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2010年8月

2010年8月31日 (火)

京都・洛中 百日紅2010 ~白峰神宮~

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平成22年8月28日の白峰神宮です。この日は蹴鞠の碑を覆う様にして百日紅が綺麗に咲いていました。

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境内に入るとすぐ右手に見えるのですが、まるで紅い屋根がそこにあるかの様に一面に咲いています。

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蹴鞠の神様として知られる精大明神は、この百日紅の北側にある地主社に祀られています。日本がベスト16入りを果たした先のサッカーワールドカップ南アフリカ大会の必勝祈願のボールは、この地主社に奉納されてありました。

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戦前には一勝すら危ういと言われていたのに決勝トーナメントにまで勝ち進めたのですから、やはりご利益はあったという事なのでしょう。今後はますますお参りが増えていく事でしょうね。

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ここのお守りはちょっと面白いものがあって、例えばスポーツ闘魂お守りが売られています。これはまあ何となく判るのですが、根性お守りというのはどういうご利益があるのでしょう?くじけそうになっても根性が湧いてきて、そこからさらに頑張れる様になるのかしらん?

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でも、本来は崇徳天皇と淳仁天皇の御霊を慰める為に建てられた神社だという事を忘れてはいけないですね。非業の死を遂げて怨霊と化したお二人ですが、サッカーの技術の上達や必勝祈願の為に訪れる参拝者達をどうご覧になっている事でしょう?その類い希なる霊力によって精大明神をアシストされているでしょうか。それとも、我関せずと超然と構えておられるのかな。

先の大会の結果から見れば、やはり神としてのご利益をもたらして下さっていると考えるのが妥当の様な気がしますね。

2010年8月30日 (月)

京都・洛中 芙蓉2010 ~妙蓮寺~

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平成22年8月28日の妙蓮寺です。そろそろ芙蓉が見頃になっている頃かと思って出かけてみたのですが、意外にもまだちらほら咲きでした。

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全体としてこんな感じです。これって、今年の異常なまでの暑さのせいなのでしょうか。でもつぼみは沢山あるので、時間と共に咲き揃って来る事でしょうね。

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暑さのせいと言えば、御会式桜のうちの一本が枯れかけている様です。以前から調子が悪そうだと思っていたのですが、ほとんど葉を散らしておりかなり危ない感じですね。他の木はまだ健在ですからこの桜が無くなってしまう訳ではありませんが、言い枝振りの木だっただけに残念です。

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もう一つ残念な事と言えば、ここでも花盗人が出た様です。木に掛け札が付けてあり、花を切って行った人には見る事が出来なかった人の悲しい思いが降りかかるでしょうと書かれてありました。そう言えば御会式桜にも枝を折らないでと書いてあったな。

仏前で盗みを働くとは罰当たりも良いところですが、最近はこういうのが普通になって来ているのかしらん。何とも悲しい限りですね。

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門前では、鮮やかな赤色の芙蓉が咲いています。この花色はやはりインパクトがあり、思わず近くに寄ってみたくなりますね。

この芙蓉は妙蓮寺の看板娘の役割を十分に果たしていると言えそうです。

2010年8月29日 (日)

龍馬伝35 ~薩長同盟ぜよ~

「大阪、大和屋。長次郎の遺品を持ってお徳の下を訪れた龍馬。長次郎が腹を切ったのは、誰よりも自分に厳しかったからだと伝えます。長次郎の志を継いで日本を良くしてくれと頼むお徳。必ずと約束する龍馬。」

龍馬が長次郎が腹を切った事を知ったのは薩長同盟がなった後の事で、それ以前に大和屋に寄る事はあり得ません。後から書きますが、龍馬が大阪で立ち寄ったのはもっと別な場所でした。

「大阪城。第二次長州征伐に向けた軍議が開かれています。各方面の割り振りが決められ、薩摩藩は萩口と決められました。薩摩が出兵するのかと危ぶむ家茂公に、参戦するより道は無いと自信を見せる慶喜。」

萩口というのは初めて聞きましたが、薩摩には海上から攻めさせるという構想があったのでしょうか。確かに発想としてはありそうな気がしますが、実際には行われていません。たぶん下関を押さえられている以上、回航が難しかったのではないかと思われますが、実際にはどうだったのでしょうね。

「京都薩摩藩邸。木戸貫治と名前を改めた小五郎を始めとする長州藩の一行が着きました。越前藩士と偽名を使っていた彼らでしたが、その情報はすぐに幕府方に伝わってしまいます。直ちに、薩摩藩邸の周囲の警備を強化する様に命ずる松平容保。」

「ついに西郷との対面を果たした小五郎。にこやかに出迎えた吉之助は、家老の小松帯刀の前を勧めますが、あえて吉之助の正面に座る小五郎。ようやく会えたときわどい皮肉を言う小五郎に、あの時はすまなかったと素直に詫びる吉之助。彼は早速用件に入ろうとしますが、小五郎は立会人としての龍馬が来るまで待つと言い出します。」

これも後から書きますが、薩長同盟はすぐには結ばれず、遅れてきた龍馬が立ち会う事で初めて結ばれた盟約です。そこに龍馬の歴史的役割があった訳ですが、決して小五郎が龍馬を待とうと提案した訳ではありません。話し合いは行われたものの平行線に終始し、決裂寸前になったところに龍馬が現れたという経過を踏んでいます。龍馬もまた両藩の間をあっせんするという役割は終えており、京都に着いた時には既に密約が成っていると思っていたはずです。

「小五郎を追って京都に着いた龍馬と慎蔵。しかし、新選組が藩邸の周囲を厳しく取り締まっており、近づく事が出来ません。一方、象二郎に命じられて上洛していた弥太郎が新選組に捕まってしまいました。」

これほど露骨に薩摩藩邸の出入りを取り締まっていたかというと、まずあり得ない話ですね。基本的に各藩邸には幕府の権力は及ばないのが原則で、その出入りを規制するとなれば半ば宣戦を布告したのも同然と言えるでしょう。無論、伏見港や大阪八軒屋といった交通の要衝では取り締まっていたでしょうけど、藩邸の門前で人払いをするなどあり得ない事です。実際には、周辺に密偵をばらまいておく程度だったものと思われます。

「土佐、岩崎家。弥太郎に隠密の真似が勤まるのかと危ぶむ家族達。」

「新選組の屯所で吊し上げられる弥太郎。始めは様々な偽名を使って言い逃れようとしていましたが、ついに本名を名乗り、象二郎から命じられてやって来たと白状してしまいます。当てが外れたのか、こいつはしゃべり過ぎると更に責め続ける近藤。」

新選組にしても見廻組にしても、正規の藩士相手に無闇に捜査権を振りかざす事は出来ませんでした。幕府は諸藩の頂点に立ってはいても、いわば大名達の盟主という立場であり、主人ではなかったのですからね。藩士を裁く事が出来るのはあくまで藩主だけでした。ですから、弥太郎が土佐藩士を名乗ったからには、それ以上の拘束は出来ないはずです。ましてや参政の名まで出しているのですからね、土佐藩と一戦交える覚悟が無い限り、弥太郎に危害を加える事など出来るはずもありません。

「寺田屋。やって来た龍馬の顔を見て、土佐の浪士を探しに新選組がやってきた、ここに居ては危ないと忠告するお龍と登勢。逃げる訳にはいかないと聞かない龍馬。」

龍馬が寺田屋に泊まったのは、薩摩藩が寺田屋に依頼したからでした。文久2年に薩摩藩士が同士討ちをした寺田屋事件があって以来、寺田屋と薩摩藩の絆はより強くなっていた様です。その薩摩藩から頼まれた故に、お登勢も危ない橋を渡ったのですね。

「龍馬は何者かと問い掛ける慎蔵。自分は土佐も捨てたただの日本人である、しかし力の無い者でも本気で声を上げたら必ず日本を変える事が出来ると諭す龍馬。」

「薩摩藩邸。なぜ一介の浪士に過ぎない龍馬を立会人にしなければならないのかと不満げな吉之助。この密約の立会人は龍馬でなければならない、なぜなら自分は龍馬を信じている、あなたもそうだからここに居るのではないかと答える小五郎。」

小五郎が龍馬を信頼していたのは確かです。なぜなら、後にこの盟約の裏書きを龍馬に頼んだ位ですからね。一方、吉之助の方はというと、これも龍馬を深く信頼していました。このドラマではなぜか龍馬を見下そうとする吉之助ですが、実際には龍馬をぞんざいに扱おうとした家人に対して、(龍馬は)国の為に命を懸ける大事な人だとたしなめたという話が伝わっており、龍馬を大切に思っていた事が伺えます。

「寺田屋。お登勢に向かって、夜になればここを出て行く、もう自分たちの事は気にしないでくれと告げる龍馬。しかし、お登勢は龍馬の母代わりのつもりで居る、息子の事ーを心配しない母は居ないと縋ります。自分は決して死なない、安心してくれと答える龍馬。彼がなぜ店を閉めているのかと聞くと、新選組から守らなければならないとお龍に頼まれたからだと答えるお登勢。」

「店の裏で井戸を汲んでいるお龍。そもの側に行って、自分は薩摩と長州を結び付け、この国を変えようとしているのだと告げる龍馬。これからは幕府に追われる身となる、自分を心配してくれるのはこれで最後にしてくれと行って背を向けます。何も言えずに飛び出していくお龍。」

「新選組屯所。痛めつけられ、虫の息になっている弥太郎。そこに見廻組がやってきました。将軍家直参の権威を笠に着て、威張りちらす見廻組。薩摩と長州の間に不穏な動きがあると言い出す近藤に、お前達には関わりはない、ただの人斬ではないかと蔑む見廻組。その時、弥太郎が薩長の間に立つのは坂本龍馬に違いないと言い出します。その名を聞いて、怒りを露わにする近藤。」

見廻組と新選組が何かと張り合っていたのは事実です。でもそれは初期の事で、この時期には役割分担も出来、こんな馬鹿げた小競り合いを起こすはずもありません。それにしても、6年前に新選組!を作ったNHKとも思えない偏見ぶりですね。新選組を、未だにただの殺人集団だと言い続ける神経が信じられない。それも見廻組をして言わしめるとは、あまりにも酷い演出です。

「寺田屋。半平太、以蔵、長次郎、そして同志達に心の中で行ってくると告げる龍馬。玄関を出ようとすると、お龍が帰ってきました。彼女は龍馬の到着を薩摩藩邸に知らせに行っていたのです。一緒に来たのは吉井幸輔。小五郎達は小松邸に移ったと言い、自分が案内すると申し出ます。」

吉井幸輔は龍馬と最も親しい薩摩人の一人で、ずっと以前からの知り合いです。神戸海軍繰練所が危うくなった頃から行動を共にしており、その書簡から当時の龍馬の動静を知る事が出来る程の仲でした。

「土佐の侍が新選組に捕まったらしいという情報を伝えるお龍。彼女は握り飯を龍馬に手渡し、私はずっと龍馬の役に立ちたい、かならずここに戻ってきて欲しいと頼むのでした。判った、行って来ると寺田屋を後にする龍馬。」

「京都守護職屋敷。薩長の間に立つのは坂本龍馬であると注進する近藤。見回組に龍馬を探せと命じる容保。恐れながら、龍馬は寺田屋を定宿にしていると言いかける近藤ですが、分を弁えろと遮られてしまいます。悔しさをにじませる近藤。」

新選組は確かに寺田屋での捕り物には参加していません。その理由は判りませんが、もし実戦慣れしている新選組が参加していたとしたら、龍馬の命は無かったかも知れませんね。

「小松邸に向かう龍馬達。その途中で自分と間違えられた者を捨てておく訳にはいかないと言って、龍馬は新選組の屯所に向かいます。」

「新選組屯所前。飛びだそうとする龍馬を慎蔵が引き留めます。ここは自分がと言う慎蔵と龍馬がもめている内に、弥太郎が門から放り出されてきました。倒れている弥太郎を助け起こす龍馬。慎蔵は自分がこの男を寺田屋に連れて行く、龍馬は薩摩藩邸に向かってくれと言い、その言葉を受けて駆け出す龍馬。」

この演出はあまりに馬鹿げていて、理解不能です。

このドラマの龍馬は、自分を万能の人間だとでも思っているのでしょうか。単身で屯所に乗り込んで、一体どうしようというのか知らん。大切な盟約を前に、個人的動機で死地に飛び込むなどあり得ない事でしょう。龍馬はあくまで人命を大事に思っている、また同郷の人間を大切にしている、小事も大事も人の命に関わる限りおろそかにはしないなどと言いたいのでしょうけど、それ以前にこれではただの愚か者ではないですか。

この演出は全く不要のものであり、なぜわざわざこれを入れたのか理由を聞いてみたいですね。

さらに細かい話をすれば、屯所の門前に立番が居ないというのはあり得ない、正規の藩士を痛めつけるだけ痛めておいて、引き取り手もなくただ放り出す事などあり得ない、誰にも見とがめられる事無く屯所(この当時は西本願寺)周辺をうろつける事などあり得ない、不慣れな道を迷うことなく短時間で往復できるなどあり得ない。全ての点でリアリティはゼロです。

「厳しい警護が行われている薩摩藩邸周辺。」

「小松邸。じっと龍馬の到着を待つ小五郎と吉之助。」

「警護の目をかい潜って小松邸にたどり着いた龍馬。龍馬の到着を待ちわびていた小五郎と吉之助。」

「慶応2年1月22日の夜、龍馬の立ち会いの下、始まった秘密会議。龍馬が開始を催促し、吉之助が口火を切ります。幕府と長州が戦になった時には薩摩は2千の兵を京都に差し向ける、薩摩は長州藩の汚名を雪ぐ様に尽力すると次々に要件を挙げていく吉之助。それは徹頭徹尾薩摩は長州に味方して、幕府に対抗して行くという内容でした。」

「最後に、幕府が一橋、会津、桑名と協力して朝廷を取り込もうとしても、薩摩はあくまで戦うと締めくくる吉之助。ところが、これでは長州が薩摩の助けを受けるというだけで対等では無い、このままでは自分は長州に帰れないと言い出す小五郎。」

別記事で書きますが、この盟約においては幕府が朝廷を抱き込もうとするなら戦うとはどこにも謳っておらず、もし長州藩の冤罪を晴らすという薩摩の動きを、一会桑の勢力が邪魔をするのならこれと戦うという内容でした。一会桑(一橋、会津、桑名の三藩)はあくまで京都における幕府方の一勢力であり、幕府そのものではありません。この盟約は長州が蒙った朝敵という汚名を雪ぐ事が主眼となっており、決して幕府と直接戦うとは言ってはいないのです。ドラマはその点飛躍のしすぎですね。

「そこで龍馬がもう一つ加えようと提案します。これまで命を落とした同志の思いも込めて、薩長両藩は誠の心を持って合体し、日本の為に粉骨砕身尽力する。これなら薩長の立場は対等だろうという提案に同意する小五郎と吉之助。これをもって盟約はなったと確認する龍馬。肯き合う両雄。満足げに微笑む龍馬。」

最後の条文は、新選組!でも龍馬が言ったことになっていましたね。そんな記録はどこにも無いと思うのですが、如何にも龍馬が言いそうな事なのかな。原文では日本ではなく朝権となっており、あくまで朝廷の権威を回復する事が目標とされました。それが結果として幕府を否定する事に繋がるのですが、このドラマでは日本と言い換える事で龍馬の先進性を強調しようとしているのでしょう。でも、それは龍馬の過大評価に繋がると思うのですけどね、等身大の龍馬を描くという当初のコンセプトには反しないのかしらん。

「小松邸の前。一晩中槍を手に待っていた慎蔵に、薩長が手を結んだと報告する龍馬。喜びのあまり、泣き崩れながられを言う慎蔵。」

「薩長が手を結んだ事は、すぐさま幕府の知るところとなりました。そこに龍馬が居た事も知れ、直ちに寺田屋に捕り手を出せと命ずる容保。」

「慎蔵と二人、お龍がくれた握り飯を食べながら寺田屋に向かう龍馬。」

ドラマの展開はあまりにも史実とは異なるので、次に別記事として史実編をアップします。

龍馬伝 薩長同盟史実版

龍馬伝の進行と史実の関係を照らし合わせてよりドラマを楽しもうというのが当ブログのコンセプトなのですが、今回はあまりにも展開が異なる為、史実編を別立てにしました。史実とは言ってもドラマの展開に合わせて区切っているので、細かい箇所は省略してある事をあらかじめお断りしておきます。

龍馬が下関を発ったのは、慶応2年1月10日の事でした。龍馬に同行したのは三吉慎蔵、新宮馬之助、池内蔵太の3人です。本来一緒に行くべきであった桂小五郎は前月の12月27日に出立していますから、10日以上の遅れが生じていまた。しかしこの時間の遅れがドラマを生むのですから、歴史というのは面白いのですよね。

一行が大阪に着いたのは1月18日の事でした。ここで龍馬は幕臣の大久保一翁に会いに行っています。龍馬とは旧知の仲でしたが、この時には無役になっているとは言え、かつては大目付まで勤めた幕府の大物の所へ出かけて行くとは大胆にも程かありますね。このあたりが龍馬の真骨頂と言うべきなのでしょうか。

この時龍馬は、幕府方は既に龍馬が長州人を連れて京都に入ると探知しているから帰れと警告されました。安易に龍馬を売ったりしないところが大久保一翁の度量というものなのでしょうね。また、そういう人物だと知っているからこそ、龍馬も訪ねて行ったのでしょう。警告を受けた龍馬は拳銃を確かめ、慎蔵は手槍を買い込むなどして、用心を固めました。

翌19日は、薩摩の船印を借りて三十石船で伏見に向かいました。伏見での宿は寺田屋です。翌20日は寺田屋に慎蔵を残し、馬之助と内蔵太の二人を連れて京都に向かっています。目指すは先に入京している小五郎の下でした。

この時、小五郎は薩摩藩の家老小松帯刀の邸に居ました。小松邸については昨日紹介したとおり近衛家の別邸を借りていたのですが、まだどこの場所とまでは特定されていません。

龍馬は開口一番、盟約はどうなっているのかと小五郎に問い掛けます。ところが、小五郎の答えは何も決まっていないというものでした。小五郎達が京都に着いてから10日以上が経過していますが、毎日ご馳走ばかり食べていたのみで、肝心の盟約の話は薩摩から何も言ってこないと言うのです。お互いに腹の探り合いになっており、どちらからも言い出せない状況になっていたのですね。

龍馬がなぜ長州から切り出さないのかと詰ると、今窮地にある長州から話を持ち出せば薩摩に助けを求めた事になる、また薩摩も同じ窮地に引き込む事にもなるため、長州の体面上出来る事ではないと言うのが小五郎の言い分でした。そして、このまま長州に帰る、たとえ長州が滅びても薩摩が残って朝廷の為に尽くしてくれるのなら悔いはないとまで言い切ります。

このあたり本当に何も無かったのかというとそうでもなく、慶応2年1月19日に薩長の首脳が話し合いをしたという記録があります。ただ、この席では双方の隔たりが大きく、合意には至らなかった様ですね。

この時何が話し合われたのかは判っていませんが、松浦玲氏の「坂本龍馬」に依れば、薩摩は長州に対して幕府が課してくる処分をとにかく受け入れろと要求したのではないかと推測されています。処分を受け入れれば幕府もそれ以上拳を振り上げる事は出来なくなる為当面の危機は去り、態勢を整える時間が稼げるという目論見でした。

これに対して小五郎は、長州は既に三家老の切腹という処分を受けており、たとえどんなに軽かろうとも二度も処分を受ける言われは無いと突っぱねたと考えられます。対幕府との戦争も辞さないという長州藩の覚悟と意地を示した訳ですが、薩摩藩としてはまだそこまで踏み切るだけの勇気は無かった様です。

ここからが龍馬の出番です。彼はすぐさま二本松(相国寺境内、現同志社今出川キャンパス)にあった薩摩藩邸に駆け込み、西郷と直談判に及びました。彼は長州藩の窮状を汲んでやらない薩摩の無情を責め、盟約を薩摩藩から言い出す様に求めました。しかし、薩摩としても幕府との戦争を覚悟しなければならないという重大な決断ですからすぐには同意せず、恐らく西郷達は龍馬に一晩の猶予を求めて話合ったものと思われます。

その傍証が、この20日の夜に龍馬が書いた内蔵太の家族と姪の春猪に宛てた手紙です。どちらも故郷の人々に宛てたおかしみと暖かみのある手紙で、この夜の龍馬が抱いていた不安と期待、そしてかすかな死の予感が入り交じった心情を表していると言われます。つまり、西郷がすぐに返事をくれていれば、こんな心境にはならなかったという推測が出来るという訳です。

内蔵太の家族宛の手紙には、昨夜から熱があって眠られないとあり、この大事な切所で体調を崩していた事がうかがわれます。そして、眠れぬままに後先を思いめぐらしていると、内蔵太の家族に世話になった事に思い至ったと言うのです。

この手紙には色々と面白い表現があり、内蔵太の母親の話しぶりを「芋畑を猪が掘り返した様な、後も先もない議論」とからかい、姉の乙女については「悪巧みをしそうなやつ、あまり足らぬ知恵で、要らぬ事まで論じよる」とこきおろしています。眠れぬ夜を過ごす龍馬の脳裏に浮かぶのは、なつかしい故郷の人たち、それも女性達だったのですね。

一方春猪宛の手紙は、「春猪どの、春猪どの、春猪どのよ、春猪どのよ。」という不思議な調子で始まり、「近頃は白粉を顔に分厚く塗りすぎて、もし転んだら金平糖の鋳型の様になってしまうのかい」とか、「お前の場合は男がみんな逃げ出すから気遣いも要らない」とか口の悪い冗談でからかっています。そして手紙の最後には「自分が生きていたら4、5年の内に帰れるだろう、けれども露の様な命はどうなるか判らない、お前は長生きしろ」と綴られており、これは愛しい姪に宛てた一種の遺書ではないかと言われています。

やっとここまで築いてきた大仕事がどちらに振れるとも判らず、さすがの龍馬も正常な神経では居られなかったという事なのでしょうか。もし事が破れれば、西郷あるいは桂と刺し違えるくらいの気持ちで居たのではないかという気がしますね。そんな不安の夜が明けた後に待っていたのは、西郷が龍馬の申し出を承諾するという吉報でした。

小松邸における21日(22日とも言われます)の会議には、桂小五郎(木戸準一郎)、西郷吉之助、小松帯刀、そして立会人として龍馬が出席しました。盟約はすべて口頭で確認されたもので、文書を交わす事はしていません。しかし、後日になって小五郎が文書にまとめて龍馬に確認を求めたものが現存しており、その内容を知る事が出来ます。それは6箇条からなっており、主旨を記せばおおむね次のとおりでした。

一.幕府と長州が戦争になったときは、薩摩は中立を偽装しつつ、国元から二千の兵を京都にさしのぼらせ、在京兵力と合流して、強力な軍事勢力を持つ。
二.幕府との戦争で長州の旗色が少しでも良くなった時には、すかさず薩摩は、在京勢力を背景に朝廷に迫り、長州に有利な講和へと導くこと。
三.幕府との戦争で長州の旗色が悪くなったときには、長州は1年や半年は持ち堪えるので、薩摩は時機を見て適切な手を下すこと。
四.幕府との間に戦争が起こらなかった時には、薩摩は朝廷に働きかけ、長州が被っている冤罪を晴らすよう努力すること。
五.前条のような薩摩の働きを、一橋、会津、桑名らが邪魔だてした場合には、決戦に及ぶこと。
六.今日より、薩長双方、心を合し、朝権ご回復の目標に相尽力すべきこと。

一見して判るのは、薩摩藩は長州藩の後方支援をすべく朝廷に働きかける事を主眼としており、決して防長二州において長州藩と共に戦うという内容ではないという事です。その最も大きな目的は、長州藩の被っている冤罪を晴らすという所にあったのでしょう。

龍馬は小五郎が書いたこの文書に裏書きをして、この内容は小松帯刀、西郷吉之助、桂小五郎、そして自分が同席して決めたとおりのもので、少しも相違ないと証明しています。この時の文書が現存しているのですが、雄渾な龍馬の筆跡で赤々と裏書きが記されています。この裏書きこそが、龍馬の歴史的役割を今に伝えている大切な証拠なのですね。

龍馬はこの後一人で寺田屋に帰ります。同行していた内蔵太と馬之助がどうしたのかは判りませんが、寺田屋に着いたのは夜の事でした。そして幕吏に襲われる事になるのですが、それは来週の展開ですね。

参考文献:「龍馬 最後の真実」 菊池 明、「坂本龍馬」 松浦 玲、「坂本龍馬 海援隊始末記」 平尾道雄、「龍馬の手紙」宮地佐一郎

2010年8月28日 (土)

龍馬伝 ~薩長同盟締結の場所 小松帯刀邸跡~

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龍馬伝も佳境を迎え、明日はいよいよ薩長同盟の締結ですね。幕末史における転換点として、そして龍馬の事績としても重要なこの盟約は、薩摩藩家老の小松帯刀の屋敷で結ばれたと言われます。

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小松帯刀邸があった場所については諸説があるのですが、今石碑が建っているのは一条通堀川東入るのこの場所ですね。現地にある説明書きに依れば、幕末に近衛家の堀川邸があった場所であり邸内には御花畑があったとされます。そして、帯刀は御花畑のある近衛邸に寓居していたとされる事からこの地と推定されるのだそうです。

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石碑は一条通の南側にあり、近衛邸があったのはその向かい側だそうですね。ですから、ざっとこの辺りという事になるのかな。今はその面影はどこにもありませんが、ここで歴史の1ページが開いたと思うと感慨深いものがありますよ。

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すぐ傍には一条戻り橋があります。ですので、比較的探しやすい場所になりますね。

小松邸跡の候補地としては、同志社大学の新町校舎(ここも近衛家の別邸があったとされる場所の一つ)とする説もあります。地理的には薩摩藩の二本松藩邸(相国寺境内の一角・現同志社大学今出川キャンパス)からほど近い新町校舎の方が自然かなと思うのですけどね。なぜなら盟約の締結の際には西郷や桂、それに龍馬達が二本松藩邸と小松邸の間を何度か行き来しているのですが、相国寺から一条戻り橋までは結構距離があるのですよ。話し合いをするには不便だし、何より幕府の密偵に見つかる危険性が高いと思うのですが、どんなものでしょう?

小松邸があった場所はまだ他にも候補地があり、どことも断定された訳ではありません。これから先、さらに研究が進んで事実が明らかになる日が来るのを楽しみに待ちたいと思います。

2010年8月27日 (金)

京都・洛東 百日紅2010 ~知恩寺~

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手作り市で知られる百万遍知恩寺で見つけた百日紅です。

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この百日紅は、自転車で門前を走り過ぎようとした時に気付きました。この紅い花が目の隅をよぎったので、慌ててブレーキを掛けたのです。

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場所は釈迦堂の南側になります。背後に火頭窓があったので合わせてみました。火炎型の窓が本当に燃えている様に見えません事?

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まだまだ小さな木ですが、この咲きっぷりは見事ですね。夏空を背景にすると、余計に引き立つ様な気がします。

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手作り市の無い時の知恩寺はとても静かで広く感じますね。暑くはあったけれど、ゆっくりと花の美しさを楽しむ事が出来ましたよ。

2010年8月26日 (木)

京都・洛東 百日紅2010 ~南禅寺塔頭 聴松院~

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聴松院は天授庵と同じく南禅寺の塔頭で、かつては湯豆腐が食べられる寺として知られていたところです。今は名物の湯豆腐は消えて門は閉ざされており、 摩利支天堂にだけお参りが出来る様になっています。

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その聴松院で百日紅が咲いていました。咲いているのは閉ざされた本堂側なのですが、外からでも見る事が出来ます。

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摩利支天堂はこの狛猪で有名ですよね。そこで百日紅と合わせてみたのですが、ちょっと寂しいかな。

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今度は花が沢山入る様に正面に回ってみました。華やかにはなったけれど、あまり猪の様には見えないのが難点です。なかなか難しい素材ですね。

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以前だったら、湯豆腐を食べながらこの花を見る事が出来たのかも知れませんね。まあ、これだけ暑いとそれどころでは無いかも知れませんが。

それにしても、夏の東山に良く映える百日紅です。

2010年8月25日 (水)

京都・洛東 百日紅2010 ~南禅寺塔頭 天授庵~

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南禅寺の塔頭「天授庵」と言えば、もみじの名所として知られます。これまで新緑、紅葉、そして雪景色を求めて何度となく訪れて来た場所なのですが、夏の盛りに来たのは初めてです。

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今回ここを訪れたのは、以前から気になっていた百日紅を見る為です。去年も見に来る事は来たけれど、既に花が終わっていたので、外から確かめただけで帰ったのでした。

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今年はほぼ盛りの時期に来る事が出来た様です。この木は庭の北隅にあり、その大きさと樹形の見事さから、あるも意味この庭の基調をなす存在と言えると思います。ただ、庭側から写真に撮ると背景が白っぽかったせいなのか、あまり花が映えないですね。

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外から見るとこんな具合で、その見事さが判りますね。秋になると今度は葉が黄色く色づいて、また違った美しさを見せてくれますよ。

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百日紅は庭の東と南にもあって、それぞれ良いアクセントになっていました。でも、この時期に来なければ、その存在には気が付か無かったのですけどね。

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南の庭では、竹の緑が鮮やかでした。とても艶やかに見えたのですが、竹は5月に新しい葉に代わるので今が一番元気な時期なのでしょうか。それとも、暑さにには強い植物だからなのかな。

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池面には、睡蓮の葉が広がっていました。ただ、その割には花数が少なかったですね。9月の末頃まで咲くはずなのですが、今は夏の暑さで弱っているのかな。

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次に涼し気な写真を一枚アップします。池を泳ぐ錦鯉が、上手い具合に一カ所に集まってくれたのです。この時は汗だくになっていたので、水の中にいる鯉が羨ましく思えたものでした。

蝉時雨が響く天授庵も、なかなか風情のあるものでしたよ。ただ、日陰に居ても暑さだけはどうしようもなかったのですけどね、ふう。

2010年8月24日 (火)

京都・洛中 百日紅2010 ~首途八幡宮~

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本隆寺から南へ下ったところに首途八幡宮があります。源義経が奥州に旅立つ時に道中の無事を祈願した事で知られますが、その鳥居の脇で百日紅が咲いていました。

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この神社の前後は町並みが途絶える場所で、正直言って少し殺風景な感じがするのですが、その中にあってこの花は鮮やかな彩りになっていました。

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境内に入ると、本殿の前でも百日紅が咲いていました。ここの神社は築山になっているのか本殿だけが高台にあるのですが、見上げる様にして階段を上っていくと丁度この花が目に飛び込んできます。

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花は主に木の上の方で咲いているので、本殿と絡めた写真はあまり撮れなかったです。しかし、周囲とは違った静かな中で花と向き合えたのは良かったですよ。

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この日は市内の各所で地蔵盆が行われていたのですが、この神社の社務所でも近所の人が集まって読経と数珠回しが行われていました。神仏混淆の名残が残っていると言うより、神社がこの地域の集会場所となっていると言うべきなのかな。

有名社寺とは違った、地元に根差した神社の姿を垣間見た様な気がした光景でした。

2010年8月23日 (月)

京都・洛中 百日紅2010 ~本隆寺~

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西陣、紋屋町にある本隆寺で、今年も百日紅が満開になっています。

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ここの百日紅に気付いたのは去年の事で、その見事さに驚いた記憶があります。今年もその花を見たくて訪れてきました。

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百日紅は本堂の東南隅にあり、惚れ惚れする様な大木ですね。背後の本堂と比べると、その大きさが判るかと思います。

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花の咲きっぷりも素晴らしいですね。あたかも木全体が燃えているかの様な印象を受けます。これだけの花を咲かせるには、丹念な手入れが欠かせない事でしょう。さぞかし大事にされて来たのでしょうね。

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本堂の反対側には白の百日紅が咲いていました。こちらはまだまだ小さく、花数も少ないですね。でも、赤の花と対比すると、とても美しく映えます。数年後が楽しみですね。

あと余談ですが、東門前にある桜の木が枯れかけている様です。この時期にほとんどの葉を散らしており、痛々しい姿になっていました。毎年早咲きの花を見せてくれていただけに残念ですね。まだわずかながら元気な葉も残っており、復活してくれると嬉しいのですが、春まで頑張れるかな。

2010年8月22日 (日)

龍馬伝34 ~侍、長次郎~

「揃いの白袴を購入した亀山社中の面々。ユニオン号購入を記念して、上野彦馬の写真館で写真を撮る事になりました。初めての事ゆえ、魂を取られないかなど大騒ぎの末、無事に写真を撮り終えます。」

「桜島丸と名を変えたユニオン号で下関に向かう長次郎と龍馬。」

ユニオン号を社中が受け取ったのは慶応元年10月18日の事でした。長次郎はこの船に乗って一度薩摩に出向き、その上で長州に向かった様です。長次郎はこれ以前にも薩摩に行っているらしく、その際には小松帯刀の屋敷に滞在し、薩摩藩主か島津久光のどちらかに拝謁している様ですね。この後彼は長州藩主にも拝謁して礼を言われていますから、その働きが如何に大きかったかが判るというものです。

なお、龍馬はこの頃京都に居た為、ドラマの様に長次郎と共に船に乗っているという事はあり得ません。

「京都。朝廷から第二次長州征伐の勅命を受けた幕府。」

「下関。ユニオン号を運んできた長次郎と龍馬。彼らがもたらした軍艦と武器を見て盛り上がる晋作達。長次郎に礼を言う小五郎。長次郎は留学の希望がある事を龍馬に伝えます。新しい夢が出来たと喜んでやる龍馬。」

「しかし、長次郎がまとめた船の運用方法を巡って、長州藩海軍局との間でもめ事が起こります。聞多、俊輔の同意の下に名義は薩摩藩、運用は亀山社中が行うという約束が出来ていたのですが、長州海軍としてはとても飲めない条件だと言うのです。小五郎が苦悩する姿を見て、船の名義を長州とし、亀山社中は長州の同意を得た場合のみ運用出来るという条件でまとめた龍馬。失意のまま、長崎に帰る長次郎。」

ユニオン号が下関に到着したのは11月の上旬でした。この船の運用を巡っては、井上聞多の了解の下に亀山社中が運用する事になっていました。ところが、長州藩の海軍局はこの事を了解しておらず、、船の名前は乙丑(いちゅう)丸、船長は中島四郎とするなどと決めていたのです。このため、船の受け入れにあたっては最初から紛糾しました。

龍馬が京都から下関にやって来たのは、慶応3年12月3日の事でした。その目的は京都の情勢を長州藩に伝えて新たな判断を促す事にあった様ですが、ユニオン号を巡って紛糾している事を知り、自らもその調停に乗り出した様です。

最初に決められた取り決めにおいては、船籍は薩摩藩、運用は亀山社中、船長は沢村惣之丞、運用にあたっての諸費用は長州藩が負担するなどと決められました。(第一次桜丸条約。)この取り決めを作るにあたっては長州藩海軍局総監の中島四郎も加わっており、一度はその内容に同意した様です。この条約は長次郎の名で中島と龍馬の両者に宛てた文書としてまとめられており、彼の主導的役割が判るというものですね。

ところが中島一人では長州藩海軍局を押さえられなかったのでしょう、改めてこの取り決めに対して異議が唱えられます。中島は12月24日に山口に出向き、条約の改定を訴えました。小五郎の上洛は12月27日の事で、龍馬もこれに同行したかったのでしょうけど、この問題に足を取られて身動きが取れなくなっていました。

ようやく新たな条約が結ばれたのは、たぶん12月29日の事ではなかったかと思われます。その日付の龍馬の手紙が残っており、今日中に片付くだろうと見込みを語っているからで、小五郎からは上洛を急かされているとも記されています。これは私の想像ですが、上洛を急ぐあまり、条約の内容にはかなり妥協したのではないかという気がしますね。

新しい条約(第二次桜島丸条約)では、船の運用は長州藩が主導する、社中(薩摩藩からの乗込士官)は船の運航のみを行う、長州藩の商用が無い時には薩摩藩の荷物を運んでも良いがそのための費用は薩摩藩持ちであるなどと決められました。この文書は龍馬と中島の連名になっており、長次郎の名はどこにも記されていない様です。ただし、長次郎の主張により、船自体は長崎に戻される(金が支払われるまでは船を長州に引き渡す事は出来ないという主張。いわば長次郎の意地か。)事になっています。

「土佐。楠を数える仕事を終えた弥太郎。象二郎から今度は薩摩の動きを探れと京都行きを命じられます。」

土佐藩が薩長同盟の動きをどこまで知っていたのかは判りません。また、弥太郎が象二郎の命を受けて京都に向かったという事実も無いですね。これはたぶん、弥太郎のために作られた挿話へ繋がる伏線になるのだろうと思われます。

「長崎。下関から戻った長次郎は、桜島丸を自由に使えなくなったと報告します。しかし、その事を事前に知らなかった社中の面々は、利を求めるとは何事かと長次郎を責めました。金が無くては何も出来ないと反論する長次郎ですが、所詮は商人だと蔑まされる長次郎。」

亀山社中の面々が桜島丸条約の内容を知らなかったはずはありません。桜島丸を繰船していたのは他ならぬ社中のメンバーのはずですからね。惣之丞に至っては、その船長を務めていたはずです。そう言えば、ドラマで船を操っていたのは誰なのでしょう?

亀山社中が利益を求めぬ結社だという事はあり得ず、後の海援隊規約には船の運用によって利益を上げ、それを隊の資金とすると明記されています。この性格は亀山社中から引き継いだものと思われ、日本初の商社と謳われる所以ですね。龍馬達がやろうとしいていたのは、ボランティアで事が進められる程甘い仕事ではありませんでした。

「グラバー邸。グラバーから長州からの礼金を示される長次郎。亀山社中としては受け取れないと断った長次郎ですが、グラバーはではあなたが受け取れば良い、あなたには使い道があるのではないかと謎かけの様な事を言います。その言葉を聞き、イギリスへ留学することは出来るのかとグラバーにすがる長次郎。」

長州からの礼金については、井上聞多から桂小五郎宛に出した手紙の中に、その仕事に報いる謝礼として100両か200両位は出しても良いと記されているそうです。ドラマはこの事を踏まえての設定なのでしょうね。

「亀山社中。龍馬を賞賛する仲間の声を背に荷物をまとめて、雨の中を出て行く長次郎。」

「写真館にて写真を撮り、妻の下に手紙を書く長次郎。」

長次郎の写真については、龍馬伝紀行に出てきた様に実在します。「龍馬が行く」においては、長次郎が留学記念に写真を撮ったのですが、その事が社中の同志の知るところとなり、彼の抜け駆けが露見するきっかけとなったという設定になっています。

「暴風雨のために船が出ず、密航に失敗した長次郎。」

「亀山社中に長崎奉行所の役人がやって来ました。昨夜密航を企てた者がおり、土佐なまりだったと言うのです。自分たちにはそんな金が無いと言って役人を追い返した惣之蒸達でしたが、長次郎に違いないと言って探しに出かけます。龍馬に急を知らせる陽之助。」

「小曽根邸。長次郎を匿う乾堂ですが、奉行所と社中の仲間が密航者を捜してやって来たと長次郎を問いただします。それを聞き、とんでも無い事をしてしまったと嘆く長次郎。」

「下関。吉之助に会うべく京都に旅立つ小五郎。同行する龍馬に長州の恩人だと言って、ピストルをピストルを贈る晋作。彼は護衛として三吉慎蔵を引き合わせます。その慎蔵が陽之助の手紙をもたらしました。一読して驚く龍馬。」

龍馬が高杉晋作からピストルを贈られたのは有名な話ですね。後に伏見で幕吏に襲われた時に使ったピストルがこれであり、龍馬が小五郎に宛てた手紙にその旨が記されています。スミス&ウェッソン社製の拳銃で、6連発でした。襲われた際には5発の弾が込められていたと言いますから、ドラマで晋作が一発撃ったのはその数合わせなのかも知れませんね。

「長崎。下関から急遽引き返してきた龍馬。そこで見たのは変わり果てた長次郎の姿でした。彼は密航の罪で車中に迷惑を掛ける事を恐れ、切腹して果てたのでした。その手紙で、やっと武士になれた、日本の将来と家族を頼むと龍馬に宛てた長次郎。」

ドラマでは、上手く長次郎と社中の同志の面目が立つ様にまとめていました。この展開なら、長次郎が死んでもそう不自然ではないですよね。

長次郎の死については二通りの説があり、一つは桜島丸条約が大きく変えられた事について薩摩藩士からとがめられ、その責任を取ったという説です。

もう一つはドラマにあった様にイギリスへの留学を企てたのですが、これが社中の同志の知る所となり、自裁を求められたという説ですね。社中の取り決めには事を行う時には全て同志に計るべしとあり、長次郎の行いはこれに反するものでした。長次郎を問い詰めたのは沢村惣之丞だったと言われます。

また、グラバーが言い残した事として、長次郎は桜島丸の支払い代金のうち2千両を着服しようとしていたとも言われ、それも同志に依る糾問の一因だったともされます。

はっきりとした原因は判りませんが、彼が腹を切ったのは慶応2年1月14日の事とされます。場所は小曽根邸の裏庭にある梅花書屋と呼ばれる小亭でした。このため、墓碑には梅花書屋氏墓と刻まれています。得意の絶頂にあった前年の10月から数えてわずか三ヶ月ほどしか経っておらず、何とも凄まじい運命の変転という気がしますね。

この頃龍馬は上洛の途上にあり、この事実を知ったのは2月10日前後、場所は薩摩藩京都藩邸だった様です。お龍の回顧談では寺田屋に陽之助が知らせを持ってきたとあるのですが、これは事実関係から見ると無理がある様ですね。

「長崎奉行所の調べに対し、白を切り通すグラバーと乾堂。」

「奉行所に赴き、長次郎の切腹について申し開きをする龍馬。彼もまた密航については知らないと言い切るのでした。」

「引田屋。お元を座敷に呼んだ龍馬。彼は長次郎との約束どおり、二人で宴を上げるのでした。」

龍馬がお元と共に追悼の席を設けたというのはフィクションですが、龍馬伝紀行で紹介されていた様に、長次郎の悲報に接した時に「俺が居たら殺しはしなかった」と残念がったと伝えられます。しかしその一方で、「術数余って至誠足らず、近藤氏の身を滅ぼす所以なり」とも記しており、長次郎の人柄に原因があったと考えている節も伺えます。ドラマの長次郎からはそんな側面は伺えないのですけどね、実際はどうだったのでしょう。

近藤長次郎は勝海舟にも認められた人であり、龍馬に次ぐ評価を受けていたらしく、しばしば代理人として使いに出されていた様ですね。桜島丸の購入にあたっては薩長両藩からその活躍が認められ、それぞれの藩主から拝謁を認められるという名誉を与えられました。彼の働きは余程水際立ったものだったのでしょうね。これらの事から推し量って非常な才人であった事は確かであり、もっとスポットを当てられても良い人物だと思われます。

龍馬にとっても惜しい人物だった事でしょうね。享年29歳、何とも若すぎる最期でした。

参考文献:「龍馬 最後の真実」 菊池 明、「坂本龍馬」 松浦 玲、「坂本龍馬 海援隊始末記」 平尾道雄、「龍馬の手紙」宮地佐一郎

2010年8月21日 (土)

京都・洛中 鴨川納涼床 2010

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三条大橋から見た今日の鴨川です。15日まで開催されていた京の七夕はすっかり片付けられ、いつもの岸辺が戻っていました。河原がやたらと綺麗なのは、イベントの後始末として整備されたからなのでしょう。

御手洗川の上に明かりが灯る鴨川納涼床は、今年は96軒を数えるまでに至ったそうです。そんなにあるとは思えないのですけどね、五条通から御池通までの間を丹念に数えると、この数字になる様です。この納涼床は9月末までですが、9月には昼席を設ける所も出て来る様です。上旬はまだ暑くて風情も何もあったものでは無いでしょうけどね、下旬になれば結構気持ちが良いかも知れませんよ。

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目を東山方面に向けると、ほのかに赤い空に半月が上っていました。今日も昼間は灼熱の暑さでしたが、夕方になると少しはしのぎやすくなった様な気がします。ほんの少しですが、夏の暑さは峠を越したのかも知れません。

まあ、気持ち程度、だけですけどね。

2010年8月20日 (金)

京都・洛西 夏の嵯峨野路2010~祇王寺~

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緑溢れる夏の祇王寺です。

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この時期に祇王寺を訪れるのは2年振りの事で、あの美しい緑にまた会いたくてやってきました。

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ここはもみじの枝が空を覆い尽くしているので、いつ来ても薄暗く、独特の風情がありますね。そして、この光線が緑を一層引き立てている様な気がします。

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同じ庭でも、上は日の光を浴びた明るい緑、下は日陰の濃い緑で、このコントラストが面白いです。

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秋にはこの緑が紅に変わり、それは素晴らしい風情となります。けれども、この夏の生命力に溢れた色彩もまた、やはり良いものだと思いますね。

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そして、もう一つの主役がこの苔ですね。何種類もの苔があるそうですが、その違いが微妙なグラデーションを生み、深みのある色合いとなっています。

祇王寺は夏の風情も素晴らしい、とても良い所ですよ。


2010年8月19日 (木)

京都・洛西 百日紅2010 ~嵯峨野~

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嵯峨野路で見つけた百日紅です。

鳥居形の送り火を見に行った日、護摩木を納めるべく化野念仏寺を訪れてきました。残念な事に着いた時間が遅くて受付に間に合わなかった(16日は午後3時まで)のですが、代わりに綺麗に咲いている百日紅を見る事が出来ました。

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化野念仏寺の手前にある鳥居本の町中でも、百日紅が咲いています。渋い町並みにあって紅い花は良いアクセントになっていますね。

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江戸時代を思わす白い土蔵と黒板塀に百日紅は映えますね。これも夏ならではの風情と言えるでしょうか。

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落柿舎の前では、2種類の百日紅が咲き誇っています。

この時期になると夏の初めに比べて日の入りが早くなって来たのが判りますね。その小倉山越しの西日を受けて、不思議な立体感のある風景になっていました。

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最後は百日紅ではないけれど、夏らしい緑陰です。落柿舎の近くを暑さにあえぎながら歩いている時、この涼しげな光景を見て救われた様な気分になりました。

まあ、気分だけで流れ落ちる汗は止まらなかったというオチは付きますけどね。


2010年8月18日 (水)

京都・洛中 京の七夕 堀川会場

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今年から始まったイベント「京の七夕」、前回の鴨川会場に続いて今回は堀川会場のレポートです。

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堀川会場は、押小路通から一条通までの間約1.6kmの堀川が会場になります。その起点となるのが二条城で、一部が無料開放されており、ライトアップが施されていました。

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入る事が出来たのは二の丸御殿の前までで、唐門前の広場には京都に縁のある各界著名人のメッセージを記した行灯が展示してありました。ぱっと目に付いたのは井上八千代さん、瀬戸内寂聴さん、里見浩太朗さんなどでしたね。また、二の丸御殿台所では、石井竜也さんの作品「顔魂」が展示されていましたよ。

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メイン会場は堀川の遊歩道になります。押小路通から始まり北向き一方通行で歩くのですが、とにかく凄い人出で、何度も渋滞していました。それにまあ、暑いのなんの。来年も続けるのなら、冷風を送るとか、一工夫が必要でしょうね。

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会場内の堀川をずっと流れているのがこの青いボールで、「いのり星」と言うのだそうです。青いLEDで光っている様ですね。最初は物珍しいので皆さん写真に撮っているのですが、そのうちに気にならなくなり、途中からは誰も見向きもしないといった具合でした。まあ、会場全体を通しての基調とはなっていましたね。

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会場にはこうしたオブジェが所々に置かれています。これはブーメランだったかな。もしゆっくり歩く事が出来たら、結構楽しめる事でしょうね。でも、あの混雑ではなあ。

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メインの展示の一つがこの光の友禅流しですね。この生地を染めたのはアロハシャツで知られるパゴンなのだとか。様々な色のライトで照らされる様はとても綺麗なものでしたよ。

ただ、最も人気が高いと思われるこの展示が、一番狭い通路で行われているのは納得がいかないですね。ただでさえ渋滞しやすい会場なのに、この展示を見たいが為に立ち止まる人が続出し、ほとんど停滞と言って良い状態になっていました。なぜもっと広いエリアでやらないのかしらん?

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その反動と言いますか、光の友禅を抜けたところでは人混みも少なくなり、比較的ゆったりとする事が出来ました。こんな具合に川面を眺められたのは、ここが初めてではないかしらん?他の場所では、写真を撮ったらすぐに引き上げるといった感じでしたからね。

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そして、もう一つの目玉が光の天の川です。竹で組まれたアーチの天井部分にLEDによる天の川を形作ったもので、なかなか綺麗でしたよ。途中にわし座とこと座が描かれていたのですが、気付いた人はあまり多くは無かった様です。

その様子を動画で撮ってきたのでご覧下さい。

ちょっとしたプラネタリウムみたいで、結構良い雰囲気になっていました。

この天の川の出口が下売立通で、全体の三分の二程度まで来た事になるのでしょうか。この先も一条戻橋まで展示は続くのですが、体力に限界を感じたのでここまでにしました。

イベントとしてはまずまずで、それなりに見応えはありました。でも、堀川の中はやはり狭すぎますね。今後も続けるのなら、展示場所を考えるとか通路の換気を行うとか一工夫も二工夫も必要なのではないかな。せっかく始まったイベントなのですから、大事に育てて欲しいものだと思います。

2010年8月17日 (火)

大文字2010 ~鳥居形~

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今年も迎えた大文字の送り火、今回は鳥居形を見る為に嵐山を訪れてきました。

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平成22年8月16日の天気予報は、午後から夜に掛けての降水確率が50%とかなりの高率でした。実際、一山向こうの亀岡方面では降っていたらしく、一時は愛宕山が白く霞んで見えた程です。雨が降ったら引き上げるしか無いのかなと半ば覚悟していたのですが、幸いな事にむしろ晴れる方向に進んでくれました。

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嵐山では毎年8月16日に灯籠流しが行われます。開始は午後7時からで、桂川の西側をロープで区切った中を流れていきます。

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この灯籠流しは嵯峨仏徒連盟主催で行われており、1基千円で奉納出来ます。午後9時までの受付でしたから、鳥居形が灯った後も延々と流れ続けていました。どれほどの数が川を下っていったのでしょうね。

もっとも、この灯籠は中之島公園の下流端ですべて回収されており、海まで流れて行くという事はありません。

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鳥居形の点灯は五山の中で一番遅く午後8時20分になります。ここは人が松明を抱えて火床に走って行くという独特の点火方法を採っており、目まぐるしく炎が駆けめぐるのが判りました。動画も撮ったのですけどね、なぜかピントがぼけてしまっており、お見せ出来る代物ではないのが残念です。

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嵐山ならではの光景が、この灯篭と鳥居形のコラボレーションですね。でも、これって結構難しく、川の側に行くと鳥居形が半分隠れてしまうのですよ。護岸の上からだと鳥居形は良く見えるのですが、灯篭があまり見えない上に岸辺に人垣が出来ているので上手く行かないのです。

次に動画をアップしますね。

ちょっと横着をして望遠レンズのままで撮ったので、灯籠があまり映っていませんね。面倒くさがらずに広角レンズに変えれば良かったな。

送り火の日の嵐山には今回初めて訪れましたが、建物や木の為に鳥居形が綺麗に見える場所は意外と限られている様です。灯篭と送り火を同時に見える場所は、さらに限定されますね。送り火だけなら、交通規制のされている渡月橋の上からが比較的見えやすいかな。ただし、混雑も相当ですけどね。

場所取りは相当早くから行われており、午後6時にはめぼしい場所は既に埋まっていました。特に岸辺から鳥居形が見える場所は割り込む余地もなかったです。

ただ、どこのポイントでも共通して言える事ですが、点火してから10分もすると帰り始める人が沢山出て来ます。そこまで待っていれば好ポイントに移動する事も出来る様になるものです。最後の写真はそうやって撮りました。ですから、混んでいてもイライラせずにじっと待つ事ですね。

あと鳥居形のある方向は、点火のずっと前から作業用の火が灯されているので判りやすいですよ。場所取りの目安にして下さい。

2010年8月16日 (月)

比叡山夜間特別拝観 「法灯花」 2010 ~延暦寺~

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比叡山延暦寺のライトアップ「法灯花」に行って来ました。この行事は今年で14回目を迎えたもので、我が家としては10数年ぶりの参加となりました。

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ライトアップは、拝観入り口から大講堂、そして根本中堂に至るエリアで行われています。以前は阿弥陀堂でも行われていたはずですが、規模は少し縮小されている様ですね。

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最近は地球温暖化防止の観点からライトアップに対する風当たりが強いらしく、ここでも照明をLEDに転換して省エネをアピールしています。でも、それと同時に少し照明が地味になってしまい、寂しい気もしますね。その中でこの鐘楼は元から朱塗りですから、単純なライトアップでも綺麗に映えて見えます。

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道沿いではこうした木々へのライトアップがあり、幻想的な雰囲気を演出していました。場所柄、ちょっと怖いと感じるくらいですね。

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根本中堂前の広場では、京都造形美術大学のプロデュースに依る、葦のオブジェのライティングが行われていました。このオブジェは蝶の卵から成虫までを表していた様ですね。ただ、説明書きには蝶の孵化ってあったけど、羽化の間違いなんじゃないかな。

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そして、メインの行事は、根本中堂で行われる蝋燭の献灯です。中庭に整然と蝋燭が並んだ様は、まさに幽玄の世界でしたよ。残念ながら根本中堂の内部は撮影禁止であるため、その様子は外から撮らせて頂きました。

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そして、もう一つのお目当てが、根本中堂で行われた特別祈願護摩法要と天台声明でした。

声明とはお経に節を付けて歌う仏教音楽の事で、大原の勝林院がその道場として知られます。今回は根本中堂という最高の舞台で本物の声明を聞く事が出来るのですから、とても楽しみにしていました。

お堂の中は薄暗い照明があるばかりで、その中を護摩の煙が漂い辺りをほの白く染めています。声明は時に高く時に低く奏でられ、根本中堂は次第に荘厳な雰囲気に包まれて行きました。ここに来て良かったと思える瞬間でしたね。

ライトアップは少し物足りなくなっているかも知れませんが、この声明を聞くだけでも訪れる値打ちはあると思います。今年は昨日の15日で終わってしまいましたが、来年に機会があれば是非訪れてみて下さい。きっと素晴らしい体験が出来ますよ。


2010年8月15日 (日)

龍馬伝33 ~亀山社中の大仕事~

「長州藩。諸隊を訓練する小五郎の下に、薩摩が軍艦と銃を用意すると約束したという龍馬の手紙が届きました。龍馬とは面白い男だと微笑む晋作。聞多に金を用意しろと命ずる小五郎。長崎に急ぐ龍馬。」

龍馬から薩摩が承知したという伝言が下関にもたらされたのは、慶応元年7月の事でした。ただし、龍馬が長崎に来たという資料は見あたらない様です。もっとも、本人はこの頃どこに居たのかという記録も無い様なので、長崎に行ったと言い張るのも出来なくは無いですね。普通言われるのは、京都に居ただろうという事です。

「長崎、小曽根邸。商談で訪れているグラバーに、薩摩が軍艦1隻とミニエー銃千丁を買いたがっっているともちかける龍馬。しかし、この場に薩摩藩の人間が居ない事に不審を持つグラバー。彼は、商人を甘く見るなと言い捨てて、去ってしまいます。金の出所の判らない限り、船を先がしてくれる商人は居ないと忠告を与える乾堂。」

この商談に関しては、龍馬は直接には関わっていない様です。この商談がまとまった後の日付(9月9日)で京都から乙女に宛てて書いた手紙の中で、龍馬は長次郎達の事について書いているのですが、単に(鹿児島から)長崎に出稽古に行っていると書いてあるのみで、社中の活躍については一切触れていないのです。つまりは、交渉の過程は知らなかったという事であり、龍馬はこの仕事を社中に任せていたという傍証になりそうですね。

「京都、薩摩藩邸。幕府を警戒し、表に出る事はしないと決めた吉之助。」

吉之助は長崎には行きませんでしたが、実際には小松帯刀が長崎に居た様です。門多と俊輔はこの帯刀に会い、その上で商談を進めた様ですね。ですから、薩摩藩は一切表に出ないという事は無かったはずです。

「長崎、奉行所を訪れているお元。最近は薩摩に関する知らせが無い、龍馬が長崎に戻ってきていると聞かれますが、店には来ていないと言って帰るお元。」

「奉行所で貰ったわずかな金を貯めるお元。」

「観音像にも似たマリア像を拝む、お元達隠れキリシタン。」

「引田屋のお座敷に出るべくやって来たお元。入り口で手紙を見ながら泣いている妹芸妓が居ました。借金を全部返したら父の下に帰れると励ますお元。その時、別の料理屋から出て来る龍馬達に気づきました。」

「これで断られたのは六軒目だと弱る龍馬達ですが、諦める訳にはいかないと次を目指します。その後を付けるお元。その時、一軒の家から女が転がり出てきました。その後から飛び出してきた男。彼が言うには、女の荷物からロザリオが出てきたのでした。奉行所に突き出すと言って女を引き立てて行く男。思わず飛び出しそうになり、惣之蒸と長次郎に隠れキリシタンに関わってはいけないと引き留められる龍馬。その様子を見て、目を瞠るお元。」

「亀山社中。所在なげにビードロを吹く龍馬。蔵太から、太郎がカステラが売れたと喜んでいると報告を聞いています。大事な事を隠していては、どうしてもばれてしまう、あの隠れキリシタンの様にと浮かない龍馬。」

「グラバー邸。お慶の誕生日を祝うパーティーが開かれています。その席で舞いを披露するお元。一休みをすべく控え室に戻ったお元は、十字架がある事に気づきました。周囲に人の目が無い事を確かめ、十字を切って拝むお元。背後からその様子を見ていた龍馬。龍馬に見られていた事に気づいたお元。」

「龍馬の不法侵入に気付いた警備員。銃を突き付けられながら、大声でグラバーを呼ぶ龍馬。あきれた様に出て来るグラバー。その彼の前に手をついて、一人の日本人として話を聞いて欲しいと頼む龍馬。」

このドラマで気になるのは、やたらと土下座をする事ですね。頭を下げさえすれば全てが進むというのが通り相場になっていますが、何とも安っぽい設定だという気がします。それに、秘密にしなければならないこの話を、衆人環視の中で切り出すというのも不自然極まりないと思います。

先に書いた様に長崎には薩摩藩の家老である小松帯刀が来ており、長州藩の担当者もまた帯刀と協議の上で商談を進めています。その間を取り持ったのが亀山社中となるのですが、この様にちゃんと段取りを踏まなければ物事が進むはずはないですよね。

「やむなく、10分だけ時間を与えたグラバー。世の中の流れを自分で変える事が出来れば、大もうけが出来ると切り出す龍馬。そこにお慶も入ってきました。龍馬は二人を前に、名義は薩摩だが、金を出すのは長州だと語り始めます。彼は薩摩と長州が手を結び、幕府に取って代わるのだと切り札を出したのでした。」

「パーティー会場で、龍馬の様子を気にしているお元。」

「もし船を用意出来れば日本の仕組みが変わる。それは日本を守る為だと語る龍馬。日本を守ると聞き、興味を持った様子のグラバー。あくまで金儲けの話を持ってきたのだとビジネスライクな龍馬。、彼は長州は幾ら金を用意出来るのかとお慶に聞かれ、15万両と答えます。彼はその証拠の品として、小五郎が書いたという証書を見せました。」

「自分が間に入る、オールトならすぐに乗ってくると請け合うお慶。慌てて割って入り、龍馬の取り分はと聞くグラバー。私心があっては志とは言えない、この話は日本を守るためであり、自分は一銭も要らないと答える龍馬。」

亀山社中が手数料を取らなかったかどうかは判りませんが、彼らの目論見としては、手に入れた船には社中の人間が乗り込み、彼らが主体となって運用するつもりでした。実際に、一度は長州藩との間でその様な取り決めが交わされているのです。この取り決め自体はすぐにご破算となりましたが、全くのボランティアなどでは無く、あくまでビジネスとして事に当たっていたと言えそうです。

「お慶から証書を奪い取り、船と銃を用意すると約束するグラバー。そのグラバーに抗議するお慶。お慶を相手にせず、部屋から出て行くグラバー。」

「興奮した様子でパーティー会場に戻ってきたグラバー。その彼に、龍馬の様子を聞くお元。もう帰ったと言って相手にしないグラバー。」

「急いで亀山社中に戻って来た龍馬。彼はグラバーが引き受けてくれた事を仲間に報告します。吉報を受け、喜びに溢れる亀山社中。龍馬はこれから先の交渉の担当者として、惣之蒸と長次郎を指名しました。これは亀山社中の大仕事だと宣言する龍馬。」

「グラバー邸で始まった商談。長州からは聞多と俊輔がやって来ました。英語が上手いと言われ、自分たちはイギリスに留学していたと答える聞多達。留学と聞いて、羨ましそうなそぶりを見せる長次郎。」

「グラバーが勧める船のカタログを見て、20年は古い外輪船だとはね付ける長次郎。グラバーにスクリュー船は無いのかと聞くと、別のカタログを出してきました。少し古いが、これなら軍艦に使えると鑑定する惣之蒸。3万9千両と聞き、それならボイラーを新品と交換してくれと交渉する長次郎。しぶしぶ了解するグラバー。この船にすると決める長次郎。なかなかの目利きだと褒めるグラバー。笑顔で彼と握手を交わす長次郎。」

「大阪、大和屋。長次郎からの手紙を、息子の百太郎の側で読む徳。手紙には、初めて大仕事を任された事、聞多達から聞くイギリスの話が面白い事、親子3人で留学がしたい事などが綴られていました。」

「引田屋。大詰めを迎えた商談。船と大筒込みで3万6千両で交渉がまとまりました。喜ぶ聞多達。ほっとしてへたり込む長次郎。」

「廊下で番をしていた龍馬。部屋から出てきた惣之蒸は長次郎の仕事を褒め、自分の出番が無くなってしまったと嘆きます。そのうちに惣之蒸にしか出来ない出番がやって来ると慰める龍馬。その時、お元がやって来ました。部屋に居るのは長州の侍かと言って、龍馬を誘い出すお元。」

「とある一室に龍馬を引き入れるお元。かの女は長州人が居る事を奉行所に訴える事も出来ると切り出します。なぜ自分を呼び出したと聞く龍馬。クラバー邸で見た事を黙っていてくれたら、自分も奉行所には行かないと取引を持ちかけるお元。やはり耶蘇だったのかと冷ややかな龍馬。」

「言う事を聞いて貰えないなら、今から奉行所に駆け込むと部屋を出て行こうとするお元に、侍を舐めてはいけない、部屋を出て行く前にこの刀がお前に届くと脅す龍馬。しかし、脅しだけで刀を納め、黙っていてやると約束してやります。」

「なぜ見つかれば惨い目に遭うと知りながら異国の神を信ずると聞く龍馬に、自分は親に捨てられた、耶蘇は自分の全てである、この世の事は全て与えられた試練であり、乗り越えれば天国に行けるのだと答えるお元。」

「奉行所の隠密をしているのは金の為かと聞かれ、ここに居る芸妓はみんな親に売られた者ばかり、早く金を貯めてここから逃げ出したいと願っているのだと食ってかかるお元。お前ほどの売れっ子なら、すぐに金は貯まるだろうと言う龍馬に、自分が逃げたしたいのはこの国だと吐き捨てるお元。彼女は再び取引を持ちかけます。その取引に乗ってやる龍馬。彼は、お元が逃げ出したくなる様なこの国を変えてやると約束するのでした。」

龍馬が隠れキリシタンについてどう思っていたかについては判りません。いわゆる船中八策にも信教の自由は出てこないですしね。

明治維新によって国が変わったのは確かですが、信教の自由が認められたのは明治6年になってからの事でした。明治初年には、新政府の手によって浦上四番崩れと呼ばれる隠れキリシタンに対する弾圧が行われています。この事件の担当者だったのが井上聞多、そして最終的な結論を下したのは桂小五郎でした。当時の最先端を行く政治家達でさえ、隠れキリシタンに対する偏見と恐れを持っていたのですね。

この弾圧の酷さは旧幕府の時以上だったと言われ、もしお元が本当に隠れキリシタンであり、龍馬から国を変えてやると約束をされていたとしたら、とんでもない裏切りを受けたと思った事でしょう。下手な設定は止めた方が良いと思うのですが、そのあたりのフォローはあるのでしょうか。

「グラバー邸。契約書を交わすグラバーと門多達。改めて長次郎に礼を言う聞多達。長次郎の仕事振りを褒めるグラバー。」

長次郎の仕事ぶりについては、長州侯に拝謁して感謝状を貰った事、また長州侯から薩摩侯へと出した礼状の中にその名が記されている事からも、とても素晴らしいものであった事が伺えます。長次郎にとっては、まさに絶頂と言って良い時でした。

「小五郎と吉之助相手に、交渉がまとまった事を知らせる手紙を書く龍馬。」

「坂本、とつぶやく吉之助。」

「感慨にふける小五郎。軍艦が手に入ったと檄を飛ばす晋作。」

「砂浜で大の字になり、仕事を終えた満足感に浸る龍馬。」

参考文献:「龍馬 最後の真実」 菊池 明、「坂本龍馬」 松浦 玲、「坂本龍馬 海援隊始末記」 平尾道雄、「龍馬の手紙」宮地佐一郎

2010年8月14日 (土)

京都・洛東 緑陰2010 ~真如堂~

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毎日うだる様な暑さが続きますね。この日差しでは、とてもじゃないけれど日なたなんて歩いていられません。でも、木陰に入るとすっと涼しい風が吹いて来たりして、生き返った様な気分になるのです。

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ここ真如堂は、既にツクツクボウシが鳴き始めていました。夏真っ盛りではありますが、季節は確実に動いているのですね。もう暫くするとツクツクボウシの声ばかりが聞こえる様になり、やがてその声も止んで秋風が立ち始めます。

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まあ、今はまだ暑い!と叫びたくなるばかりですよね。そんな時にはこの色を見ると、涼しいと感じる事が出来ません事?

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三重塔の前では百日紅が咲いていました。この木は結構幹が傷んでいるのですけどね、葉や花を見ていると元気そのものです。今頃はさらに咲き進んで、見頃になりつつある頃ではないでしょうか。

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ところで、大文字を確かめようと東山を見たのですが、時ならぬ紅葉が始まっていました。これって何かと思ったのですが、どうやらコナラやクヌギが集団で枯死している様ですね。調べてみると、日本中で問題となっているらしく、正確には「ナラ類集団枯損」と呼ばれているそうです。

カシノナガキクイムシという昆虫がもたらす菌が原因ではないかと言われていますが、東山一帯で凄い数の木が枯れており、動物や昆虫の生態系にも影響を及ぼさないかと気がかりです。

2010年8月13日 (金)

京都・洛西 蓮2010 ~法金剛院~

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洛西、花園の地にある金剛院は、言わずと知れた花の寺です。特に蓮池とその周囲の鉢植えに咲く蓮が見事な事で知られています。

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ここにも沢山の種類の蓮があるのですが、中でも八重咲きが印象に残ります。元々蓮は花弁が多く、どこから先を八重咲きと言うのかは微妙なところなのですが、私的には見るからにボリューム感のある花を八重咲きと言っています。もし蓮の八重咲きに定義があるのなら、どなたか教えて頂けませんか。

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この花は終わりかけですが、花弁をざっと数えると軽く100枚以上はありそうですね。多いものは3500枚と聞いた事があるのですが、どんな感じになるのでしょうね。

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訪れた時間帯が午後遅くだったので、既に閉じていた花もありました。やはりこの花は朝早くに見に来ないと駄目な様ですね。

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蓮池の花はと言うとこんな感じで、ほとんど咲いていませんでした。これは訪れた時期が悪かったと言うより、梅雨の時期の長雨のせいで今年は生育が悪かったという事らしいです。水の流入が多すぎて、水温が十分に上がらなかったという事の様ですね。

水生植物とは言えども、過剰な水は害になるという事でしょうか。この池一面の花が咲く様に、穏やかな気候が続く事を祈るばかりです。

2010年8月12日 (木)

京都・洛中 蓮2010 ~立本寺~

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町中にある蓮の名所の一つが立本寺ですね。西陣にある日蓮宗の寺で、本堂の前に沢山の鉢植えの蓮がある事で知られます。

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ここも時期外れとなりつつあるせいか、花数は少なかったです。それでもそれなりに楽しめたのはさすがと言えましょうか。

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去年は8月の後半になってから訪れたのですが、既に赤い花は全て終わっていました。私的には一番蓮らしい色と思っていますので、今年はまだ咲いていて良かったです。

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無論、蓮には様々な種類があり、黄色の花までありますよね。この花の様に、ほのかにピンクがかった花もまた美しいと感じます。

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立本寺では花の盗難が相次ぎ、去年は何と鉢ごと盗られたそうですね。何とも罰当たりな事ですが、今年はとうとう監視カメラを取り付けた様です。どこにカメラがあるかまでは判らなかったですが、善意を信じて来たお寺がそこまでしなくてはならなくなったとは、とても悲しい事ですね。

これだけの花を咲かせるには大変な手間が掛かっているはずであり、盗難に遭った時の落胆は相当なものであったものと思われます。それでも公開を止めてしまわないところが宗教者らしいところと言えましょうか。

私は檀家でも無くただの拝観者に過ぎませんが、どうか末永くこの綺麗な花を見せて下さいと願うばかりです。

2010年8月11日 (水)

京都・洛中 蓮2010 ~相国寺~

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7月は週末にイベントが集中したために、蓮を追いかける事があまり出来ていません。そこで8月最初の週末は、遅ればせながら蓮めぐりをしてみる事にしました。

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最初に訪れたのは相国寺です。ここは放生池とその周囲の鉢に蓮が植えられており、様々な種類の花を見る事が出来る様になっています。あまり人に知られていないらしく、いつ行っても静かなのが良いですね。

ただ、周囲が柵に囲われているため、条件次第で柵が写り込んでしまうのが難点です。もっとレンズを柵に近づけられれば良いのですけどね、植え込みがあるのでなかなか上手く行かないのですよ。

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池の中には、蓮と一緒にスイレンも植えられています。わざわざスイレンと表記してあるのは、蓮と混同されやすいからかな。ここならその違いが良く判りそうですね。

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蓮の盛りは7月中旬頃になるのでしょうか、今の時期花数はかなり少なめでした。それでもつぼみは沢山あり、まだ暫くは楽しめそうでしたよ。

2010年8月10日 (火)

京都・洛中 京の七夕 鴨川会場

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京都には七夕のイベントが少ないとぼやいていたのですが、嬉しい事に今年から「京の七夕」が始まる事になりました。市内を南北に流れる鴨川と堀川を天の川に見立て、笹に結んだ短冊に書かれた願いを光の演出と共に夜空に届けるという趣旨なのだそうです。

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イベント会場は鴨川と堀川の2カ所に別れており、まずは鴨川会場から訪れてみる事にしました。ここでは7日と8日については、以前から行われている鴨川納涼とタイアップ行事となっていました。

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メインの行事はほぼ鴨川納涼と同じと言っても良く、七夕飾りがそこかしこに飾られている程度です。来ている人も、あまり七夕を意識していなかったんじゃないかな。

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鴨川納涼は各地の物産を扱うブースがずらりと並び、それぞれ熱心に売り込んでいました。その熱気は素晴らしく、お祭りムードにふさわしいものでしたよ。普段はお目に掛かれない名産品も多く、見て歩くだけで楽しい会場ですね。

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この巨大なきぐるみはイメージキャラクターの「まゆろう」ですね。生糸を採る繭のイメージなのでしょうけど、何ともユーモラスで良いですね。ただ、前を見る場所が少ないらしく、とても歩き難くそうでした。中の人が気の毒だったな。

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七夕独自の行事としては、この友禅流しの実演があります。昭和40年代の初め頃まで続いていた友禅流しは、水質悪化の一因であるとして禁止となり、今は工場内の水路で行われています。今回はイベントの一つとして鴨川で復元されたもので、6人の職人さんがその技を見せてくれました。

環境保全が叫ばれる今日においては復活は無理というものなのでしょうけど、何とも絵になる作業ではあり、日常的に見たいという気もします。

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光の演出という部分では、この竹駕籠がメインとなります。中には風鈴が吊されており、りーん、りーんという涼しげな音が鳴り響いていましたよ。この灯りはLEDであり、中には香の匂いのする駕籠もあったらしいのですが、気づかなかったです。

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光の演出という意味では、春の花燈路において円山公園で行われている「竹灯り」が、御祓川にも施されています。場所は先斗町歌舞連場の前なのですが、この日はほとんどテントに隠れてしまっており、あまり目立ってなかったですね。あと、対岸の笹飾りもライトアップされており、銀色の帯が出来ていました。

このイベントは15日まであるのですが、鴨川納涼が終わってしまうとかなり寂しくなるのではないかな。友禅流しは13日と14日にも行われますが、その間は竹灯りと灯篭だけですからね、初日がこれだけ賑やかだと落差が激しすぎるのではないかしらん?まあ初めての試みなので、最初から何もかもは上手く行かないでしょうけど。

あと、歌舞練場で行われている舞妓茶屋も面白そうだったのですが、行列が出来ていたので諦めました。会期中に行けたら良いのだけどな。

次は堀川会場に行ってみようと思っています。光の天の川があるそうなのですが、どんな感じなのでしょうね。

2010年8月 9日 (月)

京都・洛東 六道まいり2010

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お盆にご先祖を迎えるための行事、それが六道まいりです。六道とは東山松原を西に下ったところにある六道の辻の事で、あの世とこの世の境目がある場所とされて来ました。この地には3つの寺があり、この時期はそれぞれ多くの参拝者で賑わいます。

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その一つの六道珍皇寺は臨済宗建仁寺派の寺で、小野篁が来世と現世を行き来していたという井戸がある事で知られます。境内にはその篁の像と彼が仕えていたという閻魔大王の像があり、この時期は普段は閉じられているお堂の扉が開かれています。

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その隣にあるのが迎え鐘ですね。参拝者はこの鐘を二度撞く事で、先祖の霊、お精霊さんを迎える事が出来るとされています。この鐘は以前に特別公開があった時に撞かせてもらった事があるのですが、通常の鐘とは違って綱を引っ張って撞くのですね。この綱は意外と重くて、少し力が要った事を覚えています。

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参拝には順序があって、まず参道にある出店で水塔婆と高野槙を買い求めます。次いで、本堂に行って水塔婆に迎えたい先祖の俗名と戒名を書いて貰います。迎え鐘を撞くのはこの後ですね。そして、水塔婆を線香の煙で清め、地蔵尊宝前に行って高野槙で水塔婆に水を掛けながら回向をし、その場に納めて帰ります。高野槙は家に持ち帰って、お盆の間仏壇に供えておくとされています。納めた水塔婆は、17日に供養して貰える様ですね。

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珍皇寺を出て坂を少し西に下ると西福寺があります。こちらは浄土宗の寺ですが、起源はずっと古く弘法大師が建てた地蔵堂から始まると言われます。嵯峨天皇の后である檀林皇后がこの地蔵堂に深く帰依されたと言われ、息子である正良親王が病に罹った際に病気平癒を祈願したところ、たちまちにして治ったという伝説があるところから、子育て地蔵と呼ばれています。

その皇后が自らの死にあたって描かせたという「壇林皇后九相図絵」がこの寺に伝わっており、この時期に公開されています。それは野辺に捨てられた骸が土に帰るまでの様子を九つの相に分けて描いたもので、美人として知られた皇后も、死んでしまえば見るも無惨な姿に変わってしまう事を示し、色欲に耽る者達への警鐘としたと言われています。

この話自体は創作らしいのですが、絵の迫力は本物でして、この世の無常を感じさせるには十分ですね。写真を撮ってもよさそうでしたが、あまりにも生々しいために自粛しました。

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この寺の迎え鐘はオーソドックスな姿をした小さな鐘ですね。私も撞かせて頂きましたが、澄んだ良い音のする鐘でしたよ。供養はこの鐘の下にある受付に申し出れば良いらしく、その場でして貰える様でした。

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西福寺から南に下ったところにあるのが六波羅蜜寺です。ここでもまた萬灯会として精霊迎えの行事が行われています。

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ここは境内の北側に迎え鐘があり、特に撞く順番は無い様です。この寺で特徴的なのは、大の字の形の灯明台を中心に百八の灯明を灯して供養する「大萬燈点灯供養」ですね。8月8日と10日の午後8時に行われるらしいのですが、大文字の送り火の原型となったとも言われる供養の様子を一度は見てみたいものだと思います。

六道まいりは明日10日までです。市バスなら五条坂か清水道、京阪電車なら清水五条下車が便利ですよ。

2010年8月 8日 (日)

龍馬伝32 ~狙われた龍馬~

「慶応元年6月、吉之助に合うべく京都にやって来た龍馬と慎太郎。しかし、薩摩藩邸に居た吉之助は会ってくれませんでした。仕方なく藩邸を後にする二人。慎太郎は先斗町のなじみの芸妓の所に隠れると言い、龍馬は寺田屋を目指します。」

龍馬と慎太郎が吉之助を追って京都を目指したのは史実にあるとおりです。京都に入ったのが何時なのかは判っていませんが、前後の状況から考えて慶応元年の6月中の事であっただろうと推定されています。

「寺田屋。久しぶりに訪れた龍馬に驚くお登勢。それは新選組の近藤が来ているからでした。一度は帰ろうとした龍馬ですが、お龍が近藤の相手をしている、近藤の目当てはお龍だと聞き、気が変わります。」

「大胆にも近藤の居る部屋の襖を開ける龍馬。彼は薩摩藩士西郷伊三郎と名乗り、吉之助の遠縁に当たると言って近藤の警戒を解きます。酒が足りないと言ってお龍を下がらせます。」

龍馬が寺田屋を定宿にしたのは何時なのかについては元治元年説と慶応元年説があるのですが、この年の9月9日付けで乙女に宛てた手紙には「ふしみ宝来橋寺田や伊助の下に荷物を送ってくれ」と記されており、これが龍馬の書簡における寺田屋の初出である事から慶応元年説を裏付ける資料とされています。また、同じ手紙の中に西郷伊三郎と名乗っているとも書かれており、ドラマはこの事を踏まえて変名を名乗らせているのですね。

「巧みに近藤を持ち上げる龍馬ですが、なぜ薩摩は長州攻めをしぶるのかと聞かれて調子が変わります。なぜ新選組は幕府の言われるままに志士を斬るのか、それではただの飼い犬と変わりないではないかと近藤を責める龍馬。それを聞き、思わず刀を引き寄せる近藤。それより早く、近藤に当て身を食らわせて気絶させた龍馬。」

近藤がお龍に執心していたという説は聞いた事が無く、たぶん創作でしょうね。新選組と寺田屋の関係については、お龍の回顧談の中に出て来る話があります。

近藤は寺田屋を新選組の定宿にしようと狙っていました。たぶん勤皇派が出入りするこの宿を押さえておけば、なにがしかの牽制になると考えていたのでしょう。ところが登勢が言う事を聞かない為、彼女を縛り上げて脅しに掛かりました。この時、お龍が間に入って詫びを入れ、定宿には出来ないが休息に使う分には構わないという事で妥協したのだそうです。(反魂香)

新選組側の記録には無い話だと思いますのでこれがどこまで真実かは判りませんが、新選組との間で何らかの接触があった事だけは確かでしょうね。ただし、龍馬が近藤の相手になったという事はあり得ません。

「酒を持って駆けつけたお龍が見たのは、気を失って倒れている近藤を見下ろしている龍馬でした。亀弥太が斬られた直後だったらこの男を斬り殺していたとつぶやく龍馬。しかし、それでは自分も同じ事になってしまうので、それはしないと自分を諫めます。」

「長崎、亀山社中。一人戻って来た陽之助。彼から吉之助が下関に来なかったと聞き、憤る仲間達。彼らは龍馬が京都に行ったと聞き、その身を案じます。」

「下関。長崎から戻ってきた晋作と俊輔達。歓迎する小五郎ですが、晋作達は武器を買う事が出来なかったと意気消沈しています。そんな彼らを励まし、長州は負ける事はないと檄を飛ばす小五郎。」

「大阪城。第二次長州征伐の準備を着々と進める幕府。」

「土佐。象二郎に命じられたとおりに、楠の数を調べている弥太郎。なぜ自分がこんな事をしているのかと腹を立て、木樵の飼い猿に八つ当たりをしてしまいます。」

「弥太郎の家。象二郎に逆らえない弥太郎を不満に思う弥次郎。しかし、喜勢は象二郎は出世する、今の内に取り入っておくようにという占いを聞いており、むしろ今の状況を喜んでいました。」

「気を失った近藤をそのままに、風呂に入る龍馬。風呂窯を炊くお龍は京都を出てからの龍馬の足取りを聞き、今の仲間という亀山社中の連中に会いたいと言い出します。その時、入浴中の龍馬を覗く怪しい人物が居ました。龍馬に誰何されたその人物は満面の笑顔で風呂場に飛び込んできます。その男とは千葉重太郎でした。」

「龍馬の部屋に案内された重太郎。彼はいきなり江戸に戻ってくれと言い出します。妹の佐那が不憫でたまらず、龍馬を連れ戻しに来たのでした。あまりの事に席をはずすお龍と登勢。しかし、話の中身が気になるお龍は、部屋の外で聞き耳を立てています。」

「佐那の為に江戸に帰ってくれと頭を下げる重太郎。もてあましつつも、うんとは言わない龍馬。自分にはやるべき事があると譲らない龍馬に、今夜はここで寝ると言って諦めない重太郎。」

「気がついて、帳場まで降りてきた近藤。彼はお龍と話す内に、さっきの男が以蔵を逃がした人物だったと気がつきます。既に大阪に向けて立ったと嘘をつく登勢ですが、近藤は聞かずに奥へと入っていきます。」

「重太郎と二人して寝ている龍馬を見つけた近藤。彼は刀を抜いていきなり斬り付けます。寸手のところで交わす龍馬。飛び起きた重太郎は、彼を傷付ける者は自分が許さないと言って刀を抜き、近藤と対峙しました。相手が北辰一刀流の千葉重太郎と聞き、驚きつつも刀を引かない近藤。そこにお龍が飛び込んできました。間に入って刀を納めてくれとたのむお龍。龍馬はそんなお龍を後ろに引かせ、自分が前に出ます。その様子を見て、お龍の気持ちがわかったのでしょうか、近藤は引き上げていきました。」

「龍馬が狙われていると知り、驚く重太郎。こんな状態だから、佐那の下に行く訳には行かないという龍馬。」

この時期に重太郎が龍馬に会いに来たという記録はなく、全くの創作でしょうね。でも、一体何をしに出てきたのだか。龍馬が一人で近藤を相手にするのでは危ないので、助っ人にするためなのかしらん?それとも、今一度活躍の場を作って貰えたという事なのでしょうか。

「翌朝、何かあったら力になると言って江戸に帰っていく重太郎。一人残って朝餉を食べる龍馬の下に、慎太郎が飛び込んできました。吉之助が会うと言って来たのです。」

「薩摩藩、京都藩邸。座敷で待つ龍馬と慎太郎の背後に現れ、廊下で土下座をして謝る西郷。その彼に、なぜ下関に来なかったのかと理由を尋ねる龍馬。船に幕府の隠密が乗っていて、一人は捉えたもののもう一人には逃げられてしまった、自分たちの動きが幕府に知られてしまったために、長州との同盟を諦めたのだと説明する吉之助。しかし、その後の幕府の様子を見ていると、まだ何も気づいていない様子だと安堵したとも言います。」

やっぱり船から隠密が逃げ出したと言ってますね。海の上なのに、一体どうやって逃げ出したと言うのでしょう?当時はまだ沿岸航法だったから、海に飛び込んで岸辺まで泳ぎ着いたという設定なのでしょうか。それにしても、不自然に過ぎますよね。

薩長同盟の動きについては、幕府はかなり正確に把握していた様子です。当時の密偵網はすさまじく、龍馬のすぐ身近な場所にも潜んでおり、その行動は逐一把握されていました。龍馬が薩長同盟締結の為に動いている事も、実は幕府に知られていたのですね。

「それならば、今からでも下関に行って欲しいという龍馬ですが、もう遅い、小五郎は激怒しているだろうし、今更同盟を結ぶ事など出来はしないと諦め口調の吉之助。それならば手みやげが要る、軍艦と銃を薩摩が買って長州に贈れば良いと提案する龍馬。その手筈は亀山社中が整えると売り込む事も忘れていません。それでは幕府と戦う事が決定的になってしまうと慎重になる吉之助ですが、ついに長州との同盟に踏み切る事を決意しました。大願が成就した事に涙を流して喜ぶ龍馬と慎太郎。」

薩長同盟の証として薩摩名義での軍艦の購入を言い出したのは、実は桂小五郎でした。龍馬達の執拗な詫びを受け入れて、妥協案を出したのですね。これを龍馬が出したアイデアで、小五郎がそれに同意したのだとする説もあります。

龍馬と慎太郎はこの小五郎案を持って京都に来ていたのでした。何の対策も無く、ただ手ぶらで出て来るはずも無いですよね。

龍馬達が薩摩の了解が得られた事を長州に知らせたのは7月になってからの事でした。ここから亀山社中の活躍が始まるのですが、それは来週に描かれる様ですね。

参考文献:「龍馬 最後の真実」 菊池 明、「坂本龍馬」 松浦 玲、「坂本龍馬 海援隊始末記」 平尾道雄、「龍馬の手紙」宮地佐一郎、「龍馬の夢を叶えた男 岩崎弥太郎」 原口 泉 「坂本龍馬の妻 お龍」鈴木かほる

2010年8月 7日 (土)

龍馬伝 ~寺田屋浜~

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幕末の頃、伏見と言えば港町、京都を支えた舟運の玄関口でした。その面影を今に残すのが寺田屋浜、龍馬ゆかりの船宿として知られる寺田屋前にある掘割です。

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正確に言えば宇治川派流と言うのかな、江戸時代には淀川を行き来する船が伏見の町に入るための水路でした。

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古写真を見るとここに船付き場があり、寺田屋に向かって幅の広い階段になっていました。今は切り立った護岸になっているので寺田屋との繋がりは見えないのですけどね、かつては船宿と一体になった船の乗降場だったのです。

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今はここを十石船が通って行きますね。私はまだ乗った事が無いのですが、たぶんこのあたりが一番風情があるのではないでしょうか。

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その名の元になった寺田屋はと言うと、凄い賑わい振りを見せていました。元々人気のあるスポットではありますが、龍馬伝効果でますます人が集まっている様ですね。

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その割に、こっちの浜辺の方には人気がないのが寂しいですね。せっかく風情のある場所なのですから、少しだけ回り道をしてみるのも面白いですよ。ドラマの様な風景とは少し違うけど、ちょっと想像力を働かせればお龍が働く姿を思い浮かべる事も出来るかも、です。

2010年8月 6日 (金)

京都・洛東 蓮2010 ~大蓮寺~

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東山二条に大蓮寺という浄土宗のお寺があります。江戸時代から安産祈願のご利益がある事で知られ、また観音像を有する事から落陽三十三所観音霊場の第八番札所ともなっています。

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近年では境内に沢山の蓮がある事から、蓮の寺としても知られる様になりました。寺名そのものと言っても良いのですが、蓮は今の御住職が徐々に増やされたものらしく、寺の起源とは直接の関係は無い様ですね。でも、覚えやすくて良いとは言えます。

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小さなお寺ですが、話題が豊富で、なかなか興味深いところですね。

開創は1600年と比較的新しく、深誉上人によって西洞院五条に開かれました。ご本尊は阿弥陀如来で、比叡山の慈覚大師の作とされます。この阿弥陀様の完成間近の時に、山を下りて女人の厄難を救いたいと大師の夢にお告げがあり、女人禁制の比叡山を下りて町中に祀られたとされます。

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これってどこかで聞いた話だと思ったのですが、真如堂のご本尊の事だったのですね。真如堂は応仁の乱で荒廃して以後寺域を転々としており、ご本尊の行方も判らなくなっていました。一方、大蓮寺の開祖である深誉上人は、伏見の荒れ寺でただならぬ阿弥陀如来を見つけて、無住の寺に捨ててはおけないという思いから大蓮寺を建てられました。この阿弥陀如来が、実は行方不明になっていた真如堂のご本尊だったのですね。

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元禄年間になって再興がなった真如堂は、かつてのご本尊の行方を捜し始めました。そして、大蓮寺の阿弥陀如来こそがそれに違いないと突き止めます。幕府を通して真如堂へ帰す様に命じられた大蓮寺では、21日間お経を上げ続けました。すると、不思議な事に阿弥陀仏が二つに分かれたと言うのです。この奇瑞によって大蓮寺と真如堂は、それぞれ一体ずつお守りする事になったのでした。

安産の御利益は、女人救済を祈願したというこの阿弥陀如来像に由来しているのですね。

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さて蓮の花ですが、大蓮寺のブログに依ると7月初旬から中頃にかけてが最盛期だった様です。ただし、雨ばかりで、あまり見頃とは言い難い状況だった様ですね。この日(7月24日)は花数はそれほど多くなく、一番良い時期は過ぎてしまっていたという事らしいですね。ちょっと残念ですが、それでも綺麗な花を見せていただいたので、暑い中を出かけて来ただけの事はありました。

この寺は、場所が分かり難いのが難点ですね。少し入り組んでいる上に、周囲が寺だらけなのですよ。なので、あらかじめ場所を良く確認の上でお出かけ下さい。

2010年8月 5日 (木)

京都・洛東 夏景色2010 ~知恩院~

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今年も知恩院の放生池で睡蓮が咲いています。ここの睡蓮は白一色で、いわゆる羊草なのかな。これから秋口まで咲き続けますが、今年は少し花が少ない気がします。

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この日は本堂から黒門へと抜けてみました。その途中で見つけた白壁と緑のコントラストです。この深い緑の色は、紛れもなく夏の色ですね。

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この城郭を思わす石垣が、黒門口の魅力ですね。徳川氏の軍事拠点として築かれたとも言いますが、幕末の動乱期においても知恩院が争乱に巻き込まれなかったのは、幸いだったと言えるのでしょうか。

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今は黒門自体が修理中であり、その城郭風の落ち着いた姿を見る事が出来ません。でも、出入りは自由なので、中の石垣を見ながら石段を上がる事は出来ます。知恩院の中でも特に落ち着いたこの一角を、静かに歩いてみるのも一興ですよ。

2010年8月 4日 (水)

京都・洛東 夏景色2010 ~二年坂・三年坂~

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三年坂で見つけた夏景色です。

夏の花と言えば朝顔ですね。ここ三年坂では鉢植えの朝顔が咲いていました。そして、もう一つの夏らしさを感じるアイテムが「氷」の暖簾ですね。こうして二つが揃うと、いかにも夏という気がします。

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この日は梅雨の晴れ間で、つかの間の夏景色でした。そう言えばセミの初鳴きも聞こえていたな。今は強烈な蝉時雨に包まれている事でしょう。

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三年坂でやたらと元気が良かったのがこのツタですね。この頃は雨ばかり降っていたのがよほど合っていたのでしょうか。

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何となく雰囲気が違うなと思っていたのですが、よく見ると上から下へ伸びているのですね。普通は下から上に伸びるもんじゃないかしらん?もしかしたら上には伸びる余地が無くて、仕方なしに下に伸びて来たのかな。

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三年坂を降りてきました。この通りでいつも気になるのが坂口さんのこの路地ですね。ちょっと薄暗くて良い雰囲気なのですが、写真に撮るとぶれてばかりなのですね。そんな中で、今回は珍しくまともに撮れた一枚です。

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二年坂まで来ると、大分日が傾いて来ました。でも、夏の夕暮れはここからが長いのですよね。もっと山手だとヒグラシが聞こえてくるのですが、二年坂では無理かな。

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石畳に打ち水も夏の景色と言えるのかな。気持ち程度ではありますが、冷んやりとした空気が流れるのですよね。夏を快適に過ごすために先人が残してくれた嬉しい知恵ですね。

2010年8月 3日 (火)

京都・洛東 夏景色2010 ~清水寺~

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祇園祭の記事に追われてアップが遅れましたが、7月に撮っておいた夏景色をお届けします。

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この写真を撮ったのは7月の初め頃だったのですが、今から見るとまだ涼しげに感じますね。この時は本格的な夏が来たと思っていたのですが。

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それでも光は夏そのものですね。コントラストがとても高く、緑も一層深く感じます。

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清水寺は、あちこちで修繕工事が進められていますが、今は朝倉堂が工事中になっています。ですので、この角度の写真は全く絵になりませんね。ただ、こんな時もあったんだという記録の意味はあるかなという気はします。

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木々の緑は今が一番深いのでしょうね。梅雨が明けた後は一転して好天続きですが、出遅れていた分もたっぷりと光合成が出来ているのかな。

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夏の日差しに緑の傘はありがたいですね。ここにそよ風でも吹いてくれると、一気に生き返った様な気分になります。

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涼しげな木陰だけど、外側には強烈な光が待っている事が判りますね。緑陰とはこういう景色なのかと、実感出来る気がします。

2010年8月 2日 (月)

暑中お見舞い申し上げます

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祇園祭も終わりを告げ、早くも8月を迎えました。今は夏の真っ盛り、厳しい暑さの日々が続きますね。

そんな中、祇園の切り通しを歩いていると、りーん、りーんと涼し気な音が聞こえて来ました。ふと見ると、とある店の玄関先に吊された風鈴が。格子戸に吊りしのぶの風鈴とは、うーん、なんて風流なんだ。

最近の一般家庭では風鈴の音も騒音と捉えられるらしく、あまり見なくなっている様な気がします。でも、この時ばかりは一瞬の涼を感じたのですよ。やはりこの音は良いですよねえ。

ねこづらどきを訪れて下さるみなさんに、暑中見舞いとして一服の涼をお届けします。

音はないですが、画面からりーんと聞こえてくる様な気がしません事?


2010年8月 1日 (日)

龍馬伝31 ~西郷はまだか~

「坂の町長崎を小曽根英四郎の案内で歩く龍馬達。行き着いた先は、とある一軒家でした。彼らは小曽根乾堂の好意でこの家を借り、根拠地とする事が出来たのです。龍馬は陽之助を連れてすぐに長州に旅立つ手筈になっていました。彼は吉之助の説得に成功し、長州と手を組むと言わせたのです。」

「龍馬達が旅立つ前に、自分たちの名前を付けてはどうかと提案する長次郎。いくつか案が出た中で、龍馬が考えた亀山社中とする事に決まりました。」

龍馬が最初に作った結社を一般に亀山社中と呼びますが、これは正式な名称ではなかった様です。文書で確認出来るのは単なる社中という呼び名だけで、それ以上のものは出てきません。後に地名の亀山を付けて呼び習わす様になったらしいですね。

ドラマでは薩摩が完全にスルーされてしまいましが、実際には鹿児島経由で長崎に来たのであり、彼らの世話をしていたのも薩摩藩でした。ちなみに社中の者には月々の手当として3両2分が支払われていたそうですが、その資金の出所も薩摩藩だったそうです。

「陽之助と長崎の坂を下っていく龍馬。彼の胸には、しかし、一抹の不安が宿っていました。吉之助に対して一筆を書いてくれと迫ったのですが、すげなく断られてしまっていたのです。薩摩の藩論は依然として佐幕であり、長州と手を組むというのはあくまで吉之助の一存でしか無かったからでした。また、幕府にも漏れてはいけないという配慮もあったのです。」

「薩摩へ向かう汽船の中で、薩長和解案を小松帯刀に打ち明ける吉之助。あまりの突拍子もなさに驚く帯刀。」

薩長和解が吉之助の一存だったかと言うと、そんなはずは無かったでしょうね。少なくとも家老の小松帯刀は承知していたはずであり、その同志の間では了解事項だったのでしょう。ただ、藩主とその実父の島津久光侯が大の佐幕家であり、これとその周辺の勢力をどう説得、と言うよりどうカモフラージュするかが大きな課題だったのでしょう。

「龍馬達がまず向かったのは、太宰府天満宮 延寿王院でした。そこには京を追われた三条実美達が住まいしており、高杉晋作も居るはずだったのです。彼らが着いた時には既に夕方近くとなっており、延寿院の門は閉じられていました。門を叩いても応答する者はなく、仕方なしに垣根を乗り越えて入っていく陽之助。その気配を察して、密かに出てきた一人の武士。龍馬が陽之助が開けた門を潜ると、いきなり刀が襲ってきました。高杉に会いに来た土佐の龍馬だと名乗ると、ここには居ないと答える武士。彼は急に親しみを込めて龍馬の名を呼び、刀を納めながら中岡慎太郎だと名乗りました。思わぬところで旧知に出会い、驚く龍馬。慎太郎は土佐勤王党の仲間の一人で、龍馬より後に脱藩していたのでした。今は三条卿達の護衛をしていると言う慎太郎。」

龍馬は確かに下関に向かう前に太宰府を訪れています。でも、それは三条達に会う事が主目的ではなく、そこに居るはずの長州藩士と連絡を取るためでした。

また、龍馬は三条卿達にも拝謁していますが、彼ががいかに行動力に富んでいるとは言っても、ドラマの様にいきなり宿所に忍び込む様な真似をするはずもなく、まずはこの地に居る薩摩藩士に連絡を取り、三条卿達の衛士を務める人物に紹介してもらうという手順を踏んでいます。そして、この衛士を通じて長州藩士小田村素太郎という人物に会い、桂小五郎と会う段取りを組んで貰ったのでした。

慎太郎は確かに五卿の護衛を務めていましたが、この時は独自に薩長和解の為に動いており、たぶん薩摩に向かっていた頃ではないかと思われます。それにしてもこのドラマは相変わらず出会いの描き方が荒っぽいですね。土佐勤王党の同志である事は確かで、顔見知りであった事も間違い無いのですが、それならそれでドラマの前半に顔出ししておけば良さそうなものではありませんか。池内蔵太もそうだったけど、予備知識無しにドラマを見ていたとすれば、一体どこに出てきていたのかと混乱してしまうのではないかしらん?

「慎太郎の案内で、三条卿達に拝謁する龍馬と陽之助。日本を救うには幕府を倒すしか無く、その為には薩摩と長州が手を結ぶ他はないと、ここに来た目的を話す龍馬。既に吉之助の了解を得たと言う龍馬に、証拠があるのかと急き込む慎太郎。残念ながら持っていないと言う龍馬の返事を聞き、冷ややかに席を立つ三条達。」

この時期に太宰府に居たのは七卿のうちの五卿で、一人(錦小路頼徳)は病気で亡くなり、もう一人(澤宣嘉)は生野の変で挙兵て破れ、長州に潜伏していました。ドラマでも確かに5人になっていましたね。

「土佐、岩崎家。材木の商売が軌道に乗り、忙しく働く弥太郎。喜勢のお腹には、二人目の子供が宿っていました。そこに後藤象二郎が現れます。彼は土佐藩も外国との商売に乗り出す、その商品として樟脳を選んだと言い、弥太郎に藩内に楠木が何本あるのか調べる様に命じます。気乗りはしないものの、象二郎に強引に頼まれ、引き受けてしまう弥太郎。」

「太宰府。所在なげに庭を歩く龍馬。そこに酒を持ってきた慎太郎。昔なじみ同士で、一杯やろうと言うのです。その頃陽之助は、公家達を相手に面白可笑しく自分たちの航海の話をしていました。巧みな話術で三条達を引き込み、さりげなく龍馬を持ち上げる陽之助。その仕掛けに乗り、龍馬の話も聞きたいと言い出す公家達。」

「太宰府。龍馬と酒を組み交わしつつ、これまで長州の為に東奔西走して来たという中岡。彼の脳裏にあるのは、半平太の無私の志でした。自分もまた日本の事だけを考えていると言う龍馬に、実は同じ事を考えていた、長州を救うには薩摩の手を借りるしか無いと打ち明ける慎太郎。そこに、やったと言って、大喜びで駆けつける陽之助。」

太宰府に陽之助が同行したかと言えば、手持ちの資料では確認出来ません。たぶん創作ではないかと思いますが、否定出来るだけの材料も持っていません。ですので、ここではスルーとさせて頂きます。

「三条達の部屋。三条が書いた桂小五郎宛の手紙を受け取る龍馬。彼は陽之助の話を聞いて、龍馬が嘘も詭弁も使わない真っ直ぐな男だと理解したのでした。感激に震える龍馬に、先に下関へ行け、自分が薩摩に行って吉之助を説得して来ると言う慎太郎。必ず成功させると三条卿に誓う龍馬。」

龍馬が五卿達に感銘を与えたのは事実で、彼に単独での拝謁を許した東久世道禧は、「偉人なり、奇説家なり」とその日記に記しています。この一事をもってしても、当時の龍馬がただ者では無かった事が伺えます。無論、薩摩という背景を持っていた事が大きく作用していた事も確かでしょうけど。

「大阪城。第二次長州征伐に向けて、将軍家茂を出陣させた慶喜。戦は嫌だと渋る家茂に、既に勝ったも同然である、長州に向かって降伏を勧告せよと命ずる慶喜。」

「長崎、引田屋。卓を囲むグラバー、オールト、乾堂、慶の面々。イギリスはもう幕府相手にしか交易はしないのかと聞く乾堂に、どこの藩も金がない、薩摩でさえもと答えるグラバー。日本は幕府のものになるのかと聞く慶に、判らないと答えるグラバーですが、これからも徳川の世は栄えると言う乾堂。」

「引田屋玄関。宴を終えた乾堂と慶が出てきます。幕府が栄えると言った割には亀山に龍馬達を住まわしている、それは世の中が変わると見ているからではないかと乾堂に探りを入れる慶。ただの脱藩浪士に何が出来るかと取り合わない乾堂。その後ろ姿を見送りながら、つばを付けたのは自分の方が先だと舌を出す慶。」

「下関。臨戦態勢となり、訓練に励む諸隊。そこに捕らわれてきた龍馬達。彼らは小船で上陸しようとしていたところを、見とがめられたのでした。取り押さえられながら、小五郎に取り次いで欲しいと頼む龍馬。」

龍馬は先にも書いた様に手順を踏んで長州に入ったのであり、ドラマの様に無茶をした訳ではありません。第一、あの場に小五郎が居なければどうするつもりだったのかと言いたくなりますね。

「知らせを受けてやって来た小五郎。彼は龍馬を認めると、彼は友人であるので縄を解けと命じます。自分たちはこれから芸州口の守りに出るところだ、一緒に行こうと誘う小五郎。それを渋る龍馬を見て、長州の加勢に来たのではないのかといぶかる小五郎。その小五郎に、自分たちがここに来たのは、薩摩と長州を結び付けるためだと打ち明ける龍馬。騒然とする諸隊の兵士達。驚きながらも、龍馬の話を聞く小五郎。吉之助は既に同意していると言う龍馬に薩賊と書いた草鞋の裏を見せ、長州人は皆薩摩を憎んでいると凄む兵士。薩摩は考えを変えたと言う陽之助に、今更自分たちに同情したのかと憤る小五郎。同情ではない、薩摩も幕府に追い込まれている、薩摩と長州が共に生き残るには両藩が手を組んで幕府を倒すしかないとぶち上げる龍馬。吉之助が同意したという証拠はと聞かれ、それは無いと答える龍馬。騒然となる諸隊の兵士達。証拠の代わりにと三条卿の手紙を出す龍馬。それを読み、自分が承知したらどうなるのかと問い掛ける小五郎。今、吉之助は藩論をまとめるべく薩摩に居る、そこには慎太郎が行っており、全てがまとまれば吉之助を下関に連れてくる手筈になっていると説明する龍馬。熟慮の末、西郷殿を迎える支度をする様にと命ずる小五郎。」

当然別室で話をするのかと思いきや、いきなり諸隊の前で話を始めましたね。これって無茶も良いところで、実際にそんな事をすれば、小五郎の制止も効かずに兵士達に殺されてしまっていた事でしょう。長州人が薩賊と言って憎んでいた事は確かであり、小五郎ですらその感情は濃厚でした。ましてや、一般の兵士に政治的な駆け引きが判るはずもなく、うっかり漏らせば命に関わる程に沸騰していました。史実における龍馬もこの長州行きは命がけの事だったと言われます。こういう状況だからこそ薩摩人が表に出るには支障があり、第三の勢力である土佐人が使われたのでしょうね。

もっとも薩長和解の話は対馬藩、そして筑前福岡藩から既に打診されていた事であり、長州側としては特に目新しい事ではありませんでしたので念の為。

「薩摩。吉之助の仕事の結果を待つ慎太郎。しかし、藩主は佐幕家であり、容易な事では藩論はまとまりそうにはありません。その様子にあせりを感じる慎太郎。」

この時の慎太郎と龍馬は行き違いっており、直接は話をしていません。けれども、彼らの目指すところは偶然ながら一致しており、龍馬が長州藩を担当し、慎太郎が薩摩藩を担当するという役割分担になっていました。この二人の動きを繋いだのは土方楠左衛門(久元)という慎太郎の同志の土佐藩士です。楠左衛門は長州藩に渡りを付けるべく慎太郎と分かれて下関に入り、龍馬が滞在している事を知って訪ねて来たのでした。龍馬はこの時初めて慎太郎の動きを知り、彼らの計画に乗る事にしたのです。

「長崎、丸山。芸者を上げて宴会に興じている社中の面々。内蔵太と一緒に踊っているのはお元。彼らは新たに仲間に入った内蔵太の歓迎会を開いていたのでした。懸命に出費を抑えようとする長次郎ですが、仲間達は言う事を聞いてくれません。そんな中、内蔵太に近づくお元。彼女は内蔵太に探りを入れ、薩摩の力があれば長州は負けないと叫ぶ声を聞き出します。」

「長崎奉行所。内蔵太の言葉を奉行に伝えるお元。慎太郎が薩摩に入ったという知らせと合わせて、何か不審な動きがあるのかも知れないといぶかる奉行。」

「長州、下関。龍馬が来てから既に15日が経過しているにも関わらず、何の音沙汰も無い事に苛立つ長州藩士達。内心の焦りを隠せない様子の龍馬。その龍馬に向かって、この仕事を果たせたら薩摩に取り立てて貰えるのかと聞く小五郎。そんな約束はしていない、長州に日本を守ってもらわないとこの国に将来は無い、日本が独立して西洋諸国と肩を並べる事が望みであり、その為には命は惜しまないと答える龍馬。その一方で、自分には家族に外国を見せてやるという約束があり、むやみに死ぬ事は出来ないとも言う龍馬。のんびりとした龍馬の言葉に、思わず笑い出す小五郎。しかし、自分の肩には長州の命運が掛かっている、何時まで待ってれば良いのかと龍馬に問い掛ける小五郎。どうか、自分と吉之助を信じてくれと懇願する龍馬。」

「下関の海に立ち、吉之助が来るのを待つ龍馬。」

「薩摩。あせりを感じながら待つ慎太郎の下に、殿の許しが出たと笑顔でやって来た吉之助。彼は今すぐ下関に向かうと言って、慎太郎の肩を叩くのでした。喜びのあまり、叫び声を上げる慎太郎。」

「下関に向かう汽船。その船内の一室で書類を漁る怪しい二人の男達。その部屋にやって来た吉之助は、一人を取り押さえますが、もう一人には逃げられてしまいます。彼らは幕府の隠密でした。」

この二人が隠密だという事ですが、ずいぶんと乱暴な隠密もあったものですね。あれだけ盛大に書類を荒らせば、誰かが調べたとすぐに判りそうなものではありませんか。第一、ここは船の中なのでしょう?だとしたら逃げ場所があるはずも無く、もっと慎重に行動しそうなものですよね。それに、一人取り逃がしたと言ってましたが、海の上でどうやったて逃げ出すと言うのでしょうね。この事が下関に寄らなかった理由だという事らしいのですが、あまりにも杜撰な設定と言わざるを得ません。

「下関。吉之助を待ちわびる龍馬の下に、薩摩の船がと言って飛んで来た陽之助。その様子がおかしい事をいぶかる龍馬。その後からやって来た慎太郎は、呆然となっている様子です。彼はいきなり地面に突っ伏すと、済まないとあやまり始めました。吉之助が急に下関には寄らずに京都に行くと言い出し、遂には素通りをしてしまったのでした。なぜだと問い詰める龍馬ですが、理由は慎太郎にも判らないのでした。冷たい声で、君を信じた僕が馬鹿だった、西郷にはそれしきの志しか無かったのだと吐き捨てる小五郎。待ってくれと追いすがる龍馬に刀を向け、二度と目の前に現れるなと突き放す小五郎。なぜだと叫ぶ陽之助。どうしてだがじゃと泣き叫び、仰向けにひっくり返った慎太郎。苦渋の色を隠せない龍馬。」

吉之助が慎太郎との約束を反故にして、下関に寄らずに京都へ行ってしまったというのは史実にある通りです。しかしその理由は良く判っておらず、幕末史における謎の一つですね。一説には、龍馬が依頼されていたのは長州藩に渡りを付ける程度の事で、一気に頂上会議まで進める予定は無かったのだと言います。それが慎太郎の動きによって一気に加速してしまい、準備が整いきらないうちに首脳会談を行う羽目になり、それを嫌って約束をすっぽかしたのではないかと言われます。まあこの場合は、吉之助にすれば約束をした覚えもないという事になるのでしょうけど。

哀れなのは龍馬達でした。激怒する小五郎に対してひたすら謝罪するしか無く、暫くは打つ手も無いという状態でした。しかし、ここから状況を立て直していくのが龍馬の真骨頂となるのですが、それは来週に描かれる事になる様ですね。

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