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2010年9月

2010年9月30日 (木)

京都・洛東 彼岸花2010 ~真如堂 9.25~

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平成22年9月25日の真如堂です。この日は遅れていた萩と彼岸花が咲き始め、ようやく秋らしい境内になっていました。

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真如堂の境内には沢山の萩がありますが、咲いていたのは茶所の前と本堂の南側のこの株くらいでした。後は全く咲いていないか、せいぜいちらほら咲き程度でしたね。今年の進行は本当に遅いです。

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彼岸花は順調に開花していました。咲いたばかりの花は新鮮でとても美しいですね。

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真如堂の彼岸花は、参道石段の両側にある斜面が中心となります。参道からだと植え込みの向こう側になるので見えにくいのですが、それぞれ反対側に回り込むと良く見えますよ。

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ただ、今年はここも花数は少ないですね。例年に比べるとどうだろう、7割もあるのかな。

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そんな中で、毎年楽しみにしている垣根の側では、今年もちゃんと咲いてくれました。この窓から顔を出した様な咲き方が良いのですね。

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真如堂の境内を探すと、まだまだあちこちで彼岸花を見つける事が出来ます。境内の東にある薬師堂の周辺もその一つで、ここは垣根が無いため目の前で花を見る事が出来ますよ。ただし、それほど多くは咲いていないのですが。

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遅れていたのはススキの穂もそうでしたね。この日はやっとあちこちで穂を出したススキを見る事が出来ましたよ。

ここは元三大師堂の前なのですが、新鮮なススキの穂と、少し色づき始めた花の木があいまって、秋らしい風情が漂っていましたよ。これから日を追うごとに秋が深まって行く事でしょうね。

2010年9月29日 (水)

京都・洛北 萩2010 ~常林寺 9.25~

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平成22年9月25日の常林寺です。遅れていた萩の花もようやく咲き始め、この日は五分程度と言える程にはなっていました。

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最盛期に比べるとまだまだもの足りませんが、他の場所の萩から比べればずっと状況は良いですね。さすがに萩の寺と呼ばれるだけの事はあるでしょうか。

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順調ならそろそろ見頃になる頃だと思うのですが、雨の影響が気がかりすね。週の初めに少し強めの雨が降ったし、明日も朝から雨の予報になっています。せっかく咲いた花が散ってしまわなければ良いのですが。

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満開になれば、この全ての枝が花で覆われます。そんな時に境内を歩くと、文字通り花に埋もれた様な感覚になりますよ。それがこの寺の真骨頂です。

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それと、この石畳の通路が良いですね。どちらかというと野趣のある萩に、雅さを付け加えてくれる存在ですね。

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この日は適度なそよ風があって、とても気持ちが良かったです。風に揺れる萩もまた風情のあるものですね。ただ、写真を撮るには難しくて苦労しましたが。

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こうしてみると、白の萩も綺麗ですね。日なたで見るよりも日陰で見る方が、その白さが一層引き立つ様な気がします。

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この寺でも、少ないですが彼岸花が咲いていました。この季節を代表する花のコラボレーションは、とても素敵なものでしたよ。この寺ならではのシチュエーションです。

2010年9月28日 (火)

京都・洛東 彼岸花2010 ~清水寺 9.25~

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平成22年9月25日の清水寺です。この日はようやく彼岸花が咲き始めたばかりだったらしく、まだ一分咲きといった程度でした。

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清水寺の彼岸花は、主として本堂の舞台下で咲いています。下から見るとこんな具合に柵越しになるので写真に撮りやすいとは言えないのですが、東側の階段側からなら比較的撮りやすいです。ただし、通行人の邪魔になり勝ちなので注意が必要ですけどね。

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咲いていた花数は少なかったですが、出ていたシュートはかなりのものがありました。順調なら明日あたりが見頃だと思うのですが、雨の影響が気になるところですね。

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舞台下には石仏が沢山あるので彼岸花と組み合わせたいところなのですが、残念ながらまだほとんど咲いていなかったので無理でした。これも清水寺らしい光景なので、一枚は欲しかったのですけどね。

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舞台の東側は比較的シュートの数は多かったのですが、西に行くにつれて例年よりも少ない気がしました。特に舌切り茶屋から西側が少なく、春頃に行っていた斜面の整地作業も影響しているかも知れないですね。

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彼岸花が少ないのはどことも同じで、たぶん猛暑の影響もあったのでしょう。でも、この後はどうなるのでしょうね。来年に尾を引く事はないのか、少し気がかりなところではあります。

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それにしてもこの日は気持ちの良い青空でした。彼岸花にはこんな空がよく似合います。

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放生池の畔にある百日紅は依然として見頃を保っていました。ここは記念写真を撮るには絶好のポイントですね。この日も何組かが入れ替わり立ち替わりして撮っていましたよ。

ただ、少し木が茂りすぎてせっかくの塔が見えにくくなっています。そろそろ剪定した方が良いのではないかと思うのですが、お寺の方でそこまで気付いてくれるかな。

2010年9月27日 (月)

京都・洛西 彼岸花2010 ~北嵯峨 稲田の風景~

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北嵯峨は一面に水田が広がる田園地帯なのですが、彼岸花が咲く頃には稲刈りが終わっているところが多く、黄金色の稲穂が揺れる光景というのはあまり見る事が出来ません。それでも探せば、部分的には写真の様な景色が残っている所もあります。

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この黄色の稲穂と赤い彼岸花の組み合わせはとても美しく、最も日本の秋らしい景色の一つだと思います。

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本当は彼岸花が田んぼを縁取る様に咲いているところを撮りたいのですけどね、そういう場所は残っていなかったので、部分的な写真しかありません。でも、見られただけでも良かったのかなとも思っています。

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今の嵯峨野でちょっと困ったのは、田んぼの周辺に電線の柵が張り巡らされている事です。これは何かと思ったのですが、猪避けの柵なのだそうですね。最近は山に餌が減ったのか、あるいは猪が増えたのかは判りませんが、里に下りてきて稲を食べてしまうのだそうたです。その被害を防ぐ為の柵なのだそうですが、写真を撮るには正直言って邪魔ですね。

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でも、せっかくの農作物が食べられてしまっては大変ですから、撮る側で工夫するしか無いでしょう。それにしても、猿までやって来る様になったと聞きますから、今の山の中はどうなっているのでしょうね。動物たちも棲みにくい世の中なのかな。

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こういうわら束を干した景色も少ないですね。昔の様にわらを使う事も少なくなったという事でしょうか。こうして干してあるのは、しめ縄など限られた用途の為に作業してあるのかも知れません。

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こうして夕日を浴びながら野道を歩くのは気分の良いものですね。とても平和で落ち着いた、静かな一時を過ごさせて貰いました。

2010年9月26日 (日)

龍馬伝39 ~馬関の奇跡~

「明治、岩崎邸。土陽新聞に連載された「汗血千里の駒」を読む岩崎弥太郎。龍馬を英雄扱いするのなら、これ以上話はしないと坂崎紫瀾に通告する弥太郎。弥太郎の話す龍馬は魅力的に見えると食い下がる坂崎。」

汗血千里の駒は明治16年1月に連載が開始されたそうですから、このドラマの時期もその頃という事になるのでしょう。ただ、季節は夏の様ですからかなり連載が進んでからという事になりますね。怒るにしてはちょっと遅すぎて不自然なのでは?

「そこに、高島炭坑の報告書を持ってきた人物が居ました。利益が上がっていると聞き、満足げに部下をねぎらう弥太郎。その部下とはグラバーでした。維新後、零落していたグラバーを弥太郎が拾ってやったというのです。」

グラバーについては、明治維新の後、クラバー商会は確かに倒産しています。しかし、彼はイギリスに戻ることなく、肥前藩と共同経営していた高島炭坑の所長として日本に止まっていました。この炭坑は後に官営となるのですが、クラバーはそのまま所長であり続けた様ですね。弥太郎と縁が出来るのは明治14年の事で、高島炭坑が官営から三菱に払い下げになったのでした。グラバーは依然として所長を勤めていたらしく、明治16年には弥太郎の部下となっていた事は確かな様です。ただし、零落していたのを拾い上げたというのはおかしいですね。

「龍馬など口先だけの男である、土佐の地下浪人だった自分は日本一の三菱を率いている、自分くらい出世した人物は太閤秀吉位しかいないと豪語する弥太郎。そこに現れた母の美和が、貧乏だった頃を忘れるな、思い上がってはいけないと弥太郎をたしなめます。」

「坂崎に弥太郎の言う事など気にするな、龍馬が世に知られて嬉しいのだと話す母。彼らと離れた場所で咳き込む弥太郎。思わず口を押さえた手には血が付いていました。」

この演出だと弥太郎も結核を患った様に思えますが、実際の死因は胃ガンだった様です。症状が現れたのは明治17年8月の事とされますから、ドラマよりは1年後の事になりますね。

「龍馬がいたからこそ今のお前がある、最期まで坂崎に話をしなさいと弥太郎を諭す美和。」

「下関で幕府軍と戦う龍馬。その龍馬を思い出しのか、叫び声を上げる弥太郎。」

「1867年(慶応2年)6月7日、幕府軍対長州藩の戦いが始まりました。下関の馬関で長州軍に合流した龍馬率いる亀山社中。さっそく陣中で甲斐甲斐しく働く龍馬。」

「長崎、土佐商会。溝渕広之丞が藩から命じられたと言ってやって来ました。ところが忙しく働いている役人達は誰も相手にしてくれません。そこにジョン・万次郎が現れました。役人達は上士ばかりで、下士は相手にしてくれないのだと言います。」

広之丞が長崎に行ったのは確かですが、その用件は砲術修行にあり、土佐商会で働く事ではなかったはずです。そもそも弥太郎が長崎出張を命じられたのは慶応3年3月の事ですから、ドラマよりも1年近く先の事になりますので、ここの下りはすべて創作という事になりますね。

「ここの頭は誰かと聞く広之丞に、大抜擢された人物だと答える万次郎。その人物とは弥太郎でした。驚く広之丞に、なぜ自分の下で働かなくてはならないのかと思っているだろうと嫌みを言う弥太郎。彼は早速溝渕に大荷物を背負わせて、土佐の物産の売り込みに出かけます。」

「オールト商会。土佐の和紙や樟脳を売り込む弥太郎。にべもなく断るオールト。土下座をして頼み込む弥太郎達。」

このドラマは本当に土下座が多いですね。土下座って、こんなに安売りするものなのかしらん?

「下関。全軍の指揮を執る高杉晋作。戦の最中にも関わらず、着流し姿に三味線を抱え歌まで歌っています。」

晋作がこの戦いにおいて平服だったという話は、司馬遼太郎さんの「世に棲む日々」に出てきます。幕府軍の手に堕ちた大島を奪い返しに行く時、一緒に戦った田中光顕が語り残した言葉として、幕府軍など鼠賊である、俺は扇子一本で十分だと言って、平装に扇子を帯びた姿で船に乗り込んで来たと記されています。私はこの小説以外には知らないのですが、この根拠とされる田中伯爵の語り残しがどこかに記録されているのでしょうか。

「奇兵隊の隊士達に、生業は何かと聞く龍馬。百姓、大工、干物の行商と次々に答える隊士達。自分たちも世の中の役に立てる、侍だけでは世の中は変えられない、自分たちが加わる事で新しい世の中が生まれると晋作が言ったと熱く語り、親兄弟、子供達の為に自分たちが戦うのだと意気の上がる隊士達。こういう人達のために、日本を変えなければならないと言う沢村惣之丞。そのとおりだとつぶやく龍馬。」

「咳き込んで、奥へと急ぐ晋作。その姿を見て後を付ける龍馬。手に着いた血を洗い流す晋作。気遣う龍馬に、労咳だと答える晋作。驚く龍馬に、もう長くはない、先が無いなら無いなりに、派手な花火を打ち上げたい、それが高杉晋作の生き方だと言って背を向ける晋作。」

「百万の軍勢恐るるに足らず、恐るべきは我ら弱き民、一人一人の心なりと檄を飛ばす晋作。意気に感じて鬨の声を上げる隊士達。」

「グラバー邸。売り込みに来た弥太郎に、土佐藩なら龍馬を通せとにべもなく断るグラバー。憤然として立ち去る弥太郎。」

「長崎の町で、一人龍馬を気遣うお龍。」

「下関。晋作を中心に軍議が開かれています。幕府海軍5万に対して長州海軍は1千。その時、龍馬が門司を奇襲すべきであると発言しました。海流がきつく、夜襲は無理という声に、自分たちは海軍繰練所で鍛えた腕を持っている、明日は自分たちに着いて来れば良いと豪語する龍馬達。少数で大軍を攪乱すべしと下知を飛ばす晋作。」

ドラマでは龍馬が積極的にこの戦争に加わったかの様に描かれていましたが、実際にはユニオン号を長崎から下関まで回漕して来たところを高杉に捕まり、17日の攻撃だけでも参戦してくれる様にと懇願されたというのが正しい様です。

この戦いの様子は龍馬自らが書いた絵図に詳しく記されていますが、そこには桜嶋という蒸気船、即ち龍馬船将と書かれており、彼が参戦したという証拠とされています。ただし、これには異説があって、実際に戦ったのは亀山社中の同志であり、龍馬自身は下関の民家の屋根の上で観戦していたとも言われます。龍馬はこの後の戦いにおいても、小五郎に対して「また野次馬をさせてくれないか」と手紙を出しており、「また」と言う以上、前の戦いにおいても野次馬(観戦)していたのではないかと言われていますね。どちらが正しいかは判らないというのが現状です。

「6月17日早朝。碇を上げるユニオン号。」

「小倉、大久保海岸。密かに上陸していた晋作率いる奇兵隊。着流し姿に三味線を手にした晋作は、隊士達に散開を命じます。」

いくら晋作とは言っても、三味線片手に戦場に現れたりはしないでしょうね。これはまあ、時代劇らしい演出という事にしておきましょう。

「ユニオン号。予定地点まで着て、攻撃準備に入る社中の面々。」

「大久保海岸。奇襲を予期せず、油断している幕府軍陣地。そこに三味線を弾き、歌を歌いながら現れた晋作。不審に思った見張りを、声を立てさせずに倒す奇兵隊士。」

「敵陣に向かって大砲を放つユニオン号。」

「大砲の弾が炸裂する中を、悠々と三味線を弾きながら歩く晋作。奇襲に驚いて飛び出てくる幕府軍。晋作に気付いて襲い掛かりますが、待ち受けていた騎兵隊士に次々と討ち取られて行きます。晋作に続いて飛び出す奇兵隊。」

「幕府海軍の反撃を受けるユニオン号。直ちに応戦を指揮する龍馬。」

「大久保海岸。鬼神の働きを見せる晋作。彼は攻撃を止めさせ、敵陣に向かって小倉を獲りに来たのではない、幕府に着せられた朝敵の汚名を晴らしに来たのだと叫びます。これに答えたのが肥後藩でした。自分たちも幕府の命によってここに来たが、長州藩には何も恨みはないと言います。ならば戦う理由はないと言って、敵陣を通過していく晋作達。その勢いに押されて、小倉城に火を付けて退却した幕府軍。勝利に沸く長州軍。」

熊本藩が戦い半ばで持ち場を離れたのは事実です。ただし、戦いもせずに引いたのではなく、一度は長州軍と戦ってこれを敗走させています。そうやって熊本藩の意地を見せつけた上で、下手な戦を続ける幕府への反感から持ち場を離れたのでした。何も奇兵隊の勢いに恐れをなして引いた訳ではありません。

なお、この戦争は6月17日で終了した訳ではなく、この後も各地で攻防があり、小倉城が墜ちたのは8月1日の事でした。

「これで次に進む事が出来るとつぶやく龍馬。」

「大阪城。小倉敗戦の報を聞き、怒りに震える慶喜。」

「大阪。打ち壊しが続く町。」

「家茂公が脚気により死去。苦境に目を閉じる慶喜。」

「下関。家茂公死去の報に沸く長州軍。」

家茂公の死去は最重要機密であり、そう簡単に漏れる訳は無いと思うのですが。それに、将軍が死んだとしても次の将軍が立って、戦争を引き継ぐ可能性が高い訳ですから、勝ったと喜ぶのは早すぎますね。

「鹿児島。山が動いたとつぶやく小松帯刀。変わると叫ぶ西郷吉之助。」

「高知城。幕府が負けるとは、と苛立つ容堂候。」

「長崎、引田屋。お慶を接待する弥太郎。同席しているのはお元。お元の美しさを褒めつつ、土佐に残してきた喜勢でのろける弥太郎。彼はお慶に商売を持ち掛けます。しかし、初めての商売でもあり、信用のおける龍馬を通して欲しいと答えるお慶。龍馬が幕府軍との戦いに参加したと聞き、驚く弥太郎。弥太郎を尻目に席を立つお慶。」

「お元から、龍馬がお龍と祝言を挙げたと聞き、どこまで自分を邪魔するのかと叫ぶ弥太郎。お前も龍馬に惚れているのかと聞かれ、私が惚れているのは岩崎さんと答えるお元。いい加減な事を言うな、お前には自分と同じ匂いがすると突き放す弥太郎。喧嘩では世の中が変わらないと言ったくせに、戦に行くとは龍馬は嘘つきだと叫ぶ弥太郎。龍馬の嘘はみんなが笑って暮らせる国にするための嘘と言い返すお元。そういうきれい事を言えるのが龍馬とふて腐れる弥太郎。」

「長州、山口城。長州侯に拝謁する龍馬。彼は藩主から下関での働きを褒められました。」

龍馬が長州侯に拝謁したのは史実にあるとおりです。彼は長州侯から色々とお咄しがあり、褒美として羅紗地を貰ったと乙女宛の手紙に書いています。

「龍馬に礼を言う晋作。長州が勝ったのは晋作と奇兵隊のおかげと答える龍馬。戦はこれだけにしておこうと小五郎に言う龍馬。今こそ諸藩に声を掛けて味方を増やす時だと言う龍馬に賛同する晋作。薩摩との盟約は幕府との戦を想定してのもの、その裏書きを書いた龍馬が戦に反対するとはおかしいと反論する小五郎。そもそも戦もせずにどうやって幕府を倒すつもりかと問う小五郎に、幕府自らに政権を返上させれば良いと答える龍馬。大政奉還論かとつぶやく小五郎。」

「大政奉還論は過去に何人も唱えた者が居た、しかし、一度手にした権力を手放す程幕府は甘くないと解説する小五郎。だから武器を持つのだ、政権を奉還しなければ滅ぼしてやると迫るために武器を持つのだと迫る龍馬。そうかと悟る晋作。大政奉還など、奇跡でも起こらない限り無理だと叫ぶ小五郎。その奇跡を起こさなければ日本は無くなると言って立ち去る龍馬。」

また、このドラマの荒っぽいところが出てきました。龍馬がいきなり大政奉還論を言い出しましたが、その萌芽というのはこれまで描かれていましたっけ。

早い時期から大政奉還を唱えていた人物としては、松平春嶽が挙げられます。春嶽のブレーンだったのが横井小楠で、龍馬が大政奉還論を知ったのはこのルートではないかと言われていますね。また、龍馬と親交のあった大久保一翁も大政奉還論を唱えていた一人ですから、ここからもその知識を得た可能性もあります。

春嶽侯はこの年の8月に、慶喜に対して政権返上を求める建白書を出しています。結果として慶喜にはぐらかされてしまうのですが、小五郎はこの事実を聞いてさすがは春嶽侯と絶賛し、龍馬に対しては、容堂候は春嶽侯と親しいのでこれを助けて貰えば天下の為になると今後の方針を示唆しています。つまりは、ドラマの進行とは逆に、小五郎の方から大政奉還を勧めているのですね。

龍馬にしてもドラマの様に大政奉還一本槍だった訳ではなく、刻々と変わる時勢の中で、武力倒幕との間を揺れ続けて行きます。それは小五郎とても同じなのですけどね。事実はそれほど単純ではない事は確かです。

参考文献:「龍馬 最後の真実」 菊池 明、「坂本龍馬」 松浦 玲、「坂本龍馬 海援隊始末記」 平尾道雄、「龍馬の手紙」宮地佐一郎 「龍馬の夢を叶えた男 岩崎弥太郎」 原口 泉

京都・洛西 彼岸花2010 ~北嵯峨 9.25~

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平成22年9月25日の北嵯峨です。

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この日はまさに秋晴れで、暑くもなく寒くもないという絶好の行楽日和でした。一年の内にそう何度もないという気持ちの良い日で、彼岸花もその気候に誘われたかの様にようやく咲き始め、見頃を迎えつつありました。

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嵯峨野に着いたのは午後遅くの事で、日が既に西に傾いていました。西日を受けた彼岸花は、赤さがより際だって見えましたよ。

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何人かの地元の人に話を聞いたのですが、今年は猛暑のせいか花が咲くのが遅く、かつ数も少なめだそうです。場所によっては、ようやくこの日に咲き出したところもあった様ですね。

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それでもこれだけの数が咲く場所は、京都近郊では大原とここぐらいしかなく、見応えはありますね。地元の人も楽しみにしているらしく、稲刈り後のあぜ道の雑草刈りなどで支援をしているそうです。

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それにしても、夕暮れ時の嵯峨野路は良いですね。夕日に照らされた道は、どこか懐かしくすら感じます。

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嵯峨野の見頃はたぶん今週半ば頃でしょうか。場所によってまちまなので一概には言えないのですけどね、最大公約数を取ればそのあたりかと思われます。

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あまりに綺麗な空だったので夕焼けを期待して待っていたのですが、残念ながら赤く染まる事はありませんでした。でも、これだけの景色を見る事が出来たのですから良しとしなければならないのでしょうね。

2010年9月25日 (土)

京都 彼岸花・萩2010 9.25

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平成22年9月25日現在の彼岸花と萩の速報です。

まずは彼岸花から。

清水寺

舞台下の彼岸花は開花したばかりです。まあ派手な花ですので、一応は見られますね。でも、見頃にはほど遠く、たぶん今週半ば頃が盛りになるのではないかな。舞台下はそれなりのシュートが出ているのですが、西に移動する程数が減り、全体としては例年よりやや少なめです。

興正寺別院

ここは以前に比べて数が極端に減りました。しかもまだ開花していません。彼岸花としては、わざわざ見に行く程ではなくなったかな。

真如堂

出ているシュートに対して開花している割合は5分か6分といった程度ですね。ですから、開花率は高いのですが、花数は例年より少なめです。特に参道階段北側の斜面がかなり少ないですね。

ここは参道以外でも咲いていて、薬師堂前とその西側の灯籠の周辺でも花を見る事が出来ます。数は少ないですけどね。

相国寺

傾向は真如堂と似ていて、開花率は高いものの、花数がやや少なめです。特に法堂前や経蔵周辺はほとんど咲いていません。

妙蓮寺

ここは花数は昨年以上かも知れません。ただ、まだ開花したばかりの様で、3分咲きといった程度でしょうか。

主として芙蓉の蔭で咲いているのであまり目立たないのですけどね、目の前で見られるという事では一番かも知れません。

平野神社

ここもシュートの数に対しては5分から6分咲きといったところですが、やはり花数が少ないです。例年の6割といったところかな。ムラサキシキブ(コムラサキ)の実の付き方も少ない様な気がしました。

嵯峨野

さすがに大原と並ぶ京都最大の彼岸花の名所の一つだけあって、他の場所と比べると結構見応えがあります。ただし、ここも例年に比べると数は少なめで、かつ開花も遅れています。一番綺麗な時を知っている人が行くと、少しがっかりするかも知れません。

開花状況は場所によってまちまちで、既に見頃を迎えている場所があると思えば、シュートだけが出ている場所もあるといった状況です。

次は萩です。

常林寺

やっと5分咲き程度になってきたかなというところです。でも、最盛期に比べるとまだまだ物足りないですね。まだつぼみが沢山残っていたので、これからに期待かな。

迎称寺

やっと咲き出したというところです。でも、まだ咲いていない株の方が多く、咲いている株もちらほら咲きといったところです。ここもつぼみは沢山出ているので、これから見頃を迎えるのでしょうね。

真如堂

ここも迎称寺と似た様なもので、茶所の前の株が少し咲いているくらいで、あとはほとんど咲いていません。良くてちらほら咲きかな。

以上のレポートは、明日以降順にアップして行きますね。

2010年9月24日 (金)

京都・洛中 百日紅2010 ~大應寺~

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水火天満宮の東隣に、大應寺という寺があります。どういう訳か門前が扇町児童公園になっており、参道というものが無いのですよ。そんな環境ですから何となく近寄り難く、これまで立ち寄る事無く過ごして来ました。それが今回訪ねてきたのは、綺麗な百日紅の花が咲いていたからです。

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門前にある立て札に依ると、臨済宗相国寺派に属する禅寺で、山号を金剛山というのだそうです。9世紀初頭に壇林皇后によって非田院が建てられたという由緒ある地で、文明2年(1470年)に後花園天皇が没したとき、その遺骸が火葬された場所でもあるそうです。

その後応仁の乱によって荒廃したのですが、天正14年(1586年)に虚應和尚がその由緒ある遺跡を惜しんで、一字を建立したのがこの寺の起こりなのだそうです。その後も度々火災にあい、現在の建物は文化5年(1808年)以後に再建されたものだそうです。

本尊は釈迦如来、脇侍に迦葉・阿難を安置するほか、後花園天皇の念持仏という観世音菩薩像を祀っているそうですね。

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境内には鎮守社として織部稲荷社が祀られています。これは17世紀初頭に古田織部正が伏見稲荷から勧請したものとされ、開運福徳の神、また織物技術の上達の神として、地元西陣の人々からの信仰を集めているのだそうです。

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百日紅は、その稲荷社の前に植えられています。この日はまだ十分見頃で、秋空を背景にとても映えて見えました。

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非田院はその後東山の地で再建され、現在は泉涌寺の塔頭となっています。ここがその故地とは全く知らなかったですね。

百日紅のおかげで、また一つ京都の歴史を知る事が出来ましたよ。つくづく奥の深い町だと改めて思った次第です。

2010年9月23日 (木)

京都・洛中 仲秋2010 ~上御霊神社~

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上御霊神社で見つけた秋の景色です。

木によっては花が終わり始めた百日紅ですが、ここではまだ見頃を保っていました。とは言っても花の付き方は控えめで、いかにも終盤という感じでしたけどね。

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本殿の裏手では小さな萩が咲いていました。まあ、ここに植えられたと言うより、どこからか種が運ばれてきて勝手に生えたという感じでしたけどね。それだけに野の風情があるとも言えます。

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舞殿では季節の花材を使った生け花が奉納されていました。これはリンドウですね。そろそろ花屋さんでは見かける様になりましたが、自然にはまだ咲かない様で、この日行った廬山寺ではまだつぼみも付けていませんでした。京都の庭園で見られる様になるのは、10月半ば以降になるでしょうね。

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唐辛子が赤く熟すのはやはり秋なのかな。白い菊の花とあいまって、とても綺麗でしたよ。

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この神社も紅葉の名所なのですが、本格的に色づくのは11月の末頃でしょう。今はまだ青々とした葉を茂らせています。

晩秋という言葉が相応しくなった頃、ここをまた訪れてみたいと思っています。

2010年9月22日 (水)

京都・洛中 萩2010 ~幸神社 9.19~

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平成22年9月19日の幸神社です。萩の開花が遅れている場所が多い中で、ここの花は比較的咲き進んでいました。

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まあ、咲き進んでいるとは言っても満開にはほど遠く、3分咲き程度だったかな。まだまだ見頃とは言えませんでしたが、他と比べるとずいぶんと綺麗でしたよ。

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この小さな花でも、昆虫にとっては貴重な蜜源の様ですね。特に多いのがキチョウでよく見かけます。紅に黄色で色合いは良いのですが、なかなかじっとしてくれないので写真に撮るのは至難の業ですね。

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順調なら今週末にはかなりの見頃となっている事でしょうね。ただ、気になるのは明日の雨で、先に咲いた花が散ってしまうかも知れません。そうなると寂しい姿になってしまうかも、ですね。

その時は散った花で敷き詰められた株の下を見るのが良いでしょう。地面が赤紫色に染まった様子もまた、なかなか見事なものですよ。

2010年9月21日 (火)

京都・洛中 萩2010 ~梨木神社 9.19~

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平成22年9月19日の梨木神社です。ここでは20日まで萩祭りが行われていたのですが、肝心の萩はほとんど咲いておらず、主役不在の祭りとなってしまいました。

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比較的咲いていたのが拝殿前のこの株で、ここは毎年咲くのが早いですね。この花のおかげで、わずかに格好が付いていたと言っても良いのかも知れません。

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同時期に咲いている事の多い白の萩も、今年はこの程度でした。あまりに高温小雨の状態が続きましたから、萩も勘が狂っているかも知れないですね。

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見頃になるのは何時になるのかな。今週末は難しい様な気もするけど、いくらかは咲き揃っていると思われます。

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たとえば鳥居の前のこの株なら、結構見頃になっているかも知れません。ただ、木曜日が雨の予報ですので、せっかく咲いた花が散ってしまうかも知れませんね。萩は雨に弱いからなあ。

2010年9月20日 (月)

京都・洛北 萩2010 ~常林寺 9.19~

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平成22年9月19日の常林寺です。この日は山門近くの萩が咲き始めており、少し見栄えがする様になって来ていました。

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今年はなかなか咲かない萩が多く、ここ常林寺でも例年に比べると開花状況はとても悪いです。いつもの年ならそろそろ見頃になっている頃なのですが、やっと咲き始めたといった状態で、全く咲いていない株の方が多いのではないかな。

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咲いている部分だけを撮ればこんな感じですが、とても満開と言うにはほど遠いですね。全体としては2分咲きと言えるのかどうかといったところでしょうか。

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でも、常林寺はまだましな方で、迎称寺などはわずかに数輪が咲いているだけです。これほど寂しい姿は見た事が無いという程ですね。

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常林寺の萩はつぼみ自体は沢山あるので、これから見頃を迎えるのでしょうね。今週末にどれくらい咲き揃っているのか、もう一度見に来ようかと思っているところです。

2010年9月19日 (日)

龍馬伝38 ~霧島の誓い~

「吉井幸輔の案内で霧島を目指す龍馬とお龍。」

「塩浸温泉で療養する龍馬。指を曲げようとすると傷が痛むらしく、顔を顰めています。」

龍馬が負った傷は概ね回復したのですが、左の人差し指だけは上手く曲がらなくなった様です。手紙では外見上特に見苦しくないと言っている龍馬ですが、実は苦にしていたのではないかという説もありますね。

「湯を出た龍馬。そこにやって来たお龍。彼女は龍馬が霧島山に登ると聞き、自分も一緒に行きたいと頼みに来たのでした。しかし、霧島山は女人禁制の山であり、無理だと断る龍馬。女房になったのに、龍馬の事は何も知らない、龍馬の行く所ならどこへでも行きたいと言い張るお龍。霧島山に登るのは、この大事な時に療養をしなければならない自分を奮い立たせる為だとお龍に言い聞かせる龍馬。」

日本初の新婚旅行と言われるこの薩摩行きですが、ドラマの二人は少しも楽しそうでは無いですね。せっかくの旅行なのに何だかなあという感じなのですが、実際の二人は大いに楽しんでいた様です。乙女に宛てた手紙には、薩摩の珍しい景色を楽しみ、渓流では魚釣りをし、山に入ってはピストルで鳥を撃って遊んでいたと記されています。これでこそ新婚旅行と呼ぶに相応しいと思うのですけどね。

「薩長と近づき始めたイギリス。フランスとの関係が悪化する幕府。自分の腹は決まっていると凄みを見せる慶喜。」

「長崎。ワイルウェフ号の練習航海が決まったと沸く亀山社中。船は自分に任せろと得意になる内蔵太。天草灘は波が高く、薩摩の沖は風が強く吹いている、内蔵太で大丈夫かと疑問を呈する陽之助。まだぐちゃぐちゃ言うかと食ってかかる内蔵太。間に入って止める惣之丞。」

内蔵太がワイルウェフ号に乗ることになったいきさつをもう少し詳しく記すと、薩長同盟締結のために龍馬と行動を倶にしていた内蔵太でしたが、締結後は龍馬と別行動を取り、恐らくは薩摩藩大阪藩邸に向かったものと思われます。その後、寺田屋で襲われた龍馬が京都藩邸を経由して大阪に現れ、再び内蔵太と合流しました。そこには中岡慎太郎の姿もあった様です。

慶応2年3月5日に、龍馬、お龍、内蔵太、慎太郎、三吉慎蔵などの一行は、薩摩藩の三邦丸に乗って大阪を出立します。翌6日に下関に着き、ここで慎太郎と慎蔵が下船します。龍馬達もここで一泊したと言いますから、一度は下船したのでしょうか。

8日に船は長崎に着きます。ここで内蔵太は下船しますが、龍馬は上陸していないようですね。その代わりに龍馬は、社中の同志であり甥でもある高松太郎に宛てて、内蔵太を社中に迎えてユニオン号に乗せたいという旨の手紙を書いています。つまり、内蔵太が亀山社中に加入したのはこの時点からとなるのですね。

その内蔵太が実際に乗ったのは、ユニオン号ではなくワイルウェフ号でした。この間の事情は判りませんが、歴戦の勇士である内蔵太は、船に関しては素人であったにも関わらず、船長を補佐する士官として乗り組んだ様ですね。このあたり、ドラマの様にいきなり船長になったとする説もあるのですが、その根拠がどこにあるのかは判りません。

「引田屋。龍馬に身請けを持ち掛けた事を思い出しているお元。そこに訪ねてきた内蔵太。彼は船を任された事を告げ、自分の夫婦になってくれとお元の手を取ります。身請けの為の金は必ず用意する、それまで誰のものにも成らないで居て欲しいという内蔵太の願いに、今は心だけを預けると承知するお元。」

お元と夫婦になりたいと言った内蔵太ですが、じつは既に妻帯者となっていました。龍馬の手紙では玉の様な嫁御とあり、かなりの美人であった事が伺えます。まあ、相手が事歴の判らないお元ですから、こういう創作も許されるのでしょうけど、いつもながら唐突な印象は否めません。

「吉井幸輔の息子幸蔵の案内で高千穂峰を目指す龍馬。その後を付けてきたお龍。驚く龍馬に、自分も一緒に登ると宣言するお龍。ここは女人禁制だと遮る幸蔵に、だから男装をしてきたと答えるお龍。お龍の勢いに押された龍馬は、一緒に登ろうと同意してしまいます。困り果てて、山の神様に許しを請う幸蔵。」

吉井幸蔵という人は、歌人の吉井勇の父親なのですね。子供の時に幸輔と共に龍馬とお龍の旅行に同行したという語り残しがあり、それを勇が文章にして残しているのだそうです。それに依れば、お龍は結構気分屋だったらしく、仲良く寄り添って歩いていたかと思えば急に起こった様に離れてしまって口もきかなくなる事もあったのだとか。龍馬はお龍の事をお龍さんと呼び、喧嘩の後の仲直りの際には、じっと手を握って涙を流していたとも言います。龍馬の意外な側面を見た様な気がしますね。

お龍が男装していたという資料は見た事がありませんが、それもここに書かれている事なのでしょうか。

「土佐、象二郎の屋敷に呼び出された弥太郎。日本のため、土佐の為に働きたいという願いを叶えてやるという象二郎。弥太郎は長崎で土佐の物産を異国相手に商売をする、その世話役をしろと命じられたのでした。前の失敗を繰り返さないためにも、英語が判る通事を付けて欲しいという弥太郎の願いに、ジョン・万次郎を引き合わせる象二郎。」

弥太郎が開成館長崎出張所に赴任したのは慶応3年3月の事でした。ですから、ドラマの時期とはかなり差がありますね。土佐藩は樟脳を外国に売り、その代金で武器を購入するという事業を行っていたのですが、トラブルが頻発しており、その調整役として弥太郎が起用されたのでした。彼は最初は下役として登用されたのですが、三月で主任に抜擢されるに至っており、その働きが抜群であった事を窺わせます。

ジョン・万次郎については、弥太郎に協力したという事は無い様ですが、この時期は開成館に属しており、象二郎と共に上海に行って軍艦の購入に当たったりしていた様です。

「高千穂峰の急峻を登る龍馬達。ニニギノミコトが日本を治める為にこの山の頂に鉾を突き刺されたという天の逆鉾伝説をお龍に語り、その逆鉾をこの目で見たいと言う龍馬。自分も見たくなったと先を急ぐお龍。」

「馬の背の様な尾根を歩き、頂上に着いた龍馬達。日本を変える為に先頭に立つと宣言し、逆鉾を引き抜く龍馬。そして、決意の証として再び逆鉾を突き立てたのでした。」

逆鉾を引き抜いた事は龍馬の手紙にも記されています。ただし、ドラマの様な決意表明ではなく、まったくの悪ふざけであった様ですね。これにはお龍も手を貸しており、如何にも新婚らしいはしゃぎ振りという気もします。

「1866年(慶応2年)6月7日、長州に攻め入った幕府軍。」

「開戦の知らせを聞き、小松帯刀邸を訪れた龍馬。薩長が手を結んだ事を幕府に知らせたにも関わらず、戦争が始まってしまったと聞き慌てる龍馬。高杉が先頭に立ち戦っていると聞き、イギリスに留学しているはずと信じられない龍馬。さらに、長州軍4千に対して幕府軍は15万と聞いて、薩摩は援軍を出してくれたのかと問い掛ける龍馬。まだ出していない、薩摩が兵を出すのは幕府を撃つ時、江戸城を落とす時だと答える吉之助。それでは日本中が戦場になると翻意を促す龍馬ですが、幕府と戦わずに日本を変えるのは無理である、これは小五郎も同じ考えであり、それが嫌だと言うのなら、龍馬という役者には舞台から降りて貰うしかないと言い放つ吉之助。呆然として取り残される龍馬。」

この下りは違和感の固まりでした。以前にも書いた様に薩長同盟はあくまで薩摩藩は後方支援を行う事を決めたものであり、直接援軍を送るといった内容は入っていません。その事はドラマの中でも吉之助が言っていたし、龍馬も聞いていました。なので、援軍を送らないのかという問い掛けはあり得ない事なのです。

それに、援軍を送れと言っておきながら、幕府と戦う事はならないとはどういう理屈になるのでしょう?このドラマの龍馬は、長州における局地戦なら幕府と戦っても良いが、倒幕の為の戦いは不可と考えているのでしょうか。そもそも、ここで薩摩が参戦すれば薩長と幕府の全面戦争に突入し、日本中が内乱状態になってしまうと思うのですが。言っている事が矛盾しまくりですよ。

「長崎。亀山社中に戻った龍馬に告げられるワイルウェフ号の遭難。船長の内蔵太も船と共に海に沈んだと聞き、嘆き悲しむ龍馬。」

ワイルウェフ号の遭難については、ドラマにもあった様に航海訓練中に起きた海難事故でした。ワイルウェフ号は、ユニオン号と共に長崎を出て薩摩に向かっていたのですが、この時ユニオン号が積んでいた米とは、ユニオン号購入の見返りとして長州藩から薩摩藩へ提供される兵糧米でした。つまり、長州藩は武器が不足していたのに対し、薩摩藩は領内の不作によって兵糧が枯渇しており、それぞれの不利をカバーし合う形で同盟の基礎が築かれたのでした。この兵糧米はその仕上げとなるはずのものだったのです。

風帆船であるワイルウェフ号は船足が遅く、速度を合わせるため蒸気船であるユニオン号がロープで曳航していました。ところが甑島までたどり着いた時に暴風雨に遭い、沈没の危険が出てきたため、ユニオン号はやむなくロープを断ち切りました。単独航行となったワイルウェフ号はなすすべもないままに漂流を続け、ついには五島列島の潮合崎沖で座礁し、やがて沈没してしまったのです。

乗組員16名のうち助かったのはわずかに4名であり、内蔵太を含む12名は海に沈んでしまいました。内蔵太は船長を務めていたとも言いますが、実際は士官だった様ですね。この時の船長は黒木小太郎という鳥取藩浪士だった様です。

「その夜、一人考え込む龍馬。やがて立ち上がり、何かを断ち切るかの様に刀を振るいます。」

「翌日、社中の同志達に、長州と共に幕府と戦うと宣言する龍馬。戦をせずに日本を変えるという志を曲げるのかと口々に反発する同志達。戦は既に始まってしまった、今立ち上がらなければ日本が終わってしまう。自分たちは、日本人としてこの国の為に戦う、舞台から降りる訳にはいかないと同志を説き伏せる龍馬。」

ここもおかしな話で、この展開だと吉之助からの脅しに龍馬が屈したという事になりますまいか。日本の為に戦うのだと言いますが、幕府を敵に回す事には変わらないはずですが、何が違うと言うのでしょう。

吉之助に負けて志を屈した龍馬というのではあまりに格好悪いと思うのですが、ここからまた新たな展開になって行くのかな。

「下関。戦闘の指揮を執る晋作。下知を下しつつ、血を吐く晋作。幕府に占領された大島に援軍を差し向ける小五郎。」

「長州海軍の船に乗り、幕府海軍むと戦う晋作。」

「寺田屋で忙しく働くお登勢。」

「長崎。土佐藩の商売を任された喜びを噛みしめる弥太郎。」

「十字架を内側に描いたかんざしを手に、海に向かって内蔵太の為に祈るお元。」

「ブーツを履き、戦いに出かける龍馬。その龍馬を励まし送り出すお龍。」

「写真館に寄り、写真を撮る龍馬。手にしたピストルを見つめ、これから始まる戦に思いを馳せているかの様でした。」

参考文献:「龍馬 最後の真実」 菊池 明、「坂本龍馬」 松浦 玲、「坂本龍馬 海援隊始末記」 平尾道雄、「龍馬の手紙」宮地佐一郎 「龍馬の夢を叶えた男 岩崎弥太郎」 原口 泉


2010年9月18日 (土)

京都・洛北 深泥池

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松ヶ崎から山沿いに西へ進み、上賀茂と呼ばれる地域に入ると大きな池が現れます。これが深泥池、氷河期から続くと言われる貴重な水域です。

周囲1540m、面積9.2haの大きさを持つとされますが、見た目半ば陸地化している様に思えます。これは水苔などからなる浮島があるためで、ここに氷河期からの生き残りとされるホロムイソウやミズグモが生息しているのだそうです。

温帯に棲む生物と北方由来の生物が同居するという点で、とても貴重な存在とされる池なのですね。

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この日はタヌキモの黄色い花が盛りを迎えていました。小さい花なのですが、水面に沢山並んだ様はなかなか綺麗でしたよ。

このタヌキモは食虫植物なのだそうですね。水中に捕虫嚢があって、ミジンコなどを捕らえて消化吸収しているのだそうです。そして、この様に花を咲かせるのですが、なぜか実は成る事はないのだとか。なんともユニークな植物なのですね。

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この池はまたトンボの楽園でもあり、約50種類を見る事が出来るそうです。この日沢山目に付いたのはこの糸トンボの仲間で、様々な種類が飛び交っていました。ただ、一箇所にじっとしている事は少なく、写真を撮るのは大変でしたけどね。

深泥池といえば心霊スポットのイメージが先行し勝ちですが、実は自然の宝庫なのですね。じっくりと時間を掛けて観察すると、きっといろいろなものが見えて来る事でしょうね。

2010年9月17日 (金)

京都・洛北 甲子大祭 ~松ヶ崎大黒天~ 

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久しぶりに訪れた松ヶ崎大黒天です。参拝のついでに静かな境内でゆっくり休憩しようと思ったのですが、この日は様子が違っていました。

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いつもはほとんど人が居ない境内なのですが、参道入り口にあるこの鳥居を結構な数の人達が潜っていきます。

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何かあるのかな思いながら階段を上って行くと、門には幔幕が張られており、何やら祭礼が行われている様子です。

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境内に入ってやっとその理由が判りました。この日(平成22年9月11日)は60日ごとに行われるという大黒様の縁日である甲子大祭の日に当たっていたのですね。

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本堂の前にはテントが張られ、お守りなどが売られています。休憩所では菓子類を売る売店が開かれ、200円で蕎麦が振る舞われていました。丁度食事を済ませた後だったので食べなかったのですが、この安さは魅力でしたね。知っていれば真っ直ぐここに来たのに。

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ここは鳥居や赤い灯籠があるので神社と間違えてしまいますね。でも正しくは如円寺という日蓮宗のお寺です。どうやら廃仏毀釈以前の姿を濃厚に残しているのかも知れませんね。それほど地元に密着し、かつ尊崇されている寺なのだと言えるのかも知れません。

2010年9月16日 (木)

京都・洛東 東アジア人文情報学研究センター

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白川通今出川を北西に入ると閑静な住宅街が広がっています。その住宅街の中に、聳える様にして建つ洋館があります。白亜のこの建物が東アジア人文情報学研究センター、京都大学の研究施設です。

竣工は1930年(昭和5年)、スペインの僧院を模したロマネスク様式だそうです。中央の尖塔の内部は書庫と閲覧室になっており、写真は撮ってないのですが、中庭の周囲を研究棟が囲んでいるのだとか。2000年に文化庁の「登録有形文化財」に指定されたのだそうです。

この建物を設計したのは東畑謙三という人で、当時京都大学建築部の教授だった武田五一の弟子にあたります。調べてみると、この方はインテックス大阪や大阪駅前第1ビル、第4ビルといった、関西人にはなじみの深い建物を設計された人なのですね。

当初は外務省の東方文化学院京都研究所として建てられたそうで、戦後に京都大学人文科学研究所に引き継がれた様です。

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ちょっと面白いと思ったのは、日時計がある事ですね。観光用のものは何度か見た事がありますが、現役で働いている日時計は初めて見ましたよ。影の先端が指している時刻はほぼ正確の様ですね。80年に渡ってエネルギー消費無しで時を刻み続けて来たのですから、究極のエコと言えるでしょうか。

なかなか味わい深い建物で、一度内部をじっくりと見てみたいものです。しかし、京都大学の図書館でもあり、利用出来るのは大学の関係者か研究者に限られる様ですね。建物だけを見たいと言っても無理なのだろうなあ、きっと。

2010年9月15日 (水)

京都・洛東 初秋2010 ~真如堂~

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平成22年9月11日の真如堂です。この日はまだまだ残暑が厳しかったのですが、そこかしこに秋の気配を感じる事が出来ました。

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茶所の前に植えられた西洋朝顔は、9月に入ってから俄然咲き出した様です。今年はアーリーヘブンリーブルーという品種だそうで、さわやかな空色が美しい花ですね。

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鐘楼の近くでは、オオモクゲンジが黄色の花を咲かせていました。希少種と言う程ではないけれど、ちょっと珍しい木の様ですね。花が少ない今の時期に咲く花なのに、他の木の葉に隠れてほとんど目立たないのが残念です。たぶん、気がついていない人が多いのではないかな。

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縦皮桜の近くでは、早くも色づいたもみじがありました。これって、この木が弱っているという事ですよね。美しくはあっても、痛々しい姿に見えてしまいます。

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花の木は先端がうっすらと色づいていました。こちらは季節どおりの進行なのかな。10月の末頃には、はっきりと色づいている事でしょうね。

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気になる今年の紅葉ですが、あまり良い予想は聞きませんね。猛暑で木が弱っている事に加えて、残暑が長く続くという予報のせいなのでしょうけど、出来れば外れて欲しい予想です。

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今は緑に覆われている真如堂ですが、季節は確かに秋に向かっています。11月にはこの緑の葉が赤く染まってくれると嬉しいのですけどね。楽しみ半分、不安半分、かな。

2010年9月14日 (火)

京都・洛東 百日紅2010 ~真如堂~

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真如堂で見つけた百日紅です。

ここの境内では何本かの百日紅が咲いていますが、まず目にはいるのが三重塔の前にあるこの古木でしょうか。以前にも紹介しましたが、塔の落ち着いた佇まいと良く調和して、和の風情を感じさせてくれます。

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本堂の北側でも紅い百日紅が咲いています。こちらは背の高い木でして、花は見上げる様な位置で咲いています。

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花は全体的に少なめなのですが、一番咲いているところだけを撮るとこんな感じですね。

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有料拝観区である書院の庭でも百日紅は咲いています。ただ、外からは撮りにくいのですよね。そこで灯籠を前面に出し、背景としてぼかしてみました。庭先で咲いている雰囲気は判って貰えるでしょうか。

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真如堂で一番見事だった百日紅はこの木かも知れませんね。理正院の前にある木で、まさに花盛りでした。白なので燃える様なという表現は出来ませんが、綿帽子を被った様な美しさでした。厳しい残暑の中でも決して溶けない綿帽子ですね。

2010年9月13日 (月)

京都・洛東 百日紅2010 ~祇園白川~

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祇園白川で見つけた百日紅です。

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祇園白川では2本の百日紅が咲いていました。その一つが白川沿いの白の百日紅です。この写真では分かり難いですけどね、真ん中上部右手の白い部分が百日紅です。

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目立つという意味ではこちらが主役でしょうね。辰己大明神で咲いている赤の百日紅です。

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小さなお社に相応しい控えめな枝振りながら、鮮やかな色が丹塗りの鳥居と良く調和してなかなか美しいですよ。

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そして、祇園の古風な町並みにも似合います。この神社に百日紅を植えたのは祇園町の人々だったのかな、とても良い選択をしたと言えそうですね。

2010年9月12日 (日)

龍馬伝37 龍馬の妻

「薩摩藩伏見藩邸を取り囲む伏見奉行所の役人達。ここに龍馬が運び込まれるのを見た者があると言って、引き渡しを要求しています。そんな者は居ないと要求を突っぱねる藩士達。」

「寺田屋。龍馬が捕り方を殺したと言ってお登勢に拳銃を示し、薩摩、長州の者と会っていたのかと問い質す与力。」

先週のドラマの描写では龍馬は威嚇射撃をしただけと思っていたのですが、今回は意外な事に捕り方を殺した事になっていましたね。そんなシーンはありましたっけ。史実はまさにそのとおりで、龍馬は二人の同心を射殺したとされとており、後に近江屋で襲撃されたのも表向きの理由はこの時の殺人罪でした。こうなって来ると、最後の暗殺の裏舞台がどう描かれるのか、俄然楽しみになってきました。

「薩摩藩伏見藩邸。意識を失っている龍馬に、口移しで薬を飲ませるお龍。」

「着の身着のままで龍馬を看護していた慎蔵とお龍。特に慎蔵は返り血を浴びた凄まじい姿です。二人が見守る中、意識を回復した龍馬。」

この二人は確かに献身的に看護をした様ですね。特に慎蔵に至っては、持っていた旅費の全てを龍馬の治療費に費やしたとも言われています。

「身動きの取れない龍馬を甲斐甲斐しく看護するお龍。両手を怪我している龍馬は、食事も一人では食べる事が出来ず、何もかもお龍に頼るしかありませんでした。」

「梅が咲く庭先に出て、お龍に包帯を取り替えて貰っている龍馬。そこに吉之助がやってきました。小五郎からの託された文箱を手渡し、小五郎は既に京を離れた、龍馬も京を出て鹿児島の温泉に浸かって傷養生をするが良いと勧める吉之助。」

「不自由な手で文箱を開けようとしている龍馬。みかねて開けてやるお龍。中に入っていたのは、盟約を成文化した小五郎の手紙でした。お龍の手助けを受けながら、のたうつ様に手紙の裏書きをする龍馬。」

ドラマでは省略されていましたが、実際には龍馬達は一度京都藩邸に移動しています。伏見藩邸では手狭であり、また用心にも悪いという理由からにでした。ですから、龍馬が裏書きをしたのは京都藩邸においての事です。

日付は2月5日となっており、襲撃を受けてから10日以上が経過していました。ドラマではお龍が介助していましたが、実際にはどうだったのでしょうね。しかし、ドラマの描写はリアルではありました。お龍でなかったとしても、不自由な手で裏書きをするには、誰かの助けが必要だったでしょうからね。

この裏書きの全文を記せば次のとおりです。

表に御記被成候六条ハ小西両氏及老兄龍等も御同席ニて談論セし所ニて毛も相違無之候。後来といへとも決して変り候事無之ハ神明の知る所ニ御座候
丙寅 二月五日              坂本龍

このうち小西両氏とは小松帯刀、西郷隆盛(吉之助)、老兄とは桂小五郎(木戸貫冶)の事を指します。また「毛も」とあるのは「すこしも」と読みます。

「龍馬はもう自分が守れる様なお方ではない、自分は寺田屋に帰ると言い出すお龍。一緒に薩摩に行こう、夫婦になるのだと言う龍馬。自分で良いのかと言うお龍に、お龍でなければ駄目だと答える龍馬。うれし泣きにくれながら、龍馬に寄り添うお龍。」

あれだけ献身的に看護されれば、誰でもくらっと来るでしょうね。元々お龍に関心のあった龍馬とすればなおさらだったでしょう。お龍にしてもさぞかし嬉しかった事でしょうね。

なお、お龍の回顧談に依れば、二人が祝言を挙げたのははるかに以前であり、元治元年8月1日の事でした。お龍は二人は大仏の隠れ家で出会い金蔵寺で祝言を挙げたと語っており、寺田屋で襲われた時は歴とした夫婦だったという事になります。

「長州、山口城。藩主に拝謁し、薩長の間で盟約が結ばれた事を報告する小五郎。彼は書状の裏書きを示し、立会人として坂本龍馬の名を告げました。」

「薩摩藩伏見藩邸。龍馬達が薩摩に旅立とうとしています。」

「薩摩藩京都藩邸。薩長同盟を仄めかし、長州攻めを止めようと、大阪で騒ぎを起こす事を画策する吉之助と帯刀。」

「大阪城。薩摩と長州が手を結んだという町の噂を聞き、驚く慶喜。」

「長州。これで長州攻めはなくなったとつぶやく小五郎。」

こういう工作を薩長がしたという説があるのでしょうか。手持ちの資料には記述が無く、肯定も否定も出来ません。でも、もし工作が事実だとしても、この程度で長州征伐を回避出来るとは思っていなかったでしょうね。せいぜい後方攪乱くらいが狙いだったのではないでしょうか。

少なくとも長州藩は戦争覚悟の上で盟約を締結したのであり、今更回避に走るとはとても思えません。

「長崎奉行所。警告を発したのに役立たなかったと憤る奉行。もっと確かな情報は掴めなかったのかとお元に八つ当たりをします。」

「伏見。薩摩藩士に守られながら、駕籠に乗って京を脱出する龍馬達。」

細かい事ですが、ナレーションで京を脱出したと言っていましたが、ドラマの設定では伏見から出立しているのですから、京を脱出したというのはおかしいですね。今は京都市伏見区となっていますが、元々は伏見は独立した町であり、京ではありませんでした。ですから、伏見を離れたとでも言うのが正しいのかな。

「土佐藩、高知城。報告どおりに薩摩と長州が手を結び、御公儀は狼狽えていると象二郎を褒める容堂候。嘆かわしい事だが、風向きが変わってきのだと状況を分析する容堂候。」

久しぶりに出てきた容堂候ですが、相変わらず酒浸りなのですね。そして、依然として先を見通す目を持っている事も変わりない様です。

「象二郎の屋敷。弥太郎を前に大殿様に褒められたと上機嫌の象二郎。良く薩長が手を結んだ事を調べてきたと褒める象二郎ですが、公家がしゃべっているのを聞いたというのは嘘だろうと弥太郎を問い詰めます。龍馬に聞いたと真相を白状する弥太郎。なぜ捕らえなかったと怒りを露わにする象二郎に、薩長の間に立ったのは龍馬である、東洋も龍馬を認めていたではないかと言い返す弥太郎。日本の行く末を考えろと言う龍馬の言葉に従い、自分も藩のため日本の為になる仕事をしたい、もう材木屋は止めると宣言する弥太郎。」

なるほど、この下りを入れたいが為に弥太郎を京に上らせ、さらには新選組に捕まらせたのですね。龍馬が新選組屯所に走った訳もこのための伏線だったとやっと理解出来ました。でもねえ、こんな展開にしなくても描ける内容ではないのかな。薩長同盟の回を犠牲にしてまで描く価値がある様には思えないのですが。

「長崎。薩摩に行く途中、長崎に寄港した龍馬。彼はお龍を連れて亀山社中に帰って来ました。いきなりの帰還に驚く社中の面々。」

「龍馬はまず薩長が手を結んだ事を同志達に知らせます。これで長州が救われる、日本が変わると喜ぶ一同。次いで、お龍と結婚した事を一同に告げる龍馬。よろしくお願いしますと手を突いて挨拶するお龍に、慌ててお辞儀を返す面々。」

「もう一つの知らせとして、薩摩藩の援助でワイエウルフ号という風帆船を手に入れたと告げる龍馬。ついに船を得たと大騒ぎする同志達。龍馬はその船長として蔵太を指名しました。」

龍馬が薩摩に行く前に長崎に寄ったというのは創作ですが、亀山社中がワイエウルフ号を手に入れたというのは事実です。社中の運用になるはずだった桜島丸の代替措置として薩摩藩が用意してくれた船で、二本マストの風帆船でした。そして、その船長として池内蔵太が任命されたのも史実にあるとおりです(追記:船長は別に居たのですが、この航海のときにのみ内蔵太が志願したと言われます。また、内蔵太は船長を補佐する士官だったとする説もあり、どちらかと言えばこの士官説の方が有力ですね。)。

「龍馬達が話をしている間、庭でポンペンを吹いて待っているお龍。そのお龍にこれから出かけて来るからここで待っていろと告げて出て行く龍馬。」

「グラバー邸。グラバー、乾堂、お慶と麻雀卓を囲む龍馬。既に薩長同盟が結ばれた事、その仲立ちをしたのが龍馬である事を知っているお慶達。これから何をするのかというお慶達に、薩長をもり立てて幕府を倒す、出来れば戦をせずにと答える龍馬。驚くお慶達に、むこれからますます金が必要となるのでよろしく頼むと依頼する龍馬。それに答えずに、高杉に良く似ていると言い出すお慶。彼はここに居ると聞き驚く龍馬。」

いくら相手が信用の出来る商人達とは言え、薩長同盟ほどの重大事を大勢の前でぺらぺらとしゃべったりするものなのでしょうか。こういうところが、このドラマのリアリティを損ねているのですよねえ。

「グラバーに案内されたのは、屋根裏の隠し部屋でした。階段を伝って、部屋に上がる龍馬。晋作は藩から千両を貰って、世界を見て回るのだと告げます。将来は一緒に大それた事をやろうと誓い合う二人。その時、晋作が急き込みます。気遣う龍馬に、風邪を引いただけだと答える晋作。」

「引田屋。お龍を囲んで社中の面々が歓迎の宴を催しています。上機嫌のお龍と同志達ですが、一人すていねる陽之助。彼は龍馬が女とうつつを抜かしていた事が気に入らない様子です。さらには自分ではなく内蔵太が船を任された事が面白く無い様でした。」

この下りも創作ですが、陸奥陽之助とお龍が不仲だった事は事実の様です。お龍はその回顧談の中で、陽之助を悪し様にこき下ろしているのですよ。余程相性が悪かったのか、それとも具体的に憎み合う原因があったのでしょうか。そこまではお龍も語り残していないので、良くは判りません。

「そこにお元が入ってきました。お元に向かって、今日は龍馬の祝言だと言ってお龍を紹介する同志達。酌をしろと言われてお龍の側に座るお元。酒を注ぎながら、お龍にこれまで何をしていたのかと聞くお元。伏見の船宿で働いていたと答えるお龍に、少し見下した様な表情を見せるお元。」

「その時、龍馬がやってきました。お龍の横に座った龍馬に、酒を注ぎながら娶るのなら武家の娘だと思っていたと聞くお元。脱藩浪士の身でありながら、武家の娘を貰う事など考えもしなかったと答える龍馬。それを聞き、脱藩浪士でなかったらどうしていたのかと絡むお龍。こうして生きていられるのはお龍のおかげ、感謝しても仕切れないと宥める龍馬。これからよろしくお願いしますと、改めてお龍に酒を注ぐお元。」

「舞を舞い始めたお元。その彼女と彼女を見つめる龍馬を見比べるお龍。」

「厠から出てきた龍馬。廊下で待っていたお元。包帯をした手を見て、御公儀に逆らう様な事をしたのかと聞くお元に、奉行所の手先は止めたのではないのかと問い返す龍馬。自分の為を思ってくれるのならと龍馬の手を握り、いっそ身請けして欲しいを迫るお元。その時お元の手に力が入ったのか、悲鳴を上げる龍馬。奥方を貰ったばかりで、出来るはずないですよねと言って、去るお元。」

お元に関しては少し調べたのですが、ほとんど何も判らないというのが正直なところです。長崎における現地妻だったとも言いますが根拠はありません。そこまでは行かなくても、馴染みだった事は確かな様ですけどね。

「小曽根家。乾堂に龍馬とお龍を部屋に案内したと報告する英四郎。龍馬には深入りするな、商人はしょせん商人、世の中を変える為に命を懸けても、誰も褒めてはくれないと忠告する乾堂。」

「小曽根家の一室。龍馬の包帯を取り替えながら、お元は龍馬に惚れていると言い出すお龍。お前でもやきもちを焼く事があるのかという龍馬に当たり前だと答えるお龍。お元を呼んだのは社中の同志達で、精一杯のもてなしをしてやろうと考えたのだととりなす龍馬ですが、社中の中でも自分を快く思っていない人が居る、本当に自分は龍馬の役に立っているのかと問い掛けるお龍。自分には時が無い、お龍が居てくれればどれだけ心強いかと言い、母から貰ったお守りを手渡します。世の中を変えるという自分の望みを叶える為に一緒に戦って欲しい、自分たちは一つだと告げる龍馬。」

「大阪城。雨の降る夜空を見上げて笑みを浮かべる慶喜。」

「グラバー邸。留学を取りやめるという晋作。藩に貰った千両で軍艦を買いたい、その船に乗って長州に帰ると告げて席を立つ晋作。なぜだと叫ぶグラバー。何も答えずに外に出る晋作ですが、突然血を吐いて倒れてしまいます。」

「大阪城。雷鳴の轟く中、反撃を決意する慶喜。」

瓦版程度で攻撃を見合わせる訳は無いと思いましたが、やはり第二次長州征伐を無かった事には出来ない様ですね。そうすると、龍馬は参戦するのかな。幕長戦争をどういう描き方をするのか、興味のあるところです。

ここで、お詫びと訂正です。

まず龍馬伝24で、お龍が月琴を京都時代から弾いていたのかは判らないと書いたのですが、寺田屋から故郷に宛てて出した龍馬の手紙の中に、月琴を弾く面白い女とちゃんと書かれていました。

次に、龍馬伝35で、萩口というのは本当にあったのかと書きましたが、幕府が薩摩藩にあてがおうとしたのは、確かに海上からの萩攻撃でした。これを薩摩藩は断ったのですね。

以上2点について誤りに気付きましたので、お詫びして訂正します。

参考文献:「龍馬 最後の真実」 菊池 明、「坂本龍馬」「幕末・京大阪 歴史の旅」 松浦 玲、「坂本龍馬 海援隊始末記」 平尾道雄、「龍馬の手紙」宮地佐一郎

2010年9月11日 (土)

龍馬伝 高杉晋作縁の地~祇園白川~

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高杉晋作と言えば、長州を破滅の淵から救った一代の風雲児として知られています。活躍の舞台は主として江戸や長州藩内ですが、文久年間の一時期に京都に居た事がありました。その頃の事績として、文久3年3月11日に行われた賀茂行幸の際に、行列に供奉していた将軍家茂公に対して、「いよ、征夷大将軍!」と声を掛けた事は良く知られています。

もっともこれは後世の創作とも言われますが、高杉ならやりかねないと思うのは衆目の一致する所なのでしょう。

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その高杉が京都で贔屓していたのが井筒屋の芸妓小梨花と言われます。祇園新橋地区にある立て札に依れば、井筒屋は巽橋の北詰にあったとされ、高杉は人目を憚ることなく小梨花を連れて祇園を闊歩していたと伝わっているそうです。これもまた、如何にも風雲児らしい景色だと言えましょうか。(ただ、井筒屋は縄手通四条東入る北側にあったはずで、この立て札の説明書きと矛盾します。もしかしたら、井筒屋は二軒あったという事になるのでしょうか。)

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祇園白川には、高杉縁の地がもう一つ存在します。それが以前に龍馬縁の店として紹介した鳥新がある場所で、幕末の頃には魚品楼というお茶屋があったと推定されています。この魚品楼には多数の長州藩士が出入りしてたとされ、中でも高杉晋作が特に贔屓にしていたと言われています。

井筒屋跡からここまではおよそ150m程の距離になるのかな、まずごく近所と言って良いでしょうね。つまり、京都時代の高杉はこの界隈を根城にしていたという事になるのでしょう。

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鳥新について言えば、幕末の頃には四条小橋で営業していたのですが、明治中頃になって祇園縄手通四条上がるの現在の位置に移転しました。現在も同じ屋号で商売を続けておられますが、経営者の系譜は替わっている様です。また、魚品楼とも直接の関係はなく、建物を受け継いでいるという訳ではありません。

その鳥新は夜の営業がメインで、さすがに祇園にあるだけに結構な予算が必要となるのですが、昼なら手軽に食べられるメニューがあります。それがこの親子丼ですね。750円とリーズナブルな値段で、鶏肉専門店だけの事はあるおいしさでした。平日で20食、土日は30食程度と数量に限りがあるので売り切れの事もあるというのが難点ですが、開店直後(正午)に行けばまず大丈夫でしょう。

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鳥新は二重の意味で龍馬伝縁の地となる訳ですが、特にその事を表に出して宣伝するという事はされていません。また、龍馬は鶏肉が好きだったとされますが、親子丼を食べたという事実は無い様です。というのは、親子丼という料理が考案されたのは明治の中頃の事らしく、幕末にはまだ存在していなかった様なのですね。

ではあるのですが、ファン心理としては龍馬縁の店で、縁の鶏肉を使った料理を食べる事には思い入れを感じてしまいます。お店にとっては迷惑な事なのかも知れないですけどね。

幕末の二人の立役者を偲べる場所として祇園白川を訪れてみるのも、一興ではないかと思います。

2010年9月10日 (金)

京都・洛北 孔雀の社 ~田中神社~

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叡山電鉄に元田中という駅があります。出町柳の次の駅で、辺りはかつて田中村と呼ばれていました。その元田中駅の近くにあるのが田中神社、この地域の産土神として崇められてきたお社です。

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創建は弘安年間(1278~88年)の事とされ、祭神として大国主命を祀っています。一説には日本三大実録に記された田中神とはこの神社の事ではないかとも言われ、これが事実とすると創建は平安時代にまで遡る事になります。

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本殿内には摂社として稲田姫大神、事代主大神、倉稲魂大神、猿田彦大神が祀られているそうですね。下鴨神社との縁が深く、寛永5年(1628年)には下鴨神社の造替に際し、 本殿として比良木社の旧殿を寄附せられたとの事ですが、残念ながらその建物は火災によって失われたそうです。

その後に再建された現在の建物には三つ葉丸葵の紋が付されており、二つ葉葵を神紋とする下鴨神社との縁を物語っていると言われています。

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ところで、この神社に来たのはzuzuさんの記事で孔雀が居ると知ったからでした。鳥を飼っている神社というのは聞いた事がないですからね、早速見に来たのでした。

何でも2005年に神鳥として寄進されたものだそうで、以来ここで飼育されている様です。

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こちらは白の孔雀です。白孔雀というのは初めて見た様な気がする。とても人懐っこい鳥でして、鳥かごの前に行くとすぐに近づいてきました。きっと退屈なのだろうけど、警戒することなく近くに寄ってこられると可愛いものですね。

でも写真を撮るには近すぎて、やりにくいたらありゃしない。羽根を広げるまで待とうと思ったのですが、残念ながら一度も広げてくれませんでした。

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そして、社務所にあったくじゃくみくじです。やはり神鳥とされる孔雀にちなんだものなのでしょうね。三つ葉葵の紋が付いた卵の中におみくじと孔雀が入っているらしいのですが、どなたも居られなかったので確かめる事は出来ませんでした。1個200円だそうですよ。

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ここでも百日紅が咲いていました。探し出すとこの花はあちこちで見つかりますね。本当に愛されている花だという事が判ります。

田中神社からは少し離れますが、北大路通の東大路通~白川通間の街路樹は百日紅が植えられています。周辺が殺風景なのであまり写真写りは良くないのですが、中央分離帯沿いにずらっと並んで咲いている様は、なかなか見応えがありますよ。近くを通る事があれば、少し寄り道をしてみるのも良いかも、です。

2010年9月 9日 (木)

京都・洛北 百日紅2010 ~三宅八幡宮~

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三宅八幡宮で見つけた百日紅です。

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三宅八幡宮と言えば狛鳩ですよね。この鳩は神の使いとされ、宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ八幡神を勧請した際に、白い鳩が道案内をした事に由来すると言われます。

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三宅八幡宮はまた子供の守り神として知られ、「かん虫封じ」「子供の病気平癒」「夜なき」「学業成就」にご利益があるとされています。

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本殿のそこかしこにあったこの置物は神鳩(しんばと)です。お宮参りの際にこの鳩をつがいで授けてもらい、子供が無事成長した折にはお礼にお返しに来るというならわしなのだそうです。首に金色の筋が入っているのが雄、入っていないのが雌なのだそうです。

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そして百日紅はというと、境内の東にある池の畔で咲いていました。如何にも百日紅らしい樹形の木ですね。

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最後は噴水をアップで捉えてみました。どうです、画面の向こうから吹き掛かって来る様に見えません事?

少しは涼しく感じて貰えたかな。

2010年9月 8日 (水)

京都・洛北 初秋の庭 ~詩仙堂~

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圓光寺から詩仙堂へとやって来ました。曼殊院、圓光寺とがら空きの状態が続きましたからここでもと期待したのですが、そこはさすがに詩仙堂だけあってこの時期でも結構な賑わいを見せていました。

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気温は真夏そのものだったのですが、あえて表題は初秋の庭としました。なぜなら、そこかしこに秋の気配がみえていたからなのです。その筆頭がこの穂が出てきたススキですね。

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ギボウシは秋というより夏のイメージなのかな。でも、暗がりで咲いているこの花は、涼しげなイメージがあってなかなか良かったですよ。

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秋明菊は紛れもなく秋の花ですね。この時期に咲いているのは結構早いかなという気がします。暑さに弱いというイメージがあるのですが、この姿を見ていると意外と耐暑性があるのかも知れないと思えてきますね。まあ、ただの勘違いなのでしょうけど。

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サンゴジュの実が赤くなるのも秋ですよね。この色を見ていると気温だけが異常で、季節は確実に秋に向かっているという気がしてきます。

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ヤブランはまだ開花が始まったばかりでした。地味ではあるけれど、秋の庭には欠かせない存在だという思っています。

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この花はミソハギだと思うのですが、どこか雰囲気が違う様な気もします。もしかしたら、盛りを過ぎてしまったせいなのかな。

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これだけ高温小雨が続いていると、庭木の手入れも大変な事と思われます。その中でこの景観を守っているのですから、さすがは詩仙堂と言えましょうか。

今日は台風の余波でこのあたりも雨が降ったと思われるので、庭木達も少しは生気を取り戻した事でしょうね。

2010年9月 7日 (火)

京都・洛北 百日紅2010 ~圓光寺~

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曼殊院を出て圓光寺に来ました。この寺の目当てもやはり百日紅、本堂の前に立派な木があるのです。

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この木があるのは以前から知っていましたが、花の時期に来たのは初めてです。期待にたがわぬ咲きっぷりで、ここに来た甲斐があったというものでしたね。ただ、境内に入ってしまうとさほどでもなく、外から見ている方が豪華に見えますね。やはり下から見上げると、花が密集して見えないからでしょうか。

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百日紅は座禅堂の前でも咲いています。こちらの木はまだごく小さいですけどね、緑の葉の中にあって良いアクセントになっています。

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曼殊院と同じく、この日の圓光寺は全くの貸し切り状態でした。以前は良くある事だったのですが、最近では珍しいですね。おかげさまで、久しぶりに静かな境内を堪能できましたよ。

そこで、水琴窟の音を撮る事にしました。普段の日では、足音や話し声が入ってしまうので、なかなか上手く行かないのです。


何度か撮ったのですが、やはり音が小さいのでなかなか難しいですね。手持ちでの録画は少し無理があるのかな。でも、ここも三脚は使用禁止だものなあ。

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その水琴窟の水盆です。ちょうど大百日紅の真下にあるため、落ちてきた花びらが縁取る様にして浮かんでおり、化粧を施した様に綺麗でしたよ。

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庭を歩くと、そこかしこでギボウシの花が咲いていました。派手さはないけれど、その落ち着いた風情は和風庭園には上手く調和していますね。

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この庭の基調をなしているもみじは、夏の終わりらしいややくすんだ緑になっていました。ただ、一部では縮れた葉や、早くも紅葉の様に色が染まった葉が見られ、高温小雨の影響が見て取れます。このぶんだと秋の紅葉はどうなるのでしょうね。良い方向に転がってくれると嬉しいのだけれど、ちょっと気がかりです。

2010年9月 6日 (月)

京都・洛北 百日紅2010 ~曼殊院~

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平成22年9月4日の曼殊院です。この時期に来るのは4年振りになるのかな。やはり暑い時期には見所が少ないですからね、どうしても足が遠のいてしまいます。

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ここに来たのは午後1時30分頃なのですが、拝観者は私を含めて2人だけでした。数え切れない程訪れている曼殊院ですが、こんなに空いているは初めてではなかったかな。

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何しろ異様な暑さが続いていますからね、ここまで来ようという人は少ないのでしょう。私も大汗をかきながらたどり着いた甲斐があったというものです。

この日の庭はつくつくぼうしの鳴き声で埋め尽くされており、正岡子規の俳句、

「つくつくぼーしつくつくぼーし ばかりなり」

を思い出しました。その様子を動画でご覧下さい。

とても賑やかでしょう?でも、実際に庭を前にして座っていると、さほどこの声も気にならないから不思議ですね。夏の終わりならではのBGMだからなのかな。

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体感的には夏そのものでしたが、季節の移り変わりは確かに感じました。庭の東に植わっているリンドウが結構伸びているのですよ。つぼみはまだ見えなかったですけど、後ひと月もすれば綺麗な花を咲かせてくれるのではないでしょうか。

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この日目当てにしていた百日紅は庭園にはなく中庭にありました。あまり目立つ場所ではないのですが綺麗に咲いており、手入れが行き届いている感じですね。他には東の持仏堂の辺りと思われる位置に、ピンクの百日紅が見えていましたよ。

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外から見えるのはこの百日紅です。庫裏の西側になるのでしょうか、一般の拝観者は入れない場所で咲いている様ですね。

今の時期の曼殊院は、とにかく空いているのが良いですね。普段は他の拝観者の迷惑になるので座れない縁側も、他に誰も居なければ遠慮無く居座る事が出来ます。暑さが気になるでしょうけど、ここは風通しが良いので、じっと座っている分には結構涼しいのですよ。

私の場合は自転車だったのでいつまでも暑くて大変でしたけど、自家用車やタクシーで行けばそんな思いはしなくて済みます。お勧め出来るのは車で行く人限定にはなりますが、この時期の穴場の一つと言っても良いのかも知れませんね。

2010年9月 5日 (日)

龍馬伝36 ~寺田屋騒動~

「京都守護職屋敷。隠密から薩摩と長州の間で密約が交わされたらしいとの報告が入ります。そして、その席に土佐の脱藩浪士坂本龍馬が同席していた事が知られました。」

薩摩と長州の間に不穏な動きがある事、その仲立ちをしているのが龍馬である事は、ほぼ幕府側に探知されていました。ただ、ここではあたかも薩摩藩邸の中に隠密が居たかの様な設定になっていますが、そこまでは入り込めていなかった様ですね。

現在判っているのは龍馬のごく身近なところに密偵が居たという事で、例えば桜島丸(ユニオン号)の水夫頭である久太夫という人物がそうでした。この久太夫は後に海援隊士になっており、龍馬とかなり近い位置に居た人物であったと思われます。こんな密偵が他に何人も居た様ですから、龍馬の言動が筒抜けになるのも無理はないと言えるでしょうか。こういう事実を知るとずっと騙され続けていた龍馬が可哀想になってくるのですが、何よりも恐るべきは幕府の密偵網という事ですね。

「寺田屋。弥太郎と龍馬が朝餉を食べています。弥太郎に長州と薩摩の動きを探りに来たのかと聞き、無駄な事をせず土佐に帰れと忠告します。どうしたらよいのかと言う弥太郎に、徳川幕府の世は終わる、幕府の顔色を窺うのはやめろと象二郎に伝えろと告げる龍馬。外国に分け取りにされない様に、この国の仕組みを変えようとしているという龍馬に、薩摩と長州の手を組ませたのかと確かめる弥太郎。世の中がどう変わるかを考えながら進む事が大事だと答える龍馬。」

「寺田屋を後にする弥太郎。あいつに関わっているとろくな事にならないと言い捨てて去っていきます。そんな事は承知の上と答えるお龍。」

この下りに関する弥太郎は完全な創作ですので、ここでは触れません。でも、せっかく出てきたのですから、もう少し面白くしてくれたら良かったのにとは思います。それがこのドラマの楽しみの一つなのですからね。

「三吉慎蔵と祝杯を上げる龍馬。もう京都を離れようと言う慎蔵ですが、小五郎(木戸準一郎)との約束があると言って待つという龍馬。彼は小五郎から密約の裏書きをして欲しいと頼まれていたのでした。このままでは龍馬の護衛という使命を果たせなられないと苦悩する慎蔵に、生涯の友になれそうだと答える龍馬。」

龍馬が盟約の裏書きを頼まれたのは前回に書いたとおりです。ただし、直接二人が会って決めた訳ではなく、一度大阪に下った小五郎が文書にしておきたいと思い立ち、慶応2年1月23日付で長文の手紙を書いて龍馬に依頼したのでした。伏見で襲撃を受けた龍馬がこの手紙を読んだのは2月に入ってからであり、依頼どおりに裏書きを書いたのは2月5日の事でした。

一方、三吉慎蔵と龍馬は、ドラマの台詞にあったとおりに誰よりも信頼しあえる友となりました。これはお龍も含めての事であり、この日3人で生死を共にした事が何よりの絆となったのですね。その後の経過については以前の記事を参考にして下さい。

「お登勢にあと2、3日滞在すると言う龍馬。京を離れた後はどこに行くのかと聞くお龍に、長崎に行く、お尋ね者になってしまったからにはもう京には戻らないと答える龍馬。長崎名物のぽっぺんを土産にやろうという龍馬ですが、そんな物は要らないと言って出て行くお龍。」

「大阪城。なぜ薩摩は兵を出さないと苛立つ慶喜。」

このあたりはドラマの設定ですが、慶喜には薩長の間に動きがあるとは伝わっていない事になっているのでしょうか。慶喜は裸の王様という事になるのかしらん?

「京都守護職屋敷。龍馬を必ず捕らえよと檄を飛ばす容保。」

「京都薩摩屋敷。いつ同盟を世に示すかという小松の問い掛けに、今は伏せておくべきだと答える吉之助。」

「土佐への帰路、龍馬の言葉に思いを巡らせる弥太郎。」

「寺田屋。お龍の事を思いめぐらせる龍馬。」

「風呂に入るお龍。晩酌をするお登勢。その時、表戸を叩く音がしました。お登勢が出てみると、大勢の捕り方がひしめいています。二階の客の名を聞かれ、薩摩藩の西郷小次郎だと答えるお登勢。しかし、捕り方は信用せず、龍馬だろうと決めつけます。」

「店の裏手に回る捕り方。その様子を風呂の中から見たお龍。」

「お登勢を押しのけ、店内に乱入する捕り方。」

「二階で不穏な気配を感じ取った龍馬と慎蔵。そこに合わせ一枚をまとったお龍が駆け込んできます。彼女から捕り方に囲まれていると聞いた龍馬は、迎え撃つ決意をし、拳銃を取り出します。そして、慎蔵に襖を外させる一方で、お龍には下がっている様に言いますが、自分も戦うと言って聞かないお龍。龍馬は自分の着物をお龍に掛けてやり、今から薩摩の伏見藩邸に知らせに行ってくれと頼みます。死なないでくれと願うお龍に約束すると言って手を握る龍馬。」

「捕り方が溢れる店先。そこに度胸を決めて現れたお龍。上に坂本が居るだろうと聞かれ、とても強い侍なら居ると答えるお龍。業を煮やして捕らえろと命ずる与力。放せと暴れるお龍を見て、助けに入るお登勢。そのお登勢に今から薩摩藩邸に行くと言い捨てて飛び出していくお龍。」

「自分がやつらを押さえるから、その隙に逃げろという慎蔵。自分だけ逃げる訳にはいかないと答える龍馬。そこに踏み込んできた捕り方達。伏見奉行林肥後守の上意であると凄む捕り方。天井に向かって威嚇射撃をする龍馬。それをきっかけに乱闘になります。槍を振るって奮戦する慎蔵。ピストル片手に素手でやり合う龍馬。」

「ピストルの威力を見せて押し切ろうとする龍馬ですが、容易な事では脱出出来そうにはありません。再び床に向けて威嚇射撃を行う龍馬。しかし、かえって踏み込んでくる捕り方。龍馬は与力の一人を捕まえ、ピストルをつきつけて人質に取ります。」

「じりじりと階段を下りつつ、三度目の威嚇射撃をする龍馬。なんとか店の入り口までたどり着きますが、表には捕り方が充満していて逃げられそうにもありません。ここで与力を突き飛ばし、再び乱戦に入る龍馬達。戦う内に左手の親指の付け根を斬られた龍馬。龍馬を逃がそうと敵を引き付ける慎蔵。わずかな隙を突いて障子窓を破って飛び出す龍馬。後に続く慎蔵。」

「暗がりの中、伏見の町中を逃げる龍馬と慎蔵。後を追う捕り方。出血が酷く、倒れる龍馬。龍馬を助けて走り続ける慎蔵。」

「薩摩藩邸に向かって駆けるお龍。」

「材木小屋に逃げ込んだ龍馬と慎蔵。龍馬の傷の応急手当をしてやる慎蔵ですが、龍馬は動けなくなってしまいます。もはやここまでと腹を切ろうと言い出す慎蔵。腹を切るのはいつでも出来る、薩摩藩邸に行けと答える龍馬。もし途中で捕まったら覚悟するという龍馬の言葉を聞き、必ず戻って来ると言って飛び出す慎蔵。」

「薩摩藩邸の門前にたどり着き、必死になって開門を求めるお龍。やっと開けてくれた門番に、坂本さくんを助けて下さいと懸命に訴えるお龍。事情がわからず彼女を邪険に扱う門番。土下座して助けを請うお龍。」

「薩摩藩邸へ向かう途中、捕り方の一隊と遭遇した慎蔵。槍を持たない彼は、竹竿を武器に捕り方と渡り合い、鬼神の働きを見せて活路を切り開きます。」

「材木小屋。のたうつ様に屋根の上に移動する龍馬。もう星も見えなくなった彼は、木戸に約束が守れないかも知れないと謝り、西郷に後を頼むとつぶやきます。そしてお龍の名を連呼する龍馬。」

「薩摩藩伏見藩邸。かがり火が炊かれ、ものものしい雰囲気の中座り込んでいるお龍。」

「薩摩藩京都藩邸。龍馬が寺田屋で襲われたとの知らせを聞き、伏見に兵と医者を送り込め、坂本を死なせるなと命ずる吉之助。」

「薩摩藩伏見藩邸。様子を見に行っていた藩士から、龍馬は寺田屋から逃げたしたらしいと報告を聞く大山彦八。しかし、龍馬の安否までは判りません。その時、慎蔵が駆け込んできました。龍馬は濠川沿いの材木置き場にと言う彼の言葉を聞き、助けに行くぞと駆け出す彦八達。龍馬を連れて帰るとお龍に言い捨てて、駆け出す慎蔵。呆然と見送るお龍。」

「材木小屋。出血が酷く、虫の息の龍馬。その時、捕り方が材木小屋にやって来て、血の跡があると叫びました。この辺りに居るはずと辺りに散って行く捕り方。半ば覚悟を決め、兄、父、母に謝る龍馬。」

「材木小屋に駆けつけた慎蔵と彦八達。棚の上に居たはずの龍馬が居ない事にあせる慎蔵ですが、すぐに屋根の上に居る事に気付きます。」

「薩摩藩伏見藩邸。戸板に乗せて運ばれてきた龍馬。ぐったりとした龍馬を見て、目を開けてと叫ぶお龍。」

今回の展開は、緊迫感があって面白かったです。ほぼ史実に沿った流れになっていましたし、慎蔵が格好良かったですね。またお龍の演技が真に迫って素晴らしかったです。

史実の展開は以前に書いているのでここでは省略しますが、ドラマとの最大の相違点を上げるとすれば、龍馬が捕り方を殺さなかったという事です。龍馬が捕り方を殺めた事は彼の手紙によっても明らかであり、その事が後に近江屋での襲撃に繋がるのですが、このドラマではあくまで龍馬の手を汚す事はしない様ですね。

さらに上げれば、慎蔵は薩摩藩邸への道中で大立ち回りはしていないという事もありますが、今回の展開ではそれも有りとしても良いでしょう。

最も違和感を感じたのは、材木小屋まで来た捕り方が中を改めなかった事で、普通は一通り見るものではないかしらん。その後、慎蔵達が来た時に誰も居なかったというのも不自然ですし、龍馬を戸板で運んで来たというのもあり得ないでしょうね。そんな事をすれば絶対に見つかりますよ。なぜ史実の様に船を使わなかったのでしょうね。

など不自然なところはいくつもありますが、まずまず楽しめたので今回はスルーとする事にします。

なお、NHKのホームページに依れば、最近伏見奉行所が作成した文書が発見されたのですが、そこからは幕府の狙いは龍馬が所持していた文書を押収することが目的だったと読み取る事が出来る、彼を捕らえる事は二の次だったのではないかと推測されています。実際、龍馬が逃げた後の奉行所の動きは緩慢であり、特になぜ薩摩藩邸の周囲を押さえなかったのかはずっと疑問に思っていました。この説が正しいとすれば、奉行所としては薩摩藩と正面衝突する危険を冒してまで龍馬を追いかける意思は無かったという事になりますね。

これはまだ一つの説に過ぎず、事実であると証明された訳ではありません。素人目で見ると、龍馬を逃がした伏見奉行所が、京都所司代に対する言い訳として文書を押さえた事を強調しているのではないかという気もしますしね。しかし、示唆に富んだ説である事には違いなく、今後さらに深く研究される事を期待したいです。

参考文献:「龍馬 最後の真実」 菊池 明、「坂本龍馬」 松浦 玲、「坂本龍馬 海援隊始末記」 平尾道雄、「龍馬の手紙」宮地佐一郎

2010年9月 4日 (土)

京都・洛東 百日紅2010 ~黒谷~

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平成22年8月21日の黒谷です。少し前の写真ではありますが、今年は一本調子で暑い日が続いており、今もそれほど様子は変わっていないと思われるのでアップします。

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百日紅が咲いていたのは塔頭の永運院です。すらりとした美しい樹形の木ですね。

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花はぼ満開に近かったのかな。今は少しばかり艶が無くなっているかもしれませんが、たぶんまだまだ見頃を保っているものと思われます。

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西住院の裏手では芙蓉が咲いていました。今年は開花が遅れる木が続出している中でこの木は順調に咲いていますね。今頃は花が咲き進んで見頃になっているかも知れません。

あまり人目に触れない場所で咲いているのがちょっと残念ですね。


2010年9月 3日 (金)

京都・洛中 百日紅2010 ~拾翠亭~

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拾翠亭は九条家の別邸として建てられたもので、茶会や歌会の場として使われていました。一見して簡素な造りに見えますが、さりげなく凝った演出が随所に施されており、公家好みの優美さを備えていると言えます。

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1階の中心となるのが広間です。10畳の茶室で、正面は広縁を隔てて九条池に面しています。

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その広縁の手前から見た景色です。百日紅が前景になって良い感じですね。一方、冒頭の写真は二階から見た景色で、ここでも百日紅が基調をなしています。

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今度は庭に出てみました。拾翠亭は百日紅に囲まれていると言っても良く、またこの花がよく似合っています。

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池の中央に掛かる反橋が高倉橋です。明治15年に出来たそうですが、途中で改修絵されたために、橋脚は石、橋桁はコンクリート、欄干は木製とハイブリッドな造りになっていますね。この橋脚はかつての三条大橋や五条大橋に使われていたものを転用したものらしく、京都の歴史が染みこんだ橋脚と言えますね。

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百日紅はその名のごとく百日間咲き続けると言われますが、個々の花の寿命は意外と短く、次々に新しい花が開いて来るのでずっと華やかであり続けるのです。ですので、木の下には沢山の花が落ちていますね。

拾翠亭の南側の水路では、落ちたばかりの花が木漏れ日を浴びていました。まるで宙に浮かぶ紅い星であるかの様でしたよ。

2010年9月 2日 (木)

京都・洛中 百日紅2010 ~京都御苑 九条池~

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九条池はかつての九条家の跡地にあり、公家屋敷の庭園だった池です。東西約90m、南北約60mの規模を持ち、その形から勾玉池とも呼ばれています。

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池の周囲には百日紅が多く植えられており、今の季節は燃える様な紅い花が咲き誇ります。

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かつてはこの池の周囲に3800坪の建物が並んでおり、平安朝を思わせる景観になっていた事でしょう。きっと、船遊びも行われていた事でしょうね。写真の右端にあるのが中島で、厳島神社が祀られています。

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この神社は九条家の鎮守社であり、元は兵庫の築島にあたものをここに移したとされます。祭神は厳島三神のほか、平清盛の母である祇園女御が祀られているのだとか。九条家とどういう関係があるのか、ちょっと興味のあるところですね。

面白いのがこの鳥居で、破風が付いた形になっているのです。どういう言われがあるのか判りませんが、他にもあるのかしらん?

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神社の西側には、池に付きだした藤棚がありました。木漏れ日を浴びて藤の葉だけが輝いており、なかなか見事でしたよ。

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池の周囲には、かつての庭園の面影を残す石組みが見られます。この石橋を九条家の人々が日々渡り、池の面を眺めていたのでしょうか。

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その九条家の唯一の遺構が拾翠亭です。九条池の畔にあって、優美な姿を見せてくれています。明日はその拾翠亭から見た百日紅のある景色をお届けします。

2010年9月 1日 (水)

京都・洛中 百日紅2010 ~京都御苑~

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京都の百日紅を追うシリーズ、ここからは京都御苑が続きます。百日紅が綺麗な場所は数々ありますが、やはりこのエリアをはずす事は出来ません。

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京都御苑には百日紅のポイントがいくつもあるのですが、まずは京都御所の北西角に近いこの木から始めましょうか。

市内の大抵の木がすらりと伸びた幹の上の方で咲いている事が多いのに対して、御苑の木は下枝が多く、ずんぐりとした姿になっている事が多いのが特徴的です。この木がまさにそうで、植え込みの中にあるので人通りを考慮する必要が無く、下枝を刈り込まなくて済むからでしょうか。あるいは、意図的にそういう仕立て方をしている様にも思われます。

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その木の前から御所の空を眺めてみました。青空に沢山の雲が浮かんでいて、ちょっと面白いと思ったのですよ。それにしても高い建物がない御苑の中は、とても空が広く感じますね。

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次に訪れたのは建礼門の南側です。このエリアでは通りを挟んだ両側で百日紅が咲いています。

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こちらは反対の東側の百日紅です。ここは建礼門と絡ませて絵にしやすいのが嬉しい度所ですね。

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建礼門からずっと南に下った場所にも百日紅はあります。ここは何本かの木がひとかたまりになっているので、それなりに見応えがありますよ。

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そして、閑院宮邸跡の門前にあるのがこの百日紅ですね。ここは広場の中央でうずくまる様にして咲いており、周囲のベンチで休憩する人が多く、見るとはなしに眺めています。ですので、ある意味御苑の中でも最も有名な百日紅の一つかも知れません。

明日は百日紅の名所と言っても良い、九条池へと足を進めます。

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