除いての話なのですけどね。

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昨年の紅葉シーズンは、10月31日と11月14日の二度に渡って訪れています。上の4枚は10月31日の時の様子で、まだわずかに色付き始めたばかりでした。

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そんな中で、多宝塔脇にあった一本のもみじだけが色付いており、来るべき日々を彷彿とさせてくれていました。

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北側の階段は全くの緑のままで、紅葉の訪れが遅い事を物語っています。それは一番最後の写真を見ると一目瞭然ですよ。

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こちらは11月14日の様子です。二週間の間に大きく変わった事が判るでしょう?これでもまだ盛りには少し早く、4分くらいの色付き加減かな。

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多宝塔付近はほぼ見頃と言って良い状態でした。欲を言えば、中央のもみじの発色が今ひとつなのですけどね。もしかしたら、この数日後には真っ赤に染まっていたのかも知れません。

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北側の階段付近はこのとおりで、まだほとんど紅葉は進んでいませんでした。所々色付いて見えるのは、正面階段付近のもみじが透けて見えているからで、この階段沿いの木はほぼ緑のままでした。ここが色付いたのは、たぶん12月初め頃だったのではないかと思われます。

さほど広くない境内の中でこれほどの差が出るのは不思議としか言い様が無いのですが、紅葉を撮りに行く時には、ポイントごとのこうした傾向を知っておく必要があると言えます。この寺で言えば、多宝塔周辺、本堂周辺、山門付近、北側の階段の順で色付いて行きますよ。ですので、全体を見れば見頃はひと月近く続くとも言えるし、一つのポイントに限って言えば盛りは一週間と保たないという事にもなります。そのあたり人によって見方が変わるという事になりそうですね。

今年はさて、どんな紅葉を見せてくれるでしょうね。楽しみな事ではあります。

2011年10月16日 (日)

江~姫たちの戦国~40 親の心

(慶長16年、夏。竹千代を巡って福と折り合いの付かない江。母よりも福に懐いている竹千代。)

(竹千代について、何か間違ってしまったのだろうかと気に病む江。そんな江を励ます国松。その様子を物陰から見ている竹千代。それを見た大姥局が江の下に行くように薦めますが、竹千代は逃げてしまいます。)

(父、家康との関係を思い悩んでいる様子の秀忠。)

(秀頼との対面以来、ますます政務に励むようになった家康。駿府で方針を決めた事を江戸の秀忠に伝え、実務化させるというのがこの頃のやり方でした。)

(家康からの命に、何が隠居だとぼやく秀忠。何事も学ぶべき時だと諭す正信。家康が命じてきた諸城の修築は、大坂城を囲い込むためのもので、来るべき戦に備えてのものだと見抜く秀忠。豊臣についての意見はと正信に聞かれ、無論あると答える秀忠。その意見を家康に伝えてはと言われますが、聞く耳を持たぬ相手に話したくもないと言って席を立ってしまいます。)

(大坂城。側室との間に出来た男の子と遊ぶ秀頼。その様子を見守る淀殿と常高院。家康との関係について、今は取り立ててないが、何か企んでいるに違いないと淀殿。)

(子供と遊ぶ秀頼を、物陰からじっと見ている千姫。それに気付いて、千が哀れではないのかと問う初に、千はまだ妻とは言えないと言い切る淀殿。)

(千の下を訪れ、何でも話して欲しいと語りかける常高院。それに答えて、自分も秀頼の子を産みたいと言う千。その一方で、淀殿は自分を妻として相応しくないと考えているのではとも言う千。何も言えない常高院。)

(江戸城。剣の稽古に励む国松。その様子を見て、自ら相手になってやる秀忠。そこに通りかかった竹千代。)

(今度は竹千代の相手をしてやる秀忠。しかし、一太刀合わせただけで転び、立ち上がれない竹千代。助けに駆け寄る国松を払いのけ、福に抱きつく竹千代。その竹千代が怪我をしていると言って、部屋に連れて帰ろうとする福。竹千代に向かって、いつても相手になるぞと声を掛ける秀忠。黙って帰ろうとする竹千代に、竹千代はひ弱いなという秀忠の独り言が聞こえてしまいます。はっとして振り返る竹千代。その様子に気付かずに、国松と相撲を取り始める秀忠。)

(国松が跡継ぎになるのではないかと噂し始める侍女たち。それを聞いて驚いた様子の福。)

(竹千代の健康祈願のためにと、伊勢参りを願い出る福。)

(福の居ない間、竹千代と二人で過ごせると期待した江。しかし、竹千代は落ち着かず、福を探し求めて叫ぶばかりです。)

(国松が跡継ぎになるのではないか、だとすれば今の内に機嫌を取っておかねばならないと噂している家臣達。それを聞いて叱りつける大姥局。)

(駿府城。家康に拝謁している福。かの女は、秀忠と江が国松を贔屓にしている事、そのせいで竹千代が傷ついている事、さらに国松が跡継ぎになるという噂が広まっている事などを訴えます。福に対し、竹千代を囲い込み過ぎているのではないかとたしなめつつ、跡継ぎの事は考えていると答える家康。)

(10月。江戸城。久しぶりに帰った家康は、秀忠以下一同を前に、徳川の跡継ぎは竹千代とすると宣言します。怪訝な様子の秀忠。嬉しそうな福。)

(なぜ秀忠の跡継ぎまで家康が決めてしまうのかと江。あの人は何でも自分で決めてしまうのだと秀忠。)

(家康の部屋。竹千代を跡継ぎに決めたという事は、次の将軍までも決めたという事かと聞く江。これ以上、豊臣を追い詰めないで欲しいと願う江に、竹千代を跡継ぎに決めた訳ではないと答える家康。そして江に対して、跡継ぎを巡って江戸城内が浮き足立っていると聞く、江戸を任せているのにその様な事でどうすると伝えよと告げる家康。)

(ぬけぬけと親父めと、あきれる秀忠。国松が跡継ぎという事もあり得るのかと江。そして、竹千代は可愛いが、跡継ぎには聡明で闊達な国松の方が相応しいと考えると秀忠に告げる江。生返事で答える秀忠。)

(竹千代の部屋。竹千代を寝かしつけ、天下を担われるお方だと語りかける福。そこに現れた大姥局。)

(伊勢参りと偽り、駿府で家康に直訴した事を責める大姥局。そして、竹千代は乳母の子ではない、乳母は母と子を繋ぐのが役目だと諭します。その後、突然苦しみ出す大姥局。)

(部屋で寝かされてる大姥局。彼女が目を覚ますと家康が見舞いに来ていました。あわてて起きる大姥局。局を労る家康。そこに現れた江。江に後を託し、出て行こうとする家康。その家康を引き止め、申し上げたい事があると言い出す局。)

(局の話とは、秀忠とゆっくり話し合ってもらいたいという事でした。あいつは心を開かないと渋る家康。それは家康の心が引いているからだと局。打ち消されると判っていて心を開く子は居ないと言う局に、うなずく家康。そこに入ってきた秀忠。気まずげに出て行く家康。)

(また苦しみだした局。駆け寄る秀忠に、自分の遺言と思って家康と心を開いて話し合って欲しいと願う大姥局。しぶる秀忠に苦しんで見せ、今すぐにと迫る局。慌てて家康の下に急ぐ秀忠。しかし、それは局の芝居でした。江を見て上手く行ったと笑う局。そこに戻ってきた秀忠。慌てて芝居をする局。)

(そんな局を労り、そなたは生みの母よりもずっと母であったと礼を言う秀忠。勿体ない事と泣き崩れる局。)

(自室で考え込む家康。そこにやって来た秀忠。)

(縁側で、月見の宴を開いた家康と秀忠。家康が飲んでいる酒に目を止めた秀忠。飲むかと薦める家康。一口飲んでむせ返る秀忠。まむしの酒だ、まだまだ保たさなければならないからなと答える家康。それは世を治めるためかと問う秀忠に、徳川を守り繫いでいくためだ、そのためには何でもすると答える家康。)

(たまには腹を割って話してみよと家康。ならばと、豊臣を追い落とすつもりかと聞く秀忠。徳川を守る為ならなと家康。我が家さえ栄えれば良いと考えているのかと吐き捨てる秀忠。そなたならどうすると問い返す家康に、豊臣と徳川が並び立つ道を考えると答える秀忠。それは無理だと言下に否定する家康。)

(豊臣が一大名に甘んずるというならともかく、それは淀殿が受け入れないだろうと家康。それは豊臣への恨みか、臣従させられた事、国替えをさせられた事などが積もり積もって、秀頼や淀殿に向けられているのではないかと問う秀忠。それは本気で言っている訳ではないだろうと笑い飛ばし、徳川と豊臣が並び立つなどあり得ぬと否定する家康。やってみなければ判らぬと語気を荒げる秀忠。)

(秀忠の方に向き直り、この世には知恵と力を尽くしても、どうにもならない事があるのだと語りかける家康。父上には時間が無い、それゆえ焦っているだけだろうと秀忠。そうかもしれないと言いつつ、きれい事を並べるだけでは物事は前に進まないと譲らない家康。立ち上がり、こうして話し合って判った事がある、それは話してもわかり合う事はないという事だと言い捨てて立ち去る秀忠。)

(大坂城。淀殿に、千と名実共に夫婦になりたいと願い出た秀頼。語気を荒げて、まだ早いと許さない淀殿。しかし、秀頼は、千は自分の正室であり、徳川家から貰った飾り物ではないと反論します。それを聞いて、好きにせよと答える淀殿。)

(千の髪に花を挿してやる秀頼。嬉しそうな千。その様子を見守っている常高院。その横に立ち、千には秀頼の子を産ませたくなかった、それは徳川と豊臣が戦になった時、千が二つに引き裂かれてしまうからだと淀殿。そのような事にはしないで欲しいと叫ぶ常高院。徳川が何を仕掛けてこようとも、天下は豊臣のものだと言い切る淀殿。では戦になっても構わぬのかと常高院。私の覚悟は変わらないと淀殿。)

(江戸城。正信から家康が駿府に帰ったと聞く秀忠。そこに現れた林羅山。彼は豊臣についての秀忠の意見をまとめ、駿府に伝えるようにと家康から命じられていました。意外そうな秀忠。)

(大姥局を見舞う江。身体を壊した以上、暇乞いをするという局。そして、江に竹千代の母である事を忘れないで居て欲しいと頼みます。あの子は心を開かないと嘆く江。家康と同じ事を言うと笑う局。何があっても自分を見ていてくれる親があって初めて子は安心するのではないかと説く局に、うなずく江。)

(福と鞠遊びをしている竹千代。その様子を廊下から見ている江。その江の下に鞠が飛んでいき、竹千代が取りに行きます。その竹千代の手を取り、母と話をしないかと語りかける江。しかし、竹千代は福を顧みて、福が呼んでいるからと言って母の下から去っていきます。顔を曇らせる江の下に、馬の絵を描いたと言って国松がやってきます。その絵を見て、上手く描けたと褒めてやる江。その様子をじっと見ている竹千代。)

今回は家康と秀忠、秀忠、江と竹千代、国松、淀殿と秀頼、それぞれの親子関係がメインテーマでした。歴史的な流れからすると小休止の様な回ではありましたが、家族関係をメインテーマとするこのドラマにあっては重要な回だったのでしょう。

このうち、江が竹千代より国松を大事にしていたという事は、古文書によって確認が出来るそうです。それは家康が江に当てた文書で、家康訓戒状と呼ばれています。

そこにはまず国松が聡明な生まれつきであり、江が秘蔵っ子として可愛がっていた事が記されています。その事は良いとした上で家康は、大名の惣領は格別な存在であり、次男より下は家来として申し聞かせて育てるべきであると言い切っています。そして、次男が勢威あるのは家の乱れの元であると言い、国松が力を持つ事を諌めました。

戦国時代を通じて大名の跡継ぎは、必ずしも長男が継ぐというものではなく、複数の候補者の中から力のある者を選んで継がせるという事が多かった様です。そうでもしない限り、実力で争い合う世の中にあっては家を保てなかったからなのでしょうね。その一方で、跡継ぎを巡る争いが絶えなかったのも事実で、相続権を決めるという事は大名家にとっては常に頭の痛い問題でした。家康自身、長男の信康を失った後は、次男の秀康ではなく三男の秀忠を跡継ぎにしている程ですからね、厳密に決まったルールというものは徳川家にあっても存在しなかったのでしょう。

家康は、竹千代と国松の問題を長幼の序という形でけりを付けると共に、将来に渡ってお家騒動が生じる可能性を無くしておこうとしたのだと言われます。

ここで面白いのは、家康はわざわざ江に宛てて手紙を書いている事で、この件に関しては江の存在が秀忠よりも大きかったのかなと思ってしまいますね。つまり、国松をより可愛がったのは江であり、秀忠はそれに引きずられる形で国松に気持ちが傾いていたのかなと想像出来るのです。この問題の鍵を握っていたのは、きっと江だったのでしょうね。

この書状によって、福との間に確執があったであろう事も想像が付きます。国松にも乳母が居て、その点では竹千代と同等だったのですが、子供の資質の違いという点で江の気持ちは国松に傾いたのでしょう。戦国の風を引き継ぐ江としては、当然の事だったと言えるかも知れないですね。しかし、竹千代の側に立つ福が危機感を持ったのもまた当然で、彼女はドラマであった様に家康に直訴に及んだとも言われています。結果として家康は福の側に軍配を上げた事になり、このことは後に福が絶大な権勢を得る遠因ともなったのでしょうね。

一つ判らないのは、ドラマの中で家康が竹千代を跡継ぎに決めた訳ではないと言っていた事で、後の展開の伏線なのかなと思ってしまいます。いくら何でも、あの展開であの言い方をすれば、混乱の元にしかならないのは明白ですからね。どんな仕掛けを考えているのかしらん。

千姫と秀頼、そして淀殿との関係については、仲睦まじかったとも、反対に常に冷え切っていたも言われており、正確な事は判らないというのが実情の様です。

千姫の立場というのは微妙なもので、秀頼の正室であると同時に家康の孫であり、その家臣は徳川から来た者達です。その家臣は、場合によっては大坂城内の事を江戸に伝える間諜の役目も果たして居た事でしょうね。

淀殿にしてみれば、千姫に対しては姑であると同時に伯母でもあり、それだけでも複雑な心境だった事でしょう。その上に、千姫の背後には常に徳川の目があると意識せねばならず、とても仲睦まじくとは行かなかった様にも思えます。かと言って虐めていたのかというと、そういう証拠も無いのですね。結局のところ、相当に微妙な関係にあったのだろうなと想像が付くという程度に止まります。

秀頼と千姫に関しては、11年間一緒に暮らしながらも子がなかったという事実から、二人の間には夫婦関係が無かったのではという推測がなされています。後に千姫は数人の子を産んでおり、秀頼もまた側室との間に子が居ました。つまり、仲の良い夫婦なら子ができない訳がないと言うのですね。

その一方で、千姫の成人の儀式である鬢そぎを秀頼が行ってやったという話も伝わっており、幼女であった千姫の成長を待って夫婦となったという見方もあります。ドラマはこの説に添った展開を選んだ様ですね。どちらが正しいのかは、これもまた藪の中と言うよりないというのが現状の様です。

家康と秀忠の関係については、全くの創作と言うより無いでしょう。でも、ドラマの展開として、そろそろ折り合いを付けるのかと思っていたら、あくまで意地張り通したという所に秀忠らしさか現れていました。その後に家康が林羅山を置いていったのは、大姥局の働きが効いた結果だったのでしょうか。

来週はいよいよ大坂の陣が描かれる様です。そして、その前に方広寺鐘銘事件も出て来る様ですね。そこには林羅山も絡むはずで、秀忠の意見とやらがどう反映されるのか見物だと思っているところです。

2011年10月15日 (土)

京都・洛西 紅葉の予感 ~化野念仏寺~

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今週末も京都に出かけられなかったので、過去に撮った写真からの構成となります。

この時期になると待ちどおしくなるのは紅葉ですね。そこで少し早いのですが、昨年の10月末から11月のはじめに掛けて撮った写真をセレクトし、紅葉の走りの季節をお届けします。まずは昨年10月31日に訪れた化野念仏寺からです。

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化野念仏寺は、嵯峨野の中では比較的早く色付く場所で、昨年は10月の末でも結構雰囲気が出ていました。無論、最盛期に比べると物足りないのですが、シーズンの始めにこれだけ色付いているところを見ると、実際より3割り増しくらいに綺麗に見えてしまうものなのですよね。

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ここ化野は葬送の地だった所です。古くは風葬が行われ、のち土葬に代わりましたが、さぞかし荒涼とした景色が広がっていた事でしょうね。今、この地を歩いてもそんな面影はどこにも無く、この賽の河原に全てが凝縮されているかの様です。

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この境内には、綺麗なお顔をした観音様があります。いつも気になっていて、ここに来るとポートレートを撮ってしまうのですよね。この日は紅葉の色を背景に横顔を撮ってみました。この観音様の端正なお顔が良く判って貰えるかしらん?

昨年は、この日から2週間後あたりに紅葉の盛りを迎えていました。今年はさて、どうなるでしょうね。あと2週間ほどで月末を迎えますが、その頃に見に行けたらなと思っています。

2011年10月14日 (金)

京都・洛中 秋の境内2011 ~雨宝院 10.9~

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平成23年10月9日の雨宝院です。この日は私の他には参拝者は一人も居なくて、貸し切り状態でした。ですので、桜時分には難しいこんな写真も簡単に撮る事が出来ます。

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その門の向こうに見えるのは本隆寺の塀ですが、土壁の中に瓦が埋め込まれ、独特の模様が描かれている事で知られています。その瓦の並べ方も一様ではなく、じっくり見るといろいろな変化があって面白いですね。遊び心満点の土塀です。

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花の寺として知られる雨宝院ですが、この日は芙蓉だけが咲いていました。ただ、境内の中からはほとんど見えず、道から塀越しに見上げたこの角度が一番綺麗でしたね。

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ところで、これまで気が付いていなかったのですが、この寺の紋所は違い大根だったのですね。実は丁字と勘違いしてたのですが、よく見ると葉っぱがリアルに描かれているではありませんか。

調べてみると、この寺の本尊である大聖歓喜天の紋所がこの大根なのだとか。この寺は日本最古の大聖歓喜天とも書かれていますから、もしかしたらここが発祥の地なのかも知れないとも思ってしまいますね。何度となく訪れているこの寺でも、まだまだ知らない事が沢山ありそうだと感じた次第です。

2011年10月13日 (木)

京都・洛中 秋の境内2011 ~天寧寺 10.9~

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秋晴れに恵まれたこの日、くっきりと見える比叡山に誘われて天寧寺を訪れてきました。狙いはむろん、額縁に入った比叡山の姿です。結果はご覧のとおりで、写真に撮るには少しだけ山影が薄かったでしょうか。

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天寧寺は知れざる花の寺で、訪れる都度に何がしかの花を見る事が出来ます。この日まず目に付いたのが稲荷社前の萩でした。盛りは少し過ぎていたものの、なかなか綺麗な花が咲いていましたよ。

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期待していた白の秋明菊にも出会う事が出来ました。毎年、この庭でこの花を見るのを楽しみにしているのですが、丁度咲き始めたところだった様ですね。透明感のある白と黄色のシンプルな花色ですが、とても綺麗な花だと思っています。

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芙蓉もまた咲いていました。ただ、全体を撮ったものは絵にならなかったので、マクロで撮った写真を置いておきますね。花色の美しさは判って貰えると思いますので。

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そして、まだ咲いてはいなかったけれども、ススキの穂も出ていましたよ。こんな具合に、天寧寺の境内には秋が一杯詰まっていましたね。

ところで、この鶏は何なのでしょうね。たぶん灯籠なのでしょうけど、上に居るこの鶏には何か謂われがあるのだろうかとずっと気になっているのです。ただの装飾かなという気もするのですけどね、どなたかご存じありません事?

2011年10月12日 (水)

京都・洛中 芙蓉2011 ~妙蓮寺 10.9~

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平成23年10月9日の妙蓮寺です。この日は最終盤を迎えた芙蓉が美しく境内を彩っていました。

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さすがに盛りは過ぎていて、蕾の数も残りあとわずかといったところでした。今週末あたりには、相当に寂しくなっているのではないかしらん?

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その一方で、今が盛りと咲いている木もあります。門前の赤い芙蓉がそうで、ハイビスカスと見まがう様な鮮やかな色彩でした。この花はもう暫くの間、見る事が出来るかも知れませんね。

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もう一つのお目当てである御会式桜は数輪が咲いていました。近年衰弱が目立ち、枯れた部分が伐採されたりしていますが、こうして花を見ると嬉しいものですね。今残っている木は元気そうにも見え、このままずっと咲き続けていってほしいものだと思います。

2011年10月11日 (火)

京都・洛東 萩2011 ~真如堂 10.9~

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迎称寺の萩を見た後は、真如堂に寄ってきました。ここの萩も開花が遅れていたので、気になっていたのです。

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この日の萩は、全体として見頃終盤といった感じでしたでしょうか。場所によって状態は違うのですが、開花が遅れた分、比較的花は残っている様に思いました。

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一番綺麗だと思ったのは、書院南側の植え込みにある萩ですね。奥まった場所にあり、かつもみじの日陰になるのであまり目立たないのですが、まずまず綺麗な花を咲かせていました。

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境内の紅葉もだんだんと進んできています。この夏椿などは、かなり葉が黄色くなってきていましたよ。

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そして、花の木の先端も一段と色付いてきています。紅葉が本格化するまであとひと月ほどですが、この色付き加減を見ると期待したくなってきますね。

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本堂の前ではフジバカマの鉢植えが並べられていました。説明書きには松栄堂が保護活動の一環として育てたとあり、以前のKBSの運動を引き継いだものなのでしょうか。

これは園芸品種ではなく、原種のフジバカマですね。なぜ判るかというと色が薄いのですよ。園芸品種は赤みが強いのに対し、原種はぱっと見、ほとんど白に見えます。よく見るとほんのりと赤いのですけどね。

この花の蜜が好きなアサギマダラが来ていないかと期待していたのですが、残念ながらこの日は見る事が出来ませんでした。去年は結構あちこちで見る事が出来たのだけどなあ。もう暫くは保ちそうだったので、チャンスは残っているかも、ですね。

2011年10月10日 (月)

京都・洛東 萩2011 ~迎称寺 10.9~

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平成23年10月9日の迎称寺です。前回は9月24日に訪れているのですが、その時はまだ開花が進んでいなかったので、もう一度確かめに行ってきました。

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結果は、全体として見頃は過ぎているものの、部分的にはまだ見頃の株も残っているといったところでした。たぶん、先週あたりが盛りだったんじゃないかなあ。

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比較的花が残っていたのは、南側の土塀の両端でした。真ん中付近の株は軒並み花が終わっていましたね。

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中でも山門の西側の一角はご覧の通りで、見頃と言っても良かったと思います。まだつぼみも残っていましたので、今日あたりでも綺麗なままなんじゃないかな。

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東側の土塀は少し寂しい感じではありましたが、それなりに咲いていました。ここは既に終わりかけの株と、まだつぼみが沢山残っている株が混在しており、花期が株毎にずれた様ですね。ですので、もしかしたら見頃はまだこれからなのかも知れません。まあ、かなりの希望的観測ですので、あまり当てにはしないで下さいね。

ところで、この土塀の裏側を覗いてみたのですが、崩れ落ちた土壁や瓦がたくさん堆積していました。やっぱり、この壁の崩れ方は半端ではない様ですね。このままだと本当に崩壊してしまうんじゃないかと、要らぬ心配をしてしまった次第です。

2011年10月 9日 (日)

江~姫たちの戦国~39 運命の対面

(江戸城。初めての御台所となった江。民部卿局と名を改め、江戸城の奥を取り仕切る事となったヨシ。二人に相応の覚悟をと迫る大姥局。そこに現れた福。)

(竹千代に熱があるからと連れてこなかった福。ではこちらから参ると立ち上がる江。御台所としての覚悟が足りぬと江を止める大姥。我が子も抱けないで、何が御台所かとこぼす江。)

(京。高台院の下を訪れている家康。秀忠の二代将軍就任を祝う高台院。怒っていないのかという家康の問い掛けに、出家した身ゆえ、俗世の事には感心が無くなったと答える高台院。そして、家康も隠居したのだから、いつでも茶の相手くらいはさせてもらうと続ける高台院に、自分はまだまだ俗世に生きる身、隠居は形の上だけと言って茶碗を置く家康。そして、高台院に願いがあると切り出します。)

(大坂城。秀忠の将軍就任祝いために、秀頼の上洛を促す家康。その使者となり大坂城にやってきた高台院。その伝言を伝えつつ、味方する大名が居ない豊臣の現状を訴え、ここは一歩譲るべきだと主張する且元。それでも豊臣の家臣かと且元を面罵する治長。)

(自分はともかく、秀頼が見下されるのは許せない。どうしても上洛せよと言うのなら、秀頼を殺して自分も死ぬと伝えよと答える淀殿。)

(秀頼は上洛しないという高台院の手紙に目をやり、また機会もあろうとあっさりと諦める家康。このままでは大戦になってしまう、その火種を消す為にこれから大坂に行くと言い出す秀忠。それには及ばぬと引き止める家康。)

(諸大名には秀忠の名で江戸城を築く手伝いをせよという命令を出してある、これからは大坂ではなく江戸が日本の中心となる、その江戸で諸大名を差配するのは将軍である秀忠の役目だと諭す家康。不服そうな秀忠に念を押す家康。)

(淀殿の言葉を聞き、憂いの色が濃くなる江。江戸城修築に駆り出される大名の中にも不服を抱く者が出て来ると心配する秀忠。)

(慶長11年6月。改築が進む江戸城で、二人目の男子、国松を産んだ江。その国松を自分で育てる事にした江。その母を見て、様子がおかしい竹千代。)

(大坂城。国松誕生の知らせに祝いの品をと淀殿。二人の跡継ぎが出来た徳川に比べて、豊臣にはまだ居ないと言い出す治長。千姫はまだ10歳だと言う淀殿に、秀頼は既に17歳だと答える治長。側室の事かと驚く淀殿に、世継ぎが居ないままに、徳川に戦を仕掛けられたらと迫る治長。)

(側室の部屋に入る秀頼。自室で一人座り、これで良いのかと自問する淀殿。)

(慶長11年11月。江戸城。城普請が進む城内を検分し、満足そうな家康。その家康に、この城には家康が入るのが相応しい、自分は家族を連れて伏見城に入る、出来る事なら大坂城の西の丸に入るのがなお望ましいと願い出る秀忠。そうすれば、淀殿や秀忠と意思疎通が出来るというのがその理由でした。賛同する江。秀頼と手を結んで自分と戦を構えるつもりかとあきれる家康。)

(きれい事は良いと秀忠の申し出を一蹴し、自分は駿府に城を建て、そこで隠居する事にしたと言い渡す家康。大坂と江戸の間に身を置き、両方に睨みを利かせて全てを操るつもりかと迫る秀忠。隠居だとあくまでとぼける家康。自分は自分のやり方を貫くと言って、席を立つ秀忠。江を呼び止める家康。)

(国松をなぜ乳母に任せないと問う家康に、国松は自分が産んだ子だと答える江。それは違う、江の子である前に徳川の子だと諭す家康。しかし、自分の産んだ子は全て自分の子だ、家康お気に入りの福に奪われた竹千代を除いてはと抗う江。驚く家康を棄てて立ち去る江。大姥局相手に、どいつもこいつもだなと嘆息する家康。)

(落成した駿府城で、二元政治を始めた家康。)

(若狭、小浜城。江からの手紙を読む初。そこに現れた高次。江からの手紙には、乳母の福の事、そして何より淀殿の事で悩んでいる事が認められていました。自分も姉の事が心配だと初。)

(天下取りの為には、豊臣を臣下に置く事が早道だと高次。天下取り?!と驚く初。何を今更、火を見るより明らかではきないかと高次。豊臣と徳川の間に立たされた江の苦悩を思いやる初。その時、急に倒れ込んだ高次。驚き、抱き上げる初。苦しそうな高次。)

(病となり、寝込んだ高次。その横で高次の手を握ったまま座り続ける初。)

(慶長16年11月。完成した江戸城。庭で剣の稽古をする国松。その様子を見守り、自らも相手をする秀忠。その近くの部屋で、福と共に進講を受けている竹千代。国松と秀忠が気になる様子です。)

(江の部屋。勝に香道を教え、5人目の娘、和と共に団欒を楽しんでいる江。そこに現れた初は、出家姿となっていました。高次は2年前に亡くなり、初は出家して常高院と名を変えていたのです。)

(徳川、豊臣の双方を裏切ったという思いが消えぬ高次の遺言に従い、徳川と豊臣を繋ぐ役目を果たすべく大坂城に入るという常高院。それは母の市が残した言葉でもありました。是非にと初に頼む江。)

(大坂城に入った初。歓迎する淀殿。そこで目にしたのは、秀頼の側室が産んだ男の子でした。)

(大勢の侍女たちに世話をされている秀頼の子。)

(淀殿に、秀忠が将軍になったのは世を泰平にするためであり、決して豊臣を追い詰める為ではないのだという江の伝言を伝える常高院。秀忠は嫌いではないと言いつつも、泰平の世を作るのは秀頼の役目であったはず、それを家康は横から奪い取ろうとしている。関ヶ原では豊臣恩顧の大名を次々に裏切らせ、さらには天下取りまで企んでいる。江が何と言おうと徳川は敵である、この恨みは徳川が滅びる日まで消える事がないと惑乱する淀殿。その様子に驚き、自分が側に居ると言って淀殿を抱きしめる常高院。)

(駿府城。秀頼に再度上洛を求める家康。)

(大坂城。新しい帝の即位の祝いに上洛せよという家康の言葉を伝える且元。狙いは6年前と同じで、豊臣を臣従させるためだと叫ぶ淀殿。断固断るまでだと息巻く治長。そこに、話し合ってみなければ互いの思いは判らないではないかと割って入る常高院。しかし、秀頼が家康に殺されるかもしれないと譲らない淀殿。絶句する常高院。)

(その時、殺されはしないと口を開いた秀頼。驚く淀殿に、殺されはいたしませぬと笑顔で答える秀頼。)

(駿府城。秀頼が来るという知らせに驚く家康。秀頼は一歩も大坂城を出た事がない、大うつけという噂もあると伝える正純。どこか嬉しそうな家康。)

(慶長16年2月28日、京。上洛して来た秀頼の行列を見て、かつての豊臣家の栄光を思い、騒ぎ立てる京の人々。輿の中からその様子を見ている秀頼。)

(二条城。秀頼の到着を待ちながら、落ち着かない様子の家康。そこに秀頼が着いたという知らせが届きます。)

(秀頼に付き従ってきた清正ら豊臣恩顧の大名達。彼らは刀を番の者に手渡し、丸腰で城の奥へと入って行きます。)

(一室に控える秀頼と清正達。秀頼の前に進み出た清正は、万一の時にはと6寸ほどの針を秀頼に握らせます。その時、対面の場への案内の者がやってきました。)

(案内に従って廊下を行く秀頼。後に続く清正たち。その途中で、柱に針を打ち込む秀頼。驚きながらも、秀頼の後を追う清正たち。)

(密かに針を抜き、それを家康に報告して、如何様にでも咎め立てできると進言する正純。いや、と言いながら針を脇息に突き立てる家康。その拍子に手のひらに傷が付き、血が溢れてきます。その血を舐めて、秀頼は幾つになると問う家康。19と答える正純。19かと考え込む家康。)

(対面の部屋。下座で控えている秀頼と清正たち。上座に座り、秀頼に面を上げられよと声を掛ける家康。良く母上が出したのだと聞く家康に、自分から言いだした事だと答える秀頼。何故と問う家康。少し間を開け、かつて秀吉に臣従を強いられ、また国替えも命じられて恨みもあるはず、それでもなお豊臣のために働いてくれる家康に詫びを言いたかったのだと答える秀頼。そして、これからも徳川殿と共に泰平の世を築くべく、考えていきたいと明瞭に言い放つ秀頼。驚きの表情をもって秀頼を見つめる家康。よろしく頼みますと臆することなく言う秀頼。それに合わせて一礼する清正達。当てが外れたと言わんばかりにうろたえる正純。黙ってかすかにうなずく家康。)

(大坂城に戻ってきた秀頼。泣きながら出迎えた淀殿。やさしく母を労る秀頼。)

(江戸城。徳川と豊臣が戦になるのかと秀忠に問う江。秀頼の覚悟は無駄にしないと答える秀忠。彼の考えは秀頼が関白となり、自分が将軍としてそれを支えるというものでした。徳川と豊臣が並び立つと聞く江に、必ずそうしてみせると約束する秀忠。その言葉に縋る江。)

今回は一気に6年の歳月が流れました。

まず大きな出来事は最初の上洛要請ですね。この時淀殿が上洛を断り、どうしてもと言うなら秀頼を殺して自分も死ぬと言い放ったのは如何にも演出ぽくはあるのですが、これは史実にあるとおりです。ちなみに、家康の意を受けて高台院が上洛を薦めたというのも史実どおりですね。

そこまで淀殿が思い詰めたのは、当然と言えば当然だったかも知れません。家康は秀吉との約束を破った上、秀頼に臣従しろと迫って来た訳ですからね。ここまで居丈高に出られたのでは、淀殿が惑乱したのも無理はなかったものと思われます。それでもまだ徳川と豊臣両家の関係が続いて行くのがこの時代の複雑さを物語っているのでしょうか。

次に描かれていたのは、国松の誕生ですね。ドラマでは慶長11年6月としていましたが、他に3月とする説、5月とする説などがあり、はっきりとはしない様です。また、ドラマでは江が自分で育てた様に描かれていましたが、実際には国松にも乳母が付けられていた様です。

秀頼に側室が居たのも事実で、その側室との間に子が生まれたのも史実にあるとおりです。その子の名前はドラマには出て来ませんでしたが、ややこしい事にこれが「国松」というのですね。たぶん、二人の国松という混乱を避ける為にドラマでは名を伏せたのでしょう。

家康が駿府城に入って、二元政治を行ったのは周知のとおりですね。家康は大御所と呼ばれ、実質的に徳川家の実権は握ったままでした。これを秀忠がどう思っていたかは謎のままですね。ドラマでは豊臣との宥和をしきりに画策していましたが、全て創作です。こうでもしないと、江の立場が無くなるからでしょうか。

高次が亡くなった後、初が常高院と名乗り、大坂城に入った事も史実のとおりです。ただ、その時期がいつかまでは判っていないんじゃないかしらん。大坂冬の陣の時に城内に居たのは確かなのですれけどね。

秀頼の上洛の時、名目として掲げられていた新帝の即位というのは、後陽成天皇から後水尾天皇への譲位の事でした。この譲位にも家康の意向が働いていたと言います。

ドラマでは出て来ませんでしたが、秀頼に上洛を勧める使者となったのは、信長の弟である織田有楽でした。つまり、淀殿にとっては叔父にあたる人物ですね。有楽は関ヶ原の戦いの時に東軍に加担し、戦後は家康から3万2000石の領地を受けていました。しかし、織田一族として特殊な位置に居た人物であり、秀頼にとっても血縁の年長者であるという、この時の使者にはうってつけの存在だったのですね。この時、淀殿は反対したものの、秀頼自身が上洛を決めたというのは史実にあるとおりです。

淀殿が、秀頼が上洛すれば家康に殺されるという畏れを抱いていたのも事実で、清正たちが秀頼警護のために付き従ったのも史実のとおりです。ただ、清正が針を渡したという下りは創作でしょうね、たぶん。

一説には、この時家康は実際に秀頼を毒殺しようとしていたと言われ、秀頼は一切食べ物を口にしなかった為に難を逃れたものの、清正はこの対面から数ヶ月後に毒が効いて亡くなったと言われています。状況証拠としては、この時清正と共に秀頼を警護した浅野幸長、池田輝政なども前後して死んでおり、このうわさの信憑性を高めています。でも、この当時に数ヶ月後に効力を現すという巧妙な毒があったとは思えず、単なる偶然という見方が有力ですね。

家康と秀頼の会見の内容については記録したものが無く、どういう会話が交わされたかは判っていません。ですから、ドラマで秀頼が言っていた事は全て創作という事になりますね。一点気になったのは家康が上座に着いていた事で、形式的にはまだ豊臣の家臣であるはずなのに不自然ではないでしょうか。司馬遼太郎氏の小説「城塞」では上下の区別が無い様に工夫されていたとあり、その方が筋が通っていると思うのですが、どんなものでしょう。

ドラマの秀頼はとても格好が良かったのですが、実際の秀頼もカリスマ性に富んだ人物だったと言われます。一説には、そのカリスマ性に恐怖した故に、家康は秀頼殺害を決意するに至ったのだとも言いますね。ドラマでもそれに似た展開をしており、副題の運命の対面とはそこから付けられたのかと思われます。

ただ、秀頼の背丈はドラマよりももっと高く、家康を見下ろすような偉丈夫だったとも言われます。秀吉は小柄な人物だったので、これは祖父の浅井長政に似たのではないかとも考えられていますね。

次回は竹千代と国松の跡目争いが描かれる様ですね。これってもう少し時間を掛けて描くのかと思っていたのですが、あっさりと決着を着けてしまうのか。やっぱり、淀殿と秀吉の関係に時間を掛けすぎた付けが出て来ているのではないかしらん。最後に来て、急ぎすぎの印象がありますね。

あと、宮沢りえの演技が、だんだんと本領を発揮してきていると思います。最初の頃は違和感が有りすぎたからなあ。最初はやっぱり子役に任せるべきだったのではって、今更遅いですね。

2011年10月 8日 (土)

「第47回 京都非公開文化財特別公開」開催

毎年、春と秋に開催されている京都非公開文化財特別公開が、10月23日より行われます。その名のとおり、普段は非公開の社寺に拝観出来るという催しで、この時にしか入る事が出来ない場所が多いため、毎回楽しみにしているイベントです。

今回のリストは京都古文化保存協会のホームページにあるとおりですが、私的には興味のあるところが多いですね。

まずは大徳寺の唐門で、方丈側からは何度か見た事があるのですが、表側はまだ無いのですよね。華麗な装飾が施された桃山建築の代表作の一つで、かつ聚楽第の遺構とも伝えられているこの門を、一度はちゃんと見ておきたいものだと思っています。

次に、同じく大徳寺の孤篷庵も楽しみな場所の一つですね。ここは不定期に公開が行われているようですが、一度も拝観の機会に恵まれておらず、今回は絶好のチャンスだと思っています。特に茶室の「忘筌」は是非見てみたいですね。

三時知恩寺もまだ入った事が無い寺です。白い壁に囲まれた大きなお寺ですが、尼門跡寺院という事もあってか普段は外から眺める事しか出来ません。予備知識は全くと言って良い程ないけれど、それだけに楽しみな寺ではあります。

浄福寺も楽しみなところで、西陣の町中にある庶民的なお寺ですが、旦那衆に支えられてきたからでしょうか、かっちりとした良い感じのお堂が並んでいます。中もきっと凝っているたろうなとは思うのですが、ぜひ見てみたいものですね。

廬山寺の隣にある清浄華院は老人介護施設というイメージが強く、特別公開と言ってもピンと来ないのですが、ちゃんとお堂もあるのですね。そんな程度の知識しかないのですが、何度も前を通っている寺ではあるので、一度は覗いておきたいという気もしています。

あと、冷泉家と法然院も中は知らないですね。これも出来れば寄ってみたい。

これだけ一度に回るのは大変で、よく考えて絞らなくてはいけないでしょうけど、それを選ぶのも楽しい作業ではあります。ネックは拝観料が一カ所800円と高い事かな。

秋の一日、非公開寺院を巡る京の旅もまた良いものだと思いますよ。

2011年10月 7日 (金)

京都・洛北 曝凉展 ~大徳寺~

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毎年10月の第二日曜日には、大徳寺の曝凉展が行われます。曝凉とは虫干しの事で、日頃は収納されている寺宝の数々を風に当て、日に曝すという作業が行われるのですね。その様子が一般にも公開される事から、普段は目にする事が出来ない名品の数々を拝観する事が出来るのです。

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なにしろ、名にしおう大徳寺が所有している寺宝ですから、どれも半端なものではありません。国宝や重用文化財が目白押しで、文化財として指定されていないものでも貴重な美術品や資料ばかりです。

それが無造作にと言って良い程そこかしこに掲げられており、すぐ近くにまで寄る事が出来るのです。文字通り風に揺れているので、うっかりすると触ってしまう事もあるので怖いのですが。

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中でも、昨年訪れた時に感激したのが観音・猿鶴図で、牧谿の真筆とされる水墨画の名品です。初めて見たのは美術の教科書でだったかな、素晴らしい絵だとは思っていたのですが、まさかその本物に出会えるとは嬉しい驚きでした。

この絵はその来歴も凄くて、まず足利義満が所有していた事が判っています。その後、駿河の大名であった今川氏の手に渡り、義元の代に太原雪斎を通じて大徳寺に寄進されました。この履歴を聞いただけでも、歴史好きにはたまらない魅力を感じますね。

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大河ドラマ「江」との関連で言えば、信長、秀吉、北政所の肖像画がありますね。秀勝の肖像画もありますが、これは信長の息子の方の秀勝の様です。ただ、利休関連のものが無いのが意外という気もしますね。

拝観料は1300円と高めですが、内容を考えれば安いものです。場所は本坊なので、寺宝だけでなく枯山水の庭を見る事も出来ますよ。ですので、これはわざわざ行っても損はないイベントだと言えます。ただし、雨が降った時は中止もあり得るそうなので、あとは天気次第というところですね。

2011年10月 6日 (木)

京都・洛北 秋の境内 ~上賀茂神社~

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10月になると日が暮れるのも早くなりますね。京都取材であちこち回っているとすぐに黄昏時を迎えてしまい、もう引き上げなくてはならないのかと気付かされる事になります。

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でも、この灯ともし頃というのは結構好きでして、それも秋のこの時期が良い感じだと思っています。だって、暑くも寒くもない日暮れ時って、そう無いじゃないですか。

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ここ上賀茂神社では、黄昏時にも結婚式を行っているのですね。境内には灯りが無いためでしょうか、松明で先導しているのが印象的でした。これはこれで、なかなか風情が感じられましたよ。

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この写真を撮ったのは2年前ですが、今でもこの時間帯の結婚式はあるのかな。薄暗い社前でロウソクに照らされながらの儀式というのも、幽玄味が感じられて良いかもしれないですね。一度臨席してみたいものだという気がしますが、機会が巡ってこないものかしらん?

2011年10月 5日 (水)

京都・洛北 秋の色 ~宝幢寺~

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上高野にある宝幢寺も紅葉の美しい寺です。昨年の10月に訪れた時には、山門の前でツワブキが出迎えてくれました。

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ツワブキの側では、黄色のセンリョウが実っていました。この実が色付き出すと、いよいよ秋が深まってきたなあという感じがしますね。

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宝幢寺の前は道を隔てて山地になっているのですが、その道沿いにあるもみじもまた綺麗に色付きますよ。この日は一足早く染まったツタを見る事が出来ました。

このツタの紅葉はとても美しいのですが、大抵のところでは早くに切られてしまうらしく、あらかじめ目星を付けていてもなかなか見る事が出来ません。木を傷めるという事なのでしょうかね。なので、このツタを見た時は結構嬉しかったのを覚えています。今年も見る事が出来るかしらん?

ただ、宝幢寺に行くには結構な上り坂をクリアしなくては行けないのですよ。それが何よりの難点かもしれないですね。

2011年10月 4日 (火)

京都・洛北 秋の庭 ~曼殊院~

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詩仙堂から圓光寺に寄ったのなら、曼殊院にも足を伸ばしたいところですね。四季を通して美しい曼殊院の庭園ですが、この時期はリンドウが咲く庭でもあるのです。

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リンドウが咲いているのはこの写真の上部のあたりですが、正直言ってあまり目立つ花ではありません。知らなければ、きっと見落とすのではないかしらん。でも秋の風情を感じさせてくれる花ですから、毎年見に行くのを楽しみにしているのです。

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秋の風情をより感じさせてくれるのは、ここでもススキでした。このススキは境内ではなく弁天島で咲いているのですが、赤い弁天堂とあいまって、なかなか良い感じですよ。

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その弁天島の周辺のもみじは比較的早くに色付く事が多く、昨年も10月の下旬でこの状態でした。見頃と言うには早すぎますが、一足早い紅葉を楽しむにはもってこいの場所ですよ。今年も綺麗に色付いてくれると嬉しいのですけどね。

2011年10月 3日 (月)

京都・洛北 秋の庭 ~圓光寺~

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詩仙堂に行けば、必ずと言って良い程立ち寄るのが圓光寺です。ごく近くにある寺ですが、詩仙堂とは趣きがまるで違っているのが面白いところですね。共通項は、紅葉の名所という事ぐらいかしらん?

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隅々まで計算され尽くしているのが詩仙堂とすれば、野趣に富んだ奔放さが圓光寺の持ち味でしょうか。無論、この庭もまた十牛の庭と言って禅問答を主題した作庭が施されており、ちゃんと作り込まれている事は言うまでも無いのですが、もみじを主体にして自然な感じをあえて出しているのではないかと思われます。

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その圓光寺で、紅葉の前のこの時期に秋を感じさせてくれたが駐車場にあるススキでした。殺風景な場所なのですけどね、この一角だけは秋の風情に溢れていましたよ。ただ、この写真は二年前のもので、去年はどういう訳か寂しい姿になっていました。今年はどうなのだろう、復活していてくれると嬉しいのですけどね。

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このミズヒキは参道脇で咲いていたと思います、たぶん。何しろ2年前の事なので忘れてしまいました。でも、庭園ではなかったことは確かで、ぱっと見、何の花か判らなかった事を覚えています。なぜって、何か別の野の花に見えたのですよ。

それほど逞しく育っていたのですが、詩仙堂では繊細に見えるこの花も、場所が変われば野の花に見えるというのが面白いと思った次第です。と言うより、元々は山野に生えている草なのでこちらが正しい姿、繊細に見えるのは詩仙堂ならではの趣き、なのかも知れませんね。

2011年10月 2日 (日)

江~姫たちの戦国~38 最強の乳母

(慶長9年7月、5人目にして初めて男子を産んだ江。跡継ぎ誕生に喜ぶ大姥局。)

(寝所にて、さっそく赤子は竹千代と名付けられました。周囲の期待に応えた事でほっとした江と秀忠。)

(そこに乳母の福が現れます。あいさつもそこそこに、竹千代を抱いて掠うように部屋を出て行く福。やや呆然と、あの者は何かと聞く江。大姥局に依れば、家康自らが選んだ乳母で、福が諸芸に秀でている事は元より、夫が家康にとっての恩人であるとの事でした。)

(福の夫は稲葉正成といい、小早川秀秋の家老を務めていました。関ヶ原の戦いの時に寝返りを薦めたのが正成であり、家康にとっては勝利をもたらした恩人になると言うのです。福は後の春日局であり、江にとって因縁の相手となるのでした。)

(竹千代誕生の知らせは、若狭の初の下、大坂の淀殿の下にも届けられました。初姫、千姫それぞれにとっても弟の誕生でもあったのです。その一方で、秀忠の嫡男が生まれた事で家康が心変わりするのではないかと気がかりな淀殿。)

(伏見城。竹千代誕生の知らせに喜びつつ、前に進めという事だなとつぶやく家康。)

(江戸城。竹千代に会いに来た江。しかし、少し抱いただけで福に取り上げられてしまいます。)

(自ら斉藤利三の娘であると明かす福。かつて、光秀に囚われた時に出会った利三を思い出す江。利三はその後磔にされた事、自分は母親と比叡山麓に逃げ、そこで元浅井家中の者に助けられた、それゆえ浅井家に繋がる人には恩義を感じていると告げる福。我らは縁があったのだなと答える江。)

(福は問われるまま、自分の子供は夫の下に置いてきた事、その夫とは離縁してここに来た事、それは生涯竹千代に仕えるためだと語ります。)

(竹千代を甲斐甲斐しく世話する福を見て、複雑な表情の江。)

(その夜、秀忠に福が何となく好きになれないとこぼす江。それはやきもちだと秀忠。それは違うと江。)

(その後も竹千代を巡って何かと福と諌う江。)

(江をたしなめる大姥局。竹千代は跡継ぎであり、自分の子であって自分の子ではないと心得よとさとす局。)

(思いあまって、福を別の乳母に変えて欲しいと家康に手紙を書く江。)

(一ヶ月後、豊国社の祭、豊国祭で賑わう京の町。)

(大坂城。龍子から祭が大盛況であった事を聞き、世間は豊臣の世を忘れていないと喜ぶ淀殿。そして、家康は高齢てあり、秀頼が成長を重ねれば天下は豊臣の手に戻るとつぶやき、周囲を驚かせます。)

(伏見城。正純から豊国祭が盛況だった事を聞き、豊臣に油断してはいけないと戒める家康。そして、次の手を考え始めます。)

(江戸城に帰った家康。秀忠と江との対面もそこそこに、福が抱いて現れた竹千代に飛びつく家康。江を労いつつ、福に竹千代の養育を頼む家康を見て、自分の出した手紙はどうなったのかと問う江。竹千代は可愛い孫、悪いようにはせぬと言って竹千代を福に託す家康。呆然とする江。)

(秀忠に将軍を継げと告げる家康。それは豊臣を追い詰めるためかと問い返す秀忠。年を取ったゆえ、様々な事が面倒になっただけだと誤魔化す家康。それでは豊臣との約束を違える事になると訴える江。しかし、秀頼はまだ12歳であり、天下の事は判らない。となると、秀忠しか居ないではないかと突っぱねる家康。)

(義父は姉を追い詰めている、つまりは豊臣を追い詰めている、それはやはり天下を取るためではないのかと家康に迫る江。それを聞いてため息をつき、いい加減に徳川の嫁になってくれないか、今この徳川の主は家康、自分の言う事に従う事だと江と秀忠を恫喝する家康。)

(それを聞き、二代将軍となる事を断る秀忠。主たる自分に従えと脅す家康。ならば、嫡男である事もやめるとつっぱる秀忠。)

(その夜、月を見ながら考え込む秀忠。秀忠を使って豊臣を追い詰めるのは納得が行かないと江。それを聞いて、熱海の湯に浸かりに行こうと急に言い出す秀忠。)

(熱海。湯に浸かりながらも考え込んでいる秀忠。きっぱりと断ったではないかと江。あれで引き下がる父ではないと秀忠。そして、家康は天下を狙っている事は間違いないと江に告げます。驚く江。)

(江戸城。正信相手に、今の秀忠では将軍になるには不足している、奥底にあるものを引き出してやらねばならないと語る家康。そして、そのために江を嫁に迎えたのだと告げます。)

(熱海。湯に浸かりながら、秀頼がこの世を治めていく事が良い事なのかと考えている秀忠。その側で、同じ事を考えていたと江。)

(家康と淀殿の言葉を思い出している江。そして、自分は一日も早くこの世が泰平になる事を望んでいるのだと気が付いた江は、秀忠に将軍になってくれと頼みます。泰平の世を作る為に将軍となり、力を持ってくれと迫る江。自分にそんな力は無いと自嘲する秀忠。私がきっと支えてみせると迫る江。考え込む秀忠。)

(江戸城。将軍になると家康に報告する家康。一度断ったものをなぜと問う家康。黙って答えない秀忠に代わり、天下を泰平にするためですと答える江。吹き出しつつ、良き考えだと家康。)

(そのために将軍を継ぐのかと秀忠に問う家康。それには答えず、将軍となった暁にはと言いかける秀忠。それを遮り、無論、将軍として扱う、ただし、将軍としての器があると認めた時にはと答える家康。)

(自室に下がり、ため息をつきつつ大の字になって寝そべる秀忠。同じくため息をつきながら、途方もない事になったとつぶやく江。何を今更と秀忠。淀殿がどれほどの痛手を蒙るかと気遣う江。それを聞き、成長した秀頼こそ天下人に相応しいと思ったら、その様に動くと囁く秀忠。)

(この事を大坂に知らせてやっても良いかと言い、すぐに駄目だと気が付く江。秀忠を見て、本当に大きくなった、自分よりずっと年上の様に思えると江。これからは家康が問題だ、何かと口を出してくる来るだろうからと秀忠。そしてその一方で、跡を継いでみて初めてその大きさが判るのかもしれないと秀忠。その後ろ姿をじっと見守る江。)

(慶長10年2月。10万の軍を率いて上洛し、将軍の宣下を受けた秀忠。)

(大坂城。秀忠が二代将軍となった事を聞き、江は何をしていた、秀忠はなぜ断らぬと激怒する淀殿。家康に謀られたと憤る治長。私が甘かった、これからは家康の事は断じて信じる事はしない、たとえ合戦のになろうとも天下人の座を取り戻すのじゃと叫ぶ淀殿。驚く且元を一喝する治長。)

(江戸城。福を呼び出した江。しかし、竹千代は風邪気味であるとして連れてきていません。竹千代を私に合わせぬつもりかと江。それには答えず、秀忠の将軍就任を祝う福。彼女は父を磔にした秀吉が憎い、そしてそれに連なる豊臣家の者を断じて許す事は出来ない、それ故に竹千代の乳母となったのだと言い出します。徳川がいずれ豊臣を滅ぼすと信じていると福。)

(豊臣には千が嫁いでいる、それを知っての事かとたしなめる江。それには答えず、江も豊臣の養女だったのですねと言い出す福。艶然と笑う福を見て呆然とする江。)

(自分は家康から命じられてこの城に来た、家康の命にのみ従うと言い放つ福。あぜんとする江を余所に、泣き声を上げる竹千代の下に急ぎ去って行く福。)

とうとう春日局が出て来ました。それにしても、富田靖子が演じるこのお局様はちょっと怖いですね。江戸の鬼と呼ばれた大姥局はまだ愛嬌がありましたが、復讐に燃える春日局こそ鬼の様でした。

竹千代が生まれたのは慶長9年7月17日の事でした。竹千代という名が徳川家の嫡男に与えられるという事は、ドラマの中で繰り返し語られているとおりです。その乳母に福が選ばれた経緯には諸説があり、良く言われるのが公募説ですね。

竹千代が生まれたのは良いけれど、徳川家の周辺では適当な乳母が見つかりませんでした。このため、徳川家では乳母を広く世に求める事にし、京都の粟田口にその旨を記した高札を建てたのです。それを見た福が名乗り出たところ、見事に選ばれて竹千代の乳母となったのだと言われています。

もっともこの説は、最近では後世の創作ではないかと言われている様ですね。

この他にも家康の側室を通して紹介があったのだとか、あるいはもっと飛躍して福自信が家康の元側室だったのだとか様々な説があるようですが、どれが真実かは決めかねている状況の様です。

福が斉藤利三の娘であった事、稲葉正成の妻であった事は事実であり、それぞれが乳母に選ばれた理由になったと言われています。つまり、名将と言われた人物の娘であった事、小早川の裏切りに功があった者の妻であった事が大きく評価されたと考えられているのですね。この場合、利三は謀反に加担した人物ではあるのですが、直接の首謀者で無い限り、後の世まで問題にされる事は無かった様です。

福が本能寺の変の後で浅井家縁の者に助けられたと言っていたのは、海北友松の事でしょうか。画家として知られる友松ですが、元は浅井家の家臣であった家柄であり、福の父の利三とは友人の間柄でした。こうした関係から、友松が福を一時保護し、養育したという説があるのですね。このあたりも諸説があってはっきりしないのですが、ドラマでは浅井家との因縁を濃くしようとして、この説をあえて取り上げたのではないかと思われます。

不自然なのは江が最初から乳母を嫌っている事で、当時は武家の子に乳母が付くのはごく普通の事でした。正室がすぐに次の子を産めるようにという配慮からと言われていますが、乳母が子供を連れて行ったからと言って怒るのは筋違いというものでしょう。このあたりは、江と福の対立関係を強調するための演出と思われます。

演出と言えば、豊臣家に復讐するために乳母となったという設定もそうで、いくら何でも飛躍のしすぎでしょう。たぶん、福に江に対する恨みを持たせる事で、江の立場を少しでも良くしてやろうとしているのだと思われます。江について良く言われるのは、福と対立するあまりに次男を溺愛し、嫡男の地位どころか徳川の家を危うくした鬼嫁というのが一般的な姿ですからね。そうした悪評を雪ごうというのも、このドラマのコンセプトの一つになっているのではないかと思われます。

豊臣家の側で言えば、豊国祭は久々に豊臣家にスポットが当たったイベントでした。この祭は秀頼と共に家康も施主となっており、いわば豊臣家懐柔の為の策の一つでした。しかし、ドラマにあったように民衆の熱狂振りは大したものであったらしく、淀殿が豊臣の世の再来が待望されていると錯覚したのも無理はなかったようです。

ただ、これには少し事情があって、江戸に実権が移ると共に京、大坂の賑わいは相対的に衰えていました。そんな時期にこの祭が催されたのですが、民衆は再び豊臣の頃の賑わいが戻って来て欲しいという願いを込めて騒いでいたのだと言われています。諸事派手好きで、聚楽第や伏見城を築く事によって天下に金をばらまいていた秀吉の世が、不景気に煩わされている民衆にとっては懐かしく思われたのでしょう。ただし、これは民衆レベルの事であって、大名達はこの祭には一切関わりを持たなかったと言われています。

二代将軍の就任にあたって、江が秀忠を説得したというのは創作でしょう。それこそ家康の深謀遠慮から出た事で、江が関わる余地など無かったものと思われます。でも、秀忠との夫婦関係に焦点を置くこのドラマとしては、江に一定の役割を与えてやりたいと考えたのでしょう。同時に、泰平の世を作るためという理由を構える事によって、豊臣家を救えなかった江の立場を少しでも良くしてやろうという配慮もあるものと思われます。

秀忠の秀頼への譲位もあり得るという発言もそうで、史実では有り得ない事ながら、そうした秀忠だからこそ、姉を裏切ってまでも江は支え続けたのだという言い訳になっているのでしょうね。このあたりは違和感を感じるところなのですが、ここまでこのドラマにのめり込んでしまった以上、ドラマの演出を良しとするしかないのかなと思っているところです。

次回は、秀頼が家康と秀忠と対面する為に上洛するというストーリーになる様です。予告編でこれからも徳川殿と共にと叫んでいたのが、大きくなった秀頼の様ですね。何だか元気な若者という設定の様ですが、どんな秀頼像を見せてくれるのか、楽しみに待ちたいと思います。

2011年10月 1日 (土)

京都・洛北 秋の庭 ~詩仙堂~

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今週末もまた京都に出かけられなかったので、過去に撮った写真からの構成となります。本当ならはずいき祭を見に行きたかったのですけどね、残念だけど仕方がない。

気を取り直して、今日お届けするのは昨年10月に訪れた詩仙堂の庭です。この日はフジバカマが花盛りになっていました。

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そのフジバカマには、ツマグロヒョウモンが来ていました。年に何回も発生する蝶ですが、秋たけなわのこの時期が一番目立つ様な気がしますね。本来フジバカマに来るのはアサギマダラなのですが、この日は見かけませんでした。もしかしたら、これは園芸品種の花だとちゃんと見分けているのかも知れないですね。

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もうすぐ咲き始めるのがホトトギスの花です。ここ詩仙堂でも毎年見る事が出来ますよ。花期の長い花ですけど、やはり盛りの時が一番綺麗である事には変わりなく、その時期に出会えると嬉しいのですけどね。

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下の庭では、一足早くマンサクの葉が色付いていました。この日は曇っていたので思い切ったプラス補正で背景は白く飛ばしてしまったのですが、そのおかげでパステル調の色が綺麗に出たと思っています。

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マンサクだけでなく、この日はもみじもまたほんのりと色付いていました。もしかしたら、これなら期待出来るかなと思っていたのですが、果たして去年はとても綺麗な紅葉を見る事が出来ました。あの紅葉を見た時は嬉しかったな。

今年はどんな具合になるのでしょうね。紅葉が盛りを迎えるまであとひと月半、素敵な色に染まった庭に出会いたいものだと思っているところです。

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ねこづらどき

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