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2010年10月

2010年10月31日 (日)

龍馬伝44 ~雨の逃亡者~

「京都で薩土盟約を締結し、長崎に戻った龍馬。薩摩が土佐に協力すると聞き手放しで喜ぶ惣之丞に、これからが大事、今象二郎が容堂候に大政奉還建白について願い出ていると釘を刺す龍馬。」

「土佐、高知城。容堂候に薩土盟約を示し、大政奉還建白書を提出する様に進言する象二郎。薩摩は大政奉還が実現するなどとは思っていない、奴らはただけ戦がしたいだけだと煮え切らない容堂候。それならば土佐藩も軍備を整え、兵を挙げるのかと口走る象二郎。血相を変えて象二郎にを足蹴にし、大恩ある徳川家に土佐が戦を仕掛けるなど未来永劫あり得ないと叱りつける容堂候。土佐はこれからの日本の要にならなければならないと懸命に訴える象二郎。苦しげに顔を歪める容堂侯。」

「土佐商会。国元から届いた書状を読み、容堂候の説得が難航している事を知る龍馬。彼は弥太郎にミニエー銃千丁用意する様に頼みます。大政奉還に失敗し、戦になった時に供えての武装でした。」

「引田屋。お慶の商談の場を取り持つお元。彼女のおがけで商談がうまく行ったと感謝するお慶。」

「引田屋から引き上げるお元と妹芸子。その途中騒ぎが持ち上がります。二人の外国人人水夫を、白い着物を着た武士が切り捨ててしまったのです。その現場を目撃したお元達。殺されたのはイギリス船「イカルス号」の水夫達でした。」

「土佐商会。龍馬に頼まれたミニエー銃が手に入ったと喜んでいる弥太郎。そこに、イギリス公使の通詞であるアーネスト・サトウが訪ねてきました。サトウは、水夫を殺した犯人は白い着物を着ていた事が判った、海援隊士はいつも白い袴を履いていると聞いていると切り出します。白い着物を着た者など幾らでも居ると抗議する弥太郎ですが、サトウはパークスは下手人を引き渡さなければイギリスは土佐を攻撃すると言って、通告書を手渡して帰ります。」

「長崎奉行所。海援隊を取り調べる様に要請するパークス。龍馬を捕らえる好機と感じて、快諾する奉行。彼は配下の者に、龍馬を捕縛する様に命じます。」

「海援隊本部。何と言う事をしてくれたと怒鳴り込んできた弥太郎。自分たちがそんな事をする訳がないと反論する龍馬。グラバーやオールトが、もう自分たちとは取引しないと通告してきたと吐き捨て、どうして自分の商売を邪魔するのかと龍馬に当たる弥太郎。その時、奉行所の役人が踏み込んできました。あわてて龍馬を隠す隊士達。」

「龍馬を出せ、ここには居ないと押し問答をする役人と隊士達。その時、惣之丞が自分を奉行所に連れて行けと名乗り出ます。心配する仲間達に、自分が丸く収めて来ると言って奉行所に向かう惣之丞。」

「こうなったら自分たちで犯人を捜すしか無いと言う龍馬。その言葉に応じて諸方に散る隊士達。弥太郎はややこしくなるから龍馬はここに居ろと言い捨てて出て行きます。忌々しげに見送る龍馬。」

「長崎奉行所。惣之丞を取り調べる奉行。龍馬の居所を聞きだそうとしますが、惣之丞は知らぬと白を切ります。海援隊は日本を救おうとしている、異人を斬る者など居るはずがないと言い張る惣之丞に、そういうふざけたやつつが大嫌いだ、龍馬など謀反人に過ぎんと決めつける奉行。重ねて龍馬の居場所を聞く奉行。あくまで知らぬと言い張る惣之丞。取り調べを打ち切る奉行。牢に連れて行かれる惣之丞。」

「お元を呼んだ奉行。事件当夜の様子を聞く奉行。下手人は龍馬ではなかったのかと問い掛ける奉行。違うと答えるお元。いつから奴の味方になったのかと恫喝する奉行。重ねて龍馬の居所を聞く奉行に知らぬと答えるお元。下がれ、と怒鳴りつける奉行。」

「長崎の町で、下手人を捜す海援隊士達。目撃者から「しゃからしか」という声を聞いたという証言を得て、それは福岡の方言だと活気づく隊士達。」

「お元の置屋。お元に会わせてくれと訪ねてきた弥太郎。お元は居ないという女将を押しのけ、部屋に入り込む弥太郎。その時、長崎奉行所の役人がお元の部屋を改めると言って踏み込んで来ました。どうしてお元の荷物を調べるのかと役人に問い掛ける弥太郎。あの女は龍馬と出来ていたと答える役人。お元の部屋で叫ぶ部下達。彼らが見つけたのは十字架が刻まれたかんざしでした。悪魔でも見つけたかのごとく、おそれおののく役人達。キリシタンと息を呑む弥太郎。」

「かくれキリシタンの集会所。信者達と共に一心に祈りを捧げるお元。そこに踏み込んできた長崎奉行所の役人達。とっさにお元を逃がす男の信者。隠し通路から一人逃げ出すお元。役人達に取り押さえられる信者達。お元を逃がすなと叫ぶ役人。」

「海援隊本部。なす事もなく、一人佇む龍馬。そこに帰ってきた弥太郎。彼はお元はキリシタンだったと叫びます。お元が逃げていると聞き、探しに行くと飛び出す龍馬。お元がキリシタンだと知っていたのかとその背中に向かって叫ぶ弥太郎。そこに駆け込んできた陽之助。彼は下手人が判った、水夫を殺したのは福岡藩士だと弥太郎に告げます。」

「長崎奉行所。お元のかんざしを眺め、いままでお元が知らせてきた事は、全部でたらめだったのかと呻く奉行。その時、弥太郎が訪ねてきます。追い返せと命ずる奉行ですが、押し通ってくる弥太郎。彼は奉行に向かって、イギリス人水夫を殺したのは福岡藩士であると訴えます。その夜、福岡藩邸に戻ってきた金子才吉が、イギリス人を斬ったのは自分であると言って腹を切ったと申し述べる弥太郎。」

「しかし、奉行は弥太郎が差し出した書状を破り捨て、弥太郎に投げつけます。そこまでして龍馬をかばいたいかと言う奉行に、あくまで疑うと言うのなら土佐藩で取り調べると答える弥太郎。この長崎では、土佐藩と言えども自分が認めなければ商売など出来ない、さっさと龍馬を引き渡せと怒鳴りつける奉行。商売だけはと、庭に飛び降りて土下座する弥太郎。彼を無視して退席する奉行。必死で呼びかける弥太郎。」

「夜の丸山。お元を探す龍馬。」

「引田屋。お慶の宴席に駆け込んで来る妹芸子。彼女はお慶に、お元が隠れキリシタンだったと訴えかけます。」

「夜の町を逃げまどうお元。彼女を捜す龍馬。町中に溢れる役人達。慌てて身を隠す龍馬。」

「雨の中、弥太郎と出くわした龍馬。お前が奉行に捕まったら良いんだと冷たく言い放つ弥太郎。彼は龍馬にお前のせいで、土佐商会も、お元の人生も滅茶苦茶になったと言いがかりを付け、お元はあたりまえの幸せを願っていた、それを壊したのはお前だと迫ります。長崎奉行は誰がイギリス人を殺したかはどうでも良い、幕府に逆らうお前を捕まえたいと言う、自分もお元もお前のとばちりを食らってしまったのだと龍馬を責める弥太郎。お前は疫病神だ、自分の商売が上手く行きかけると、いろは丸を沈めただの、イギリス人を殺しただの、いつも邪魔ばかりする、わしの前から消えてしまえと言い捨てて去っていく弥太郎。呆然と見送る龍馬。」

「海岸を逃げまどうお元。跡を追ってきた龍馬。龍馬と気付かずに這って逃げるお元。洞窟の奥でお元を見つけた龍馬。みんなで笑って暮らせる国はどこにあるのかと龍馬にむしゃぶりつくお元。大丈夫だと抱きしめてやる龍馬。」

「イギリス領事館。戦の用意が出来ている、言い逃れに終始するのなら土佐に攻め込むばかりだと話すパークス。彼の言葉を筆記しているサトウ。直ちに翻訳して土佐に送れと命ずるパークス。その時、龍馬がやって来たという知らせが入りました。会おうと面会を許可するパークス。」

「次室でピストルを突きつけられて立っている龍馬。そのまま公使の部屋に連れて行くサトウ。海援隊長と名乗り、水夫を殺したのは福岡藩士だと話し始める龍馬。長崎奉行は海援隊士が犯人だと言っているがと反問するサトウ。それは奉行が自分を下手人にしたい、自分たちは徳川幕府を倒そうとしている謀反人だからだと答える龍馬。」

「しかし、自分たちとイギリスは味方同士ではないのか、イギリスは幕府を倒す為に薩摩と長州の後ろ盾をしている、つまり海援隊とイギリスは同じ目的を持っていると語りかける龍馬。さらに、この国をイギリスの様な立派な国にするために必死働いている、刀を抜いてイギリス人を斬っている暇は無いとまくし立てます。あなたの言っている事に証拠は無い、命を懸けて無実だと言えるかと問い掛けるサトウ。証拠は無いがこの命を呉れてやる事は出来ないと答える龍馬。彼はひざまずいて、この龍馬の命を新しい日本の為に使わせて貰えないだろうかと訴えかけます。」

「グラバーから龍馬は日本を変えようという高い志を持つ男だと聞いている、日本を変えられるかと問い掛けるパークス。必ず新しい国にしてみせると答える龍馬。手をさしのべるパークス。その手を掴んで礼を言う龍馬。これから奉行所に行くというパークスに、もう一つお願いがあると食い下がる龍馬。」

「長崎奉行所。奉行を訪ねてきた弥太郎。惣之丞を解き放ってくれた事に対する礼を言い、土佐商会の商売もこれまでどおりに願うと口上を述べる弥太郎。これで済んだと思うなと龍馬に伝えろと言う奉行。自分はもうあの男に関わりたくない、それは自分でどうぞと答える弥太郎。」

「海岸。沖合に停泊している蒸気船。海岸にあるボートに乗っているお元。側にいる龍馬。そこに駆けつけてきたお慶。このご恩は一生忘れないとお元。パークスがお前を暖かく迎え入れてくれるから心配するなと言い聞かせる龍馬。これからは堂々とマリア様を拝める国に行けるという龍馬に、こんな芸子を、こんなキリシタンを助けてくれてと泣き崩れるお元。」

「龍馬が日本を生まれ変わらせてくれたら、帰ってきても良いかと聞くお元。みんなが笑って暮らせる国にしてみせると答える龍馬。沖にこぎ出していくボート。見送る龍馬。笑顔で去っていくお元。」

「海援隊本部。無事に帰ってきた惣之丞を出迎える隊士達。」

「忌々しげに刀を見つめる奉行 。」

「いつまでもお元を見送る龍馬。」

今回の展開はあまりにも酷いですね。史実無視と言う以前に、ドラマとしても完全に破綻しています。

まず強権を振るう長崎奉行ですが、何時の時代の悪代官なのですか。白い着物という目撃証言だけで龍馬の犯行と決めつけて捕縛しようなど、出鱈目も良いところです。そもそも、この場合急務なのはイギリスとの対外関係でしょう?龍馬は確かに政治犯かもしれないけれど、この場合は二の次なのでは?証拠も無しに犯人をでっち上げて外国に差し出すなど、国辱も良いところです。そんな配慮も出来ないと言うのか、このお奉行は。

また、土佐藩を相手に居丈高に恫喝するなど、この時期の幕府に出来るはずもありません。こんなに態度に出でられるのなら、慶喜公は何も苦労せずに済んだ事でしょうね。長崎奉行はそれほど偉かったと言いたいのか。綱吉や吉宗の時代と勘違いしているのではないのかしらん。これではあまりに安っぽくて出来の悪い時代劇ですね。その内、印籠が出て来るんじゃないかと思いましたよ。

パークスの描写にしてもそうで、一国の公使ともあろう者が、訪ねてきた客に対して、丸腰にも関わらず何人もがピストルを突きつけるという対応をするものなのかしらん?あれでは紳士の国という名が泣きますよ。それに、龍馬がぺらぺらとしゃべっただけで戦争を回避するのですか?そんな甘い対応をする公使がどこに存在すると言うのかしらん。さらには、日本の国禁を犯したお元をイギリスで匿う?そんな事をすれば、イギリスという国の信義が問われるだけではないですか。どこまでご都合主義を通すのか。

弥太郎がどうしようもなく酷い奴なのは設定だから許すとしても、自分一人だけが助かろうとするお元という設定はどうなのか。浦上4番崩れの際には、かくれキリシタン達は逃げも隠れもせずに、自ら縛に付いたと言います。彼らの結束はとても強かったはずなのに、仲間が捕まっているにも関わらず一人だけ外国に高飛びしようとするものなのかしらん?少なくとも笑顔では居られないと思いますよ、たぶん。そもそも自分のせいで発覚したのだし、せめて仲間の事は気にして欲しかったな。それに、龍馬が言う「みんな」には、お元だけが入っているのだろうか。他の信者達はどうでも良いのか。一言も触れない龍馬というのも何だか嫌だな。

ちなみに、史実の龍馬は、キリスト教に対しては寛大では無かった様です。海援隊が発行した本に「閑愁録」があるのですが、この本に書かれているのは、開国によってキリスト教も入って来る事になるがそれに幻惑されてはいけない、これに対抗する為には仏教徒が覚醒して立ち上がらなければなければならないという内容でした。著者は龍馬ではなく長岡謙吉ですが、龍馬の生存中に発行された本であり、その内容を容認していたものと思われます。これは龍馬の後進性を表すと言うよりも、当時の日本人としての当然の反応だった様です。

浦上4番崩れに対する処分は明治になってから下されるのですが、井上馨や大隈重信、小松帯刀らがこの件に関わり、最後に断を下したのが木戸準一郎でした。結果は流罪であり、江戸時代よりも遙かに過酷な刑罰が加えられたと伝わります。配流された者は3394名、うち662名が命を落としました。当然外国からは激しい抗議があったのですが、それ以上にキリシタンの害というものを恐れたのですね。当時の一流の政治家たちをもってしてもこの結果であり、一人龍馬だけが異質であった訳ではありません。龍馬伝の解説にもあった様に、信教の自由が認められるのは、明治6年を待たなければなりませんでした。

イカルス号事件ついて簡単に触れておくと、パークスが証拠としたのは、犯人が白袴姿だったという目撃証言の他に、事件の翌朝に海援隊の船と土佐藩の船が相次いで出航していたという事実があります。これが犯人隠匿のためだと言うのですが、長崎奉行所ではあまりに証拠が薄いと言って受け付けませんでした。そこでパークスは土佐との直接交渉に乗り出し、軍艦に乗って高知に乗り込みます。

一方、龍馬は事件が起こった時には京都に居ました。知らせを受けて佐々木高行ら土佐藩の重役達と会うべく兵庫に向かったのですが、船上で佐々木達と話し合っている内に船が出航してしまい、そのまま高知へと向かう事になります。

高知では後藤象二郎がパークスと応対し、事実無根であると突っぱねました。パークスも証拠も無しに土佐藩と開戦する事も出来ず、再び長崎に戻って徹底した調査を行う事になります。この間、龍馬は高知に上陸する事は出来ず、ずっと船内に潜んでいました。

長崎においては、佐々木や弥太郎、それに海援隊士達と会合を開き、千両の賞金を賭けて犯人を捜す事になりました。しかし、効果が無いまま長崎奉行所の取り調べに臨む事になります。

出席したのは龍馬ほか海援隊士、土佐藩の佐々木ら15名で、イギリス側はアーネスト・サトウ、幕府からは外国奉行が立ち会いました。つまりは、史実では龍馬は堂々と奉行所に出頭しているのですね。精査の結果、当日は二人の海援隊士が丸山に出かけている事が判りました。しかし、殺人に関する証拠はなく、犯人を特定する事は出来ずに終わっています。

長崎奉行所では、海援隊の船の出航についての届け出に手落ちがあった事、取り調べ中の証言に食い違いがあった事などを取り上げて、該当者に謝罪を求める事でけりを付けようとしました。謝罪を要求された弥太郎はすぐに謝りましたが、海援隊士の二人はいわれのない事として応じず、ついには無罪放免となっています。

事件が解決したのは明治初年になってからで、ドラマにあった様に福岡藩士の金子才吉が犯人でした。その夜、道ばたでいぎたなく寝込んでいた水夫達を見て腹立たしく思い、斬り殺してしまったと言うのです。その後で、藩に迷惑が及ぶ事をおそれて、切腹して果てたのでした。福岡藩は土佐藩の窮状を見ながらこれを隠していたのですね。

この事件によって龍馬と象二郎は、切所とも言うべきこの大事な時期に、一ヶ月以上の政治的空白を余儀なくされました。この事が土佐藩にとっては大きなマイナスとなり、薩摩藩との間に隙間が生じる事になってしまいます。

参考文献:「龍馬 最後の真実」 菊池 明、「坂本龍馬」 松浦 玲、「坂本龍馬 海援隊始末記」 平尾道雄、「龍馬の手紙」宮地佐一郎 「龍馬の夢を叶えた男 岩崎弥太郎」 原口 泉

2010年10月30日 (土)

龍馬伝 龍馬を殺したのは誰か1

(10月16日にアップした近江屋事件の続きです。)

龍馬暗殺前夜の状況を整理しておくと、次の様になります。

まず、徳川第15第将軍慶喜による大政奉還が慶応3年10月13日に表明され、14日に朝廷に奏上し、15日に勅許を受けています。さらに続けて征夷大将軍としての辞表を10月24日に提出しているのですが、これは受理されずに保留となりました。つまり、新しい政体が出来るまでは従前どおり幕府が政治を行うという態勢が続くのです。

新しい政体を決めるのは広く人材を集めた「議政所」となるはずでしたが、当面は大名達を招集してこれに代え、何度も会議が開催されました。そして、その間に様々な駆け引きが行われていきます。

まず、大政奉還の仕掛け人となった龍馬は「新政府綱領八策」を策定し、「議政所」の実現に向けて動き始めます。その新政府綱領八策は前回にも掲げていますが、再度掲載します。

新政府綱領八策
 第一義
    天下有名ノ人材ヲ招致シ、顧問ニ供フ。
 第二義
    有材ノ諸侯ヲ撰用シ、朝廷ノ官爵ヲ賜ヒ、現今有名無実ノ官ヲ除ク。
 第三義
    外国ノ交際ヲ議定ス。
 第四義
    律令ヲ撰シ、新ニ無窮ノ大典ヲ定ム。律令既ニ定レバ、諸侯伯皆此ヲ奉ジテ部下ヲ率ス。
 第五義
    上下義政所。
 第六義
    海陸軍局。
 第七義
    親兵。
 第八義
    皇国今日ノ金銀物価ヲ外国ト平均ス。

 右預メ二三ノ明眼士ト議定シ、諸侯会盟ノ日ヲ待ツテ云々。〇〇〇自ラ盟主ト為リ、此ヲ以テ朝廷ニ奉リ、始テ天下万民ニ公布云々。強抗非礼公議ニ違ウ者ハ、断然征討ス。権門貴族モ賃借スル事ナシ。

    慶応丁卯十一月             坂本直柔

これは龍馬が自筆したものであり、2通が現存しています。おそらくは何通も作成されて各方面に配布され、新体制に向けての叩き台としたのではないかと推測されています。

ここで注目されるのが「〇〇〇自ラ盟主ト為リ」の部分で、ここに誰が入るのかが謎とされています。最も有力とされるのが慶喜公で、龍馬は慶喜が大政奉還という「大功」を樹てた事を大きく評価しており、新しい時代においても慶喜公が盟主となって日本を率いて行くべきだと考えていたと言われます。

別の意見では、四賢侯の一人でかつ龍馬の(元)主君である容堂候とする説、同じく四賢侯の一人であり、大政奉還建白に同意してくれた島津久光侯とする説がありますね。もっとも穿った説としては、この八策を受け取った側がそれぞれ都合の良い名を入れて、その上で話し合えばよいと考えていたとも言われます。叩き台としては、この最後の説が一番しっくりと来る気がしますね。

次に薩摩藩の動きですが、これがまことに複雑怪奇な事をしています。この年の5月には兵庫開港問題で幕府を追い込み倒幕を実現しようと目論で四賢侯会議を招集しましたが、慶喜の反撃に遭って失敗に終わった事で、薩摩藩の方針は武力倒幕へと傾きました。そして、この方針は長州藩にも伝えられ、薩長による討幕路線が固まったかに見えました。

ところが6月に土佐藩に働きかけられると薩土盟約を結び、大政奉還路線に転換します。これには大政奉還路線を推進するが、これを幕府が拒否した場合はそれを口実に討幕の兵を挙げるという含みがありました。そして、その約束の担保として土佐藩が京都に兵を送る事になっていたのですが、容堂候がこれを認めませんでした。このため薩摩藩は方針を再び討幕路線に戻して長州藩及び芸州藩と結盟し、薩土盟約を破棄してしまいます。

これに対して土佐藩の後藤象二郎が諦めずに粘り強く交渉を重ねた結果、薩摩藩は土佐藩が大政奉還の建白書を提出する事に同意を与えました。そして10月13日に慶喜によって大政奉還の意思が示された時には、二条城に登城していた家老の小松帯刀が賛意を示したばかりでなく、その翌日には朝廷に対して速やかに大政奉還を勅許する様に求め、さらに幕府に対して大政奉還後の策を言上しています。

これだけを見ればあたかも後藤の策に乗って大政奉還路線を推進したかの様に見えるのですが、その裏では朝廷に働きかけて討幕の密勅が下りる様に策動しており、10月14日付けで受け取る事に成功しています。結果的に同日付けで慶喜が大政奉還を奏上した事で効力を失いましたが、その密勅を受け取ったのが他ならぬ小松帯刀その人でした。いったいその真意がどこにあったのか、後世から見てもまるで判りませんね。ましてや龍馬には、この裏の動きは全く見えていなかった様です。

龍馬暗殺の直前には、武力討幕のための兵力三千が薩摩を発ち上洛の途上にありました。これに呼応する様に、長州藩もまた兵を京都に送るべく動き始めていたのです。

そして、幕府方はと言うと、慶喜とその側近達は大政奉還後も徳川家が政治の中心にあり、今後も主導権を握り続けられると自信を持っていました。しかし、多くの幕臣達は慶喜の深謀遠慮を理解する事が出来ずにおり、大政奉還に反対し、かつそれを推進した土佐藩に対して怨嗟の声を挙げていました。龍馬の署名入りの新政府綱領八策はこういう時期に配布されたものであり、大政奉還の立役者が龍馬であった事が知れ渡ったと思われます。そしてその策の中で新しい政体に反対する者は断然征討すると言われては、幕臣達の恨みは龍馬に集中した事でしょう。龍馬の真意が徳川家を救う事にあったとしても、ですね。

この様な状況の中で龍馬は暗殺されてしまいました。まさに、誰から狙われてもおかしくないという状態ですね。

以下、長くなったので土曜日ごとに更新して行きます。

(参考文献)「坂本龍馬」 「幕末・京大阪 歴史の旅」 松浦 玲、「龍馬暗殺の謎」 木村幸比古、「完全検証 龍馬暗殺」神人物往来社刊 

2010年10月29日 (金)

京都・洛東 JR東海「そうだ 京都、行こう。 泉涌寺 観月とハープの調べ」レポート編

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平成22年10月23日、JR東海の主催で「泉涌寺 観月とハープの調べ」が開催されました。これは本来「そうだ 京都、行こう。」のカード会員を対象としたイベントなのですが、今回はホームページから招待状を印刷して行けば誰でも参加する事が出来たのです。

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「そうだ 京都、行こう。」の会員は、関西にはまず居ないでしょうね。それにも関わらず、開門前には沢山の人が集まっていました。たぶん、かなりの部分は私の様な招待状を持った人だったのではないでしょうか。無論、本来のツアー客の人達も訪れていましたよ。ちなみに、入場料は500円でしたから、普段の拝観料と同じですね。

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開門と同時に大勢の人が境内になだれ込みました。山門近くでは僧侶達が並び、葉っぱ形のお札を撒いてくれていました。ただ、これを空中で受け取るのは難しくて下に落ちた札を拾ったのですが、意外と競争が激しく一部で取り合いになってました。縁起物なのに、何だかなあという気がしますね。

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坂を下りたところにあるのが仏殿です。堂内もライトアップされていて、普段は暗くて良く見えない仏像もはっきりと見る事が出来ました。ただ、阿弥陀・釈迦・弥勒の三尊仏のうち弥勒菩薩像が無かったですね。これって、どこかの展示会に貸し出されているのか、それとも修理を受けているのかどちらでしょう。

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メインのイベントのハープの演奏会は、舎利殿で行われていました。ハープを演奏してくれたのは内田奈織さん、京都府の出身で、数々の賞を受賞している気鋭のアーチストですね。その音色は素晴らしく、夜の泉涌寺に幻想的な空間を演出してくれました。その一部を動画でご覧下さい。

素敵なハープの音色のバックに虫の音が聞こえていて、とても良いハーモニーを奏でていましたよ。

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もうひとつの目玉は、御座所庭園のライトアップでした。普段なら300円の別料金が必要となる所ですが、この日は追加料金は無しで済みます。相当な混雑を覚悟していたのですが、ミニコンサートの直後こそ混み合ったものの、少し経つと意外な程空いていましたよ。紅葉が盛りの頃に、もう一度来てみたいものです。

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境内にはテントが張られ、手前のテントではオリジナルの和菓子と抹茶の接待が行われていました。

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そしてもう一つのテントでは、スパークリングワインの試飲会が行われていました。何種類かあるスパークリングワインを少しずつ飲ませて貰えたのですが、おつまみも付いていてちょっとしたワインバーの様でした。私は3種類飲ませてもらっただけで、結構良い気持ちになってしまいましたね。

さすかに「そうだ、京都行こう。」と銘打つイベントだけあって、質が高くて楽しむ事が出来ました。特にハーブの演奏は素晴らしく、良い時間を過ごさせて頂いたという気分ですね。また来年もこんなイベントがあったら、是非参加させてもらいたいと思います。

2010年10月28日 (木)

京都・洛北 晩秋の庭 ~詩仙堂~

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圓光寺を出て詩仙堂へとやって来ました。いつもの事ながら、ここに来ると一度に拝観者の数が多くなります。詩仙堂の人気の高さには驚かされるばかりですね。

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その詩仙堂ではすっかり秋が深まっていました。遅れていたススキの穂もやっと出そろい、秋の風情を演出してくれています。

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この時期になると撮りたくなるのが、白の小菊と水引のコラボレーションですね。何しろ小さな花達ですので、しっかり足下を見ていないと気付かずに通り過ぎてしまうのですが、この上なく美しい花の組み合わせの一つだと思います。

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ここでもフジバカマが花盛りを迎えていました。これは園芸品種の様ですけどね、美しい事は確かです。この花にはアサギマダラが飛来する事で知られますが、園芸品種だとあまり来ないのかな。代わりに来ていたのはツマグロヒョウモンでした。

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この時期の目当ての一つがホトトギスですね。この独特の色と模様が美しい花です。下の庭に降りる階段の脇で沢山咲いていましたよ。

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今年は不調のところが多い秋明菊ですが、ここでは美しく咲いていました。ひょろひょろと伸びすぎて倒れてしまった様ですけどね、それでも沢山の花を付けていましたよ。

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これはダイモンジソウの一種の様です。こういう花がさりげなく庭の隅で咲いているのが、詩仙堂の楽しさの一つでしょうか。

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さりげないと言えば、お茶の花もひっそりと咲いていました。全くと言って良い程映えない花なのですが、その清楚さは買えるという気がしますね。

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柿の実も黄色く染まりつつありました。この実がさらに色づく頃、周囲のもみじも赤く染まり出す事でしょうね。詩仙堂の秋は、これからさらに盛りを迎えようとしています。


2010年10月27日 (水)

京都・洛北 京都紅葉事情2010 ~圓光寺~

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曼殊院から圓光寺にやって来ました。修学院に来ればいつも訪れるコースですが、変化に富んでいるので飽きる事がありません。

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山門を潜って暫く行くと、芙蓉の花が咲いていました。この花も花期の終盤を迎えつつあるところですが、気温が高い日が続いていたせいでしょう、まだまだ元気でしたね。でも、さすがにそろそろ終わりかな。

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庭園に入ると、まずこの色づいた枝が目に入りました。たぶん弱り気味の枝なのでしょうけど、色づき方は悪くないでしょう?

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宝物館の隣では、毎年真っ先に色づくもみじが、今年もいち早く染まり始めていました。この木も葉が縮れている訳でもなく、良い感じに染まってくれそうです。

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まだ色づいているのはほんの一部だけで、とても紅葉が開始したとは言えません。でも、このわくわく感は堪らないですね。

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今年は猛暑で木が弱ってしまい、綺麗な紅葉は見込めないかもと言われていました。しかし、ここに来て夏の好天続きのおかげで葉が良く育ったので、美しく染まるかもと言われ出しましたね。苔の上に落ちていたこの葉を見ると、そんな予報も真実味を帯びて来ます。どうなるかはまだ判りませんが、是非期待したいものですね。

2010年10月26日 (火)

京都・洛北 竜胆2010 ~曼殊院~

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平成22年10月23日の曼殊院です。

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この日曼殊院を訪れたのは竜胆を見る為でした。この花は咲いている時期が難しく、盛りに出会う事はなかなかありません。

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その点、今年は丁度良い時期に訪れる事が出来た様です。青い色がみんな花で、この日前後が盛りだったと言っても良いのでしょう。

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惜しい事に、庭の中ではあまり目立たないのですよ。この写真の左側に咲いているのが判るかな。あらかじめ知っていないと、気付かない人がほとんどでしょうね。

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大書院に向かう廊下の途中では、フジバカマが満開になっていました。その隣には秋明菊も咲いていて、秋の風情に溢れていましたよ。

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弁天池の周辺では、早くも色づいたもみじがありました。たぶん弱っている木なのかと思われますが、それでも発色は悪くなく、もしかしたら今年は期待できるかもと思わせてくれます。

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明日は最低気温が10度を割るそうですから、山沿いではさらに色づき始めるところが出て来るかも知れません。いよいよ楽しみな季節の開幕ですね。

2010年10月25日 (月)

京都・洛北 コスモス2010 ~修学院~

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修学院で咲いていたコスモスです。

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どういうものか、今年はあまりコスモスを見る機会に恵まれませんでした。たまたまそういう場所に行かなかった事もありますが、コスモス自体もあまり成長が良くなかった様な気がします。

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ここ修学院でも、例年に比べると花数が随分と少ない様でした。まあ、花期が終盤に差し掛かっているという事もありますが、それ以上に草丈が伸びていない株が多かったです。

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例によって、猛暑の影響がここにも出ていたのかも知れないですね。そんな事を言っていた2010年も、いつしか10月の末を迎えつつあります。

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明日からは一気に冷え込むのだとか。頑張っていたコスモスもそろそろ終わりかも知れないですね。皆様も体調など崩されぬ様にお気を付け下さい。

2010年10月24日 (日)

龍馬伝43 ~船中八策~

「長崎、海援隊本部。紀州藩との談判に勝ち、意気の上がる隊士達。そこに龍馬が現れ、京に上ると告げます。それは、今京都で開かれている四賢侯会議に出席している容堂候に、象二郎と共に大政奉還を献策するためでした。いよいよそこまで来たかと感慨深げな惣之丞。」

「下関。龍馬からの手紙を読むお龍。そこにはこれから京へ行く、日本の将来を決める大切な仕事だ。無事に戻って来るから心配するな、土産を楽しみにしておけと記されていました。京女に京土産を買ってきてどうするつもりかとつぶやくお龍。」

「東に向かう夕顔丸の船上で新しい日本のための構想を練る龍馬。」

「京都、二条城。慶喜公の御前で繰り広げられる四賢侯会議。まず長州を許すべきと主張する島津久光。兵庫開港が先と譲らない慶喜公。歯が痛むのか顔を顰める容堂候。」

四賢侯とは越前藩前藩主の松平春嶽、宇和島藩前藩主の伊達宗成、薩摩藩主の父である島津久光、そして土佐藩前藩主である山内容堂でした。彼らは主として兵庫開港の勅許を巡る問題を話し合う為に、慶応3年5月に京都に集まりました。後藤象二郎が呼ばれたのは、この会議のブレーン役としてでした。

実はこの動きには裏があり、糸を引いていたのが薩摩藩の西郷と大久保で、朝廷に無断で兵庫開港を決めた幕府に対し、その勅許を阻止する事で政治的に追い詰めて政権を覆す事を目的としていました。

四賢侯が慶喜に会ったのは5月14日の事でした。この会議において、ドラマにあった様に久光侯は長州問題を解決する事が先だと主張して兵庫開港問題を棚上げにしようとしたのですが、慶喜公に国内問題と国際問題は別だと一蹴されてしまいます。結果として四賢侯は慶喜公の弁舌の前に歯が立たず、良い様に手玉に取られてしまったのでした。その後、四賢侯会議は崩壊し、慶喜公は兵庫開港の勅許を勝ち取る事に成功する事になります。

「土佐藩、京都藩邸。薩摩は勝手な事ばかり、慶喜公も自分の事ばかりと憤る容堂候。」

「二条城。薩摩め、堂々と逆らいおってと呻く慶喜公。」

「薩摩藩、京都藩邸。容堂候は何も言わなかった、土佐藩は幕府に恩義がある故、いつものとおりの様子見だろうと会議の結果を伝える久光侯。要するに卑怯者だと吐き捨てる藩士。もう話し合いは無駄、一気呵成に幕府を攻めようと提案する大久保利通。機が熟するのを待てと制する久光侯。自分に考えがある、中岡を呼べと命ずる吉之助。」

四賢侯会議が崩壊する中で、中岡慎太郎と乾退助、薩摩藩の西郷と小松は、独自に武力倒幕を目的とする密約を結んでいた様です。つまり、勅許問題で幕府を追い詰めて倒幕を果たすという路線が潰えたため、もはや実力行使しか道は残されていないという状況になりつつあったのです。

「夕顔丸。一室に籠もり、何やら書き物をしている龍馬。そこに陽之助が入ってきます。彼は京都は人や物が集まるところ、そこに海援隊の仕事場を作ってはどうかと提案しますが、龍馬は上の空で生返事を返すばかりです。やがて、書き物を仕上げた龍馬は陽之助を振り切り、甲板へと駆け出しました。」

「夕顔丸甲板。象二郎に書き物を差し出す龍馬。黙って読み出した象二郎の表情は、やがて真剣に変わっていきます。今までに出会った人達に教えて貰った事を自分なりにまとめてみた、日本の新しい道筋だと説明する龍馬。象二郎が納得するのなら、大殿様にも見て貰いたいと進言する龍馬に、熟読した象二郎はもっと綺麗な字で書き直さないと大殿様には見せられないと龍馬に書き物を返します。象二郎の同意を得た龍馬は、嬉しそうに船室に戻って清書を始めます。これが後に船中八策と呼ばれる事になります。」

「長崎、土佐商会。商人達でごった返えす店先で、これが自分の実力だとふんぞり返っている弥太郎。そこに一通の書状が届きます。また儲け話がと喜んだ弥太郎でしたが、実は象二郎が作った18万両という新たな借金でした。わしは象二郎に騙されている、土佐商会の主任と言っても象二郎の尻ぬぐいばかりだとわめき散らす弥太郎。」

「グラバー邸。イギリスの株式会社の仕組みを聞き、イギリス流の商売を教えて欲しいと頼む弥太郎。」

「京都、土佐藩邸。象二郎と龍馬を待っていたのは、容堂候が国に帰ってしまったという知らせでした。大政奉還の策が暗礁に乗り上げた事を悟る龍馬達。」

四賢侯会議が崩壊した一つの要因は、容堂候が病気を理由に帰国してしまった事でした。彼はこの会議が薩摩藩の謀略に基づいている事に勘づき、その手には乗せられないと病気を理由に帰ってしまったのでした。

「土佐藩邸を出ようとする龍馬。そこに陽之助が現れます。彼は京都における海援隊の仕事場を見つけてきた、酢屋という材木問屋だと案内しようとしますが、龍馬は乗り気ではありません。しかし、陽之助にこれも大事な事だと諭され、気を取り直して案内しろと命ずる龍馬。この格好は駄目だと龍馬を別の場所に連れて行く陽之助。」

「大八車を引く人夫に変装した龍馬と陽之助。町中を行く内に、前方から新選組の一隊が現れます。身を隠す龍馬。隊士達をやり過ごす陽之助。彼らが通り抜けた隙に、先を急ぐ龍馬達。その時、後を歩いていた近藤から声を掛けられます。逃げられないと悟ったのか、自ら正体を明かす龍馬。」

「二人は逃げ出しますが、すぐに袋小路に追い詰められてしまいます。進退窮まった龍馬達。その時、思わぬ助っ人が現れました。爆竹を投げつけて現れたのは慎太郎でした。援軍を得て、新選組と戦い始める龍馬達。近藤にもう止めにしないかと語りかける龍馬ですが、俺の仕事はお前を斬る事だと喚く近藤。ピストルを取り出し、近藤に突きつける龍馬。彼が怯んだ隙に、威嚇射撃をして逃げ出す龍馬達。」

「慎太郎の手引きで相撲部屋に逃げ込んだ龍馬達。気付かずに通り過ぎる新選組。」

「籐吉が作る料理を旨いと言いながら食べる龍馬達。龍馬に相撲を挑む慎太郎。」

「龍馬と取り組みながら、薩摩と共に武力倒幕の策を練っていると言う慎太郎。慎太郎を投げ飛ばし、武力倒幕は駄目だ、戦に勝っても恨まれるだけだと言う龍馬。実は吉之助が象二郎に会いたいと願っていると告げる慎太郎。」

「土佐藩、京都藩邸。象二郎に吉之助の意向を伝え、薩摩に大政奉還を説く絶好の機会だと告げる龍馬。薩摩藩は土佐を戦に巻き込むつもりではないかと問い掛ける象二郎。おそらくはそうだろう、しかし薩摩に大政奉還を目指すと言わせれば自分たちの勝ちだと答える龍馬。うなずく象二郎。」

「慶応3年6月。京都・三本木の料亭で重役同士の会合を開いた薩摩藩と土佐藩。仲介人として同席する龍馬と慎太郎。土佐が薩長に加わると聞いて百万の味方を得た思いがすると切り出す吉之助。幕府はすでにガタが来ている、日本は生まれ変わらなければならないと答える象二郎。しかし、土佐藩の顔は我々とは別のところを向いているのではないかと問い掛ける吉之助。戦というものは、するぞするぞと見せかけて、最後まで矢を放たないで勝つのが見事な勝利と答える象二郎。つまりは大政奉還かと聞く吉之助に、それが土佐の方針だと答える象二郎。その事は容堂候も承知しているのかと問い重ねる吉之助に、答えに詰まる象二郎。まだまだ土佐藩は一枚岩になっていないと嘲る吉之助。慶喜公が大政奉還を受け入れる筈がないと口を挟む慎太郎。彼は土佐も兵を挙げるべきだと象二郎に迫りますが、黙っていろと象二郎に制されます。」

「ところが、吉之助は象二郎の考えは良く判る、徳川が政権を帝に返してくれたらそれが一番良い事だと言い始めます。意外な成り行きに驚く慎太郎。吉之助は小松帯刀に向かって、象二郎の案に乗ってはどうかと提案します。それには答えず、大久保利通に考えを聞く帯刀。象二郎の案に乗っても良いと答える利通。それなら、土佐と薩摩で協力して大政奉還の成就の為に力を尽くそうと象二郎に答える帯刀。異論を挟む慎太郎。」

「その時、利通が立ち上がって、大政奉還がならなかった時は戦になる、その時は土佐藩も挙兵して頂くと象二郎に迫ります。約束すると答える象二郎。これで盟約が成った、今日は良い日だと叫ぶ吉之助。」

龍馬伝紀行にもありましたが、この時の盟約は薩土盟約と呼ばれます。その内容は船中八策に良く似たもので、大政奉還を基本方針とし、朝廷が政権を担う王政復古の実現、上下二院制の議会を開く事、その下院は公家から庶民まで広く正義の者を選出してこれを構成し、諸侯は職掌に応じて上院に充てる事などが目標として決められました。

この時点で薩摩がその基本方針である武力倒幕と矛盾する薩土盟約を締結したのは、ドラマにもあった様に大政奉還は絵空事と判断し、その後に来るはずの武力倒幕に向けて土佐藩を引きずり込む事が目的だったのではないかと言われます。まさに同床異夢の複雑怪奇な盟約であった訳ですね。

なお、この席に龍馬と慎太郎が同席していたのは史実にあるとおりですが、ドラマにあった様に仲介者としてではなく、浪士巨魁、つまり浪人勢力の代表としてこの席に呼ばれたのでした。

「長崎、オールト商会。グラバーを連れて、イギリス流の商売を教えてくれ、自分は自分の為の金儲けがしたいと押し入ってくる弥太郎。グラバーに宗旨替えをしたのかと問い掛けるオールト。龍馬に出会って考えを変えたと答えるグラバー。彼らの事は認めよう、しかし、将来の展望を持たずに帝に政権を返してしまっては大混乱を招くと予言するオールト。しかし、それは我々には願ってもない事だ。今最大のビジネスチャンスはと言うオールトの言葉に考え込む弥太郎。」

「京都、酢屋。中岡を案内してきた龍馬。彼は薩摩に大政奉還を目指すと言わせたのは大きな一歩だと満足げに言いますが、慎太郎は日本を帝の国にするには戦で幕府を叩きつぶすしか無いと反論します。幕府を叩きつぶした後はどうすると聞く龍馬に、答えを持ち合わせていない慎太郎。その彼に、見せたいものがあると二階に上がっていく龍馬。」

いつの間にか籐吉が龍馬の付き人になっていましたね。籐吉が料理番だったという話は聞きませんが、元相撲取りだった事は確かで、用心棒も兼ねての付き人だった様です。ただし、龍馬に紹介したのは慎太郎ではなく海援隊士の長岡謙吉でした。

「龍馬が見せたいものとは船中八策でした。その内容を一つずつ読み上げる慎太郎。」

「ひとつ、大政奉還。と説明を始める龍馬。これは小五郎から教えて貰った事でした。
ひとつ、上下院議政局。これは横井小楠から聞いた話でした。
ひとつ、有用人材の登用。身分が低くても武市の様に頭の良い者は政に加わるべきだ。これは吉田東洋が言った事でした。
ひとつ、外国との交際。外国との関係は対等でなければならない、それが高杉の目指した事でした。
ひとつ、御親兵帝都守衛。帝を守る軍隊を作らなければならない、これは武市の志でした。
ひとつ、海軍拡張。これは勝麟太郎の教えでした。
ひとつ、金銀物貨外国ト平等。これは久坂玄瑞に聞いた話でした。
ひとつ、無窮ノ大典撰定。侍も町人も、この籐吉までもが平等に政に加わる国を作る、これは河田小龍に聞いた事でした。」

「自分が作りたいのは上士も下士も無い、平らな国を作る事だと慎太郎に告げる龍馬。誰かが誰かを支配している世の中は必ず憎しみが生まれる、憎しみからは何も生まれない、これは母の教えでした。感激の面持ちで龍馬を見つめる慎太郎。」

「この八つの策を成し遂げる事で日本を変える事が出来る、だから幕府を戦で倒してはいけないと慎太郎に告げる龍馬。龍馬に抱きつき、涙が出てきたと感激する慎太郎。その背後で泣き出す籐吉。良く判らないながらも、日本がそんな国になってくれたらと泣き崩れる籐吉。」

「改めて龍馬を見つめて顔を振り、今の仕組みに縋っている者は決して認めようとはしない、それを世に出したら殺される、止めておけと忠告する慎太郎。命を狙われる位の事をしなければ日本は変えられないと答える龍馬。」

「龍馬の船中八策はやがて新政府綱領八策という明治政府の基本理念となって行きました。しかし、それが龍馬をますます危険に晒す事になって行きます。」

「坂本!と叫びながら市中を巡回する近藤達。」

「薩摩藩、京都藩邸。刀を振りながら、あの男は目障りだとつぶやく利通。黙って酒を飲む吉之助。」

「長崎、オールト商会。戦こそ最大のビジネスチャンスと叫ぶ弥太郎。彼はグラバーに、イギリスから最新の武器弾薬を届ける様に依頼し、龍馬がいくら頑張っても戦は止められない、わしは大もうけすると雄叫びを上げます。」

「京都、酢屋。龍馬の行く末を案じる慎太郎。船中八策を前に笑みを浮かべ、何度もうなずく龍馬。龍馬暗殺まで5ヶ月足らず。」

龍馬が著したとされる船中八策の全文は次のとおりです。

船中八策
 一、大政奉還
    天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事。
 一、上下議政局
   上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事。
 一、有材之人物登用
   有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事。
 一、外国トノ交際
   外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事。
 一、無窮ノ大典撰定
   古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事。
 一、海軍拡張
   海軍宜ク拡張スベキ事。
 一、御親兵帝都守衛
   御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事。
 一、金銀物貨外国ト平等
   金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事。

 以上八策ハ方今天下ノ形成ヲ察シ、之ヲ宇内万国ニ徴スルニ、之ヲ捨テ他ニ済時 ノ急務アルナシ。荀 クモ此政策ヲ断行セバ、皇運ヲ挽回シ、国勢ヲ拡張シ、万国 ト並立スルモ亦敢テ難シトセズ。伏テ願 ワクハ公明正大ノ道理ニ基キ、一大英断 ヲ以テ天下ト更始一新セン。

これは長崎から上方へ向かう土佐藩の船夕顔丸の船上でまとめられたものと伝わります。ドラマでは、龍馬がこれまでに出会った人々から学んだ事柄を網羅した事になっていましたが、なるほど龍馬伝の最大のテーマはここにあった様ですね。これを描きたいが為に、延々と伏線を張って来た様に思えます。これはとても上手いまとめ方だと思いますね。

龍馬最大の功績とも言われる船中八策を、彼の独創ではなく様々な人達の想いを紡いだものと位置付ける、これが作者が描きたかった新しい龍馬の姿なのでしょう。ドラマのまとめ方としては異論はありませんが、最近の研究ではその前提である船中八策の実在性に疑義が唱えられています。

と言うのは、同時代資料には船中八策はどこにも登場しないのですよ。これが言われ始めたのは大正時代に入ってからの事で、千頭清臣によって紹介されたのが最初の様です。

ややこしいのは、とても良く似た「新政府綱領八策」が存在する事で、これは紛れもなく龍馬自身が書いたものです。

新政府綱領八策
 第一義
    天下有名ノ人材ヲ招致シ、顧問ニ供フ。
 第二義
    有材ノ諸侯ヲ撰用シ、朝廷ノ官爵ヲ賜ヒ、現今有名無実ノ官ヲ除ク。
 第三義
    外国ノ交際ヲ議定ス。
 第四義
    律令ヲ撰シ、新ニ無窮ノ大典ヲ定ム。律令既ニ定レバ、諸侯伯皆此ヲ奉ジテ部下ヲ率ス。
 第五義
    上下義政所。
 第六義
    海陸軍局。
 第七義
    親兵。
 第八義
    皇国今日ノ金銀物価ヲ外国ト平均ス。

 右預メ二三ノ明眼士ト議定シ、諸侯会盟ノ日ヲ待ツテ云々。〇〇〇自ラ盟主ト為リ、此ヲ以テ朝廷ニ奉リ、始テ天下万民ニ公布云々。強抗非礼公議ニ違ウ者ハ、断然征討ス。権門貴族モ賃借スル事ナシ。

    慶応丁卯十一月             坂本直柔

千頭の説に依れば、この「新政府綱領八策」が先にあり、船中八策はこの後に書かれたという事になる様ですね。しかし、この説には決定的な無理があり、新政府綱領八策が書かれたのは大政奉還が実現した後の11月の事なのです。内容から大政奉還が欠落している事からもそれは明らかですね。

なお、最後の○○○の所に誰が入るのかが龍馬史における最大の謎の一つになっており、その解釈によって暗殺者が誰であるかが変わるといった要素を含んでいます。有力なのは慶喜公ですが、他には容堂候とする説もありますね。松浦玲さんは大将軍という説を提唱されています。これって、ドラマには出てこないのかな。

ちょっと脱線しましたが、船中八策があったとする説も当然あって、まだ無かったとする説が確定した訳ではありません。でも、同時代資料に出て来ないのはやはり不自然だという気はします。

それにしても、暗殺者に関する伏線はこれでもかと張り巡らされていますね。最後にどういうまとめ方をするのか、楽しみになってきました。

参考文献:「龍馬 最後の真実」 菊池 明、「坂本龍馬」 松浦 玲、「坂本龍馬 海援隊始末記」 平尾道雄、「龍馬の手紙」宮地佐一郎 「龍馬の夢を叶えた男 岩崎弥太郎」 原口 泉

2010年10月23日 (土)

京都・洛東 JR東海「そうだ 京都、行こう。 泉涌寺 観月とハープの調べ」

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平成22年10月23日、JR東海が企画した「泉涌寺 観月とハープの調べ」に行ってきました。これは「そうだ 京都、行こう。」のカード会員向けのイベントなのですが、今回はホームページから招待状を印刷していけば、会員で無くても入る事が出来たのです。教えて下さったzuzuさん、ありがとうございました。

御座所庭園のライトアップ、特製和菓子の販売、ワインの試飲会などの企画があったのですが、メインはハープの演奏でしたね。とても美しい音色で、夜の泉涌寺にとても調和して響いていました。

そして、今日の主役であるべき月は、雲に隠れながらもかろうじて顔を出してくれましたよ。

実は帰宅してからまだ時間が経っておらず、写真の整理も出来ていないので今日はイントロダクションまでとさせて頂きます。詳細については後日アップしますね。

2010年10月22日 (金)

京都・洛中 清荒神 ~護浄院~

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御所の東、荒神口の地に護浄院という寺があります。正式には常施無畏寺と言い、通称「清荒神」と呼ばれます。

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御本尊の清三方大荒神は、今からおよそ1200年前に光仁天皇の子の開成皇子(桓武天皇の異母兄)が仏門に帰依し、摂津国勝尾山の草庵で修行中、現れた荒神を感得され、自ら彫り上げられたものと伝わります。

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その後、後小松天皇の時に、勅命によって京都醒ヶ井高辻の地に勧請し、初めて清荒神と呼ばれる様になりました。そしてさらに慶長5年(1600年)には、御所の守護のために現在の地に移されています。

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その佇まいから真言宗ではないかと思っていたのですが、実は天台宗の寺だったのですね。清荒神は竈の神、火除けの神として知られますが、災難避けの神様でもあり、厄除けに訪れる人も多いようですね。その時授与されるのが火箸で、無事に厄年を乗り越えられたら新しい火箸を添えてお礼詣りに来るというのが作法になっているそうです。

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境内の東には長いお堂があって、不動明王、大聖歓喜天、薬師如来などの諸仏が祀られています。その中程に位置するのが准胝観音菩薩で、「仏母准胝尊」ともいわれれ、今は洛陽三十三所観音巡礼第三番札所として知られます。

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この寺はもうひとつ京都巡りに縁があって、京の七福神巡りの一つ福禄寿がやはりこの御堂の中に祀られています。小さなお寺なのですが、中身がぎゅっと詰まっている感じですね。

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荒神口という地名はこの清荒神が元になっている様です。そう言えば近くに荒神橋という橋もありますね。観光寺院ではないけれど、市民の生活の中に溶け込んだ親しみ深いお寺だと言えそうです。

2010年10月21日 (木)

京都・洛北 秋の庭 ~圓通寺~

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平成22年10月16日の圓通寺です。この寺を訪れるのは二年ぶりの事になりますが、すっかり様子が変わってしまっていて驚かされました。

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周辺の宅地造成はさらに進み、ぼちぼちと家も建ってきていますね。それだけなら特に驚かないのですが、圓通寺自身も広大な駐車場を整備し、すっかり観光寺院化しているではありませんか。以前の山寺の風情など、もうどこにも無いといった状況です。

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それでも、山門を潜れば以前と変わっておらずその点では安心なのですけどね、観光バス用の駐車場まであって、これからは団体客が押し寄せるのかと思うと、ちょっと興ざめです。

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おそらくは、周囲の住宅地化と共に道路が整備された事によって車による拝観者が増える事が予想され、放置しておけば不法駐車が頻発して周辺の迷惑になるという判断があったものと思われます。観光バスも以前なら入って来られなかったのが、道が広がった事によってアクセスが可能になりましたからね。

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テープで流される寺の解説も以前とは調子が変わり、景観条例によって借景が守られた事を感謝する内容になっていました。それは良かった事ではあるのですが、ちょっと肩すかしを食らった気分でもありますね。あの寺の周囲の環境が壊されるという悲壮感はどこに行ったのかと言ってみたくもなります。

まあ、過去にはこだわらずに新しい事態に対応して行かなくてはという事なのでしょう。庭園が無事なのは確かな事ですしね。外から見ると住宅地の中に取り残された緑の小島の様になってしまいましたが、境内の中の景観はこれから先もずっと守っていって欲しいものだと思います。

2010年10月20日 (水)

京都・洛北 妙満寺 ~雪の庭~

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京都の北、岩倉の地にある妙満寺、雪の庭がある事で知られます。

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妙満寺は日蓮宗に属し、昭和43年に当地に移転するまでは寺町二条の地にありました。移転した理由は周辺の市街化が進行し静謐が保てなくなったためで、その意味では岩倉の地は理想的な場所だった事でしょう。

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本堂は東向きに建っているのですが、その正面には比叡山が聳えています。素晴らしい景観であり、これたけでもここに移った値打ちがあるというものでしょうね。

ちなみに、右側に聳えているのは仏舎利大塔。インドにあるブッダガヤ大塔を象ったもので、最上階に仏舎利を安置しているそうで、昭和48年に建てられました。

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そして、松永貞徳によって作庭されたとされる「雪の庭」です。元は塔頭の成就院にあり、清水寺成就院の「月の庭」、北野(一説に祇園)にあったとされる成就院「花の庭」(現存せず)と共に、成就院「雪月花の三名園」と並び称されました。

この地に移転した時に方丈に移築され、比叡山を借景とするとパンフレットにはありますが、今は背後の樹木が茂りすぎたためでしょう、稜線の一部が見えるだけですね。ちょっと残念ですが、いつか雪が積もった時に来てみたい庭です。

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この寺の見所はもう一つあって、「安珍・清姫伝説の鐘」が保管されているのです。鐘の中に逃げ込んだ安珍を、蛇と化した清姫が鐘諸共焼き殺すという恐ろしい伝説ですが、現在の鐘は事件後400年程発って再興されたものです。この鐘にもまた清姫の怨霊が取り憑き、周囲に祟りを成した為一度山中に捨てられたのですが、さらに200年経った後に土中から見つけ出され、妙満寺に運ばれて供養を受けたのでした。

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現在は怨霊も消えて宝物庫に保管されているのですが、高さ1m程の意外と小さな鐘です。これは再興された鐘ですから、オリジナルはもっと大きかったのかも知れません。

娘道成寺など安珍・清姫伝説を題材にした演目を演じる時には、出演者が妙満寺にお参りする事が慣例になっていたそうでね。そして、今でも芸道成就を願う芸能関係者が参拝に訪れるという事です。

2010年10月19日 (火)

京都・洛北 秋の庭 ~蓮華寺~

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平成22年10月16日の蓮華寺です。ここを訪れるのは約1年振りの事で、紅葉シーズンを前に静かな庭園を楽しもうと来てみました。

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ところが、意外なほど拝観者が来るのですよ。訪れた時には誰も居なくてこんな写真も撮る事が出来たのですが、時間と共に拝観者が増え始め、最後は団体さんまでやって来ました。この時期なら穴場と思っていたのですが、ここも随分と有名になったという事でしょうか。

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それはともかくとして、境内の片隅では秋海棠が咲いていました。今年はこの花を見る機会が無く、これが初めてですね。

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そして、同じ場所で咲いていた秋明菊です。今年はこの花にとっては受難だったのか、市内を巡っていてもあまり見かけないですね。ここも普段の年なら溢れる様に咲いているのですが、今年はこのひと株だけでした。

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石仏群の前では紫の小菊が沢山咲いていました。これはヨメナかノコンギクかそれともノギクなのか、私には区別が付きません。でも、はかなげな風情が石仏達にぴったりしているのは確かですね。

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実を言えば、ここを訪れたのはそろそろ竜胆が咲いている頃かと思ったからでした。でも残念ながら蕾が出始めたばかりで、まだ少し早かった様です。今週末あたりなら咲いている事でしょうね。

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もう一つ、ツワブキも期待していたのですが、これも蕾が出ていただけでした。この花も今年は遅れている様ですね。どうにも困った気候です。

これから紅葉シーズンに入ると何度となく訪れる事になりますが、その前にもう一度来ておく必要がありそうですね。

2010年10月18日 (月)

京都・洛北 田中神社例祭

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先々週から気になっていたのが、出町柳周辺で見かけた田中神社例祭と書かれた多数の幟りでした。これは以前に紹介した孔雀の居る神社の事ですよね。そこで自転車で一走り、様子を見て来る事にしました。

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調べてみると10月第三日曜が祭の日らしく、この日(10月16日)は宵宮にあたった様です。参道には結構な数の屋台が並び、舞殿には4基の御輿が据えられていました。この御輿は小さなものばかりだったので、きっと子供御輿なのでしょうね。それにしても4基とも本格的なもので、なかなか立派でしたよ。

祭の幟はかなり広範囲で見かけました。たぶんですが、御輿が巡行する範囲に掲げてあるのでしょうね。

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宵宮の行事は何かと見てみたのですが、ビンゴゲームや芸能奉納といった内容でした。まあ当然の事なのでしょうけど、地元の人達が楽しむためのもので、ふらりと入った余所者にはあまり用が無いといった感じでしたね。少し規模の大きな村祭りといった風情なのかな。

屋台の数からすると、相当な賑わいを見せそうです。この時はまだ人出は少なかったけど、イベントの開始時には沢山の人が集まった事でしょうね。

4基の御輿が練り歩く様は、一度は見ておきたいという気はします。来年にもしタイミングが合えば、出町柳周辺で出会えるかも知れないですね。


2010年10月17日 (日)

龍馬伝42 ~いろは丸事件~

「慶3年4月23日、瀬戸内海を航行するいろは丸。讃岐沖に差し掛かった時に、船を衝撃が襲います。慌てて甲板に飛び出した龍馬が見たのは、突っ込んで来る巨大な船でした。驚愕の声を上げる龍馬。」

いろは丸が明光丸と衝突したのは、23日の午後11時頃の事でした。いろは丸は明光丸の右舷灯(緑色灯)を右斜め前方に認めたので左に避けようとしたのですが、明光丸は右旋回を続けた為にいろは丸の右脇腹に衝突したとされています。この右舷灯はドラマでも再現されていましたね。

「翌24日朝、鞆の浦の海岸に佇み、前夜の出来事を思い出している龍馬。」

「いろは丸に衝突して来たのは紀州藩の明光丸でした。懸命に乗客を助ける龍馬達。乗員と乗客は明光丸に乗り移り、無事でした。しかし、160トンのいろは丸に対して明光丸は887トン、二度衝突されたいろは丸は瀬戸の海に沈んでしましいました。」

明光丸は二度いろは丸に衝突したとされます。その理由としては、本当はいろは丸を救おうとしたのですが、操船技術が伴わなかったためにかえって致命傷を与えてしまったと言われます。これもドラマの中で紀州側の主張として出てきましたね。明光丸はいろは丸を鞆の浦まで曳航しようとしたのですが、結局は沈んでしまったのでした。

「鞆の津。乗員と乗客は船宿に入り、乗客に対しては龍馬が詫びを入れ、金と大阪までの足の手配をすると約束してやります。」

いろは丸に乗客は居たのでしょうか。手持ちの資料には記述が無く、調べた限りでは出てきません。そういう研究があるのでしょうか。何となく、龍馬の人間性を出す為に演出した様に思えるのですけどね、確証はありません。

「そこに紀州藩の岡本覚十郎という藩士がやって来ました。彼は龍馬に対して見舞いを言うと共に、見舞金として千両を置いて立ち去ろうとします。それを聞き、これで終わらせ様とするのかと激昂する海援隊士達。その中で、千両は受け取り、乗客達の為に使うと言う龍馬。その一方で彼は、衝突の原因を突き止め、賠償額を決めなければいけないと岡本に詰め寄ります。天下の紀州藩に脱藩浪士が吠え掛かって来るとはと龍馬達を見下し、ここに止まっている暇は無くこれから長崎に向かうと相手にしない岡本。では長崎でお目に掛かりましょうと追い打ちを掛ける龍馬。」

鞆の浦での宿は升屋清右衛門方でした。龍馬はここを根城に紀州藩と談判し、決着が付くまでは出航しない様に要求したのですが、紀州藩は主命があると言って言う事を聞きませんでした。龍馬は当座の資金として一万両を要求したのですが、返済期限を巡ってもの別れに終わり、長崎で決着を付ける事になったのです。

この時、龍馬は大阪の同志に手紙を送り、紀州藩は主命があると言って自分たちを鞆の浦に置き去りにした、この恨みには報いざるを得ないと言い、いずれは血を見る事には収まらないだろうと記しています。航海日誌の写しも一緒に送っており、この手紙と一緒に小松帯刀や西郷、さらには中岡慎太郎に回覧する様に頼み、紀州藩と一戦交える際には世間にこの事実を知らしめておきたいのだと記しています。

「4月27日、長崎、引田屋。大洲藩の重役と宴席を設けている弥太郎。その才覚を持ち上げられ、得意になっている弥太郎。そこにいろは丸沈没の知らせが入りました。驚く弥太郎と大洲藩重役達。」

「土佐商会。象二郎を前に、庭でひれ伏している龍馬。そこに怒鳴り込んできた弥太郎。彼は大洲藩に船の代金3万両、積荷の代金1万3千両を返さなければならないと龍馬を責めます。その時、象二郎が借金は弥太郎が何とかしろ、その代わりにこれからはお前達にはわしの言う通りに動いて貰うと言い捨てて去ろうとします。」

「その背中に向かって、金は全額紀州に払って貰うと叫ぶ龍馬。戻ってきて、紀州と喧嘩をするつもりかと吐き捨てる象二郎。ぶつかって来たのは明光丸であり、このまま泣き寝入りはしないと言い張る龍馬。御三家相手に勝てるはずがないと叫ぶ弥太郎。」

「この事故は汽船同志で起きた初めての事例であり、先例となる、このままでは力の弱い者が泣き寝入りをしたと思われる、土佐がそう思われても良いのかと象二郎に迫る龍馬。弥太郎に談判に加われと命じ、もし負けたら腹を切れと言い渡す象二郎。わかりましたと受ける龍馬。」

この下りの象二郎はあまりにも冷たいですね。実際には龍馬と弥太郎、それに象二郎は結束して交渉に当たっています。

「長崎、紀州藩邸。本の虫干しをしている勘定奉行茂田一次郎。彼に相手は脱藩浪士だと報告する岡本。」

「引田屋。積荷の主達を相手に、大阪で売った時の金額を聞く弥太郎。天下の紀州藩相手では、どちらに非があると言っても通じない、金が取れない時は土佐藩が払ってくれるのだろうなと念を押すお慶。泣き寝入りかと脅す乾堂。金が取れなければ命が無い、こんなところで潰れてたまるかと叫ぶ弥太郎。心配そうなお元。その時、女将がお元に龍馬からの書き付けを手渡します。」

「5月15日。長崎、聖徳寺で開かれた海援隊と紀州藩の談判。元紀州藩士の陽之助を気遣い、ここに居なくても良いと言ってやる龍馬。自分は紀州藩を捨てた、今は海援隊士として日本の為に働いていると答える陽之助。」

実際には陽之助はこの談判には出席していない様ですね。そもそも、紀州藩を脱藩した彼が顔を出したりしたら、その事だけでも大もめにもめるのでは無いでしょうか。紀州藩は彼を捕まえようとするでしょうし、龍馬達はそれを阻止しようとするでしょう。とてもではいけれど、交渉の馬としては成り立たなくなるでしょうね。

「遅れてやって来た明光丸船長、高柳楠之助以下紀州藩士達。冒頭、いろは丸に非があると言い出す紀州藩。始めに明光丸の見張りが近づいて来るいろは丸を発見し、衝突を避けようとした。しかし、いろは丸はそのまま直進して来たため衝突が起きたという主張でした。その上にいろは丸にはルーフランプが点いていなかったと付け加える紀州藩。いろは丸の水夫に聞いたという紀州藩にその水夫の名前を言えと食い付く弥太郎。」

「弥太郎を黙らせ、明光丸が先にいろは丸を見つけたというのは嘘ではないかと言い出す龍馬。彼は衝突直後に明光丸に乗り込み、航海日誌を見た。しかし、そこには見張りが居たとは書かれていなかったと主張する龍馬。しかし、その馬にあった明光丸の航海日誌には、見張りを立てたと記されていました。それを見て席を立つ紀州藩士達。これは墨の色が違う、改ざんされたものだと叫ぶ隊士達。」

「紀州藩士に向かって、なぜ二度も明光丸は衝突して来たのかと叫ぶ龍馬。彼は、一度だけならいろは丸は沈まなかった、正しい指示が出せなかったのは見張りの士官が居なかったからではないかと食い下がります。龍馬を無視して立ち去ろうとする紀州藩士達。彼らに向かって、土佐藩は紀州藩に対して8万3千両の弁償を求めると叫ぶ弥太郎。あまりの額に驚く紀州藩士達。」

「これ以上の談判は無駄、ここから先は長崎奉行の判断を仰ぐと言い捨てて立ち去る紀州藩士達。追いかけようとする惣之丞を引き留める龍馬。彼は次は必ずあると謎の様な言葉をつぶやきます。」

ドラマでは一日で終わった様になっていますが、実際には翌16日にも続けて談判が行われています。その場において、ドラマでは最後に弥太郎が言っていた二箇条、すなわち明光丸には見張りの士官が居なかった事、二度に渡っていろは丸に衝突し鎮めた事が了解事項として認められました。

「引田屋、小梅の間。紀州藩士達が今日の談判の事で弥太郎、龍馬を悪し様に罵っています。もう決着は付いたと一同を宥める高柳。その時、よさこい節が聞こえてきました。」

「梅の間で歌うお慶と商人達。「船を沈めたその償いは、金を取らずに国を取る。」という歌詞を聴き、これは自分たちの事ではないかと気付く紀州藩士達。歌うのは誰だと激昂する藩士達。あの歌は誰が作ったのかとお元に桐お慶。いつの間にかお客様達がととぼけるお元。」

「丸山中で歌われるよさこい節。」

これもおそらくですが、ドラマで歌われていた歌の後半部分、蜜柑を食べるという下りはどの資料にもなく、このドラマにおける創作でしょうね。でも、こうした歌が流行ったのは確かで、流行らせたのは龍馬だという事で定説となっています。

「海援隊本部。世界の航海法を調べる隊士達。」

「目を閉じて座っている龍馬。」

「紀州藩邸。紀州藩を揶揄する歌の報告を聞く茂田。放っておけと言う茂田ですが、このままでは世間が悪いのは紀州藩だと思ってしまうと憂慮する岡本。」

「土佐藩邸。紀州藩は怒り狂っている、もう打つ手は無い、お前も弥太郎も終わりだと言い捨てて去ろうとする象二郎。その背中に向かって、必ず紀州藩は談判を申し入れて来る、その時には象二郎も談判に加わって貰いたいと頼む龍馬。海援隊の後始末をどうして自分がと相手にしない象二郎に、土佐藩は日本を変える要になると決めたはず、たかが紀州藩一藩に怯んでいる様では幕府を倒すのは到底無理だと挑発する龍馬。」

「この衝突は土佐藩と幕府の衝突である、この談判の行方を薩長を始めとする諸藩が見ている、自分が勝てばさすがは土佐藩と喝采を受け、流れは一気に変わると見通しを語る龍馬。勝ち目はあるのかという象二郎に、負け戦はしないと自信ありげに答える龍馬。」

先に掲げた手紙にあった様に、龍馬は意識して事実経過を世間に漏らす様に努めており、中でも薩摩藩とは最初から緊密に連絡を取っていました。龍馬は場合によっては紀州藩との戦争になるかも知れないと覚悟しており、その時には薩摩藩を始めとする世論を味方に付けておくつもりだった様です。

「長府、龍馬からの手紙を読む三吉。そこには自分に万が一の事があれば、お龍を土佐の坂本家に送って欲しいと認められていました。」

この時の龍馬は死ぬ覚悟であったらしく、ほとんど遺書の様な手紙を書いています。これとは別に、下関で世話になっている伊藤助太夫に宛てては、彼らの部屋である自然堂には誰も近づけてはいけないと頼み、またお龍の身の上については三吉と印藤の二人に計って欲しいと依頼しています。つまりは、自分が居なくなった後の事を想定して頼んでいるのですね。

「紀州藩邸。才谷梅太郎とつぶやく茂田。」

「5月22日、聖徳寺。紀州藩から申し入れてきた二度目の談判。龍馬達と向かい合う茂田以下の紀州藩士達。勘定奉行直々のお出ましとは恐れ入ると頭を下げる龍馬。あの歌を流行らせたのはお前達だろうと聞く茂田。あれは勝手に流行り始めたのだと相手にしない隊士達。紀州藩に喧嘩を売るとは、恐れを知らぬやつらだと苦笑する茂田。」

「前の談判ではっきりした事が二つあると言い出す弥太郎。その声を遮り、衝突を避けようとした明光丸にいろは丸が向かってきた事によって事故が起きたと言う岡本。いきり立つ惣之丞達を尻目に、衝突を回避すべきは小回りの利くいろは丸の方だったと二つ目の主張をする岡本。そして彼は、二度目の接触は、明光丸の乗員がいろは丸を救おうとして起きたものであると3つ目の主張までもします。」

「沈没まで至った事故を触ったで済まそうとするのかと食い付く弥太郎。では、これ以上のやりとりは意味がない、後は幕府の判断を仰ぐのだと言って談判を切り上げに掛かる茂田。」

「そこに異論を挟む龍馬。彼は船同志の衝突事故は世界共通で定められている公法で裁かれるべきではないかと主張します。彼はアメリカで出版された万国公法という本を取り出し、これから日本が世界で認められる為には、まずこの法を守るところから始めなければならないと言い、それでもまだ幕府に頼ると言うのなら、紀州藩士は野蛮人だと世界から笑われるだろう、それこそ帝の名を汚す事になると挑発します。」

「ここで万国公法を持ち出してくるとはと、龍馬を認めた茂田。しかし彼は、今の日本に万国公法を持って裁きを下せる者は居ないと言い切ります。その言葉を聞き、陽之助に象二郎を呼べと命じる龍馬。」

「象二郎と共に入ってきたのは、イギリスの海軍提督であるヘンリー・ケッペルでした。龍馬の願いで、間に立って貰うべく来て貰ったと説明する象二郎。」

「船の衝突は世界中で起こるものである、だから必ず世界共通の航海法で裁かれなければならない、それが世界のルールだと説明するケッペル。」

「龍馬を見据え、お前は何者だと聞く茂田。自分たちはただの脱藩浪士だと答える龍馬。談判は仕切り直しだと始める弥太郎。明光丸に見張りは居なかった、いろは丸に二度衝突したと自分たちの主張を読み上げる弥太郎。」

万国公法とは、現在の国際法と同義と見て良いのでしょうか。龍馬は鞆の浦の段階から公論によって決着を付けると主張しており、最初から万国公法に乗っ取って処理する事を考えていました。ドラマでは茂田が万国公法を裁ける者は日本には居ないと言っていましたが、実際には後藤象二郎がこの事を言っており、英国海軍提督に裁定を請おうと主張したのも後藤でした。ただし、実際にはそこまでには至らず、非を認めた紀州藩は薩摩藩に裁定を求めたのでした。

薩摩藩では五代才助が対応したのですが、元より龍馬から事情を聞かされており、当然ながら海援隊寄りの裁定を下しました。最終的に賠償金を紀州藩に飲ませたのは薩摩藩のあっせんがあての事でした。

「事故の原因は明光丸にあると認め、8万3千両を支払う事を約束した紀州藩。」

「海援隊本部。紀州藩に勝ったという知らせに沸く隊士達。弥太郎に向かって、4万両も上乗せしおってとあきれる龍馬。いろは丸がこれから先稼ぎ出したはずの金を上乗せしただけだと嘯く弥太郎。さすが弥太郎だと賞賛する龍馬。」

この4万両の上乗せについては、龍馬が武器弾薬を乗せていたとはったりをかましたと言われています。一種の詐欺ではないかとの批判もあるのですが、ドラマではこれを弥太郎がやった事にして龍馬を救ってやったのですね。

「紀州藩に勝った事で、日本中に響き渡った海援隊の名。」

「京都、薩摩藩邸。これで土佐は勢いづくだろうと叫ぶ西郷吉之助。」

「長州、萩城。容堂候はどう動くつもりかとつぶやく小五郎。」

「土佐、高知城。手紙を読む容堂候。彼は京に上る、象二郎にも急ぎ京向かって発つ様に伝えよと命じます。」

「長崎、海岸の岩場。一人佇み、「船を沈めたその償いは」と歌う龍馬。その背後から近づくお元。彼女は龍馬のために海援隊の勝利を祝います。杯に酒を注ぎながら礼を言い、金が入ったら分け前を貰ってくれとお元に杯を渡す龍馬。金は要らない、大嫌いなこの国を変えてくれる龍馬は自分の希望だと答えるお元。お前は何も悪い事はしていない、異国の神様は決してお前を見捨てたりはしないと言って、お元の肩に手を置く龍馬。顔を伏せて泣くお元。」

「その時、覆面をした三人の男達が襲ってきました。おもわず坂本さんと口走るお元。才谷ではないのかと驚く男達。たちまち相手を取り押さえ、覆面を剥ぐ龍馬。現れたのは紀州藩の岡本でした。これが御三家のやり方かと吐き捨てる龍馬。敵わないと見て走り去る岡本達。」

次週は船中八策なのですね。そして龍馬が再び京都へ帰ってくるようです。

参考文献:「龍馬 最後の真実」 菊池 明、「坂本龍馬」 松浦 玲、「坂本龍馬 海援隊始末記」 平尾道雄、「龍馬の手紙」宮地佐一郎 「龍馬の夢を叶えた男 岩崎弥太郎」 原口 泉

2010年10月16日 (土)

龍馬伝 ~近江屋事件~

近江屋事件とは、1867年(慶応3年)11月15日に、京都河原町の近江屋で、土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された事件です。

11月3日に越前より京都へ戻った龍馬は、その頃宿所としていた「近江屋」に帰ります。近江屋は河原町蛸薬師南にあった土佐藩御用達の醤油商で、それ以前に本拠としていた「酢屋」が幕吏に目を付けられていると知ったために転居したと言われます。ここは土佐藩邸とは河原町通を挟んですぐ向かい側となる場所であり、いざと言う時には藩邸に逃げ込めるという含みがありました。また、藩邸に近いという事は、同志との連絡に便利という側面もあった様です。

近江屋では土蔵を隠れ家として改造し、龍馬に提供したと言われます。また、万一の時にはこの土蔵から梯子伝いに裏の誓願寺に逃げられるようになっていたと言いますね。ただ、裏にあったのは別の寺だと思うのですが。

11月13日、御陵衛士の伊東甲子太郎が近江屋へ訪ねて来ます。彼は龍馬と慎太郎の二人を相手におよそ二時間ばかり国事について語り合い、そして別れ際に「新選組が、全力を挙げて龍馬を狙っている。藩邸に移られてはどうか。」という忠告を与えました。元は新選組の参謀を勤めていた伊東の言ですから信憑性はあったと思われるのですが、龍馬はこれを無視します。一つには、伊東の前歴が前歴ですからとても信用出来ないと思った事がありますが、もう一つには龍馬が藩邸に入れないという事情もありました。二度に渡って脱藩した龍馬は、いかに帰藩が許されていたとは言え藩邸の役人から見れば犯罪者も同然の者であり、容易な事では住まわせて貰えなかったのです。

11月15日は、龍馬33歳の誕生日にあたります。この日、龍馬は風邪のせいで熱があったため、土蔵で寝ていました。午後になり、龍馬は近所に住んでいた福岡籐次を2度訪ねますが、2度とも留守であったため近江屋へ引き返します。このとき、福岡の下僕から「不審な人物が坂本先生を訪ねてきた。」と注意されていますが、龍馬は笑って応えただけでした。実は、この外出からの帰宅を刺客の放った密偵に見られており、在宅している事を知られたようです。夕方、中岡慎太郎が訪れます。三条大橋制札事件で、新選組に捕らわれ獄にあった宮川助五郎の引き取りの相談があったと言います。宮川については、京都町奉行所から身柄を土佐藩に引き渡すと通知があったのですが、土佐藩は脱藩中の彼の取り扱いを決めかね、陸援隊の慎太郎に引き受けるよう依頼が来ていたのです。慎太郎と応対するため、龍馬は母屋の2階奥の八畳間へと移ります。

夜に至り、慎太郎に使いを頼まれていた菊屋峰吉(土佐藩出入りの書店菊屋の長男で当時17歳、龍馬、慎太郎達に可愛がられていました。)が、慎太郎宛の手紙を持って来ます。そしてほぼ同時刻に、今度は土佐藩の下横目である岡本健三郎が訪ねてきました。

彼らは暫く雑談に興じた後、龍馬は峰吉に「腹が減ったので、軍鶏を買って来てくれないか。」と頼みます。峰吉が席を立つと、岡本も別の用事があると言って一緒に外に出ます。岡本と四条の辻で別れた峰吉は、四条小橋にあった鳥新へと向かいますが、生憎品切れであったため、新しい肉が用意できるまで四半刻待たされます。

この夜の来客としては、あと二人居た事が知られます。その一人が板倉槐堂で、彼は自筆の白梅の掛け軸を龍馬に贈ったとされ、これが龍馬血染めの掛け軸として知られる事になります。槐堂がどのタイミングで訪れそして帰って行ったのかは判りませんが、深夜まで雑談に興じ、近江屋を後にしてすぐに龍馬達が襲われたと略伝にあるそうですから、あるいは岡本らの後を追う様にして外に出たのでしょうか。

後一人は海援隊士の宮地彦三郎です。彼はこの日何らかの使命を果たして大阪から帰京したのですが、まずはあいさつにと近江屋を訪れています。彼もまた健三郎や槐堂との前後関係は判らないのですが、この時龍馬は二階から彦三郎を労い、座敷に上がる様に勧めたと言います。しかし、彦三郎は旅装であった事から一度下宿に帰り、服装を改めてまた来ますと言って近江屋を後にしました。そして、下宿屋に帰って程なく、龍馬遭難の知らせを聞いたと語り残しています。

客が居なくなった隙を狙うかの様に新たな客が訪れました。「頼もう」という声が2階に届き、応対のために龍馬の下僕の山田藤吉が階下へ下ります。この藤吉は、元「雲井龍」という四股名の力士で、力士を廃業したあと海援隊の長岡謙吉に拾われ、龍馬の用心棒を兼ねて付き人をしていました。客は1人で十津川郷士と名乗り、藤吉に名刺を渡し龍馬への面会を申し込みます。藤吉は、十津川郷士なら龍馬の知り合いが多く、また客が1人であったため特に怪しむことはせず、取り次ぎのために2階へ向かいます。このとき、客の背後にいた数人の男達が、屋内に入り込みます。そして藤吉の後を追い、階段を上り詰めたところで背後から藤吉に斬りかかりました。数太刀を受けて藤吉は倒れ込みます。この気配を聞いた龍馬は、室内から「ほたえな!」と叫びます。峰吉が帰ってきて、藤吉とふざけているとでも思ったものでしょうか。この声により、刺客は龍馬の居所を知ります。

襖を開けて中に飛び込んだ刺客達は、龍馬と慎太郎に襲いかかります。龍馬は初太刀を前頭部に受け、慎太郎は後頭部に受けます。このとき、二人とも手元に太刀はなく、慎太郎は身に付けていた短刀で渡り合い、龍馬は床の間にある刀を取ろうとして振り向きますが、その時さらに背中を斬りつけられます。ようやく刀を手にした龍馬は、敵の三の太刀を鞘ごと刀で受け止めますが、敵の斬撃は凄まじく、龍馬の太刀の鞘を割った上に、中の刀身を10㎝ばかりを削り取ります。そして、前頭をさらに深く切られた龍馬は遂に崩れ落ち、「清君、刀はないか。」と叫びます。一方、鞘を付けたままの短刀で戦っていた慎太郎は、全身に十一カ所の傷を受け、堪えきれずに倒れ伏します。これを見た刺客は、とどめを刺す事はせず、「もう良い、もう良い。」と言葉を残して立ち去りました。

暫くして意識を取り戻した龍馬は、全身血まみれになりながらも座り直し、佩刀の鞘を払って刀身をじっと見入り、「残念だった。」とつぶやきます。そして、慎太郎に向かって「慎の字、手が効くか。」と問いかけ、続けて階下へ向けて「新助、医者を呼べ。」と叫びますが、すでにその声に力はなく、誰にも届かなかったようです。龍馬は、頭の傷に手をやり、脳漿が流れ出ている事に気づくと、「慎の字、おれは脳をやられている、もういかぬ。」と、最後の言葉を残して息を引き取りました。

慎太郎はなおも息があり、物干し出て近江屋の者へ声を掛けますが誰も応えず、さらに屋根を伝って北隣の井筒屋へ助けを求めますが、ここで動けなくなってしまいます。この頃近江屋の主人新助は、土佐藩邸へ駆け込んでいました。新助の注進により島田庄作が駆けつけます。島田は、階段の下で刺客が出てくるのを待ちかまえていましたが、程なく帰ってきた峰吉が様子を見に階段を上がり、まず苦しんでいる藤吉を発見し、刺客の気配がない事を確かめた上で島田を呼び、一緒に2階へ上がります。そして、既に縡切れている龍馬を発見し、さらに屋根の上で動けなくなっていた慎太郎を見つけて、これを座敷に連れ戻しまた。島田達は、すぐに医師を呼び慎太郎の手当を始めます。知らせを受けた藩邸やその周辺から谷守部、曽和慎九郎、毛利恭介らが駆けつけ、さらに峰吉の注進により白川の陸援隊の本部から田中顕助が、薩摩藩邸からは吉井幸輔が集まって来ました。

慎太郎は、集まった仲間に次のように語ります。
まず、刺客については、
「卑怯憎むべし、剛胆愛すべし。」
と、引き上げの見事さを褒めています。また、同士に対する警告として、
「刀を手元に置かなかったのが、不覚の元だ。諸君、今後注意せよ。」
「坂本と自分をやるなどは、よほどの武辺者であろう。因循遊惰と馬鹿にしていた幕府にも、まだこんな者が居る。早くやらねば逆にやられるぞ。」
と諫めました。慎太郎は、一時食事を摂るまでに回復の兆しを見せましたが、再び悪化し、17日夕刻に息を引き取っています。最後に、香川敬三に対して、
「岩倉卿に告げよ。維新回転の実行は、一に卿のお力によると。」
と言い残しました。享年30歳。また、これに先立ち、16日夕刻に藤吉も同じく息を引き取っています。享年25歳。

3人の葬儀は18日に営まれ、東山霊山へ葬られています。葬儀には、海援隊、陸援隊士のほか、土佐藩、薩摩藩から大勢の藩士が参列したという事ですが、これには異説もあります。この葬列が通ったのが龍馬坂、とても静かな道で、龍馬の最期を偲ぶにはふさわしい場所ですよ。

龍馬を襲った人物達については、また後日アップします。

2010年10月15日 (金)

京都・洛北 宝物曝凉 ~高桐院~

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平成22年10月10日の高桐院です。この日は寺宝のむしぼしを行う曝凉が行われており、普段は見る事が出来ない文化財の数々を拝観させて頂きました。

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展示されていたのは、国宝の山水図、重文の牡丹図をはじめとする19点で、本堂と書院に分けて掲げられていました。

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文化財に指定されてはいないものの、狩野探幽作の文殊菩薩像や普賢菩薩像、狩野永徳作の維摩居士像など有名所が描いた絵画があり、なかなか見応えがありましたよ。

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墨跡も一休和尚、沢庵和尚、細川忠興など歴史上の人物が書いたものが展示されており、興味深かったです。

そんな中であれっと思ったのが朝鮮出兵について書いた豊臣秀吉の書状で、末尾に総見院と書かれているのですよ。つまりは信長宛という事ですよね?これって、信長の墓前に供えた墨跡という事なのでしょうか。

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「袈裟形のおりつくばい」には、さりげなく赤いもみじの葉が浮かしてありました。来るべき季節を予告する粋な演出ですね。

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頭上を見上げると、オレンジ色に染まったもみじが青空背景に良く映えていましたよ。これは最初から赤い種類のもみじで、早くも紅葉が始まったという訳ではないですけどね。

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日の当たる灯籠では、なぜか赤とんぼがじっとしていました。この日向がよほど気持ちよかったのでしょうか、一度飛んで行ったのにまた戻って来て止まっていました。

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混んでいる時は歩きにくいこの道ですが、見ているぶんには綺麗で良いですね。前日の雨が残っていたせいでしょうか、しっとりと落ち着いた感じがしました。

紅葉が無くても、この庭を歩くのはやはり良いものでしたよ。

2010年10月14日 (木)

京都・洛西 嵐山雨情 ~大堰川~

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渡月橋が架かる川が桂川、そして橋を挟んで上流側は特に大堰川と呼ばれます。橋のすぐ上流に大きな井堰があるところから来ているのでしょうか。

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井堰の効果なのでしょうね、川幅が広くて流れがゆったりしており、橋の下流側とは雰囲気が全く異なります。保津川下りの船もここに着きますが、それ以外にもこうした遊覧船が運航されているのですね。

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嵐山と言えば松というイメージがあるのですが、マツクイムシの影響でしょうか意外と少ないですね。数少なくなった松ですが、雨に濡れた緑はやはり風情があります。

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こちらは比較的若い松ですね。縮小すると判らなくなってしまいましたが、派の先に水滴が溜まっていてなかなか綺麗でしたよ。

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亀山公園の入り口を過ぎると、苫屋風の茶店がありました。結構絵になりそうだったのですが、意外と難しかったです。いっそ、対岸から撮った方が良かったのかも知れません。

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嵐山も今年の紅葉が気になりますね。どんな具合になるのかは今は判りませんが、あとひと月もすればかなり色づいている事でしょう。紅葉を求めて走り回る季節がもうすぐやって来ますね。

2010年10月13日 (水)

京都・洛西 嵐山雨情 ~渡月橋~

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雨の風情を求めて嵐山に行って来ました。以前から雨に煙る渡月橋の景色を一度見たかったのですよ。

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まずは定番中の定番の景色ですね。橋の袂の松を絡めた渡月橋は余りにもありふれた構図ですが、やはり絵になる組み合わせではあります。

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今度は上流側から撮ってみました。下流側からほど景色は良くないですが、背景に法輪寺が入るのが手柄かも知れません。

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最後は、増水して波立つ川面を前面に押し出して、雨の日らしさを演出してみました。重苦しい雲の様子とあいまって、やっと雨の風情が出たと言えるかも知れません。

本当はもう少し靄が掛かっていれば思っていたとおりの景色になったでしょうね。明日はその水墨画的な風情を求めて、大堰川のほとりを歩いてみます。

2010年10月12日 (火)

京都・洛北 萩2010 ~常林寺 10.9~

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平成22年10月9日、雨の常林寺です。

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今年の常林寺の萩は開花が遅れ、晴れていればこの日は結構な見頃になっていたのではないかと思われます。しかし、前夜から降り出した雨でかなりの花が散り、一気に終わってしまったという感じでした。

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これが雨が上がった翌日だったらとても撮る気にならなかったと思いますが、雨に打たれた萩もまた風情があると感じてシャッターを切ってきました。

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赤い萩が濡れると色が濃くなる気がしますね。花びらも艶やかになり、普段よりも何割か増しで綺麗になった様に見えます。

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でも雨に弱い花である事も確かで、沢山の花が散っています。この落花が重なった様子もまた美しいのですけどね。

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雨の日ならではの風情は、濡れた石畳にもありますね。しっとりとした石畳に萩の花はよく似合います。

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つぼみはもう無かったので、今年の萩は事実上終わりでしょう。満開の境内を見る事が出来なかったのはやはり心残りでした。

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それでも、シーズンの最後に誰にも気兼ねすることなく萩と向かい合えたのは良かったと言えるでしょう。随分と雨には濡れましたけどね。

満開の萩は来年の楽しみに取っておく事にします。

2010年10月11日 (月)

京都・洛南 御香宮神幸祭

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平成22年10月10日、御香宮の神幸祭に行ってきました。

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この祭は伏見祭とも洛南の大祭とも呼ばれるもので、京都の南郊では最大規模と言われています。

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今年は10月1日から10日まで行われており、最終日のこの日は神輿巡幸が実施されました。3基の御輿の巡行ほか稚児行列、武者行列などが行われるのですが、私が訪れた時には3基目の御輿が神社を出発する所でした。

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3基の御輿はそれぞれ巡行するコースが異なっているのですが、この御輿は六地蔵に向かうものでした。片道約2㎞程らしいのですが、他の御輿比べるとまだ短い方の様ですね。

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この御輿は午前10時30分に出発して午後5時30分に帰って来るのですが、最初に出た御輿は午前9時に出発して帰りは午後8時になるそうです。途中休憩しながらなのでしょうけど、伏見中を練り歩いて回る様ですよ。

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御輿は拝殿を出発し、参道を通って表門から大手通に出て行きます。参道は通るだけですが、拝殿では「ホイト、ホイト!」のかけ声と共に御輿が揺すられてから出て行きます。

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表門では、大勢の観衆の前で何度となく御輿が揺すられます。その勇壮な様子はこの祭りのハイライトの一つと言って良いのでしょうね。その動画を次にアップします。

両手を差し上げての揺さぶりですから、さぞかし大変だった事でしょうね。この後、御輿の行列は六地蔵めがけて歩き出しました。

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この祭に来たのは初めてでしたが、思っていた以上に大規模でかつ賑やかなのに驚きました。洛南大祭の呼び名は伊達ではなかったですね。

この前日には宵宮祭があり、花傘総参宮が行われた様です。これは大手筋のアーケード内を花傘が練り歩くという行事の様ですね。他にも10日間の間に能舞台での奉納など盛りだくさんの行事がある様です。来年は見逃したこれらの行事も見に来たいですね。

2010年10月10日 (日)

龍馬伝41 さらば高杉晋作

「長崎、小曽根邸離れ。同志達を前に海援隊結成を告げる龍馬。約規を示し、赤・白・赤の隊旗を掲げさせ、表向きはビジネス、そして本当の目的は大政奉還を実現させる事にあると宣言します。」

この時期の龍馬の方針は何も大政奉還一本槍だった訳ではなく、武力倒幕も視野に入っていました。主軸は土佐藩の事情に合わせて大政奉還路線に置いてはいるけれども、情勢に応じて動くという柔軟性を合わせ持っていたのです。

ドラマではスルーされましたが、龍馬はもう一つの主題として蝦夷地の開拓事業を進めたいと願っていました。後で出て来るいろは丸についても、当初は蝦夷地開拓の為に使いたいと考えていたのです。結局は実現しませんでしたが、文久の頃より龍馬が抱いていた主要な構想の一つがこの開拓にあり、後で掲げる海援隊の規約にもこの事が明記されています。

「そこに現れた弥太郎。彼は象二郎の命によって海援隊の会計を任されたのでした。金の出し入れから給金までを仕切ると言う弥太郎に、龍馬は早速亀山社中が抱えていた借金の返済を押しつけます。そしてさらに、海援隊が乗るべき船の手当までをねじ込んでしまいました。」

独立採算制を謳う海援隊でしたが、実質的には土佐藩に負うところが多かった様です。船に関しては、これも後で書きますが、確かに土佐藩が代金を用立てています。ただし、いろは丸ではありませんが。また、給金に関して言えば、薩摩藩に依存していた亀山社中当時は3両2分だったのが、海援隊では5両に増えたそうですね。やっとまともなスポンサーにありついたというところなのでしょうか。

それにしても、このシーンは漫才みたいで面白かったです。

「長崎奉行所。奉行に呼び出された象二郎は、犯罪を犯した土佐脱藩浪士坂本龍馬の身元を聞かれます。しかし、象二郎は龍馬は歴とした土佐藩士であり犯罪を犯すはずがない、伏見に居た龍馬とは彼の名を騙る偽物に違いないとはね付けました。では龍という女はどうかと聞かれ、そんな女は知らぬと突っぱねた象二郎。」

この象二郎は頼もしかったですね。敵に回した時は憎々しいばかりの男でしたが、味方にすればこれほど心強い奴だったのかと見直しました。これがまた崩れなければ良いのですが。

「土佐商会。お慶を相手に商談する弥太郎。アメリカの南北戦争が終わり間もなく綿花は暴落する、これからは石炭だ、あるところで石炭が見つかった、日本が自前で賄えるようになったら大もうけだと目先の利く所を見せる弥太郎。そこに現れた才谷こと龍馬。」

「龍馬に船が見つかった、大洲藩のいろは丸だとカタログを示す弥太郎。これは良い船だと喜ぶ龍馬。船は買い取りでは無く、大洲藩から借り入れる予定でした。交渉はこれからだという弥太郎の声も耳に入らない様子の龍馬。」

「海援隊。隊士達に新しい船が手に入った、いろは丸、160トンの蒸気帆船だと披露する龍馬。歓声を上げて喜ぶ隊士達。そこに英四郎がやってきます。彼は象二郎の伝言と言って、お龍の事だと告げます。」

「その夜、龍馬の部屋。お龍に背中を揉んで貰いながら、何やら考え込んでいる龍馬。彼はお龍に下関に行かないかと誘います。始めは嫌がっていたお龍でしたが、龍馬の説得にやっとうなずきます。」

お龍が龍馬と共に下関に移ったのは慶応3年2月10日の事でした。その理由は、三吉慎蔵宛てに龍馬の手紙に依ると、家内の置き所に困ったので、やむを得ず同行したとあります。これだけでは良く判らないのですが、お龍を小曽根家に置いておけない理由が出来したのでしょうか。それとも、龍馬が下関に移る事が主題であり、結果としてお龍を長崎に置いておく事が出来なくなったということなのでしょうか。ドラマでは、これを長崎奉行所のせいにして、上手くまとめていましたね。

「慶応三年、冬の終わり。下関にやって来た龍馬とお龍。とある離れ座敷に通された龍馬達。そこに三吉慎蔵がやってきます。懐かしさに笑顔であいさつを交わす三人。木戸に会いたいという龍馬に、高杉の見舞いに行っている、彼の具合がもう、と言葉を濁す慎蔵。」

下関における宿は、伊藤助太夫という土地の有力者の屋敷の離れでした。三吉慎蔵と印藤聿という長府藩士が保証人になったとも言い、以後ここが龍馬の本拠地となります。龍馬はこの離れを「自然堂」と名付け、後に「自然堂」という署名も使っていますね。

「高杉の家。激しく血を吐く晋作。別室で痛ましげに座っている木戸準一郎こと小五郎。蒼白な顔で、脇息にもたれつつ席に着く晋作。」

「お龍と共に高杉家にやって来た龍馬。彼の到着に微笑む晋作。晋作に海援隊を作った事を報告する龍馬。この海援隊で大政奉還を目指すと言う龍馬に賛同する晋作。小五郎に向かって、土佐藩と共に大政奉還を目指して欲しいと頼む龍馬。容堂候はまだ知らないと聞き、朝敵である我らには無理だと断る小五郎。」

「その小五郎に向かって遺言だと思って聞いて欲しい、龍馬は奇跡を起こした、大政奉還は奇跡かも知れないが、その奇跡にもう一度賭けてもらいたいと訴える晋作。言い終えて激しく咳き込む晋作。いたたまれずに出て行く小五郎。後を追う龍馬。」

「晋作の余命はと聞く龍馬。桜を見せてやりたいと答える小五郎。晋作が見たいのは新しく生まれ変わった日本だと迫る龍馬。その為には武力倒幕しか無いと叫ぶ小五郎。その時、晋作を訪ねて村人達がやってきます。彼らは晋作を見舞いに来た奇兵隊の者達でした。口々に晋作に会いたいと願う村人達。見舞いの卵を受け取って彼らを帰す小五郎。彼らと晋作の事を思い、涙する小五郎。」

大政奉還の構想を小五郎が持っていた事は以前に書いたとおりですが、晋作がどう思っていたかは伝わっていないですね。彼の事績からすると、武力倒幕の方がよほど相応しいという気はするのですが。

「長崎、引田屋。大洲藩の重役を接待する弥太郎。いろは丸を貸して貰えたら、賃料の他にいろは丸で儲けた分の何割かを渡すと好条件を示し、最後は手を突いて頼み込む弥太郎。」

いろは丸の借り上げについては弥太郎がやった事ではなく、亀山社中の当時に薩摩藩の仲立ちで乗員と水夫を大洲藩に貸し出した事がきっかけだった様です。社中として慶応3年3月半ばから4月一杯にかけて借り上げるという契約が出来ていたのですが、その後海援隊が結成された事によって、改めて土佐藩と大洲藩の間で賃貸借契約が結ばれたのでした。

「下関。晋作を連れて海に来た龍馬。」

「おうのと二人残って、晋作の薬を擂るお龍。龍馬と晋作は良く似ている、二人とも何時命を絶たれても良いという覚悟をした目をしていると語り合うお龍とおうの。」

「海援隊とは、海から日本を助ける隊だ、この海援隊が目指すのは、日本を幸せにしようとう高い志のある者が政を行う世の中だと語る龍馬。賛同する晋作。晋作が作った奇兵隊には身分の差が無かった、これこそ新しい日本の形だと確信したと礼を言う龍馬。夢を託せる相手が居た、日本を頼むと頭を下げる晋作。」

「もう高杉晋作の出番は終わった、これからは酒を飲んで、三味線を弾いて面白可笑しく暮らしたい、あの世でねと悟った様な口ぶりの晋作。そうかえと答えてやる龍馬。」

龍馬は確かに上は大名から下は庶民に至るまでの人々が参加する議会制度を夢見ていました。ただし、それは奇兵隊を見たからではなく、諸外国の制度を聞き知ったところから来ているのでしょうね。一方、晋作がどのような世の中を目指していたのかは判りませくん。彼は世の中の流れをひっくり返す様な大仕事はしましたが、来るべき世の中をどのような形にすべきかは示していない様です。それこそ、そこから先は自分の役割ではないと割り切っていたのかも知れませんね。文字通り、自分の役割を果たしてこの世を去ったと言えるのでしょう。

「龍馬の部屋。人は何故死ぬのか、天がお前の役目は終わりだと思うからだろうかと問い掛ける龍馬。そうかも知れない、けれども人の死は終わりばかりではない、志を受け継いだ者にとっては始まりでもあると答えるお龍。その通りだ、どんな時も前に向かわないと行けないのだと龍馬。」

「そこに中岡慎太郎が訪ねて来ました。お龍に席を外させる慎太郎。彼の用件は、陸援隊を作る、その目的は力に依る倒幕だという事でした。目指す所は幕府を倒して新しい日本を作るという所にある、お互い信じる道を行こうと誓う二人。」

久々に現れた晋作太郎は、いきなり龍馬のライバルになっていましたね。この二人はこういう対比をされる事が多いのですが、実際にはそう単純なものではありません。また、陸援隊と海援隊は本来兄弟の様なもので、目指すところは本藩の応援でした。

「長崎、海援隊。弥太郎が初仕事を持ってきました。大洲藩船のいろは丸を操り、4月19日に長崎を発ち、5日後に大阪の大洲藩の蔵屋敷まで人と荷物を運ぶというものでした。積荷は、米、砂糖、乾物、帰りには生糸と酒をのせて長崎に帰って来る、うまく行ったら大もうけだと檄を飛ばす弥太郎。がぜん張り切る隊士達。」

いろは丸の積荷については、龍馬は後に小銃等の武器弾薬も積んでいたと主張するのですが、近年行われた海底調査の結果に依れば武器らしき物は発見されていません。実は当時の証言の中にも、積荷は米と砂糖が主なものだったというものがあり、武器があったというのは龍馬のはったりではないかと言われています。ドラマでは、現在確からしいと言われている説の方を採ったのですね。

「下関。汽笛に耳を澄ませるお龍。」

「下関。龍馬からの手紙を読む晋作。そこに奇兵隊の隊士達が見舞いに駆けつけました。彼らと共に、三味線を弾いて花見に興じる晋作。」

「長崎、出航準備が整ったいろは丸に、晋作から奇兵隊の旗が届きます。」

「下関。一人で浜辺に出た晋作。」

「出航を命ずる龍馬。」

「海に向かって手を広げ、波打ち際に座り込み、手を突いて泣き声を上げる晋作。」

「晋作から貰った布をロープに結びつけ、晋作に別れを告げる龍馬。」

「波に打たれながら坂本さん、頼みましたとつぶやく晋作。慶応3年4月、晋作没。」

以下、海援隊と陸援隊の成り立ちについて記します。

海援隊の成立は慶応3年4月の事とされます。正確な日付までは判りませんが、長崎においてまず後藤象二郎と福岡孝弟が合い、海援隊の設立を決めたと言われます。これには陸援隊もセットになっており、約規も同時に定められています。海陸を合わせて翔天隊と言い、土佐藩を外部から応援する組織として規定されています。その規約を次に掲げます。


陸援隊、海援隊約規(皇慶応三丁卯四月)

 出京官                      
  略         
 
 陸援隊                      
  略 

 出崎官                      
  参政一員                    
   付属書生二員                 
  右書生、当時出崎官ノ自撰ヲ許ス。外藩応接ノ際並海援隊中ノ機密ヲ掌ル。            
 海援隊                      
  隊長一人  風帆船属之。            
  脱藩ノ者、海外開拓ニ志アル者皆是ノ隊ニ入ル。国ニ付セズ暗ニ出崎官ニ属ス。
  運船射利、応接出没、海島ヲ拓キ五州ノ与情ヲ察スル等ノ事ヲ為ス。        
  凡海陸両隊所仰ノ銭量常ニ之ヲ給セズ。其自営自取ニ任ス。但臨時官乃給之。固
  無定額。且海陸用ヲ異ニスト雖モ相応接、其所給ハ多ク海ヨリ生ズ。 
  故ニ其所射利ハ亦官ニ利セズ。両隊相給スルヲ要ス。或ハ其所営ノ局ニ因テ官亦
  其部金ヲ収ス。  
  則チ両隊臨時ノ用ニ充ツベシ。右等ノ処分京崎出官ニ討議ニ任ス。          


海援隊約規

 凡嘗テ本藩ヲ脱スル者及佗藩ヲ脱スル者、海外ノ志アル者此隊ニ入ル。

 運輸、射利、開柘、投機、本藩ノ応援ヲ為スヲ以テ主トス。今後自他ニ論ナク其志ニ従ッテ撰入之。

 凡隊中ノ事一切隊長ノ処分ニ任ス。敢テ或ハ違背スル勿レ。若暴乱事ヲ破リ妄謬害 ヲ引ニ至テハ隊長其死活ヲ制スルモ亦許ス。

 凡隊中忠難相救ヒ困厄相護リ、義気相責メ条理相糺シ、若クワ独断果激、儕輩ノ妨ヲ 成シ、若クハ儕輩相推シ乗勢テ他人ノ妨を為ス、是尤慎ム可キ所敢テ或犯ス勿レ。

 凡隊中修業分課ハ政法、火技、航海、汽機、語学等の如キ其志ニ随テ執之。互ニ相 勉励敢テ或ハ懈ルコト勿レ。

 凡隊中所費ノ銭糧其の自営ノ功に取ル。亦互ニ相分配シ私スル所アル勿レ。
 若挙事用度不足、或ハ学料欠乏を致ストキハ隊長建議シ、出崎官ノ給弁ヲ竢ツ。

 右五則ノ海援隊約規、交法簡易、何ゾ繁砕ヲ得ン。モト是翔天ノ鶴其ノ飛ブ所ニ任ス。 豈樊中ノ物ナランヤ。今後海陸ヲ合セ号シテ翔天隊ト言ハン。亦究意此ノ意ヲ失スル 勿レ。

ここに掲げられている様に、海援隊士となる者は脱藩浪士である事が前提となっていました。そして、海外開拓の志を持つ者が有資格者となるのです。

その業務は、運輸(船による輸送業)、射利(ブローカー的な商売)、開拓(主として蝦夷地)、投機(相場に対する投資)と並べられています。今の総合商社の走りとでも言うべき存在でしょうか。そして最後に本藩の応援が掲げられています。つまりは土佐藩の政治(場合によっては軍事)活動を外からサポートするという事ですね。

原則として土佐藩からの資金提供はなく、海陸両隊の自営に任かすとなっています。ただし、陸援隊には資金を稼ぐ機能はないため、実質的には海援隊が稼ぎ出す利益が翔天隊の運営資金となる事になります。もっとも、どうしても足りない時は出崎官に建議してその給弁を待つとありますから、最後は土佐藩が面倒を見る事になっていました。ドラマで社中の借金を押しつけたのは、この規定を前提にしているのでしょう。

また、海援隊の持ち船である大極丸は、薩摩藩の保証で亀山社中が買い取る事になっていたのですが、その1万500両という代金がどうしても工面できず、結局土佐藩が買い取っています。この事からも海援隊は表向きは独立採算制を謳いながらも、土佐藩を事実上のスポンサーにしていたという事が伺えますね。

これに先立ち、2月には龍馬と中岡慎太郎の脱藩の罪が許されており、この4月には二人に対して正式に赦免の通知があると共に、海援隊長と陸援隊長にそれぞれ任命されています。ただし、陸援隊が正式に発足するのはこの年の7月の事でした。

その陸援隊の業務としては、

天下ノ動静変化ヲ観、諸藩ノ強弱ヲ察シ、内応外援、控制変化、遊説間蝶等ノ事 ヲ為ス。

とあり、土佐藩の遊撃隊という位置付けになるのでしょうか。

海陸両隊は土佐藩の影響化にありながら、独立性も有しているという特殊な位置にありました。「国ニ付セズ暗ニ出崎官(出京官)ニ属ス。」という微妙な表現がそれですね。しかし、やはりスポンサーの意向は大きく、より鮮明にその意向に沿ったのが龍馬であり、その結果が大政奉還路線だという見方が出来ると思います。陸援隊もまた、色々と紆余曲折はたどりますが、結局は龍馬と同調したのはそのあたりも一因だったのではないかと思われます。

何度も言いますが、そう明確に白黒と割り切れないのが幕末史の面白さだと思いますよ。

参考文献:「龍馬 最後の真実」 菊池 明、「坂本龍馬」 松浦 玲、「坂本龍馬 海援隊始末記」 平尾道雄、「龍馬の手紙」宮地佐一郎 「龍馬の夢を叶えた男 岩崎弥太郎」 原口 泉、「お龍さんの長崎日和」 小曽根育代

2010年10月 9日 (土)

京都・洛北 繁昌大国秋祭~下鴨神社~

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平成22年10月9日、下鴨神社で繁昌大国秋祭が行われました。


下鴨神社で大国さまはどこに祀られているかご存じでしょうか。実は本殿前にあるえと社がそうなのですね。

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大国さまは多くの名を持つ事で知られるのですが、下鴨神社では言霊の働きよって7つの社に分けてお祀されています。そして、それぞれの神様は干支の守り神でもある事から、各自の生まれ年に応じた社にお参りする干支詣りとして信仰される様になりました。なお、7つの社のうち5つの社で二つの干支の守護神を兼ねており、合計で十二支になります。

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下鴨神社のホームページに依れば、「御神像は、菊花と二葉葵の飾り金具を取り付けた五合桝を神殿とし、その中にお祀りして授与されるところから『半桝』は『繁昌』なりとして多くの崇敬者から深く信仰されている。」とあります。正直言って良く判らないのですが、ご祈祷を受けたりすると、この五合桝に祀られた御神像を授与して頂けるという事なのでしょうか。

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このお祭りに参加するのは初めてだったのですが、今日は朝からあいにくの空模様で、特に神事が行われた午後1時過ぎには強烈な雨に見舞われるなど散々な天気でした。それでも結構な参拝者で賑わっていたのはさすがと言えるのでしょうね。

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神事が終わった後は、参列者がそれぞれの守護神の神前にて玉串拝礼を行いました。そして仕上げとして御神酒を頂戴します。ただ、もし晴れていれば先に参拝を済ますのが本来の手順の様です。

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このお祭りの人気の秘密には、くじ引きがあるからなのかも知れません。1回千円なのですが、特等はなんと純金の小判でした。以下、電化製品、懸崖仕立ての菊などと続き、たとえ最下位になったとしても笹飾りは保証されています。私は何が当たったとしても持ち帰るのが大変そうだったので、参加していないのですけどね。

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なぜか黄色だった提灯です。こちらではえと祈願祭と記されていますね。それにしても、提灯の色ひとつで雰囲気が随分と変わるものです。夜になったら、さぞ綺麗だった事でしょうね。

あと、境内ではみたらし団子等の模擬店が行われていました。楼門の軒下で営業していたのですが、雨のせいで大変そうでしたね。来年はすっきりとした空の下で開催出来る様になって欲しいです。


2010年10月 8日 (金)

京都・洛中 和傘模様 ~宝鏡寺~

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堀川寺之内にある門跡寺院宝鏡寺は、人形寺として知られます。普段は非公開なのですが、それでも山門は開いており、玄関から先には入れないものの、庭先にある人形塚にお参りする事は出来ます。

その人形塚の隣に良く並べられているのが一群の和傘、あたかも色鮮やかなオブジェであるかの様ですよ。

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これは門前にある日吉屋さんが制作中の和傘で、ここで天日干しをしているのですね。ですから展示でも何でもないのですが、この傘を見る為だけにここに寄り道をする事もあります。

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天日干しですから、並べ方も特に決まっている訳ではないのでしょうけど、見る角度によっては結構絵になります。無論、制作途中の商品ですから触ったり動かしたりするのは御法度ですが、ああでもないこうでもないと写真を撮るのは結構楽しいですよ。うっかり汚したり破いたりしない様に注意は必要ですけどね。

門前を通る度に、今日はどんな傘があるのかなと楽しみにしている所です。


2010年10月 7日 (木)

京都・洛東 仲秋2010 ~八坂の塔~

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仲秋の八坂の塔です。この季節、八坂の塔と言えば秋明菊だったのですが、今年はどういう訳か見あたらない様です。植えるのを止めたのか、それとも猛暑のせいで育たなかったのか、どちらなのでしょうね。

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四条駅から直接八坂の塔を目指す時には、建仁寺の境内を横切って行く事が多いです。その道すがらで見つけた彼岸花。建仁寺の境内でも、少数ながらこの花を見る事が出来ますよ。

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建仁寺を抜けた先にあるのが八坂通。その道を東に向けて登った先にあるのが八坂の塔ですね。定番ではありますが、それだけに最も京都らしい景色の一つです。

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その八坂通をさらに上り、百日紅のある家の前から見た景色です。この家が空き家になってから数年が経つでしょうか。手入れをする人が居なくなった百日紅は半ば枝が枯れてしまい、往年の勢いは感じられません。でも、まだこうして花を咲かせてくれているのですから、健気な木ではありますね。

とても素敵な景色ですから、この木が枯れてしまわない様に願うばかりです。

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今度は塔の南側から撮ってみました。ここは民家の裏側が入ってしまうのであまり絵にはならないのですが、塔の姿そのものはなかなか格好良いのではないかと気に入っています。

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塔の下では芙蓉が咲いていました。もう少し背景に塔が入ると良いのですが、贅沢は言えないか。

まだまだつぼみは沢山残っていたので、もう暫くは楽しめそうでしたよ。

2010年10月 6日 (水)

京都・洛東 仲秋2010 ~三年坂~

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秋を迎えた三年坂です。

この界隈は相変わらず外人さんが多いですね。中でも多いのは中国系の方でして、ニュースでは減った様な事を言ってましたが、そんなに変わらないのではというのが実感です。本当のところはどうなのでしょうね。

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青龍苑では、オミナエシが咲いていました。この花は秋らしくて良いですね。彼岸花と共にこの季節を演出してくれる嬉しい花です。

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興正寺別院では、木陰でヤブランが咲いていました。派手さはないですけど、やはり今の季節を感じさせてくれる花の一つです。

この日はまだ小さなシュートだけでしたけど、今頃は彼岸花も咲いている頃でしょうか。参道の脇でそっと咲く姿に風情があり、結構好きなのですけどね。今年は無理だったけど、来年はまた見たいですね。

2010年10月 5日 (火)

京都・洛東 仲秋2010 ~清水寺~

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先週末は京都に出かける事が出来なかったので、ここからはストック写真からのアップとなります。今日は9月25日の清水寺、仲秋の景色です。

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この日は何と言ってもこの秋空が素晴らしかったです。この青空背景の舞台を撮ろうと思ったら、順光が得られる午前中に行く事ですね。昼を過ぎるにつれて空の色が薄くなって行きますから。

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その順光で撮った京都の町並みは、すっきりと写ってくれました。この透明感が秋らしさを感じさせてくれます。

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舞台の東側では、芙蓉が花盛りを迎えていました。この花も今年は今ひとつのところが多いのですが、ここは比較的花付きが良かったです。まだつぼみは沢山あったので、今暫くは楽しめるのではないでしょうか。

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もみじは、だんだんとくすんだ緑になってきました。盛りを過ぎて、終焉に向かい始めたというところなのかな。

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紅葉の季節を予感させるかの様に、赤く色づいた桜の葉が一枚落ちていました。はっとする様な鮮やかさでしたよ。

この寺が紅葉の盛りを迎えるのは11月の末から12月の初めにかけてでしょうか。その頃になったら、またここを訪れてみたいと思っているところです。

2010年10月 4日 (月)

京都・洛南 彼岸花2010 ~木津川堤 10.2~

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京都の南郊、木津川堤で見つけた彼岸花です。

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咲いているのは京阪電鉄の木津川鉄橋の近くで、京都の行き帰りに電車の窓から彼岸花が咲いているのが見えるのですよ。そこで気持ちの良い秋空に誘われて、サイクリングがてら来てみたという次第です。

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この日はまさに花盛りで、沢山の彼岸花を見る事が出来ました。群落という程ではないですが、彼岸花に関しては意外な穴場と言えるかも知れません。

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せっかく鉄橋の近くに来たのだからと、いつもお世話になっている京阪電車を背景に、一日一鉄を真似してみました。でも、普段電車を撮った事が無いので、勝手が判らないですね。鉄撮りには色々とセオリーがあるとは聞くのですが、初心者が絵にするのはなかなか難しいです。

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近くの橋本でも、田んぼの脇で彼岸花が咲いていました。正確には八幡市ではなく枚方市に入るのかな、久修園院というお寺の門前にあたります。

たわわに実った稲穂と赤い彼岸花の組み合わせは、やはりこの上なく綺麗なものでしたよ。


2010年10月 3日 (日)

龍馬伝40 ~清風亭の対決~

「長崎、小曽根邸。庭で瓜を標的にピストルの稽古をするお龍。戦に連れて行ってくれたらきっと役に立つのにと悔しがる彼女。龍馬達が戦に勝ったのは良いが、これまでの様には白昼堂々とは歩けなくなるのではと心配する乾堂。龍馬は私が守るとさらに稽古に励むお龍。そこに帰ってきた龍馬。喜んで飛びつくお龍。」

お龍がピストルの稽古をしていた事は、彼女の回想記に出てきます。彼女たちが薩摩に向かう時に、海に浮かべた徳利を狙って、龍馬、お龍、西郷吉之助、新宮馬之助などが腕を競ったと「続反魂香」に記されています。この時、馬之助とお龍が酒を賭けての腕比べとなったのですがお龍の3連勝に終わったとありますから、その腕前は相当なものだった事が伺えます。

「亀山社中に戻ってきた同志達。彼らは自分たちの本部が酷く荒らされている事に気が付きます。どうやら、社中が長州に加担した事に対する嫌がらせの様でした。」

「長崎奉行所。龍馬の捜索を命ずる奉行。彼はお元に対しても龍馬は既に重罪人であると言って、探す様に命じます。」

「小曽根家。英四郎が奉行所によって社中が荒らされた事を伝えに来ます。困った事になったという龍馬に、社中ごとこの屋敷の裏の離れに移ってはどうかと申し出る乾堂。乾堂の覚悟を聞き、喜んで受ける龍馬。」

「大阪城。15代将軍の座に着いた慶喜公。彼はフランス公使ロッシュに対し、幕府軍をより強大な軍隊に変えて長州を撃ち、この国を治めるのは徳川家であると朝廷に認めさせるのだと、さらなる協力を要請します。」

「長州、下関。結核が悪化し、療養を余儀なくされている晋作。見舞いの品としてスッポンを持って来た準一郎。ありがたく頂くおうの。江戸に攻め上る前に、まずは京を攻めるという準一郎に、龍馬が言った大政奉還論を持ち出す晋作。龍馬は夢を語っていると拒絶する準一郎。血を吐きながら、戦は、戦はと言い募る晋作。」

「土佐、高知城。慶喜公がフランスに更なる援助を要請したという報告を聞きながらも、もう昔の様な勢威は取り戻せないだろうと見通しを語る容堂候。かれはそろそろ潮が満ちてきた様だと独りごちます。」

「長崎、土佐商会。容堂候の命を受けてやってきた象二郎。彼は80万両を工面せよと弥太郎に命じた様子です。とてもそんな大金は出来ないと抗弁する弥太郎。何か手だてはないかと弥太郎を責める象二郎。商人達が龍馬を通せと言っていた事を思い出す弥太郎。彼は龍馬の名を出しかけますが、3年掛けて何とかすると誤魔化します。3年も待てるかと怒鳴る象二郎。そこに容堂候からの手紙が届きます。そこには密かに薩長に近づけと記されていました。」

「お慶と乾堂を土佐商会に呼んだ象二郎。彼は二人に薩長への橋渡しをする様に命じますが、幕府の地である長崎ではとても出来ない相談だと断る乾堂達。お慶達はなぜ薩長の双方に顔の利く龍馬を使わないのかと言い出しますが、象二郎の機嫌を損ねる事を恐れた弥太郎が彼らを遮ります。龍馬とのいきさつを思い出しつつ、懸命に感情を押し殺す象二郎。」

「お慶達が帰った後、弥太郎に龍馬を探す様に命じる象二郎。龍馬を殺すつもりかと問う弥太郎に、奴が使える男か、ただ目障りなだけかを確かめるのだと答える象二郎。」

「グラバー、お慶、乾堂に龍馬の居所を聞いて回る弥太郎。しかし、彼らは等しく居場所を知らないと答えます。小曽根邸の奥で、弥太郎が騒ぐ様子を聞いている龍馬。」

「引田屋。お元を呼んで憂さを晴らす弥太郎。見つからなかったと本当の事を言えば良いではないかと言うお元に、それでは象二郎が納得しないと苛つく弥太郎。妙にテンションの高いお元をいぶかる弥太郎。徳川が戦で負けた、世の中がひっくり返るかも知れないと笑うお元。彼女は問われるままに身の上を語り、龍馬なら悪い国にはしないはずと希望を見せます。龍馬を買いかぶるなと弥太郎が叫んだ時、当の龍馬が顔を出しました。あまりのタイミングに驚く弥太郎。」

「弥太郎の出世を祝う龍馬。彼は象二郎に会っても良いと告げに来たのでした。土佐の参政と顔を付き合わして話しがしたいと言う龍馬に、馬鹿な事を言うな、薩長と橋渡しさえして呉れれば良いのだと諭す弥太郎。そんな忠告を無視して、場所と時間を決めろと迫る龍馬。」

「小曽根邸の離れ。窓から帰ってきた龍馬を見て驚く同志達。彼は象二郎が会いたがっている事を皆に告げ、それを受けるつもりだと話します。敵と会うつもりかと問い詰める同志に、象二郎は薩長と近づきたがっている、これは自分が望んでいた事なのだと答えます。」

「彼は土佐藩を使って大政奉還を実現させるつもりでした。千載一遇のチャンスに賭けるべく、象二郎の人物を見定めて来ると言って同志達を鎮める龍馬。」

「慶応3年1月12日、清風亭。一室に通された龍馬が襖を開けると、お元が待っていました。驚く龍馬に、弥太郎に呼ばれた、龍馬と象二郎を和ませてくれと頼まれていると答えるお元。しかし、襖の向こうにと示唆するお元。判っていると答える龍馬。緊張する襖の陰の弥太郎達。」

「遅れてやって来た象二郎。平伏して迎える龍馬。土佐にこっそり戻ってきて以来だと皮肉る象二郎。あの折りは失礼しましたと素直に詫びる龍馬。お元に命じて二人の杯を満たさせる象二郎。自分と飲めるのはもう二度と無いと言う象二郎に、黙って杯を干す龍馬。」

「お前はここで捕まって打ち首にされても文句は言えない、しかし、土佐藩の為に薩摩と長州の橋渡しをするのならそれを後回しにしても良いと恫喝する象二郎。大殿の為に働いた土佐勤王党を弾圧し、半平太も以蔵も殺してしまった、そんな土佐藩の為に今更働く気はないと断る龍馬。お前に選ぶ道はないと、襖の陰に隠れている上士達をちらつかせて脅す象二郎。道がないのはそちらも同じ、自分の同志がなだれ込んでくると答える龍馬。話しはこれからだと座り直す龍馬。」

「馬関の戦いを語り出す龍馬。彼はあの程度で逃げ出すとは幕府の時代は終わりだ、今こそ大政奉還を持ち出す絶好の機会だと言い出します。寝言を言うなと切り返す象二郎に、だからこそ土佐の出番だと答える龍馬。彼は立ち上がって、上士達が隠れている襖を開け放ちます。あっけにとられる上士達。」

「薩長と幕府軍の勢力関係を説明し始める龍馬。薩長だけでは大政奉還を迫っても幕府が折れる事はないが、そこに土佐24万石が加われば脅威と変わる、それが龍馬の狙い目でした。どうして土佐がそこに加わるのかと否定する象二郎。薩長に近づきたいのなら、がっちりと手を結ぶより無いと答える龍馬。大殿と慶喜公の仲が良い事を知らないのかと言う象二郎に、それこそが都合の良い所だと返す龍馬。彼は今度は同志が隠れている障子を開け放ちます。一触即発の空気に包まれる座敷。」

「幕府が土佐が寝返ったと知った時こそ、大政奉還を持ち出す好機と座り直す龍馬。土佐が幕府に刃を向ける事は無いと叫ぶ象二郎に、その考えこそ薩長を押さえる力になるのだと諭す龍馬。そして、これこそが土佐が新しい日本を作る要になるという事だと迫ります。」

「これほど言っても判らないのであれば、土佐藩も象二郎もとんでもない大馬鹿者だと言い放つ龍馬。その言葉を聞き、いきり立つ上士達。対抗上刀を抜き放つ同志達。騒然とする座敷の中で向き合う龍馬と象二郎。やがて象二郎は刀を納める様に命じます。その威に打たれた様に刀を引く上士と同志達。」

「龍馬を見下ろしながら刀を抜いた象二郎。そのとたん、再び刀を抜く上士と同志達。平然と座っている龍馬。再び刀を納めよと命じる象二郎。同志達に刀を納めよと告げる龍馬。一人龍馬に刀を突きつけ、恐れを知らぬ奴だとあきれる象二郎。誰かに恐れ入っている暇はないと答える龍馬。」

「刀を投げ捨て、龍馬の話に乗ると言い出す象二郎。その条件として、亀山社中は土佐藩の下に入れと言う象二郎に、土佐藩と対等の立場なら手を握ると答える龍馬。上士、同志共に異議がある中、良かろうと答える象二郎。土佐は薩長を利用する、必ず土佐が日本の要になると約束しろと迫る象二郎に、黙って手を差し出す龍馬。意味のわかりかねている象二郎に、約束のシェイクハンドだと促す龍馬。ついにその手を握った象二郎。笑いながら、同志達に上士と握手を交わす様に促す龍馬。次々に握手を交わす人々。嬉しげに笑う龍馬。驚きの表情で龍馬を見つめる弥太郎。」

「小曽根邸。お龍に膝枕を命じ、才谷梅太郎と名前を変えると宣言する龍馬。名前を変えなければならない程危ないのかと心配するお龍。名前を変えても自分は自分だと答える龍馬。龍馬さんは龍馬さんだ、才谷梅太郎なんていう人は嫌いだとつぶやくお龍。嬉しげに笑う龍馬。」

ドラマと史実ではあまりに展開がかけ離れているので、いつもとは違って別立てにします。

慶応2年6月17日に下関での戦争を終えた直後の龍馬と亀山社中は、乗るべき船を失った(彼らが乗船して戦ったユニオン号は長州海軍籍となった)ため、最大の危機に陥っていました。収入が途絶した事により雇いの水夫達に支払うべき賃金も出せない有様で、彼らに暇を言い渡さざるを得ない状況に追い込まれていたのです。

その水夫達の多くは龍馬の人柄を慕ってどこまでも生死を共にしたいと言って離れようとせず、わずかに3人が止めただけでした。そんな中でも龍馬は、大洲藩に依頼して6人を貸し出す形で働き口を見つけたり、あるいは長府藩(三吉慎蔵の母藩)が海軍を開設する際には社中の人数を移籍させたいと打診したりしています。要するに倒産寸前に追い込まれた社長が、社員達の次の働き口を世話しようと飛び回っているという状況ですね。

この龍馬の苦境を救ってくれたのが薩摩藩でした。薩摩藩では亀山社中の同志に対して賃金を支払う(一人3両2分)一方、長州藩に譲らざるを得なかったユニオン号の代わりとして、プロシアの商人から大極丸という風帆船を買い取る算段を付けてくれたりしています(ただし、代金の支払いは社中持ち)。また、大洲藩に働き口を見つけられたのも薩摩藩の仲立ちがあってのことでした。

ようやく苦境を脱した龍馬は、次の構想として薩長の協力の下に馬関商社を設立しようとします。これは下関海峡を封鎖して通過する船の積荷を調べて日本経済の動向を把握すると共に、その積荷に応じた関税を取ろうというもので、長州藩では広沢真臣、薩摩藩では五代才助が積極的に賛成していたようです。

しかし、本来公海であるべき下関を封鎖すれぱ薩長以外の諸藩を敵に回す事になるのは明白であり、ことに木戸準一郎の反対に会ってこの計画は潰れてしまった様です。

その少し前、慶応2年8月には、小曽根乾堂の弟である英四郎が長州藩によって拘束されるという事件が起きています。英四郎は所用で大阪に行き、その帰りに大阪町奉行から長崎奉行に宛てた手紙を預かりました。そして長崎に向かう途中で下関に寄港したのですが、その手紙を持っている事が発覚したらしく、幕府方のスパイという疑いを受けたのです。

長崎に居た龍馬は、菅野覚兵衛を派遣すると共に、伊藤助太夫という下関の有力者に対して、英四郎は自分達が世話になっている小曽根家の者であり、決して怪しい人物ではないから救い出してやって欲しいという手紙を書いています。さらには、場合によっては薩摩人を派遣しても良いとも言いやって、小曽根家の為に全力を尽くそうとしている事が伺えます。この甲斐あって、英四郎は無事に解放してもらう事が出来た様ですね。

この頃、絶縁状態となっていた土佐藩との仲立ちをする人物が現れます。それが旧知の溝渕広之丞で、砲術修行と時勢探索の役目を帯びて長崎に来ていた彼は(恐らくは後藤象二郎の意を受けて)龍馬に接近し、その志望を聞き出そうとします。龍馬はその要望に応えて、自分の志望は海軍にある事、長年懐かしい故郷に背を向けてきたのは、その情に負けて志を曲げてしまう事を恐れていたからである事などを手紙に認めました。溝渕はこれを見て喜び、これならば龍馬を土佐藩に迎え入れる事ができそうだと考えました。

このあたりの背景には、ドラマにもあった様に、第二次長州征伐における幕府の対応のまずさを見て、土佐藩においても薩長に接近する必要性を感じたという事がある様です。

龍馬もまた土佐藩を薩長の側に引き込む事が出来るかもしれないと感じたのでしょう、下関で溝渕を木戸に引き合わせています。木戸から時勢論を聞いた溝渕は、長崎に帰ってから後藤象二郎にその会見の様子を伝え、後藤をして薩長に接近する方向に方針転換する事を決意させる役割を果たしました。

ここまでが慶応2年7月から12月にかけての出来事です。

明けて、1月5日には下関で中岡慎太郎と再会を果たしています。その会談の内容は伝わっていませんが、夜明け近くまですこぶる快談したと中岡は認めており、翌6日にも再び二人は会っています。薩長同盟が成立して以来の再会ですから、積もる話があったのでしょうね。そして、恐らくは今後の構想を語り合ったものと思われます。

ドラマでは全てスルーとされましたが、清風亭での会見がセットされるまでの間にはこれだけの動きがありました。

龍馬が長崎に帰ったのは慶応3年1月11日の事でした。そして、龍馬を待っていたのは後藤象二郎との会見です。この会見を周旋したのは溝渕と開成館の商法係を勤める松井周助の二人でした。この会見があった日は龍馬が認めた手紙から1月14日頃と推定されており、場所は料亭「清風亭」でした。この料亭は大浦慶が女将を務めていた(つまりは経営していた)様ですね。

龍馬にとって後藤は仇敵とも言うべき相手であり、後藤にしてもそれは同じでした。龍馬はそれ以上に土佐藩を薩長側に引き付ける事に魅力を感じてこの会見に応じたのですが、その一方でこれは何かの罠かもしれないとも警戒していた様です。

その警戒を解くべく後藤が用意していた隠し球がお元でした。お元については謎だらけなのですが、龍馬の馴染みの芸妓であった事は確からしく、後藤が特にお元をこの席に呼んだ事も事実として伝わっています。この計略は見事に当たり、龍馬も恩讐を越えて後藤と向き合う事が出来た様です。

会見の内容は明らかにはなっていませんが、龍馬から木戸に宛てた手紙には、後藤とは十分に論じる事が出来た、土佐藩の方針も以前とは変わって来ており、今は幕府の役には立たないという所まで来ている、このぶんだと7月か8月頃には昔の薩長土の様になるだろうから楽しみだなどと記されています。

またこの手紙には、この会見が成功したのは木戸から溝渕に話してくれた事が大きく作用したとも記されており、実質的に木戸のおかげであると感謝の意を表しています。つまりは、後藤と龍馬が和解した背景には木戸、すなわち長州藩の意向が働いていたという事であり、この点もドラマでは描かれていない重要なポイントですね。

大政奉還についてはどうでしょう、いくつかあるオプションの一つとして語られたかも知れません。前回に書いた様に、春嶽侯が慶喜公に対して大政奉還を勧めた事が木戸からの手紙で龍馬に伝わっており、さらには同じ手紙で容堂候に春嶽侯の手助けをして貰えたら助かると示唆されていますからね。ですから話しが出たとしても、ドラマの様な形では無かった事は確かです。

彼は会見の様子について同志達に語っているのですが、後藤は過去の事には一言もふれず、将来の大局の事のみを言った、これは彼が人物である証拠である、また話題を常に自分に引き付けて決して他人に引きずられる事が無い、これも才人でなければ出来ない事だと語り、その人柄を賞賛しています。ここはドラマとは大きく違うところですね。

しかし、龍馬が仇敵の後藤と手を結んだ事は同志や故郷の人達から非難を浴びる元ともなり、殊に姉の乙女からは姦物役人に騙されているのではないかとまで言われた様です。これに対して龍馬は、後藤は土佐国中で最も優れた人物であり自分の第一の同志である事、自分一人でも500人や700人を率いる事は出来るが、それよりも土佐24万石を動かした方が天下の為になるなどと書き記し、これはとても乙女の理解に及ぶところではないとやや突き放した弁解をしています。

個々に動くのではなく土佐一国を動かすという点では半平太と同じ思想であり、回り回った挙げ句に半平太の下に帰って来たと言えなくも無いですね。まあ、その方法論はまるで違ってはいますが、たどり着いた結論が同じというのは面白いところです。

今回のドラマにおける会見の描き方は、史実とはまるで逆の荒唐無稽なものではありましたが、その緊迫感はなかなか良かったと思います。龍馬よりもむしろ象二郎の方が格好良かった様に思うのは私だけでしょうか。ただ、あれではお元の存在意義がほとんど無かったのが可哀想でしたけど。

なお、龍馬が才谷梅太郎を名乗ったのはもっと早い時期であり、慶応2年1月3日付けの手紙にその名が見えます。つまり、薩長同盟を締結する直前であり、その頃から彼の身辺が危うくなり始めた事を窺わせます。

参考文献:「龍馬 最後の真実」 菊池 明、「坂本龍馬」 松浦 玲、「坂本龍馬 海援隊始末記」 平尾道雄、「龍馬の手紙」宮地佐一郎 「龍馬の夢を叶えた男 岩崎弥太郎」 原口 泉、「坂本龍馬の妻お龍」鈴木かほる

2010年10月 2日 (土)

京都・洛中 彼岸花2010 ~平野神社 9.25~

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平成22年9月25日の平野神社です。春の桜で有名なこの神社ですが、今の季節はその桜の下で咲いている彼岸花を見る事が出来ます。

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場所は境内ではなく桜苑の方で、主として北側の一帯と柵に囲まれたエリアの中で咲いています。もっとも、この写真を撮ってから一週間が経ってますから、かなりの部分は枯れているかも知れません。

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柵の内側では、コムラサキの実も成っていました。その紫と合わせてみたのですが、縮小してしまうとあまり判りませんね。

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同じエリアには白の彼岸花も咲いていました。群生している場所もあったのですけど、あまり絵にならなかったので、控えめなグループの方をアップしておきます。

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ずっと同じ事を書いていますが、ここも御多分に漏れず花数は少なかったです。全体的に、今年の彼岸花は期待はずれのところが多かったですね。でも、花そのものの美しさには変わりはありませんから、あちこち見て回った価値はあったと思っています。

2010年10月 1日 (金)

京都・洛中 彼岸花2010 ~相国寺 9.25~

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平成22年9月25日の相国寺です。

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相国寺の彼岸花は、主として上立売通と鐘楼に挟まれた植え込みの中で咲いています。それほど広くはないスペースですが、よく手入れされた綺麗な苔と紅い花の対比を楽しむ事が出来ますよ。

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写真を撮るにあたっては、西側に浅い水路があり、そこに降りると地面すれすれから彼岸花が立ち上がる姿を捉える事が出来ます。

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今年はここも花数が少ないですね。元々あたり一面に咲くという程ではないのですが、これだけまばらに咲くと少し寂しい気もします。

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相国寺では、法堂の前の仏殿跡や経蔵でも彼岸花を見る事が出来るのですが、この日はほとんど咲いていませんでした。経蔵で一輪だけ咲いていたかな。

この後は、大光明寺の前の通路脇で紅と白が混じった花が咲くはずです。ここは毎年遅れて咲きますからね。今年はどうなるのか、今週末にでも確認出来ればと思っているところです。

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