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2011年7月

2011年7月31日 (日)

江~姫たちの戦国~29 最悪の夫

(伏見城。完と遊ぶ江の下に三成がやってきます。用件は秀忠との婚儀についてでした。秀吉の道具になる事を嫌がり結婚を渋る江。)

(伏見、徳川屋敷。秀忠に江との結婚を勧める家康。気の進まないまま、引き受ける秀忠。この縁談は豊臣のためにはなっても、徳川のためになるのかと訝る正信。これは徳川のためになるのだと信じると言う家康。自分の人生は父上の思うままだからと捨て台詞を残す秀忠。)

(伏見城。江に秀忠との縁談を薦める初。まだ秀勝の事が忘れられないと江。秀忠は既に受けている、完も連れてきて良いとも聞いていると初。さては秀吉に説得する様に命じられたのかと江。五万石の加増が決まっていると思わず本音を漏らす初。一方で三成の指揮の下、着々と進む輿入れの準備。そこに現れた家康。)

(家康の用件とは、秀忠に嫁いで欲しいというものでした。三度目の結婚である事、年上である事、完が居る事など不利な条件を並べる江に、すべて受け入れると家康。そこまで秀吉に頭を下げる事はないのではと江。)

(家康が江に来て欲しいのは、秀忠との関係が上手く行っていない、江が嫁に来てくれれば秀忠も変わるかもしれないという期待からでした。なおも渋る江に、秀忠が嫌なら徳川家に嫁ぐのだと思って貰えないかと家康。)

(なぜそこまで自分を買ってくれるのかと江。判らぬが、江は宝を持っている気がする、その宝を徳川家にくれないかと頭を下げる江。)

(嫁に行くと初に告げる江。あきれつつも、それは良かったと初。初は秀吉の良いなりになる事が悔しくないのかと江。決めた事ではないかと初。江は完を連れてきて良いと言ってくれた、そして信長と同じく宝を持っていると行ってくれた事が嬉しかったのでした。)

(江の嫁入りの事は聞いていないと怒る淀殿。この縁談は豊臣と徳川のために必要なのだと秀吉。淀殿はまた、秀次とその一族に対して取った仕打ちに対しても怒っていたのでした。何としても淀殿と拾を守りたいのだと本音を漏らす秀吉。江は喜んで嫁に行くのかと淀殿。家康自ら望まれたゆえ、喜んでいくと聞いたと秀吉。)

(江の部屋に渡る途中、三成に呼び止められた淀殿。三成の用件とは、完を淀殿の手元に置けという事でした。完は秀勝の娘である以上立派な豊臣の姫である、拾に万一の事があればどうすると迫る三成。演技でもない事を言うなと席を立つ淀殿。淀殿は豊臣の母、次の代に引き継ぐ事を真剣に考えて欲しいと食い下がる三成。)

(一月後、完の着物を見立てている江。)

(淀殿に呼ばれた江。ところが部屋に入ると秀吉と三成が待っていました。あまりの嫌さに、黙って出て行こうとする江。呼び止める淀殿。渋々部屋に入る江。)

(豊臣と徳川の間が盤石となる様に粉骨砕身尽くせと言いかける秀吉。それを遮り、自分は家康に請われていくのだ、だから徳川の為になる事だけを考えていると江。それで良いと助け船を出す淀殿。)

(完を置いて行けと用件を切り出す秀吉。とっさに、この婚儀は辞めると言う江。その江に、完は秀勝の子である以上豊臣の子である、連れて行く訳にはいかないと説得する淀殿。驚きつつも、子を持つ女の気持ちを知りつつも言うのかと淀殿に迫る江。そうだと答える淀殿。豊臣の女になってしまったのかと江。黙って江を見つめる淀殿。無言のまま立ち去る江。)

(呼び止める秀吉。それを遮り、江は徳川に嫁に行く以上、その意味が判らないはずがないと言う淀殿。)

(部屋に帰って、完を抱きしめる江。)

(夜、完の寝顔を見つめる江。そこに現れた三成。)

(三成の用件とは、完を置いていく様に言い出したのは自分だという事でした。何故、その様な事を言い出したのかと詰問する江。利休や秀次を追い詰めたのと同じ事かと追求する江に、そんな自分の言う事を淀殿は受け入れてくれた、完を置いていけと言ったのは相当な覚悟があっての事、それを知って欲しかったのだと三成。その様子を見て、もしやと言い出す江。)

(そこに現れた淀殿。淀殿に命じられ、下がる三成。)

(淀殿の気持ちが判らなくなったと江。家康に請われていくとは、これ以上の縁は無い、。それを断って欲しくないのだと淀殿。ならば完を連れて行くと江。)

(完は置いていかなければならない、それは完のためだと淀殿。徳川と豊臣がいつ争うか判らない、その時豊臣の姫として辛い目に遭うのは完だと淀殿。まさかと江。そんな世の中を見てきたのが自分たちではないかと淀殿。決心の付かない江に、よく考えてみよと淀殿。)

(嫁入りの日。欄干に風車が無いのを見て、異変を感じる完。母と遊ぶのだと駆け出す完。)

(風車を手に、昨夜を回想する江。淀殿に、自分の子として完を育ててくれるか、守ってくれるかと問い掛ける江。守るともと誓う淀殿。完を置いて行く以上、もう二度と完とは会わないと誓う江。)

(母を求めて走る完。完に黙って出て行く江。見送る淀殿。母を捜し求める完。)

(目の前に現れた淀殿に母の居場所を聞く完。今日から私が母だと言い聞かせる淀殿。叔母上は母ではないと答える完。完を抱きしめる淀殿。母を求めて泣きじゃくる完。輿の中で涙をこらえる江。)

(数日後、徳川屋敷で行われた婚儀。何時になくかしこまって、落ち着かぬ様子の秀忠。三度目ゆえか、落ち着いたものの江。)

(その夜の寝所。型どおりのあいさつをする江。まさかあなたを嫁にするとは思っていなかったと秀忠。最初に言っておきたい事があると言いかける江。三度目の結婚である事かと秀忠。それもあるが6歳年かさである事、娘が居てそれを豊臣に置いてきた事を言い立てる江。娘は連れてくれば良かったのにと簡単に言う秀忠。私は身を切られる思いで置いてきたのだと江。)

(そういう事情で言いかける江に、だから嫁に来たくは無かったと言い足し、正直に行きましょうと言う秀忠。とかくこの世はままならない、しかし目に見えない大きな力が働いているのなら、それに従う事にしたのだと江。ただ流され、漂う葉のごとくですか、それは私と似ていると秀忠。)

(私は自分の信じるままに生きようとした、しかしも何一つ実現しなかった、ならば天の作る流れに自分の意思で乗ろうと決めたのだと江。感心して見せる秀忠。ただ流される訳ではない、あなたとは違うと言い張る江。詰まるところは同じだと思うと秀忠。違うと頑張る江。)

(そこまで言い張るのなら、私の妻になりたいと思うまで待つ事にすると秀忠。困惑する江に、天の流れだか何だか知らないが私の妻にはなりたくないという事だろう、この先私の妻になりたいと思ったら言って下さい、その時私たちは夫婦になろうと言って、さっさと寝てしまう秀忠。とまどう江。急に起き直って、これは勝負だ、先に夫婦になろうと望んだ方が負けだと言ってまた寝てしまう秀忠。憤然として布団を離し、背中を向けて寝る江。)

今回はあまり書く事が無いのですが、淀殿が完を引き取り手元で育てたのは史実にあるとおりです。理由はやはり、江の娘というより豊臣の姫であったという事なのでしょう。淀殿は完を立派に育て上げ、九条関白家に嫁に出していますから、豊臣の母としての勤めはちゃんと果たしたと言えるのでしょうね。

でも、娘と離ればなれにされる母親の気持ちは如何ばかりのものだったのでしょうか。戦国の世ですから今よりもっとドライだった様にも思えるし、親子の情愛はそう変わらないとも思えるし、非情なものであったであろう事だけは確かです。今なら冗談ではないと大騒ぎになる事でしょうね。

面白いのは向井理の演じる秀忠で、およそこれまでの観念とはまるで違った姿で描かれています。と言うより、型どおりでない秀忠を描くのは史上初めてではないのかしらん?まあ、史実の秀忠がどういう姿であったかまでは誰にも判らない訳ですからどう描いても良く、近代的な自我を持った人物としての演出しても良い事にはなります。大河と言うよりほとんどホームドラマですが、向井理の演技は面白く、今後の展開が楽しみな部分ですね。

2011年7月30日 (土)

比叡山 延暦寺 ~夜間特別拝観 「法灯花」~

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夏の夜、延暦寺の東塔をライトアップする法灯花が今年も行われます。今回で15回目を数えるイベントで、すっかり恒例行事となっています。

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写真は昨年の様子ですが、東塔エリアのうち大講堂と根本中堂を中心にライトアップが行われ、その周辺の鐘楼や文殊楼なども闇夜の中に浮かび上がります。

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メインは根本中堂における献灯で、中庭にしつらえられた祭壇に蝋燭を順に並べていくのですが、ライトアップの灯りとは違い炎が作る光ですから、幽玄味すら感じる幻想的な雰囲気になります。そて、お堂の中では天台声明を聞く事が出来るのですが、昨年聞いた時は感激ものでした。

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ライトアップについては、昨年までの二酸化炭素削減の動きに加えて今年は節電が叫ばれていますから、更なる逆風の中で行われる事になりますね。これについては、ロウソクの灯りを多用する事で節電の実を上げるとされており、雰囲気としてはさらに良くなるのかも知れません。

ただ、足下を照らして欲しいところまで節電されると、歩き難くて仕方が無いのですよね。万が一、事故があったりしたらそれこそ行事の存続に関わる事になるわけで、そのあたりは配慮して頂きたいところです。去年も結構苦労したんだよなあ。

今年の予定は8月11日から15日までの5日間、18時から根本中堂で法話があり、18時40分から祈願護摩供法要(天台声明)が行われるとの事です。ライトアップは日没後開始で、拝観は21時(受付は20時30分)までとなっています。

山の上ですから冷房は要らず、その点ではエコなイベントと言えるかも知れませんね。

2011年7月29日 (金)

比叡山 延暦寺 ~西塔点描~

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昨日は西塔へとすぐにたどり着いてしまいましたが、今日はその周辺の景色を拾ってみたいと思います。まずはにない堂から。

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にない堂は同じ形をした二つのお堂からなり、常行三昧を修す阿弥陀如来を本尊とする常行堂と、法華三昧を修す普賢菩薩を本尊とする法華堂を、真ん中の廊下で結んだ形をしています。この写真は常行堂ですね。

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にない堂の俗称は、弁慶がこの廊下の下に肩を入れて、二つのお堂を担ぎ上げたという伝説から来ているそうですが、何とも凄い発想をするものですね。そもそもこの廊下にそんな強度があるはずもないじゃないかという事を思う様では、あまりに夢がなさ過ぎるのでしょうか。

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弁慶と言えば、道の途中に弁慶水があります。弁慶が修行していた時に飲んだ水だとも、修行のために千日に渡って仏に供え続けた水だとも、自らが千人力になれる様に祈って千日夜に渡って浴身した水だとも言われています。

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その弁慶水のとなりには、お地蔵様が祀られていました。たぶん何らかの関係があるのでしょうけど、謂われは判らないですね。でも、山の中なのに千羽鶴が奉納されていたところを見ると信心する人も多いらしく、調べてみると面白いかも知れません。

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この日西塔にまで行ったのは、この相輪橖を見る為でもありました。正しくは浄菩提心無垢浄光摩尼幢相輪と言い、塔の最上部だけを地上に突き立てた様に見えます。仏舎利を納める塔とは違って中には写経が入っているのですが、歴史は古く、比叡山が開かれた当初からあったそうです。

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何度となく修理が繰り返されてきたのですが、いま見る事が出来るのは明治28年に改鋳された青銅製のものなのだそうです。この相輪橖の改鋳は当時相当な話題になったらしく、夏目漱石の虞美人草にも出て来ます。そこでは、今の比叡山では相輪橖の他には見るべきものはないとまで言い切っており、文明開化の世にあっては根本中堂などの諸堂は価値の無いものとされていたのでしょう。

実際、私には良く判らないのですが、工芸品としては大変な価値のあるものらしく、改鋳から22年後には早くも重要文化財に指定されています。

そんな相輪橖ですが、今ではその存在を知る人はほとんど居ないのではないでしょうか。場所は釈迦堂の裏手にあり、見つけるのにちょっと迷ったほど入り組んだ所にありました。ここまでわざわざ行く人は少ないでしょうね。

漱石が激賞したものが今では忘れ去られているというのは、時の流れとは言え寂しいものがありますね。どこがどう優れているのか私には判らないためこれ以上は薦められませんが、誰かきちんと解説をしてその価値を説いてくれないものかしらん。でないと、明治の優れた文化財が埋もれている様で、勿体ないという気がしています。

興味のある肩は、西塔へ行くついでにこの相輪橖も見てきて下さい。少し急な坂道を登らなければならないけれど、見つけ出すのは宝探しの様でもあり、結構面白かったですよ。

2011年7月28日 (木)

比叡山 延暦寺 ~西塔~

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地図で見ると西塔と東塔の間はごく近く、直線で結べばたぶん1kmも無いんじゃないかな。でもそこは山の中ですから真っ直ぐな道などあるはずもなく、曲がりくねったアップダウンのきつい道を行く事になります。慣れればそうでもないだろうけど、初めて歩く時には近いだろうという油断は禁物ですよ。

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その道の一部を示せばこんな感じで、整備はされていると言ってもごろごろとした石のある道で、ハイヒールやサンダルなどではとても歩く事は出来ません。運動不足の都会人には、結構大変な道ですよ。

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ただ、途中にはごく平坦な道もあり、そこには沢山の灯籠が並んでいました。どうやら天台開宗1200年を記念して全国から寄進されたものらしく、式典に合わせてこの道も整備されたものかも知れません。当時も何度となく延暦寺には来ていたのですが、開宗1200年の事はほとんど気にしていなかったので式典の様子などは全く知らなかったです。今考えると、ちょっと惜しい事をしていたのかも知れません。

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西塔の中心となるのが、この転法輪堂です。堂内に釈迦像を祀るため、釈迦堂と呼ばれる事の方が多いですね。元は三井寺の金堂だった建物で、豊臣秀吉によって移築されたと言われます。このため、現在の延暦寺においては、最も古い建物になるのだそうですね。

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とても立派な建物なのですが、東塔に比べると本当に人が少ないです。近くには駐車場もありまたシャトルバスも来ているのですけどね、立ち寄る人はわずかしか居ないらしく、同じ延暦寺とは思えない静けさですよ。

でも、それだけ山寺の風情に富んでいると言え、蝉時雨の声だけが聞こえる境内でゆっくりと時間を過ごすのは、とても贅沢な一時だと言えるかも知れません。

2011年7月27日 (水)

比叡山 延暦寺 ~西塔への道 浄土院~

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比叡山の三つのエリアとは、東塔、西塔、横川の事を指します。それぞれに中心堂宇を持ち、お互いに影響し合いながらも独自の文化を発展させて来たともいわれます。そのうち東塔と西塔は隣接しており、普通に観光に訪れた人でも歩いて行き来する事が可能です。

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その西塔への道すがらにあるのが浄土院、開祖である伝教大師を祀るお堂です。大師の遺体を移した地とも、ここで荼毘に付したとも言われており、山内でも最も清浄な地とされています。前庭は禅宗寺院を思わせる様な白砂で覆われており、やはり砂紋が描かれていました。これも清浄さを現すしつらえなのでしょう。

この時は知らなかったのですが、この背後には最澄御廟があるそうですね。次に機会があれば訪れたいと思いるところです。

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このお堂ままた十二年籠山という修行の場でもあるそうです。ここに籠もった僧は、12年の間、毎日最澄が生きている様にして仕えるというもので、天台僧侶としては大変な名誉な事なのだそうです。私のような凡俗には想像が付かないのですが、修行僧はどんな日常を過ごしているのでしょうね。

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浄土院は西塔へ通じる道の途中にあるのですが、エリアとしては東塔に入るのだそうです。つまりはまだまだ道半ばなのですね。実際に歩いてみると判るのですが、このお堂の前だけ雰囲気が異なります。この前後はずっと山道なのだけど、ここだけはちょっと町中っぽいのですよね。たぶん、この石垣があるせいなのでしょうけど、少し異質なゾーンに足を踏み入れたという感じがする場所です。

西塔への道はまだ続きます。

2011年7月26日 (火)

比叡山 延暦寺 ~東塔散歩~

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延暦寺は比叡山一帯を境内としているのですが、大きく三つのエリアに分かれます。その一つが東塔、根本中堂がある事で知られるエリアですね。

普通、延暦寺と言えば東塔の事だと思っている人が多いのではないでしょうか。ここには広大な駐車場が整備され、バスターミナルもありますからね。たぶん、東塔を訪れただけで引き上げる人がほとんどではないのかな。

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その東塔を訪れた時、最初に目にするのが大講堂です。根本中堂に次ぐ規模を誇ると聞きますが、確かに堂々たる構えをしたお堂ですね。ただ、このお堂は昭和38年に麓の坂本にあった讃仏堂を移築したものであり、本来のお堂は昭和31年に火災によって焼失しています。

元のお堂は今の1.5倍ほどの規模を持っていたと言われ、裳階が付いていたため外見は2層建に見えるという巨大な建物でした。他の諸堂と同じく江戸時代の再建でしたが、何とも惜しい事をしたものです。

さらに遡れば、平安期に僧兵達が集会を開いていたのはこのお堂の前だったと言われ、ここで気勢を上げては京の町に駆け下って行ったのですね。そんな事を考えていると、ちょっと感慨深いものがある場所です。

お堂の中に入ると仏教に重要な足跡を印した人物の肖像画が掲げられているのですが、その中には法然上人や親鸞聖人、日蓮上人など叡山で修行した後で独自の宗派を築いた人達が綺羅星の様に並んでおり、それを見ているだけでも圧倒される思いがします。なにしろ日本史に名を残す巨人ばかりですからねえ。

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ここは講堂とある様に様々な法会の場とされるのですが、その中でも最も重要な法会が4年に一度行われる法華大会です。一通りの修行を終えた僧侶に対して宗教上の問答が行われるというもので、言わば天台僧にとっての卒業試験にあたるとされています。司馬遼太郎さんの「街道を行く 叡山の諸道」にその様子が記されているのですが、大時代がかったなかなか興味深いものの様ですよ。一般人でも御簾越しになら見る事が出来るような情報もあるのですが、もし本当なら一度は訪れてみたいものだと思っています。

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昨年は「法灯花」に合わせて訪れたのですが、そこかしこに琵琶湖の葦で作ったオブジェが展示されていました。ただ、最初に見た時には護摩壇の様に見えてしまい、夜になると燃やされるのかと思った事は秘密です。

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根本中堂の前の急な石段を登ったところにあるのが文殊楼です。その名の通り楼内には文殊菩薩が祀られており、学業成就のご利益があるとされています。でもどうも見ても門であり、なぜこんなところにあるのかと思っていたのですが、実はこれが延暦寺の山門だったのですね。

今は根本中堂側から登って行く事の方が多いのですが、本来は麓の坂本から登って来た人が最初に潜るべき門でした。という事は、延暦寺会館側にある急な石段を登り、この門を潜った後はまた急な石段を下ってようやく根本中堂にたどり着く事が出来たのですね。谷から谷へと移るためには一度尾根を越えなければならないという事ななのでしょうけど、昔の人は結構敷居を高く感じたのではないかしらん。

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東塔の中には神社もあります。神仏混淆の名残なのでしょうけど、こうしたお稲荷様まであって、ちゃんと世話がされている様ですね。いま見ると何とも不自然な気がしますが、江戸期以前にはごく普通の光景だった事でしょう。

明治の廃仏毀釈の影響は想像していた以上に大きいものらしく、一度ちゃんと調べてみなければいけないと思っているところです。

2011年7月25日 (月)

比叡山 延暦寺  ~早朝の風景~

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先週末も出かける事が出来なかったので、今週は昨年の夏に訪れた比叡山の光景をお届けします。本当は御手洗祭や早朝の蓮の花を撮りに行く予定だったのだけどな。なぜか今年は思うように出かけられない事が多くて困ります。

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それはさておき、今日お届けするのは山霧に霞む東塔の風景です。元々下界とは違う雰囲気のある延暦寺ですが、霧に包まれるとまさに別世界、幻想的な光景が広がります。

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特に、杉木立のシルエットが良いですね。普段はただ木があるな、だけで終わってしまう景色ですけど、モノトーンになる事によって杉木立の存在感がぐっと増しています。

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この木は幽玄味さえ感じさせてくれ、墨の濃淡だけで表現する水墨画そのものと言っても良いでしょう。

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それにしても、この杉の樹齢は何年あるのでしょう。100年ではとうてい足りないでしょうね。300年か400年か、訪れる度にその迫力に圧倒される思いがしています。

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こちらは大講堂の裏にある石灯籠です。端正でバランスの取れた姿が良いですね。霧に包まれた境内の中、静かに佇む姿が素敵でした。

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ずっと以前に訪れた時には、同じ様な霧の中でキツツキのドラミングの音だけが響いていました。京都市内からいつも見えている山なのに、どこか遠くの深山に迷い込んだような気分になる、そんな山霧に包まれた延暦寺です。

2011年7月24日 (日)

江~姫たちの戦国~28 秀忠に嫁げ 

(文禄3年春。伏見城に移るという秀吉。しかし、淀殿は鶴松が2歳で大坂城に移った時に死んだ事を理由に、同じ2歳の拾は連れて行かないと言い、大坂城に残ります。自分たちは先に行くとおねと龍子。もしや、秀次を追い落とし、拾を跡継ぎにしようとしているのではと言いかける江。)

(そこに現れた秀次は昼間から酒に酔っています。酔ってはいるものの、秀吉は伏見に移り住み、いずれは拾いを大坂城に移して後見を務めるつもりだろうと冷静な見方をしています。その様な心配などせず、関白としての仕事に精を出せと叱るおね。無駄だと開き直る秀次。先を案じる江とおね。)

(月日が流れ、伏見城に移り住んだ淀殿と拾。)

(文禄4年3月。後陽成天皇から祝いとして剣と馬を授かった拾。さらに五位の位を授けよと朝廷に迫る秀吉。)

(三成に秀次についてどう思うと問い掛ける秀吉。よからぬ動きがあり、秀吉に不満を抱く者どもに秀次が加担しかねないと示唆する三成。目の黒い内に関白となった拾を見たいと、全てを三成に任せると秀吉。さらに、拾と淀殿を任せるとも伝える秀吉。感激して受ける三成。)

(秀次に拝謁する家康。天下の形勢を見る為に上洛したのだろうと皮肉を言う秀次。秀次が政務を見ているからこそ秀吉も安心していられるのだと繕う家康。その姿を見てたぬきがとつぶやく秀忠。)

(江の下を訪れ、秀勝の悔やみを述べる家康。娘に助けられたと江。秀吉と秀次の事を聞く江。豊臣家中の事は判らないと誤魔化す家康。秀次は焦っているのではないかと口を挟む秀忠。)

(秀次はこの先どうすれば良いのかと問う江。付けいる隙を見せない事だろうと家康。)

(気休めを言うとは思わなかったと秀忠。自分は先に江戸に帰る、正信は京に残り様子を伝えよ、そして秀吉と秀次の間で何かあれば、迷わず秀吉に付けと命ずる家康。その事も江に伝えれば良かったのにと秀忠。)

(昼間から酒を呑み、政務を怠けている秀次。今は仕事に励む時だと意見する江。そこに現れた秀忠。)

(秀忠に物語を薦める秀次。その一方で、家康の様子を聞く秀次。何もと誤魔化す秀忠。暫く逗留してはどうか薦める秀次。そこに朝廷からの使者が現れ、それを機に席を立つ秀忠。)

(秀次の用は何だったのかと問う江。秀次は自分を取り込みたい、さらには家康を自分の陣営に引き入れたいのだと秀忠。そして、何も判らないのにうろうろしている訳だと江を皮肉る秀忠。自分こそ、そこまで判っていてなぜ出て来たのかと言い返す江。)

(そこに現れた完。秀忠を見て父上ですかと問う完。誰を見ても父と思う様だと江。何か思うところが有る様子ですが、あなたでも母親になれるのかと誤魔化す秀忠。)

(2ヶ月後、聚楽第を訪れた三成。三成の用件とは、謀反の疑いでした。謀反など考えた事もないと叫ぶ秀次。それならば誓詞を書けと迫る三成。秀吉に会わせろと反発する秀次。二、三日後にはと答える三成。)

(数日後、聚楽第に押しかけ、調査を行う三成。どういう事かと問い詰める江。秀次に謀反の疑いが掛かっていると答える三成。鷹狩りと称しては奉行達と密談を繰り返し、毛利との間に密約もあったらしい、さらに、殺生禁断の叡山にて狩りを催と言いかける三成を制し、利休の時と同じではないかと畳みかける江。さらに作り事で相手を追い詰め秀吉に取り入る、いつものやり口だと非難する江。いかようにもおおせられよと席を立つ三成。)

(秀吉に会わせよと迫る江。秀吉は臥せっていると断る三成。ならば秀次に会わせよとさらに迫る江。秀次は高野山に追放、さらには切腹が言い渡されるであろうと冷たく言い放つ三成。そして、それを秀次は受け入れたと言い、作り話だと言うのなら、何故秀次はそれを受け入れたのかと江に問い掛ける三成。それには答えず、悲しげな顔で何故秀吉のためにそこまで手を汚すと問い返す江。主君を守る為だと苦しげに答える三成。)

(三成の脇差しを奪い、自らの喉に当てて秀次に会わせよと迫る江。)

(夜、伏見城。三成の案内で拘束されている秀次の下を訪れた江。そこにはのんきに物語を読む秀次の姿がありました。江を見て、なれぜかようなところへと訝る秀次。)

(自分が何とかするから秀吉に会いに行こうと薦める江。もう良いと断る秀次。あれほど身内に優しかった秀吉が、実の甥である自分を殺すとは思っていなかった、しかし、秀吉の本当の思いを知ってしまった今となっては、もうどうしようという気にもならないと秀次。今の秀吉はおかしくなっている、目を覚まして貰えればと江。)

(拾が生まれたのも、自分がこうなったのもすべては巡り合わせだと諦めを口にする秀次。何を弱気なと責める江。自分は居ても許される場所、秀勝が居る所に行きたいのだと秀次。考え直してと迫る江。もっと色んな話をしておけば良かったと微笑む秀次。涙ぐむ江。)

(7日後、高野山で切腹して果てた秀次。)

(さらに、秀次の正室、側室、子供達39人を殺戮した秀吉。)

(あまりの事に、秀吉を許さぬとつぶやく江。)

(伏見城に押し寄せた江。そこで見たのは秀次の幻に悩乱する秀吉の姿でした。呆然とする江。)

(毎晩秀次の夢にうなされていると淀殿。秀吉は夜となく昼となく、秀次の幻に苦しめられているのでした。あれだけの事をしたのだからと江。淀殿もまた、拾のために全てが起こったのかと思うとと、何も食べてはいないのでした。何も知らずに無邪気に遊ぶ拾。)

(そこに、聚楽第が壊されていると知らせに来たヨシ。それは秀次がこの世に生きた証を全て消し去ろうとする秀吉の命令でした。)

(秀吉に拝謁する江。聚楽第を壊したおかげでゆっくり眠れた、あれは鬼門だったと言い出す秀吉。あれは我が家だった、秀勝との思い出も満ちていたと恨む江。もう帰るところも無いなと秀吉。もう話す事もない、この時を限って養女の縁を切って欲しいと切り出す江。)

(その前に話があると秀吉。もう会う事もないと言って席を立つ江。3度目の縁談があると背中に向かって叫ぶ秀吉。驚く江に、そなたの好きな家康の息子、秀忠が相手だと告げる秀吉。徳川は諸大名の筆頭、その徳川との縁を強くしておく事は豊臣家の為には大事だなのだと言う秀吉に、全ては拾の為かと問い詰める江。悪いかと開き直る秀吉。あなたは人の命も、運命も、何もかも思い通りに出来ると思っているのかと叫び、断りますと言って立ち去る江。もう全ては全て決まっているのだとつぶやく秀吉。)

今回の副題である秀忠に嫁げは、最後の最後に出て来ました。本来なら秀次切腹なのでしょうけどね、あまりに暗いせいか、あるいは主人公の江にとっては縁談の方が大事だという事なのか、まあこのドラマらしくはあります。

秀次に謀反の疑いは、確かに掛けられていました。その傍証の一つとされたのが諸大名に対する金貸しで、相次ぐ普請や朝鮮出兵で台所事情が悪くなった大名達に対して、秀次は多額の金を都合してやっていたのです。その筆頭が三成が言っていた毛利氏で、他には細川忠興が金を借りていた事が知られます。

また、謀反の他にも関白らしからぬ所行があった事も咎められており、その一つが三成が言いかけていた比叡山での鹿狩りでした。比叡山は古来より殺生禁断の地とされていたのですが、秀次はその一部が自らの所領となった事から鹿狩りを催したと言うのですね。そしてそれを咎められると、自分の所領で鹿狩りをして何が悪いと開き直ったと伝わります。

この他にも、夜な夜な京の町に出没しては千人斬りと称される辻斬りを重ねていた、狩りに行く途中に道を横切った盲人が居たのですが、狩りの時に盲人と出会うのは不吉だと腹を立てて殺してしまったなどといういわゆる殺生関白と呼ばれる所行、不義の噂がある側室が妊娠するとその腹を割って胎児の顔を確かめたなどの悪行があった事などが今に伝わります。

でも、大名に金を貸していた事はともかくとして、後の悪行についてはどれも類型的であり、後世の作り話か、当時に流布された秀次粛正を正当化するためのデマという印象が強いですね。実際、その根拠となるものは見あたらないらしく、秀次は不当に貶められていると言えるのかも知れません。

ただ、秀吉の抱いた憎しみは相当なもので、秀次一族の惨殺や、聚楽第の破脚などは正常な神経の下で行われたとは考えられません。また、同時に秀次の側近だった大名に対する粛正も行われており、秀頼可愛さのみならず、本気で謀反を疑っていたのかなという気もしますね。「武功夜話」を下にした遠藤周作さんの小説「男の一生」では、秀吉の動きを懸念した秀次の側近達が秀吉殺害を計画してそれが漏れたと描かれているのですが、実際のところはどうだったのでしょうか。ありそうな話ではあるのですけどね。

この秀次の粛正が豊臣政権の弱体化を招いた事は確かであり、秀吉死後の豊臣政権を支えるべき人物が居なくなってしまった、疑いを掛けられた忠興の様に奉行達に恨みを抱く者が多く出て、政権内部の対立を鮮明化させたなどと言われています。また、必要以上に残虐な粛正は、世間の豊臣政権に対する印象を暗くした事は間違いないでしょう。秀吉の晩年は、その前半生の輝かしさからは考えられない程、陰惨なものとなり果ててしまっていたのでした。

なお、秀次一族の殺害については以前に記事を書いていますので、そちらも参考にして下さい。

2011年7月23日 (土)

京都・洛東 夏空2011 ~二年坂~

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夏の日暮れ時の二年坂です。清水寺から炎天下を歩いてきた人達も、この日陰に入るとほっとする事でしょう。この先にあるのがかさぎ屋さん、ここでかき氷を食べればもっとすっとする事でしょうね。まあ、私的には夕食前だったので素通りしてしまったのですが。

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それにしても、すっかりお土産物屋さん通りと化してしまった二年坂ではあります。以前は仕舞屋がほとんどで、店は数えるほどしかありませんでした。地元の清水小学校が今年の3月一杯で廃校となったと聞きますが、この有様では仕方が無いのかなという気もしますね。でも、町が空洞化している様にも見え、この先大丈夫なのかなとも思ってしまいます。

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二年坂を出て維新の道を少し下ると、道ばたにノウゼンカズラが咲いていました。炎天の下で咲き続けるこの花は、最も夏空が似合う花の一つかも知れません。

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この時、向こう側に舞妓姿が見えたので、花と合わせてみました。でも、あまりに小さくて判らないかな。

この時期の舞妓体験はどうなのでしょう、暑くて大変な気がするのですが、涼しくなるような工夫がしてあるのでしょうか。町の彩りとしては歓迎ですが、ちょっと大変そうではありますね。

2011年7月22日 (金)

京都・洛東 夏空2011 ~八坂の塔~

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平成23年7月16日、宵山の日に訪れた八坂の塔です。この日は絵に描いたような夏空を背景に、古塔が静かに佇んでいました。

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それにしても、雲一つ無いという空を見たのは久しぶりではないかな。それだけにとても暑い日で、ファインダーを覗いている目に汗が流れ込み、シャッターを押すだけでも大変でしたよ。

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でもこの強烈な光を受けて、木々の緑は輝きを増している様な感じかします。光合成をフルパワーで行う事が出来て、さぞかし栄養が足りているのではないかな。この事が秋の紅葉にプラスになると嬉しいのですが、どうなるのでしょうか。

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八坂通は電柱の地中化が終わり、待望のすっきりとした景色が実現しました。うーん、やっぱりこれが良いですねえ。

工事自体は随分前に終わっていたのですが、私が訪れたのはこの日が初めてでした。なので、光線の状態や背景の雲の様子があまり思わしくないと知りつつも、あえて撮ってきた次第です。次は青空背景になる午前中や、夕日に染まる光景を撮ってみたいですね。せっかく実現した景色なのですから。

2011年7月21日 (木)

祇園祭2011 宵山 ~宵山点描~

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2011年の祇園祭宵山のレポート、最後は当日拾ってきたいくつかのシーンをお届けまします。

写真は伯牙山。綾小路通にあり、旧杉本家の表の間が町会所代わりになっています。

伯牙とは晋時代の人の名で、琴の名手として知られていました。しかし、友人の訃報に接し、悲しみの余りに自ら斧で琴を断ち割り、以後は弾く事を辞めてしまったという故事に基づく山です。

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その伯牙山の近くで見かけたのが、写真の怪人です。成人男性ですが、ランドセルを背負った小学生の出で立ちで、頭にはハローキティやピカチュウのお面を重ねた帽子を被り、その上には何本もの蛍光菅を束ねて乗せているという異様さです。

そんな怪しげな人物だったのだけれど、なぜか人気は抜群で、一緒に記念写真を撮る人が続出していました。何だか良くは判らないのだけれど、その内またどこかに出没するかも知れませんね。

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こちらは、白楽天山の近くにある市原亀之助商店です。窓の向こうでは屏風祭が行われていたのですが、写真の範囲で約半分でしたから、宵山でも最大規模に近いんじゃないかな。窓を仕切る格子が良い感じで、如何にも宵山の夜という風情を感じた景色でした。

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最後は涼しげに、冷やしきゅうりとミニトマトで閉めましょうか。このきゅうりは食べた事が無いのですが、たぶん浅漬けなのでしょうか。ずっと水にさらされており、如何にも冷たくて美味しそうですね。

暫くこの屋台の近くで休憩していたのですが、素晴らしい売れ行きでした。一人で何本も袋詰めにして行く人もあったところを見ると、さぞかし美味しいのでしょうね。

でも、一点気になるのは、京都では祇園祭の期間中はきゅうりは食べないという風習がある事です。八坂神社の紋章がきゅうりの輪切りに似ている事から来ているそうなのですが、この屋台って真っ向から逆らっている事になりません事?

まあ、買うのは大抵他府県の人だから良いという事かな。あまり気難しい事を言う気はありませんが、ちょっと引っかかりを感じる事も確かです。

2011年7月20日 (水)

祇園祭2011 宵山 ~四条通~

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船鉾から四条通にかけての新町通は、宵山で最も混雑する場所の一つです。ですのでここを通るのは避けて、綾小路通を西に向かい、西洞院通を北に向かって四条通へと出ました。その余得として、四条傘鉾の演技に出会えたのはラッキーでした。

四条傘鉾は綾傘鉾と共に鉾の原型を伝えるとされており、一度は途絶えていたのですが、昭和60年に巡行に復帰しています。綾傘鉾と違って踊り手が子供であり、その踊り方も随分と異なりますね。巡行の時にはただ歩くだけであり、その踊りは見た事が無く、この日初めて目にする事が出来ました。

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午後10時頃になると各鉾町では店じまいを始め、観客も次第に帰り方向が多くなります。自販機は見事に売り切れ、投げ売りをする店も出始め、いかにも祭りの終焉が近付いたという感じがしてきます。

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でも、通りが静かになるのかと言うとそうでもなく、祇園囃子がそこかしこから聞こえてくる様になります。その原因がこの日和神楽ですね。

これは各山鉾から明日の巡行の好天を祈って繰り出されるお囃子隊で、各鉾町から八坂神社御旅所までを往復します。ですから、四条烏丸のあたりに居ると、次々に目の前を通り過ぎる事になるのでした。

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この時間帯まで粘ったのは、函谷鉾の提灯落としを見る為でした。9時30分頃に一度四条通を横切った時にはまだ提灯が灯っており、10時前に戻ってきた時も煌々とした灯りは点いていました。これはどうやら間に合ったらしいと思ったのですが。

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その後な何の動きも無く待つ事30分、やっと提灯の灯りが消されました。スイッチは一番下の提灯の底に付いているのですね。さあ、いよいよこれからたと思ってみていると、一列ずつ順序良く下ろされていくではありませんか。これってどういう事?

今年は取りやめになったのか、もしかして一度落としたものを復元してあったのかしらん?良くは判らないけれど、拍子抜けした事だけは確かです。

でも、終了間際の様子を見る事は出来たのだし、宵山を存分に楽しめた夜だったと思います。


2011年7月19日 (火)

祇園祭2011 宵山 ~新町通~

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保昌山を出て、高辻通を東に向かいます。烏丸通を東に渡り新町通を左に折れると、すぐ向こうに岩戸山の灯りが見えてきます。

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岩戸山は囃子方を持つ曳き山の一つで、鉾の様に祇園囃子を奏でながら都大路を曳かれていきます。他の鉾に比べて小さいため観光客にはあまり人気が無い様ですが、コンパクトな均整の取れたフォルムを有しており、私的には好きな山の一つですね。

この山は鉾町の外れにあるため比較的人混みも少なく、かつ祇園囃子が流れているので宵山の風情も溢れているという、宵山お薦めの場所の一つです。

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岩戸山から新町通を北に向かいます。仏光寺通を北に渡ると目の前に船鉾が現れます。

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ご神体は神功皇后で、安産の神として知られます。祭の間、このご神体には多数の岩田帯が巻かれており、祭の終了後に安産のお守りとして配布されると聞きます。それを受けるにはどんな手続きが必要なのかは知らないのですが、如何にもご利益がありそうな感じではありますね。

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かつて存在したもう一つの船鉾、大船鉾の復元が進んでいるそうです。この秋には船形部分が完成し、10月にはお披露目がされるそうですね。そして平成26年の復帰を目指しているそうで、150年ぶりに二基の船鉾が揃った姿を見る事が出来るそうです。

また、大船鉾の復活を機に、祭を前後に分けるという案も出ているそうです。元々祇園祭は前後二回に分けて行われており、昭和41年に統合されたという経緯があります。その理由は「後の祭り」という慣用句の語源がそこから出たと言われるように、後祭りがあまりに寂しかった事にあるとされているのですが、要するに観光目的だったのでしょう。

その弊害として、巡行があまりに長時間となり、後半になると観客がだれてしまい、南観音山の頃には観客が半ば帰り始めているという現象があります。そこで本来の姿に戻して時間を短縮し、寂しいと言われる後祭は、掉尾を大船鉾で飾る事でカバーしようという訳ですね。

後祭りのコースは、三条通と寺町通が予定されているとか。寺町通はアーケードを開け放つのかな。ブログ的にはネタが増えるので嬉しいかも、です。どちらも道幅が狭いので大変でしょうけど、昔ながらの風情に近く、写真的にも絵にはなるでしょうね。

でも、以前と同じように、後祭りが寂れたものにならないかという心配がありますね。それに、宵山が少し寂しい事になるんじゃないかな。まだ決まった訳ではないけれど、行方が気になるニュースではあります。

2011年7月18日 (月)

祇園祭2011 宵山 ~保昌山~

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今年の祇園祭宵山は、いつもの年よりも遅く出かけました。仕舞い際の様子を見たかったというのがその理由ですが、混雑を避けたいという思いもありました。まあ、それは見事に外れたのですけどね。

鉾町に着くまでの間の人混みを避けたいと思われる方には、清水五条駅から北上するルートをお薦めします。四条通は身動きも出来ない程の賑わいを見せている時でも松原通や万寿寺通といった道はがらがらに空いており、スイスイと歩いて行く事が出来ます。あまりに人が居ないため、女性の一人歩きは危ないかもと思わせる程ですよ。

やがて右手の奥に見えてくる灯りが最初の鉾町、保昌山の提灯です。

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保昌山は烏丸通の東にあり、鉾町全体から見れば離れ小島の様な位置にあります。ですので、以前はあまり人が寄りつかず、あえてここに来るのが宵山の通の様な雰囲気もありました。でも今は違いますね。

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理由は縁結びの神様として認識される様になった事にあります。惚れた女のためには、地位を投げ出す事も厭わなかったという藤原保昌の故事にちなみ、この山では縁結びのお守りが売られているのですね。

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なにしろ宵山限定ですから、年に3日しか求める事が出来ません。となると、ますます有り難みが出るというものですよね。他にも縁結びのミニ絵馬もあり、人気が人気を呼んで、今では鉾町の中心部と変わらない人出が押し寄せる様になっています。

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訪れたのは午後9時前でしたが、子供達がまだ頑張っていました。3日間、さぞ疲れた事でしょうね。それにしても、さすがにこの時間となると残っているグッズも随分と減っています。特にちまきはどこも売り切れで、今年は買う事が出来ずに終わっています。こんな事なら、15日に買って帰るのだった。

終了間際の宵山探訪は、この後も続きます。


2011年7月17日 (日)

江~姫たちの戦国~27 秀勝の遺言

(文禄元年冬。江の子を抱き、可愛がる秀次。名付け親にはおねがなり、完と呼ばれる様になりました。)

(弟を殺した秀吉を許さぬと秀次。)

(浜松城。相変わらず寝そべっている秀忠。その秀忠に朝鮮で日本軍が苦戦になっていると報告する正信。最初から判っていた事、秀吉の気まぐれのせいで、多くの将兵は死に場所を求めて海を渡った様なものだと秀忠。さらに秀勝の死を告げられ、驚く秀忠。病で死んだと聞き、何やら思うところがある様子です。)

(文禄2年、聚楽第。まだ秀勝の死から立ち直れていない江。我が子の完でさえ、秀勝と一緒でなければと抱けない江です。)

(そこに見舞いに現れた初。何とか妹を元気づけようとする初ですが、どうしても江は元気を出せないどころか、死にたいとまで言い出します。)

(初を連れて龍子の下を訪れた初。同じ夫を亡くした者同士、上手に励ましてくれるのかと期待していたのですが、龍子はとんちんかんな事ばかり言って全くの逆効果でした。)

(見舞いに現れたガラシャ。皆には頼れる夫がいる事が羨ましいと江。自分には夫は居ないと言い切るガラシャ。本能寺の変の折、謀反人の娘として幽閉され、夫にすら見捨てられた境遇にあり、あまりの孤独故に何度も自害しようとしたが、糸に引き留められキリシタンへの道を歩むようになった。その後、細川家に戻されたが、もはや忠興は自分の夫ではなくなっていたと言うガラシャ。)

(江は今、道を見失っているだけだ、自分の強さを信じて行きなさいとと忠告するガラシャ。やっと救われた思いがした初。)

(亡くなった人達は遠い空の上で見守ってくれていると思ってはどうかと初。それでも側に居て欲しかったと泣き崩れる江。そこに、淀殿が九州から帰ったという知らせが入ります。)

(大坂城で姉と対面する江と初。父母の時と違い、今度は江一人の戦いだと思いやる淀殿。でしかし、彼女もまた我が子の鶴松を亡くした痛みを持っているのでした。あの時も一人だったと淀殿。)

(また子供が出来たと淀殿。それは鶴松の死に負けなかったからだ、江も希望を持てと諭す淀殿。無理だと渋る江に、無理でも無茶でも、そこからしか道は始まらない、完もまた希望ではないかと淀殿。)

(聚楽第。完の寝駕籠の前に座り、手をさしのべかねている江。そこに秀勝の遺品が届きます。)

(遺髪と短刀を手に涙ぐむ江。そして、箱の中には秀勝の遺言が入っていました。)

(病を得て、失意に沈む自分を救ってくれたのは朝鮮の子供達だった。子供と一緒に居ると、この戦が如何にむなしいものだったかが判る。そして、いつも海の向こうの江の事を考えている。江を妻と出来た事は何より素晴らしい事だったが、江には何を残してやれたのだろう。)

(夫の遺言を読み、完の下に戻ってきた江。夫の残してくれたものとして、やっと我が子を抱けた江。)

(文禄2年8月、二人目の男の子を産んだ淀殿。その子は秀吉により拾と名付けられました。)

拾とは棄の反対で、拾った子という意味ですね。つまりは捨て子であり、鶴松の時と同じ縁起をかついだのです。この時は家臣に命じて本当に道ばたに棄てさせ、すぐさま拾って帰るという手の込んだパフォーマンスまでしています。その甲斐あってか拾は無事に育ち、後に秀頼と名付けられて豊臣家の跡継ぎとなるに及びます。

(九州から我が子の下に駆けつけた秀吉。彼は江の手を握って、そなたの姉は菩薩だ、観音様だ、二度までも子を授けてくれたと喜びます。その一方で秀勝の事があり、今ひとつ晴れない江。それと気づき、秀勝の事はすまなかったと頭を下げる秀吉。)

(秀勝の遺言には、彼の地での戦のむなしさが綴られていたと告げる江。そして、戦を止める事が秀勝への何より供養だと秀吉に迫ります。)

(戦は中休みだと秀吉。とにかく一度話し合ってみようという事になったが、明国が調停を受け入れなかったらまた戦は続くと秀吉。)

(この戦のばかばかしさが判らないのか、だとしたら秀吉は本物の大うつけだと叫ぶ江。誰に言っているのかとにらみを利かす秀吉。さすがに目を反らす江。その時、拾が声を上げたため、秀吉の機嫌は一度に直ります。)

(拾に向かって、そなたは豊臣の跡取りだ、関白になるのだぞと言い聞かせる秀吉。そう言った後で、もう関白は居たのだったと気付く秀吉。どういう事かと問い掛ける江ですが、秀吉は拾をあやす事で誤魔化してしまいます。)

(一月後、聚楽第。秀次の娘と拾を夫婦とし、豊臣の柱としたいという手紙をもらったと秀次。それはなぜと問う江に、秀吉の真意は判らないが、逆らえば自分の地位が危うくなると考えて承知したと答える秀次。)

拾と秀次の娘の婚約は、本当にあった事とされます。秀次と秀吉の間の融和策と言われ、秀吉の死後に拾の保護者となるべき秀次に対し、娘婿相手なら悪いようにはしないだろうという配慮があったと考えられます。

(拾に関白の座を奪われるのではないかと気にしているらしい秀次に、きっと秀次の後を拾に継がせたいと考えているのだと話す江。その頃には秀吉はこの世に居ない、自分が生きている内になんとかしたいと考えているのではないかと秀次。)

(まだ口も利けぬ子に関白が継げるはずもないと江。秀吉が居ると秀次。とにかく気を強く持ち、関白を辞めてはいけないと迫る江。)

後世から見れば、秀次はさっさと関白職を降りるべきでした。そうして秀頼の為に道を空けて置いてやれば、後の悲劇はなかっただろうと思われます。でも、江は辞めてはいけないと言うのですね。赤子の拾のために、現職の関白が辞職するなど筋が通らないと言いたいのでしょうか。でも、その一方で秀吉は異常だとも言っているのですから、筋の通らない相手にいくら理屈を言っても無駄だと判りそうなものなのですが。どうも、歴史の流れに棹を差すのが江の役所になっている様です。

(これが秀勝なら、関白の座など蹴り飛ばして平然としているだろう、しかし、今の自分は地位にしがみついて汲々としている、笑ってくれ江と秀次。痛ましげに秀次を見る江。)

(大坂城。拾を関白に据えるため、秀次を追い落とすつもりてはないのかと姉に迫る江。まだ拾は赤子だと一蹴する淀殿。しかし、秀吉は朝鮮へ執着するなどおかしくなっている、どうか淀殿からも強く言ってもらいたいと江。同意する淀殿。)

(拾に母乳を含ます淀殿。いぶかる江に、拾は自分の思うように育てたいとのだと淀殿。その姿に不安を覚える江。)

秀頼には乳母が居たとされますが、淀殿が自分でも母乳を与えていたらしい事は、淀殿の母乳の出を気遣う秀吉の手紙から推測されます。当時の上流階級としては珍しい事なのでしょうね。先の子を亡くしているぶん、愛情が深かったという事なりでしょうか。

一方の江は、抱こうともしなかったという演出ですから、当然全ては乳母任せという設定なのでしょう。だから姉の姿に異様なものを感じたのですね。つまりは、秀頼を溺愛して離さない淀殿という将来に向けての伏線でしょうか。

(冬。朝鮮から帰ってきた諸将。)

(江戸に戻った家康。)

(拾が生まれた事で、秀次に関白を譲ってしまった事を秀吉が後悔していると家康。今後は秀次を追い落とそうとする動きがあるかも知れないと正信。同意する家康。そうなると、義理の妹にあたる江が悲しむだろうと秀忠。秀忠が他人を気に掛けるとは珍しいと家康。そういう訳ではないと誤魔化す秀忠。)

(聚楽第。完と遊ぶ江。その最中にも秀吉のつぶやきが気になって仕方がない江。そして雨の庭を見やり、嵐が来るかもしれないとつぶやきます。)

あっという間に2年が過ぎているという早い展開のため単純化されている秀次と秀吉の葛藤ですが、実際にはもっと紆余曲折があった事と思われます。それに、双方の側近団同士の対立もあった事でしょうし、相当な暗闘があった事てじょう。

でも、突き詰めてしまえば秀頼に跡を継がせたいと願う秀吉の意向が強く働いた事は確かであり、それを単純化して描いたドラマの手法は、有りと言えば有りでしょうか。ただ、あまりに安っぽくはあるのですけどね。

次週はもう秀次の切腹なのか。殺生関白という汚名はどうなるのかな。その妻妾への仕打ちは描かれるのかしらん?秀吉の生涯で最も見たくないシーンなので、楽しみにしてますとはやっぱり言えないです、はい。

2011年7月16日 (土)

祇園祭2011 宵々山

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平成23年7月15日、祇園祭の宵山の様子です。今年は鉾建や曳き初めなどのイベントがほとんど平日で出遅れた観があったのですが、やっと参加する事が出来ました。

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訪れたのは仕事帰りで、ようやく日が沈む頃でした。四条通もまだ人が集まり始めたところで、祭りの熱気はまだまだこれからが本番です。

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背後を振り返ると、遠く東山が夕日に照らされていました。夕闇が迫り始めた四条通とのコントラストが鮮やかで、この時間帯ならではの風情が感じられます。

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この日の予定は新町通を歩く事でした。通りに入ってすぐに目に飛び込んで来るのが放下鉾。四条通とは違って細い道にあるこの鉾は迫力を感じます。それにどこか親しみやすさを感じるのは、昔ながらの風情が残っているからなのでしょうか。

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風情があると言えば、南観音山のろうそく売りの子供達ですよね。新町通を選んだのはこの子達の歌を聴きたかったからで、やはり宵山には欠かせないシーンです。その動画を撮ってきたのでアップします。

これは宵々山バージョンで、宵山では「常は出ません今晩限り」というフレーズが追加されます。もっとも、他の山では「常は出ません今明晩限り」と唄っていたので、山ごとに少しずつ歌詞が違っているのでしょうね。

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新町通を歩く楽しさは、屏風祭を見る事にもあります。ここ無名舎では家の表戸を全て開け放ち、手前の板間では陶器の置物で州浜を象って水辺を現し、その奥に金屏風を飾るという素晴らしくセンスの良い展示をされていました。町衆文化の粋を感じるといったところかな。

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この日は新町通を通り抜けるだけに止め、烏丸通へと出ました。ここは鉾や山は少ないけれど、出店が多くてとても賑わっています。で、たまには店側からの光景も面白いかと思い、後ろから撮らせてもらいました。売り子さんからはこう見えているのだという光景です。

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最後は鈴鹿山に寄らせて頂きました。祇園祭随一の美人と伝えられるご神体に会いに行ったのですが、その素顔は面に覆われていて窺う事が出来ません。さすがに町会所の人は知っているのでしょうけど、伝説は伝説として、いつまでも謎のままに残しておくのが一番良いのでしょうね。

さて、明日は早くも山鉾巡行です。今年は3連休の中日とあって、さぞかし混み合うのでしょうね。でも、祭りはやっぱり賑やかなのが良いものな。

2011年7月15日 (金)

京都・洛東 夏の空 ~真如堂 7.9~

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梅雨が明けて、夏空に覆われた真如堂です。雲の感じにまだ梅雨の名残があるのかな、でも日差しの強さは真夏のそれと同じでした。

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菩提樹は花が終わっており、早くも丸い実が沢山実っていました。これから一夏を掛けて熟成し、秋にはプロペラと共に地面に落ちてきます。俗説として、財布に入れておくとお金が貯まるとも言われ、わざわざ取りに来る人も居るみたいですね。かくいう私も一つ持っていますが。

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菩提樹と並らぶお釈迦様ゆかりの沙羅の木は、最後の花を咲かせていました。根元には沢山の花が落ちていましたが、ほとんどが茶色く萎れており、諸行無常と言う以上になってしまっていました。先週はまだ見頃だったと聞きますから、来るのが一週間遅かった様ですね。

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参道を歩いていると、もみじの枝が垂れていて、その葉の向こうに明るい門が見えていました。不思議な遠近感があって、どこか知らない場所を見ている様な気がします。

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あまりに暑いので、木陰に入って三重塔を撮りました。ついでに塔も木陰に入れてあげたつもり。少しは涼しげに感じて頂けました事?

2011年7月14日 (木)

京都・洛東 蓮2011 ~西雲院 7.9~

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平成23年7月9日の西雲院です。この日は本堂の前で数輪の蓮の花が咲いていました。

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西雲院は黒谷の塔頭の一つで、会津墓地のすぐ近くにあります。立本寺や大蓮寺と同じく、鉢植えの蓮がずらりと本堂の前に並べられている事で知られます。

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この日は他の場所と同じく、まだあまり数は咲いていませんでした。見頃にはまだ早く、盛りになるのはこれからという事なのでしょう。

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境内にはギボウシの花が咲いていました。あまり派手さは無いですけど、如何にも和風を感じさせてくれる花ではあります。どちらかと言えば葉の変化を楽しむ観葉植物なのかも知れませんが、この清楚な花もまた捨てたものではないですよね。

2011年7月13日 (水)

京都・洛中 立葵2011 ~相国寺 7.9~

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この時期の相国寺には立葵が咲いています。上立売通と参道が交差する場所にあり、その鮮やかな色合いもあって、常に人目を惹く存在ですね。

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植わっているのは生け垣の中、株立ちの群生となって咲き誇っています。道行く人の多くが立ち止まり、カメラを取り出してはその姿を納めていました。

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俗に、この花が先端まで咲ききったら梅雨が明けると言われますが、今年はそれを待つまでもなく明けてしまいました。例年になく早く梅雨入りしたぶん、明けるのも早くなったという事なのでしょうか。大雨が降ったかと思うと空梅雨の様になったりと、なんだかよく判らない梅雨でしたよね。この先はどうなるのだろう、また猛暑の夏となるのかしらん?

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雨に打たれている姿も良いけれど、こうした夏の光を浴びた姿も良いですね。夏が本格化すると共にこの花も終わり。つかの間の陽光とのコラボレーションを見る事が出来たのは良かったと思います。

2011年7月12日 (火)

京都・洛中 蓮2011 ~相国寺 7.9~

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平成23年7月9日現在の相国寺です。この日は放生池の周辺で蓮が咲き始めていました。

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その様子はというとこんな感じで、結構な鉢数ですよね。数だけなら立本寺や大蓮寺にも負けていないと思います。ただ、場所が広いので散漫な印象を受けるのかも知れません。

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ここは大きく品種が書かれているのが良いですね。他の場所でも書かれているのですが、大抵が小さな木片なので読み辛いのですよ。

この花は八重茶碗蓮。茶碗の中でも育てられるような小型の品種なのだとか。そして、冒頭の花はミセス・スローカム。アメリカで作出された花で、黄色とピンクの花色が、日を追うごとに変化して行くという品種なのだそうです。蓮も品種を調べていくと、結構面白い世界なのかも知れません。

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花が終わった跡もいくつかあったので、咲き始めは今月の初め頃だったのでしょうか。まだ盛りとは言えない様子だったので、見頃はこれからなのでしょうね。

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池の面では睡蓮が咲いていました。睡蓮と蓮とが並んだ良い感じの池なのですが、黒い柵がぐるりと取り巻いていて、閉鎖的なのが今ひとつな場所なのかな。過去に事故があった結果と思われますが、他の場所に比べて今ひとつ知名度が無いのはそのせいかという気がします。仕方が無いのかも知れませんが、ちょっと惜しいですね。

2011年7月11日 (月)

京都・洛中 蓮2011 ~立本寺 7.9~

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平成23年7月9日の立本寺です。西陣の町中にある蓮の名所として知られるこの場所ですが、この日はやっと咲き始めたところの様でした。

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出入り自由の境内に無造作に置かれているせいか、毎年花が切られただの、鉢ごと持ち去られただのと騒動が絶えないのですが、それでもアクセスフリーの姿勢を変えないところに寺の自負が感じられ感銘を受けます。

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もっとも、本殿前は木柵で締め切られており、仏像盗難のおそれがある事から参拝者は寺務所申し出て欲しいとの張り紙が貼られていました。そう言えば賽銭箱もなかったなあ。本来開かれた場を目指すべき寺がこういう防衛策に出なければならないとは、世知辛い世の中になってしまったものだと思います。

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まだ数は咲いていませんでしたが、蓮の美しさは変わりませんね。盛りはこれからで、咲き揃うとさぞかし見応えがある事でしょう。

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蓮と言えば、なぜかトンボが付きものになっています。水があるからなのか、花に寄ってくる小虫を狙っているのか、それともたまたまなのか。

こうしたつぼみの上に止まっている事が多く、それもお気に入りの場所が決まっている様ですね。風に揺られるごとに飛び立つのですが、その都度旋回しては元の場所に戻っていました。トンボにとっては、居心地の良い足場なのかも知れないですね。

2011年7月10日 (日)

江~姫たちの戦国~26 母になる時

(太閤となり、朝鮮へと兵を進めた秀吉。その数30万。)

(天正20年春、浜松城。寝ころんでいる秀忠。彼は九州へと向かった家康の代わりに留守を預かっていたのでした。しかし、鬼の居ぬ間にとのんびりとしている様子です。朝鮮出兵に批判的な秀忠。まさに猿の戯言と秀吉をこき下ろします。)

(江と秀勝の婚儀を聞き、やはりとうなずく秀忠。)

(聚楽第で、夫の世話を甲斐甲斐しく焼く江。しかし、やり付けていない事ばかりで、周囲をはらはさせています。)

(帰宅した秀勝を出迎えた江。袴をたたむと言って近習と争い、ひっぱり合った挙げ句に破いてしまいます。それを見て高笑いする秀勝。)

(夜、夫婦で語らう二人。秀吉から命じられた秀次の見張り役を思い出し、気が進まぬ江。では行ってみるかと英勝。)

(秀次の屋敷。夜遅くまで書類に印判を押している秀次。やってきた二人を見てうんざりした様子です。)

(関白の仕事はどうかと問う秀勝。やりがいはあるが、公家相手の行事ばかりだとぼやく秀次。婚礼の時の礼を言う江。その江を見て、秀吉が猿なら秀次は小猿だ、とても関白の器ではないと言われていた事を思い出す秀次。)

(公家相手に和歌の手ほどきをしていると意気込む秀次。秀勝と楽しそうに話し込む秀次を見て、意外なと微笑む江。)

秀次という人は、こうした文化人としての側面を持っていた様です。実際にも公家との間に交流があり、その教養を認められてもいたそうですね。また、古典の収集にも熱心で、数多くの書籍の散逸を防いだとも言われています。後に言われるような殺生関白とはまるで違った姿がそこにはありますね。

(秀勝の屋敷。以前追放された時に、秀次が金子を送ってくれたと明かす秀勝。秀次は誤解を受けやすいが、感じやすい心を持つ優しい人だと言い、江にも好きになってもらいたいと頼む秀勝。)

(大将として8千の兵を率い、朝鮮に渡る事になったと江に告げる秀勝。戦を思い出し、秀吉に会って止めさせると部屋を出て行こうとする江。既に多くの大名衆が出陣しており、甥である自分が拒む訳には行かないと秀勝。)

(利休の言葉を共に背負って行こうと言ってくれたではないかと萎れる江。江を抱きしめ、許せと言うしかない秀勝。)

(秀勝出陣の日。首途の酒を注ぎ、守りの札を渡して無事の帰りを願う江。必ず戻って来ると誓う秀勝。)

この場面、メロドラマ風の演出ではありましたが、家臣の前であんなやりとりをするとは考えられず、さすがにどうかと思いましたね。家族と離れるのは家臣達も同じ事で、主君がことさら悲しそうに別れを告げるなど許されない事とは思いますが、そこは江だから仕方が無いという所かな。

(天下布武の印を取り出し、これをお守りに渡せば良かったと悔やむ江。)

(九州へ向かう淀殿。なぜ朝鮮出兵を止めなかったのかと江。自分もおねも止めたが聞き入れて貰えなかったと淀殿。戦が嫌いなのになぜ九州に行くのかと江。子が欲しいからだと答える淀殿。)

ドラマでは後から呼ばれた様になっていましたが、実際には最初から一緒に行っていた様です。その道中には淀殿のために厳島神社にも参拝したと言われ、およそひと月かけての旅だったそうです。このあたり、淀殿に対する秀吉の心遣いが現れていると言えそうですね。

(秀勝に手紙を書く内に、突然つわりに襲われる江。子が出来たと知り、喜ぶ江。)

(夏になり、お腹が大きくなった江。見舞いに来た初。高次もまた九州に出向いているのでした。戦は連戦連勝で、すぐに終わるのではないかと楽観的な初。)

(壱岐の陣で下知を下す秀勝。)

秀勝は、九つに分けた軍の殿でした。この時は細川忠興が3千5百の兵を率い、秀勝は8千の兵を率いるという混成軍だったのですが、なぜかドラマでは出てこなかったですね。

(破竹の勢いに気を良くしている秀吉。水軍が不利な事を危ぶむ家康。秀勝に海峡を扼する島に城を築かせよと命ずる秀吉。そして、自分が行って采配を振るおうかと叫ぶ秀吉。まだその時ではないと引き留める家康。その時、なかが病に伏せったという知らせが入りました。)

朝鮮側は、本当に日本が攻めて来るとは思っていなかった様ですね。準備が不足していた上に、彼の地には鉄砲が無かった様です。初めて見る鉄砲の威力に押しまくられ、為す術もなく後退して行った様です。日本側からすれば連戦連勝という訳で、開戦から半月足らずの間に国都を堕とすという勢いでした。もっとも、秀吉の狙いは朝鮮ではなくその向こうの明にありましたから、そう簡単に戦が終わると言うはずは無かったのですが。

秀吉が朝鮮に渡るという案は実際にもあったらしいのですが、ドラマの展開のとおり、なかが重体に陥ったという知らせを受けて取りやめになったそうです。この時、帰りの船が瀬戸内海で座礁するという事故があり、秀吉は危うく助けられたのですが、その時の船頭を自分を危うい目に遭わせたとして手打ちにするという事件があったと言われます。秀吉の耄碌が既に現れていた事例の一つとも言われ、秀吉の特長であった寛大闊達な心を無くしてしまっていたという事なのでしょう。

(なかの見舞いに駆けつけた江。)

(病床でおねを相手に、朝鮮に兵を出した秀吉を怒るなか。天下人になっても、昔の日吉のままだと懐かしむなか。)

(江のお腹を触り、ここにひ孫がいるのかと喜ぶなか。そして、秀吉をゆるしてやって欲しいと頼みます。そして、たわけ程可愛いんじゃとしみじみとつぶやくなか。涙ぐむ江とおね。)

(その翌日、76歳の生涯を閉じたなか。)

(朝鮮の陣。水軍相手に苦戦をしている秀勝。そこに、食料徴発に不満を持った朝鮮人達が抗議に現れます。小競り合いの末、刀を振るおうとする兵。それを止めに入った秀勝。その秀勝の足を切ってしまった兵。自分の事はさておき、地元民に手出しはならぬと一喝する秀勝。)

始めは連戦連勝だった日本軍も、次第に苦戦に陥り始めます。その要因の一つが水軍でした。亀甲船と呼ばれる独特の船で、船を屋根で覆い尽くして攻撃を防ぎ、優れた火力で日本船を沈めたと言われます。もう一つの要因が、各地で起きた朝鮮民衆による反乱でした。直接には大した武力ではなくても補給路を脅かすには十分であり、前線が延びきった日本軍は食料、弾薬の補給に事欠く様になり、思うように戦えなくなっていったのでした。

(足の傷は重く、陣頭で指揮を執っている最中に倒れてしまう秀勝。)

(京にあって、不吉な予感を覚える江。)

(仏間に行くと、九州から戻っていた秀吉が居ました。旭、秀長、鶴松に続いて母を亡くした秀吉は、すっかり弱っています。江に向かって、良い子を産み、良い家を作れと言う秀吉。家を造ろうにも夫は居ないと恨み事を言う江。戦は連戦連勝だ、すぐに終わって秀勝にもどーんと褒美を出すと答える秀吉。そんな物は要らないから、すぐに秀勝を返して欲しいと訴える江。黙って出て行く秀吉。)

秀吉が家族思いだった事は良く知られています。この時も、朝鮮に渡る事を取りやめにして京に帰っています。それだけ母親に対する思いが強かったのでしょうけど、動員されている諸将達にはどう映ったのでしょうか。いくら親の事とは言え、この非常時にと腹が立ったのではないかしらん。もっとも、朝鮮で戦っている諸将には伝えられなかったでしょうけどね。

(臨月を迎えた江。その江に秀勝が病死したと知らせた秀次。驚愕する江。泣き崩れる秀次。ショックから急に産気付いた江。慌てて人を呼ぶ秀次。)

秀勝がどんな具合に亡くなったのかは良く判っていない様です。日時は文禄元年9月9日、場所は巨済島で、病死とだけ伝えられている様ですね。わずか24歳という早すぎる死でした。

(父の居ない子を産んだ江。秀勝と自分の子だと言って、涙に暮れる江。)

江と秀勝が一緒に暮らしたのは、ほんのひと月足らずの事でした。その間に一児をもうけたのだから、仲睦まじかったと言えるのかどうか。実際にはドラマの様な恋愛劇があったとは考えられず、秀吉の命によって夫婦とされたのですから、まだお互いの事を良く知らない内に死に別れとなってしまった事でしょう。そして、その子を産むというのがどういう心境だったのかはちょっと想像が付きません。さぞかし心細かっただろうとは思いますけどね。

ちなみにこの時生まれたのは女の子で定子と名付けられ、後に公家の関白家に嫁ぐ事になります。

2011年7月 9日 (土)

京都・洛東 蓮2011 ~大蓮寺 7.9~

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平成23年7月9日、今朝の大蓮寺の蓮です。ここは境内にずらりと蓮の鉢植えが並べられている事で知られていますが、今日現在の様子はやっと咲き揃い始めたといったところでした。

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つぼみは沢山上がっているのですが、そのうち開花しているのは三分の一程度で、まだまだ物足りないという感じがします。

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大蓮寺さんのブログに依れば、今年は花が大きめだとか。その要因として、この暑い気候が幸いしているのではないかと推測されていますね。

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それに、開花も例年よりも早めだったとか。遅れる事が多かった今年の花暦ですが、夏に限っては前倒しの傾向になって来たのかも知れませんね。

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盛りになるのはこれからなのでしょう。狭い場所に沢山並べられているので、一度に咲くときっと見応えがありますよ。

2011年7月 8日 (金)

京都・洛東 水辺の風景2011 ~祇園白川 7.2~

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平成23年7月2日の祇園白川です。白川沿いはすっかり緑が濃くなっており、鬱蒼とした夏の景色となっていました。

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ここを訪れたのは名残の紫陽花を探すためでした。ほとんどの紫陽花が終わりかけていたのですが、わずかにこの花はまだ見頃と言える状態でした。今年は盛りの紫陽花を見る事が出来ず仕舞いに終わってしまったなあ。

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川岸に生える草も夏らしく変わってきています。詳しい草の種類は判らないけど、こういう場所にも季節の変化を見て取る事ができるものでなのですね。

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しだれ柳はなぜか沢山落ち葉を落としていました。今の時期って、葉が入れ替わるものなのかしらん?それとも突然の高温のに対処するため、柳自らが葉の数を減らしているのかもなどと考えてしまいます。本当のところはどうなのでしょうね。

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最後はちょっと涼しげな写真をお届けします。辰己大明神にある手水鉢なのですが、濡れた石の肌が良い感じでした。やはりこういう水のある景色は涼味を感じさせてくれると思いません事?

2011年7月 7日 (木)

京都・洛東 青紅葉2011 ~建仁寺 7.2~

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平成23年7月2日の建仁寺です。この日は潮音庭が青紅葉の色に染まっていました。

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建仁寺には年に何度となく訪れているのですが、この庭の青紅葉を意識したのはあまり無かったかも知れません。いつもは紅葉の季節をメインにしているからなのですけどね。

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でも、改めて見ると良い感じです。まだ新しい庭なので、ようやく木々がこの場所に馴染んできた所なのかも知れません。これから時間が経つにつれて、ますましっとりした良い庭となって行く事でしょうね。

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ただ、今の時期の建仁寺をお薦め出来るかというと微妙なところで、実は方丈の屋根が修理中なのですね。今は仮覆いが施されており、大雄苑もこのとおり足場だらけという有様です。これはこれである日の建仁寺の姿として貴重なものだとは思いますが、遠くから来られた方にとっては有り難くはないですよね。

また、○△□の庭も同じく足場が組まれています。今来ても△の部分が無いのですよ。でも、工期は3年という事ですから、待て言うには長いかな。ですので、こんな状態だという事を承知の上で来て下さい。上で紹介した潮音庭は健在ですし、風神雷神図屏風の複製など展示はいつもと変わりありません。ただ、方丈内のふすま絵が、やたらと暗くて見えにくかったのが残念ではありましたけどね。

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ここは拝観受付口から上を見上げたところです。ここは本来は庫裏ですから煮炊きが行われていた場所であり、その為に煙抜きが施されているのですね。今は綺麗な白壁となっていますが、かつては煤で真っ黒に汚れていた事でしょう。

私はこういう場所を見るのが結構好きでして、観光寺院となる前の姿を彷彿とさせてくれるのが良いのです。建仁寺は大寺ですから、炊事をするのも大がかりだった事でしょう。この大きな煙抜きに濛々たる排煙が充満し、その下では雲水達が食事の支度に励んでいたという景色があったのですね。綺麗に整備された庭園からは知る事が出来ない、本当の禅寺の姿がここには隠されている様な気がしています。

2011年7月 6日 (水)

京都・洛東 蓮2011 ~東福寺 7.2~

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平成23年7月2日の東福寺です。この日は洗玉澗が青紅葉で埋まり、通天橋が緑の海に架かる橋の様に見えました。

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その東福寺では蓮の花が咲いていました。今年初めて見る蓮なのですが、やはり綺麗なものですね。

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ここにある蓮は全て鉢植えで、本坊の入り口や通天橋の入り口など数カ所に置かれています。数は多くないけれど、夏の彩りとしては無くてはならないものだと改めて感じますね。

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それにしても、蓮の花って向こうが透けて見えるものだったのかしらん?こういう透明感があると、少しだけ涼を感じる事も出来ますね。

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ここに来たのは、本当は名残の紫陽花を探す為でした。確かにまだ咲いてはいたけれど、盛りは過ぎており、痛んだ花がほとんどでした。また花菖蒲もほとんどが花殻となっており、わずかに一輪だけが咲いていました。

6月はほとんど出かける事が出来なかったけれど、その間に季節が過ぎ去ってしまった事を感じた次第です。仕方かがなかった事とは言え、残念な事をしたものですねえ、はい。

2011年7月 5日 (火)

京都・洛東 桔梗2011 ~光明院 7.2~

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平成23年7月2日の光明院です。さつきの季節は既に過ぎ去っており、今は青紅葉が美しい庭となっていました。

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この日訪れたのは、この庭でも桔梗が咲いているからでした。そして期待に違わず満開となっていたのですが、花はすべて南向きに咲いており、後ろ姿しか見る事が出来なかったのでした。そしてなぜか今年は草姿が乱れていますね。いつもはもっとしゃっきと株立ちをしているのですが、強風でなぎ倒されてしまったのかしらかん?

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この日は法要が行われていたため本堂には入っていません。そのため、いつもとは違った角度で写真を撮ったのですが、結構新鮮な感じがしましたね。こういうのも、たまには良いものです。

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さつきの大刈り込みにはまだ花殻が残っており、ついこの間までは花が咲いていた事を窺わせます。ここのさつきが咲いている様はまだ見た事が無く、来年は是非見に来たいと思っています。

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一点気になったのは苔が茶色くなっている事ですね。桜の頃からずっとこんな感じで、ほとんど回復していません。

頼みの雨は一度に沢山降ったけれどその後は空梅雨になり、さらにはいきなりの高温になったりしたので苔も困っているのかしらん?虹の苔寺の異名を取るこの庭だけに、早く元に戻って欲しいものですね。

2011年7月 4日 (月)

京都・洛東 桔梗2011 ~天得院 7.2~

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平成23年7月2日の天得院です。この日は庭園の桔梗が4分咲きになっていました。

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この寺は普段は非公開なのですが、桔梗の咲く頃と紅葉の頃の年二回公開されています。特に桔梗については人気があり、この日も大勢の拝観者で賑わっていました。

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今年の桔梗は遅れ気味と聞いていたのですが、ここに来て一気に咲き出した様です。満開の頃に比べると物足りなくはありますが、これだけ咲いていればまずまず見に来た甲斐があるというものですね。

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ここのポイントの一つがこの窓から見た景色なのですが、今ひとつ桔梗が寂しいですね。もう少しボリュームがあると絵になるのだけどな。

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この庭で咲く桔梗は、青と白の他に八重咲きやピンクのものがあります。ただ、この日はほとんどが青と白の一重の花で、八重咲きらしき花はほんの少し咲いていただけでした。本格化するのはこれからなのでしょうね。

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次の週末には見頃になっているかと思われます。野の風情が感じられる庭は本当に素敵ですよ。天得院の特別公開は7月17日までです。

2011年7月 3日 (日)

江~姫たちの戦国~25 愛の嵐

(聚楽第。利休切腹を諌める秀次。天下人故に取り消す事は出来ないと秀吉。利休の身柄を京に移し、三千の兵で見晴らせていると三成。うるさいと怒鳴る秀吉。)

(抗議に現れた江。何故にと聞かれ、山門の上の像、茶碗のに高値を付けた事で私腹を肥やしたなどと言い募る三成。黙れと一喝する江。)

(秀吉が利休に切腹を命じたのは利休を好きで堪らないからだ、自分に背を向けて去っていく者を許せないのだと秀次。唯一の手だてとしては利休が詫びる事だが、命乞いなどしたくないと断られたのでした。何とか利休に合いたいと願う江。そこに現れた秀勝。)

(炭屋に化けて利休の幽閉所に潜り込んだ秀勝と江。)

(茶室で江の為に茶を点てる利休。秀吉に頭を下げて欲しいと江。人には死に時があると利休。切腹などさせないと江。信長にあの世で会う事が楽しみだと利休。信長は利休を天下一の茶人だと言っていたと江。それは目の前の人を天下一と思って立ててきたからだろうと利休。だから今は江が天下一だ、利休が点てる最後の茶だと言って差し出す利休。泣いて叫ぶ江。これは利休が決めた利休の道なのだと拒絶する利休。)

(最後の茶を飲むという事は自分の志を継ぐという事、信長と同じく天下を泰平に、みんなが笑って暮らせる世にして欲しいという事だと利休。)

(最後の茶の味はどうだと聞かれ、泣き笑いしながら美味しゅうございましたと答える江。その顔が何よりだと利休。)

(天正19年2月28日。その日は朝からの強い雨に混じって雹まで降るという大荒れの日でした。死装束に身を包み、茶室に座っている利休。支度が出来たとの知らせにうなずき、茶室向かって深々と一礼をして出て行く利休。その茶室に置かれているのは利休が愛した黒茶碗。)

利休が亡くなった日は、確かにこういう天気だったと伝わります。偉大な茶人の死を悼み、豊臣政権の行く末を暗示する様な空模様だったという事なのでしょうか。

(雨を見つめている江。その背中から利休が見事に腹を切ったと知らせるヨシ。立ち去る江。)

(秀吉に報告し部屋を出る三成。そこに現れた江。三成を無視して秀吉に声を掛ける江。襖を開ける三成。)

(襖の向こうに居たのはうなだれた秀吉でした。黒茶碗を手に、利休が死んでしまったと泣き叫ぶ秀吉。殺したのはあなたではないかと冷たく言い放つ江。なぜ止めなかった、利休に会いに行ったのだろうと責める秀吉。驚く江。なぜ止めてくれなかった、利休よと黒茶碗を手に泣きじゃくる秀吉。黙って部屋を出る江。その背後で利休よーと叫ぶ秀吉。降りしきる雨。)

(そこに現れた秀勝。秀勝に駆け寄ってしがみつく江。泣きじゃくる江。そっと抱きしめる秀勝。)

利休を殺した事を後悔していたという秀吉。しかしドラマでは触れられなかったものの、彼が行ったのは利休の首を一条戻橋に晒しただけでなく、件の木像がその首を踏みつける様にして置いたという事でした。何とも子供じみてはいますが、その憎悪の程も窺い知れる処置ではあります。この事実をしてみれば、大徳寺山門の件もまた、秀吉の怒りを買った一因かなという気もしてきます。それにしても、文字通り利休の全てを踏みにじる様な惨いやり方ではありますね。

(淀城で亡くなった鶴松。悲嘆に暮れる秀吉と淀殿。なぜ皆が自分から離れていくのかと泣き叫ぶ秀吉。鶴松3歳の時でした。)

ドラマでは利休の死後すぐの事の様に描かれていましたが、鶴松が亡くなったのは8月5日の事ですからおよそ半年後という事になります。まあ、心象風景としては連続していたと言っても良いのかもしれないですけどね。

(呆然と縁側に座っている淀殿。その背後から何か召し上がって下さいと声を掛けている初。このままでは姉上までがみまかってしまうと江。なぜ生きていなければならないのか、自分はこのまま鶴松のところに行くつもりだと淀殿。)

(そこに現れたおね。彼女が見たのは手の付けられていない膳でした。淀殿に向かって、秀吉の為にまた子を産んでは貰えないかと声を掛けるおね。驚く淀殿。それが皆を救う道なのだと諭すおね。おねの胸で泣きじゃくる淀殿。淀殿を抱きしめるおね。)

(乱心したかの如く立ち上がり、短刀で髷を切る秀吉。髷を拾った三成に、秀長が死んだのも、鶴松が病になったのも、利休の無礼な振る舞いのせいだと言ったなと問う秀吉。はっと言いながら髷を差し出す三成。その髷をはらいとばし、利休を殺した故に鶴松が死んだのかと迫る秀吉。答えられない三成を蹴飛ばす秀吉。必死に這いつくばり、今は世に目を向けよ、朝鮮に向けて出した国書の返事はまだ届いていないと言い募る三成。ふと気付いた様に、会見の時の様子を思い出す秀吉。そして狂気の宿った目で、朝鮮に兵を進めるとつぶやく秀吉。そして俄に立ち上がり、皆に出陣の準備をさせよ、戦船を建造させよ、敵近く九州に城を築かせよと矢継ぎ早に下知を飛ばすのでした。必死に復命する三成。呆然と見つめる秀次。戦だと狂人のごとくつぶやく秀吉。)

またしても三成が悪者にされていますが、鶴松の死が朝鮮出兵の一因になったとは良く言われる事です。その死の悲しみを紛らわす為に起こした戦だと言うのですが、実際にはそんなに単純なものではなかった様です。一つには信長が描いていた構想を秀吉が受け継いだのだと言われ、また別の説では戦国時代が終わりを告げたものの各地の大名は強大な戦力を有したままであり、その矛先を外に向けさせる必要があったのだとも言われます。

つまり、国内を再び戦乱状態に陥れないために有り余るエネルギーのはけ口として朝鮮を選んだと言うのですが、だとすれば隣国にとっては迷惑極まりない話ではありますね。

(江戸城。朝鮮出兵の知らせに愚かな事だと家康。我が家も出兵をと問う正信。せいぜい九州までだ、この様な時の為に父祖代々の土地を明け渡して江戸に下ったのだ、これは秀吉に対する大きな貸しなのだと家康。)

秀吉の起こした朝鮮の役は、ほとんどの大名にとっては迷惑極まりないものでした。諸大名にしてみれば、長い戦乱の時代が終わって新しい知行地を割り振られたばかりであり、戦などよりも領内の経営に集中したい時でした。ましてや出て行く先は勝手の判らぬ他国であり、その背後には当時の超大国である明が控えていたのですからね。少し目端の利く者ならば、容易ならざる戦いになる事は明かだったのです。

徳川家は実祭にも朝鮮に渡ることなく、日本国内に止まっています。兵を出したのは九州を主力とする西国の諸大名で、徳川家を初めとする東日本勢は出役をまぬがれました。その代わりに伏見城普請などへの出仕を命じられたりしたのですが、やはり遠征軍の方がはるかに負担が重かった様ですね。そして、この事が後に家康に有利に働き、関ヶ原の戦いの勝利に繋がったとも言われています。

(子を亡くした故に、秀吉は少しおかしくなっているのではないかと家康。それを聞き、子を亡くすという事はそれほど辛いのかと問う秀忠。黙って秀忠の顔を見る家康。その家康に代わって、この世の何よりの苦しみだと答える正信。そうでも無いのかと思っていたと秀忠。何を言いたいのかと家康。信康を切腹させた事をすっかり忘れている様子だったからと秀忠。馬鹿な事をと家康。ならばなぜ、後に残った二人の子を人質に出せるのかと秀忠。何だとと怒りを抑える家康。それには答えず、朝鮮出兵がそれほどおろかな戦なら関わらなければよいと笑いながら立ち去る秀忠。あまりの態度に気に病む正信。捨て置けと家康。)

秀忠については依然として謎のままなのですが、家康は信康を死なせた事を生涯苦にしていたと言われます。例えば、関ヶ原の戦いの折に、信康が生きていれば老齢の自分がこんなに苦労する事は無かったと言ったと伝えられており、その死後20数年を経てもなお長男を亡くした事を惜しんでいたのだと言われます。この時秀忠は別働隊の大将を勤めていたのですが、彼では家康の代わりは勤まらないという意味もあったのだとも言われます。このあたりはドラマの後半で描かれると思いますが、どんな演出をするつもりなのか興味がありますね。

(聚楽第。食事をしている秀吉に向かって、朝鮮に兵を出すとはどういう事かと問い質している江。利休が亡くなったばかりだと言うのに、今度は異国の民を殺すつもりかと江。箸を動かしながら聞き流している秀吉ですが、鶴松も悲しんでいると言われ、急に真顔になる秀吉。)

(自分は利休とみんなが笑って暮らせる国にすると約束をしたと江。鼻であざ笑う秀吉。関白の身でありながら恥ずかしいとは思わないのかと江。黙ってにらみ返すだけの秀吉。)

(その日の夜。部屋の隅でしゃがんでいる秀吉。狂気の宿った顔で見つめているのは自分が書き散らした半紙。そこに書かれているのは朝鮮、関白、秀次といった文字。それを見ながら今日の出来事を思い出している秀吉。)

(秀次に関白を譲る、まずは自分の養子となれと命ずる秀吉。驚く秀次。)

(秀勝の方が関白に相応しいと江。あの者は兄思いだから辞退するだろうと相手にしない秀吉。とにかく戦は止めて下さいと食い下がる江。黙らぬかと一喝する秀吉。それ以上言うと、そなたでも許さぬと言い捨てて立ち去る秀吉。)

(半紙の中から秀勝と書かれた一枚を拾い上げた秀吉。)

(翌日の昼。秀勝を呼び出した秀吉。)

(天正19年12月。秀次に関白を譲り、太閤と呼ばれるようになった秀吉。)

(天正20年正月。鶴松の位牌を拝む淀殿。)

(秀吉に呼び出された江。横座りになって出迎えた秀吉。自分はまだ怒っていると江。関白ならもう譲ってしまったと秀吉。姉はまだ悲しみに沈んでいる、戦よりも先にそちらをと江。茶々は九州に連れて行く、所が変われば気分も変わるだろうと秀吉。彼は名護屋に朝鮮への足掛かりとなる城を築いていたのでした。)

(それよりも、そなたに話があると切り出す秀吉。それは江に嫁げという事でした。自分は以前佐治一成の下に嫁ぎ、離縁させられた身であると憤る江。そんな事もあったなと秀吉。ふざけるなと怒る江。それを無視して入れと命ずる秀吉。開けられた襖の向こうに居たのは秀勝でした。驚く江。)

(嫁ぐ相手は秀勝だと秀吉。秀次に万一の事があれば、後継として残るのは秀勝のみである。それを鍛えるには、気が強くて扱いにくい女を与えるのが一番だと秀吉。そして、後は二人で話せと言って去っていきました。)

(秀吉が言いたいのは、秀次を見張れという事だと秀勝。秀吉も不安があるらしく、自分たちの屋敷は秀次の真ん前にするつもりらしいと秀勝。)

(こんな縁組を押しつけられて腹は立たないのかと江。はいと明快に答える秀勝。驚く江に、この縁組みは兄を見張る代わりに江と一緒にさせて欲しいと自分が頼んだのだと秀勝。そして、改めて自分の妻になってくれないかと頼む秀勝。とまどいを隠せず、失礼しますと言って立ち去る江。)

(姉に報告する江。秀勝に望まれて良かったではないかと淀殿。秀勝を好いていたのではないかと問われ、思わず好きですと言ってしまった江。)

(秀勝と祝言を挙げた江。良い夫婦になろうと誓い合う二人。そして、利休の言葉は、自分も共に背負っていく覚悟だと告げる秀勝。言い忘れていたが、自分が嫁ぐのはこれが二度目だとと口走る江。思っていたとおり、楽しく暮らせそうだと笑う秀勝。)

やっと秀勝と一緒になれた江。無論、こんな恋愛結婚の様な経過を辿った訳は有りませんが、まあこのドラマだし、まあ良いか。

ドラマで自分たちの屋敷と言っていたのは、聚楽第周辺にあった大名屋敷の事を言っているのでしょう。聚楽第図という図面に依れば、秀勝の屋敷は秀次の屋敷の北側にすぐ隣接してあり、真ん前と言うより壁を隔てた隣同士の関係にありました。それをもって秀次を見張らせたというのはどうかと思いますが、その屋敷の位置関係を見ると秀勝が豊臣政権内で重きをなしていた事は確かですね。秀吉にすれば、この二人をして自分の死後の豊臣家を守っていく藩塀としたかったのだろうなという気がする屋敷の配置です。

2011年7月 2日 (土)

京都・洛東 半夏生の庭2011 ~両足院 7.2~

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平成23年7月2日、半夏生の日に訪れた両足院です。今年の花暦は何かと合わない事が多いのですが、この庭の半夏生はまさに見頃を迎えていました。

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特別公開がある都度に訪れている庭ですが、やはりこの花が咲いている時が最高ですね。白と緑というシンプルな色彩なのですが、梅雨時のじめじめした空気の中ではこの上なく爽やかに感じます。

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半夏生はドクダミの仲間なのだそうですね。白く見えているのは葉で、先端から細長く伸びているのが花の集合体である花序です。おそらくだけど、この時期に白い花を咲かせるのは蛾を誘っているという事かな。夜に白い花は目立ちますからね。私は気付かなかったのですが、匂いもドクダミに似てるのだとか。その匂いも蛾には魅力的なのかも知れませんね。

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この時期の特別公開では、臨池亭という茶室で抹茶を頂く事が出来ます。この寺の紋章である月と星をあしらった茶菓子も美味しく、素敵な庭を眺めがらの一服はとても素敵な一時ですよ。

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ただ、拝観者の前で関係者が俗な事を言い合うのは止めて頂きたい。何か事務連絡の行き違いがあったらしいけど、下世話なやりとりを聞いていると、せっかくの舞台装置が色あせて見えてしまいます。宗教的荘厳さも含めての拝観なのですから、宗教者自らそれを貶めてしまうのは如何なものか。ちょっと残念な思いをした一幕でした。

2011年7月 1日 (金)

京都・洛中 昭和レトロの町 ~柳小路~

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京都の中心街と言えば四条河原町。そのすぐ近くに昭和レトロを感じさせる町並みがあります。その名も柳小路。洗練された花街の路地とはまた違う、どこか懐かしい感じのする小径です。

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場所は河原町OPAの裏通りからさらに西に一つ入ったところにあり、その気にならないと見落としてしまいそうなほど目立たない道ですね。実際、私も以前の姿はあまり記憶が無く、気になりだしたのはごく最近の事です。たしか以前はもっと雑然としていて、あまり入りたくない無い道だった様に覚えているのですが、今は石畳で舗装され、道の名にちなんだ柳も植えられて、こざっぱりした風情になっています。

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調べてみると、やはり最近の町家ブームに乗って再整備が施された様ですね。どんな店があるのか詳しくは判っていませんが、あまりに洗練し過ぎる事無く昭和の雰囲気を残しているのが良い感じです。数十年前の先斗町というところかな。

お目当ての店があめるかどうかは別として、ふらりと通り抜けるだけでも面白い道ですよ。

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ねこづらどき

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