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2010年5月

2010年5月31日 (月)

京都・洛東 青もみじ2010 ~高台寺塔頭・圓徳院~

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高台寺の塔頭、圓徳院の青もみじです。

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圓徳院には庭が二つあって、玄関に近い方が南庭となります。平成6年に整備された庭ですが、16年の月日を経て、庭木も随分と馴染んでいます。

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その南庭にある梅です。この木の緑もまた美しいですね。沢山の実が成っていましたが、まだ大きくなる途中といった感じで、熟するのはもう少し先の様でした。まさに梅雨に入ってからなのでしょう。

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こちらは名勝に指定されている北庭です。桃山時代の作という、豪放な石組みが素晴らしい。

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同じ緑と言っても、もみじ、苔、シダ、下草と、それぞれ微妙に違う色彩の組み合わせが、石組みの中で見事に調和しています。

とても素敵な庭を眺めながら、上質な青もみじを堪能させて貰ったひとときでした。

2010年5月30日 (日)

龍馬伝22 ~龍という女~

「文久3年9月末、土佐で投獄される半平太。攘夷派の残党狩りが始まった京都。仲間達の事を案じながらも、海軍塾での修行に励む龍馬。」

半平太が捕らえられたのは、前回に書いた通り文久3年9月21日の事でした。彼が入れられたのは南会所の一角にあった揚り屋(牢屋)で、藁葺き屋根の粗末な建物だったと言われます。その中に頑丈な格子で囲われた部屋があり、昼なお暗く、特に冬になると昼近くになってやっと夜明け程度に明るくなるといった有様でした。

「大阪、勝塾。修行を続ける龍馬達の下に、土佐藩の目付がやって来ました。居丈高に、土佐藩士に対して帰国命令を伝える目付達。ここは幕府公認の塾である、土佐藩の役人が威張る場所ではないと言い返す佐藤塾頭。その声に応じて、役人達を追い返す塾生達。命令に違反した場合、その場で脱藩したとみなすと言い捨てていく目付。仲間の友情に感激する龍馬達。」

これも前回に書きましたが、龍馬が何時、どこで帰国命令を聞いたのかは判っていません。しかし、ドラマの様に、土佐藩の目付が居丈高に勝塾に乗り込んでくる様な事は無かったでしょう。仮にも幕府の直参の屋敷に、土佐藩士が問答無用で押しかける事など出来たはずも無いからです。これって、演出としてもちょっとどうなのでしょう。

「乙女から、龍馬の身の上を案じる手紙と5両の金を受け取る龍馬。土佐では坂本家の人々が、龍馬には志を遂げるまで無事に居て欲しいと願っています。」

これは前回に書いた通り史実としてあります。ただし、その嘆願書を届け出たのは他ならぬ龍馬自身、場所は大阪ではなく江戸の藩邸でした。

「京都。恐ろしく強い何者かに追われる以蔵。彼は傷付きながら、なつの下へと逃げ込みます。しかし、彼女の所にも奉行所から手が回っており、怯えるなつを見て以蔵は夜の闇の中へと去って行きます。」

「大阪、大和屋。自分たちの行く末を案じる亀弥太達。麟太郎が帰国猶予を願い出てくれていると伝える龍馬。」

「長次郞の事を心配する徳。頼りないと言われ、機嫌を損ねる長次郞。そこに、京都からなつが龍馬を訪ねてきました。以蔵を追い出してしまった、彼を助けて欲しいと頼むなつ。引き受けたと飛び出していく龍馬。」

龍馬は以蔵の事を気にしてはいたでしょうけれども、実際に探して歩いたという事実は無い様です。無論、なつは架空の存在ですね。

「土佐、象二郎の取り調べを受ける半平太。東洋暗殺の容疑者として、事件の前後に土佐から姿を消した龍馬、惣之丞、那須真吾らの名前を挙げる象二郎。あくまで知らないと突っぱねる半平太。そして、土佐勤皇党は容堂候への忠義を尽くすために働いて来たという主張を繰り返します。」

半平太への尋問は、ドラマよりもずっと遅く、逮捕の8ヶ月後に始まっています。この間、半平太は牢番を良く手なずけ、富子からの差し入れなどによって、それほど不自由のない生活を送っていました。彼の場合、酒やたばこまで許されていた様ですね。また、絵を描く事も自由で、便宜を図ってくれる牢番に対して礼として与えたりもしていた様です。一時期は猫まで飼っていたとか。

半平太に対する最初の尋問が行われたのは元治元年5月26日の事で、尋問を行ったのは当時の大目付などで、象二郎の登場はこの年の7月9日に大目付に任命されてからの事になります。

「半平太は頑として口を割らないという報告を聞く容堂候。そして、自分に対して武士としての忠義を尽くしてきたという半平太の言葉を聞き、土佐で武士と言えば上士の事である、下士などものの数ではないと吐き捨てます。」

「半平太の家。富を訪ねて乙女が来ています。半平太が捕まったのは何かの間違いだと言って、富を励ます乙女。」

富子は半平太が捕らえられて以後、一日も欠かさずに食事の差し入れを続けていました。半平太はこれに感謝する一方で、味や分量の事で注文を付けたりもしていた様です。獄中の半平太は、意外な程余裕のある生活を送っていたのですね。

「土佐藩の牢。物思いに耽る半平太の耳に、拷問の音と叫び声が聞こえてきます。法により上士は拷問にかけられない、しかし、下士には何をしても良いと嘯く象二郎。半平太の代わりに島村衛吉にしゃべって貰う。以蔵が捕まったらあいつはしゃべるか、以蔵を追っているのは今や土佐だけではないと言い捨てる象二郎。」

以蔵が幕府からも追われる様になったのは、直接には酒の上での刃傷沙汰といった詰まらない出来事だった様です。この頃の以蔵は酒浸りで、あちこちから借金を重ねるといった破滅的なものになっていました。せっかく龍馬が世話をした麟太郎の警護も辞めており、彼を庇う者はもうどこにも居ないという状況でした。

「江戸。嵩に掛かって新たな要求を突きつける外国。それに対抗する術を失った幕府。」

「土佐、材木を売り歩く弥太郎。その弥太郎に、半平太が捕まり大変な事になりかけていると言うのに、何をのんびりとしているのかと突っかかる乙女。自分は半平太には何の同情も持たない。そもそも、収二郎に切腹を命じたのは容堂候。その容堂候に忠義を尽くしていると言うが、当の本人は半平太を嫌っている。その相手から忠義と言われれば言われる程、ますます憎しみが募るものだと言い捨てていく弥太郎。」

「京都。以蔵を探す龍馬。しかし、手かがりは見つかりません。」

「とある寺。床下に潜む以蔵ですが、僧から声を掛けられただけで走って逃げ出します。」

「扇岩という、勤皇派の志士を匿う宿屋を訪ねた龍馬。そこで、以蔵が依然として京都を逃げ回っているという噂を聞きます。主人に誘われるままに、宿に泊まった龍馬。」

「その夜、女が騒ぐ声を聞く龍馬。部屋を出てみると、一人の女中が暴れ、主人夫婦に取り押さえられている所でした。女の名は龍と言い、思わず自分と同じ名だと叫ぶ龍馬。龍馬が暴れている訳を聞くと、5両の借金の形として妹が連れて行かれた、力づくでも取り返してくると言うお龍。借金の形と言うのなら、5両が無ければ無理だと諭す龍馬ですが、お龍は主人夫婦を振り切り、包丁を持って飛びだそうとします。そんなお龍を取り押さえ、乙女から貰った5両を与える龍馬。彼は未だに家族から援助を貰っている事が心苦しい、その金をお龍に渡すから、生きた金にしてくれと言って聞かせます。」

お龍が遂に登場しましたね。彼女こそが龍馬の本命、これから先ずっと運命を共にする様になります。彼女が扇岩という旅館で働いていたのは、彼女自身の懐古談にあるとおりなのですが、龍馬との出会いはかなり違っています。それは番組最後の龍馬伝紀行で少し触れられていた様に、大仏裏の隠れ家においての事でした。この詳細については以前に記事にしていますので、そちらを参照して頂くようにお願いします。

また、彼女が妹を取り返したというのも懐古談にあるとおりなのですが、借金の形に取られたというのではなく、人に騙されて連れて行かれたと言うのが真相の様です。この事についても以前に書いていますので、よろしければご覧下さい。

「土佐。衛吉に対する過酷な拷問が行われています。その叫び声を聞き、止めてくれと叫ぶ半平太。冷酷に無視する象二郎。」

「翌日、再び以蔵を探す龍馬。彼は、新選組が誰かを追っている、また人が殺されるのかという声を聞きます。以蔵の似顔絵を見せ、追われているのが彼らしいと知る龍馬。」

「高知城。もみじを愛でながら酒を飲む容堂候。」

「衛吉の叫び声を聞き、泣き叫ぶ半平太。」

「京都。以蔵の名を叫びながら、路地を走る龍馬。」

「新選組に追われる以蔵。」

「以蔵を探す龍馬。突然、脇の家の障子が開き、以蔵が飛び出してきました。彼は、相手が龍馬とは気付かず、刀を抜いて斬り掛かります。その以蔵を取り抑え、自分は龍馬だ、助けに来たと言い聞かせる龍馬。嬉しさに震えながら、人斬りをしたのは半平太に褒められたかったからだ、半平太の所に帰りたいと泣き叫ぶ以蔵。その時、新選組が現れます。自分が楯になり、以蔵を逃がす龍馬。」

「沖田と土方に以蔵を追わせ、自分は龍馬と対峙する近藤。小競り合いが続く中、以蔵が居たという声を聞く二人。御前は次だと言い捨て、以蔵の後を追う近藤。」

新選組は、危惧していた様に、どうやら殺人集団として描かれるみたいですね。これまでにも何度か書いているのですが、新選組はあくまで警察組織であり、殺人ではなく犯人を逮捕する事を目的としていました。以蔵を襲ったシーンの様に、何も言わずに問答無用で斬り掛かるなどという事は決してありません。せっかく6年前の「新選組!」でイメージを回復したと言うのに、またこれかという感じですね。まあ、龍馬の側から見れば、こんな具合に見えたと言えなくもないと思いますが、それにしても酷いなあ。

来週は池田屋事件が出てくる様ですが、何だかあまり見たくないような気がします。

「路地を抜けた途端、奉行所の人数に囲まれた以蔵。彼は刀を振るって逃げようとしますが、多勢に無勢で遂に捕まってしまいます。」

以蔵が捕まったのはドラマよりもずっと後、元治元年6月頃の事と言われます。この時龍馬が助けようとした事実はありません。龍馬は多分江戸に行っていたのではないかな。

「扇岩。お龍が夕餉の膳を龍馬の部屋に運んできました。お龍は借金の形は付いたと礼を言いながらも、あの5両は必ず返すと意地を張るお龍。それには答えず、何も喉を通らないから膳を下げてくれと頼む龍馬。彼はまたしても仲間を助けられなかったと嘆いていたのでした。」

参考文献:「龍馬 最後の真実」 菊池 明、「坂本龍馬」 松浦 玲、「坂本龍馬 海援隊始末記」 平尾道雄、「龍馬の手紙」宮地佐一郎、「「武市半平太伝」 松岡 司 「龍馬の夢を叶えた男 岩崎弥太郎」 原口 泉

2010年5月29日 (土)

山元麺蔵 旬野菜天ざるうどん

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岡崎にある山元麺蔵さん、ここに来るのは二回目です。この日着いたのは午前11時25分頃、まだ店の前に行列が出来ていなかったので、寄ってみる事にしました。

順番は二人待ちだったのですが、開店後に一斉に客が入った直後だったのかな、結構待たされて席に案内されたのは11時45分頃でした。時間に余裕のある時でないと、ちょっと寄りにくい店ですね。

前回は暖かい汁うどんだったので、今回はざるうどんにしてみる事に。ごぼう天が人気らしいけど、メニューを見ている時に目の前を通っていった野菜てんぷらが美味しそうだったので、そちらを選んでみました。

てんぷらは、シシトウ、かぼちゃ、大葉、なす、ニンジン、それにマイタケだったかな。しゃきっとした良い揚がり具合で、とても美味しかったですよ。

で、うどんの方はと言うと、汁うどんとは違って随分と腰のあるうどんでした。メニューによって、違ううどんを出しているのかな。それにしても、やたらと長いのですね。とてもじゃないけど、箸で持ち上げるのは無理でしたよ。後で調べたら、はさみを貸してくれるそうですね。次に行く事があれは借りようかな。

つゆの方は、濃すぎず、薄すぎず、うどんにぴったりの美味でした。ただ、最後の方は薄味になってしまったのは、仕方が無いのかな。

ボリュームも十分で、これで890円なら納得です。

これも後から気付いたのですが、「ざるうどん」と「つけ麺」とは違う様ですね。うーん、知らなかったよ。どう違うのかは、食べてみるよりありますまい。

また11時頃に岡崎に行く事があったら、寄ってみる事にします。店を出る時には長蛇の列になってましたからね、開店直後でなければ大変なんですよ、はい。


2010年5月28日 (金)

京都・洛東 青もみじ2010 ~八坂神社~

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高台寺から八坂神社へとやって来ました。この日は大安という訳でもなかったけれど数組の結婚式があり、境内は華やいだ雰囲気で溢れていましたよ。

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この神社の境内も緑が多いですね。常緑樹も多いけれど、今の季節はやはり青もみじが丹塗りの社殿に映えます。

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この神社で、独特の雰囲気を持っているのがこの大神宮ですね。伊勢神宮と同じく内宮と外宮を持ち、二見岩まであるという末社ですが、昼なお暗く、幽玄味すら感じます。

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その大神宮の前にあるのが力水。祇園神水とも言って、この水を呑むと美人になれるとも言われます。その手水鉢の下は苔に覆われており、綺麗な模様を描いていましたよ。これも新緑と言って良いのかな。

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本殿の西側にある細長い社殿は、日本中の神様が勧進されて祀られています。あまりここに参る人は見かけませんが、実はとても有り難い一角なのですよ。

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その社を蔽う青もみじの陰から、南楼門を撮ってみました。空が晴れていれば、もう少し涼しげな感じが出せたかな。

そろそろ、境内では祇園囃子の稽古が始まる頃ですね。黄昏時にここを訪れると、運が良ければ鐘や太鼓の音が聞こえてきますよ。祇園祭の始まりも近いと教えてくれる季節の音です。

2010年5月27日 (木)

京都・洛東 新緑2010 ~高台寺界隈~

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高台寺界隈で見つけた新緑です。

まずは、高台寺公園から見た石塀小路の入り口です。この角度の写真は、結構あちこちで見かける様になりましたね。もはや定番と言っても良いのかな。

丁度桜の葉が綺麗に茂っていたので、縁取りにあしらってみました。新緑の季節らしさは出ていますか。

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電線が消えてすっきりとした二年坂です。以前なら空の部分に無数の線が張り巡らされていたのですけどね、良い感じに変わりました。

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最近は看板の替わりに和傘を飾る店が増えている様です。これで、二年坂の北と南に揃った事になりますね。写真を撮る側としても、ポイントが増えて嬉しいな。

こうしてみると、二年坂も結構新緑が映える場所と言えそうですね。


2010年5月26日 (水)

京都・洛東 杜若2010 ~円山公園 5.22~

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平成22年5月22日の円山公園です。この日は杜若が見頃終盤を迎えていました。

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円山公園の杜若は、ひようたん池の東側、水路沿いに少し奥に行ったところで咲いています。あまり有名ではありませんが、随分と昔から有る群落で、盛りの時には結構な数の花が咲きますよ。

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この日咲いていたのは3番花で、それも盛りは少し過ぎていましたね。でも、花そのものはやはり綺麗です。

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ひょうたん池のほとりで咲いている園芸品種の方は、やはり盛りを過ぎていて寂しい状態になっていました。ここの花も含めて、先週の初めあたりが見頃だったのかも知れません。

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近くにある坂本龍馬と中岡慎太郎の像は、新緑に包まれる様にして立っていました。以前から人気のある像ではありますが、今年は龍馬伝の影響でしょう、修学旅行生の姿が目立ちますね。

でも、中岡慎太郎を知らない子が多い様です。龍馬の隣は誰だろうという声が聞こえますからね。まだドラマに登場していないからかな。これから先、また中岡の認知度が上がっていくと良いですね。

2010年5月25日 (火)

京都・洛東 睡蓮2010 ~平安神宮 5.22~

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平成22年5月22日の平安神宮の睡蓮です。この日は西神苑、中神苑共に咲き揃って来ていました。

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冒頭の写真が西神苑、そしてこちらが中神苑です。飛び石の臥龍橋がある事で知られますね。

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睡蓮にはいくつか種類がありますが、中でもこの赤い花が印象的かな。

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臥龍橋を渡るとすぐ足下に花が咲いていて、真上から覗き込む事が出来ます。こうして飛び石の上から写真を撮るのが人気でして、橋が渋滞する事もしばしば起こりますね。

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こちらは、ピンクの睡蓮。この花も美しいですね。主として、池の東の方で咲いています。

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西神苑では、コウホネも咲いていました。ひっそりとした咲き方で、相変わらず気が付いている人は居なかったですね。

神苑の睡蓮とコウホネはこれからが見頃、さすがに真夏は花も少なくなるでしょうけど、それでも秋までずっと咲き続けますよ。

2010年5月24日 (月)

京都・洛東 杜若2010 ~平安神宮~

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平成22年5月22日の平安神宮です。この日は中神苑にある杜若が、最後の見頃を迎えていました。

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平安神宮の杜若は5月初めに咲き出した様ですね。杜若は3度咲くと聞きますが、たぶん今咲いているのが3番花なのでしょう。

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3番花でも、美しさには変わりはありませんね。うさぎの耳の様に立った花びらが特徴的な、綺麗な花です。

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でも、群落として見ると花がらが目立ち、美しさを損なっていますね。このあたりが3番花の難点かな。

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杜若の園芸品種である折鶴は、なぜか例年より花が少なめでした。咲いていないと言うより、株そのものが減っている感じでしたね。どうしちゃったのだろう?

平安神宮の杜若は、そろそろ見頃も終わるものと思われます。次の花菖蒲にはまだ間があるし、ちょっとした端境期に入りそうですね。でも、明日アップする睡蓮は見事ですので、これから訪れても見所はあります。新緑もまた綺麗でしたしよ。

2010年5月23日 (日)

龍馬伝21 ~故郷の友よ~

「加尾からの収二郎の切腹を伝える手紙を読み、悲憤に暮れる龍馬。その一方で、揺れる気持ちを押し隠して勝塾で訓練に励みます。」

「文久3年7月。麟太郎の下を訪れている龍馬。彼は攘夷派が勢いを失っている情勢について、説明を求めています。それは御所に居る天皇次第だと答える麟太郎。長州が異国に敗れて勢いを失い、それに代わって戦争を嫌う薩摩が食い込んでいるのだという事でした。」

「さらに、半平太はどうなると問い重ねる龍馬ですが、今はそれどころではないはずと麟太郎にたしなめられます。」

文久3年7月の政治情勢は、ドラマにあったものとはかなり異なっています。

まずは薩摩藩ですが、文久3年5月20日に起こった猿が辻の変(攘夷派の有力公卿の一人であった姉小路公知が暗殺された事件)について、薩摩藩の田中新兵衛が犯人ではないかと疑われました。この為に薩摩藩は御所の警護役を解かれ、朝廷への出入りを禁止されてしまいます。ですので、薩摩藩が朝廷に食い込んで来たが為に攘夷派が退潮したという事実はありません。また、薩摩藩が攘夷の旗を下ろしたのは7月2日から4日に掛けて行われた薩英戦争の結果であり、この時期に戦争はしないと言って朝廷に食い込んだという事実は無いはずです。

まだこの頃は長州藩を代表とする攘夷派が実権を握っており、天皇自らが大和へ赴いて祖先の霊に攘夷親征を誓うという大和行幸が実現寸前にまて行っていました。そして、それに呼応して大和で吉村寅太郎らが率いる天誅組が挙兵し、一気に倒幕に向かうというシナリオすら書かれている様な情勢でした。

これに対する薩摩藩の巻き返しは、全て水面下で行われていたようです。彼等は本来の敵であったはずの会津藩と結ぶ事で長州藩を追い落とし、朝廷での実権を奪い返すという画策をしていたのでした。今から見れば攘夷派の退潮は始まっていたと判るのですが、それはまだ表面には現れておらず、またその帰趨もどうなるかは判らないというのが文久3年7月という時期でした。

「土佐、坂本家。富が訪ねて来ています。半平太の様子を心配する坂本家の女達。そこに弥太郎がやって来ました。彼は富が半平太の妻と知ると、いっそ武士を止め、自分と一緒に材木を売れと伝えてくれと言い出します。何も言わずに帰る富と、弥太郎にあきれかえる坂本家の面々。」

弥太郎の事は書くまでも無く、全て創作ですね。ただし、半平太の心情を語る上では欠かせない設定だった様です。

「半平太の家。雀の絵を描いている半平太。彼は京にいるはずの以蔵に思いを馳せます。」

「京都。なつの店。以蔵を探して龍馬が訪れました。しかし、以蔵はここにも現れていません。」

「京の町を逃げ回る以蔵。」

この頃の以蔵はどうしていたのでしょうね。恐らくは居場所を失い、それこそドラマの様に逃げ回っていたものと思われます。人斬りとして名を馳せた後に待っていたのは、悲惨な運命だったのですね。ちなみに、この頃の彼は土井鉄三と名を変えています。後に悲劇として記憶される事になる名前ですね。

「天皇の御前会議。攘夷派の公家達に戦争は望まないという天皇の意思が伝えられ、彼等は失脚しました。」

「文久3年8月18日、境町御門を守る薩摩藩兵と対峙する長州藩兵。あわや発砲という時、必死に止めに入る桂小五郎。雨の中、長州に落ちていく七卿。」

8.18の政変は、三条実美ら七卿の面前で行われたのではなく、もっと秘密裏に行われました。絵を描いたのは薩摩藩、朝廷を動かしたのは会津藩でした。彼等は七卿ら攘夷派の公家に気付かれない様に公武合体派の公家を集め、8月18日の深夜に御前会議を開き、大和行幸の延期と七卿達の禁足を決めたのです。これに先立ち、薩摩藩、会津藩らが御所の諸門の守備を固めており、堺町御門の守備を命じられていた長州藩については、この任務を解くという決定が下されています。そして、全ての準備が整った時に、合図の号砲が轟いたのでした。

驚いた七卿は、情報を探ろうと鷹司卿の屋敷に集まったのですが、これが禁足を命じた勅命に違反した事になり、彼等は解職の上追放の身となったのです。そして、長州藩は急ぎ堺町御門へと向かったのですが、既に彼等の任務は解かれており、変わって御門を守っていたのは薩摩藩と会津藩でした。

長州藩と薩摩、会津藩との一触即発のにらみ合いが夕方まで続いたのですが、七卿が鷹司卿邸を出る事を決めた事をきっかけに妙法院にまで撤退し、翌日長州に向けて都落ちをして行ったのでした。ちなみに、バックに流れていたのは久坂玄瑞が即興で作ったという詩ですね。

また、天皇が戦いを望まないと言ったのは先に触れた攘夷親征の事で、自らが先頭に立って闘う事はしたくないという意味のはずです。天皇はあくまで攘夷主義者であり、戦争を望まない平和主義者ではありませんでした。

「土佐、攘夷派の失脚を喜ぶ容堂候。彼は藩外に居る土佐勤皇党員に対して帰国命令を出します。半平太の下にもその知らせが入りました。」

容堂候が帰国命令を出したのは確かなのですが、それが何時なのかは明確にはなっていない様です。龍馬について言えば、11月ごろではなかったかと推測されていますが、はっきりした記録は無い様です。

「江戸城。御殿の廊下ですれ違い様、板倉候から、勝塾には攘夷派が多数居たはず、早く追い出した方が身のためだと言われた麟太郎。」

「土佐、半平太の道場。土佐に帰って来た同志と国元に残っていた同志を引き合わせ、更なる攘夷を誓う半平太。」

半平太に関して言えば、土佐勤皇党員を率いての集団脱走という方向もあったはずです。あるいは、藩内に蟠踞しての抵抗などという選択肢もあったはずですが、結局は何もしないままに終わります。この党が容堂候への忠誠を誓うという根本理念は、半端なものでは無かったという事なのでしょうか。それにしても、なんと悲しい片思いだった事でしょうね。

「大阪、勝塾。麟太郎が塾生を集め、帰国命令が出ても聞く必要はない、今は日本のために海軍を作る事が何よりも大事だと言い聞かせます。」

龍馬達に帰国命令が出た時、麟太郎は容堂候に帰国猶予の嘆願書を出しています。この嘆願書を藩に届け出たのは、他ならぬ龍馬自身だった様ですね。これは江戸藩邸での事であり、12月10日の事として記録されています。この時、龍馬は江戸に居たのですね。しかし、この嘆願書が聞き入れられる事はなく、龍馬は自動的に二度目の脱藩をする事になってしまいます。

「かつての仲間が帰国した聞き、動揺する土佐の面々。」

「迷いを断ち切るがの如く、刀を振るう龍馬。そこに長次郞が現れます。半平太を襲おうとする理不尽に憤る龍馬に、日本のために仕事がしたい、土佐には帰らないと伝える長次郞。理屈は判ってもどうしても割り切れない龍馬。」

「土佐。材木を売り歩いている弥太郎。自分で彫った仏様をおまけに付けて売り込もうとしますが、相手にされません。もう駄目だと思った時、ふとひらめきます。修繕は自分がする、材木代だけを貰えば良いと再度売り込む弥太郎。」

「高知城を見ながら歩く半平太。そこにやって来た弥太郎。彼は半平太に、自分は刀よりもそろばんを信じている、商売で出世すると宣言します。御前の様なやつも居て良いと認める半平太。やっと材木が売れた、おまけとは人の気持ちだと気が付いたと弥太郎。さらに、収二郎を切腹させたのは大殿様ではないか、理不尽とは思わないのか、正直に生きてみれば良いのではないかと説きます。しかし、自分は正直に生きている、殿様に忠義を尽くすのは武士の道だと聞く耳を持たない半平太。勝手にしろと毒づく弥太郎。」

弥太郎が半平太に会ったという事実は無いでしょう。ましてや、一緒に商売人になろうと言うはずもありません。しかし、見ている側としては、弥太郎の言い分は正しく、そのとおりに半平太が動いてくれたらと思わずにはいられませんでした。半平太は、あくまで忠義を貫こうとする相手から命を狙われるのですからね、この上なく哀れではないですか。

「京都。麟太郎に向かって、以蔵を探すために暇が欲しいと頼む龍馬。もうすぐ、京の町は修羅場になる、以蔵を助けるなど無理だと諭す麟太郎。それなら、土佐に帰して欲しいと食い下がる龍馬。半平太が危機に瀕している時に、自分だけがと言い募りますが、土佐に帰っても何も出来ない、大阪に残れと厳命する麟太郎。可愛い弟子を殺されてたまるかと叫ぶ麟太郎に泣き崩れる龍馬。」

どうもこのドラマの龍馬は軟弱で困ります。等身大の若者として龍馬を描くというコンセプトがあるからなのでしょうけど、いい加減に自立してくれないかしらん。

この頃の龍馬の心情を伝えるものとして、8.18の政変の直後に書いた手紙があります。そこには、坂本家の将来の為に兄から養子になれと求められているが、将来は海外に修行に出たいと考えている事、そして今は江戸で攘夷戦争が始まるかも知れず、勝先生からすぐに来いと呼ばれており、養子になどとてもなっていられないと記されています。そこには明確なビジョンの下に動いている龍馬の姿があり、また戦争も厭わないという強い意思も見て取れます。かつての仲間を思わなかったとは言いませんが、ドラマの龍馬はちょっと情けないですね。

ちなみに江戸での攘夷戦争とは、朝廷からの催促に困り果てた幕府が横浜鎖港の談判を諸外国との間で始めようとし、この行方によっては戦争になりかねないという情勢にあった事を指します。実際にはそこまでには至りませんでしたが、龍馬が単なる平和主義者では無い事がここからも窺えます。

「土佐、半平太の家。富と二人で朝餉の膳を囲む半平太。龍馬に思いを馳せる半平太。何もかもが変わってしまったと判ってはいても、自分を信じて付いてきた仲間には泣き言は言えない、これが半平太の本音でした。富から、自分には本当の半平太を見せて欲しいと言われ、これからは富と二人で暮らしていこうと誓います。そこに、藩吏が現れました。容堂候の命で半平太を捕らえに来たのでした。従容として従う半平太。」

半平太が捕らえられたのは9月21日の事で、その使者となったのは武術の達人ばかりの6名でした。剣の達人として知られた半平太の腕を恐れての事でしょうね。彼等が訪れたのが午前9時頃で、それまで半平太は書類の整理に追われていたと言います。彼は自分が捕縛されるとあらかじめ知っており、大事な書類の散逸を防ごうとしていた様ですね。

捕縛の様子はずっと穏やかなもので、使者達は揃って座敷の中に入り、半平太と共に雑談に興じていたと言います。時には笑い声さえ聞こえてきたそうですね。しかし、妻の富は半平太に会わせて貰えず、不安に駆られていた様です。

使者が帰ったのは昼過ぎの事で、半平太も駕籠に乗せられて行きました。富子は遂に半平太に会う事は叶わず、わずかに使者の一人が屏風の端を開けておいてくれたおかけで、夫の見送りが出来たと伝わります。

半平太の罪状は、京都にあった頃の行動に不審な点が数々あるというもので、表面上は捕縛ではなく、お預りでした。ただし、その日の内に牢に移された様ですが。

「次々と捕えられる勤皇党員。」

「京。以蔵を探す龍馬。」

「土佐、材木が全部売れたと喜ぶ弥太郎と岩崎家の人々。」

「京都。裏道を逃げまどう以蔵。龍馬に気付き、駆け寄ろうとした時、新選組の隊士が現れました。龍馬の名を叫びながら、沖田に体当たりを食らわし、逃走する以蔵。後を追う沖田。以蔵の声に気付き、その姿を探す龍馬。」

なんと、新選組が登場して来ましたね。ホームページの人物相関図には無かったので、出てこないのかと思ってましたよ。新選組が以蔵を追いかけたという史実は無いと思いますが、あってもおかしくはないという気はしますね。

ただ、気になるのはその描かれ方で、ただの時代遅れの剣術使い、あるいは恐るべき殺人集団という捉え方にならないかしらん?慶喜公の描かれ方を見ていると、そんな気がしてきますね。私は新選組ファンでもあるので、なんだか嫌な予感がします。

参考文献:「龍馬 最後の真実」 菊池 明、「坂本龍馬」 松浦 玲、「坂本龍馬 海援隊始末記」 平尾道雄、「龍馬の手紙」宮地佐一郎、「「武市半平太伝」 松岡 司 「龍馬の夢を叶えた男 岩崎弥太郎」 原口 泉

2010年5月22日 (土)

京都・洛北 新緑2010 ~上賀茂神社~

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葵祭の当日、上賀茂神社周辺で見つけた新緑です。

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上賀茂神社の新緑と言えば、まずはならの小川沿いのもみじでしょうか。水辺に緑が良く映えていますね。

この日は好天に恵まれたのは良かったのですが、観覧中は目まいがする程の強烈な日差しでした。そこで、観覧の合間にはここへ来て、涼しい川風に当たりながらほてった身体を冷やしていたのです。この優しい木陰は本当に有り難かったですね。

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本殿には、大きな桂の木の枝が祀られていました。桂はこの祭りで神が宿るとされる木、そして細長く垂れているのが、これも神が宿る双葉葵を撚って作った蔓ですね。つまりは、頭上に神が宿る非常に有り難いお飾りという訳です。

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芝生地ですっかり葉桜になっていた斎王桜です。ちょっと葉っぱの数が少ない気もしますが、こんなものなのでしょうか。これからうんと光合成をして、来年また豪華な花を見せて欲しいものです。

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私が密かに良いなと思っている木が、この椋の大木です。駐車場の入り口にあるのですが、樹齢数百年は有りそうですよね。見事な樹形と樹勢であり、ここに来る度に見とれてしまいます。

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社家町を流れる明神川も、五月の陽光を浴びて輝いていました。草もまた生き生きとしていますね。

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そろそろ新緑と呼ぶには緑が深くなってきましたね。同じ様な意味でも、青もみじと呼んだ方がぴったりと来るかな。

早くも梅雨の走りの様な気配が見えますが、暫くはこの青もみじを追いかけて楽しみたいと思っています。

2010年5月21日 (金)

葵祭2010 走馬の儀 ~上賀茂神社~ 

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走馬の儀は社頭の儀のうちの一つで、その由来は葵祭の起源にまで遡ります。

葵祭は、およそ1400年前に、天変地異を起こしていた賀茂の神々の怒りを鎮めるために、神前で競べ馬を奉納した事に始まるとされます。その原型を今に伝えるのが走馬の儀で、言うなればこの祭の根幹をなす行事である訳ですね。

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この儀式に参加する馬は、一度二の鳥居内に入って神覧に供され、神職による祝詞を受けて来ます。そして、出発点である一の鳥居へと向かうのですね。

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儀式そのものは単純で、一の鳥居前から二の鳥居までの参道を、一気に駆け通すというだけのものですね。でも、それだけと思っていると、この行事が持つ大事な意味を見落としてしまう事になります。

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駆けだした乗尻は神の座に向かって鞭を上げ、大声を出してその存在を示します。すなわち、この走馬を神前に奉納するという重要な意味を持つ動作なのですね。これって、簡単な様に見えて結構な熟練を要する様です。

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初めて見た人は、なんだ大声を上げて走るだけじゃないかとがっかりしていた様ですが、そうじゃないんですね。動作にも、大声にも、そして全力で走る事にも、神にその姿を見せるという意味があるのです。

走馬の儀はこれで終わりではなく、御阿礼所神館という場所において後半が行われます。これは山道で行われるらしいのですが、関係者だけによる神事で一般人は見る事が出来ません。

ちょっと残念だったのは、またしても観覧者のマナーで、最前列の人がほとんど柵の前に立ってしまったのです。これでは、後ろの人が見えないばかりか、馬が暴走して来た時にはとても危ないですよね。私の居た東側の方が顕著でしたが、何でこうなるかな。

私は背後に誰もな居なかったので二列目の椅子の上に立たせて貰って撮りましたが、今度は一列目の椅子に立ち始める始末で、どうしようもなかったです。最後の一頭は私も柵の前で撮ったので偉そうな事は言えませんが、マナーとしてはかなり酷い状況でした。自己嫌悪も含めて、後味が悪くてちょっと残念です。

2010年5月20日 (木)

葵祭2010 社頭の儀 ~上賀茂神社~

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京都御苑での観覧を終えた後、上賀茂神社へと移動しました。御苑での観覧終了が午前11時30分頃、行列が上賀茂神社に到着するのが午後3時30分頃ですから、時間の余裕は十分にあります。

ところが、出町柳に出るつもりが、なんと路頭の儀の行列にぶつかって行手を阻まれてしまうというハプニングがありました。行列の後に付いて丸太町通から川端通へ抜ければ良かったものを、わざわざ今出川通に行ってしまったのがいけなかったのです。まあ、要するに私が間抜けなだけなのですが、当日の移動には行列のルートと通過時間を考慮しなければいけないという教訓にはなりましたよ、はい。

多少の予定変更はあったものの、午後1時前には神社に着く事が出来ました。まずは有料席を確保し、本殿への参拝を済ませた後は、大田の沢に出掛けたり、社家町を散策したりして時間を潰します。

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ここで行われるのは社頭の儀となり、京都御苑からここまでの路頭の儀とは、行列の順番や参加者などが微妙に異なっています。その違う部分を中心にアップして行く事とします。

まず、先頭に乗尻が来るのは同じですが、一の鳥居からは下馬という事になるのですね。衣装はそのままに、歩いての参進となります。

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この方が、検非違使尉に仕える鉾持ちですね。行列の中で最もポップな衣装の持ち主で、ブロガーの間では人気の高い人物です。これって、平安時代にも同じ衣装を着ていたのでしょうか。だとしたら凄いと思うのですが、どうなのでしょうね。

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山城使いもまた、歩いての参進となります。後ろに引きずっているのは裾(きょ)で、位によって色や長さが決まっていたそうです。

詰まらない事だけど、この裾は一度使うと傷だらけになってしまいそうなのですが、毎年新調しているのかな。こういうのが気になるのって、やっぱり貧乏性なのかしらん?

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京都御苑では上手く撮れなかった御馬(又は走馬)です。この後、走馬の儀で参道を疾走する事になる馬ですね。曳いているのは馬部(めぶ)と呼ばれる馬寮の役人です。

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風流傘と命婦に被せていた花傘は、一緒に入ってきます。神域では傘を被るのも不敬にあたるという事なのでしょうね。

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斎王代を先導する蔵人所陪従です。笙、篳篥、鞨鼓、太鼓などで雅楽を演奏し、雰囲気を盛り上げてくれますよ。

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上賀茂神社での観覧の良いところは、斎王代を間近で見られる事にあるでしょうか。その華やかな姿を見る事が出来るのは、この場所を措いて他にありません。

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斎王代に続くのが女官達。こうなってしまうと、誰が命婦で女嬬なのやら、私の目には区別が付きません。もっとも、この前を行く騎女だけは、長い裾を引いていたので判りましたが。

行列は一旦ここで途切れます。

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暫く間をおいて、勅使が入ってきます。この勅使は路頭の儀とは違って本物なのですね。この方は宮内庁掌典職の方だそうで、観覧者は立礼をもって迎えます。

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最後尾に付くのが陪従で、やはり雅楽を奏しながらの参進となります。その先頭にを行くのが和琴で、なんと二人かがりで両脇から抱え、真ん中の奏者が歩きながら弾くのですね。西洋の竪琴風にすれば一人で済むと思うのですが、これが文化の違いというものでしょうか。ちょっと面白いですね。

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社頭の儀は、この後二の鳥居内で続きが行われます。でも、そこに入れるのは招待者だけでして、一般観覧者は見る事が出来ません。たぶん、氏子さんかあるいは神社に寄付をした人達なのでしょうか。一度は見たいものですが、そういう伝統とあらば仕方が無いですね。

明日は一般にも開放されている儀式、走馬の儀の様子をお届けします。

2010年5月19日 (水)

葵祭2010 路頭の儀 斎王代列 ~京都御苑~

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葵祭の花と言えば、やはり斎王代とその行列でしょう。ここまでの本列もその意味を知っていれば楽しめますが、ここから先はその華やかさだけで見応えがあります。

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斎王代を先導してくるのは、彼女に使える女官達。傘に入っているのが命婦(みょうぶ)で位が高いそうですね。一方、一人で歩いているのが女嬬(にょじゅ)で、食事をつかさどる女官なのだそうです。

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女官達の後から、腰輿(およよ)という輿に乗った斎王代がやって来ました。第55代斎王代を勤めるのは川崎麻矢さん。六波羅密寺住職の御長女なのだそうですね。彼女の母と叔母も斎王代の経験者と言いますから、なんだかちょっと凄い家系です。

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斎王代に続くのが駒女(むなのりおんな)。斎王付きの巫女(みかんこ)なのだそうです。和服の女性の騎乗姿というのも、なんだか新鮮で格好良いですね。

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斎王代に良く似た姿のこの人は采女(うねめ)です。斎院の神事を司る女官なのだそうですね。

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斎王代に似ているのは、日陰糸を付けているからでしょう。青海波と呼ばれる着物の模様も面白いですね。

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この方が、実は良く判らないのです。女別当か内侍のどちらかなのでしょうけど、区別が付きません。どちらも、女官の中では最も位の高い人で、掛けて貰っている傘もワンランク上ですよね。

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路頭の儀の掉尾を飾るのが、斎王代のための牛車です。本来はこちらに乗るのでしょうね。同じ様でも、勅使の乗る牛車は唐車という最高級のものであるのに対し、こちらは八葉車という少し位の落ちる車なのだそうです。まあ、乗り心地はどちらも同じで、今の車とは比較にならない最悪なものなのでしょうけど。

一番後ろからは救急車が付いて来ます。行程は全部で8kmあり、しかもかなりの日差しがありますからね、中には体調を崩す人も出てくるのでしょう。

京都御苑の観覧は、何と言っても風情があるのが良かったです。通路が広々としているし、木々の緑も綺麗でしたしね。何より、建礼門など、御所の建物が背景に来るのが嬉しいですね。まさに王朝絵巻を楽しませて頂きました。

2010年5月18日 (火)

葵祭2010 路頭の儀 本列 馬寮の官の列から勅使舞人陪従の列まで~京都御苑~

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この日は素晴らしい快晴で、如何にも初夏らしい天気でした。葵祭は結構不順な時が多いと言われますが、ここ何年かは好天に恵まれている様です。まあ、あまりに日差しに恵まれすぎて、最後は目まいがしそうでしたが。

この方は馬寮使(めりょうつかい)。走馬の儀を司る役人なのですね。この前に走馬の儀で走る2頭の馬が、4人の馬部に曳かれて歩いています。

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ここから勅使、舞人、陪従の列になります。先頭を行くのは牛車、本来は勅使が乗る車ですね。その後ろで、赤い着物の人が細長いものを抱えていてるのが判るかな。これが和琴(わごん)です。どう使うかは、上賀茂神社編でお見せしますね。

その後ろ、オレンジ色の服を着て騎乗しているのが舞人(まいうど)です。この人達が、神前で東游(あずまあそび)を奉納するのですね。

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この方が勅使です。馬に被せた面が面白いですね。ただし、この方は代理でして、本物は神前の儀式の時に現れます。

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その勅使の為の牽馬(ひきうま)。いわゆる替馬で、帰路に備えているのだそうです。

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大きな花笠が風流笠。行列に彩りを備えるための演出なのですね。

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こちらは陪従(ばいじゅう)と言って、神前にて楽器を演奏し、歌を唄うという役目を負います。

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この人が内蔵使(くらづかい)。内蔵寮の次官で五位の文武兼官なのだそうです。勅使が神前で奏上する御祭文を奉持する役目を負ってます。

それにしても、この馬が良いですね。ほとんどがサラブレッドなのに対し、これは日本の馬なのでしょうか。重厚感に溢れていて貫禄も十分です。源平合戦の頃は、こんな感じだったのかしらん?

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そして、また風流笠が来ました。これは山吹をあしらってあるのかな。相当に重いらしく、4人居るのは交代要員の様ですね。

さて、本列はここまでで、この後は斎王代の行列がやって来ますよ。

2010年5月17日 (月)

葵祭2010 路頭の儀 本列 警護の列から内蔵寮の列まで~京都御苑~

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平成22年5月15日、葵祭に行ってきました。今年は土曜日に当たり、翌日もお休みだという事でフルに楽しもうと思い、京都御苑での観覧からスタートしました。

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京都御苑で葵祭を見るのは初めての事でして、勝手が判らなかったので早い方が良いかと2時間前に現地入りしました。結果は正解で、正面になる場所は既に押さえられていたものの、最前列は確保する事が出来ました。あと30分遅かったら、難しかったかも知れないですね。

さて、路頭の儀の始まりは、乗尻の先導からです。正確には平安騎馬隊の2騎がこの先に居るのですが、そこは省略とさせていただきます。

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続いて現れるのが警護の列です。検非違使の庁の役人達の列ですね。

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この方が検非違使の志(さかん)。長官から数えて4番目の序列になるそうです。

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こちらが、検非違使の尉(じょう)。志よりも一つ上の位になるそうですね。ですから着物も赤みを帯びており、志よりも後の順番となります。

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この人が、たぶん鉾持でしょう。志の方に付いている方で、もう一人黄色い衣装の人が尉の方に付いています。そちらは、上賀茂神社の時にアップしますね。

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そして、山城使です。行列が御所を出ると洛外となるため、山城国司庁から警護に派遣された次官なのだそうですね。

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その山城使に使える雑色、手振、舎人達です。はるか後方に御幣櫃が写っているのだけど、この写真では判らないな。

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この方は内蔵寮史生(くらりょうのししょう)です。神前に供える御幣物を管理する役人で、上賀茂、下鴨両神社担当が一人ずつ居られます。

路頭の儀は長いので、今日はここまでとさせて頂きます。京都御苑だけで3日掛ける予定ですので、よろしくお願いしますね。

2010年5月16日 (日)

龍馬伝20 ~収二郎、無念~

「大阪の勝塾を訪ねてきた権平。その頃、塾で学んでいた龍馬。」

「収二郎が投獄された事を心配する土佐の面々。彼等を励ます龍馬。」

「教室に通された権平。しかし、ほんのわずかな違いで龍馬は京に向かった後でした。」

この時期、権平と龍馬は実際にも会った事がある様です。ただし場所は京都で、権平は藩に命じられて上洛し、龍馬とはたまたま出会ったという事らしいですね。

「収二郎の助命を願い出た半平太。応対したのは、復権した象二郎でした。彼は収二郎には東洋殺しの容疑が掛かっている、自分の事を心配した方が良いと半平太を皮肉ります。」

吉田東洋の死後、失脚した象二郎は江戸に出ていた様ですね。そして航海術や蘭学を学んでいたと言われます。彼が土佐政界に復帰するのはドラマよりももう少し後、京都で8.18の政変があってからの事の様ですね。

「土佐、拷問を受ける収二郎。東洋殺しの犯人を聞かれますが、彼は頑として口を割りません。」

実際の収二郎は上士でしたから、拷問に晒されるという事はなかったはずです。また、東洋殺しの嫌疑で取り調べられたという事実も無い様です。

「坂本家。材木を買って欲しいと頼みに来た弥太郎。材木を仕入れる金を貸したのはうちだと相手にしないと家の女性達。どうしても売れないと嘆く弥太郎ですが、話にならないと突き放す坂本家の面々。」

この下りは、例によって全くの創作ですね。それにしても、材木を仕入れる金を借りた相手に、その材木を買い取ってくれと頼みに来る弥太郎の図太さは凄い。それくらいでなければ、この時代の商人としては成功しないという事なのかしらん?

「龍馬に会えずに、手持ち無沙汰に過ごす権平。彼が龍馬を連れ戻しに来たのではないかと心配する長次郞達。彼等は権平に、龍馬を待つ間、自分たちと一緒に海軍り勉強をしてみないかと誘いかけます。」

「訓練生に混じった権平。慣れない号令に、どうしてもタイミングが掴めません。罰として砂袋の上げ下ろしを命じられます。」

この下りも全くの創作ですね。ただ、権平が国事に奔走する龍馬の生き方に理解を示したのは確かであり、その理由をこのドラマなりに求めたという事なのでしょう。

「京、麟太郎の宿舎。外国に攻められた長州について、このまま滅べばよいと思っている連中が居ると嘆く麟太郎と龍馬。しかし、そういう国だからこそ、異国に占領されないで済んでいるとも言える、物事には両面があって、見る方向によって見え方が変わるものだと麟太郎。」

「収二郎が投獄された事を嘆く龍馬。東洋を殺したのは勤皇党ではないのかと問いかける麟太郎。半平太は土佐の事を思ってしたのだと反論する龍馬。それなら、東洋が悪者だったのかと問い返す麟太郎。それも違うと混乱する龍馬。それも見方の両面だと諭す麟太郎。」

明治維新が起こり、勤皇派こそが正義とされる様になった事から、土佐勤皇党が正義、吉田東洋は悪という図式が出来上がりましたが、公平に見れば必ずしもそうとは言い切れません。実際、東洋が門閥に囚われずに人材を発掘したのは確かであり、反対に半平太や収二郎が天誅に手を染めてしまったのも事実です。一面だけを見て、誰が正義で誰が悪かという様な単純な判断は出来ないでしょうね。

「話題を変え、勝塾が危ないと切り出す麟太郎。幕府から、私塾には金は出せないと断られたのでした。千両が必要だから、越前の春嶽公に頼んでこいと命じられた龍馬。」

龍馬が勝塾の資金援助の為に福井へ旅発ったのは、文久3年5月16日の事とされます。この勝塾は麟太郎の私塾でしたが、ドラマにある様に神戸海軍繰練所開設に先立つ士官養成学校という側面だけでなく、もっと大きな構想のための布石とないう側面を持っていた様です。麟太郎は幕府による海軍だけでなく、朝廷からも命じられた大海軍を作ろうとしており、幕府に縛られない私塾はその受け皿として必要だったのですね。龍馬の福井行きには、その事も任務に含まれていた様です。

「平井家。留守を預かる加尾に、収二郎は無実だ、自分が助けると請け合う半平太。京では、以蔵に沢山の人を斬らせたではないかと責める加尾。日本を異国に売ろうとする輩には天誅が下るのだと非を認めない半平太。」

半平太は収二郎助命の為に嘆願書を提出しており、容堂候はそれを聞き入れる様な返事を寄越した様ですね。それを受けて半平太は、収二郎は助かるという旨の手紙を加尾に出した様です。このあたり、京都政界の大勢は依然として攘夷派が主導権を握っており、容堂候としても攘夷派の中で重きをなす半平太を軽く扱う事は出来なかった様です。そこで様々な駆け引きが、容堂候と半平太の間で繰り広げられる事になるのです。

「岩崎家。材木が売れないと癇癪を起こしている弥太郎。そんな彼を慰める喜勢。喜勢になぜ自分と一緒になってくれたのかと問いかける弥太郎。それは占いのせいだと明かす喜勢。彼女は材木におまけをつけてはどうかと提案します。」

喜勢が半平太を見初めた理由が明かされましたね。なるほど、占いのせいだったのか。そんな占いがあるのかと思ってしまいますが、後に岩崎財閥の正夫人となった訳ですから、素晴らしく良く当たる占い師だったのでしょう。無論、創作である事は言うまでもありません。

「勝塾。龍馬が千両を借りるために越前に向かったと知らせが入ります。塾生に勝塾が危ないと事情を話す長次郞。龍馬なら大丈夫と盛り上がる塾生達。様々なお国言葉が飛び交う勝塾。」

「越前。春嶽公に拝謁する龍馬。彼は勝塾の窮乏を訴え、千両を貸してくれる様頼みます。彼は千両を生き金にしてみせる、何倍にもして返してみせると請け合います。その際、収次郎が投獄された事を嘆いてしまい、その非礼を詫びる龍馬。千両を貸す事に同意する春嶽公。」

「春嶽公の側に居たのは、肥後藩士の横井小楠でした。彼は龍馬に、デモクラチーを知っているかと問いかけます。大統領を民が選ぶ事もデモクラチーに入るのかと答える龍馬。知っていたのかと、龍馬を認めた様子の小楠と春嶽公。」

「小楠は、そこまで判っていて、なぜ収二郎の投獄を嘆くのかと問いかけます。いぶかる龍馬に、時の流れの前には一人の人間など芥子粒の様なもの、時代が変われば価値観も変わってしまうのだと説きます。」

龍馬は実際に福井において小楠と会っています。そして千両の借用の件は無論話していますが、もっと政治的な事を議論した様ですね。龍馬は先に触れた麟太郎の大海軍構想を持ち出したと思われますし、小楠はさらに大きな構想を描いていました。徳川将軍家が攘夷実行の約束を果たせないまま関東に帰った場合は、政権を放棄して関東の一勢力に戻ったものとみなし、京都に新しい政権を樹立すべく、春嶽公を率兵上洛させようと考えていたのです。

麟太郎はその生涯の中で見た恐ろしい人物として、西郷隆盛と横井小楠の二人の名を挙げています。もし、小楠の意見を取り入れて実行に移す人が居たとしたら大変な事になっていたと語っていますが、この構想もその一つだったのかも知れません。

結局は春嶽の腰が折れて実現せずに終わってしまうのですが、幕末のこの時期に、これだけの事を考えて実行に移そうとしたのは、小楠を措いて他にはありません。この小楠の影響を、龍馬は確かに受けた様です。

「拷問が続く収二郎。虫の息になりながらも、依然として口を割らない収二郎。」

「容堂候に収二郎の尋問がはかばかしくないと報告する象二郎。そこに、容堂候に直に会いたいと半平太が願い出てきます。」

どうでも良い事なのですが、容堂候が持っていたクワガタは対馬周辺に分布するツシマヒラタの様ですが、どんなものでしょう?本筋には関係ないのですが、ちょっと気になったものですから...。ちなみに、容堂候を演じている近藤さんは、収録中に耳を噛まれてしまった様ですね。見ていて何となく危ないと思ったのですが、案の定でした。

「容堂候に拝謁する半平太。彼は収二郎のした事はあくまで忠義の為であり、許してやって欲しいと願い出ます。容堂候は、象二郎に向かって、収二郎を責めるのはもう止めにしろ、藩命違反の件だけで裁く様にと命じます。」

半平太は切腹の直前にも嘆願を行い、その時も容堂候は収二郎を許す様なそぶりを見せた様です。しかし、結局は容堂候出席の下で行われた奉行職列席の会議において切腹と定められたのでした。

「牢の中で気を失っている収二郎。そこに現れた半平太。彼は良く黙っていてくれたと感謝しますが、収二郎は本当に知らない、だから何も堪えてはいないと答えます。半平太は、東洋殺しの容疑は消えた、しかし、藩命違反の罪で切腹を命じられたと告げます。切腹は武士の誉れだと微笑む収二郎。」

「勝塾。すっかり訓練生として馴染んでいる権平。信号旗の掲揚を命じられ、見事にやってのけます。長次郞を始め、塾生に祝福される権平。そこに龍馬が帰ってきました。」

「権平の用事とは、龍馬を土佐に連れて帰る事でした。しかし権平は龍馬達が一生懸命だという事が判り、連れて帰るのは諦めたと言い、必ずいつかは帰って来いと龍馬に告げます。後10年時間が欲しい、10年経ったら必ず帰ると誓う龍馬。」

後10年時間が欲しいと言うのは、文久3年3月20日に書かれた龍馬の手紙に、40歳ころまでは家には帰らないと兄に許しを得たとある事を踏まえているのでしょう。この手紙を書いた時の龍馬は29歳ですから、ほぼ計算が合う事になります。この手紙には、兄はご機嫌が良かったとあり、ドラマで頼まれた様に兄の意向に逆らったとは記されていません。

「勝塾。加尾の手紙で収二郎の切腹を知った龍馬。収二郎は立派に切腹して果てた、しかし、間違った事をしていないなら、なぜ死ななければならなかったのかと問いかける加尾。収二郎の死を嘆く龍馬。」

収二郎に切腹命令が出たのは文久3年5月23日、そして切腹して果てたのが6月8日の事でした。「嗚呼悲哉兮綱常不張」で始まる辞世の漢詩を、爪で書き残したと言われます。平井家では、一度はその詩を墓碑に刻んだのですが、藩庁に知られると禍が遺族にまで及ぶと心配して、墓碑を倒して文字を消しました。そして、維新後に加尾の手によって復元されたのだそうです。

一方、龍馬は6月29日付けの乙女宛の手紙で収二郎の死に触れています。彼は収二郎の切腹を「誠にむごい、むごい。」と嘆き、妹の「加尾の嘆き様は如何ばかりか」と気にしています。そして、「せめてもの慰めとして今の自分の消息なりとも語って聞かせたい」と言い、「まだ少しは気遣いもする」と続きます。

この頃龍馬は加尾との関係は終わっていた様ですが、収二郎がこうなってみるとやはり気になる存在だったという事なのでしょう。別れた相手に自分の消息を聞かせたところでどうなるものとは思えないのですが、穿った見方をすれば、収二郎の志は自分が引き受ける、嘘では無い証拠にそれだけの力を付けていると言いたかったのかも知れません。直接には会う事はなかったにせよ、乙女を通して龍馬の心遣いは加尾に届いていたのかも知れませんね。

参考文献:「龍馬 最後の真実」 菊池 明、「坂本龍馬」 松浦 玲、「坂本龍馬 海援隊始末記」 平尾道雄、「龍馬の手紙」宮地佐一郎、「「武市半平太伝」 松岡 司 「龍馬の夢を叶えた男 岩崎弥太郎」 原口 泉

2010年5月15日 (土)

京都・洛西 新緑2010 ~鳥居本~

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嵯峨野に新緑を求める散策は、鳥居本までやって来ました。ここでのお目当ては、一の鳥居周辺のもみじの新緑です。

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真ん中に石畳がある道が愛宕街道。愛宕神社へと参拝する人が通る道ですね。その両脇に、くずやと呼ばれる茅葺きの農家風民家と瓦葺きの町家風民家とが混在して、独特の景観を形成しているのが鳥居本と呼ばれる界隈です。

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そして、これが象徴的な一の鳥居。ここから愛宕神社の参道が始まるという印ですが、まだまだほんの入り口であり、実際に神社にまで至るには険しい山道を行かねばならず、優に3時間程は掛かる様ですね。ちなみに、私はまだ行った事がありません...。

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新緑に染まる平野屋さんです。茅葺きの屋根から瓦葺きの軒が出ているという、独特の造りになっていますね。この景観は、最も奥嵯峨らしい風情の一つと言って良いのでしょう。

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この付近では、リュックを背負ったハイカーの人達を多く見かけます。これから愛宕神社へと向かうのか、それとも清滝めぐりをするのか、どちらかなのでしょう。

ここを過ぎると急に景観が変わり、山道へと入って行きます。その分岐点となるこの場所で一息入れる人は多い様ですね。街道沿いの茶店の役割は、今も昔も代わることなく続いている様です。

2010年5月14日 (金)

京都・洛西 新緑2010 ~天龍寺から嵯峨野路へ~

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嵐山を後にして、嵯峨野の散歩に出掛けます。手始めは天龍寺から。

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この日の天気予報は、朝の内は快晴なのですが、昼に近くなるにつれて筋雲が出てくるだろうというものでした。なるほど、そのとおりに何も無かった空に雲が出始めています。うーん、最近の天気予報は侮れないですね。

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天龍寺も新緑で溢れていました。このあと竹林の小道を通りたかったので庭園には入っていないのですが、参道だけでも爽やかな緑を堪能出来ましたよ。それにしても、修学旅行生の多い事!

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庭園の代わりに入ったのが特別拝観中の弘源寺。幕末に長州藩兵が付けた刀傷という謳い文句が目に付いたからなのですが、確かに生々しい歴史の一断面を見る事が出来ました。間もなく龍馬伝も蛤御門の変へとたどり着きますが、もしかしたら龍馬伝紀行で紹介れるかな?

写真は境内で咲いていたヒトツバタゴ。ナンジャモンジャの花ですね。まるで雪が積もった様な、美しい花でしたよ。

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竹林は丁度竹の子の季節で、いわゆる竹の秋を迎えています。このあたりは多分竹の子を収穫しているのかな、とても手入れが行き届いており、伸びかけの竹の子は見あたらなかったですね。

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竹林を抜けた先で見かけた藤の花です。藤にも色々な品種があるのですね。この花ははんなりと美しく、如何にも京都に相応しいという気がします。

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落柿舎も新緑に包まれていました。柿の木の新緑はもみじとはまた違った色合いで、これはこれで美しいですね。秋にはまた赤い柿を、たわわに実らせて欲しいものです。

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その落柿舎の近くに、土佐四天王の銅像が出来ていました。なぜこんな所にと思ったのですが、蛤御門の変の時に、坂本龍馬と中岡慎太郎が久坂玄瑞に会う為に、嵯峨野の陣を訪れたという口碑があるのだそうです。

中岡はこの戦いに参加しているから良いとして、龍馬がここに来たのかというとかなり微妙ですね。確証はありませんが、この時期の龍馬は江戸に居たと思われ、この戦いには係わっていない可能性が高いです。ついでに言えば久坂が居たのは天王山の陣であり、彼に会うために嵯峨野を訪ねてきたというのも不自然です。

ましてや武市半平太はこの時期は土佐にあり、吉村寅太郎は既に戦死した後ですから全く関係がありません。ですので、せめて龍馬と慎太郎だけにしておくべきではなかったのかな。なんて言うのは、余計なお節介か。

幕末ファンとしては名所が増えるのは嬉しいけれど、ちょっと複雑な気分ですね。


2010年5月13日 (木)

京都・洛西 新緑2010 ~嵐山~

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好天に恵まれた5月8日、新緑を求めて嵐山へ行ってきました。

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この日はまさに五月晴れ。この綺麗な青空を撮りたくて、朝早くに出掛けてきました。と言うのは、この角度からなら西を向いて撮る事になり、青空を綺麗に撮る事が出来る順光を得られるのは朝の早い内しかないという訳です。

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もっとも、最近はそれでなくても早朝に出掛ける事が多くなっています。何と言っても、混雑を避けられるメリットは大きいですからね。それに、これから夏場に掛けては昼間の暑さを逃れるという意味も出てきます。難点は、あまりに早いとまだ開いていないお寺があるという事かな。

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この日は爽やかな新緑と共に、山藤の花があちこちで咲いていました。巻き付かれた木は迷惑この上ないのでしょうけど、緑の中にある藤色は実に鮮やかでしたよ。緑の舞台で舞う藤娘の様でした。

2010年5月12日 (水)

京都・洛東 新緑2010 ~真如堂~

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雨の新緑シリーズ、最後は真如堂です。

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この季節、雨が降るとなぜか真如堂に足が向きます。人気のない静かな境内、それも茶所に座って三重塔のあたりを眺めているのが好きなのですよ。

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その茶所の前から、雨の重みで大きく垂れた枝越しに見る本堂です。晴れた日も良いけれど、しっとりとした風情がこの寺には似合います。

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梢を打つ雨音は、かえって静けさを誘いますね。遠くから聞こえて来るはずの雑音を消してしまうせいでしょうか。

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本堂南側にあるもみじのトンネルも、随分と屋根が低くなっています。正直言って通り難いのですが、絵的には面白いですね。

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真如堂の静かな境内を歩いていると、いつの間にか雑念も消えてしまいます。この緑が心を和ませてくれるのでしょうね。

この季節の雨の日は散歩日和、そして写真日和ですよ。

2010年5月11日 (火)

京都・洛東 新緑2010 ~南禅寺~

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天授庵から、南禅寺の境内に出てきました。ここもまた、境内一面に新緑が広がる名所の一つですね。

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紅葉の時には赤色を背景に撮る風鐸ですが、緑に染めてみるのも絵になりますね。特に、雨でしっとりしているのが良い感じです。

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石畳がある景色には、雨が似合いますね。そして、傘を差す人達が丁度良い点景になったりします。

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法堂の黄色い壁と新緑を合わせてみました。この壁の色と火頭窓が南禅寺らしいと思うのですが、どんなものですか。

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もう一つ、南禅寺らしい色と言えば水路閣の煉瓦色ですね。この色もまた、新緑によく似合います。

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そして、雨に濡れた煉瓦そのものの色もまた素晴らしい。日本離れしたこの景色もまた、紛れもなく南禅寺のものです。

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雨にも係わらず、南禅寺は結構な人で賑わっていました。でもここは広いですからね、少し歩くと誰も居ない静かな場所を見つける事が出来ます。

しっとりと濡れながら初夏の境内を歩くのは、なかなか風情があって良かったですよ。

2010年5月10日 (月)

京都・洛東 新緑2010 ~南禅寺塔頭・天授庵~

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南禅寺塔頭・天授庵、雨の新緑です。

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天授庵は、言わずと知れた紅葉の名所です。そしてまた、新緑の頃の鮮やかさも素晴らしいものがある場所です。

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この日は朝から強い雨が降っていましたが、しっとりとした風情が味わえる場所として天授庵を選んでみました。方丈の軒下で、静かに座って庭を眺められるのが良いと思ったのです。

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聞こえるのは雨音だけ、と言いたいのですが、結構賑やかだったりします。三門が近くにあるのですが、そこに上った人達がはしゃぐ声が聞こえてくるのですよ。特に団体さんが上ると一層賑やかになるのです。

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その点、池の周囲に行くと静かなものでした。それこそ雨が傘を叩く音と、水量が増して大きくなった落水の音ぐらいしか聞こえません。

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ただ、あまりに強い降りだったためか、ほとんどの枝は低く垂れ込めていたので、あまり絵にはならなかったですね。中には雨の重みで折れてしまったのでしょう、池の中に浮いている大きな枝があったりしました。

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この日は特別公開が行われており、収蔵庫で長谷川等伯の障壁画を見る事が出来ました。今年は等伯没後400年という事で、あちこちでその作品を目にする機会がありますね。そして、その絵を見る都度に素晴らしいデッサン力に感心してしまいます。知れば知る程、彼は凄い絵師だったんだと実感出来ますね。

新緑と共に等伯の世界を垣間見る事が出来て、とても良い拝観だったと思っています。


2010年5月 9日 (日)

龍馬伝19 ~攘夷決行~

「海軍塾で軍艦の機関について学ぶ塾生達。理解が進むにつれて、半平太の下を離れて良かったと言い出す亀弥太ら土佐勤皇党の面々。その声を聞いて複雑な面持ちの龍馬。」

「一人取り残されてとまどう半平太。」

「攘夷実行の日を5月10日と奏上した幕府。」

「麟太郎の護衛を務める以蔵。その以蔵に攘夷派とは言え、国を思う心は同じ、無暗に斬ってはいけないと諭す麟太郎。」

以蔵が麟太郎の護衛をしたのはドラマでの展開より少し前、文久3年3月伏見での事とされます。

麟太郎の懐古談に拠れば、ある日3人の刺客に襲われたのですが、護衛に付いていた以蔵が1人を斬り捨てると残る二人は恐れをなして逃げ出し、危うく難を逃れた事が出来ました。その時、麟太郎は以蔵に人を斬る事を嗜んではいけないと諭したのですが、以蔵から自分が居なければ先生の首は飛んでいたと言い返えされ、それもそうだと一言もなかったと述懐しています。ドラマの台詞は、この出来事を踏まえて言っているのですね。

「そこに現れた龍馬は、攘夷実行の日が決められ、意気の上がる過激派が麟太郎を狙っていると忠告します。その龍馬に、容堂候から脱藩を許されたと聞いたと伝える麟太郎。」

龍馬の脱藩が許された事は、先に麟太郎から龍馬に伝えられ、後に正式に藩から伝達があった事は以前に書いたとおりですが、ドラマではその順番が入れ替わりながらも麟太郎から龍馬に伝わった事になり、辻褄を合わせてきましたね。

「以蔵と居酒屋で飲む龍馬。龍馬が羨ましいという以蔵に、自分らしく生きればよいと諭す龍馬。そこに収二郎が現れます。彼は以蔵を罵り、龍馬と一緒に待っていろと言いかけますが、その収二郎を捕らえに土佐藩の下横目達がやってきました。彼は無断で宮様に取り入ったと収二郎の罪を掲げ、縛に付く様に命じます。以蔵に命じて、収二郎を逃がす龍馬。」

収二郎が青蓮院宮に拝謁し、先の土佐藩主豊資を擁立すべしという令旨を得たのは文久3年1月17日の事でした。これには間崎哲馬と広瀬建太が絡んでおり、彼らは江戸に居た容堂候から命を受け、国元に江戸と上方の情勢を伝えると共に、その途中京に寄って青蓮院宮など要路の公家に会って、関東での見分を知らせる様にとの使命を帯びていました。収二郎はこれを奇貨とし、哲馬達と共に藩政改革の令旨を願い出る事にしたのですね。ドラマでは、このあたりの経緯を捉えて、容堂候の罠に嵌ったと表現したものと思われます。

収二郎が京都留守居役を解かれたのは文久3年2月1日の事ですが、この時にはまだ令旨のからくりは容堂候には知られておらず、職務を越えて国事に奔走していた事が容堂候の逆鱗に触れたのでした。役職を解かれた彼は公家への出入りを禁じられ、家に引きこもってしまいます。

「攘夷実行を決めておきながら、アメリカに対しては友好を約束する幕府。また幕府は諸藩に対して、攘夷を実行するのは長州藩の下に付くも同じ事で、幕府に逆らう事になると脅しをかけます。」

「半平太の下を訪れた久坂玄瑞。彼は土佐藩に攘夷実行を迫りますが、半平太はどこか煮え切りません。玄瑞から容堂候が帰ったのはなぜかと聞かれ、当然攘夷実行の準備の為と答える半平太。そこに急ぎの知らせが入ります。」

「龍馬の下宿に駆けつけた半平太。そこには収二郎と以蔵が匿われていました。以蔵を裏切り者と罵り、収二郎に土佐藩を改革すると朝廷に願い出たのはなぜかと詰め寄る半平太。以蔵はもう人斬りは嫌だと反発しますが、収二郎は魔が差した、申し訳ない事をしてしまったと詫びを入れます。」

「二人を駒の様に扱った事を非難する龍馬に、自分は間違っていない、5月10日が来れば自分が正しかったと証明されると譲らない半平太。彼は、収二郎に潔く罪を認めて土佐に帰れと通告し、以蔵にはもう仲間ではない、どこへでも行くがよいと突き放します。」

半平太が収二郎に自首を勧めたのは文久3年2月25日の事とされます。この日、容堂候に目通りした間崎哲馬が、いきなり令旨の事を容堂候に暴かれて進退に窮してしまったのです。彼は収二郎と相談し、連名で自白書を提出する事にしたのでした。その相談の場には半平太が同席していたと言われ、さらには久坂玄瑞の姿があったとも言われています。

この事件の背後には、薩長土による主導権争いがあったとも言われます。薩摩は長州に勝つために土佐と手を握りたがっていたのですが、薩長とバランスを取りたい土佐はなかなか言う事を聞きません。そこで、今度は土佐を貶めて親長州勢力を弱めようと謀り、青蓮院宮の令旨の件を容堂候に漏らしたのだとされます。これがどこまで真実かは判りませんが、ドラマにある筋書きよりも一層複雑怪奇な事情が絡み合っていたらしい事は確かなようです。

一方の以蔵については、1月の末に土佐藩から離脱し、長州藩に匿われていたと言われます。その理由は不明ですが、半平太の影響圏から離れていた事は確かですね。

「土佐、武市家。収二郎が不始末をしでかして、土佐に帰って来るという噂をする富と坂本家の女性達。半平太も関係しているのではないかと心配する富に、そんなはずはないと否定する乙女達。」

「残った土佐勤皇党の面々に対し、攘夷実行を宣言する半平太。党員達から藩からの命令はまだかと聞かれ、容堂候からの命令は必ず来ると断言する半平太。」

「半平太の意見書を黙殺する容堂候。」

「幕府。ほとんどの藩が幕府に付いたという報せに喜ぶ慶喜。幕府が姑息な事をするなと密かに憤る麟太郎。」

「容堂候からの命令が来ない事に、あせる勤皇党員と苛立ちを隠せない半平太。」

「なつの所に入り浸り、もうどこにも行きたくないとなつに抱きつく以蔵。」

「攘夷実行の前日。どの藩にも動きが無い事をいぶかる海軍塾生達。その方が良いと頷く龍馬。」

「ただ一藩、攘夷を実行に移した長州藩。」

「藩からの命令がなく、動きが取れない土佐勤皇党。党員達の間に失望の色が広がっています。一人になり、絶望の色を浮かべる半平太。」

ドラマでは、半平太は京都藩邸で5月10日を迎えた事になっていましたが、実際には既に土佐に帰っていました。その理由は職務上の必要から帰国の途上にあった容堂候に会うためで、京を発ったのは4月4日、その4日後に土佐と伊予の国境で容堂候に追いつきました。彼はそのまま土佐に帰ってしまったのですが、恐らくは用向き上の必要があった為であり、容堂候から帰国命令を受けたという事は無かった様です。

「幕府。長州敗北の報に接し、喜ぶ慶喜。彼は、あれは各国に長州が勝手にやった事、長州にやられた軍艦があれば幕府が修理すると伝えよと命じます。」

この下りは龍馬の有名な手紙、「日本を今一度せんたくいたし申候」を踏まえている様ですね。龍馬は手紙の中で長州が異国と闘って負け続けている事を憂慮し、その背後では幕府の姦吏が異国と通じており、長州との戦いで傷ついた船を江戸で修復し、その船を再び長州の攻撃へ向かわせていると憤っています。実際にはそんな事実は無かった様ですが、当時そんな風聞は確かにあった様ですね。龍馬はそんな姦人どもを一掃し、日本を洗濯してやると意気込んでいたのでした。

「京都、土佐藩邸。広い部屋に一人佇む半平太。そこに龍馬が現れました。攘夷実行が敵わなかった事で、自分を責める半平太。もし、攘夷を実行していれば日本が無くなっていたと安堵する龍馬。」

「本当の攘夷の為には海軍をと言いかける龍馬を遮る半平太。彼は捕らえられた収二郎を心配し、彼が先走ったのは自分に人徳が無かったからだと自嘲します。攘夷がならなかったのは半平太のせいではないと慰める龍馬。」

「彼は一緒に海軍をやろうと半平太を誘いますが、半平太は収二郎を救う為に土佐に帰ると断ります。龍馬は、容堂候は半平太が思う様な人物ではない、半平太がした事を全て嫌っている、帰れば捕まるだけだとと引き留めます。しかし、半平太は容堂候から菓子を賜わりお褒めを頂いた、嫌われる訳がないと取り合いませんが、東洋を殺した事、そして何より勤皇党は下士の集まりだった事が容堂候に憎まれる理由だと諭す龍馬。」

「龍馬の言う事を認めては自分の人生全てを否定する事になる、そして侍が殿様を疑う事は許されないとあくまで聞く耳を持たない半平太。」

「彼は収二郎を助けたら戻ってくる、それに以蔵にも謝らなくてはならないと言い、本当に日本が守れるのなら海軍に加わっても良いと言って去っていきます。涙ながらにその後ろ姿を見送る龍馬。」

半平太が土佐に帰ったのは、先に記した様に収二郎とは直接の関係はありませんが、確かに助命運動はしています。収二郎、哲馬、健太の三人の行動は忠義から出たものであり、死を賜る筋合いではないという意見書を出したのでした。このあたりは、次回に出てくるかも知れませんね。

「なつの部屋で眠る以蔵。そこに藩の下横目がやって来ました。慌てて屋根から逃げる以蔵。」

以蔵が役人から追われる様になったのは、姉小路公知が殺害された後の事とされます。この事件では薩摩の田中新兵衛が犯人と疑われたのですが、彼が自殺した事(文久3年5月26日)で以蔵に嫌疑が向けられたのです。既に土佐藩から離れ、そして麟太郎の警護をした事で攘夷派からも見放されており、以蔵には身を寄せるべきところはどこにもありませんでした。

「土佐藩。申し開きを願う収二郎に東洋殺しの容疑を告げ、牢に放り込む役人達。」

収二郎が帰国命令を受けて土佐に帰ったのは文久3年4月11日、そして出頭命令が出たのは5月23日の事でした。容疑は東洋暗殺ではなく、あくまで令旨が下る様に工作し、藩政を壟断しようとした事についてでした。

「海軍の修行に明け暮れる龍馬達。」

ドラマでは、龍馬が必死に半平太を説得していましたが、思わず応援したくなりましたね。半平太が帰国すれば捕まるであろう事は当時から言われており、吉村寅太郎も手紙の中で半平太の帰国を危ぶんでいたそうです。

ここで死なせてしまうにはあまりに惜しい、武市半平太はそう思わせるだけの人物だと思います。

参考文献:「龍馬 最後の真実」 菊池 明、「坂本龍馬」 松浦 玲、「坂本龍馬 海援隊始末記」 平尾道雄、「龍馬の手紙」宮地佐一郎、「「武市半平太伝」 松岡 司 「龍馬の夢を叶えた男 岩崎弥太郎」 原口 泉

2010年5月 8日 (土)

京都・洛東 新緑2010 ~建仁寺~

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建仁寺の新緑です。

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祇園という花街に寺域の大半を譲りながら、今なお広大な敷地を有する建仁寺は、街中にある緑地としても貴重な存在です。

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松などの常緑樹と共に、もみじを始めとする落葉樹も多くあり、この時期は境内が新緑で染まります。

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建仁寺は、法堂の周囲で牡丹が咲く事でも知られています。訪れたのは5月5日でしたが、まだ盛りの株も残っていて、豪華な花が咲き誇っていました。

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この日、建仁寺を訪れたのは、塔頭の大統院が特別公開されているからでした。普段は非公開の寺院ですが、最近庭園が整備された事もあるのでしょう、古文化保存協会主催による公開寺院の一つに入っています。本堂や真新しい庭園のほか、重要美術品の「赤絵十二支四神鏡文皿」、円山応挙の幽霊図などの寺宝を見る事が出来ますよ。公開は明日9日までです。

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建仁寺は結構人気がありますね。いつ行っても拝観者の姿が絶える事がありません。街中にあるせいもあるでしょうけど、やはり風神雷神図のある寺として名が通っているからでしょうか。

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6月11日からは、両足院で半夏生の庭の特別公開が行われます。涼しげな花の咲く庭を見るために、またここを訪れようと思っているところです。

2010年5月 7日 (金)

新緑2010 ~比叡山 延暦寺~

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新緑を求めて比叡山・延暦寺を訪れて来ました。

毎年、5月の連休中に延暦寺に来るのは我が家の恒例行事になっています。最近では親と一緒に行動したがらない息子達もここだけは別、久しぶりに一家四人揃ってのお出かけとなりました。

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我が家のお気に入りは根本中堂。独特の雰囲気のあるこの御堂に居ると、心の中にあるモヤモヤがすっきりと消え、心身共に軽くなる気がするのです。息子達も同じ事を感じている様で、1年に一度、心に溜まった澱を一掃する為に訪れていると言っても良いでしょう。

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比叡山は848mの標高がありますから、京都市内に比べて春の訪れが一ヶ月ほど遅くなります。今年は特に遅れが顕著で、もみじの若葉が開ききっていなかったり、大講堂の南にある普賢象桜がちらほら咲きだったりと、相当に寒い春だった事が窺われました。

また、なぜか石楠花も外れ年だった様子で、開花が遅れていると言うより、花芽そのものが少なかった様に見受けられます。

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根本中堂に祀られているのは薬師如来。これは生者にご利益を授けて下さる仏様で、根本中堂は現世利益をお願いするところなのですね。そこで、先祖の御霊を弔うには阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂へ行かなくてはなりません。同じ東塔にあるのですが、雰囲気は随分と異なりますね。

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市内ではそろそろ緑の色が深くなって来ていますが、延暦寺ではまだまだ新緑そのものでした。短期間の内に季節を繰り返しているかの様な、そんな錯覚を覚えてしまう比叡山です。

2010年5月 6日 (木)

京都・洛北 新緑2010 ~詩仙堂~

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曼殊院から詩仙堂へとやって来ました。四季ぞれぞれに趣のある詩仙堂ですが、若葉のこの季節が最も輝いている様な気がします。

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詩仙堂の人気は衰える事を知らない様ですね。相変わらずの人出で、部屋の中からの額縁構図で撮るのは、とてもじゃないけど無理でした。

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それにしても、清々しいばかりの青空と新緑です。今年の連休は好天続きで良かったですね。

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庭のさつきは、一部で咲いていましたが、まだまだこれからです。5月の末から6月にかけてが見頃になるのでしょうね。その頃にもう一度来てみたいと思っています。

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本来何もない白砂の上に、木陰の模様が描かれていました。こんな偶然の産物もまた面白いものですね。

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庭園では、芍薬が咲いていました。この花は、毎年同じ場所で律儀に咲いてくれていますね。他には、山吹、シャガなどが見頃になっていましたよ。そう言えば、一番奥にあるはずの牡丹は見逃しました。ちゃんと咲いていたのかな?

この季節の詩仙堂は、花も新緑も楽しめる素敵な場所ですよ。

2010年5月 5日 (水)

京都・洛北 新緑2010 ~曼殊院~

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曼殊院は紅葉の名所、という事は新緑の名所でもあります。この季節は境内を中心に、辺り一面が若葉色に染まります。

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参道の坂道を上っていくと、正面に見えてくるのが勅使門。一番曼殊院らしい風情があるのはこの付近ですね。

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門扉はいつも開けられているのですが、ここを通って良いのは勅使だけであり、一般客はこの門を潜る事はありません。

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通用門への入り口にあるもみじです。毎年思うのですが、この流れ落ちる様な枝振りが素晴らしい。もみじが形作った、若葉の滝の様です。

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庭園もまた若葉で溢れかえっています。松や杉、さつきといった常緑の木と共にもみじや楓の新緑が入り交じり、変化に富んだ景観を見せてくれます。

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中央にある丸い刈り込みはサツキですね。これから5月の終わりに掛けて、霧島つつじに代わる彩りとなってくれる事でしょう。

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東の斜面では、つつじが咲いていました。その鮮やかな色が楓の緑に映えて、何とも美しかったです。王朝文化の流れを汲むだけあって、どこまでも雅で美しい庭園なのですね。

2010年5月 4日 (火)

京都・洛北 霧島つつじ2010 ~曼殊院~

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平成22年5月2日の曼殊院です。この日は庭園にある霧島つつじが満開を迎えていました。

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霧島つつじは庭園の西側の一角を占める様に植えられています。毎年5月の初め頃に見頃を迎え、この風雅な庭に鮮やかな彩りを添えてくれます。

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毎年、その満開の時期が微妙に変わるので訪れるタイミングが難しいのですが、今年はまさに見頃の日に当たりました。こういうのってなかなか無い、ラッキーな出来事なのですよ。

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ただ少し気になった事があって、霧島つつじの株が全体に小さくなっているのですよ。もしかしたら、一部で枝枯れが起こり、刈り込まれてしまったのかも知れません。花色は見事なのですが、ちょっと痛々しくはありますね。

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一時禁止されていた写真撮影は、去年の秋頃から解禁になった様です。ただし、撮って良いのは厳密に庭だけで、部屋の中から額縁構図で撮るのはNGだと注意を受けました。それはそれで良いのですが、不意打ちを食らった感じでしたね。

そういう方針なら受け付けではっきりと言うか、玄関の注意書きに書いておいて欲しかったな。ちょっとした事ですが、それだけで随分と印象が変わると思いますよ。

2010年5月 3日 (月)

京都・洛東 新緑2010 ~清水寺~

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初夏を迎え、新緑で溢れる清水寺です。

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桜や紅葉も素晴らしいですが、この新緑に浮かぶ景色もまた清水寺の見所の一つです。

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こちらは、新緑に包まれた奥の院です。この懐に抱かれたかの様な風情が良いですね。

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そして三重塔ですが、この写真では今ひとつ新緑が冴えません。日が陰ってしまったのが痛かったかな。

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お約束の本堂正面です。同じ新緑とは言っても、木によって少しずつ彩りが違うのが判ります。それでいて、全体が調和しているのが新緑の景色の素晴らしさですね。

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この日は晴れてはいたのですが、昼前後を中心に雲が広がりました。そんな中で青空背景になったのはラッキーでした。

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錦雲渓もまた、新緑で埋まっています。生命力に溢れている感じがしますね。

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成就院前の放生池周辺でも、もみじの若葉が美しかったです。

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西門の前では、牡丹が花盛りになっていました。上品な色合いの、美しい花ですね。この場所で咲いているのを見たのは、多分初めてではないかと思います。これまではどうだったのでしょう、ずっと同じ場所で咲いていたのかな。

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もみじの下では、山吹が咲いていました。緑に染まる境内の中にあって、目に染みる様に鮮やかな黄色でしたよ。この季節、山吹色ともみじの緑は、とても素敵なコンビネーションですね。

2010年5月 2日 (日)

龍馬伝18 ~海軍を作ろう!~

「幕府の軍艦順動丸に乗って大阪を目指す龍馬。彼に与えられた最初の使命は、新たな同志を集める事でした。」

「大阪、専称寺に置かれた海軍塾。各藩から集められた塾生達が、既に訓練に励んでいました。龍馬は麟太郎に命じられた通り仲間集めを始めます。」

大阪の海軍塾とは神戸海軍繰練所の設立に先立ち、麟太郎が私塾として創設したものでした。海軍繰練所の建設には時間が掛かるため、先に要員の訓練を積んでおこうという狙いがあった様ですね。既に江戸には同様のものがあった様ですが、その大阪版を立ち上げたという事の様です。

「長次郞と共に、大阪の町に出て海軍への勧誘を行う龍馬。道行く人に手当たり次第に声を掛けていく龍馬ですが、まるで相手にされません。ほとほと困り果てている所に、食いはぐれの浪人が現れました。これだと目を付ける龍馬と長次郞。」

ドラマでは、キャッチセールスまがいの勧誘をしていた龍馬ですが、実際にはこんな事をしている暇は無かった様です。この時期の彼は大阪と京都、それに江戸の間を忙しく行き交い、さらには越前にも足を伸ばしています。海軍塾で学んでいる時間がどれだけあったのか、疑わしい気がする程ですね。

「二人が声を掛けると、なんと沢村惣之丞でした。惣之丞に飯を食わせ、これまでの様子を聞く龍馬。彼は辻立ちをしては攘夷を説いて回っていたのでした。龍馬は惣之丞を海軍に誘いますが、攘夷一途の彼は怒ってしまい、龍馬に斬りつけます。なんとか惣之丞を説き伏せ、海軍塾に連れて帰る龍馬。」

惣之丞が龍馬と再会したのはずっと以前、龍馬が脱藩後に大阪に居た頃だった様です。そして、共に江戸向かい、一緒に麟太郎の門人となったとされます。麟太郎の海軍塾に入った事はドラマにあるとおりで、また彼は数学が得意だったらしく、その事も描かれていましたね。

「江戸幕府。本当に攘夷を誓わなくてはならないのかと困惑する家茂。偽って約束すれば良いのだと言上する慶喜。」

「京都、三条邸。いよいよ将軍が上洛して来ると意気の上がる三条達。しかし、半平太は、将軍は攘夷の約束さえすれば江戸に帰れると高を括っているはず、しかしそれでは何にもならない、自分に策があると献策します。」

「早速惣之丞と共に授業を受ける龍馬ですが、何が判らないかが判らないといった有様でした。そのうちに、塾生達は戦争に勝つために訓練に励んでいるのだと気付く龍馬。これでは、外国と闘わないための海軍という構想とは違ってしまうと憂慮する龍馬ですが、佐藤塾頭にそんな事を考えるのは御前の役目ではないと相手にされません。」

「上洛して来た家茂。帝の前で攘夷実行を誓う将軍でしたが、朝廷からはその期日は何時かと下問があります。とまどう家茂と慶喜ですが、期日が決まるまでは江戸には帰さないと釘を刺されてしまいます。すべては半平太の献策でした。」

「四賢候が集まった部屋。何故、半平太の一派の好き勝手を許しているのかと問われた容堂は、あれはもうこれまでだと言い切ります。」

半平太の名が四賢候に聞こえていたかどうかですが、その一人である伊達宗城の日記に、半平太が青蓮院宮に容堂は因循だと言ったと聞いたとあり、四賢候の間で彼の名が出る可能性は確かにあった様ですね。

「土佐藩邸。容堂候に拝謁している半平太。彼は褒美の品として菓子を賜ります。その場で、海軍塾の為に勤皇党からも人を出せと命じられます。そして、勝の下には龍馬が居る、彼の脱藩の罪を許してやろうと言って、半平太を混乱させます。」

文久3年2月17日付けで半平太が妻に宛てて出した手紙に、容堂候に拝謁して、これまでの尽力に報いる御酒を頂いたとあります。そして、その席で、容堂候は半平太は酒は嫌いで菓子が好きだと知っていたので、菓子一箱を頂いた、これは身に余る光栄だと記されています。今回のドラマにおける描写は、この手紙に基づいたものが判りますね。

一方、龍馬の正式な赦免は文久2年2月25日の事です。2月22日に龍馬は藩邸に呼び出され、そのまま3日間の謹慎を言い渡されたのでした。麟太郎が容堂候からの許しを得たのが1月15日ですから、1ヶ月と少し手続きに掛かった事になりますね。一説に拠ると、この赦免には松平春嶽候の口添えがあったとも言われています。

「容堂候との対面を終え、部屋に帰ってきた半平太。彼は感激のあまり、まともに立てない様子です。その横で一緒に喜ぶ収二郎でしたが、使いの者が重役が呼んでいると連れに来ました。」

「大阪、大和屋。龍馬と長次郞が世話になっています。塾の今後をどうしたらよいかと悩む龍馬を尻目に、急速に仲良くなる長次郞と徳。」

大和屋は龍馬の宿と言うより、長次郞の宿と言うべきでしょうね。徳はこの後長次郞との関係を深めていく事になります。

「大阪、海軍塾。土佐藩から望月亀弥太、高松太郎、千屋寅之助の三人が入塾して来ました。長次郞が刀を差している事が気に入らない様子です。彼等は半平太に命じられたと言い、その半平太は容堂候に命じられたのだと説明しました。どこか腑に落ちない様子の龍馬。」

亀弥太ら三名が海軍塾に入ったのは史実にあるとおりで、藩命を受けてのものでした。ただ、その背後に容堂の陰謀があったかというと、かなり疑問でしょうね。このあたりは、ドラマによる脚色だと思われます。

また、饅頭屋の長次郞が武士になったのは、麟太郎に認められたからではなく、容堂候にその能力を買われたからでした。幾ら何でも、幕臣が土佐藩の人間を武士に出来るはずは無いですからね。しかし、以前の半平太の反応も含めて、長次郞への風当たりの強さを表す演出が続いています。史実においても同様だったらしく、通常は長次郞の人柄にその原因が求められるのですが、ここでは町人上がりという身分故の偏見として描かれる様ですね。

「土佐藩邸。攘夷を実行した後の事を考えなければならない、その為に長州、薩摩、越前の同志と協議しなければならないと半平太。そして、収二郎に仲間を連れて先に行ってくれと頼みます。一人取り残された以蔵は、自分には何も命じてくれないのかと半平太に問いかけます。半平太は以蔵に大きな仕事を頼むと答えます。」

「収二郎は仲間を先に遣り、自分は用があると後に残ります。彼は土佐藩の重役に会い、半平太に代わって収二郎こそが土佐藩をまとめていくべきだと唆されます。」

ドラマでは半平太を裏切る収二郎ですが、史実においてはこの時点で容堂の勘気を被って留守居役を免じられ、軟禁状態に置かれていました。裏切るも何もあったものでは無いのですが、こではつまらぬ裏切り者に仕立て上げられ、ちょっと可愛そうな気がしますね。

「京都、麟太郎の滞在先。偽名を使い、面会を申し込んだ以蔵。麟太郎の部屋に通されて、刀に手を掛けた時に、龍馬が一緒だと気付きます。驚いて顔を伏せる以蔵。麟太郎の話は、軍艦で上洛するはずだった将軍が、船が沈んだらどうすると問題になり、結局は供を従えて陸路をやって来た、その費用は100万両も掛かったというものでした。」

麟太郎が言っていた将軍の上洛の経緯とは、一時は麟太郎の建言によって軍艦による上洛が実現する手筈になっていました。ところが、横浜で起こった生麦事件の影響で、江戸湾に英国の軍艦が集まりだした為に、不測の事態を憂慮して陸路に変えたのでした。麟太郎は、この弱腰を非難していたのですね。

「龍馬は以蔵に気付き、逃げようとする彼を引き止めます。麟太郎は地球儀を持ち出し、以蔵を説得に掛かります。麟太郎の説明を聞き、日本の小ささに驚く以蔵。初めて地球儀が役に立ったと喜ぶ麟太郎。」

「龍馬と以蔵を連れて、呑みに出た麟太郎。龍馬から海軍塾生達が戦争をする気で居ると聞かされた彼は、放っておけと答えます。海軍は西洋文明そのものであり、それに触れた者は西洋の偉大さに気付き、戦争を仕掛けようなどとは考えなくなる。そして、藩の隔て、上下の隔ての無い塾で学ぶ内に日本人としての自覚が芽生えるのだと諭します。」

戦争をしないための海軍と龍馬は言っていますが、いざとなれば闘わざるを得ない訳であり、また戦闘力の無い海軍など抑止力とはなり得ないでしょう。訓練は戦闘力を高めるためにあると言って良く、このドラマにおける龍馬の極端な平和主義には、幕末期においては違和感を感じずには居られません。

「以蔵に麟太郎の用心棒になれと頼んで大阪に帰る龍馬。半平太に叱られると困惑する以蔵ですが、麟太郎はよろしく頼むと言って以蔵を丸め込みます。」

以蔵が麟太郎の用心棒をしたのは、史実にあるとおりです。ただし、麟太郎によって感化された訳ではなく、龍馬の立っての願いだった様ですね。

「容堂候に再度拝謁した半平太。彼は、攘夷が実行された暁には、将軍、長州、薩摩と共に日本の舵取りをして貰いたいと言上します。しかし容堂候は、関ヶ原の恩が有る限り、将軍とならぶなどとはおこがましいと相手にしません。そして、明日にも土佐に帰ると言い出します。驚いて引き留める半平太ですが、容堂候は攘夷派が強欲な公家を動かしている事が我慢できないと言って、扇子を半平太に投げつけます。」

容堂候は、収二郎を軟禁状態にしただけではなく、軽格の下横目を次々に罷免するなど、じわじわと土佐勤皇党に対する締め付けを強化していました。その一方で、半平太を京都留守居加役に任ずるなど、硬軟両面で勤皇党に揺さぶりを掛けていたのでした。この時期は半平太に対して露わな感情をぶつける事はまだしておらず、実際の容堂候はもっと巧みに事を運んでいた様です。

「自室に戻った半平太。収二郎の名を呼びますが、彼は居ませんでした。」

先に書いた様に、史実においても収二郎は軟禁状態にあり、半平太の側から姿を消しています。史実と虚構を上手に重ねている訳で、こういうところがこのドラマの巧みなところですね。

「三条候に拝謁する収二郎。彼は土佐藩の改革を命じてくれたら、自分が必ず実現すると言上しています。」

「どうして誰も居ないと嘆く半平太。」

「麟太郎の用心棒となっている以蔵。」

「これで半平太の周囲には誰も居なくなったとほくそ笑む容堂候。」

「文久3年4月20日。帝に実行の期日を5月10日と答える将軍。」

「海軍塾に帰った龍馬。彼は再び修行に精を出すのでした。」

参考文献:「龍馬 最後の真実」 菊池 明、「坂本龍馬」 松浦 玲、「坂本龍馬 海援隊始末記」 平尾道雄、「龍馬の手紙」宮地佐一郎、「「武市半平太伝」 松岡 司 「龍馬の夢を叶えた男 岩崎弥太郎」 原口 泉

2010年5月 1日 (土)

京都・洛東 新緑2010 ~祇園白川~

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妙に寒い日が続いた今年の春でしたが、5月を迎えてようやく初夏らしい陽気になりました。ここ祇園白川もまた、新緑が美しい季節になっていたのですね。

Gionsirakawa100502

初夏の日差しを受けて、もみじの緑が白川の清流に映えて爽やかに輝いて見えます。やっと巡ってきた季節を喜んでいるかの様ですね。連休中は、ずっとこんな日が続いてくれると良いな。

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