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2011年5月

2011年5月31日 (火)

新選組血風録の風景~胡沙笛を吹く武士 その3~

(慶長19年の大坂の陣の時、時の殿様である南部利直は家康から出陣を命じられた。南部の武士が100騎、200騎と群れをなして上方の地を踏んだのは、これが最初で最後の経験だと言う。)

(しかし、その内実はそんなに勇壮なものではなかった。奥州から見れば、上方は雲煙たなびくはるかな地であり、従軍を辞退する者が続出したのである。ある者は仮病を使い、ある者は暇を願って帰農した。ほとんど動員が不可能になった殿様は、窮余の策として蝦夷を雇った。)

(殿様は、上方に行くとは言わず、甘言をもって彼らを誘い、足軽の格好をさせて大坂にまで連れて行った。大坂の陣での攻め口は加賀前田藩の右翼で、平野川の西岸に布陣した。)

(蝦夷と言えば勇敢で知られる伝説的な種族だった。南部藩では、内心彼らの剽悍な戦い振りを期待していた。ところがいざ戦いが始まってみると、鉄砲の音に驚いた蝦夷達は四方八方に逃げ散ってしまった。彼らにしてみれば、火薬の爆発音というのは初めての経験だったのである。南部の武士達は、戦どころか、彼らを捕まえに走る事で精一杯だった。)

南部氏は確かに大坂の陣に参戦していますが、その時に蝦夷の民を連れてきていたかどうかは定かではありません。話としては面白いのですが、調べた限りでは根拠は無いようですね。でも、地元に行けばそういう話が残っているのかも知れません。

奥州の軍勢が上方に現れたのはこれが最初で最後だとありますが、南北朝の頃に南朝方の戦力として活躍したという説がある様です。それ以外は義経の時代には実力はあったのに攻めてこなかったし、ずっと下って関ヶ原にも参戦していないですね。確かに奥州の軍勢が上方に現れるたのは、きわめて異例の事だったと言えるのかも知れません。

(鹿内は自分の故郷はそういう土地だと言って可笑しそうに笑い、その南部人が花の都に来て今あなたの目の前に居ると言ってまた笑った。小つるは、思い切って好きどすと言った。しかし、鹿内は顔を赤らめただけだった。長い沈黙の後、ようやく鹿内は小つるを押し倒した。)

(鹿内は所帯を持とうとこつるに言った。身寄りの無い小つるには、所帯という言葉が激しく響いた。鹿内に抱かれながら、小つるは様々に計算した。髪結いで貯めた小金があれば貸家の敷金にはなる。隊の手当てがあれば、日々の暮らしも成り立つ。鹿内が助勤になるまでは、非番の時に通ってくるかくし妻でも良い。)

(鹿内に聞くと、隊の手当ては月によって違うが3両はあると言う。それならやっていけるのではないかと言うと、鹿内は躍り上がる様な声を上げて喜んだ。)

隊士の手当ての額については諸説があって、はっきりした事は判っていません。新選組始末記には、局長が50両、副長助勤が30両、平隊士が10両だったとありますが、これは少し多すぎる様です。実際には時期によって異なっていたらしく、壬生の頃には一人あたり3両だったと言われています。まさに、この小説の額と一致していますね。

原田がまさと所帯を持った頃は、原田は月に10両から15両を手渡してくれ、さらに三度の食事も局の賄い方が炊きだしをして、岡持に入れて配っていてくれていたそうです。これは副長助勤の場合であり、かつ原田が自分の取り分を別にしていた可能性もありますから一概には言えないけれども、最盛期にはまずまずの高給取りだったと言えるのかも知れません。

(小つるは、出入りの茶屋や贔屓にしてくれた芸妓の置屋を一軒一軒回って、仕事を辞めるあいさつをして回った。ただ、所帯を持つとは言わず、体の調子が優れないとたげ言った。)

(二人は七条を下がった塩小路に手頃な家を見つけて所帯を持った。ほどなく新選組の隊士が増員になり、鹿内は助勤に抜擢され、暮らしも楽になった。原田も嬉しかろうと喜んでくれた。)

新選組の隊士募集については各時期によって隊士に増減があるため実施されていたと思われますが、いつとは明確には判りません。浅野について言えば、池田屋事件直前には調役並監察に就いていたと思われます。ただし、島田魁の日誌に島田と共に探索をしていたとある事からの推測で、明確に記された資料がある訳ではありません。

また、永倉新八が記した同志連名記には副長助勤と記されており、もしかすると池田屋事件後に助勤となっていた可能性もあります。いずれにしても、池田屋事件の際に副長助勤として参戦したとは考えにくい状況ではありますね。

なお、吉村貫一郎については慶応元年4月の入隊とされていますので、この時期にはまだ隊士とはなっていませんでした。

以下、明日に続きます。

2011年5月30日 (月)

新選組血風録の風景~胡沙笛を吹く武士 その2~

Gionmati1

(小つるは祇園町の髪結いだった。住まいは建仁寺町の路地奥にあった。鹿内とはその後三度逢い、その都度祇園林の茶屋に行った。しかし、鹿内は故郷の話を面白可笑しく話すだけで、小つるの手も握らなかった。)

今は祇園町と言えば写真の花見小路周辺をイメージする人が多いでしょうけど、ここが開けたのは明治以降の事で、幕末の頃までは主として四条通以北が賑わっていました。南側はと言えば、四条通に沿って水茶屋などが軒を並べていた様ですね。

一方、建仁寺町という地名は今の地図では見あたりませんが、かつては大和大路通以東、四条通から南側一帯を指す地名だった様です。要するに上の写真の界隈一帯がそうで、主として建仁寺の境内になっていました。ただ、その周辺では江戸時代の半ばから宅地開発が進んでいたらしく、町家も多く建てられていた様ですね。

つまり、小つるは今の祇園町北側の置屋などを得意先とし、住まいは南側の町家の中にあったというイメージになるのでしょうか。

(こつるは鹿内を観察するのが楽しかった。鹿内がこつると会ってから際だって変わったのが服装である。粗末な紋服は止めて、黒羽二重の羽織袷を着る様になっていた。ただ、袴までは手が回らないらしく、相変わらず薄汚れた小倉の白袴のままだった。)

(小つるは、仙台平の袴を仕立ててやった。四度目に逢った時、鹿内に穿かせてみた。堂々とした体躯の彼にはとてもよく似合っていた。)

前回吉村貫一郎からは、その出身地だけを拝借したのだろうと書いてしまいましたが、そうではなかったですね。この堂々とした体躯という描写は、新選組始末記にある「背の高いしっかりした体格」という記述から来ている様です。小つるが最初に鹿内に会った場面で、鹿内が「長い足を草の中に投げ出している」という描写があるのも、同じでしょうね。

(鹿内の変化に気付いたのは、小つるだけではなかった。彼の組頭である原田左之助もまた鹿内を良く見ていた。)

(原田は気の荒い一徹者として知られている。しかし、彼は鹿内の剛胆さを愛していた。)

Teramatimarutamati1

(元治元年三月、長州系の浪士十数人が、密かに入京して来た事がある。探索の結果、彼らは寺町丸太町の伊吹屋という旅籠に泊まっているらしい事が判った。原田は組下の者を率いて急襲したのだが、浪士達は既に出立しており、空振りに終わった。しかし、鹿内は浪士達はまたここに戻って来るのではないかと思い、原田にその旨を具申した。原田はまさかと思いながらも、土方に取り次いでやった。土方もまた鹿内に好意を寄せており、手柄を立てさせてやれと言って、隊の機密費を渡してやった。)

(鹿内は、奥州塩竃の禰宜に変装し、伊吹屋に泊まった。待つ事15日、果たして四人の浪士達が舞い戻って来た。宿の亭主に以前と同じ浪士と確かめた鹿内は、小者を使って隊に知らせると共に監視を続けた。ところが、夜になると浪士達は出立の用意を始めた。)

(鹿内は意を決して廊下に出、浪士達の部屋の唐紙を開けた。驚いて振り向く彼らに、新選組の鹿内というものだと名乗ると、ぱっと抜き打ちに斬ってきた。鹿内はその相手を一刀の下に倒した。以下、乱闘になった。)

(鹿内は室内戦となる事を考慮し、一尺九寸という長脇差を使っていた。その脇差で三人までは倒した。後の一人は窓の手すりを乗り越えて、外の丸太町へと飛び降りた。その敵が待ちかまえている事を知った鹿内は、脇差を投げつけて怯ませた隙に地上に降り立った。切り結ぶ内に突きに転じようとした時、刀のぼうしが欠けている事に気付いた。鹿内は、やめだと言って刀を引いた。相手はほっとして逃げ出して行った。)

(土方は鹿内の功績を大とし、すぐに助勤に昇格させようとしたが、近藤が同意しなかった。その理由は、鹿内の風采が上がらなかった事、そしていざと言う時に聞き取りにくい程の奥州なまりがあるため、指揮役は無理だろうという事であった。)

上の写真は今の(と言っても3年ほど前に撮ったものですが)寺町丸太町の様子です。当然ながら伊吹屋という宿はなく、何の変哲もない街角といったところでしょうか。場所としては京都御苑の東南角にあたり、近くには下御霊神社があります。

浪士達が朝廷工作のために潜入したとするならロケーション的には悪くないのですが、御所の周辺は警備の最重点区域だったはずであり、あまりに大胆に過ぎる行動と言うべきでしょうか。無論こんな事件は実際には無く、作者による創作である事は言うまでもありませんが、モデルとなった浅野薫は探索方を努めていた事があり、その経歴を下敷きにしているのかも知れませんね。

また、剣の達人という描写は、吉村が剣術師範頭を勤めていた事を踏まえているのかも知れません。元来が医者で、かつ学才に長けていたという浅野よりも、この颯爽とした姿は吉村にこそ相応しいという気もします。

(その鹿内が人変わりした様に垢抜けてきている事に、原田は不審を覚えた。しかし、彼には女が出来たのだろうという見当も付いていた。彼自身、仏光寺の仏具商の娘、おまさと所帯を持ったばかりであり、既におまさの腹には子が宿っていた。)

(土方もまた、鹿内の働きぶりが冴えてきている事に気付いていた。土方は原田にその事を言い、原田は女が出来ているらしいと答えた。土方は女はほどほどな薬になるらしいと言い、この事が隊内に広まり、以後鹿内の女を薬と呼ぶ様になった。)

(しかし、鹿内は小つるの手にも触れていない。奥州生まれの彼には王城の地の女という幻想があり、むくつけく振る舞って嫌われる事を恐れた。だから話ばかりをし、服装もあらためた、ただそれだけのことであった。)

原田の妻がまさという名であった事は良く知られています。新選組!ではぜんざい屋を切り盛りしていましたが、実際には仏光寺通堀川東入るに住んでいた菅原長兵衛という町人の二女でした。菅原家は名字帯刀を許されていた由緒正しい家柄で、高嶋屋という屋号で商いを営んでいました。ただし、それが仏具商であったかどうかは定かではありません。また、原田がどうやってまさと知り合ったのかも謎ですね。

まさは当時18歳、原田は26歳でした。ただし、所帯を持ったのは屯所が西本願寺に移った直後とされている事から、慶応元年3月か4月ごろと推定されます。この小説ではまだ池田屋事件が起きる前に設定されていますから、1年近く時期が合わない事になりますね。

以下、明日に続きます。

2011年5月29日 (日)

江~姫たちの戦国~20 茶々の恋

(近江、大溝城。江に手紙を書く初。高次との新婚生活が楽しくて仕方がない様子です。)

(大阪城。ほとんどのろけばかりの初の手紙を読み、あきれる江。その一方で、茶々と秀吉の関係に心を痛めていました。)

(茶々と夕餉を摂る江。秀吉の名を聞いただけで箸を落としてしまう茶々。聚楽第の話題にも心ここにあらずといった風情です。)

(龍子に相談に行った江。茶々の振る舞いは悋気に違いないと断言する龍子。懸命に否定する江ですが、龍子の観測は変わりません。)

(今度は宗易の下を訪れた江。ここでも茶々のやきもちだろうという観測は変わりません。茶々にはまだ直接に聞いていないと聞き、江も実はそう思っているのではないかと言う宗易。怒って席を立ってしまう江。)

(茶々になぜ叩かれたのかと頭を悩ます秀吉。)

(廊下でとよと出会った秀吉。その時、茶々が向こうから歩いてくるのに気付き、あわててとよを部屋の中に隠します。無視して通ろうとする茶々ですが、秀吉は思いきってなぜ叩かれたのかと尋ねます。茶々は昼日中から側女と戯れていた事が堪えられない、そして何よりその顔と姿が嫌いなのだと答えます。それ程までに嫌われたのかと座り込む秀吉。)

(聚楽第に移ると言い出す秀吉。その理由は茶々にあるのかと見透かすおね。茶々から顔を叩かれたと言い、心底嫌い抜かれたと布団を被って寝てしまう秀吉。思うところがある様子のおね。)

(秀吉が京に移ると聞いて喜ぶ江。茶々に秀吉が居なくなると寂しいかと鎌を掛ける江。相手は仇だと誤魔化す茶々。心配そうな江。猿が居なくなると叫ぶ江。物思わし気な茶々。)

(その日の夜。茶々を呼び出した秀吉。)

(四阿で月を見ながら、聚楽第に一緒に来て欲しいと切り出す秀吉。思い人になって欲しいと叫ぶ秀吉に、あなたは父母の敵だと答える茶々。かたくなな彼女の態度を見て、きっぽりと諦めると言う秀吉。立ち去ろうとする秀吉に、力尽くで我が物にしようとは思わぬのかと声を掛ける茶々。相手がただの女ならとうにそうしていたと答えて去る秀吉。悲しそうに座り込む茶々。)

(京に移る挨拶に訪れたおね。そのおねに秀吉はと聞く茶々。朝早く発ったと聞き、どこか寂しげな茶々。その茶々に、秀吉の頬を叩いたとかと聞く龍子。気まずげに答えに詰まる茶々。あの側室はちゃらちゃらしていて気にくわなかった、おかげですっきりしたと誤魔化す龍子。そうじゃなと調子を合わせるおね。ご無礼しましたと謝る茶々。夫には良い薬だと答えるおね。憔悴した様子の茶々。何もかも見透かした様子のおねと龍子。気遣わしげな江。)

(半月後、秀吉の北野大茶会の話題を持ち出すヨシ。800を越す茶席がしつらえられ、茶の湯を嗜む者なら百姓、町人を問わず集まれという趣向でした。秀吉も向こうで楽しんでいる様だと言う江に、そうじゃなと上の空で答える茶々。そのまま座り込んでもの思いに耽る茶々を見て不審がる江。そこに秀吉が聚楽第から戻ってきました。そして、茶々に会いたいと言ってきたのです。どこか嬉しそうに、江を制して一人で行くと答える茶々。)

北野大茶会は、1587年(天正15年)10月1日に北野天満宮にて行われました。ドラマでもあった様に、「茶湯執心においては、また若党、町人、百姓以下によらず、釜一つ、つるべ一つ、呑物一つ、茶なきものは焦がしにても苦しからず」という触れを出し、各地から茶人を呼び集めた一大イベントでした。桃山文化の粋を集めたとも言われ、茶道を広めるきっかけとなったとも言われます。この事については以前に記事を書いていますので、よろしければ参考にして下さい。

(そわそわとした様子で秀吉を待つ茶々。小姓を連れて現れた秀吉。ぎこちなく挨拶を交わす二人。しかし、会話をリードしたのは茶々でした。北野の茶会の様子を聞く茶々。九州の肥後で大きな一揆が起こったため、10日の予定を1日で打ち切ったと答える秀吉。)

肥後の一揆とは、九州平定後に、新たに肥後を与えられていた佐々成政の治世に反発した肥後国人達が起こした反乱です。

成政は信長に仕えていた武将で、馬廻から出世したエリートでした。前田利家と共に柴田勝家の軍団に属して戦功があり、越中一国を与えられています。

秀吉とはそりが合わなかったと言われ、清洲会議の後は勝家の陣営に参加しました。しかし、勝家が賤ヶ岳の戦いで敗れ去ると秀吉に下ります。秀吉は成政を許して越中を安堵してやりました。

ところが、小牧・長久手の戦いが始まると成政は家康側に付き、再び秀吉に叛旗を翻します。しかし、信雄が秀吉と和解し家康が兵を引くと、成政は完全に孤立してしまいました。進退窮まった成政は、冬の日本アルプスを越えて浜松にまで赴くという離れ業を見せて救援を請いましたが家康は動かず、またしても秀吉の軍門に下る事になってしまいます。この時は一郡を除いて領国が没収され、自身はお伽衆として秀吉に仕える事になります。

その成政に秀吉が再びチャンスを与えたのが九州征伐でした。この時、成政が戦功を上げたのを認めた秀吉は、肥後一国を与えるという厚遇を見せます。自分に二度までも背いた相手でも、功にはちゃんと報いるという大度を見せたのですね。

この肥後という国は、小さな国人たちが割拠して互いに相争うという、治世の難しい土地でした。そこで秀吉は、決して治世を急いではならぬと成政に言い渡します。ところが成政は検地を急いで行おうとしたため、反発した国人達が反乱を起こしたのでした。反乱を抑えきれなくなった成政は、やむを得ず秀吉の救援を請います。

この成政からの知らせが入ったのが北野大茶会の初日だったという訳で、10日の予定が1日で切り上げられる事になったのです。

肥後の反乱は九州や四国の大名たちを動員して平定されたのですが、今時こそ成政は許される事はありませんでした。肥後召し上げの上、切腹を命じられたのですね。

この成政の転落については、合法的に成政を落とし込む為の秀吉の陰謀とする説があります。つまり、織田家のエリートである成政を、成り上がり者の秀吉がうかつに殺してしまうと各方面から反発を受けてしまう。そこで何度も成政を許した上で、最後は難治の国を与えて自滅を待ったと言うのです。

真偽のほどは判りませんが、一説には成政の能力を秀吉は買っており、肥後を与えたのはその期待が大きかったとする説も有るようですね。

成政はあまり注目される事がない武将ですが、先の冬のアルプス越えは、我が国の冬山登山の嚆矢だとする説があります。また成政に惨殺された愛妾が、立山に黒百合が咲く時に佐々家が滅びると呪いを掛けたとろころ、それが本当になったという黒百合伝説が伝えられるなど、調べると話題が結構豊富な人物なのですね。秀吉の陰になってしまった人物ではありますが、もっと焦点を当ててみても良い武将なのかも知れません。

(今日来たのは、茶々に縁組の話を持ってきたのだと用件を切り出す秀吉。つまりは政のための婚儀かと聞く茶々。それは違うと口を挟む三成。相手とは公家の万里小路でした。万里小路とは300年続く名家であり、信長の娘も嫁いでいるという織田家縁の家でした。つまり、秀吉にとっては何の得にもならない縁組みだと説明する三成。なぜかと問い詰める茶々。両手を付いて、茶々に幸せになってもらいたい、それが父と母を殺したせめてもの償いだからだと答える秀吉。複雑な面持ちで聞いている茶々。そして、返事はと聞かれ、受けると答える茶々。)

(やっと姉を諦めたかと嬉しそうな江。万里小路家が相手とは浅井家の誉れだと喜ぶサキ。秀吉が茶々を思っていたとはと知らなかったとヨシ。もはや終わった事だと江。浮かぬ顔の茶々。茶々に祝いを言う江。どこか上の空の茶々。)

(夜。姉には幸せになって欲しいとヨシと話し合う江。しかし、同時に茶々が嬉しそうに見えない事が気がかりでした。それは江と離れる事が寂しいからだと誤魔化すヨシ。無理に同意する江。)

(四阿で一人月を見ながら、秀吉の言葉を思い出している茶々。そこに現れた秀吉。)

(眠れぬままにここに来たと言い、立ち去ろうとする秀吉に、なぜ縁談をと問い掛ける茶々。自分を側室にしたかったのではないのかと聞く茶々に、それはもう諦めたと答える秀吉。じっと見つめる茶々。そうではない、諦めきれぬ故、けじめを付ける為に縁談を持ってきたのだと言い直す秀吉。ならば三成を寄越せば良かったではないかと問い詰める茶々。それはひと目茶々に会いたかったからだと正直に話す秀吉。これ以上は未練だと言って立ち去ろうとする秀吉。)

(その背中に向かって、未練は持ち続けるべきだ、一度や二度断られたからと言って諦めるなど、それだけの思いしか無かったのだと迫る茶々。驚く秀吉。背を向ける茶々。その手を掴む秀吉。振り払う茶々。そなたは仇だとつぶやく茶々。涙する茶々を見て、仇だからこそあなたに尽くすと言って手を握る秀吉。尽くし抜いてこの手であなたを守り抜いてみせると言いながら、茶々を抱きしめる秀吉。仇じゃと泣きながら抱かれている茶々。守り抜きますと力を込める秀吉。秀吉の背中に手を回す茶々。)

(何も知らずに眠る江。)

今回は茶々の恋というサブタイトルどおりの展開でした。50歳と18歳という実年齢で演じられたら間違いなく引くと思いますが、岸谷五朗は46歳、宮沢りえは38歳ですから、まあ見ていられなくもないという展開でした。やはり仇相手の恋愛というのは抵抗があるものでしょうからね。

それにしても、このドラマは江だけでなく、茶々もまた主人公の一人だと感じた回でした。やはり三姉妹をそれぞれ描ききるというコンセプトなのでしょうね。大変だとは思いますが、次回以降にも注目したいと思います。

2011年5月28日 (土)

新選組血風録の風景~胡沙笛を吹く武士 その1~

私事ではありますが、今週末は雷雨を伴った大雨が降るというので、京都行きは自粛しました。結果的にはそれほど降らなかったので行けば良かったのですけどね、天気予報に脅されすぎました。

それはさておき、今日から次の金曜日にかけては新選組血風録の風景として、「胡沙笛を吹く武士」の回をお届けします。BS時代劇では既に放送が終わった回なのですが、ドラマの演出との違いも合わせて楽しんでいただけたらと思います。

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(祇園林の東側に真葛ケ原がある。東山の山懐にあり、京の町が一望に見える高台である。慶応2年1月2日、小つるは母の月命日に長楽寺へ詣でる為に、踏み石を点々と据えただけの急斜面の石畳を上った。「濡れて紅葉の長楽寺」と唄われるあの寺である。)

この回は、冒頭からおかしな表記がされています。それは年月日の表示で、どう考えても慶応2年というのは辻褄が合っていません。史実と言う以前に小説の中の時系列からして明かで、主人公が小つると出会って所帯を持ったのが元治元年の池田屋事件の前、子供が生まれたのが慶応元年正月、そして最後を迎えたのが慶応2年の9月頃として描かれています。正しくは文久4年1月2日とすべきなのでしょうね。用意周到な作者が、何でこんな単純なミスを冒したのか理解に苦しむところです。

それはともかくとして、「濡れて紅葉の長楽寺」の歌詞がある唄とは、京の四季という端唄ですね。長い歌詞ですがその付近を記せば、

「真葛が原にそよそよと 秋ぞ色増す華頂山
   時雨をいとう唐傘に 濡れて紅葉の長楽寺」

となります。

ここで言う真葛が原とは、今の円山公園音楽堂のあたりを中心として、北は知恩院三門のあたり、南は高台寺との境、西は下河原町との境あたりまでの地域を指したと思われます。その名のごとく葛や茅の生い茂る原野であり、東山から流れ出る菊渓川の氾濫原でした。

現在はほとんどが公園化されており、往時の面影は見あたらないと言って良いでしょう。わずかに双林寺の石碑に記されているほかは、大雲院の中にある真葛荘という別荘にその名を止めている程度でしょうか。そう言えば、狂言の「つくづくし」に、慈円作の真葛が原の和歌が使われていましたね。

一方の長楽寺は、端唄にもあるとおり紅葉の名所として知られている寺です。この小説でも静かな寺と書かれていますが、今でも訪れる人は少なく、何時行っても混み合うという事は無い場所です。東山の中の穴場の一つと言っても良いかも知れません。ただ、来年の大河ドラマは平清盛が主人公ですから、建礼門院縁のこの寺は注目を集める事になるかも、です。

全くの余談ですが、近くには祇園女御の住居跡や西行縁の西行堂があり、さらには忠盛灯籠がある八坂神社がありますから、全てをセットにして売り出すなんていう事もありうるかも知れませんね。

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(小つるはお参りを済ますと、石段を下ろうとした。すると右手にある冬枯れの林の中から奇妙な音曲を耳にした。狐狸かと思ったが、まだ昼下がりである事もあり、恐ろしさに堪えて音曲を聴いた。その音曲が笛の音である事は判ったが、都で聞くどの楽器とも違う音色であり、嫋々とした悲しみが籠もっていた。小つるはおそろしくなって寺へと引き返した。)

(寺の僧は、御所か本願寺の伶人だろう、誰も居ないこの林に来て音曲の稽古をするのだという。ほっとした小つるは、思い切って林の中に入ってみた。すると木の下に武士が居た。)

今は参道の北側には家屋が建っており、林という風情ではありません。わずかに山門を出てすぐ右側の場所が上の写真の様になっており、小説の風景と合致しますね。ここは円山公園の東の外れにあたり、昼でも訪れる人が少ない場所です。

ただ、幕末の頃となると今とは逆で、六阿弥と呼ばれた安養寺の塔頭が建ち並んでいた場所であり、その塔頭が貸座敷を営んでいた殷賑の地なのでした。とても誰も居ない静かな林という風情ではなかったと思われます。

(武士は粗末な身なりながらも、刀だけは気の利いたものを持っていた。色白で彫りが深い顔立ちで、背の高い男だった。)

(武士は、どなたです、と優しさのかけらも無い表情で言った。しかし、小つるがおびえたのを見て思い直し、人の良い微笑をしてみせた。ほっとした小つるは、その笛は何かと甘える様に聞いた。)

(武士は「こさぶえ」と言いながら、小つるに笛を見せてくれた。それは樹皮をまるめただけの、何の変哲もない笛だった。)

(武士は、むかし蝦夷が吹いていたものだと言う。武士は奥州南部の出身で、蝦夷の子孫集落がまだ残っていた。武士は幼い頃に、その集落の老人から教わったと言った。)

(この笛を吹くと天が陰々として来て風が吹き、ついには雨雲が宿って翌日には時化になる事が多いと言われる。それほど寂しい音色であるのだが、土地では嫌がる人が多く、武士は市中で吹く事は遠慮して、非番の時にここに来て吹いていると言う。)

胡沙笛とはどんな笛なのだろうと思って調べてみたのですが、国立音楽大学資料館のページにその写真がありました。確かに樹皮をまるめただけの造りの様に見えますね。ただし、その音色までは判りませんでした。さぞかし、素朴で寂しげな音がするのでしょうねえ。

(小つるはもう一曲とねだった。小つるはむせぶ様な笛の音に聞き入った。そして、異郷の人が故郷を偲ぶ様に笛を吹く、彫りの深い横顔の中に寂しさを見た。小つるは涙がにじんだ。)

(武士はおどろいて小つるをのぞき込んだ。いいえ、と小つるが空を見上げると、いつの間にか雲が低く垂れていた。そして風が吹き始めている。まるで胡沙笛が雨を呼んだかの様であった。)

この胡沙笛には大和朝廷と蝦夷が争った頃の伝説があり、蝦夷はこの笛を武器として使い、笛の音で雲を呼んでは自らの隠れ蓑として戦ったと言われます。作者は当然その事を知っており、この場面の描写に使ったのでしょうね。この悲しい物語の冒頭には相応しい演出になっていると思います。

(二人は歩き始めた。しかし、祇園林にまで下りた頃に本降りになり、二人は林の中の茶屋に駆け込んだ。二階に通された時、小つるはここは話に聞いた出逢い茶屋である事に気が付いた。しかし、武士は何も知らぬげに外の様子を眺めている。その様子を見て、小つるは激しい思いを武士に対して持った。武士は鹿内薫という新選組の隊士であった。)

鹿内薫という隊士は実在しておらず、作者に依る創作です。ただし、モデルとなった隊士は二人居て、一人は浅野薫、もう一人は吉村貫一郎ですね。浅野については、新選組!で浅野藤太郎の名で出ていたので覚えている方も多いのでは無いでしょうか。一方の吉村については、壬生義士伝の主役として記憶されている方が多いと思われます。

時系列的には浅野の方の要素が多く、吉村についてはその出身地だけを拝借したというところでしょうか。

あえて言うなら、この二人に共通しているのは臆病者という評価であり、浅野はその臆病さ故に隊を追い出されたと言われ、吉村はその最後にあたって南部藩に命乞いをした人物とされています。壬生義士伝ではかなり違う描かれ方をしていますけどね。

いずれにしても、士道を謳う新選組においては最低の評価をされてしまう二人なのですが、それをあえて主役に据えたのがこの作品の面白さに繋がっていると思われます。

以下、30日に続きをアップします。

2011年5月27日 (金)

京都・洛東 新緑2011 ~真如堂 5.21~

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平成23年5月21日の真如堂です。この寺もまた、鮮やかな新緑で包まれていました。

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もみじの木は境内一円にありますが、新緑に埋もれたという感覚が味わえるのは参道が一番でしょうか。枝が低い位置にあるので、緑のトンネルをくぐり抜けている様な感じになります。

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この時期になると気になるのが菩提樹の花なのですが、この日はまだ蕾が出ている程度でした。見頃になるのはたぶん6月に入ってからになるでしょうね。

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本堂裏手では、木漏れ日を浴びたもみじが綺麗でした。透過光で見ると、新緑の色がいっそう鮮やかに引き立ちますね。

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今の真如堂は花の端境期らしく、ほとんど咲いている姿を見かけません。その中にあって、鮮やかな花を咲かせていたのはビオラでした。見事な群落になっていますが、何時の間に植えたのだろう?桜を見に来た時には気が付かなかったのだけどなあ。

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そしてもうひとつ、吉祥院の前では大きななツツジが満開近くで咲いていました。ツツジに関して言えば、今年はあまり盛りの花を見てないですね。花期が遅れていたせいなのかどうかは判りませんが、まとまった花を見るのはこの木が初めてだと思います。

見慣れた花ではあるのだけれど、やはりちょっと嬉しいものではありますね。


2011年5月26日 (木)

京都・洛東 新緑2011 ~南禅寺 5.21~

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天授庵を出て南禅寺の境内を歩きます。ここもまた、もみじの新緑で溢れていました。

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天授庵の緑よりも鮮やかに見えるのは、天候が回復して日差しが出て来た為です。こんな色を見ると、やはり新緑と言った方がぴったりと来る気がしますね。

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法堂の裏手では、木漏れ日を浴びた銀杏の葉が、輝いて見えていました。秋には黄色く染まるこの葉も、今は新緑の一つとして周囲に溶け込んでいます。

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南禅寺の一番人気は、何と言っても水路閣の様です。団体さん、個人客を問わず、口々に水路閣と言いながら次々と歩いて行かれます。

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純和風の境内に煉瓦造の洋風建造物なんて本来は異形のものなのですが、すっかりなじんでしまっていて、誰も文句を言う人は居ません。振り返って、建築当時はどうだったのでしょう、文明開化の世にあっては、古くさい寺の建物こそ無用の長物扱いだったのでしょうか。

長い年月を経た今は、両方あっての南禅寺と受け止められている事は確かです。

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再び天授庵の前に戻ってきました。南禅寺の境内はあまり水と縁が無いのだけれど、この庵の前には水路が流れています。その水路に生えているのがこの緑鮮やかな植物なのですが、いったい何という植物なのでしょうね。調べた限りではゼンマイに似ているのですが、それで合っているのかしらん?

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ここを流れている水は、たぶん琵琶湖疎水から分水してもらった水でしょうね。南禅院の池や本坊の滝の水は疎水を水源にしていると聞いた事があるからなのですが、それこそ水路閣が運んでいる水の一部なのでしょう。

琵琶湖疎水から京都が受けている恩恵の一つが、この水路にも現れていると言えるかも知れません。


2011年5月25日 (水)

京都・洛東 新緑2011 ~天授庵 5.21~

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平成23年5月21日の天授庵です。この日は書院前の庭、南庭共に、新緑で溢れていました。

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この庭の主役は何と言ってももみじですね。5月も半ばを過ぎ、新緑からさらに深みを増した緑が素敵です。手前の松が少し元気が無いのが気になりますが、たぶん刈り込まれて間が無いのでしょう。もう暫くしたら新芽が出て、また見栄えも良くなるものと思われます。

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山門を潜って正面にあるのが庫裏ですが、いつもは南側の座敷の窓を通した景色にだけ目が行ってしまいます。ところがこの日はなぜか内部が明るく見えて、玄関のすぐ上に煙り抜きがあるのに気が付いたのですよ。と言う事は、かつてはここに竈があった事を意味し、僧侶達の生活の場であった事を窺わせます。観光寺院として整備された今とは随分と違った姿をしていたのでしょうね。

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書院から南庭へと通じる通路は、ほのかに赤く染まって見えました。その赤く見えた原因は、このもみじの種が沢山落ちていたからなのですね。

この種が熟すのは秋だったはずで、今落ちているのはもみじが自ら間引いたものなのでしょう。全部の種を熟させるのは、やはり相当な負担になるからなのでしょうね。

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南庭に入ると、まず八つ橋が出迎えてくれます。そのほとりに咲く杜若は、この時期の天授庵の見所の一つですね。

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その庭の南側には竹藪が広がっています。今はさかんに枯葉をおとしており、いわゆる竹の秋になっていました。そして、伸びた竹の子が竹に変わろうとするところでもあり、言わば竹の元服の瞬間かな。その瑞々しい緑が若さを象徴しているかの様でした。

2011年5月24日 (火)

京都・洛東 コウホネ2011 ~平安神宮 5.21~

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平成23年5月21日の平安神宮では、コウホネもまた見頃になっていました。受付の表示では5分咲きとあったのですが、花が小さい為にそれほど咲いていない様にも見えてしまいます。

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あまり目立たない花ですが、その鮮やかな花色のせいか、惹かれるものがありますね。黄色一色の花とオレンジ掛かった花の二通りがあるのですが、時間の経過に依るのか、それとも品種の違いなのか、どちらなのでしょうね。

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東神苑に来ると、もう池の中の花は咲いていません。ここは岸辺の枝垂れ桜がメインとなる池で、今は新緑に包まれています。そんな中で、この赤いもみじが良く目立っていました。

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もう少しすると、この池でもサツキや紫陽花が咲き始めますね。丁度、白虎池の花菖蒲が咲くのと同じ頃かな。その頃にまた訪れてみたいと思っているところです。

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境内に戻ると、春に見事な花を咲かせていた染井吉野が、緑一色になっていました。葉桜になっても風格を失わないのはさすがと言いましょうか。年月を経た老樹だからこそ、なせる技なのでしょうね。

2011年5月23日 (月)

京都・洛東 睡蓮2011 ~平安神宮 5.21~

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平成23年5月21日の平安神宮の睡蓮です。

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平安神宮の睡蓮は、白虎池と蒼龍池で咲いています。こちらは西側の白虎池、もうすぐ花菖蒲が咲く池ですね。花菖蒲の現状は冒頭の写真にあるとおりで、ほとんどはまだ葉が伸びているだけですが、一部で蕾が伸びていました。

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東側の蒼龍池では杜若が咲いています。中央の緑の茂みがそうですが、こうして見ても花が少なくてやはり寂しく感じますね。

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この池での楽しみは、池の中にある飛び石を渡りながら睡蓮を見る事です。なかなか水面で咲いている睡蓮を俯瞰で見る事は無いですからね。

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この日は午後遅くに訪れたのですが、その割には睡蓮は沢山咲いていました。普通は閉じてしまうと思うのですけどね。睡蓮はまだまだこれからが盛りです。この花を目当てに訪れるなら、午前中に行かれることをお薦めします。

2011年5月22日 (日)

江~姫たちの戦国~19 初の縁談

(大阪城。江から秀吉が茶々を側室にと言い出したことを聞き、驚く初。約束を破ったと憤り飛び出して行く江。その一方で菓子を見て高次の事を思い出す初。)

(軍議の席上でも、茶々の事を考えて上の空の秀吉。そこに入ってきたおね。誤魔化す秀吉。)

(凄い形相で部屋に飛び込んで来た江。しかし、そこにおねが居た事で怯んでしまいます。しかし、おねは側室の件は知っていたのでした。安堵して、秀吉の違約を責める江。とぼける秀吉の前に念書と市の手紙を差し出すおね。)

(茶々には断られたのだからどうでも良いと開き直る秀吉。それを許さず、念書を読めと迫る江。今は茶々の事など考えられないと逃げる秀吉。この先は判らないと言う事かと追求の手をゆるめない江。疲れ果てて後ろを向く秀吉。)

(花を生けながらも、物思いに耽ってしまう茶々。)

(龍子の下を訪れている初。なぜ茶々の事で妬かないのかと憤る初をかるくいなす龍子。その龍子に菓子を勧められますが、高次の言葉を思い出し手を引っ込める初。)

(高次には次々と縁談が来ている、しかし、弟の意中の人は初らしいと漏らす龍子。喜ぶ初子。しかし、龍子は信長の姪御にはもっと他の使い道があるのではないかと言い出します。)

(部屋に戻って、泣き出す初。自分たちは政の道具だと嘆く初。それも否定できないと茶々。その茶々に断られた秀吉は、しおれた猿の様になっていたと江。それを聞き、痛ましそうな茶々。)

(高次の下に嫁ぎたいと言い出す初。彼女は茶々に高次との縁談を薦めてくれる様に頼んでくれないかと言い出しますが、そんな事をしたら何を言われるか判ったものではないと反対する江。)

(秀吉の居場所を気にする茶々。その秀吉は京に居ました。)

(京。秀吉に九州平定の祝いを述べる家康。その家康に大納言、竹千代に武蔵野守の官位を授ける様に朝廷へ働きかけていると告げる三成。お礼を述べる家康ですが、なぜか秀吉は元気がありません。訝りながら、屋敷の壮麗さを褒める家康。それは聚楽第でした。近々こちらに移るつもりだという秀吉。その秀吉の元気のなさの原因は女かと言い当てる家康。ため息をつくばかりの秀吉。)

(大阪城。一人もの思いに耽る初の背後に高次が現れます。驚く初に、きらいなものは何かと問い掛ける高次。思いあまって、あなたの様な男、仕官の為に姉を側室に差し出す様な人ですと言ってしまう初。)

(またしても部屋に閉じこもる初。なぜその様な事を聞かれ、明るく屈託の無い顔を見ていると憎たらしくなったと初。あきれる茶々と江。次に嫁に出されるのは自分だと泣き出す初。)

(その夜、秀吉が戻っていると聞き、会いに行くと言う茶々。)

(初を高次の下に嫁がせてやって欲しいと頼む茶々。見返りはないのかと秀吉。それは側室の事かと聞く茶々。そう言ったらと秀吉。それは縁談がまとまったら話すと茶々。)

(数日後、秀吉に呼び出された江達。秀吉の前にはべる龍子。いぶかる江達を余所に高次を呼び入れる秀吉。おどろく江達の前で、初を妻に迎えたいと言い出す高次。なぜ自分を嫁に、秀吉に押しつけられたからではないのかと問う初。黙って答えない高次。)

(姉を側室に差し出した高次を信じられないのではないかと言い出す江。無礼なとたしなめる茶々。)

(弟が自分を側室に差し出した訳ではないと言い出す龍子。龍子は高次が仕官する前に側室であり、行き場を失っていた弟を助ける為に秀吉にとりなしたのでした。)

(初めて会った時から、初に惹かれていたと言う高次。黙って席を立つ初。後を追う高次。)

(呼び止められ、自分の好きなものは菓子だ、それでも良いのかと言い出す初。破顔して、自分も菓子を好きになる様に努めると答える高次。うれし泣きに崩れる初。そっと肩に手を置く高次。良かったと見守る江と龍子。同じく見守りながら、複雑な茶々。)

(一月後、菓子を前に嫁入りを機に菓子を止めると宣言する初。花嫁衣装を前に、娘を嫁に出す思いがする、母はこんな思いは出来なかったのだなと茶々。)

(そこに入ってきたおね。彼女は初にお守りを手渡し、道中の無事を祈ります。支度金を用意してくれた事に礼を言う茶々。答えながら側室の件を思い出すおね。どこか不安げな江。)

(京極家に初が嫁ぐ日。お幸せにと送り出す江。自分は母の代わりだ、自分のいるところがそなたの家だと伝える茶々。)

(その夜、ヨシに茶々が初の縁談を頼み込んだのではないかと聞く江。)

(江の寝姿を見て、部屋を出て行く茶々。三成の案内も断り、一人廊下を行く茶々。)

(彼女の行く先は、いつぞやの四阿でした。そこで待っていたのは秀吉。妹の婚礼の礼を言う茶々。約束を果たしただけと答える秀吉。先日の答えを持ってきた、自分の身を好きにして貰って良いと伝える茶々。ただ、側室だけは嫌だと続ける茶々。なるほどと言って、茶々の顔に触れようとして止めた秀吉。)

(彼は戯れ言だった、力尽くで茶々を手に入れようとは思っていない、今夜きて呉れただけで幸せだと言い出します。月を見て貧しかった子供の頃を思い出し、月が餅に見えたものだと語る秀吉。では三日月では駄目だと答える茶々。なんの、囓りかけの餅だと思っていたと秀吉。思わず笑い出す茶々。その茶々を見て美しいとつぶやく秀吉。)

(翌朝、江と二人で朝餉を摂る茶々。眠そうな様子を咎められ、誤魔化す茶々。)

(昨夜の回想。もし、自分が仇でなかったら思いを受け入れてくれたのかと語りかける秀吉。とまどう茶々。未練だったと誤魔化す秀吉。)

(もの思いに耽っている茶々。いぶかる江。何でもないと誤魔化す茶々。)

(数日後、秋が深まる庭を見ながら廊下を歩く茶々と江。その先に、もみじ狩りをしている秀吉を見つけた江は戻ろうと言いますが、茶々はあいさつをして行こうと言い出します。)

(ところが、秀吉は新しい側室のトヨといちゃついていました。あきれる江。怒った様子の茶々。)

(秀吉に迫る茶々。それに気が付き、秀吉に呼びかける三成。茶々に気付いて驚く秀吉。)

(茶々達に新参の側室とあいさつをするトヨ。随分と若い側室だと嫌みを言う茶々。茶々と同じ巳年生まれだと紹介する秀吉。その横面を張り飛ばした茶々。自分で驚いて逃げ出す茶々。)

(部屋に戻ってすすり泣く茶々。いぶかる江。なぜかは自分でも判らないと泣き崩れる茶々。困惑する江。)

今回もほとんどが創作の恋愛ドラマでした。初と高次は生涯添い遂げた事には違いありませんが、その夫婦仲がどうだったかまでは伝わっていない様です。後に二人してキリシタンとなっている事から、良好だったとも考えられますね。

ただ、二人の馴れ初めが恋愛結婚だったという事はあり得ず、おそらくは龍子が秀吉に働きかけた結果ではないかと考えられています。初は京極家とも縁続きであり、かつ秀吉という後ろ盾もある訳ですから、高次の嫁としてはこれ以上は無い相手でした。しかし、秀吉の側からすれば格下とも言える相手である事から、龍子の介在があったのではないかと思われる訳ですね。

それにしても、秀吉の純愛は続きます。この頃、秀吉は50歳、茶々は18歳ですから、何とも不自然ではあるのですけどね。まあ、役者の実年齢がもっと近いから、成立している場面ではあるのでしょうけど。江の政略結婚や同じ立場の龍子はすんなりと描いているのに、茶々だけなぜと思ってしまうのですが、やはりヒロインの一人ですからどうしても恋愛感情を描きたいのでしょう。

また、トヨという側室は、調べた限りでは居なかった様ですね。「とら」という側室は居た様なのですが、このもじりかしらん?おそらくは茶々の気持ちを引き出す為の創作だろうと思われます。

なお、聚楽第(ドラマでは「じゅらくてい」となっていましたが、「じゅらくだい」という呼び方もあります。後者の方が一般的ではないかという気もしますけどね。)については以前の記事を参考にして下さい。

2011年5月21日 (土)

京都・洛東 杜若2011 ~平安神宮 5.21~

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平成23年5月21日の平安神宮です。今日のお目当ては蒼龍池の杜若でした。

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この池の杜若は、主として池の西側で咲いています。そして、今日現在ではこの写真からも判る様に3番花が咲いているところでした。ところが、平安神宮のブログ「はんなり便り」を見ると、今は2番花に移行中とあるのですね。

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あれっと思って他の写真を確かめたのですが、池の東側で咲いている花は2番花でした。日当たりの関係があるのか、池の東西で花期が微妙に違っている様ですね。

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こちらは園芸品種である「折鶴」ですが、この花は3番花です。それにしても、1番花と2番花の花殻はやはり気になりますね。菖蒲の類の共通項ではあるのですが、思わずむしり取ってしまいたくなるのは私だけでしょうか。無論、そんな勝手な事は出来ないのですけどね。

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今年の杜若ですが、かなり寂しい状況でした。咲いてはいるものの、花がまばらなんですよね。もしかしたら、既に終盤に入っているので終わった株が多く、次々に処分されているのかも知れません。このあたりは、最初から見ていないと、何とも言えないですね。

一方、花菖蒲の方ですが、まだ一部で蕾が見えていた程度でした。盛りになるのは6月の半ば頃でしょうね。ただ、株の育ちがあまり良いとは思えず、ちゃんと咲き揃うのか気になるところです。これが単に成長が遅れているだけで、花期がすこし後ろにずれる程度なら良いのですけどね。私の杞憂に終わって欲しいものだと思います。

2011年5月20日 (金)

京都・洛西 新緑2011 ~嵐山 5.6~

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嵐山の新緑です。
この日は生憎の曇り空であったため、せっかくの新緑もくすんでしまい、深緑と言った方が相応しく見えていますね。

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ここに来たのは松尾大社の後だったのですが、その大社までのバスの中で中国の人達と一緒でした。無論、仲間内で何を言っているのかは判らないのですが、嵐山というアナウンスがある度に異様にテンションが上がっていました。なぜか相当な思い入れがある様なのですよ。

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たぶんですけど、嵐山には周恩来氏が作った漢詩「雨中嵐山」の石碑が有るせいなのでしょうか。と言うより、あの詩が中国で流布されていて、日本のイメージを形作っているのかも知れません。とても情緒のある良い詩ですからね。

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でも、中国の雄大な自然から見ると如何にも箱庭的なこの景色を見て、中国の人はどう思っているのでしょうね。詩で謳われている情趣と違うと拍子抜けをしてしまうのか、それとも日本ならではの繊細さを感じ取ってくれているのか、どちらなのでしょう。

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今は詩で謳われた松はすっかり減って、幾株と言われた桜の方が主役になっていますが、全体の情緒はそう変わっていないはずです。ここは今でも、京都で最も美しい場所の一つですよね。

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特に水と緑が一体になった環境は素晴らしい。私としては、この景色と情緒が、はるかな異郷から訪れた人達にも、安らぎと憩いを与えていると思いたいところです。

2011年5月19日 (木)

京都・洛中 一初2011 ~平野神社 5.4~

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平成23年5月4日の平野神社です。

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この日はシーズン最後の桜である突羽根桜が満開になっていました。花の様子が時間と共に変わっていくのがこの花の特徴なのですが、これは最終形の一つ手前だと思われます。

実は以前に、この花は菊咲きで多段咲きでは無いと書いていたのですが、他の花を良く見ると二段咲きをしていたのですね。その写真は失敗しているので今回は掲載出来ませんが、この後中央部から白い花がさらに咲いて、最終形になるというのが正しいと思われます。以前の記事についてはお詫びして訂正させて頂きます。

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この日は一初もまた満開を迎えていました。咲いている場所は、主として稲荷社の手前の池なのですが、この群落はなかなか見応えがありますよ。

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そして、数は少ないですが、山吹も咲いていました。この黄色と薄紫の組み合わせもまた、なかなか綺麗なものですね。

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一初は桜苑でも沢山咲いていました。花数からすると相当なものになるでしょうね。ただ、惜しむらくは雑草に埋もれていた事で、あまり目立たないのですよねえ。ちゃんと手入れしてやれば、一初の一名所となる様な気がするのですが。

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ここでも牡丹は花盛りでした。牡丹にしては小振りではあるけれど、綺麗な色合いの花ですね。

この時期の平野神社は、桜の喧噪が去っても花の見所がまだいくつもあるという、なかなかの穴場だと思いましたよ。

2011年5月18日 (水)

京都・洛中 牡丹2011 ~本満寺 5.4~

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平成23年5月4日の本満寺です。ここは見事な枝垂れ桜がある事で知られていますが、最近では牡丹に力を入れられている様で、この日は沢山の大輪の花を見る事が出来ました。

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牡丹があるのは本堂前の通路や枝垂れ桜の周辺などですが、本堂西側の小庭にもずらりと植えられているのが、開いていた扉の外から見る事が出来ました。なかなか見事な咲きっぷりだったので、そのうち公開してもらえないものかしらん?

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この日は八重桜がまだ咲いており、前日に雨が降ったのかな、沢山の花が根元に散っていました。

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八重桜は、花が大きくかつ色がはっきりしているぶん、散った後も豪勢ですね。染井吉野や山桜とはまた違った、立体感のある花の絨毯です。

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振り返ってみると、この日が晩春と初夏の境目だった様な気がします。立夏はさらに二日後だったのですけどね。

今は牡丹も散って、緑一色の境内になっている事でしょう。花目当ての人は居なくなり、喧噪が消えた静かな時間が流れているのでしょうね。来年の春、枝垂れ桜が咲く頃にまた訪れてみたいと思っています。

2011年5月17日 (火)

京都・洛東 新緑2011 ~祇園白川 4.30~

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本来は今週は葵祭の特集を予定していたのですが、残念ながらちょっとした事情があって当日は取材に出かける事が出来ませんでした。そこで急遽予定を変更して、今週末まではこれまでの写真のストックから選び出してお届けして行こうと思います。このため、日付が少し遡る事になる事をあらかじめご承知おき下さい。

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まずは、4月30日の祇園白川の新緑です。
このつい2週間ほど前までは桜で賑わっていたこの界隈なのですが、この頃になるとすっかり緑で埋まっていました。その新緑に彩りを添えていたのが山吹ですね。

この鮮やかな黄色と緑の組み合わせは、如何にも初夏を感じさせてくれる色彩だと思います。

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祇園白川の情緒を形作っているとも言えるしだれ柳ですが、新葉が出るのが早かったせいか、既に新緑とは言い難くなっていました。でも、この川にはこの柳の枝ですよね。これぞ初夏の祇園白川の景色です。

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例年なら道沿いで咲き誇っているはずのツツジなのですが、今年は寒さのせいで咲き出すのが遅かったらしく、まだ3分咲き程度でした。この後は見に行ってないのですが、その後は順調に咲き揃ったのかな。

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しだれ柳とは違って、もみじはまだ新緑と言える瑞々しさを保っていました。

それにしても川の上に伸びたこの木は、競争相手が居ないせいか伸び伸びして見えますね。何だか危なっかしくも見えるけど、太陽の光を独占出来る訳だから、ここは木にとっては一等席なのでしょうね、きっと。

2011年5月16日 (月)

京都・洛西 新緑2011 ~嵯峨野路 5.6~

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嵯峨野の新緑シリーズ、最後は嵯峨野路で見つけた緑の景色を集めてみました。

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嵯峨野路の定番コースを歩いていると信号や横断歩道とはほとんど無縁となるのですが、一カ所だけ異質な場所があります。それがこのJRの踏切ですね。非現実的な散歩道に突然現れた日常と言いますか、ちょっとシュールな雰囲気が漂っている感じがします。まあ、そこが気に入っているところでもあるのですけどね。

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電車が通り過ぎている間は、余計にそれを感じますね。明治を思わせる古風な人力車と無機質な現代的な車体との組み合わせは何ともミスマッチなのですが、それもまた面白いと感じるのは嵯峨野という土地ゆえなのでしょうか。

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そのJR(東海ですが)のポスターには、日本の緑色が見つかりましたとありましたが、この落柿舎の景色を見るとまさしくそうだと思えてきます。柿の葉の明るい色、もみじの少し赤味がかった色、背景の針葉樹の暗く沈んだ色、そして垣根には何種類の色が混じっているのでしょうか。このそれぞれに名前が付いているのでしょうね。これをみんな言えたら素敵だろうな。

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落柿舎から目を西に転じると、大きな木の新緑が目に入りました。なんて綺麗なんだと思って撮ったのですが、良く見ると中程の緑が抜けた様な変な具合になっています。で、後から写真を拡大して判ったのですが、半ば以上山藤に絡まれていたのですね。天気が良ければ、山藤の紫の花が良く見えていたかも知れません。

それにしても、やがてこの大木も枯れてしまうのかな。山藤は見た目きれいだけど、何とも恐ろしい植物ではあります。

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落柿舎から祇王寺に向かう途中、黒雲が上空を覆ったのでしょう、あたりが一層暗くなって来ました。ここは常緑の広葉樹と針葉樹が大半で、普段から暗い道ではあるのですが、初夏とは思えない雰囲気になってきました。その向こうにわずかに見える新緑だけが救いであるかの様な、面白い光景になってましたね。こういう不安気な道もまた、嵯峨野路の景色の一つです。

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最後は一転して明るい緑でまとめましょうか。ここは常寂光寺の前の道で、いわば参道にあたるのかな。もみじのトンネルの様な道で、ここを抜けると落柿舎の前に出る事が出来ます。紅葉の時には一番最後に色付く場所でもあり、名残のもみじを見に来るにも良い場所ですよ。

夏の盛りには、日差しを避けられる嬉しい場所でもありますね。こんな事を書いていたら、当の本人がまた行きたくなって来ました。次は何時が良いかな。秋風が立つ頃か、ヒグラシが鳴く夏の夕暮れ時か。機会を見て、また違う風情を探しに行きたいと思っているところです。


2011年5月15日 (日)

江~姫たちの戦国~18 恋しくて

(25万の兵力で九州に攻め込んだ秀吉。)

(天正15年正月。太政大臣に任命された秀吉。そして豊臣姓を賜り、養女の前子が后として禁中に入った事で、一族は禁裏の縁者となりました。さらには、公家に連なる新たな家系図まで創られました。そのあまりの出鱈目振りに失笑するおね達。)

秀吉が源平籐橘に次ぐ豊臣の姓を賜ったのは周知の事実ですが、その時家系伝説が創られたのも事実の様ですね。それが出鱈目なのもドラマにあったとおりなのですが、無理矢理に納得させようと頑張る三成の姿がなかなか面白かったです。

(九州攻めの下知を下す秀吉。秀勝は秀吉と共に出陣しますが、秀次は留守居役を命じられます。不服そうな秀次。その気持ちを代弁してやる江。女の口出しするところではないとたしなめる秀吉。互いに役目と配慮が判っての事と江に説明してやる秀勝。)

(江と良い感じの秀勝。)

(茶々の様子がおかしいと気遣う江。龍子に相談しますが、女は強い男に弱いと答えられる始末。その龍子は自分の弟の様な弱い男も居ると言い出し、それを受けてヨシは、龍子の弟、京極高次は、本能寺の変では光秀に従ったものの、敗戦後は龍子を側室にと差し出して仕官の道を手に入れたと余計な事をしゃべります。龍子ににらまれて、噂だと誤魔化すヨシ。)

本能寺の変があった時に高次は近江で5000石を領していました。そして、光秀に従って戦い、秀吉の城であった長浜城を攻めています。ところが、山崎で光秀が敗死してしまうと美濃へ逃れた様ですね。そしてさらに勝家を頼ったらしいのですが、その勝家までが秀吉に敗れてしまうと、遂に進退窮まってしまった様です。この窮地を助けたのが姉の龍子でした。彼は龍子のとりなしによって秀吉から許され、近江国高島郡で2500石を与えられます。その後さらに加増され、九州攻めの時には5000石の身上となっていました。

九州においては、敵方の城を攻め落とすという戦功を上げたため、一躍1万石の大名に取り立てられたのはドラマにあったとおりです。

彼は姉の取りなしによって大名になれたと言って良く、そこから付いたあだ名が蛍大名でした。二度までも秀吉に楯突いた訳ですから、本当なら取りつぶしになってもおかしく無かった訳で、まさに龍子の献身によって家名を繋ぐ事が出来たのでした。ただし、龍子が側室になったのは夫の武田元明が光秀に従って破れたためであり、高次ぐが自分の為にと差し出した訳ではありません。

(弟はただ生真面目に過ぎるのかも知れないという龍子に、自分の為に姉を側室に差し出すなど駄目な男だと罵る初。)

(明日は九州攻めが始まるという日、庭先で一人の若者を見かけた初。一人では声が掛け掛けられないと、江を誘い出します。)

(元の場所に戻ってみると、そこにはもう若者は居ませんでした。落胆している初達の下に龍子がやって来ます。その龍子に同行している若者こそが初が見た男でした。これが高次だと言われ、驚く初。自己紹介をされ、声が裏返ってしまう初。その後も受け答えは江が行い、初は江の陰に隠れてしまいます。ついには気を失い、高次に支えられた初。しかし、すぐに気が付き、何でもないと言って足早に立ち去ります。初の気持ちに気付いて、小さく笑う龍子。)

(部屋に戻って呆然としている初。一目惚れをした相手が駄目男と知り、落ち込んでいるのでした。きっぱりと諦めると言いながらも、やはり落ち込んでしまう初。)

(その夜、茶々の下に話があると言って訪れた三成。)

(三成に案内されて行くと、庭の四阿で秀吉が待っていました。秀吉の用とは、九州から帰ったら聞いて欲しい話があるとの事でした。予期するものがあるのか、驚く茶々。そこに現れた江。姉に何を話していたのかと秀吉をひっかく江。)

(翌日、頬にひっかき傷を付けて、おねに訝かられている秀吉。丁度出立の用意が出来たという知らせが入り、誤魔化す様に出陣する秀吉。)

(花を生けながらも物思いに耽る様子の茶々。)

(秀吉の見送りを済ませて戻ってきた江。昨夜の秀吉と茶々の話が気になりますが、初は高次の事で頭がいっぱいの様子です。駄目男など嫌だったのではと聞く江に、秀勝はどうだと切り返す初。驚く江。)

(九州攻めの相手が島津氏に絞られ、優勢に戦いを進めている秀吉軍。その知らせを聞いて喜び、出立前は50を過ぎたなどと弱気な事を言っていたと明かすおね。高次も良い働きをしていると聞き、嬉しそうな初。怪訝そうななおね。小さく笑う龍子。一方、秀勝の様子が気になる江。)

(浜松城。九州攻めが順調との知らせに、九州も秀吉のものになるのかと家康。なにゆえ、関東を後回しにしたのかと訝る正信。それは明国か朝鮮を攻める為であろう、外国に討って出るのは信長の夢であった、秀吉はそれを叶えようとするはずと答える家康。)

(夏、九州攻めが大勝利に終わり、秀吉以下の諸将も無事との知らせに安堵するおね達。そこに客人がやってきました。)

(客人とはたまでした。たまの用件とは、秀吉が出したバテレン追放令の事でした。このままではパードレが居なくなり、キリシタンになる事が出来ないとあせるたま。なぜ追放令をといぶかる江に、一向宗で散々手を焼いた秀吉は、九州のキリシタンを見て強敵となるかもしれないと思ったのではないかと答える茶々。)

(受洗を済ませ、マリアという名を貰っているたまの侍女の糸。その糸に受洗の儀式は出来ないのかと問い掛けるたま。パードレの許しがあれば、しかし難しいと思うと答える糸。この世に無理は無い、無理は人が作り出すものと利休から聞いたと言い出す江。)

(7月半ば、九州から凱旋した秀吉。)

(龍子に一室に連れてこられた初。そこで一人待つ内に現れたのは高次でした。ぎこちなく会話を始める二人。)

(戦功により大溝城1万石に封ぜられた高次。自分の事の様に嬉しそうに祝う初。鮒寿司が好きというところでは一致して喜んだ初ですが、菓子が嫌いだ、食べている者を見ただけで胸やけがすると言われ、慌てて菓子袋を隠す初。)

初と高次がこのあと縁が出来るのは周知のとおりなのですが、その馴れ初めがこうした恋愛沙汰であったはずはなく、全くの創作ですね。無理のある設定ではあるのですが、三姉妹のためのドラマですから、まあ良いとしておきますか。

(忠興の屋敷を訪れた初と江。キリシタンになれたと喜んで報告するたま。どうやってと訝る江に、京都に隠れているパードレに何度も手紙を書き、糸の手で入信の儀式を行う許しを得たのだと答えるたま。その糸は、剃髪して信仰の道を生きる決意をしたのでした。たまの新しい名はガラシャ、望み、恩寵を指す言葉でした。)

とうとうガラシャの名が出て来ましたね。やはりたまでは感じが出ない、ガラシャでなくてはね。彼女が侍女の手で洗礼を受けたとのは史実のとおりですが、異説として宣教師が儀式を授けたとする向きも有るようです。

それにしても、ミムラさん演ずるガラシャは、とても綺麗ですね。

(大阪城。縁側から天守を眺めている秀勝に気付いた江。これで見納めだと言う秀勝。彼は九州攻めでの恩賞が少ない事で秀吉に文句を言ったのですが、不興を買って謹慎を命じられてしまったのでした。秀吉に話すと言う江に、これは男の世界の事だからと断る秀勝。再会を誓って去っていく秀勝。悲しげに見送る江。)

九州攻めの時、秀勝は丹波亀山城主でした。九州ではそれなりの戦功を上げた様ですが、恩賞が少ないと秀吉に文句を言って、所領を没収されてしまったのはドラマにあったとおりです。このあたりは性格もあったでしょうけど、身内という甘えもあった事でしょうね。そして、やはり身内であるが故に、間もなく許される事になります。

(利休に会い、胸に風が吹くようだと訴える江。自分にも覚えがあると、若い頃失恋した経験を語る利休。懐かしい様な、心通じる人が遠くに行ってしまった様なと江。その気持ちを大事にしろと利休。いぶかる江に、縁があったら又会えると諭す利休。)

(月を見て物思いに耽る茶々。そこに三成が呼びにきました。)

(いつぞやの四阿で待っている秀吉。その横に腰掛ける茶々。)

(宴の席で居眠るなか。酔い潰れている秀次。そこに酒を持って来たおねは、秀吉が居ない事に気付きます。)

(四阿。自分の思われ人になって欲しいと切り出す秀吉。嫌だと答える茶々。おねが居るからかと問う秀吉。仇と一緒になりたいと思う者は居ないと答える茶々。か、た、き、とつぶやく秀吉。話がそれだけなら帰ると言う茶々。そこに現れた江。私なら大丈夫だと声を掛ける茶々。秀吉に噛みつこうとし、三成に遮られる江。去ろうとする茶々を寂しげに見つめる秀吉。)

(廊下でおねとすれ違った茶々。その様子から何かを感じ取ったおね。)

(秀吉に噛みついている江。三成から、茶々は秀吉の側室になって欲しいと頼まれたと聞き、さらに檄高する江。蕭然と座り込んでいる秀吉。秀吉を捜し当て、側室と聞き驚くおね。)

このあたりはすべて創作ですが、随分と純情な秀吉ではあります。たぶん、今までこんな描かれ方をした秀吉は、居なかったのではないかしらん。おそらくは、茶々が側室になった事について、無理なく描こうとしているのでしょう。そのあたりはあまり目くじらを立てても仕方が無いので、大河ではなく恋愛ドラマとして見ていくのが良いものと思われます。

2011年5月14日 (土)

京都・洛西 新緑2011 ~祇王寺 5.6~

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常寂光寺を出て、祇王寺にやって来ました。理由は同じで、紅葉の名所はまた新緑の名所でもあるからです。

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初夏の祇王寺は、文字通り新緑で埋まっていました。本堂を覆い尽くさんとするもみじを見ていると、俗世を逃れた祇王、祇女が隠れ住むには、なるほど相応しい場所だったのかも知れないと思えてきます。

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ここでもやはり光が少し足りない気がしましたが、これだけ深い色合いに撮れたのだから良しとしなければならないのでしょう。それにしても、秋とはまるで違った光景です。

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苔にも色々な種類があるのですね。こんもりと茂る苔やひたすら地を覆う苔、それぞれが個性を競い合って州浜の様な面白い模様を形作っていました。

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手水鉢の側では、早くも紫陽花が咲いていました。今年初めて見た紫陽花ですが、可憐な美しい花色をしています。もう少ししたら、この花を追いかける時期がやって来ますね。時が巡るのは本当に早いものだと、つくづく思います、はい。

2011年5月13日 (金)

京都・洛西 新緑2011 ~常寂光寺 5.6~

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松尾大社から一駅電車に乗って、嵯峨野へとやって来ました。ここでの目当てはやはり新緑です。

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最初に選んだのは常寂光寺、言うまでもなく紅葉の名所は新緑の名所でもありますからね。

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階段を上がりきるとすぐ右手に、ツツジの一種である花車が咲いていました。この花は、普通のツツジの様に花弁が筒状にはなっておらず、五枚の独立した花弁になっているのですね。新緑とあいまって、薄いピンク色の花がとても清楚に感じました。

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この日は、普段は非公開である本堂と書院が開放されていました。これは東日本大震災援助のためのチャリティーとして行われていたもので、特別拝観料300円は全て京都新聞社を通じて寄付されるのだそうです。

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せっかくなので上がらせて頂いたのですが、初めて見るご本尊や藤原定家の持仏、さらには定家の画像など、貴重なものを拝見rる事が出来ましたよ。また、普段は見る事が出来ない角度から庭を観賞でき、有意義な時間を過ごす事が出来ました。

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この日は雨が降るかと思われる程どんよりとしており、新緑の色もあまり冴えなかったです。それに、曇り空が背景では、多宝塔を絡めた写真もなかなか絵にならないのですよね。

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もっとも、そのぶん緑の深みが増したとも言え、写真的には一長一短でしたか。こういう新緑もまた、悪くはないですね。

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実はここに行ってから気が付いたのですが、今のそうだ京都行こうのキャンペーンはこの寺が対象だったのですね。そこで、ポスターとおなじ構図で撮ってみたのですが、やはり明るさが足りないですね。

拝観者は特別多くもなかったけれど、初めて来た人がほとんどだったのはこのキャンペーンのせいなのかしらん?普段ならリピーターの人が結構多いのですけどね。

天気は冴えなかったけれど新緑が美しい事は紛れもなく、満足して帰られた方がほとんどだったのは何よりだったと思います。

2011年5月12日 (木)

京都・洛西 山吹2011 ~松尾大社 5.6~

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平成23年5月6日、山吹の咲く松尾大社を訪れて来ました。

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実を言えば、松尾大社に来るのはこれが初めての事なのです。東山にある八坂神社とは四条通を結んで東と西の対極に位置するという関係にあるのですが、京阪組にとっては何しろ遠いのです。この日は京都駅からバスに乗って行ったのですが、時刻表にあったとおりきっちり40分掛かって着きました。

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この神社で楽しみにしていたのが、重森三玲氏作の庭園です。昭和50年に完成したのですが、三玲氏の絶作でもあるのですね。庭園は3カ所あり、最初に訪れたのは曲水の庭でした。

その名のとおり、曲水の宴の場を現した庭で、曲水を形作る州浜、庭石を縦に使った石組み、それにさつきの大刈り込みと、いかにも三玲氏ならではの作庭になっています。東福寺の塔頭、光明院の庭に通じるところがありますよね。

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次に訪れたのが上古の庭です。何となく殺風景でどうにも庭らしくないなと思っていたのですが、これは神社の背後の山にある磐座を象ったものであり、石組みではなく神々の意思によって据えられたものなのだそうです。この石の一つ一つが神々を象徴しており、他の庭とは一線を画す作品なのですね。

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最後が蓬莱の庭です。蓬莱神仙思想の世界を池とそこに浮かぶ島々で表現した庭ですが、枯山水ではなく本当の池にしたところが目新しいですね。石の使い方が如何にも三玲氏らしいと思ったのですが、実はご本人は池の形を指示しただけで、後はご長男の完途氏が完成させられたのだそうです。最初で最後の親子合作の庭でもあるそうですよ。

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松尾大社と言えば酒の神様として知られますが、その象徴的な存在がこの亀の井です。この井戸にまつわる伝説として、かつてこの泉が湧き出た時に、この水で酒造りをすれば家運が隆盛するという松尾の神のお告げがあったと言われており、今でも醸造家はこの水を酒造りの水に混ぜて使うのだそうです。

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この時期に松尾大社を訪れたのは、山吹を見るためでもありました。以前からこの神社が山吹の名所である事は知っていましたから、一度は見ておきたいと思っていたのです。

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山吹は境内の至る所で咲いていましたが、一番の見所はこの一の井川のほとりですね。川沿いに石橋や水車、それに白壁が並び、とても風情のある景色を見る事が出来ます。

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でも初めての場所での撮影はやはり難しいですね。どう撮れば良いのか判らず、色々試してみたのですがなかなかこれはという写真は撮れません。

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それに石橋近くに自動販売機があったり、水路の突き当たりにトタンの塀があったりするので困りました。この写真も水面にその塀が写り込んでいるのですよねえ。やはり何度も通わないと好ポイントは判らないです。また来年も同じ時期に撮りに来なくてはいけない様ですね。

2011年5月11日 (水)

京都・洛北 新緑2011 ~詩仙堂 5.5~

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曼殊院から詩仙堂へとやって来ました。時間は11時近くになっていたのですが、朝から空を覆っていた雲が薄らぎ始め、ようやく青空らしくなって来ました。

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この時期の庭は新緑が主役です。でも、同じ緑でも様々な色合いがあって変化に富んでいるので、じっと見ていても飽きる事はありません。

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この庭のモチーフとも言うべき存在のさつきですが、まだ花の時期ではありません。わずかに咲いている部分もあるのですけどね、盛りになるのは6月の初め頃ではないかと思われます。

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新緑の中でも一際鮮やかだったのが柿の葉です。日当たりのせいもあったのでしょうけど、赤い花のせいで茶色ぽく見える背後のもみじと競べて、一段と美しく見えていましたよ。

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この時期の主役は新緑と書きましたが、ここを訪れる人にとって最も印象的だったのは、最初に出会うこのツツジでしょうね。玄関前にあるのですが、毎年鮮やかなこの花を咲かせ続けてくれています。

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庭のそこかしこでは、ヤマブキが咲いていました。この黄色の花もまた、新緑の色と良く調和して見えます。

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こちらは白藤ですね。長くはならないけれど、このボリューム感ある咲き方は、これはこれで凄いと思います。

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そして、一つだけ咲いていたオオデマリです。紫陽花に似たこの花は、これからが盛りになるのでしょうね。少し暗がりにあって、この花の周囲だけほんのりと明るく見えたのですが、とても清楚で美しいと感じました。沢山咲くとボリューム感が出て、また違って見えるのですけどね。咲き始めならではの、一瞬の美しさだと思います。

2011年5月10日 (火)

京都・洛北 新緑2011 ~曼殊院 5.5~

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平成23年5月5日の曼殊院です。

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毎年この時期になると曼殊院を訪れているのですが、そのお目当てはこの霧島ツツジにあります。この純和風の庭にあって、この鮮やかな紅い花は際だった美しさを見せてくれるのですよ。

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そして、その赤い色は、この庭にこの上無い彩りを添えてくれます。秋の紅葉も素敵な庭ですけど、初夏のこの時期の美しさは、新緑とあいまって生命力を感じさせてくれますね。

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たた、その霧島ツツジが、年々弱ってきているのが気がかりです。数年前に競べて枯れた部分が目立つ様になり、全体的にもボリューム感が無くなってきているのです。手入れはされているのでしょうけど、どうしちゃったのでしょうね。

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小書院の東側では、散椿がまだ咲いていました。これって、椿寺の散椿と同じ花なのかな。椿寺の花はさすがに終わっているはずですが、ここは山手にあるぶん花期が遅かったのかも知れないですね。

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去年も同じ場所を撮っていますが、やはりこのツツジと新緑の組み合わせは美しい。まだ満開とまでは行かなかったのが残念だけれど、雅さを感じさせる事は変わりません。

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寺の周辺では、新緑が萌えていました。この日は朝の内はどんよりとしていたのですが、次第に晴れ間が見え始めて、丁度この頃には日差しが差し始めて来たのです。そのおかけで、輝く様な新緑を撮る事が出来ましたよ。

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新緑と霧島ツツジを満喫した後は、坂を下って詩仙堂へと向かいます。その道すがらにも霧島ツツジや八重桜が咲いているのですが、1年で最も爽やかな気候のこの時期に修学院界隈を歩くというのは、とても贅沢な時間の過ごし方なんじゃないかと、つくづく思いますね。

2011年5月 9日 (月)

京都・洛中 一初 20011 ~上御霊神社 5.4~

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平成23年5月4日の上御霊神社です。この日は南側の堀の中で一初が満開を迎えていました。

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一初はアヤメの仲間で、他に先駆けて最初に咲く花として知られています。先日訪れた得浄明院では開花が遅れていたので気になっていたのですが、ご覧の様な見事な咲きっぷりで、私の不安は杞憂に終わりました。

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この日咲いていたのは2番花だった様で、今日あたりは3番花の見頃がまだ続いていたんじゃないかな。

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一初は割と順調だったのですが、カキツバタは大幅に遅れている様です。5日に行った太田沢ではまだ数輪が咲いていただけでした。15日の葵祭当日にまた行く予定をしていますが、どうだろう、ちゃんと咲き揃っているかしらん?

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境内の舞殿には、立派な御輿が安置されていました。1日に神幸祭があって、御輿をお迎えしたのですね。そして、18日には還幸祭が行われるのですが、これがとても賑やかなお祭りらしいです。まだ一度も見た事が無く、今年も平日なので無理ですが、機会があれば是非訪れてみたいと思っているところです。

2011年5月 8日 (日)

江~姫たちの戦国~17 家康の花嫁

(天正13年7月、関白の宣下を受け、文字通りの天下人となった秀吉。)

(大阪城。花を生けながら秀吉のうわさ話をする江達。この事で茶々が秀吉に靡かないか、少し心配している江。)

(大阪城。秀吉の家族会議。母は大政所、ねねは北政所、自分は関白、天子を除けば日の本一だと宣言する秀吉。無邪気に喜ぶ旭。百姓出のせがれが大それた事をとなげくなか。同意するおね。)

(その様子を盗み聞きをしていた江。江に自分を殿下様と呼べ、母とおねには江と呼べと命ずる秀吉。茶々はどう言っていたかと聞かれ、猿が関白になるなど信じられないと初の言葉を伝える江。これからあいさつに行くという秀吉の足を引っかけて倒し、姉たちはもう休んだと嘯く江。)

(8月、四国が制圧されたと聞き、秀吉が更に調子づくと感ずる江。)

(宮中での茶会を催した秀吉。彼の点てた茶を天子が飲むという破天荒が実現したのでした。)

(利休居士と名を改めた宗易。年が明けたらまた宮中で茶会を開く、そこに黄金の茶室を運ぶと相談に来た秀吉。黄金の茶室とは、すべてが金で出来ているだけでなく、折りたたんで運べる様になっているのでした。祝賀に来た大名の誰もが驚くが、家康だけが来ないのはけしからんと憤る秀吉。)

黄金の茶室は実在したもので、ドラマにあった様に宮中にも持ち込まれた様です。ただ、全てが純金製だったという訳ではなく、基本的な部材は木製で、要所要所に金を使ったものだった様ですね。そして、そこで使う道具類も純金製だった様です。ドラマでは利休は知らぬ振りをしていましたが、実際には利休が監修して制作に当たらせたとも言われます。

オリジナルの茶室は残っては居ませんが、私が知っているところでは大阪城天守閣で復元模型を見る事ができるほか、MOA美術館など何カ所かに模型がある様です。

(利休に茶を点ててやる秀吉。荒々しい見かけとは違って美味しい茶を味わい、驚く利休。茶の慰めがなければ、この世は闇だと嘆く秀吉。秀吉の型破りな茶に感服する利休。)

(浜松城。秀吉の使いに会わない家康。)

(家康の回答に憤る秀吉。駿府に移るのは領地を固めためだと家康の心底を見抜く秀吉。)

(信長の4男で自分の養子に貰い受けていた秀勝が病死し、茶々に詫びる秀吉。これからはますますやりたい放題だという茶々に、そんな事はしない、その証だと言って一人の若者を呼び寄せる秀吉。彼は姉、ともの子で、名を秀勝と改めて自分の養子にしたと紹介する秀吉。身内で回りを固めたいのだろうと秀吉の心底を言い当てる茶々。そのとおりだと認めながらも、名を継がせるのは亡き信長の思いを継ぐという事だと説明する秀吉。)

何人も秀勝が出て来てややこしいのですが、実はこの秀勝は3人目だったそうです。最初の秀勝は、長浜時代に生まれたという秀吉の実子で、南殿という側室との間に出来たと伝えられます。しかし、この秀勝は幼くして亡くなってしまうのですね。

ここで少し話が逸れますが、この最初の秀勝の存在が、後の秀頼が秀吉の実子である証拠とされています。あまた居る秀吉の側室の中で、子をなしたのは淀殿だけというのは不自然であり、秀頼は不義の子だとする説があるのですね。その反証として、秀吉の子を産んだ側室が他にも居たという実例としてこの秀勝の存在が主張される事があるのです。

二人目が信長の4男である於次丸でした。天正7年、於次丸12歳の時で、初代秀勝が死んでから3年後の事でした。順調に行けば秀吉の後継者とも成り得たのでしょうけど、天正13年18歳の時に亡くなっています。病死と思われますが、Wikipediaに依ると秀吉に依る暗殺説も囁かれているそうですね。

三人目が今回登場した小吉で、姉のともの子供であり、秀次の弟にあたります。2代目秀勝の後を受けて養子となり、その名も受け継いだ訳ですが、このややこしい襲名は秀吉の最初の子に対する思い入れが原因となっているのではないかとも言われています。この秀勝が江の二番目の夫となる訳ですね。

(江に向かって、家康を引っ張り出すと言う秀吉。身分が上がったのを良い事に何と姑息なと毒づく江。そこに現れた秀勝は秀吉に向かって言いたい放題の江に好感を抱いた様子です。)

(江に向かって、家康をおびき出す策を出せと言う秀吉。こちらの思いだけを通そうなど卑怯千万、自分の大事なるものを差し出してこそ相手も考えてみようという気にもなると答える江。勝手な事をとあきれる秀吉。その答えに感心する秀勝。)

(天正14年春。なかとむつまじく暮らすおね。それを見て、良き女房が居てこその男だと感謝する秀吉。その時、女房と何か思いついた秀吉。)

(夫婦仲むつまじい旭と甚兵衛。そこに良い話を持って来たと飛び込んで来た秀吉。)

(秀吉の妹を家康の正室にという話に驚く徳川家の人々。既に本人が来てしまっていると知り、あっさりと引き受ける家康。)

(三成から家康の回答を聞き、満足そうな秀吉。そこに飛び込んできて、旭を連れ戻せと憤る江。大事なるものを差し出せとと言ったのは江だと答える秀吉。甚兵平衛はどうなったかと聞かれ、5万石の大名になるのを断り、出奔したと答える三成。欲の無い男だとあきれる秀吉。秀吉のした事は自分に対する仕打ちよりももっと酷いと怒る江。そこに乗り込んできて、秀吉をしかりつけるなか。しかし、旭はすべてを承知の上で秀吉のためならと言って嫁に行ったと聞き、嘆くなか。)

旭の夫については、副田甚兵衛とする説と佐治日向守とする説があります。どちらもそれなりの根拠はある様ですが、決め手はない様ですね。確かなのは農夫だったという事だけで、離婚ではなくすでに死別していたという説や、離婚後切腹して果てたとする説、ドラマの様に5万石の加増を蹴って出奔したとする説などが混在しています。私的には、5万石を蹴って家を飛び出したとする説がしっくりと来るのですが、単に好みと言うだけで、何の根拠もありません。

(旭姫と対面する家康。気を遣う家康に、秀吉に会いに行って下さいと懇願する旭。それは出来かねると断る家康。自分を女として扱って欲しい、そうでなければ兄に従った事にはならないと迫る旭。それではあなたは人質だと言い、正室としての部屋を用意させた上で突き放す家康。)

旭は当時44歳だったとされます。人の生涯が50年だとされていたこの頃としてはもはや老齢と言って良く、正室とは名ばかりの文字通りの人質だったと言わざるを得ないでしょう。

(大阪には来ないという家康の返事に怒る秀吉。もっと大物でなくてはと言う秀吉に、旭を行かせた責めは自分が負うと言って自らが行くと言い出すおね。そこになかが現れます。)

(今度は母親が来たと驚く徳川家。新たな人質として母を送って来た事を知り、自分の負けだと笑う家康。)

(大阪城。空の茶碗をじっと見つめる秀吉。)

(10月、大阪に入った家康。その家康に会いに来た江。旭となかは息災だと言って、江を安心させてやる家康。)

ドラマでは触れられていませんが、家康が大阪に出た後のなかや旭に対する扱いは、かなり酷いものがあった様です。つまり、二人を一室に軟禁し、その部屋の周囲には薪を積み上げておき、いざとなったら火を掛ける用意をしてあったと言うのです。要するに、完全な人質扱いだったという訳ですね。

(そこに現れたおね。今更ながら関白就任を祝う家康。度重なる無礼を詫びるおね。母をすぐに帰して欲しいと願うおねに、今度は自分が来るつもりかと見抜き、良き女房殿を持っていると秀吉を羨ましがる家康。)

このおねが自分が行くと言い出したという話はあるのかしらん。聞いた事が無いのでたぶん創作と思われますが、ドラマのおねなら言い出しそうな感じではありましたね。

(そこにほっかむりをして現れた秀吉。彼は家康に願いがあると言い出します。)

(翌日、対面の席。群臣が居並ぶ前に座る家康に対して、椅子に座って傲岸に構える秀吉。前日の願いとは、皆の前で自分に頭を下げて欲しいという事でした。)

(その願いを聞き、忠義を誓い平伏する家康。鷹揚に構える秀吉に、その陣羽織をと願う家康。打ち合わせに無い家康の言葉に戸惑いつつ、これは亡き信長から貰ったものと知っての事かと問い掛ける秀吉。戦は臣下の者が引き受ける、関白殿下にはもはや戦道具は不要と答える家康。自ら陣羽織を脱ぎ、家康に着せながら、そっと良くやって呉れたと囁く秀吉。)

この秀吉と家康の狂言は実話とされます。秀吉は厳戒中の家康の宿所にわずかな供回りだけを引き連れて現れ、家康と対面を果たしたのでした。この夜は昔なじみとしてのみ振る舞い、その話の流れの中で翌日の狂言について頼み込んだと言われます。家康はその頼みを聞いて平伏してみせたのですね。ただ、陣羽織をねだったのは後日の事で、能見物中の事だったとも言いますね。

(香を焚きながら家康の芝居を評論する江達。家康にそんな芝居をさせるために、妹や母までを差し出すとはと憤る茶々。猿を悪く言ってくれるとほっとすると江。秀吉は父母の敵だと強調する茶々。そこに、秀吉から呼び出しが掛かります。)

(茶室で、茶を点てる用意をしながら利休と共に茶々を待つ秀吉。そこに茶々と一緒に現れた江。言いにくそうに、これまで茶絶ちをしていたと明かし、それが開けた暁には茶々に最初の茶を点てるつもりだったと言う秀吉。何の為にと茶々に聞かれ、それは身内に酷い振る舞いをした自分を罰するためだったと告白する秀吉。いぶかる茶々。しかし、母が無事に戻った事で自分を許したのだと涙ぐむ秀吉。何やら気持ちが動いた様子の茶々。彼女は秀吉の点てた茶を飲み干すのでした。感極まった様な秀吉。今度は茶々が茶を点てると言い出し、驚く江。)

(茶々の点てた茶を旨いと言って飲み干す秀吉。この半年、茶だけでなく茶々に会う事も絶っていたと明かす利休。)

(秀吉は大嘘つきだ、しかしその中に真があると自分にも判ったと言い出す茶々。騙されてはいけないと叫ぶ江。)

茶々と秀吉のからみは全て創作で、どういういきさつで側室にしたのかは判っていません。ただ、このドラマの流れならほろっと来るのも判る様な気はします。なお、秀吉が親孝行だったのは事実とされ、なかをとても大事にしていたそうですね。それを下敷きにした演出ですから、それらしく感じられるのも当然かも知れません。

2011年5月 7日 (土)

京都・洛中 ゑんま堂狂言 ~千本ゑんま堂~

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平成23年5月4日、千本ゑんま堂のゑんま堂狂言に行ってきました。毎年春の連休の期間中に行われる念仏狂言で、一度は見たいと思っていたのです。

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起源は平安時代の中頃にまで遡るとされ、当初は仏教の布教を目的として演じられた様ですね。その後、時代と共に宗教色が薄れて行き、演劇性の強い今の形態になって来た様です。

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京都の念仏狂言には、このゑんま堂の他に、壬生狂言・神泉苑狂言・嵯峨狂言があり、それぞれ登録無形民俗文化財や無形重要文化財に指定されています。などと判った様な事を言ってますが、正直なところ神泉苑と嵯峨については知らなかったです。いつか機会があったら是非見てみたいですね。

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ゑんま堂狂言は連綿とした歴史を持っていますが、昭和39年から49年にかけては一時中断していた様です。じっくりと見ると面白いのですが、かなり冗長かつ難解なところがあるのですよ。このため、判りやすくより刺激的なテレビの普及と共に観客が離れていったのだそうですね。その後、保存会の努力によって復活し、現在まで絶える事無く続けられています。

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演目は22あり、4日でこれを演じきる様ですね。この日の演目は、えんま庁、悪太郎、末廣、伯母ヶ酒、芋汁、土ぐも でした。

写真は最初のえんま庁で、台詞の無い無言劇ですね。ゑんま堂狂言は基本的に台詞があるのですが、このゑんま庁と芋汁のふたつの演目だけが無言劇なのだそうです。

罪人と間違えて善人の亡者を連れて来てしまった鬼が、そうとも知らずに亡者を虐めにかかります。この鬼が意地悪と言うか、亡者を虐めるのが楽しくて仕方がないといった様子なのですね。ところが、亡者が持っている巻物のせいで、どうにも上手くいきません。

そうこうする内に、えんま大王と帳付がやって来ます。鬼は亡者から巻物を取り上げて帳付に手渡したのですが、そこにはこの亡者が善人であるという証拠が記されていました。帳付は鬼の過失を責めてこれを戒めてしまいます。そして亡者に鬼の番を命じて、大王と共に帰っていきました。

すっかり立場が逆転した鬼と亡者でしたが、大王達が居なくなると鬼が再び強気になり、戒めを解いてまたしても亡者を虐めにかかります。しかし、やはり巻物の力には敵わず、最後は巻物を受け取る代わりに亡者を背負って極楽に連れて行く羽目になったのでした。

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こちらは末廣です。さる大名の家来である太郎冠者が、主人に命じられて末廣(扇)を買いに出かけます。ところが、末廣とは何かを知らなかったために、傘売りに騙されて傘を買って帰ってしまいます。これを知った大名は、太郎冠者の無能振りに腹を立て、かんかんに怒ってしまいます。

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困った太郎冠者は一計を案じます。主人が謡が好きな事を思い出し、様々な謡を謡ってみます。この主人、大名にしては乗りの良い人で、太郎冠者の謡に合わせて調子良く踊るのですね。しかし、その割には機嫌が直らず、一曲終わるごとに太郎冠者を叱りつけます。

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太郎冠者は、はり倒されつつも諦めずに謡い続けていくと、やっと主人もその心根を判ってくれて許して貰えたのでした。

ここまでの時間がおよそ1時間30分程だったのですが、この日は朝からの好天で、日差しが半端では無かったのです。そして観覧席は屋根が無く、直射日光を浴び続けていたので、遂に体力の限界を感じてしまいました。本当は土ぐもまで頑張りたかったのですけどね、倒れてしまっては元も子もないので、諦めて引き上げる事にしました。

公演は夜の部もあるので、最後まで見るにはそちらの方が良いかも知れません。

なお、観覧は無料で、写真撮影もOKです。

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もう一つ楽しみにしていた普賢象桜ですが、ほぼ終わりに近付いており、まだ咲いてはいるもののかさかさに乾いていました。その反面落花は少なく期待外れでしたね。もう2、3日早く行けば良かったのかな。ちょっと心残りですね。

2011年5月 6日 (金)

京都・洛北 賀茂競馬2011 ~上賀茂神社~

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平成23年5月5日、上賀茂神社において賀茂競馬が行われました。元は宮中で行われていた儀式だったのですが、1093年に堀川天皇が上賀茂神社に移して以来、連綿と続けられてきたという伝統の行事です。そして現在は葵祭の前儀の一つとして位置付けられてもいます。

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この日は朝の内は曇っていたのですが、昼近くになるにつれて青空が広がり初め、競馳が始まる頃にはまさに五月晴れという天気になっていました。まあ、そのおかげでじりじりと焼かれる様に暑かったのですけどね。

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なにしろ歴史が深いですから、行事にまつわる儀式が幾つもあり、当日の朝からは禊ぎやお祓いが何度も繰り返される様です。一般の観客が見られるのは馬が馬場に入って来てからとなりますが、そこからもいくつかの儀式やしきたりが繰り広げられます。

この写真は警護衆が馬場内を歩いているところで、行事が無事に行われる様に巡回しているのですね。この警護衆に扮しているのは小学3年生と4年生の児童達で、何とも可愛らしい出で立ちでした。

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警護衆の見廻りが終わると、乗尻が乗った馬たちが馬場を南下して来ます。この時、ジグザク型に9回馬場を横切るのですが、これは九折南下という賀茂悪馬流の流儀で、陰陽道の影響があると言われています。

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左方と右方の両方が九折南下を行い、入場を済ませるといよいよ競馳の始まりです。と言っても、いきなり走り始めるのではなく、馬を馬場に慣らせるために、三遅、巴、小振の儀という作法があって、何度も馬場を行ったり来たりします。

見方によっては本当にのんびりとした行事で、最初に馬が入ってきてからここまで一時間近くが経過しています。初めて見る人は、待ちくたびれてしまう様ですね。でも、この間が無いとただの馬の駆け比べになってしまい、風情が半減してしまう事でしょう。一連の動作の一つ一つの意味を考えながら見ていくと、時間なんてあっと言う間に過ぎてしまいますよ。

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競馳は左方と右方の二手に分かれ、それぞれ一頭ずつのつがいで行われます。ただし、一番目は左方が先に走り、ゴールした後に右方が走り出すという決まりになっています。これは、この競馬には五穀豊穣に関する神意を問うという意味があり、左方が勝つと豊作になるとされている事が関係しています。つまり、五穀豊穣が実現しやすい様に、必ず一番目は左方が勝つ様に仕組まれているのですね。

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二番目からは真剣勝負となり、前の勝負で負けた組が前方に陣取り、勝った組は二馬身程後ろからのスタートする事となります。この二馬身の差が縮まれば後の組の勝ち、縮まなければ先の組の勝ちとなります。

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スタートは二人の乗尻の冠が合った瞬間とされ、おうたー!のかけ声と共に駆け出します。でも、これが見ていて判り難いのですよ。一度は二頭が馬場尻に下がったと思ったらすぐにかけ声が掛かって、写真を撮る暇もなかった事もありました。

その様子は動画の方が判りやすいと思いますので、次を見て下さい。

ちょっと周囲の雑談の方が大きいですが、{おうたー!」という声が聞こえたでしょうか。

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今年の競馬のトピックスとして、中学三年生の乗尻デビューがあります。この写真の子がそうで、なかなか凛々しい姿ですよね。そしてデビュー戦で最古参の乗尻と戦い、見事に引き分けて見せました。きっと将来はこの競馬を背負って行って呉れる事でしょう。

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勝負の判定をするのはこの二人の後見で、差が縮まったかという事の他に、乗尻の技量が勝者として相応しいかなどを判断基準にしているそうです。

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勝った乗尻は禄という白布を貰い、これを身につけて馬場に隣接して設けられた頓宮(神様の仮御座所)に報告に行く事になります。これは最後の組が報告する時の様子で、引き分けだった事から二人揃っての報告となるのですね。

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今年は左方の3勝1敗2引き分けとなり、無事に五穀豊穣が約束されました。右方も手を抜かずに真剣に走った結果ですから、確かな神意と言って良いのでしょう。この神意が文字通りこの国に豊穣をもたらしてくれる事を祈りたいですね。

2011年5月 5日 (木)

京都・洛北 斎王代御禊の儀2011 ~下鴨神社~

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平成23年5月4日、斎王代御禊の儀が行われました。この儀式は、葵祭の無事を祈るためにヒロインである斎王代が身を清めるというもので、下鴨神社と上賀茂神社で1年置きに交互に開催されまています。

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下鴨神社における清めの場は御手洗池です。ここに特設の舞台を設けて、斎王代が両手の指先だけを水に浸すのですね。この間わずかに10秒程かな。

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まあ、御祓としてはそれで十分という事なのでしょう。次いで、濡れた手は用意してあった和紙で拭います。

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そして、拭った紙を池に浮かべると儀式は終わりです。雅ではあるけれど、儀式そのものはあっけいない程短いですね。

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次いで、女人行列の全員で、竹串による御祓が行われます。垂直に立てて持った竹串を、右、左の順に動かしてから息を吹きかけ、最後に竹串を折ってしまいます。この竹串を後で御手洗川に流すと御祓が終わった事になります。

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いつもの事ですが、女人行列の集合写真は華やかで良いですね。ちなみに、今年の斎王代は同志社大学4回生の金井志帆さん、お母様もかつて斎王代を努められており、二代続けての大役だそうです。

次に斎王代と会えるのは本番の15日となります。この華やかな姿を五月晴れの空の下で見たいものだと願っているところです。

2011年5月 4日 (水)

京都・洛東 新緑2011 ~高台寺道 4.30~

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高台寺道で見つけた新緑です。月真院と円徳院に挟まれたこの道は、もっとも京都らしい道の一つですね。ご覧の様に新緑を楽しむ人で溢れており、いかにも5月の連休らしい景色になっていました。

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その高台寺道のとっかかりにあるのが大谷本廟です。その背後の東山もまた新緑に覆われていました。

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高台寺公園まで来ると、まだ八重桜が花盛りで残っていました。今年の季節の進行が遅かったおかげですね。桜の種類はたぶん関山かな。

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そして、春光院ではドウダンツツジが満開になっていました。秋の燃える様な紅葉とは違ってとても地味な花ではあるのですが、かわいらしさと清楚な美しさを持ち、初夏の風情を良く現していると思います。

人通りが多くて大変ではあるのですが、やはりこの季節には外す事の出来ない素敵な道ですね。

2011年5月 3日 (火)

京都・洛東 新緑2011 ~知恩院 4.30~

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ずっと低温続きで季節の進行が遅れていた京都ですが、5月の声を聞く頃になってやっと新緑が鮮やかになってきました。

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ここ知恩院の黒門はようやく修理が終了し、再びその姿を現しました。よく見るとあちこちの部材に継いだ跡が見え、相当に痛んでいた様子が窺えます。修理が長引いていたのはそのせいもあったのかも知れませんね。

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今の知恩院は、元祖法然上人800年大遠忌で賑わっています。儀式そのものは秋に延期になったのですが、御影堂や阿弥陀堂の前にはスロープが設置され、三門には渡り廊下が接続されるなど雰囲気が随分と違っていますよ。

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そんな中でも、勢至堂にまで足を運ぶ人は少なく、静かな空間が広がっていました。新緑もご覧の通り鮮やかなものでしたよ。

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その勢至堂の上には法然上人の遺骨を奉安してある御廟があります。実はここに来るのは初めてなのですよね。御廟そのものには入る事が出来ませんが、その手前の拝殿には上がる事が出来ます。ここに来ると展望が良く、新緑と一緒に京都の町を眺める事が出来ますよ。

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御廟の背後の山では桜が咲いていました。これはたぶん霞桜でしょうね。北野天満宮の霞桜の様な華やかさはありませんが、新緑の中で咲き誇る様は晩春の風情の一つと言えるかも知れません。

2011年5月 2日 (月)

京都・洛北 競馬会足汰式2011 ~上賀茂神社~

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京都の五月と言えば葵祭の季節です。この期間中、上賀茂、下鴨両神社では様々な行事が行われるのですが、その冒頭を飾るのが足汰式です。

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足汰式とは5月5日に行われる賀茂競馬の予選会の様なもので、この日の馬の調子や乗尻の技量を見て、当日の組み合わせが決められるのです。

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この鞭を上げている動作は神にこの行事を捧げるという意味があり、この日は単独走の時にだけ行われていました。5日の当日には最初に走る2頭の乗尻だけが行うのですが、非常に高い技量が要求されると言われ、この足汰式にはその選別の意味もあると思われます。

なお、5月15日に行われる走馬の儀には、全ての乗尻がこの所作を行います。

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足汰式に来たのは2年ぶりの事になるのですが、今年は観覧席が有料になっていました。以前は自由に見る事が出来たのですけどね、あまりに有名になって観客が増えたからでしょうか。

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でも、この日は雨模様だったので、テントの中に入れるのは有り難かったです。傘を差して1時間以上も待ち続けるのは大変ですからね。そして、上賀茂の神様の力なのでしょうか、行事が始まる頃には雨も上がってくれたのです。

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しかしながら、テントの中での観覧マナーは酷かったです。後ろでは見えないと言って平気で人の前に立つし、馬が走り出すとカメラマンが一斉に乗り出すしで散々でした。

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そんな中で、私も勢い立たざるを得なくなったのですが、結局は自分も迷惑を掛けている事に嫌気が差して、何度か写真を撮ってから奥の人に席を譲って外に出ました。で、そのまま帰るつもりだったのですが、意外な事に勝負の楓の前という特等席が空いていたのです。そこに居た神職さんがどうぞと譲ってくれたのですが、おかげで様で最後までじっくりと楽しむ事ができましたよ。

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私が居たのは埒のすぐ前だったのですが、勝負の楓というゴール地点という事もあって馬のスピードが乗っており、それはそれはもの凄い迫力でしたよ。地響きを立てて馬が迫ってくる様は、ちょっとした恐怖心を感じる程でした。

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中でも、ある一頭の馬は馬場を斜めに横切って、まっすぐ私の方に突進して来るのです。凄い、真っ正面から撮るなんて始めてだと喜んでいたのですが、どこまでも一直線に迫って来るのですね。だんだんと怖くなって思わず後ずさりをしたのですが、埒ぎりぎりまで迫った後、ようやく方向を変えて、馬場尻に向かって去って行きました。

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横にいた神職の人に、馬はカメラのレンズが気になって迫って来るんだと言われたのですが、なるほど写真を整理しているとカメラ目線の馬が結構居たのです。要するに、疾走中もレンズが気になって仕方がなかったという事なのでしょう。

これって、下手をすると事故に繋がりかねないという事であり、カメラを構える時には心して置かないといけないという事ですね。写真を撮るのは良いけれど、馬を刺激しない様に細心の注意が必要な様です。

2011年5月 1日 (日)

江~姫たちの戦国~16 関白秀吉

(大阪城。母、姉、妹の再会を喜ぶ秀吉。)

(秀吉の身内のみすぼらしさに顔をしかめる初。あいさつに行こうと言う江。同意する茶々。)

(江達にぎこちなくあいさつする木下家の人々。江達を紹介する秀吉。ざっかけない秀吉の身内達。彼女達を前に将軍になると宣言する秀吉。あきれる人々。百姓出が将軍になれる訳がないと斬り捨てるなか。)

(一人、秀吉は将軍に相応しいと主張する三成。身内の中でただ一人賛同する旭。たわけがとあきれるなか。)

(秀吉のねらいは茶々にあると龍子。なるほどと思う江達。そうなれば気持ちが傾くかと聞かれ、懸命に否定する茶々。)

(江に将軍になるための知恵を出せと迫る秀吉。無理だと断る江。なんとかせよと命ずる秀吉。無理矢理、前の将軍義昭に頼めと答えを出す江。怒りながらも、なるほどと思う秀吉。)

(秀吉を猶子にと頼まれ、怒りに震える義昭。百姓上がりが源氏などなれるはずもないと秀長に向かって居丈高に断る義昭。)

この頃、義昭は毛利氏の庇護を受けて備後の鞆に居ました。実はそこまでは知らなかったのですが、Wikipediaに依れば、この時はまだ征夷大将軍の座にあったのだそうですね。すると、秀吉が義昭の養子になろうとしたのは、ドラマの様に単に源氏の一族になるという訳ではなく、足利幕府の16代目将軍になろうとしたというニュアンスになるでしょうか。ただし、この話は有名ではありますが俗説という意見もあるらしく、どこまで史実かは判りません。

(江とおねを前に、怒りにまみれる秀吉。おねから諫めて欲しいと頼まれた宗易。義昭を一泡吹かせる手はないかと言い出す秀吉。義昭より偉くなるより無いと江。帝にはなれないと秀吉。帝の次に偉いのは誰と聞く江。それは関白だと答える宗易。その為には五摂家の養子か猶子になるしかないと聞き、関白にならなれるかも知れないと気付く秀吉。無理だと諫めるおね。無理は人の心が作るものだと宗易。それを聞き関白になると宣言する秀吉。)

(猿が関白になれるわけが無いと初。同意する茶々達。)

(近衛龍山に養子の件を持ち込んだ秀吉。その引き替えに孫を前子を養女に迎え、行く行くは帝の后に据え、そして近衛家には千石を寄進すると条件を提示する秀吉。そして、手みやげとして豪勢な金銀を持参したのでした。)

(近衛家に取り入った事を知る家康。あいさつに行った方が良いのではないかと進言する正信。その必要はないと家康。彼は本拠を駿府に移し、北条や伊達と結ぶつもりだと日本を二分する構想を披露します。)

(大阪城で畑仕事をするなか。摂関家の養子になったと自慢する秀吉。無関心ななか。)

(養子の次の手を考える秀吉。立身出世はもう沢山だと言うおね。ここまで来て止められないと秀吉。)

(秀吉の下を訪れた忠興とたま。彼は復縁を許してくれた礼に訪れたのでした。鷹揚に構えながらも、たまの美しさに目を付ける秀吉。)

これもどこまで史実かは判りませんが、秀吉はたまの美貌に目を付けていたと言われます。忠興はその秀吉の好色から守る為にたまの外出を禁止し、事実上の軟禁状態にしていたとされますね。そのあたりのエピソードが今後出て来るのでしょうか。

(たまに会いに来た江達。父、光秀が本能寺の変を起こした事を詫びるたま。女には関係の無い事だと水に流す茶々。かつての日々を懐かしむ江達。幽閉されていた日々の苦しさを語るたま。それを救ってくれたのは耶蘇教でした。今は何よりデウスが大事と語るたま。江にも信心の道をと進めるたま。今暫くは自分の力を信じてみたいと江。もっとキリシタンの話をとせがむ初。)

(宗易に茶道を習う忠興。忠興に関白になるための手だてを相談する秀吉。二条関白に龍山の息子、信尹が隠居を迫っており、このままでは朝廷を巻き込んだ争いになるかも知れないと伝える忠興。それだと礼を言う秀吉。)

(近衛家に行き、自分が関白になった後はいずれその地位を信尹に譲ると切り出す秀吉。なぜ百姓風情が関白にと見下す信尹。前に倍する金銀を見せる秀吉。二条と近衛で争えば恨みが残る、しかし前例の無い武家関白なら禍根は残さないと三成。さらに他の摂関家にも500石寄進すると秀吉。)

摂関家の争いに秀吉が乗じたのは史実の様ですね。さらに調べてみると、その争いの原因となったのは他ならぬ秀吉に対して与えられるべき官位にありました。

この時、秀吉の官位は内大臣だったのですが、天下人には軽すぎるとして右大臣に任命しようとする動きが朝廷内にありました。ところが、秀吉がこれを嫌がったのです。信長が討たれた時に就いていた官位が右大臣で、縁起が悪いと難色を示したのですね。その代わりとして、秀吉は一足飛びに左大臣への昇任を要求したのですが、この時の現役の左大臣が信尹でした。朝廷では秀吉の権勢に逆らう術はなく、信尹に辞任を求め、いずれ二条関白が引いた後は彼を関白に据えようと考えた様です。二条関白は就任後まだ半年で、信尹と一緒に辞職を求めるには早すぎたのでした。

ところが、今度は信尹が難色を示します。関白への就任にあたっては、「前」左大臣という肩書は前例が無いというのです。そこで彼は二条関白に隠居を迫り、早期の関白就任を目指したのでした。しかし、二条関白にしてみると、わずか半年で関白を退いたという前例が無く、やはり譲る訳には行かないのでした。

この内紛に目を付けたのが秀吉で、ドラマにあった様に自分が関白に就く事で事態を収め、その後は信尹に譲るという案を示して近衛家の了解を得たのでした。

(関白宣下の内示を受けた秀吉。)

(衝撃を受けて倒れる義昭。)

(関白宣下に驚く茶々達。そこに公家姿で現れ、関白になると告げる秀吉。祝いを言う茶々。その言葉を聞きたかったと秀吉。わざわざそのために京都から戻ったのかと驚く江。身内のためだと茶々。それはこれからだと答える秀吉。)

(秀吉の本気を知りとまどう茶々達。ますます秀吉が嫌いになったと茶々。その一方で、関白とてはたいしたものだとも言う茶々。不安を覚える江。)

ドラマでは茶々に認めて貰うために関白を目指したと描かれていましたが、無論史実ではなく、政権のバックボーンとして朝廷の権威を利用しようとしたのですね。武家政権の象徴である征夷大将軍には源氏しかなれず、それに代わるものとして朝廷に目を付けたのでした。

このドラマの筋書きでは、関白就任が非常に矮小化されている印象を受けてしまいますね。浅井三姉妹に焦点を絞っているのでこうなるのでしょうけど、少し茶々にスポットライトを当てすぎているという気がします。

京都・洛東 戒壇めぐりと一初鑑賞会 ~得浄明院~

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大型連休二日目は、一初を求めて得浄明院を訪れてきました。普段は非公開なのですが、毎年一初が咲くこの季節には一般公開が行われているのです。

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得浄明院があるのは知恩院の境内のすぐ隣になります。一見すると知恩院の塔頭の様に思ってしまうのですが、この寺は浄土宗ではなく信州善光寺の別院であり、場所が近いというだけで直接の関係は無い様ですね。

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得浄明院への道すがら、見事な木香薔薇が咲いていました。今年は寒い日が多いため開花が遅れる花が続出する中で、この木香花はペースを守っている様です。丁度花盛りに当たったらしく、とても綺麗な花でしたよ。

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そして肝心の一初ですが、これがあまり咲いていないのですよ。平野神社ではそこそこ咲いていたので期待していたのですが、全部で10数輪程が咲いていただけでした。ただ、つぼみそのものが無かった昨年に比べると、今年はまだ遅れているだけの様子なので、これから先は期待出来ると思います。

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今年は特別展として、和紙制作者の山崎吉左衛門さんと折師の山根一城氏による壇紙の展示が行われています。残念ながら私は見る事が出来なかったのですが、折形の実演も行われている様でした。

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ややこしいのは、この一初鑑賞会とは別に古文化特別公開展が開かれている事で、受付が二つに分かれてはいるものの、事情を知らずに来た人は、きっととまどう事でしょうね。特別公開では作者不詳の孔雀の屏風や開山ゆかりの人形等を見る事が出来ますが、わざわざ見に行くほどでも無い様な。

戒壇めぐりは例年通り行われています。何度体験しても、何も見えない暗闇には慣れる事がないですね。それだけに、最後に錠前を見つけた時は嬉しくなりますよ。それだけに御利益も大きい様な気がしますと言ったら、罰が当たるかな。

(写真は知恩院の塔頭で咲いていた霧島ツツジです。この花も気候に振り回されずに咲いていますね。こうなると、曼殊院の花がどうなっているかが気になります。)

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