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2011年2月

2011年2月28日 (月)

新選組血風録の風景 ~菊一文字 その3~

(その内に有力な情報が入った。西三本木の床見世の主人が陸援隊に居ると密偵に話したのである。背丈は5尺5寸、面長であごがのどまで垂れているのが特徴だと言う。土方は沖田に、そんな面相だったかと聞いてみた。しかし、沖田は後を見ずに逃げたので覚えていないと言う。)

(陸援隊は土佐藩を母藩とした勤皇集団である。土方は近藤に討ち入るかと持ち掛けた。しかし、近藤はそれは無茶だと言う。土佐藩の実権を握る容堂候は熱心な佐幕家であったが、その配下の下級武士には過激な勤皇派が多かった。脱藩して勤皇活動に身を投ずる者が多く、新選組が斬った浮浪の中では土佐脱藩浪士が最も多い。この複雑な藩情を持つ土佐藩を幕府は刺激したく無かった。)

土佐藩の藩情が複雑だった事は、龍馬伝の中で何度も触れられたとおりです。繰り返して言えば、土佐藩では土着の士族である郷士が下士として卑しまれ、関ヶ原の後に掛川から来た支配者たる山内家とその与党である上士と対立していました。幕末期においては、山内容堂を初めとする上士層は主として佐幕派だったのに対して、下士は主として勤皇派に属しており両派はことごとくに反目しあっていたのです。そして、勤皇派の多くは脱藩して浪士となり、長州藩や薩摩藩を頼って勤皇活動を続けていました。

新選組血風録においては新選組は殺戮集団であるかの様に描かれていますが、その主任務は過激派の捜索と捕縛にあり、実際に「浮浪」を斬ったのは10数人です。その大半は池田屋事件におけるもので、それ以外だと本当に数名程度ですね。

ただ、斬られた志士の中で割合的に土佐藩士が多いのは事実で、石川潤次郎(池田屋事件)、北添桔麿(池田屋事件)、大利鼎吉(ぜんざい屋事件)、藤崎吉五郎(三条制札事件)が斬られています。これに池田屋事件で負傷し切腹して果てた望月亀弥太を加えれば5名になりますから、およそ三分の一は土佐藩士だった事になります。

(近藤は陸援隊のある白川屋敷は土佐藩の別邸であり、襲えば戦になると言う。土方は利口になったものだと皮肉を言う。かつては池田屋に斬り込み、その後の蛤御門の変を引き起こして京都を灰燼にしてしまった事がある。その近藤が土佐藩への配慮などと言っているのが土方には片腹痛かった。あの頃とは時勢が変わったのだと諭す近藤。)

作品中の時期の設定については何も書かれていませんが、陸援隊が白川別邸に入ったのが慶応3年7月の事ですから、それ以後という事になりますね。この頃の情勢は、武力討幕を狙う薩長と大政奉還路線を推進する土佐藩という構図があり、幕府としては土佐藩を敵に回す訳には行きませんでした。

一方、陸援隊は明確な討幕指向を持っており、新選組としては目障りな存在だった事でしょう。しかし、陸援隊は土佐藩の支援を受ける組織であり、その隊長である中岡慎太郎は正規の土佐藩士、その本部は土佐藩別邸でしたから、無闇に手入れをする訳にも行きませんでした。その対策としてか、新選組は陸援隊に密偵を入れて情報を探っていた様ですね。

池田屋事件の頃にはまだ幕府の屋台骨も残っていましたし、薩摩藩は友軍として振る舞っていました。切り込んだ先は民間の旅籠ですし、取り締まる相手は京に居るはずのない長州藩士と「浮浪」でしたから、条件がまるで異なります。

作者はこうした背景を踏まえて書いている訳で、現実の土方もこんな無茶は言わなかった事でしょう。

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(土方は道伯を屯所に呼んだ。沖田のために菊一文字を買い上げるつもりだったのである。値を申せと居丈高に言う土方。むっとしながらも、1万両と答える道伯。舐められたと声を上げそうになる土方。その機先を制して、まずは聞いて貰いたいと手を上げる道伯。)

(1万両とは、道伯が菊一文字に惚れ抜いた気持ちを表したもので売値ではない。道伯は沖田にも惚れており、気に入ったのなら差し上げるつもりで居た。今その気持ちが確かめられたので、改めて沖田に貰って頂くと道伯。毒気を抜かれた土方は、隣室で寝ている沖田に声を掛けた。)

(沖田は隣室で話を全て聞いていた。しかし、土方がいきさつを説明するのを聞いて無邪気に喜んで見せた。土方から花橘町の一件を聞いた道伯は、沖田が持って生まれた才能に比べれば菊一文字など下品だと言い、竹刀でも使い捨てるつもりで使って欲しいと言う。沖田は自分の物だと思えば苦にはならないと答える。)

(しかし、沖田はその後も菊一文字を使わなかった。刀は良い物を使わなければならないという持論を持つ近藤は、しつこく菊一文字を使う様に勧めた。それでも沖田は使わない。)

(沖田は労咳という死の病に罹っている。あと余命はいくらも無い事も知っていた。傍目には明るく振る舞っていた沖田だが、心の奥底では別な感情が生まれていた。菊一文字は700年もの間生き続けた。刀は戦闘に使われるものである事を考えれば、それはほとんど奇跡に近い。沖田は自らの死が近い事を受け入れつつ、菊一文字はあと700年も生き続けよと祈る様な気持ちになっていたのである。)

先日北野天満宮に行った時に、宝物館で備前の古刀と一文字派の古刀を見る事が出来ました。無論菊一文字とは違うのですが、大きく見れば同じ系統に属する刀で、興味深く見せて頂きました。確かに細身で反りが浅いですね。以前に見た和泉守兼定などとは趣を異にしている事は確かで、激しく打ち合うと折れてしまいそうな感じはします。しかし、繊細な美しさを有しており、どちらかというと美術品的な感じがしますね。

見るからに鋭利そうではありますが実戦向きとは思えず、だから大事に保管されて来たのではないかという気がしました。これが則宗ともなると一層この傾向が顕著だと思われ、沖田ならずとも人斬りに使いたいとは思わない事でしょうね。

以下、明日に続きます。

京都・洛中 京都梅事情2011 ~京都御苑 2.26~

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平成23年2月26日の京都御苑です。この日は梅林の梅が咲き揃いはじめ、やっと見頃になりつつあるところでした。

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京都御苑の梅林には約200本の梅があると言われますが、この日は約半分近くの木が花を付けていました。そして、満開になっていたのが5本ほどで、中でも出水の小川のほとりの紅白の梅が見事でしたよ。

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今年の展開はやはり遅く、去年に比べると一週間近く遅れている様です。きっと寒さが厳しかった事が響いたのでしょうね。

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見頃になるのは今週末くらいからかと思われますが、また少し冷え込むとも言いますので、実際にどうなるかは判りません。もう寒さは要らないのですけどね、まだ三寒四温の季節ですから仕方が無いのでしょう。

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そんな中で、春の使者オオイヌノフグリを見つけました。小さな花ですが、これを見つけるとなぜか嬉しくなるのですよね。ほとんどの人が梅を見上げている中で、一人地面を撮っているというのも変なものでしたが、この可愛らしくも美しい花もまた、愛でてあげて欲しいものだと思います。

2011年2月27日 (日)

江~姫たちの戦国~8 初めての父

「天正10年秋、北庄に移る準備をしている市達。しかし、母の再婚に反対する茶々達は、婚礼の宴には出ないと駄々をこねています。」

「祝言の宴。結局は出席した三姉妹。しかし、勝家のおどおどとした態度に嫌気が差す初達。」

「山城、山崎城。市と勝家の婚礼を聞き、柴田憎しの思いを強くする秀吉。しかし、勝家さえ倒せば、我らの下に戻ってくると息巻きます。」

「北庄への途上、小谷城に立ち寄った市達。物心付いてから自分の生まれた城を初めて見た江。祈りを捧げる市。父、長政は再婚を許しはしないと茶々。そんな心の狭い人ではないと市。見納めにと琵琶湖を眺める市達。」

「北庄城。到着した市の一行。走って市の下に駆けつける勝家達。城普請の事で遅れてしまったと詫びを入れる勝家に、もはや遠慮は無用と申し入れる市。娘達のご機嫌を伺う勝家。あくまで父とは認めぬと突っぱねる茶々と初。とまどう江。」

「勝家の用意した膳部に手を付けない茶々。それに倣う初。娘達をたしなめる市。おどおどとした勝家を父として立てようとする市。」

「家康の下を訪れた信雄。力を貸してくれと頼む信雄にまだ動くなと忠告する家康。」

「山崎城。宗易から信雄が家康と会った事を聞く秀吉。しかし、家康は動かないという宗易の観測に、次の相手は勝家と断を下す秀吉。勝家を討つのは天下取りの布石かとかまを掛ける宗易。それのどこが悪いと口走ってしまう秀吉。天下人ぼくろというものがあると言って、秀吉の顔を眺め回す宗易。嬉しそうにどこだと聞く秀吉。忘れてしまったととぼける宗易。」

「香道を楽しむ市達。山に行かないかと誘いに来た勝家。気分が優れぬと部屋を出て行く娘達。娘に遠慮をするなと市。遠慮がちに、多少なりとも自分に思いを寄せて欲しいと願う勝家。呆然と取り残される市。」

「娘達に、勝家の妻となる、心より勝家を迎い入れ、共に暮らしていくと宣言する市。自分の父は長政一人であると反発する茶々。同意する初。」

「二人の姉に、自分は誰も父と呼んだ事がないと訴える江。呼びたいのなら勝手にしろと突き放す初。」

「勝家の下を訪れた江。父と呼びかけますが、どうしても言葉になりません。笑顔を見せる勝家に反発を感じて部屋を出てしまう江。」

「むしゃくしゃした挙げ句、馬を引き出す江。危ないと止める与助。振り切って飛び出していく江。慌てる与助。」

「野道を駆ける江。なぜ父上と呼べぬのかといらつく江。轟く雷鳴。」

「江が居なくなったという知らせに驚いた勝家は、城下、近郷も探せと下知を飛ばします。」

「降り出した雨の中、道に迷っている江。雷鳴に驚いて暴走を始める馬。」

「北庄城。心配する勝家と市。そこに与助が連れてこられます。江は馬に乗って東に向かった、後を追ったが山の中で見失ってしまったと土下座して謝る与助。あの辺りには熊や狼が多いと口走る盛政。馬を曳けと言って、自らも捜索に出る勝家。私もと言う市に、江が城に戻るかもしれないと言って引き留める勝家。」

「雷鳴を聞き、浅井の父上がお怒りだと叫ぶ初。つまらぬ事を言うなとたしなめる市。今は江の無事を祈ろうと茶々。」

「夜道を行く江。聞こえてくる狼の遠吠え。」

「江を探す勝家達。」

「夜明け。徹夜で江の帰りを待っていた市達。捜索から帰った勝家。自分がちゃんと見ていればと詫びる市。命に代えても見つけ出してくると再び出て行こうとする勝家。その言葉に感ずるものがあった様子の茶々。」

「そこに江が無事に帰ったという知らせが入ります。江の下に駆けつける市達。」

「雨の中、道に迷って荒れ寺に居た、疾風のおかげで戻ってこられたとにこやかに話す江。いけしゃあしゃあとした江の態度を見て、自分のした事が判っているのかと張り飛ばす勝家。驚く江達。江を馬場に連れ出す勝家。」

「与助に江が無事に戻ったと告げる勝家。まことにめでたいと這い蹲る与助。江を跪かせ、詫びよと叫ぶ勝家。もし江が戻らなかったら、与助の首は無くなっていたと聞かされ、両手を付いて謝る江。恐れ入って逃げていく与助。上に立つ者の心得を説く勝家。その上で、無事で良かったと江を抱きしめる勝家。男泣きをする勝家の背中に、そっと手を回す江。その様子をしんみりと眺める市達。」

「すっかりうち解けた茶々達と勝家。京からの土産を茶々達に分け与える勝家。はしゃぐ茶々達。団欒の一時。」

「山崎城。信長の葬儀を行うという秀吉。家来衆はどうするのかと聞くおねに、勝家は招かない、後で知れば怒るだろう答える秀吉。どうしても戦がしたいのかと聞くおね。見ておれ、勝家とつぶやく秀吉。」

「北庄城。貝合わせに興ずる勝家と市達。すっかり打ち解けた楽しい時間。」

今回は母の再婚と新しい父、それに反発する娘達という命題でした。良くある命題で、良くある解決パターンで収まったというところでしょうか。この回って、必要だったのかしらん?三文芝居と言ったら酷評に過ぎるかな。

たぶん、せっかく掴んだ幸せを、またしても秀吉によって奪われるという悲劇性を強調したいのでしょうね。

この時、勝家は62歳ですから、当時としては老人と言っても良い年でした。ですので、父と言うより祖父と呼んだ方がぴったりと来る感じかな。北庄で江達がどの様に暮らしていたのかは判りませんが、こんな団欒は無かったでしょうね。でも、後に市は勝家と最期を共にしているのですから、それなりに夫婦の情愛はあったのかも知れません。そのあたりから派生した創作なのでしょうか。

勝家は初めて父となった様に描かれていましたが、実子が居たのかどうか良く判らない様ですね。養子には勝豊と勝政が居て、勝政の家系が徳川家に仕えて旗本として続いた様です。Wikipediaに依ると、勝里、勝忠という実子が居た事になっていますが、詳細は判らない様ですね。さらに勝春という養子も居た事になっていますが、実子だという説もあるらしく、何だか謎だらけの様です。これほど名の知られた武将にしては珍しい事ではないでしょうか。

養女は居たらしいので、娘に対するのは初めてではなかったはずですね。まあ、主筋となると色々と難しいのでしょうけど、あまりにへりくだり過ぎですし、あまりに豹変し過ぎです。こういうのが作者好みの男性なのかなあ。

それにしても、秀吉は悪人として描かれますね。まあ、江を主軸にしているのだから当然か。この人物もまた、いつか江によって見直される日が来るのでしょうか。

京都・洛中・洛北・洛東 京都梅事情2011 2.26

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平成23年2月26日現在の梅の開花状況をテキストベースでお届けします。全体として開花の進行は遅く、昨年よりも5日から6日程度遅れている様です。

1.下鴨神社
開花は着実に進んでいますが、咲き具合がおかしく、今年は綺麗にはなりそうにない状況です。現在咲いている花はかなりまばらで、見た目は寂しい状況にあります。一方、蕾の部分はまだ堅く、咲くまでにはもう少し時間が掛かりそうです。つまり、一斉に花が咲くという華やかな状況にはなりそうにはなく、残念ながら今年は外れ年と言わざるを得ないと思われます。

ただ、花そのものは綺麗ですから、実力の片鱗を見る事は出来ますよ。

2.京都府立植物園
梅林はやっと咲き揃ってきた所です。昨日現在で3分から5分咲きといったところでしょうか。木によっては満開になっているものもあります。

北山門の梅林はピンクの梅がかなり咲いてきました。白梅は2分咲き位、紅梅はやっと咲き出したばかりです。あと、枝垂れ梅が3分咲き位かな。全体として、見頃まであと少しといったところでした。

3.水火天満宮
白梅は盛りを過ぎたものの、まだ見頃を保っていました。紅梅はほぼ満開になっていますが、花付きが良いとは言えず、ちょっと寂しい感じがします。鳥居脇のピンクの梅はかなり咲いてきており、見頃まであと少しといったところでした。

4.北野天満宮
早咲きの梅はほぼ満開、中咲きの梅が3分から5分咲きとなって、境内は華やかな雰囲気に包まれています。これから暫くが一番の見頃となるでしょうね。梅苑は7分咲きという表示がありましたが、相当に混雑していそうだったので入っていません。外から見た限りではやはり華やかになっていましたね。

たぶん前日の梅花祭のニュースが流れたせいでしょう、人出もぐっと多くなっており、こちらも花盛りでしたよ。

5.祐正寺
ここの枝垂れ梅は3分咲きくらいかな。蕾は沢山付いており、順調に膨らんでいる様に見えたので、間もなく見頃になると思われます。

6.京都御苑
200本ある梅のうち100本が咲いているそうです。うち、満開になっているのが5本程度だとか。全体としてはまだ物足りなくはありますが、部分的には見応えがありますよ。見頃はやはり来週末位からかな。

7.祇園白川
白梅、枝垂れ梅共に咲いています。ただ、白梅については花付きが悪く、ちょっと寂しい感じがしますね。枝垂れ梅はまだこれからといった感じでした。

8.高台寺
台所坂南側にある白梅が満開になっています。ただ、行ったのが日暮れ後だったので、全体の雰囲気は今ひとつ掴めていません。

2011年2月26日 (土)

新選組血風録の風景 ~菊一文字 その2~

(新選組屯所。土方と話をしている沖田。)

(戸沢に襲われた後はどうしたのだと聞く土方。逃げたと答える沖田。その理由は菊一文字を傷付けたくなかったためだろうと見当を付ける土方。)

(一度この刀の姿を見てしまったら、とても血を吸わせる気にならないと言いながら菊一文字を抜き、床に置く沖田。自分の和泉守兼定を抜いて菊一文字の横に並べる土方。二本の刀には格段に品位の差があり、隠君子の風情がある菊一文字に対して兼定は野武士の相好であった。)

(そこに近藤が入ってきた。虎鉄をここに並べてくれと頼む沖田。気軽に言うとおりにしてやる近藤。虎鉄には怒味と無骨味があり、如何にも人切り包丁という凄味を持っている。しかし、鎌倉古刀である菊一文字の持つ、神韻縹渺とした品位はまるで無い。)

(近藤の目には菊一文字は細すぎると映った。しかし、沖田が気に入っているのなら隊費で買ってやれと土方に言う。しかし、折角持たせてもと花橘町の一件を話す土方。物惜しみする子供の様な奴だと笑う近藤。少し違うなと土方。)

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(白川、陸援隊本部。戸沢が沖田の噂をしている。戸沢はこれまで何度か新選組隊士に戦いを挑み、その都度倒して来たという履歴がある。沖田は新選組随一の使い手であり、戸沢を前にして背を見せて逃げせしめたというのは何よりの手柄であった。)

陸援隊本部があった土佐藩邸は、今の京都大学農学部のあたりだとされます。京都時代MAPという資料に依れば、この写真の左手のあたりに本部があった事になりますね。戸沢は創作だとしても、ここを中岡慎太郎が根城にしていたのかと思うと感慨深いものがあります。

(戸沢の得意技は、すれ違い様に刀を跳ね上げて顔をかすめ斬りにし、相手が怯む隙に右袈裟に斬るというものであった。戦った相手は、この技で必ず倒して来た。今夜は沖田を遁走させた事で、自慢の声が一段と高い。)

(その戸沢の気勢を削ぐ様に、鼻の大きな男が「危うし、危うし」と言う。戸沢がなじると、剣技には絶対の強者は居ない、達人と言えども格下の者に撃たれる事もありうる、剣は容易に弄るものではないと忠告する。しかし、戸沢には通じない。)

(鼻の大きな男は熟蝦夷先生と言った。羽前の人で、無関流という流派を編み出したという人物である。清川八郎が同郷の縁で京都へ呼んだが、志士活動はせず、国学の塾を開いて暮らしていた。陸援隊が結成された時、その隊長である中岡慎太郎が客分として招いたので今は白川に居る。)

「熟蝦夷」って何だろうと調べてみたのですが、古代の東日本に盤踞していた蝦夷の中でも、大和政権に従順だった種族の事を指すのだそうです。それを雅号にしているというのはどういう事なのでしょう?羽前の人という設定ですから、蝦夷の血を引いている人物という意味でしょうか。それとも、見かけは穏やかだけれども、実は本性は勇敢で一筋縄では行かないという謎かけか。あるいは単に語感だけで付けたとも考えられますね。

無関流というのは、槍術や柔術にはその名の流派が実在している様ですが、剣術には見あたらない様です。如何にもありそうな名前なので、もしかしたら過去には存在していたのかも知れませんね。

(しかし、道場に出て一人で型の稽古をしているだけで、他には何もしないで居る。せいぜい陸援隊の看板に文字を書いた程度であった。戸沢などが稽古のためと言って立ち会いを求めても、防具の付け方も知らないと言って相手にならない。なので、誰もその実力の程は知らなかった。)

(新選組屯所では、土方が戸沢を捜せとやっきになっていた。隊士が何人も犠牲になっており、すべて顔をかすめ斬りにされた後、右袈裟を斬られている。戸沢の仕業である事は明かであった。)

私の知る限りではですが、巡察中に殉死した隊士は一人も居なかったと思います。隊士の死亡率は確かに高いのですが、その死因は池田屋事件などの作戦行動あるいは戦争に依る死傷、または内部粛正などの事例がほとんどで、まれに病死がある程度かな。基本的に巡視は複数人で行われており、単独行動はまず無かった事でしょう。

では私的な時間ならどうかと言うと、間男に襲われた田内知の事例があります。彼の場合は斬り殺されはしなかったものの相手を無傷で捕り逃がしており、後に士道不覚悟の科で切腹を言い渡されています。

また、他の事例としては、沖田、永倉、斉藤といった三人の猛者が、土佐藩の片岡源馬と十津川郷士の中井庄五郎の二人組みに絡まれて四条橋で斬り合ったという事件があります。この時片岡達は酔っていたがために沖田達に挑んで行ったのであり、相手が新選組隊士であるとは全く気付いていませんでした。

恨みによる襲撃を受けた例としては、近藤が御陵衛士の残党に狙撃された事件が挙げられるでしょうか。相手を新選組隊士である事を知りつつ路上で襲い掛かったのは、この一件だけかも知れません。ただ、これも内部抗争の延長だとも言えますけどね。

いずれにしても、この作品の様に新選組隊士を相手に襲撃を繰り返していたという史実は無い様ですね。

参考文献:新選組徹底ガイド 前田政記

2011年2月25日 (金)

新選組血風録の風景 ~菊一文字 その1~

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(新選組血風録の概要)

(本国寺の北東の塀ぞい、花橘町で沖田は刺客に会った。)

ここに出て来る花橘町という地名は確かに存在したのですが、現在は消滅しています。太平洋戦争当時の強制疎開によって町が取り壊されたためで、今は堀川通の一部になっています。地名で言えば、堀川松原下がる東側、上の写真で言えば赤いタクシーが通っている辺りから左側一体が跡地に当たります。

かつては通の真ん中に堀川が流れ、両側に東堀川通と西堀川通が通っていました。西堀川通のさらに西側に本国寺があったのですが、昭和46年に山科に移転しており、今はマンションが建ち並ぶ住宅街になっています。ただ、塔頭だった寺院がいくつか残っており、痕跡は今でもあると言えますね。

(春先の生暖かい風が吹く日暮れ時、半井玄節方で薬を貰った帰り道に、沖田は刀屋播磨屋道伯の下に立ち寄った。研ぎに出している刀の仕上がり具合を聞くためである。あいにくまだ出来ていないと恐縮する道伯に、催促に来た訳ではないと慌てる沖田。そんな人柄が道伯には好もしく映っていた。)

小説の中ではありますが、ちょっと意外なのが沖田は玄節の下に通っている事ですね。「沖田総司の恋」では、新選組隊士と知られかつ悠に失恋した事で、もう玄節宅には行けないと言っていたはずなのですけどね。一方、播磨屋道伯というのはこの作品にだけ登場する人物で、全くの創作だと思われます。

(その道伯が店の奥から一振りの刀を持ち出してきた。丹波のさる神社から出たものだと言う。蝋色の鞘に金象嵌をあしらったつばを付けた立派な刀である。道伯は手にとって見ろと沖田に勧める。)

(沖田はすらりと抜いた。眩む様な光芒が湧き上がる。二尺四寸二分。細身で反りが浅く、刃紋は一文字丁字と呼ばれる幅の広いものだった。乱れが八重桜の花びらを敷き詰めたかの様に美しい。)

(道伯は、銘が判るかと聞いた。沖田は判らないと答えたが、実は菊一文字則宗ではないかと見当を付けていた。見るだけで眼福と言える希有な名刀であった。)

宗則は備前の刀工で、福岡一文字派の祖とされます。鎌倉時代の後鳥羽上皇が、刀好きが講じて作ったという御番鍛冶制度によって都に呼ばれた一人で、16弁の菊紋を銘に入れることを許されていたと言われます。一文字派を示す銘が一であり、両者を併せて菊一文字と呼ばれます。

ただし、現存する刀の中にはこの菊の文様が入ったものは無いと言いますから、話はややこしいですね。そして則宗以外にも一と菊の御紋を使う刀匠が居たそうで、刀の素人としてはますます混乱するばかりです。

(沖田は興奮が冷めないまま自分の差料を取り上げて、また来ますと言って立ち上がった。道伯は気に召さなかったのかと聞く。とても買える分際ではないと答える沖田に、研ぎが出来るまで貸すのだと言う道伯。)

(喜びで真っ赤になりながら菊一文字を腰に差す沖田。念のために値を聞くと、100両では売らなかったと言い、あえて値は言わない、飽きるまで貸しておくと答える道伯。)

現存する則宗は国宝や重文クラスであり、もし値段を付けるとすれば億は下らないと言われています。江戸末期でもその希少価値は変わらなかったと言われ、1両を5万円とすると100両で500万円ですか、そんな値段では買えなかったのは確かでしょうね。無論創作ではありますが、国宝級の刀を只で貸すとは豪儀な設定ではあります。

(花橘町に差し掛かった沖田。右手は堀川、その向こう側には本国寺の土塀が続いている。左手は町家の軒。その軒の闇が動いた。飛び下がって刀の柄に手を掛ける沖田。しかし、借り物の刀だという遠慮から抜かないでいる。その代わり、人違いではないかと聞いた。)

(相手は三人である。その内の一人が見事な上段で間を詰めてくる。困ったなと思いながら、ぼんやりと立っている沖田。)

(沖田は12歳の時に白河藩の師南番と手合わせをしてこれを破っている。それでいて性格は至って素直で、近藤は沖田の事を生まれたままの様な男だと評していた。)

(沖田は相手が水戸脱藩の戸沢鷲郎である事は知らない。戸沢は神道無念流の達人で、芹沢鴨とは同門である。筑波挙兵に参加し、今は白川の陸援隊本部に身を寄せていた。新選組結成当時、芹沢は鷲郎を誘うべきだったとしきりに漏らしていた事がある。江戸の道場荒らしとして名を売っていた時期もあり、近藤もその名を言えば知っていたと思われる。)

(戸沢の背後に居たのは久留米脱藩の仁戸部某。ひどく背が低い人物で、才槌頭が若禿げになっている。鼻だけがやけに大きい。この人物がよせ戸沢、鷲郎、無益な殺生は止めろと言ったので、沖田にも相手の名前が判った。)

芹沢鴨が神道無念流の使い手であった事、陸援隊本部が白川にあった事は史実にあるとおりですが、戸沢鷲郎や仁戸部某という人物は創作です。でも、半ばは事実を織り交ぜている事が、この小説にリアリティを持たせているのでしょう。実際、かつてはこの小説が史実に基づいていると思っている人が相当数居た様ですから、司馬氏の豪腕もここに極まれりと言ったところでしょうか。

以下、明日に続きます。

2011年2月24日 (木)

京都・洛北 春告花2011~京都府立植物園~

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今の季節、植物園を訪れる楽しみは、春の訪れを教えてくれる早春の花と出会える事にあります。

その中の一つがセツブンソウ、他に先駆けて真っ先に咲く花の一つですね。その名の通り節分の頃に咲き始めるのですが、この日はほぼ盛りとなり、群落と言って良い程になっていました。植物園では年々その数を増やしているらしく、最近は数カ所で咲いていますね。

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こちらはバイカオウレンです。去年はセツブンソウより先に咲いていたので、もしかしたら一番早い春告花なのかも知れません。

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こちらはセリバオウレン。バイカオウレンとは同じオウレン属に属する仲間になる様ですね。葉がセリに似ている事からこの名があるのだとか。

何でも、おしべだけがある雄花、めしべだけがある雌花、そして両方ある両性花があるという珍しい種類なのだそうですが、ここでは雄花と両性花だけが咲いていました。雌花は数が少ないみたいですね。

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そして、春告花の代表格である福寿草です。まだ地面から出て来たばかりの様で、花ばかりが顔を出していました。葉と茎の無いこの姿の方が、如何にも早春の花らしくて良いですね。

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スノードロップは今が花盛りの様です。実は1月15日に訪れた時にもちらほらと咲いていたのですが、この日は広い林床一面に咲き誇っていました。

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梅林では、早咲き種が少しずつ咲き始めています。こちらは、一足先に盛りを過ぎてしまったロウバイですね。近くに寄ると花が痛んでいる事が判りますが、離れて見るとまだ花盛りであるかの様に見えますね。

なお、北山門の方の梅は、まだほとんど開花していませんでした。

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冬の間、彩りを添え続けていてくれた寒椿も、そろそろ終わりを告げ始めている様です。この生け垣にはまだ沢山の花が咲いてはいましたが、どの花も盛んに花びらを散らせていました。ベンチに散った花びらもまた、春の訪れを告げる使者のひとつかも知れませんね。

2011年2月23日 (水)

京都・洛北 花の回廊 第6回早春の草花展~京都府立植物園~

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京都府立植物園に春の訪れを告げる「早春の草花展」が今年も開催されています。

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早いもので、今年でもう6回目になるのですね。最初はテント二張りの小さな展示から始まったのですが、年々その規模を拡大し、今では延長100mの回廊にまで成長しました。

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展示されるのは、期間中延べ約150種400品種20,000株だそうですが、会期2日目のこの日はまだ咲き揃っていない株が多く、少し物足りなかったかな。そのぶん、如何にも早春らしいとは言えますけどね。

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それでも、会場内は花の香りでむっとする程でした。テントの中は、文字通りの春の世界ですよ。

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ここの見所の一つは、花を使った色使いにありますね。フラワーコーディネートと言えば切り花の世界なのでしょうけど、ここでは生きた花を使ったフラワーアレンジメントが展開されています。こういうデザインもひっくるめてガーデニングと言うのかな。

これほど多種類の花を使ってデザイン出来るのは植物園ならではでしょうね。素敵なプロの技を楽しませて頂きましたよ。

2011年2月22日 (火)

京都・洛北 京都梅事情2011 ~水火天満宮 2.19~

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平成23年2月19日の水火天満宮です。この日は白梅が満開近くになっていました。

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この木は毎年開花が早く、盛りの時に来たのは初めてですね。やはりここでも開花は例年より遅れていたのでしょう。

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その向かいにある紅梅は三分咲き程度だったかな。確かに咲いてはいるのだけれど、全体として見るとまだ物足りないという感じでした。

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ですから、今頃は丁度見頃になっているかも知れないですね。あと、入り口にあるピンクの梅は、まだ上部の方で咲き始めたばかりでした。こちらの見頃はもう少し先になるでしょうね。

2011年2月21日 (月)

京都・洛中 京都梅事情2011 ~北野天満宮 2.19~

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平成23年2月19日の北野天満宮です。

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一週間前と比べるとわずかではあるものの、開花が進んでいました。全体としてはまだ物足りないのですが、木によっては見頃のものも出て来ています。

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この木あたりは五分咲き程度かな。先週は三分咲き程度だったので、寒かった割には着実に咲き進んでいる様です。

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この木はまだ二分咲き程度かな。梅は桜の様に一日で満開になるという事はありませんが、気温が高い日が続くとあっという間に開花が進むという事もあります。ですので、暖かい日が続くという今週半ば頃には、この木も見頃になっているかも知れません。

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まあ、梅の場合は一度に散ってしまうという事は無いので、少々遅れても大丈夫なのですけどね、やはり盛りの時が綺麗だという事には変わりはないので、タイミングが大事なのは桜と同じでしょう。

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北野天満宮は、この日も大勢の人で賑わっていました。やはり春の風情をいち早く味わいたいという人が多いのでしょうね。

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そして、一眼レフを手にしたカメラ女子が本当に多いですね。中には見るからに重そうな上級機を手に颯爽と撮影としている若い女性が居たりして、私の様なおじさんカメラマンは圧倒されてしまいそうです。でも、男女を問わず、きびきびした姿を見るのは好感が持てますね。

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私的には、今週半ばから週末にかけてが、早咲き種の見頃になりそうだという気がしています。ただ、開花予測に関しては不確定要素がありすぎますので、お出かけの際にはくれぐれも最新の情報を確認してからにして下さい。


2011年2月20日 (日)

江~姫たちの戦国~7 母の再婚

「信長の跡目相続を巡って対立する秀吉と勝家。三男の信孝が勝家を頼った事で、対立は一気に表面化しました。」

「清洲城。亡き信長を偲ぶ市達。その中で、光秀も嫌いではなかったとつぶやく江。仇ではないかと食ってかかる初。世の行く末を案ずる茶々。力のある者によって平穏に納められる事を望む市。」

「浜松城。織田家の跡目を巡って意見を交わす家臣達。しかし、局外中立を宣言する家康。」

「長浜城。宗易の点てる茶を旨そうに飲む秀吉。光秀に向かってざまあみろと言ったかと思うと、信長の死を嘆き悲しむなど忙しい様子。秀吉の頼みで茶頭になった宗易ですが、恩ある織田家に背を向けたのは節操が無いのではないかと問われます。しかし、恩などはない、自分はただ茶を点てて来ただけ、これまでもこれからもと答える宗易。彼は茶のためなら心だけでなくこの身までも売ると言い切ります。」

「信長好みの茶碗で茶を点てる宗易。織田家の跡目を巡る信雄と信孝の二人を評して、器が小さいと酷評する秀吉。自分が後見になれれば良いのだが、百姓出の者は相手にされないだろうと嘆きます。その時、跡目を継ぐのに相応しいのは子だけだろうかと謎の様な言葉を漏らす宗易。その言葉を聞き、何かを悟った様子の秀吉。彼は宗易にこの恩は忘れないと告げ、信長好みの茶碗で茶を飲むなどもったいないと言って去っていきます。」

「北庄城。信孝、佐久間盛政相手に、信長の弔い合戦に出遅れた事を嘆く勝家。これからの事が大事だと諭す信孝。それなら決まっている、信孝を跡目に据える事だと勝家。それをどうやって知らしめるかと信孝。会議を招集しようと提案する勝家。場所を清洲と決め、直ちに使者を出せと盛政に命ずる勝家。」

「清洲城。信長の菩提を弔っている市達。そこに、この城で織田家の跡目を決める会議が開かれるという知らせが入ります。その参加者は勝家、丹羽長秀、池田恒興、それに秀吉と聞き、眉を曇らせる市。秀吉になど織田家の事を決める権利など無いと言う市ですが、仇を討ったという評判が気になります。そして、秀吉は妻と母を連れてきていると聞き、おね殿も来ているのかと急に明るくなる江。皆が仇の女房ではないかとたしなめる中で、私はあの人が好きだと言い張る江。」

「おねを探して城の中を歩く江。とある部屋から物音がし、中の様子を窺っていると小さな子供が飛び出してきました。ほうし様と慌てて飛び出してくるおね。逃げ回るほうし。通せんぼをして捕まえる江。」

「おねと対座する江。江と共に信長と最後に会った時の事を回想するおね。ほうしの名を訪ねる江。わからないと答えるおね。自分たちの子ではなく、秀吉がほうし様と呼んでいるので自分たちもそう呼ぶのだと言います。そこに、秀吉の母であるなかがやってきました。手にわらで作った馬を持っています。部屋に入ってから、江に気が付いたなか。信長の姪だと聞いて急にはいつくばります。」

「おねに向かって、自分は百姓だから畑がしたい、秀吉にそう言ってくれと頼むなか。彼女はほうしを連れて別の部屋へ行ってしまいます。あの子は一体と聞く江。そこに秀吉がやってきました。菓子を貰ってきたと飛び込んできましたが、そこに江が居る事に気付き、急いで平伏してあいさつをします。伯父のために働いてくれたと礼を言う江。調子に乗って、光秀を成敗した事は生涯の誇りだと自慢する秀吉。その光秀が好きだったと答える江。その言葉を聞き、あれほどの御仁をこの手で討ち果たす事になろうとはと急に態度を変える秀吉。言う事をコロコロ変えるでないと怒る江。ははっとかしこまる秀吉。おねに気づき、言い過ぎたと謝る江。この人はいつも調子が良いのだと気にしないおね。」

「あの子はどこの子だと問い詰める江。身寄りを失った親戚の子だと言い張る秀吉。親戚とはどこのと聞くなか。黙っていろとたしなめる秀吉。不審に思う江。そこに、江を探すヨシの声が聞こえてきました。やむなく部屋を後にする江。びっくりしたとひっくりかえる秀吉。その時、再び障子を開けた江。居直る秀吉に、何か企んでいるのではないかと問い詰める江。めっそうもない事ととぼける秀吉。」

「江が本当に立ち去った事を確かめ、再びひっくり返る秀吉。本当の事を言えと詰め寄るおね。わしのやる事に口を挟むなと怒る秀吉。そして、ほうしを抱き上げ、頼みます三法師様とつぶやく秀吉。」

「1582年(天正10年)6月27日。清洲会議が開かれます。落ち着かぬ様子でうろうろしている勝家。対座している長秀と恒興。遅れてきた秀吉。信長の菩提を弔おうと勝家が背中を見せた時、意味ありげに長秀と恒興に目配せする秀吉。うなずく二人。」

「隣の部屋に忍び込み、聞き耳を立てている江。跡目を継ぐべきは二人、と切り出す勝家。その中でも信孝は光秀討伐の軍に加わっていた事が大きく、自分は信孝を推すと言う勝家。それは大きいと長秀。信雄は戦に間に合わなかったばかりか、安土城まで焼いてしまったと非難する恒興。跡目は信孝で良いなと恫喝する様に叫ぶ勝家。その時、秀吉が待たれよと切り出します。」

「異議があるのかと聞かれ、跡継ぎには嫡流をもってすべきではないかと言い出す秀吉。信忠の嫡子より他には無いと言って襖に近付く秀吉。同時に明けられる廊下側の障子。立っているのは三法師。襖を開ける秀吉。そこにうずくまっている江。驚く秀吉。猿と言って秀吉に飛びつく三法師。秀吉の企みに気付いて睨み付ける江。」

「三法師を抱き上げて、信長の御嫡孫である、頭が高いと叫ぶ秀吉。やむなく平伏する勝家達。」

「三法師こそ跡目を相続するに相応しいと宣告する秀吉。織田家の跡を継ぐには幼すぎると異議を唱える勝家ですが、それを補佐するのが家臣の努めであると一喝する秀吉。反論出来ない勝家。」

「その時江が立ち上がり、なぜその様な大事をそなたが決めるのかと詰め寄ります。それを聞き、これは信長の御遺志であると思う故と答え、今から御世継ぎは三法師様であると宣言する秀吉。ははーと平伏する長秀と恒興。一人不服げな勝家。それを見て、頭が高いと指摘する秀吉。やむなく平伏する勝家。」

「驚き部屋に入ってきた信孝。秀吉を睨み付ける江。知らぬ顔を決め込む秀吉。」

「江から事の顛末を聞いた市達。昨日もっと問い詰めておけばと悔やむ江。秀吉は天下を裏から動かす腹づもりだと見抜く市。」

「天下を取るなど考えた事もないと秀吉。ならばなぜ、三歳児に跡目を取らしたと問い詰めるおね。だから嫡孫なのだと言い張る秀吉。自分はすべて織田家のためにやっている、自分が守らなければ織田家は他家の食いものにされてしまうと秀吉。一つだけ判っている事がある、猿が天下人になることなど聞いた事もないと叫ぶおね。」

「市に向かって、跡目を継げなかった事を報告する信孝。猿にしてやられたとなげく信孝に、信雄といがみあっている内にその隙を衝かれたとは思わないのかと一喝する市。今更言っても仕方がないと開き直る信孝。そして市に頼みがあると言って、娘達を下がらせます。」

「自室で何事かと気を揉む娘達。様子を見て来ると立ちかける江。そこに市から部屋に来る様にとの知らせが入りました。」

「娘達を前に、嫁ぐ事にしたと切り出す市。驚く娘達。相手は勝家であると説明する信孝。後は皆で話し合われたいと言って出て行く信孝。」

「なぜ勝家なのかと詰め寄る茶々。猿に匹敵する力を持っているのは勝家しかいないからだと説明する市。秀吉の天下取りを阻止するためかと聞く茶々。そう思っても良いと答える市。そんなに秀吉が憎いのかと問う初。憎いというより許せないのだと答える市。あの者は三法師を利用して織田家を乗っ取り、天下を我がものにしようとしている、許すわけにはいかないと決意を語る市。」

「勝家の事をどう思っているのかと問う江。私は勝家を猿に勝たせたいと思って嫁ぐ、それは自分の意思であり、武将の心で嫁ぐのだと説く市。納得できない様子の娘達。」

「市が勝家に嫁ぐと聞き、惑乱する秀吉。信孝の入れ知恵と聞き、勝家への嫉妬を露わにします。そして、信孝が織田家を危うくする者は自分である、そしてそれを防ぐ為に市が勝家に嫁入りするのだと言うのなら、言うとおりにしてやろうと開き直る秀吉。彼は織田家を危うくしてやる、そしてこれは信長の遺志である、天下をお前のものにできるかと試されているのだと言って、勝家を滅ぼす事を宣言します。」

「娘達を背後に従え、端座している市。そこに震える声であいさつをしに来た勝家。主筋の者に対する遠慮から、しどろもどろの勝家。その勝家に、姫と呼ぶな、自分の事も市と呼び捨てよと語りかける市。もうすぐ夫婦になるのだからと言う市ですが、茶々は自分は嫌だと言い出します。自分たちの父は長政ただ一人だと言う茶々に同意する初。父の顔を知らぬ江は、自分が敬う事が出来るのは信長ただ一人だと答えます。市と勝家を置いて部屋を出て行く茶々。江の手を引き、後に続く初。とまどいを隠せない市と勝家。」

今回も江が歴史の舞台に絡んで行きます。年齢不詳の江の演出についてはあちこちで不満の声が聞こえますが、ここまで開き直れば大したものだと思います。江はこの頃数えで10歳、今の子供なら小学3年生ですからね、まともに描いていてはとてもではないけれど信長、光秀、秀吉、家康といった歴史上の人物に絡めるはずはありません。

なので、このドラマの江は人智を超越した座敷童の様なものだと思う事にしました。異次元の存在として、信長達をこのドラマに登場させるための触媒の役目をしているのだと考えれば、そう腹もたたないで済みますからね。今の所は江を描くと言うより時代そのものを描いている訳で、その流れそのものはほぼ史実に沿っていますから、まあ良しと考える事にします。でないと、この先に進めないものなあ。

清洲会議については描写が省略されていましたが、秀吉が長秀と恒興をあらかじめ抱き込んでいた出来レースだったと言われます。補足すれば、長秀は二番家老として上位の勝家とことごとく反目しあっており、その点に目を付けた秀吉が旨く籠絡したと言われます。

恒興は信長の乳兄弟でしたが、織田家のおける序列は勝家、秀吉達よりは一段下の扱いでした。それが山崎の合戦に参加した事により一躍宿老の座に上り、この会議に参加する資格を得ています。一説には秀吉がこの会議を主導するために恒興を引き立てたとも言われますが、この会議後に加増を受けている事から、利を持って釣られたのだとも言われます。

もう一人居た宿老である滝川一益は関東において北条氏と対峙していましたが、本能寺の変の後に散々に破られて、這々の体で本領である伊勢長島に逃げ帰って来たところでした。このため会議に出るどころではなかったのだとも、敗戦の責任を問われて会議に出る資格を剥奪されたのだとも言われます。

結果として3対1の争いですから、秀吉が勝ったのは当然でした。もっとも伝わるところに依れば、ドラマの様に秀吉が居丈高に決めつけたというのではなく、秀吉が席を外している間に長秀が理を持って話を付けたのだと言われます。

ただし、清洲会議に関する信頼できる資料はないとも言われ、本当のところは判らないというのが実情の様ですね。一説に依れば、織田家の家督は既に信忠の代に移っており、三法師が後を継ぐのは最初から決まっていた事だとも言われます。確かに、天正3年に信長は信忠に家督を譲って形式上隠居しており、この説は筋が通っていますよね。それに信孝は神戸氏に、信雄は北畠氏の養子に入っており、彼らもまた跡継ぎの資格は有していなかった事になります。

ドラマでは描かれていなかったけれど、会議の重要な要素として勝家は秀吉の所領であった長浜を譲り受けたという事があります。つまり勝家の本拠である北陸から畿内への足掛かりを確保しようとしたのだと言われており、市の嫁入りと共に対秀吉戦に備えた一手でした。史実ではこの長浜を巡っての駆け引きがあるのですが、ドラマではスルーとなるのでしょうか。また、勝家陣営に加わるはずの一益も出て来てないけど、これもスルーになるのかな。

このまま行けば、いきなり賤ヶ岳の合戦に突入してしまいそうな感じがしますが、次週はまだ市の嫁入りが描かれる様ですね。勝家が父親としての威厳を示すようですが、果たしてどんな具合に描かれるのかな。

2011年2月19日 (土)

京都・洛北 京都梅事情2011 ~下鴨神社 2.19~

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平成23年2月19日、今日の下鴨神社です。

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下鴨神社の梅と言えば光琳の梅ですが、今日はまだ1分咲きといったところでした。ひいき目に見ても2分咲きがせいぜいでしょう。

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去年はと言うと2月27日には満開になっていました。それからすれば、今年は一週間程度進行が遅れているのかな。

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ただ、来週はずっと暖かい日が続くそうですから、どうなるかは予断を許しません。一気に開花が進む事もありますからね。私としては、来週にもう一度見に来る外はないなと思っているところです。

2011年2月18日 (金)

京都・洛中 京都梅事情2011 ~北野天満宮 2.12~

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平成23年2月12日、早咲きの梅を求めて北野天満宮を訪れてきました。この前日から梅苑が公開された事もあってか、境内はかなりの人で賑わっていました。

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ただ、咲き方は去年に比べると若干遅く、早咲きの木で3分から5分程度と、まだまだ物足りない感じでしたね。

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個々に見ていくとそれなりに綺麗なのですが、ここならではの華やかさにはほど遠い状態でした。

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梅苑はさらに寂しく、全体としては1分咲きにも満たなかったのではないかな。元々ここは中期咲きから遅咲きの種類がほとんどですからね、仕方がないとは言えます。

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この写真を撮ってから一週間になりますが、少しは咲き進んだでしょうか。見頃になるのは多分来週から先になると思うのですが、どんなものでしょうね。今週末も出来れば行ってみたいと思っているところです。

2011年2月17日 (木)

京都・洛西 雪のふりたるは2011 ~鳥居本 2.11~

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嵯峨野の中でも昔ながらの風情を遺しているのが鳥居本ですね。歩きだと少し遠いのが難点ですが、やはりこの景色見たさに足を向けてしまいます。

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この辺りまで来ても、雪はほとんど積もっていませんでした。せめて屋根が白くなっていて呉れれば良かったのですけどね。

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まあ、山の白さでかろうじて雪の日の風情は出せたかなと思います。道がうっすらとでも白くなっていればとは思いますけどね。

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鳥居本の中でも格別な光景はやはり一の鳥居の付近でしょうか。神域を表す朱の色には特別なものを感じます。

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その一の鳥居にある茶屋が平野屋さん。いつもは写真を撮らせてもらうだけなのですが、この日は体が冷え切ってしまっていたので、少し暖まらせて頂く事にしました。

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頂いたのは「嵯峨の一副(むしやしない)」と看板が出ていたセットで、大根炊きと焼きもち、それに薄茶とお茶請けがひと揃いとなっています。

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むしやしないとは言いながら結構ボリュームはあって、結局昼食代わりになってしまいましいた。大根炊きは旬の大根がほんのりと甘く、薄味ながらしっかりと旨味のあるだしが染みていて、とても美味でしたよ。優しい味わいでもあったな。そしても焼き餅は店の人が丁寧に炭火で焼いてくれます。老舗なのに私の様な一見さんにも丁寧な応対ぶりで、好感が持てましたよ。

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この茶菓がゆずしぐれ。水尾のゆずを使い、皮を砂糖と一緒に煮詰めて作るのだそうです。ほとんど透き通る程になっていて、とても元が皮だったとは思えないですね。そして、甘さの中にゆずの風味が程よく残っていて、水尾の風土をそのまま味わえた様な気がしました。

1850円と少し高めですが、昼とおやつを兼ねていると思えば妥当なところでしょうか。冬の嵯峨野路ならではの味わいだったという気がしています。

2011年2月16日 (水)

京都・洛西 雪のふりたるは2011 ~化野念仏寺 2.11~

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雪景色を求めて化野念仏寺へとやって来ました。ここなら石仏の上に雪が積もっているかと期待したのですが、やっぱり駄目ですね。

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でも、雪化粧をまとった山を背景にすれば、それなりの風情が出るのはこの場所ならではの事でしょうか。

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かつて葬送の地であった荒涼感が出るのはやはり冬景色の中でしょう。でも、それではあまりに寂しすぎるので、雪の薄化粧は丁度良い中和剤になったと言えるかも知れません。

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それにしても、マナーを守らない人は後を絶ちませんね。ここは三脚禁止なのですが、隠れた場所では平然と使っている人が居たし、撮影が禁止されている水子地蔵を正面から撮っている人も居ました。ここではないけれど、柵の中に入って堂々と写真を撮っている人が居るはで、そのいずれもが50代後半から60代と思われる男性なんですよね。本来なら若い人のお手本にならなければならない年代なのにね、何とも嘆かわしい事です。

こんな輩が居るから、次々と禁止事項が増えるんだよなあ。困ったもんです、本当に。

2011年2月15日 (火)

京都・洛西 雪のふりたるは2011 ~祇王寺 2.11~

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天竜寺から竹林の小径を抜けて歩く事しばし、祇王寺へとたどり着きました。

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ここなら苔の上に雪が積もっているのではないかと期待したのですが、残念ながらわずかに白くなっている程度でした。

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それでも木々は白くなっており、それなりに綺麗ではあったのですけどね。

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この日の庭で目を惹いたのは寒牡丹でした。この寒さの中、よくもまあ綺麗な花を咲かせるものですね。どんな手入れをしているのでしょう?

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いつもは庭だけで帰るのですが、この日は久しぶりにお堂の中に入ってきました。祇王、祇女、母刀自、仏御前、それに清盛公の木像と久しぶりに会いましたが、以前とは違って見えたのはそれだけ私が年を取ったせいでしょうか。

来年の大河ドラマは「清盛」、さぞかしここは賑わう事でしょうね。静かに拝観出来るのは今の内だけかな。

2011年2月14日 (月)

京都・洛西 雪のふりたるは ~天竜寺 2.11~

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渡月橋から天竜寺へとやって来ました。正面に見える庫裏が降りしきる雪にけむり、背後の雪を被った木々とあいまって、ちょっとした風情があるでしょう?

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でも庭園に入るとこんなもので、期待はあっさりと裏切られてしまいます。

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ここで雪の風情があったのは花でした。赤い椿に白い雪の組み合わせは定番でしょうか。

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こちらはたぶん桃色雪中花でしょうか。雪を被った姿には、色気すら感じます。

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ロウバイの黄色にも雪は似合いますね。震える様な寒さの中、素晴らしい香気を放っていたのは嬉しかったです。

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そして、これが春の淡雪である事を示す白梅に白雪ですね。行ったり来たりは有るけれど、季節は確実に春に向かっていると判る絵柄です。

2011年2月13日 (日)

江~姫たちの戦国~6 光秀の天下

「本能寺の変の知らせに驚き悲しむ市達親娘。しかし、すぐに江が京に居る事に気付き、惑乱する市。」

「伊勢、上野城。光秀の軍勢が攻めて来るとの情報に、清洲城へ逃げる準備に忙しい市の周辺。何やら手紙を書いている市。菓子の選別をしている初。自分の荷物は人に任せ、江の荷物を選んでいる茶々。それを見て、自分も江の荷物の仕分けを手伝う初。」

「準備を急かせる信包。江は家康と共に居るはずと言う信包に、家康宛の手紙を託そうとする市。無理だと断る信包。届けて貰わなければここを動かぬと迫る市。やむなく請け合う信包。」

「伊賀山中。家康に向かって、これからどうなるのかと問い掛ける江。織田家の跡目を巡って乱れるだろうと予測する家康。光秀はなぜ謀反を起こしたのだろうかと問い掛ける江。こればかりは判りかねると答える家康。」

「近江、坂本城。織田の残党狩りの様子を聞く光秀。京はほぼ押さえたと答える利三。毛利、上杉、北条、長曽我部は味方に付くはずと見通しを語る光秀。安土城に入れば、上様が天下人になったと世間も認めるはずと利三。まだ上様は早いのではないかと光秀。そんな事はない、朝廷からの使いも訪れる手筈になっていると答える利三。」

「そこに、焼かれた瀬田唐橋の修復が進まないとの知らせが入ります。安土に入るには是非とも必要な橋だ、今日中に修復せよと命ずる光秀。」

瀬田唐橋は、京と東国を結ぶ重要な橋です。事件後すぐに織田方の手によって焼かれたのですが、完全には落ちなかった様ですね。光秀はすぐに修復を命じでおり、早くも6月4日には通れる様になっていた様です。もっとも、琵琶湖には舟運があり、橋の修復を待たずに軍勢は安土に向かっていた様ですね。

「さらに凶報が続きます。盟友であるはずの細川親子が味方になる事を拒否して来たのでした。さらに、信長の菩提を弔うべく出家したとの知らせに呆然となる光秀。」

「丹後、宮津城。たまの追放を迫る藤孝。せめて領内での監禁をと願う忠興。謀反人の味方など出来るものかと、襖越しにたまに向かってどなる藤孝。じっと耐えるたま。」

細川藤孝は光秀にとって足利義昭に仕えていた頃からの盟友であり、信長の下では組下大名として最も頼りにしていた人物でした。自らの娘をその長男である忠興に嫁がせており縁戚でもあったので、本能寺の変を起こせば一も二も無く味方してくれるはずと思っていた様です。しかし、現実は違っていました。ドラマにもあった様に、藤孝は息子と共に信長の菩提を弔うためと言って出家し、たまについては領内の味土野に幽閉しています。

光秀はこの出家した藤孝に対して手紙を送っており、そこでは藤孝の態度に一旦は腹を立てたが、よく考えると無理もない事であったと翻意を促し、恩賞については摂津を考えていたが若狭、但馬を望むのならそれでも良いと利を持って迫り、さらには50日、100日の内には地盤を固める事が出来る、その後は自分の長男と忠興に後を譲って隠居するつもりだと記しています。ほんとんど哀訴と言って良い内容で、光秀が置かれていた窮状が文面に良く現れていると言われています。

藤孝にすれば、これほどの大事を何の相談も無く起こした事を限りなく不快に思い、かつ、光秀の前途に見通しがないと見限ったのでしょうね。光秀の手紙は自らの定見の無さをさらけ出した様な物で、藤孝にすれば尚のこと味方になる事は出来ないと思った事でしょう。

「備中・高松。信長敗死の知らせに、身を投げ出して嘆き悲しむ秀吉。手をつかねて見ている秀長と勘兵衛。ひとしきり嘆いた後、近江に帰って信長の仇を討つと言い出す秀吉。彼は秀長に毛利との和睦を進める様に命じ、勘兵衛には信長と信忠は無事、秀吉もすぐに戻る、共に光秀を討とうという書状を織田の諸将に出す様に命じます。」

有名な中国大返しが始まります。この時本能寺の変の知らせを秀吉にもたらしたのは、皮肉な事に光秀が毛利氏に向かわせた使者だったと言われます。使者は不慣れな土地故に道に迷い、誤って秀吉の陣に紛れ込んでしまったのだと言われます。これが予定通り毛利氏の陣にたどり着いていたら秀吉の運命はどうなっていたかは判らず、その後の歴史も変わっていたかも知れませんね。

「伊勢の浜。無事にたどりついた江と家康の一行。家康は戦支度のために三河に戻ると言い、江には上野城に戻る様にと勧め、警護の者達を付けてやります。信長の仇はきっと取るという家康に、仇?と聞き返す江。光秀めだと答える家康に、そうでしたと浮かぬ顔の江。」

「上野城。馬を飛ばして帰城した江。彼女を待っていた留守居の家臣達から、市達は清洲城に行ったと聞く江。その時、一本の矢が家臣を襲います。野武士が襲ってきたのでした。多勢に無勢で勝目が無いと知るや、自分が出て行くからお前達は逃げろと命ずる江。」

「一人、両手を広げて出て行く江。自ら信長の姪と名乗り、頭に向かって光秀の下に連れて行けと命じます。その代わり、家臣達を助けよと言う江ですが、その背後で切り伏せられてしまう家臣達。約束が違うと言う江に約束などしていないと嘯く頭。」

このあたりは全て創作ですが、数え年10歳の少女がここまでするかという疑問はついて回ります。なので、年齢不詳の演出がされているのでしょうけど、どこまで行ってもこの無理は収まらないですね。実年齢に追いつくには後10数年、初夏の頃まで待つしかないのかな。

「清洲城。江の安否を気遣う市達。」

「中国路。一路京を目指して駆ける秀吉勢。」

「安土城。秀吉の軍勢が一日半で姫路まで来たとの知らせにあせる利三。そして、中川清秀、高山右近、池田恒興ら摂津の諸大名がことごとく離反したとの知らせが入ります。いきどおる利三ですが、光秀は何やら手紙を読みながら意外に落ち着いています。そして、まずは京に入って帝に味方してもらうのだと下知を下す光秀。」

光秀と繋がりのあった公家としては吉田兼見が居た事が知られます。光秀は兼見を通して朝廷工作をしていたらしく、事件後に朝廷に対して銀子500枚を献上してその意を迎えようと努めていました。結果として秀吉の攻勢があまりに早すぎた為ほとんどその効果は現れませんでしたが、人心収攬の手の一つとして光秀が朝廷を重視していた事は確かな様です。

「そこに江を捕らえたとの知らせが入ります。人質として使える、あるいは首を晒せば皆の者への脅しに使えると喜ぶ利三。」

「江と対面する利三。後ろ手に縛られている江。名を聞かれて斉藤利三と答える利三。光秀に会わせよと命ずる江。立場が判っていないと脅す利三。そこに現れた光秀。彼は頭に命じていましめを解かせ、利三と共に下がらせます。」

この場面は、ずっと後日のための伏線でしょうか。つまり、利三の娘である春日局が江の息子である家光の乳母となり、次男の忠長を可愛がる江と対立したという構図があるからなのですが、このドラマでは江が悪者になる様には描かれないでしょうね。このあたりをどう描くのかは、秋になってからのお楽しみでしょうか。

「江と対座した光秀。さぞ自分を恨んでいるでしょうなと問い掛ける光秀。恨んでいるからこそ自ら望んでここに来たと答える江。なぜ謀反などと問う江。わからぬと答える光秀。言葉にすれば、辱めを受け、領地を取り上げられ、明智家の長としてぎりぎりのところまで追い詰められていたのだと語る光秀に、天下布武の本当の意味は世に泰平をもたらすという事だったのと説く江。その信長の願いを、武力でもって砕いてしまったのが光秀だと責める江に、一通の書状を見せる光秀。それは蘭丸が書いた信長の本心、後を託せるのは光秀を措いて他にないという言葉でした。」

「もし、その文を先に読んでいたら謀反など起こさなかったのかと詰め寄る江。判らない、天が決めた事に従っただけなのかもしれないと答える光秀。言い訳にしか聞こえないと非難する江。」

「そこに、秀吉が東に向けて動き始めているとの知らせが入ります。何も判らない自分にも一つだけ判る事がある、それは信長の大きさ凄さだ、皆が皆、信長を助けて付いていこうとしていた、この光秀には誰もついて来ようとはしないと嘆く光秀。彼は利三に向かって、江を清洲城に送り届ける様に命じます。自分が心底敬い、お慕いした方の姪御だとつぶやく光秀。」

実際、事件後の光秀は孤児同然でした。最も頼りにしていた藤孝には裏切られ、同じく縁戚として期待していた筒井順慶にまでも見限られてしまったのです。味方になってくれると期待していた高山右近や中川清秀も秀吉側に走り、周囲に居るのは敵ばかりという状況になっていました。これは光秀の計画性の無さを表すと共に、天下人としての器を備えているとは認めて貰えなかった証とも言えましょうか。

「別れを告げる光秀に、もし天下を取ったなら、世に泰平をもたらす事を約束して欲しいと願う江。微笑で報い、去っていく光秀。悲しげに見送る江。」

この辺りも全て創作ですが、作者は光秀に対する思い入れが強いのでしょうか。ただの謀反人として始末するには忍びないという配慮がそこかしこに見て取れます。蘭丸がそんなに優しい人物だったとは思えないけれど、もしそんな配慮が少しでもあったら、光秀はずっと楽になっただろうなとは思いますね。でも、そんな時代ではなかっただろうしなあ。

「山城、山崎。川を挟んで秀吉の軍勢と対峙する光秀の軍勢。敵は4万、我が軍の倍以上かと見積もる光秀。戦は数にあらず、軍略、駆け引きで勝ち目はあると励ます利三。何としても秀吉をこの地で食い止めるのだと檄を飛ばす光秀。」

「戦は数だ、兵の多い方が勝つとつぶやく秀吉。陣形も我が方に有利と見る勘兵衛。勝つなと言う方が無理と言って、本軍を街道沿いに進ませよと秀長に命ずる秀吉。」

「秀吉軍が動いた事を知る利三。今だ、総攻めを掛けよと命ずる光秀。」

「尾張、清洲城。無事に戻った江を抱きしめる市と茶々。茶々から貰った櫛を示し、このお守りのおかげだと涙ぐむ江。私の櫛はどうした、京のみやげじゃと毒づく初。謝る江を抱きしめる初。」

「姫様と叫びながら駆け寄るヨシ達。侍女の一行は宗易のはからいにより、無事に清洲に戻っていたのでした。再会を喜ぶ江とヨシ。」

「山崎。降りしきる雨の中、床几に腰を掛け目を閉じている光秀。そこに味方が敗勢であるとの知らせが入ります。」

太閤記に依れば、秀吉軍は総勢4万、対する光秀軍は1万6千であったとされます。この数字にどこまで信憑性があるのかは判りませんが、概ねこの比率ではなかったかと考えられています。実は光秀は有力な配下である秀満の軍を坂本城に残しており、この期に及んでまだ全力を戦場に注ぎ込んでいないのでした。

戦いは6月13日の早朝から始まったとも、午後3時頃に始まったとも言われます。山岳戦や城郭戦ならともかく、基本的に平地での戦いでしたから兵力の差は絶対であり、奮戦むなしく光秀の軍は総崩れとなってしまいます。

「清洲城。江から光秀に会ったと聞き驚く市。さらに、信長の「そちは生きよ」という声を聞いて助かった事を聞き、感慨に耽る市。どうしても光秀を憎む事が出来ないと言う江に、憎むべきは人ではない、戦を生む世の有り様なのだと諭す市。難しい事は判らないけれど、もう誰にも死んで欲しくないと悲しむ江。」

「山城と近江境の山中。坂本城を目指して落ちていく光秀の一行。もうすぐ坂本城だと励ます利三に、勝ちたいとは願っていない、ただ泰平の世であれば良いとのみ思っていた、信長の様にとつぶやく光秀。その時、光秀の腹を貫く竹槍。馬から転がり落ちる光秀。群がる土民達。」

光秀が亡くなったのは小栗栖とされています。しかし、確実な資料があるわけではなく、同時代資料には山科の辺り、あるいは醍醐のあたりと漠然とした地名が記されているだけの様ですね。このドラマでも地名を登場させなかったのは、その辺りの事情があるからなのでしょうか。

「土民を追い払う利三。助け起こされた光秀は、もはや先には行けぬ、せめて武士として死なせよと命じます。」

「川に向かって切腹の座に着く光秀。最後に浮かぶ江の顔と言葉。姫様、約束を果たせなかったと最後の言葉を残して腹を切る光秀。」

光秀が最後に思い浮かべたのは江でした。うーん、そうだったのかって納得出来る訳もありませんが、まあやはり主役ですから仕方が無いでしょうね。

光秀の首は本能寺に晒されたとも、粟田口の刑場に晒されたとも言われますから、秀吉の手に渡った事は確かなのでしょうね。その首塚と伝わるものが粟田口に現存します。路地の奥にある小さな祠がその場所で、首塚と伝わる石塔も祀られています。史上その名を知られる人物にしては粗末な五輪塔なのですが、謀反人として葬り去られた以上仕方がない事なのでしょうね。

「清洲城。光秀敗亡の知らせを告げる信包。明智の三日天下と皆が笑っているとの信包の言葉に、堪りかねた様におやめ下さいとつぶやき、飛び出していく江。」

「馬に乗って城門を飛び出した江。彼女は悲しみに暮れながらどこまでも駆けて行きます。」

光秀という人物は、その出自と言いその最後と言い、謎の多い人物です。謀反を起こした事は確かであり、倫理的には誹られこそすれ褒められる事は無いはずなのに、なぜか悲劇の人物として描かれる事が多いですね。非常に優秀な人物であった事は確かであり、信長もまたその能力を高く評価していた事は事実とされます。それ故に、信長を襲った事は史上最大の謎の一つとされ、古来様々な説が説かれてきました。

主なものを挙げれば、朝廷黒幕説、足利義昭黒幕説、徳川家康との共犯説、さらには秀吉との狂言説なんていうのもあったかな。いずれも根拠があって面白いのですが、客観的に見て衝動的な事件だった事は間違いなく、信長を殺した後のビジョンは何も持っていませんでした。事件後誰も味方する者が居なかったのは、このビジョンの無さが一番の原因だった様に思えます。だって、これだけの事件を起こしておきながら、後の事は何も考えていないと言われて付いていく気にはなれないでしょう?

光秀に対して同情的な見方が多いのは、彼が非常に優秀な人物であった事、領民や家臣に対してはとても思いやりのある主君であったと伝えられる事などがその理由として挙げられるでしょうか。そして何より、信長が残虐とも言うべき強烈な個性の持ち主であった事が光秀への同情に繋がっているのかも知れません。それに、司馬遼太郎氏の国盗り物語の影響もあるかも知れませんね。

信長も光秀も死んで、時代は秀吉の天下取りへと続いていきます。次回は清洲会議が描かれる様ですね。そこにはまた江が絡んで行くのかな。ちょっと心配ではありますね。

2011年2月12日 (土)

京都・洛西 雪のふりたるは2011 ~嵐山 2.11~

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建国記念日の朝は雪で始まりました。予定では上賀茂神社の紀元祭に行くつもりでしたが、この天候では蹴鞠はまた屋内で行われるだろうと判断し、目的を雪景色に変えて嵯峨野路を訪れて来ました。

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でも、テレビで大雪に注意と言っていた割に、全然大した事が無いのですよね。雪の範囲がずっと南に偏ったらしいのですが、京都は山が白くなった程度で、地面にまで降り積もるという事は無かったです。

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それでも、嵐山では水墨画風の景色を楽しむ事は出来ました。こういう時は、法輪寺の多宝塔が良いアクセントになるのですね。

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これで川の中や橋の欄干が白く染まっていたら、もっと綺麗だったのでしょうけどね。残年ではあるけれど、それはまた次の機会に取っておく事にします。

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ここからは、冬景色を求めて嵯峨野を歩いてきました。一面の雪景色なんていうのは無いけれど、それなりの風情はありましたよ。その写真は月曜日から順次お届けする事にします。

2011年2月11日 (金)

京都・洛東 京都梅事情2011 ~智積院 2.5~

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2月も半ばに差し掛かり、そろそろ梅が咲き始める頃ですね。そこで、梅の名所の一つ、智積院に様子を見に行ってみました。

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すると、早咲きの花がちゃんと咲いてました。とは言っても、ピンクの八重咲きのこの種類がほとんどでしたけどね。

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この種類の木は、境内への入り口、拝観受付の近く、明王殿前などに何本か有り、冬枯れの景色の中で美しい彩りになっています。

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この日は曇り空だったのですが、こういう花色に関しては白バックにして見るのも悪くないですね。

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でも、五色の幡をバックにした絵の方が、やっぱり智積院らしいかな。

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この花の外に、白梅も少しですが咲いていました。紅梅はまだ蕾が膨らんだ程度でしたね。

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この写真を撮ってから1週間が経ちますが、どれくらい進んだでしょうか。今週末は真冬に逆戻りしてますので、進行も止まったかも知れませんね。明日はまた梅を探しに出かけてみようかと思っているところです。

2011年2月10日 (木)

京都・洛東 節分2011 ~須賀神社・聖護院~

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2011年の節分の日、最後に訪れたのが須賀神社と聖護院です。どちらも主な行事は終わっているのですが、雰囲気だけでも見ておきたいと思ったのです。

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須賀神社は、平安時代末の康治元年(1142年)に美福門院が建てた歓喜光院の鎮守として創祀されたもので、祭神は素戔嗚尊と櫛稲田比売命を主神に、ほか3神を祀っています。元の社地は平安神宮蒼竜楼の東北にある西天王塚で、当社は岡崎の東天王社(岡崎神社)と相対して古くは西天王社と呼ばれていました。 その後、吉田神楽岡に転じ、今の地に移ったのは大正13年(1924年)の事とされます。

ややこしいのは交通神社が併設されている事で、昭和39年(1964年)に分祀されたそうです。恐らくは当時激しさを増していた交通戦争に対応すべく、新たな神社として始められたのでしょうね。

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この神社の特徴は、何と言ってもこの懸想文売りですね。烏帽子水干姿は良いとしても、なぜか覆面をしているのですよ。神社の説明書きに依れば、優雅な懸想文売りとあるのですが、どう見ても怪しい姿ですよね。

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その懸想文の説明書きは、「この文を求めて鏡台や箪笥の引き出しに人知れず入れておくと、顔かたちが良くなり着物が増えて、良縁が来ると言われております。」とあります。

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という事で、この神社に来るのは女性が圧倒的に多いのですよね。私が居たのは10分足らずの間でしたが、結構な数の人が懸想文を買っていました。1枚千円ですが、これだけ御利益があるとすれば安いものですよね。

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須賀神社のすぐ前に、聖護院へ通じる門があります。正確には塔頭の積善院凖提堂の入り口ですね。普段は聖護院への出入りは出来ないと思われるのですが、節分の期間には自由に通る事が出来ます。ちなみに、この凖提堂は、五大力さんで知られる寺ですね。

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聖護院は山伏の総本山として知られます。節分においては山伏による豆撒きと厄除開運採燈大護摩供が行われます。しかし、私が訪れたのは午後5時前だったので、既に護摩の火も消えかけていました。

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この寺は、普段は拝観をするには予約が必要なのですが、節分の日には自由に拝観が出来ます。それだけでも、この日に訪れる値打ちがありますね。面白いのは修験道の寺らしく、ロウソク1本を献上しただけで祈祷をしてくれるのですね。1本50円ですが、凄い値打ちがある様に感じます。

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拝観を終えると、西日が堂内に差し込んで来ました。立春を前に、日の入りがすっかり遅くなってきている事を実感する瞬間です。

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本堂の前では、白梅が咲き始めていました。満開になったら、さぞかし見事な眺めとなる事でしょうね。

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本来はこちらから入る事になる山門です。この前には聖護院八つ橋の店が建ち並び、売り込みに忙しそうでした。1年でも最も人出が多い日なのでしょうね。

2011年の節分はここまででとしました。まだ夜に豆撒きをする京都ゑびす神社などが残っていたのですが、さすがに翌日の仕事に差し支えそうなので自重したのです。来年は金曜日となるので、夜の部の方を中心に見て回ろうかなどと思っているところです。

2011年2月 9日 (水)

京都・洛東 節分2011 大儺之儀~平安神宮~

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平安神宮の大儺之儀とは、かつて宮中で行われていた追儺の儀を復元した儀式です。平安神宮は平安京の朝堂院を模した建物であり、まさに平安王朝絵巻をそのまま見る事が出来るという訳ですね。時間は2時から始まるので、奉納狂言が終わってからすぐに次の行事に移れるという仕組みになっています。

ただし、場所取りという意味では2時では遅くに過ぎ、本殿からは遠く離れた場所しか確保出来ませんでした。

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儀式の進行は一々説明があるのですが、私が居た場所では何を言っているのかほとんど聞き取れませんでした。遠目に判ったのは、最初に神饌が供えられた事、その後で陰陽師が祭文を奏上している事くらいだったかな。

その陰陽師の歩き方は独特のもので、膝を高く掲げる様にして進みます。以前に漫画の陰陽師でこの場面を見た事があるのですが、随分とデフォルメして書かれているなと思ったのを覚えています。でも、実は本当にそんな歩き方だったのですね。

次に上卿が弓の奉納を行います。

手にしているのは桃の弓、放ったのは葦の矢ですね。弓と矢で一対をなし、強い浄化の力を持つとされています。

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これは、殿上人が、四方に向かって桃の枝を振るっているところです。弓の時と同じく、桃には邪気を払う力があるとされている事から行われるのでしょう。

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方相氏は矛と盾を3度打ち鳴らし、鬼やらいと叫びます。これは矢を放つ前と桃の杖を振った後の二回に渡って行われます。

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この後、方相氏は8人の侲子を率いて斎場の周囲を3周します。この行列には殿上人のほかこの年の福男達も従うので、かなりの長蛇の列となりますね。この間中、方相氏と侲子たちは「鬼やらう」と叫び続けます。

方相氏と侲子それに殿上人達は斎場を離れて応天門の前に舞台を移し、同じ所作を繰り返して行います。

ここで暫く時間が空いてしまうのが難点ですね。次に鬼踊りがあって引き続き豆撒きが行われるとアナウンスがあったのですが、それがどこで行われるのか判らないのですよ。正直言って、どこに行けば良いのか迷わされた時間でした。

そして、待った甲斐があって再び鬼達が現れます。

方相氏によって一度は追い払われた鬼ですが、完全に懲らしめられた訳ではなく、わずかな隙を狙っていたのですね。そして、まんまと侵入に成功したのでした。

これが鬼踊りですね。初めは静かに、そしてだんだんと傍若無人な振る舞いになっていくのが面白いですね。

そして、鬼踊りが果てた頃、豆を手にした福男達が現れます。

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せっかく侵入して来た鬼達ですが、福男たちが撒く豆によってあえなく撃退されてしまったのでした。


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この鬼達もまた茂山千之丞社中が演出しているのですね。サービス精神と迫力に溢れた、楽しい鬼でしたよ。

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鬼退治が終わると、豆撒きが始まります。これも後ろの方までは飛んで来ないので前に出るしかないのですが、遠く離れた場所に居た私はやはり不利で、1個をゲットするのがやっとでした。

場所取りとしては行事の始まりは本殿近くに陣取り、方相氏が歩き出すと応天門に移動し、鬼退治の間は中間くらいが良いのかな。そして最後は本殿近くに戻るといった具合が良い様です。

私はこの行事に参加するのは初めてだったのでほとんど同じ場所に止まっていたのですが、次に行く事があればもう少し要領よく回りたいと思っています。

豆撒きが終わってから30分程時間があったのですが、せっかくなので大火焚神事まで頑張ってみました。これは祈願を込めた火焚串4万本を浄火で焚き上げで厄除けを祈願するというものです。

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この焚き上げの神事の手順や道具立ては、どこの神社でも共通の様ですね。そして、唱えられる祝詞も同じものの様です。ですから、ご利益という意味では全国共通と言えるのかも知れません。ただ、ここはとにかく広いですから、豪快に焚き上げる迫力はなかなかのものだと思います。

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4万本が全て放り込まれる頃にはすっかり日も傾き、夕景色に変わりつつありました。長かった行事も終わりを告げようとしています。

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節分は冬に終わりを告げる行事ともされます。そのとおりに、立春以後はすっかり暖かくなって来ましたね。まあこれで平年並みらしいですから、一時が寒すぎたのかな。

この炎が春を呼んでくれたのかも知れませんね。

2011年2月 8日 (火)

京都・洛東 節分2011 奉納狂言~平安神宮~

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この日のメインに据えていたのは平安神宮でした。午後0時から4時にかけて、次々に行事があるのですよ。その皮切りが大蔵流茂山千之丞社中による狂言奉納です。

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出演者の大半は素人の方の様でしたが、良く稽古を積まれていて楽しませていただきました。2時間があっと言う間でしたよ。

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最初の演目が因幡堂。因幡堂には朝一番に寄ってきたところなので、興味深く拝見しました。

筋立ては、大酒飲みで怠け者の女房に愛想を尽かした男が、女房が実家に帰ったのを幸いに離縁状を送りつけます。男は自由の身になったのは良いものの、独り身では何かと不自由なので、因幡堂に籠もって妻乞いのお通夜を行います。

一方、離縁状を受け取った女房は怒り心頭に達し、男が因幡堂に居るだろうと見当を付けてやってくると、果たして男がお堂の中で眠っていました。女房は一計を案じ、西の門の一のきざはしに立ったものを女房と定めよと枕元でささやきます。

男はこれを夢のお告げと受け取り、さっそく西のきざはしに向かいます。すると、そこには被り物を着た女が立っていました。男はこの女こそお告げにあった人に違いないと思い、恐る恐る確かめます。この間、女は一言も口をきかず、体を横に振っていやいやをしたり、上下に揺すってうなずいたりします。その仕草が奥ゆかしく見えて、男はすっかり気に入ってしまいます。

男は女を連れて帰り、固めの杯を交わそうとします。しかし、女は驚く程の大酒飲みで、なみなみと注いだ杯を一気に呑み干しただけでなく、次々にお代わりを要求します。前の女房が大酒飲みだったので暇を出したのに、代わりの女がこれではと男はとまどいますが、ままよと杯事を進めます。そして、どんな女かと被り物を取ったのですが、出て来たのは何と元の女房でした。

驚きつつもあれこれ言い訳をする男ですが、女房は騙されるはずもなく、遂には男は逃げ出してしまうのでした。

演じておられたこのお二人はとても素人には見えなかったのですが、調べた限りでは判りません。相当な芸達者である事は確かですね。

それにしても、この筋立てからすると、かつて因幡堂には妻乞いをするという習慣があったのでしょうか。ちょっと気になるところですね。

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こちらは土筆(つくづくし)です。誘い合って野遊びに出て来た二人の男が、春の野で土筆や芍薬を見つけて喜び、お互いに古歌を披露し会います。ところが、「風騒ぐなり」を「風騒 ぐんなり」と間違えたり、「咲くや この花」を「しゃくやくの花」と取り違えたりととんちんかんな事を言い合います。お互いにそれをあげつらって優越感に浸ろうとするのですが、そのやりとりが子供の喧嘩の様で面白い。

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ついには相撲でけりを付けようではないかという事になって、誘われ手のほうだったかな、が見事に勝ちを収めます。これで終わりかと思いきや、負けた方は相撲は3番となお負けず嫌いなところを発揮して、勝ち逃げする男を追いかけるのでした。

実はこの演目は2度目の公演で、先に女性二人によっても演じられています。普通は一日の内での重複は避けられると思うのですが、このあたりが素人公演の難しさでしょうか。もしかしたら、この話は初心者向けなのかしらん?

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そして、楽しかったのがこの柿山伏ですね。小学生くらいの女の子が、一生懸命山伏を演じてくれていました。

出羽羽黒山の山伏が、大峰・葛城での修行を終えて帰国の途中、腹を空かせてしまいます。何かないかと辺りを見回すと、たわわに実った柿を見つけました。これはしめたと、足下の石を拾って投げつけます。

「やっとな!」

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ところが、石は容易に当たりません。そこで今度は、脇差しを振り回してたたき落とそうとしますが、これも上手く行きませんでした。そこで山伏は、とうとう柿の木に登って食べ始めてしまいます。するとあまりの美味さに夢中になってしまい、止まらなくなりました。

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そこにやって来たのが柿の木の持ち主です。持ち主は柿泥棒が居ないかと見廻りに来たのでした。その持ち主に向かって柿の種を飛ばしてぶつけてしまう山伏。彼はまずい事になったと梢に隠れてしまいます。

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しかし、持ち主はすぐに山伏を見つけてしまいます。そして、山伏を懲らしめてやろうと、わざとあれに見えるは猿ではないかと大きな声を出します。そして猿ならきゃっきゃっと鳴くはずと言うと、ばれてはいけないと思った山伏は、おしりを叩いて猿の真似を始めます。

「きゃっきゃっ」

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持ち主は、今度はあれは鳶だと言い出します。仕方なく、両手を広げて鳶の真似をする山伏。調子に乗った持ち主は、鳶なら飛べるはずとさらに挑発します。ついその気になって木から飛び降りる山伏。しかし、大いに転んで、したたかに腰を打ってしまいました。

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これで懲りたかと言って帰り始める持ち主ですが、収まらないのが山伏です。彼は自分が柿泥棒であった事を忘れて持ち主を逆恨みし、持ち前の法力でもって持ち主を引き戻してしまいます。

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持ち主を組み伏せて、さあお前の家で介抱しろと迫る山伏。これはかなわぬと振りほどいて逃げる持ち主。逃がしてなるかと追いすがる山伏。

筋立ても面白かったですが、祖母と孫娘の様な組み合わせの演者の好演が、見ていて微笑ましかったです。

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最後の演目が福の神です。この中央で演じておられるのか丸石やすしさんというプロの演者ですね。さすがに立ち居振る舞い、台詞まわし共に格が違っていました。

毎年、年越しのお参りをする二人連れが居ました。恒例のごとく豆撒きをしていると、何と福の神が現れます。

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高らかに笑いながら現れた福の神は、金持ちにしてやるから酒をくれと要求します。福の神は、まず松尾の神に捧げると言って呑み、残った酒も全部一人で呑み干してしまいました。そして二人の男に金持ちになるには元手が要る、その元手とは心の持ち様だと諭し始めます。

つまり、早起きをして慈悲の心を持つ事、人がやって来るのを嫌がらない事、夫婦で仲良く暮らす事だと教え、最後には福の神に酒を献じる事を忘れない様にと念を押して、高笑いと共に帰って行くのでした。福々しく酒に目の無い、何だか庶民的な福の神ですね。

全ての演目を通じて後見を務めておられたのが茂山あきらさんです。茂山千之丞さんの息子にあたり、各方面でご活躍されている様ですね。この日は演者の後ろで台詞や次の展開を短切に指示されており、舞台の維持に力を尽くしておられるのが判りました。演者にとっては心強い存在だった事でしょうね。

奉納狂言はこれで終わり、次は境内での大儺之儀が始まります。

2011年2月 7日 (月)

京都・洛東 祇園さんの節分祭2011~八坂神社~

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因幡堂を出て八坂神社へとやって来ました。ここも節分の日には行事が盛りだくさんで、祇園さんの節分祭として知られています。

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八坂神社の節分祭は2日と3日に渡って行われ、主な行事としては先斗町、宮川町、祇園甲部、祇園東の4つの花街による舞踊奉納と豆撒きが実施されます。そして3日の11時からは今様奉納が行われました。

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今様とは平安時代に始まった歌曲で、今風に言えば流行歌という意味になるのでしょうか。その今様に合わせて舞うのが今様舞、その踊り手が白拍子ですね。

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白拍子と言えば静御前ですが、大河ドラマ「義経」の静もこんな格好をしてましたね。この日舞っておられたのは保存会の皆さんだそうで、日本古来の伝統を絶やさないために活動されているそうです。

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こちらが今様を歌っておられる方達です。この日は楽器の伴奏はなく合唱だけでした。話には聞いていたけれど生で聞くのは初めてで、しばし平安時代の雰囲気を味あわせて頂きました。

この後豆撒きがあったのですが、私は一つもゲット出来ずに終わっています。だって、前の方ばかり投げるのだものなあ。

ちょっと残念だったけど、仕方がないと諦めて次に向かいます。

2011年2月 6日 (日)

江~姫たちの戦国~5 本能寺の変

「乗馬の練習をする江。しかし、馬に舐められて上手く乗りこなす事が出来ません。そこで母の市が手本を見せます。力まずに力を抜くのだと助言を与える市。そこに、家康から江に誘いの手紙が来ました。京にて信長と落ち合うのに付き合って欲しいとの事です。信長に会えると大喜びの江。」

「安土城。備中に向かう光秀に向かって、近江と丹波の所領を召し上げると伝える信長。代わりに与えられたのは出雲と石見の国でした。それは毛利の所領と驚く光秀に、帰る場所はもう無い、必死に奪い取れと突き放す信長。そして、京に向かう自分を襲う事が出来る者は光秀だけだ、謀反でも起こしてみるかと問い詰める信長。震えながら、めっそうもない事と答える光秀。」

「家康の待つ京へと旅立つ江。」

「5月22日、宗易を相手に胸の内の苦悩を語る光秀。その憔悴仕切った様子に、天下でも取ってやるという気構えで居てはどうかと諭す利休ですが、天下取りなどとんでも無い事と叫ぶ光秀。驚く宗易。」

「安土城。なぜ光秀にあそこまで辛く当たるのかと問い掛ける蘭丸。光秀は見えない殻に閉じこもり、人物を小さくしている。それに自らが気付き、脱ぎ捨てねばならない。自分に万一の事があれば、後を託せるのは光秀ただ一人だと語る信長。その心が光秀に届くかと危惧する蘭丸。それは光秀の器量次第と答える信長。」

信長が光秀を自らの後継者と考えていたとする説は、池宮彰一郎さんの小説「本能寺」に出て来ますね。そこでは信長は封建体勢を一変させる構想を抱いていたと描いていますが、このドラマにも共通するものがあります。もしかしたら参考にしたのかもという気がしないでもないですね。

それはそれで面白い設定ではあるのですが、あの扱いで光秀に信長の本心が届くと本気で考えていたとするのなら、信長というのは恐ろしく人の心が判らない人物だったと言わざるを得ないでしょう。大体、所領を取り上げられて、誰が自らの性格に欠点があるから改めようと思うのでしょうか。それ以前に、光秀は殿のために尽くしますと縋っているのに、うっとうしい奴と足蹴にさてれいるのですからね、とても信長が自分の代理とまで考えているとは光秀には伝わらないでしょう。どう見てもこの脚本には無理を感じます。

「5月24日。京で家康と合流した江。家康はこれから堺に行く、江も一緒に行かないかと誘います。」

江が家康と行動を倶にしていたというのは凄い設定ですね。この年数えで10歳の江が一人で行動するなど荒唐無稽な話だとは思いますが、まあ良いか。

その江が家康と会っていたのは仁和寺ですね。

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(江が歩いていた廊下。)

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(江と家康が対面した場所)

初回だったかな、織田の軍勢が行軍する場面も仁和寺が使われていましたが、そのロケの時に同時に撮られたのでしょうか。

「5月28日、丹波亀山城。出陣の準備が整ったとの知らせに、信長から受けた数々の仕打ちを思い返す光秀。そこに、信忠は堺に行かず京に止まるとの知らせが入ります。信長親子が一カ所に集まるという絶好の好機の到来に心が揺れる光秀。本能寺が書かれた絵図を手に、斉藤利三に向かって今途方もない事を考えていると話す光秀。その手の震えは止まっていました。」

「6月1日、本能寺。公家や僧侶、商人など茶人を一堂に集めて茶器を披露している信長。彼は中国攻めが終わったら、全部暮れてやっても良いと言い出します。毒気を抜かれて啞然とする茶人達。6月4日には中国に向かって発つという信長。一方、家康は翌日の夕刻に京に来る、その時は江も一緒だと聞き、楽しみだと微笑む信長。」

「堺。宗易の下を訪れている江。信長の本当の気持ちを知らずに、好き勝手を言ってしまった事を詫びたいと言う江。信長は天下統一が成るか成らないかの切所に居るのだと教える宗易。信長はきっと乗り越えられると答える江。宗易は信長好みの茶碗で茶を点て、江に勧めます。」

「伊勢、上野城。江の噂をする二人の姉。背後で妙な音がするのを聞いた市。その音は、信長から貰った天下布武の印が割れた音でした。不吉な予感を覚える市。」

「6月1日、亥の刻。丹波老ノ坂。軍勢を引き連れて行軍している光秀。彼は分かれ道に来ると馬を止め、西と東を見比べます。そして部下達に向かって、今から東に向かって桂川を渡り、本能寺に向かうと命じます。天下布武の名の下に多くの人を殺めた事、神仏を虐げた事、自らを神に祭り上げた事、帝をも自らの下に置こうとした事などその悪行の数々を鳴らし、天に代わってこれを成敗すると宣言しました。」

「敵は本能寺にあり!」

「6月2日、子の刻。、桂川を渡る明智軍。」

やはり光秀には信長の真意は伝わりませんでした。そりゃそうだとは思いますが、市村正親さんの演技は真に迫ったものがあったと思います。実際の光秀もあんな感じだったのかな。

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「6月2日、寅の刻。本能寺にて、異音に気付いて目覚めた信長。すぐに様子を見に走る蘭丸。ほどなく戻ってきた蘭丸、力丸、坊丸の兄弟。彼らは口々に、明智の軍勢が本能寺を取り巻いている事、その勢力は1万に達するという事、味方は100に満たない事を伝えます。下知を乞う蘭丸に、「是非に及ばす」と答える信長。そして、おぬしも天下が欲しかったとつぶやく信長。」

「備中、高松。空が赤いとつぶやく秀吉。」

「本能寺。集まってきた手勢に、己の事のみ考えよと命ずる信長。襲ってきた明智勢。懸命に戦う信長勢。自らも弓を手に戦う信長。」

「伊勢、上野城。不吉な予感に目覚める市。」

「本能寺。弓を放ちつつ、力丸に向かって女と小者を逃がせと命ずる信長。その時、信長を襲う銃弾。血に染まりながらも立ち上がり、さらに槍を振るって戦う信長。」

「堺。茶を点てている宗易。ふと異変を感じ、信長好みの茶碗を見ると、茶碗のへりが割れていました。信長の身を案ずる宗易。」

「本能寺。悪鬼の如く戦う信長。彼は坊丸に向かって、境内ことごとくに火を放てと命じます。そして自らは蘭丸を伴って、寺の奥へと入って行きます。」

「松明を手に乱入して来る明智勢。肩で息をしながら奥に向かう信長。背後に迫る炎。彼の脳裏に浮かぶのは、信じる通りに生きろと言い聞かせた時の江の姿。やがて彼は立ち止まり、蘭丸に向かって自分の首、骨、髪の一本に至までこの世に遺すなと命じます。そして、蘭丸から脇差しを受け取ると、これまで良く仕えてくれたと労い、さらばじゃと言って奥の部屋へと消えました。」

「後に残った蘭丸。押し寄せる明智勢に対峙し、ここから先は一人たりとも通すなと下知して、敵勢の中に切り込みました。」

蘭丸、坊丸、力丸の三兄弟は、本能寺の変で信長と共に殉じた事で知られます。その墓は信長の墓と共に阿弥陀寺で見る事が出来ます。

「寺の奥へ奥へと入って行く信長。その先で見たのは微笑む江の姿でした。江の幻に向かってわしは存分に生きたぞと語りかける信長。その言葉を聞いて、静かに消えていく江の幻。崩れ落ちていく本能寺。人間50年、潮時かもしれんなとつぶやいて、光の中へと消えていく信長。」

何で信長の最後に出て来るのが江なんだと思いますが、ここは主人公ですから当然と言えば当然でしょうか。江は信長の薫陶を受けて育ち、その衣鉢を継いだという設定でこれから先も進められるのかな。

「堺。不吉な夢を見て飛び起きた江。彼女は信長の身に良くない事が起こったかも知れないと家康に訴えます。そこに、本能寺で異変があった事、異変の主は光秀である事、信忠も襲われて洛中の織田勢は全滅した事が伝えられます。驚きつつも、次の手だての為に立ち去る家康。信長の安否を気遣い、京に行かないのかと忠次達に迫る江。既にここ堺も危ないかもしれないとたしなめる忠次。」

「本能寺。信長の首を探し求めている光秀。信長の首を晒せば天下は変わる、この光秀の物となるのだと叫ぶ光秀。」

「堺。逃れるなら、伊賀を抜けて伊勢に出るしかないと決断した家康。信長は生きている、京に行くのだと縋る江。生きて信長に会いたいのなら、ここは逃げるのだと諭す家康。彼は忠次に向かって支度を命じます。足手まといになってはと、自ら別行動を取ると決めた侍女達。」

「本能寺。信長の首が見つからない事に苛立ちを隠せない光秀。」

信長の遺骸は確かに見つかりませんでしたが、いち早く焼け跡から運び去った人物が居る為とも言われます。それは先に紹介した阿弥陀寺の清玉上人が行った事とされており、俄には信じがたい話ではあるのですが、焼け跡からは見つかっていない以上、否定も出来ないという事になるのでしょうか。

「とある山中。山小屋に身を隠している家康達。そこに逃走用の馬が連れて来られました。苦手な馬を見て尻込む江。」

「わずかな坂道で、馬を御せずに立ち往生する江。自分の馬に乗せるかと家康が言った時、野武士達が群がり出ました。たちまち囲まれて進退窮まる江。警護の者も倒されてしまった時、江の耳に信長の声が聞こえてきました。そして、背中に信長の幻を見る江。彼女は幻が命ずるままに馬を御し、野武士達の囲みを突破します。咄嗟に、忠勝に命じて金をばらまかせる家康。金に群がる野武士達。その隙に逃げ出す家康達。」

このシーンの舞台になったのは、糺の森でしたね。あたかも本当の山奥の様に見えていましたが、カメラワークの妙と言えるでしょうか。

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「信長の亡霊と共に馬を走らせる江。そちは生きよという信長の言葉を聞き、信長が死んだ事を悟る江。おじ上と叫びながら疾走する江。」

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信長の墓は何カ所もあるのですが、正統派なのはこの本能寺の墓でしょうか。遺体は見つかっていないのですから供養塔と言うべきかも知れませんが、事件の舞台となった寺ですからここにあってしかるべきでしょうね。

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もう一つ、大雲院の墓はこちらです。信忠と共同の墓標で、事件の5年後に建てられた墓ですから、当然ながらここにも信長の遺体は眠っていません。ただ、正親町天皇の勅命によって建てられたという点では権威あるものと言えなくはないですね。

さて、本能寺の変に続いて次回は山崎の合戦前夜が描かれる様です。そこにはまた江が絡んでいく様ですね。10歳の女の子がなぜと言いたくなりますが、そこはこのドラマのコンセプトという事で受け入れるしか無いのでしょう。それよりも、光秀がどう描かれるのかを見たいという気がしています。

2011年2月 5日 (土)

京都・洛中 節分2011~因幡薬師~

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2月3日は節分。年が改まる前日のこの日は、京都の各地で様々な行事が行われます。京都好きには外せない一日ですね。なので、年明け早々に休暇の取得を宣言し、仕事をあれこれ調整してお休みを頂きました。

せっかくの有給ですから、目一杯活用しようと幾つかはしごをして来たのですが、最初に訪れたのがここ因幡薬師です。

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因幡薬師については以前に紹介した事があるのですが、由来は書いてなかったですね。

元はと言えば、ここは橘行平という人物の邸でした。行平は国司として因幡国へ赴任していたのですが、任期を終えて京に帰る途中、夢のお告げによって賀留津の海中から薬師如来立像を引き上げました。行平は当地に寺を建ててこれを安置したのですが、なんとこの薬師如来像が行平の後を追って京に飛来したのです。行平はこの薬師如来像を屋敷内に納め、お祀りしたのが因幡薬師の始まりとされています。

この故事があったのは長保5年(1003)の事とされますが、その後天皇家の篤い信仰を受け、安元年(1171)には高倉天皇から「平等寺」の寺号を賜わりました。

日本三大薬師の一つに数えられ、江戸期までは広大な寺域を有した大寺として栄えたのですが、幕末の大火で焼けて以来すっかり衰えてしまい、今は以前の様な賑わいは見られません。

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因幡薬師は因幡堂とも呼ばれています。この扁額を書いたのは三条実美公、さすがに堂々たる字ですね。

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そして節分の日には、朝10時から野菜の接待を受ける事が出来ます。私はネットで情報を知ったのですが、10時前に行っても何の告知もなく、間違えたのかとちょっと不安を感じました。でも、数人の人が集まっている様子だったので暫く待っていると、このテーブルが出て来たという次第です。先着100名なのですが、この時境内に居たのは10人程かな、もっと多いと思っていたので意外でした。

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頂いたのは、7つのん(運)の付く野菜のセットです。つまり、キンカン、レンコン、ニンジン、ギンナン、インゲン、ナンキン(かぼちゃ)、カントン(さつまいも)ですね。それぞれ小さく切られた一切れずつが入っていたのですが、キンカンを除いて軽く調理がしてあり、とても美味しかったですよ。

朝から嬉しい授かり物を頂けて、幸先の良い出だしでした。

なお、因幡薬師では、この日の夜には300本のロウソクを灯す万灯会が行われています。こちらは行けなかったのですが、さぞかし幻想的な光景が広がっていた事でしょうね。

2011年2月 4日 (金)

京都・洛東 吉田神社~節分祭 追儺式~

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平成23年2月2日の夜、吉田神社の節分祭に行って来ました。吉田神社には何度か来てますが、節分祭に参加するのは初めての事です。

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吉田神社では2月2日から4日にかけて節分祭が行われますが、そのメインとも言える追儺式は2日の夜に行われます。

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登場するのはこの夜の主役である方相氏と童たち、そしてもう一方の主役である鬼達ですね。

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鬼は何匹居たのかな、登場した頃は威勢が良く、見物客に向かって挑み掛かるなど、鬼らしいパフォーマンスを見せてくれます。

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そして舞台が社殿に移ると、陰陽師の祭文、殿上人が放つ芦の矢、そして方相氏の矛によって鬼達が懲らしめられます。その様子は残念ながら見る事が出来なかったのですけどね、来年以降の楽しみとしておきます。

次に方相氏と鬼が戦う動画をご覧下さい。

拝殿から追われた鬼は、這々の体で逃げ出してきます。しかしまだ元気が残っているのか、観客に凄みを利かせ、さらには無謀にも方相氏に反撃を試みます。しかし、鬼退治の専門家である方相氏に敵うはずもなく、あえなく返り討ちにあってしまいます。

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この日と翌日は、境内は800軒とも言われる屋台で賑わいます。あらゆる種類の露天商が集合している訳ですが、中でもこの日ならではの店が年越し蕎麦屋さんでした。店を出していたのは河道屋さんでしたが、節分で年が改まるという事なのでしょうね。

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それにしても凄い人出で、歩くのも大変な位でした。この日は仕事を終えてから駆けつけたのですが、着いたのがほぼ6時前でして、拝殿付近は既に人で埋まっていました。私としては様子が判らないので通路側に行ったのですが、10列目くらいだったでしょうか、とても前が見えるという状態ではありませんでした。

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ところが、じっと立っていると後ろからどんどん押されるのですよ。そのまま仕方なく前に進んでいると、いつの間にか2列目くらいまで出る事が出来ていました。満員電車の要領と言いますか、無理をせず流れに身を任せていたのが幸いしたのでしょうか。

持っていたのがコンデジで、しかも手を伸ばしての片手撮りばかりという事であまり良い写真はありませんが、雰囲気は判って貰えるかな。

来年は出来ればもっと早く来て、方相氏と鬼の戦いをもっとじっくりと見たいものだと思っています。あと、抽選券付きの豆を買ったので、結果が出るのが楽しみですね。抽選は8日、さて何が中るのかな。

2011年2月 3日 (木)

新選組血風録の風景 ~沖田総司の恋 その4~

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(坂の下では、京都の町に灯りともり始めていた。それを眺めながら、「京の秋の灯ともしごろというのは、いいものだなあ、総司。みんな生きてやがるなあ、てえ感じがする。」と語りかける土方。)

「この作品中で、私が一番好きなシーンがここなのですよ。京都を離れて数年経った頃、この一節を読んだ時に目の前に故郷の景色が広がった様な気がしたのです。矢も盾もたまらず、今すぐ京都に帰りたいと思ったのを覚えています。」

「以来、秋の灯ともしごろになると、清水坂に出かけてみる様になりました。ただ、小説の様なシーンは、残念ながらほとんど見えないのですよね。屋根越しに一部見える場所もありますが、感慨に耽るという程ではないのです。」

「ですので、小説のシーンを思い浮かべるには、清水寺の高台に立つ外はありません。特に西門の南側はお薦めですね。あと、場所は違うけれど、霊山の坂本龍馬の墓の前、あるいは高台寺駐車場なんかも良い眺めです。」

(あの娘を貰うが良いと言う土方。そんなんじゃないと答える沖田。彼は自分が新選組隊士であるとは悠に告げていなかった。京の人間が自分たちをどう見ているかを、沖田は痛い程知っていたのである。しかし、土方や近藤にはそれが判らない。)

「新選組隊士が「壬生浪」と呼ばれて蔑まれていた事は良く知られています。当時の京都の人にしてみれば、余所者が警察権を持って我が物顔に振る舞うのが片腹痛かったのでしょう。しかも、その前身がただの浪人集団であった事を知っている訳ですから、歓迎される理由には乏しかった事が想像されます。」

(屯所に戻ってから、土方は近藤に今日の一件を報告した。そして悠の事に触れ、機を見て近藤から玄節の方に縁談を持ち込んではどうかと持ち掛けた。これには沖田家の相続の事情も絡んでいた。)

(沖田は長男として宗次郎という名を貰っていた。姉の光もまた、沖田が成人した後は家督を継がせるつもりで居た。しかし、林太郎という義兄が既に家を継いでいる事に遠慮した沖田は、名を総司と改め、跡継ぎである事を示す宗の字を捨ててしまった。この事を知っている近藤達は、沖田にはいち早く嫁を持たせて、沖田家の跡取りとなる子を設けさせるべきだと考えたのである。)

「沖田の幼名は、惣次郎と言いました。これは、日野の八坂神社に奉納されている天然理心流の献額に記されている事から確認出来ます。この額が奉納されたのは1858年(安政5年)の事で、天保13年生まれ説を採れば17歳の時となりますね。」

「その後、1861年(文久元年)に塾頭となった頃、惣司と改名している事が判ります。理由は判りませんが、人の上に立つ立場となった事で心機一転をしたかったのかも知れません。」

「なお、彼の墓は東京麻布の専称寺にありますが、そこには宗次郎と刻まれています。小説ではこの事実を踏まえて、跡継ぎである事を放棄したと創作したのでしょう。」

「余談ですが、この専称寺があるのは、六本木ヒルズのすぐ近くになります。私が行ったのは20年以上前の事なのでヒルズはまだ無かった頃なのですが、当時も十分賑やかな場所でした。そんな華やかな場所から少し外れただけで、江戸の香りがするお寺があったのですね。既に出入りは禁止されていて外から眺めただけでしたが、屋根が付いているのですぐに判りました。千羽鶴がかけてあったかな。小説の彼方にあった人物が急に目の前に現れた様な気がして、しばし見とれていたのを覚えています。」

(翌日、近藤は玄節の家を訪れた。玄節は新選組の局長の来訪に驚いたが、きっと自分が西本願寺の侍医を務めている事を知り、その嫌がらせに来たのだろうと見当を付けた。彼はあしらってやるつもりで近藤を座敷に通した。ところが、近藤は丁重な態度で臨んで来る。あてが外れて戸惑う玄節。)

(しかし、近藤の用件が悠の縁談である事、その相手が沖田であり、彼も又新選組隊士である事を知るに及んで玄節の驚きは頂点に達した。本願寺との関係がある以上、新選組とは関わりを持ちたくない玄節は、悠は医者の娘らしく医者に嫁がせるつもりであると言って婉曲に断った。玄節の本心を知りながらも大人しく引き下がった近藤。)

(屯所に帰り、事の顛末を沖田に話す近藤。驚いて、もう半井家にはいけやしないと冷や汗をかく沖田。相手は西本願寺と関わりのある医者だ、新選組の幹部が相手にすべきではないと諭す近藤に、私はただ遠くで見ているだけで良かったんですと答える沖田。何も言うなとしたり顔でうなずく近藤。)

「勇五郎の回想録では、近藤は縁談をまとめようとしたのではなく、沖田を諭して娘と別れさせたとあります。そして、娘には別の縁談を持ち掛けて、堅気の商人の下に嫁がせたのでした。近藤が反対した理由は判りませんが、沖田の相手には不足だと考えたのだとも、沖田が不治の病に罹っている事を考慮したのだとも言われます。」

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(夕方、一人で清水寺まで出かけた沖田。彼は誰も居ない音羽の滝の側まで行った。今日は八の日ではないので、想う人が来る事はない。それでも日が暮れまでじっと座っていた。やがて、奥の院に灯明が灯る頃になっても、沖田は座ったままで居た。そして、時々滝に手を伸ばしては水に触れてみた。悠もまた、こういうそぶりをしていた。)

(灯明を持った僧が近付いてきて、ご苦労様ですと言って立ち去った。夜参りの信徒の一人だと思われたに違いない。)

「前にも書いた様に、沖田は医者の娘の事を思うと涙を浮かべていたと言います。その気持ちを思いやってこの下りを読むと、切ないものがありますね。寂しいけれど、綺麗な良いシーンだと思います。」

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「沖田の女性関係と言えば、京都の光縁寺に墓碑がある沖田氏縁者が知られています。元々は過去帳に記載があっただけなのですが、広く世間に知られると見せて欲しいという問い合わせが重なったため、当寺の御住職が判りやすい様にと墓碑を建てられたのでした。」

「この女性が沖田とどういう関係にあったのかは判りませんが、ちゃんとした戒名を持つ事、その戒名は沖田がつけてやったのだろうと推測される事から、内縁の妻だったのではないかとも推測されています。まあ、これは想像の域を出ないのですが、もしこれが事実だとすると、薄幸の美青年というイメージからは少し遠のきますね。」

「もう一人、江戸に居た頃に一方的に惚れられた事があるとされています。その相手とは近藤の養女であったとされ、沖田の押しかけ女房になろうとしたのですが相手にされず、遂には喉を突いて死のうとしました。幸い命は取り留めて、結局は別の人物の妻に収まったと言われるのですが、何やらストーカーじみていますね。」

「史実はいつか明らかにされる時が来るかもしれませんが、私としてはこの小説のストーリーが好きですね。沖田総司のイメージは、やはりこうでなくちゃと思っています。」

2011年2月 2日 (水)

新選組血風録の風景 ~沖田総司の恋 その3~

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(沖田はさりげなく、近くの掛け茶屋の床几に腰を下ろした。土方もそれに倣ったが、まさかそれが沖田の企みだったとは気が付かなかった。)

(沖田は茶屋の小女に餅を頼んだ。その様子に慣れたものを感じた土方は、内心この小女が沖田の目当てではないかと目星を付けた。土方は木漏れ日が差す風情に気を良くし、俳句をひねり始めた。)

(沖田はそんな土方を余所に、ひそかに周囲に目を向けていた。やがて滝の側に居た娘を見つけた。医者の娘である悠である。彼女はかがんで滝に向かって手を伸ばし、柄杓で水を汲んでいた。彼女の側には老女が居た。)

「このあたりは、小説ならではのデフォルメを感じます。つまり、滝の近くにしゃがんで普通の柄杓を伸ばした位では、滝までは届きそうにはないのです。今は滝の裏から水を汲むのが一般的ですが、それでも相当に長い柄杓が用意されています。ましてや、滝壺の周囲からではさらに長い柄杓を持たないと無理でしょう。まあ、あるいは寺に用意してあったのかも知れませんが、正直言ってあまり絵になる姿ではありませんね。」

(沖田が二度目に玄節の家に行った時、入り口で悠とすれ違った。その時悠は手桶を持っており、怪訝そうな沖田に向かって、八の日にはお茶を点てますと言って出て行った。何の事か判らない沖田は玄節に、京都では手桶で茶を点てるのかと聞いた。すると玄節は笑いながら、あれは音羽の滝に水を汲みに行ったのだと教えてくれた。沖田はきっと悠は八の日になれば同じ時間に音羽の滝に行くのだろうと見当を付け、清水寺に通う様になったのである。)

(沖田は茶屋の奥から盗む様にして悠を見ていた。しかし、悠の方からは暗がりになるので沖田には気付かない。その時、俳句が出来た土方が、笑いながら沖田に声を掛けた。しかし、沖田の目は悠に張り付いている。土方はそんな目で他人の娘を見るものではないと笑い声を上げた。その声に振り向いた悠は、そこに沖田が居る事に気が付いた。)

(悠は老女に休んで行きましょうと声を掛け、茶屋の中に入ってきた。悠はあもをと小女に頼んだ。何も頼んでいなかった土方もそれに倣って、あもをくれと注文した。思わず吹き出しそうになる小女と悠。あもというのは、餅を指す女児の幼児言葉だと土方は知らなかったのである。運ばれてきた餅を見て、なんだ餅かと言いながら仕方なく食べ始める土方。)

「お餅の事を「あも」と呼ぶのはあまり聞いた事がないですね。ただ、子供の頃近所のおばあさんが「あもさん」と言ってお餅をくれたのは覚えています。ですから、やはり京言葉の中に餅を指す「あも」があるのは確かなのでしょう。今の女の子達が使うかは疑問ですけどね。」

(その間、悠は沖田に話しかけていた。父は寝ていろと言ったはずなのに、こんな所まで歩いてきて良いのかと聞く悠に、普段は寝ているが今日は気晴らしのために出て来たのだと答える沖田。それを聴きながら、昨日祇園車道で浮浪の徒を斬ったばかりではないかと不審に思う土方。)

「この小説を読んで、ずっと気になっていたのが祇園車道という地名なのですね。どう考えても思い当たる場所が無いと思っていたのですが、やっと見つけました。縄手通と白川が交わる地点から南に下がったところにある道が、車道と言う様です。縄手通から川端通に抜ける短い道路なのですが、かつては牛車が通る様な道だったのでしょうか。それにしても、著者は何でこんなマイナーな地名を使ったでしょう?馴染みの店でもあったのかしらん?」

(気晴らし程度なら良かったと言う悠に、八の日のこの刻限に来ますと答える沖田。すぐ様その意味を悟り、うなじに赤みを上らせた悠。彼女は老女に促されるままに立ち上がり、黙って頭を下げて出て行った。)

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(沖田と清水坂を下り始めた土方。彼は石段下で提灯を借り、担保として印籠を置いた。そして、この男が次の八の日に返しに来る、それ外はいつも寝ているそうだと沖田に向かって言った。)

(坂を下りながら、土方は労咳だったのかと沖田に聞いた。土方や光を心配させたくない沖田は、ただの疲れだと誤魔化したが、土方は労咳だろうと目星を付けていた。その一方で、あの娘が目当てかと問い掛ける土方。あんな良い娘が自分を好いてくれるはずがないと答える沖田。そこまでは聞いていないと土方。)

「昨日紹介した勇五郎の回想録では、沖田はこの娘の話になるといつも涙ぐんでいたとあります。泣く子も黙る剣の達人も、純情な一人の青年だったという事なのでしょう。作者はこのエビソートを元に、沖田を爽やかな好青年として描いたものと思われます。そして、この作品によって、沖田のイメージが固まったのでしょうね。著者の豪腕、恐るべし、です。」

2011年2月 1日 (火)

新選組血風録の風景 ~沖田総司の恋 その2~

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(新選組血風録の概要)

(池田屋事件の後、会津藩から医者達が来て隊士の手当てをしてくれた。しかし沖田については外傷が無く、医者の見立てでは内科の領分だろうという事であったが、取り立てて労咳であるとは言われなかった。しかし、会津藩の外島機兵衛が近藤に、沖田は労咳ではないかと耳打ちした。そして、京都には良い医者が居ると言って紹介し、手配まで請け負ってくれた。)

「池田屋事件の後、会津藩から医師が派遣されて来た事は、子母澤寛の新選組遺聞に記されています。その記述に依れば、屯所に来たのは容保公の御側御医師の二人で、吉岡昌玄と高橋須という人物でした。ただし、沖田を診察したとは書かれていません。と言うより、池田屋事件で沖田が倒れたとは全く記されていないのですね。この事が、沖田熱中症説の根拠の一つになっています。」

(10日ほど後、ようやく起き上がった沖田は屯所を抜け出し、近藤達には黙ったまま医者の下を訪れた。医者の名は半井玄節と言い、法眼の位を持っていた。その屋敷は四条烏丸を東に入ったところにある水口藩邸のさらに東隣にあった。)

「この記述は古地図を見るとほぼ正確に辿る事が出来ます。そして、水口藩邸の東隣とは四条高倉南側に当たります。今その場所に行くと、なんとまあルイ・ビトンの店になっているのですね。黒板塀の瀟洒な屋敷が煌びやかなブランドショップになっているとは、時代の流れを感じずには居られません。」

(沖田は門前まで来てみたものの、中に入るべきかためらっていた。その時、背後から若い娘に声を掛けられた。その様子からこの家の娘だと判ったが、沖田は恥じらい、間違いだと言って一度は立ち去ろうとした。しかし、思い直して立ち戻り、娘に患者の沖田総司ですと言って中に入った。)

「沖田が医者の娘と恋仲であったとするエピソードは、やはり新選組遺聞の中に出て来ます。近藤の娘婿である勇五郎の回想の中で語られている話ですが、単に医者の娘とあるだけで、どういういきさつがあったのか、その娘の名前は何だったのかなどは一切判りません。」

(診察室では、新選組だとは名乗らず、相手の言うままに会津藩士として通した。新選組の評判が、京都では酷く悪いという事を気にしたのである。玄節は薬は出すがとにかく大人しく安静にしている事だ、それが守れないのなら無駄だと言った。沖田は内心それは無理だと思ったが、大人しく寝ていますと答えて帰った。)

「池田屋事件から蛤御門の変まではひと月あまりですが、その間は沖田も療養に専念していた様です。しかし、その後は一番組長に任じられるなど、とても療養どころではなかったと思われます。このあたりも、近藤や土方は何をしていたのかと言いたくなりますが、きっと見かけ上は回復した様に思えたのでしょうね。このあたりが、この病気の怖いところでもあるのです。」

(それから以後、沖田は5日に一度は屯所を抜け出し、四条通を東に向かう様になった。土方はそれを気にして、沖田に女が出来たのではないかと近藤に相談した。近藤は悪い女ではあるまいなと気に掛けたばかりであった。)

(10月になった。ある日の午後、沖田が屯所から出ようとするところを、土方が呼び止めた。どこに行くのかと問い掛けると、清水寺に行くと答える。土方は自分も行くと言って沖田と共に歩き出した。)

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(土方は沖田が遊里に行くものと思っていた。ところが、沖田は八坂の塔から三年坂を過ぎ、清水坂を上り始めた。このまま清水寺に行くのかと聞くと、本当ですと沖田は答えた。)

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(やがて坂を登り切ると仁王門があった。そこから西門を過ぎ、さらに舞台へと出た。まだ紅葉には早かったが、舞台から見た谷には楓の葉が渦をなす様にして満ち溢れていた。そして西を見れば天が開け、西山の峰々と王城の屋根の波が目に飛び込んできた。豊玉の俳号を持つ土方はこの絶景を見て素直に喜び、沖田の目的が遊里でなかった事に安堵した。)

「この作品は、血生臭い話がほとんどであるこの連作にあって、美しい光景が描写されているという異色の作品ですね。豊玉師匠が描かれる事も少なく、土方の隠れた一面が覗く興味深いシーンです。」

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(沖田は自分の目論見がばれていない事を知った。彼は土方を誘い、石段を下りていった。そして、さりげなく誘導して音羽の滝の前に出た。)

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(土方は、音羽の滝が三筋のか細い流れである事を知って驚いた。彼は、名高いこの滝はきっと轟々瀑々たる飛瀑だろうと思っていたのである。沖田はこの滝の水が柔らかく、茶を点てるには良いとされており、茶を嗜む人はわざわざここまで汲みに来るのだと教えてやった。)

「三筋の滝にはそれぞれ御利益があるとされ、右から延命長寿、縁結び、学業成就と言われます。そして、もう一つの説があって、右から健康、美容、出世とも言わます。どちらを採るかはひとそれぞれですね。」

「この滝の水がお茶に良いとされているのは事実で、清水寺のホームページにもお茶の水汲み場となって来たという記述があります。今でもこの水を汲みに来る人が居ると聞きますが、こんなに大勢の人が居る中でどうやっているのでしょうね。よほど朝早くに来ているのかしらん?」

「私はまだ試した事が無いのですが、今度ペットボトルを持参して汲んで来ようかな。いったいどんな味になるのでしょうね。」

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