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2010年1月

2010年1月31日 (日)

龍馬伝5 ~黒船と剣~

「嘉永6年6月3日、黒船が浦賀に来港します。幕府の方針は、浦賀奉行に交渉をさせ、時を稼ぐと言うものでした。しかし、ペリーは、大統領親書を受け取らないのなら、兵を上陸させ、江戸に向かうと脅しを掛けます。驚いた幕府は、沿道の防備の強化を命じます。」

「戦になると大混乱の中、鎧、兜を買いに走る龍馬ですが、付け方すら判らない有様でした。」

「龍馬は藩から沿岸警備の任に着くように命じられます。海岸沿いに大筒が並べられる中、釣り鐘を積んだ荷車を押す龍馬。こんなものを何に使うのかと訊ねると、黒船から見れば大筒に見えるという答えが返って来ました。」

幕府は品川沿岸に藩邸を持つ諸藩に沿岸警備を命じ、その中に土佐藩も含まれていました。江戸遊学中の龍馬もまた警備兵として駆り出された様なのですが、直接の記録はなく、後に出てくる彼の手紙に記されているだけです。それにはアメリカ沙汰と記されていますが、具体的に何をしたのかまでは判っていません。

「浦賀。長崎に回れと言う一点張りの回答に業を煮やしたペリーは、ミシシッピ号を江戸湾に向かわせます。」

「槍を手に砂浜に、他の藩士と共に途列する龍馬。好奇心が抑えられない彼は、浦賀に黒船を見に行くと警備の陣を抜け出します。」

「浦賀近くに来たものの、警備する兵士に見つかり、捕まりそうになる龍馬。何とか逃げ切り、海岸に出たところで桂小五郎と出会いました。桂の言う通りだったと感心する龍馬に、松陰先生の受け売りだったと白状する桂。そこに、黒船が現れます。そのあまりの迫力に度を失い、恐怖のあまりに刀を抜いて叫びを上げる龍馬ですが、波に掠われそうになるところを桂に助けられます。」

「桂は黒船は炭を燃やして蒸気を作り、その力で水車を廻している、色が黒いのは錆止めにタールを塗っていせいだと学のある所を示します。あんな巨大なものがこの世にあるとはと驚きを隠せない龍馬。」

「ペリーの脅しに、ついに大統領親書を受け取った幕府。ペリーは来年親書の返事を受け取りに来ると言って帰りますが、幕府のあまりの弱腰に、世間が沸騰し始めます。」

「土佐。ペリー来航の噂に、いきり立つ半平太の門人達。神州を偉人の靴で汚させる訳には行かないと、攘夷を決意する半平太。」

「弥太郎の塾。ここでもペリーの似顔絵を中心に、子供達が騒いでいます。これからどうなるのかと不安がる加尾に、開国を迫るアメリカと、先に開国をした清国は、国を乗っ取られたと説明する弥太郎。これからは、自分の様な優秀な人物が用いられる時代が来ると、自信がありそうです。」

「平井家。弥太郎の塾から戻った加尾を、兄がなぜ塾になど行くと問い詰めます。加尾は、嫁入りを断った自分は一人で生きていくよりない、それには世の中を知らなくてはならず、学問が必要なのだと一蹴します。しかし、彼女の脳裏にあったのは、江戸に出て行った龍馬の言葉でした。」

「千葉道場。なぜか気合いが入らない龍馬。いぶかる佐那に、黒船相手には剣は役に立たない。自分はこんな事をしていて良いのか、判らなくなったと言ってしまいます。それを聞いた佐那は、父や兄の前では決して口外するなと釘を刺します。」

「佐那の部屋。縫い物をしている佐那の下を、兄の重太郎が訪れます。佐那の龍馬への思いを知った重太郎は、龍馬と所帯を持て、そうすれば龍馬と二人で道場をもり立てていけると大乗り気で部屋を出て行きます。」

佐那が龍馬を好きだったという事は、後年の佐那の懐古談から明らかとされています。でも、ドラマの年にはまだ14歳で、恋愛沙汰に及ぶのは2度目の江戸修行からという見方の方が一般的ではないでしょうか。このドラマは、登場人物の年齢が実際よりも高すぎるのが難点ですね。

「長州藩邸に桂を訪ねる龍馬。黒船を見て、何も思わないのかと問いかける龍馬に、開国やむなしと言ったのは佐久間象山、異国と仲良くするなど言語同断と言ったのは斉藤弥九郎、どっちが正しいのかは自分にも判らない、だから学問に励んでいると答える桂。今さら剣を学んでどうなると問いかける龍馬ですが、桂は剣を止めるのは武士を捨てる事だと言い、自分の生き方に係わる大事な事を他人に相談するなと突き放します。」

「大統領親書の和訳が成り、いよいよ対応を迫られた幕府ですが、この切所で将軍家慶が亡くなり、跡を継ぐのは暗愚と名高い家定でした。その家定は、殿中でアヒルを追いかけて遊んでいる始末です。思いあまった阿部老中は、親書の内容を諸大名に公表し、広く意見を集める事にしました。」

家定のアヒル追いが出てきましたね。ここでの家定は篤姫の時とは異なり、全くの愚者として描かれるようです。堺雅人の家定は面白かったのだけどなあ。

「この意見洞開は各地に及び、土佐においても家臣から意見書が集められる事になりました。ここぞとばかりに、意見書を書く半平太と弥太郎。」

「意見書を前に、家臣を抜擢する山内容堂。彼が選んだのは吉田東洋でした。容堂は彼を参政に任命します。そして、半平太もまた容堂の目に止まり、お褒めの言葉を頂いたのでした。」

ドラマの容堂公は白髪の老人、東洋もまたどう見ても60過ぎの様に見えましたが、実際には容堂はこの時27歳、東洋も37歳でした。これって、どういう時代考証なのでしょうね。容貌の表現は自由という事なのかしらん?それとも、悪役にはふさわしい年回りがあるという事なのかな。でも、容堂と東洋に対する印象が大きく変わってしまう訳で、幾ら何でもこれは酷い設定だと思いますね。

「弥太郎の塾。加尾から、弥太郎の意見はどうなったと聞かれますが、自分はもっと世の中が切羽詰まった時に意見を言うのだと応えます。どうやら、彼の意見書は無視されたようですね。」

弥太郎が意見書を書いたという話は伝わりませんが、彼が世に出るきっかけになったのは、東洋の塾に入ったからでした。それはこの翌年の事、同じ塾には後藤象二郎や間崎哲馬らが居ました。

「坂本家。龍馬からの手紙に盛り上がる坂本一家。今度戦になったら、異人の首を討ち取って土佐に帰ってくると勇ましい龍馬の言葉に歓声を上げる人々ですが、一人乙女だけは龍馬の本心は別にあるはずと手紙に書いて送ります。その手紙を読み、あの手紙は嘘だ、自分らしい生き方は何だと悩む龍馬。」

龍馬が異人の首を討ち取って帰ると書いた手紙は実在します。龍馬の手紙では最古とされるもので、嘉永6年9月23日付け、父の八平に宛てたものでした。アメリカ沙汰の事は兄宛に書いて送ったとあるのですが、残念ながらそちらの手紙は残って居らず、具体的な任務については判りません。異国船御手当は解かれたが、来春にまた人数に加わるはずとあり、近く戦になりそうだが、その時は異人の首を討ち取り、帰国すると記されています。

このドラマでは、龍馬は最初から平和主義者だという位置付けの様ですが、実際には最初は単純攘夷主義者であったという見方が一般的ですね。まあ、ここはドラマの演出の範疇という事で流すところですか。

「千葉道場。龍馬の迷いを見抜いた定吉は、龍馬に立ち会いを求めます。懸命に打ち込む龍馬ですが、師匠には及びません。心の在りかを見失った者に剣の修行は出来ないと言う師匠に、黒船相手では剣は役に立たない、何のために修行しているのか判らないと正直に答えます。師匠は、剣の修行をしないのならここに居る必要はない、今すぐ出て行けと破門を言い渡してしまいました。」

「悄然と道場を出て行く龍馬。気遣わしげな佐那。父の言葉を思い出し、とんでもない事をしてしまったとしょげかえる龍馬。」

この下りは全くの創作で、ドラマの演出と言うしか無いでしょう。まだまだ普通の悩み多き青年という設定なのでしょうけど、二度目の江戸修行はどうするつもりなのでしょうね。

龍馬が剣の修行だけでは駄目だと思った形跡は確かにあり、西洋流砲術を学ぶべく佐久間象山の門を叩いています。しかし、剣術の修行をおろそかにしたという事実は無く、土佐帰国後には日根野道場で中伝の免許を与えられている事からも、この頃は剣術一筋だった事が窺えます。

参考文献:「龍馬 最後の真実」 菊池 明、「坂本龍馬」 松浦 玲、「坂本龍馬 海援隊始末記」 平尾道雄、「龍馬の手紙」宮地佐一郎、「「武市半平太伝」 松岡 司

2010年1月30日 (土)

平成22年(2010年) 今年の恵方は西南西 

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今年も節分の季節がやってきました。節分と言えば恵方巻。関西から始まったこの風習も、今ではすっかり全国に定着した様です。

そこで気になるのが今年の恵方ですが、表題に掲げた様に「西南西」となります。これって2005年と同じなのですが、実は5年周期で回って来るのですね。

暦を表すのに干支(えと)がつかわれますが、その干の方には甲・乙・丙・丁・戊・己・ 庚・辛・壬・癸の10通りがあり、十干と呼ばれます。このうち、

甲と己の年は東北東 2011年(平成26年)・2016年(平成31年)

乙と庚の年は西南西 2010年(平成22年)・2015年(平成27年)

丙と辛の年は南南東 2011年(平成23年)・2016年(平成28年)

丁と壬の年は北北西 2012年(平成24年)・2017年(平成29年)

戊と癸の年は南南東 2013年(平成25年)・2018年(平成30年)

という具合に恵方は決まっているのですね。ですから、5年周期で同じ恵方が巡ってくる(南南東は重複がありますが)という訳です。これを覚えておけば、その年の恵方で迷わなくて済むのですが、今はコンビニやお寿司屋さん、果ては洋菓子屋さん(恵方ロールを売っている)にまで掲示されていますから、それほど頑張らなくても判るかな。

さて、冒頭に掲げた写真は廬山寺の「追儺式鬼法楽」でのひとコマです。法要の輪の中に三匹の鬼がやって来て荒れ狂るうのですが、最後は法力によって退治されるという、なかなか勇壮な行事ですよ。

毎年、京都の節分には沢山の行事があり、厄払いも兼ねて訪れるのを楽しみにしているのですが、今年はどうしても休みを取る事が出来ませんでした。残念ではありますが、仕事の方が大事ですからね。なので、家に帰ってから豆撒きと恵方巻で過ごす事と致します。京都の行事の方は、京都ブログを巡って楽しませて頂きますね。

2010年1月29日 (金)

京都・洛西 冬はつとめて2010 ~鳥居本~

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冬の嵯峨野巡り、最後は鳥居本です。ここも紅葉の名所ですが、冬枯れの景色もまた絵になるところです。

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鳥居本という地名は結構広く、祇王寺への分かれ道の辺りからずっと続いています。重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、昔ながらの町並みが今に伝わって来ている訳ですね。

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その中でも、白眉はやはり一の鳥居近くかな。二つの鮎茶屋が抜群の風情を見せてくれます。

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鳥居本という地名の起こりになったとも言われるのが、この一の鳥居です。鳥居の主は愛宕神社で、京都盆地の周辺では一番高い愛宕山の山頂に鎮座しています。このあたりは愛宕神社への参道にあたり、鳥居本は門前町として発展してきたのですね。

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鳥居を潜ったところにあるのが平野屋さん。奥嵯峨を代表する、時代を超えた佇まいですね。

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つたやさんの苔生した屋根です。とても美しくはあるのですが、これって大丈夫なのかと心配になりますね。水分を含んで重そうですし、湿気で屋根が腐ってしまうのではないかと余計な事を考えてしまいます。

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京都の冬の天気は変わりやすいですね。さっきまで青空だったのが、何時の間にやら曇り空になっていました。明け方よりも風が冷たくなったような気がします。

それにしても、冬を表現するのって、結構難しいものですね。凛とした美しさを撮りたかったのですが、なかなか上手くは行きませんでした。でも、いつもとは違った事に挑戦するのは面白かったです。またやってみたいですね。

2010年1月28日 (木)

京都・洛西 冬はつとめて2010 ~化野念仏寺~

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早朝に嵯峨野を巡るのは気持ちの良いものなのですが、弱点は拝観出来るお寺が無いという事ですね。多くの所が9時始まりであり、その時丁度通りかかったのがここ化野念仏寺でした。

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開門してすぐの事ですから、当然他には誰も居ません。この境内を独り占め出来る訳ですから、まさしく早起きは三文の得という事でね。

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秋には素晴らしい紅葉が見られる寺なのですが、この石仏群には冬枯れの景色の方が、むしろ似合っている様な気がします。

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冬でもその姿と色が変わらないのが、竹林のありがたさですね。この瑞々しい緑は生命感に溢れており、縁起物とされて来ただけの事はあります。

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もっとも、狙っていた冬景色とは違う絵になってしまいました。ここで冬を表現しようと思えば、雪に頼る他は無いでしょうね。

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竹林の中に、木で出来た階段を見つけました。風情があると言いますか、物語が始まりそうな小道ですね。

竹林を堪能した後は、一の鳥居へと向かいます。

2010年1月27日 (水)

京都・洛西 冬はつとめて2010 ~落柿舎~

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1月も23日になろうと言うのに、落柿舎にはまだ柿が残っていました。枝に付いているのがやっとという、完熟状態でしたけどね。ここに雪が積もれば、さぞかし絵になるだろうなあ。

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前の農地はすっかり冬の景色で、わずかに緑の野菜(何なのかは判りませんでした)が植わっているだけです。

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その片隅で、白い花のような物を見つけました。近づいてみると、綿だったのですね。植物園では見た事がありますが、畑では初めてです。結構大きく爆ぜるものなのですね。

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完熟の柿は、鳥には人気が無いのかと思っていたら、どこからともなくメジロの群がやって来ました。夢中で啄んでいる様子を見ると、よほど甘くて美味しいのでしょうか。この様子だと、ここの柿が無くなるのも、そう遠くない日でしょう。

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そのメジロの群の中に、一羽だけ毛色の違う鳥が居ました。どうやらジョウビタキの様ですね。こういうのって、メジロと一緒に行動しているのか、それともたまたま紛れ込んだだけなのか、どちらなのでしょう?

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実は、この畑で期待していたのは霜柱でして、冬の朝にふさわしい被写体だと思っていたのです。ところが、見つけたのは早くも咲き出したホトケノザでした。冬ならぬ、早春の使者ですね。

またしても当てが外れましたが、気を取り直して化野へと足を向けます。

2010年1月26日 (火)

京都・洛西 冬はつとめて2010 ~竹林の小道~

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朝早くに嵯峨野巡りをするメリットは、何と言っても人通りが少ないという事に尽きるでしょう。いつも人出で溢れている竹林の小道も、行き交う人はほとんど居ません。

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普段は若者で賑わう野宮神社もこの通り、何とも静かなものでした。その中で、熱心にお参りする女性が一人、この時間ならきっと良く願い事を聞いて下さるのに違いないでしょうね。

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朝日に照らされた竹林というのも、良いものですね。夕陽とは違った柔らかい光が、竹の緑を美しく見せてくれています。

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山陰本線の踏切を渡って北側のエリアに来ました。ご覧のとおり、ひとっ子ひとり通りません。こんな景色は、ちょっと珍しいでしょう?

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すると、突然警報機が鳴って遮断機が下りてきました。すぐにでも電車が来るのかと思ったら、なかなか来ないですね、これが。待つ事数分、やっと電車が通過して行きました。静の中に動が訪れた瞬間でしたね。

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嵯峨野巡りをしていると何度となく横断する線路ですが、これはこれで絵になります。自然そのものの竹林とはまるで異質の存在ですが、利便性の為には無くてはならないものであり、上手く棲み分けているといったところでしょうか。

冬の朝の嵯峨野巡り、次は落柿舎を目指します。

2010年1月25日 (月)

京都・洛西 冬はつとめて2010 ~天龍寺~

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渡月橋で日の出を見た後、やって来たのは天龍寺です。ここの庫裏は東向きに建っていたのですね。向かい合うと丁度順光になって、青空が気持ちよく写ってくれました。

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当然ながら、拝観時間にはまだ早く、私の他には観光客は誰も居ません。それなのにここに来たのには実は狙いがあって、托鉢に出る雲水達の姿を撮ろうと思ったのです。ところが、時間が悪かったのか、あるいはこの日は出ないのか、空振りに終わりました。白い息を吐きながら歩く様は、冬景色と呼ぶのに相応しいと思ったのですけどね。

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八幡宮のお社です。最近塗り直されたのかな、朝日を浴びて輝いて見えます。

托鉢僧の姿は見えなかったのですが、出勤して来る女性職員は何人か見かけました。多分、拝観受付や経理を受け持つ人達なのでしょうね。こんなお寺でも普通の会社と同じ様な出勤風景があるというのは、ちょっと面白いと感じました。当たり前と言えば当たり前なのでしょうけどね。

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塔頭の弘源寺です。毘沙門堂の前には、獅子に背に乗った文殊菩薩像が置かれています。緑青の乗った像と、背景の青空が調和して、とても美しい絵になっていました。

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その像の前では、ロウバイが花盛りとなっていました。澄んだ朝の空気の中に爽やかな香りが漂い、身体の中に芯が通る様な思いがしました。

弘源寺では3月20日から特別公開があるとの事で、毘沙門天像も見る事が出来るそうです。桜時分に合わせてくると丁度良いかな、なんて思っているところです。

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三秀院の東向大黒天です。背景の山は、小倉山と嵐山と言って良いのかな。ここも順光となるので、青空が綺麗に写ります。

天龍寺では、2月3日の節分の日に、七福神巡りが行われます。7つの塔頭を巡って7枚の御札を集めるのだそうですが、ここ東向き大黒天もその一つですね。盛大な豆撒きも行われるそうで、一度は行ってみたいところですね。

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長辻通沿いには、いくつかの石仏が置かれています。これはその中のお地蔵様。優しそうなお顔が良いですね。一番右端の小さな像もお地蔵様で良いのかな。

この後は竹林の小道を通って、嵯峨野巡りへと向かいます。

2010年1月24日 (日)

龍馬伝4 ~江戸の鬼小町~

「溝渕広之丞と一緒に江戸に着いた龍馬。初めての大都会の賑わいに、お上りさんよろしく、心が躍ります。」

龍馬が江戸に着いた日は記録に残って居らずはっきりとはしませんが、嘉永6年4月の事ではないかとされています。土佐出立の日は3月17日とされており、当時の行程が30日程度であった事を考慮すれば、4月中頃となりますね。

「龍馬達は土佐藩中屋敷に落ち着きました。しかし部屋は狭くて寝る場所も満足になく、足を押し入れに突っ込んで寝る有様です。広之丞は、浅草や日本橋の見物に行こうと誘いますが、龍馬は剣術修行に来たのだから、まずは道場にあいさつに行くと言って出掛けます。」

龍馬が江戸のどこに落ち着いたのかも、実は正確には伝わっていません。汗血千里の駒、維新土佐勤皇史などでは土佐藩上屋敷となっているそうですが、下士に過ぎない龍馬が上屋敷に入れるはずもありません。現在では、前後の様子、あるいは千葉道場の推定位置から考えて、土佐藩中屋敷ではないかと言われています。

「やって来たのは北辰一刀流、千葉定吉の道場でした。案内を請い、中にはいると何やら子供達の声が聞こえてきます。大道場に通された龍馬が見たのは、大勢の子供達が竹刀を振る光景でした。その子供達を教えていたのが千葉重太郎、定吉の息子です。」

龍馬が最初に江戸で通った道場にも、大千葉と呼ばれた千葉周作の玄武館という説と小千葉と呼ばれた定吉の道場とする説の二通りがあります。しかし、その後、定吉から免状を受けている事から、小千葉道場とする説が有力ですね。ただ、二度めの留学の際には、玄武館に通っていたという記録も残っているそうです。

「龍馬は重太郎に、道場で太鼓を叩いてはどうかと提案します。その方が楽しかろうと言う龍馬に、一緒に教えてやってくれと頼む重太郎。」

「本道場に案内された龍馬。そこでは大道場とは違って、猛者達が猛烈な稽古に励んでいました。思わず気圧された様子の龍馬。定吉に紹介状を差し出し、入門の許しを請う龍馬に、定吉は娘の佐那と立ち会う様に申し渡します。」

「相手が女と知り、とまどう龍馬。しかし、立ち会うと一方的に打ち込まれ、為す術もなく一本を取られてしまいます。もう一本とやっきになる龍馬ですが、定吉はそれまでと認めません。」

「藩邸に戻った龍馬は広之丞から、佐那は鬼小町と呼ばれる有名な猛者であると知らされます。改めてその凄さを知り、稽古に励む龍馬。」

佐那は天保9年生まれと伝えられ、この年16歳でした。龍馬はこの10年後に乙女宛に手紙を書き、佐那の事を紹介しているのですが、馬に乗り、剣も長刀も強く十四歳で皆伝を受け、力は並の男に勝り、十三弦琴が弾けて絵も描ける、そして心映えは素晴らしく、それでいて物静かな人だと激賞しています。そして面白い事に、加尾と比べて佐那の方が少し美人だとも言っていますね。まさに鬼小町の名が相応しい女性だった様です。

「藩士達に声を掛け、今日から自分の道場で学べと誘い、剣術だけでなく学問も教えてやると誘う武市半平太。彼の教え方は判りやすいと、盛況となりつつあるようです。」

「道で鳥かごを売る岩崎弥太郎。しかし、容易な事では買い手が見つかりません。そこに半平太がやって来ました。弥太郎に自分の道場で学問を教えやるという半平太に、教えて貰う程の事はないとそっけない弥太郎。では、剣術を学べと重ねて誘う半平太に、今の内に道場を大きくしておかないと、江戸帰りの龍馬が道場を開けば負けてしまう、半平太にも嫉妬心があったのか、と毒づく弥太郎。核心を突かれ、苦しそうな半平太。」

半平太が弟子を取り立てたのは、この年の三年前、小野派一刀流の初伝を受けてからの事とされます。その2年後には中伝を受けたとされていてますが、特に道場を大きくしたとは伝わりません。このあたりは創作と思われますが、龍馬に対する半平太の嫉妬心は、今後のドラマの展開に影響を与えそうですね。

「土佐、龍馬の手紙を家族で読む坂本家。元気に修行に励む様子にみんな嬉しそうですが、唯一人乙女だけは納得が行かない様子です。」

「江戸、千葉道場。重太郎から佐那は幼い頃から父に仕込まれ、今では道場で誰も勝てる者は居ないと教えられる龍馬。重太郎は豆を床に撒き、下を見ずに、かつ豆を踏まないようにすり足で動けと稽古を付けてやります。」

「稽古を終えた龍馬が井戸で身体を洗っていると、佐那が身体を拭くのは道場の裏でしなさいと注意します。龍馬は、佐那はいつもそうか、笑ったり酒に酔ったりする事はないのかと問いかけます。そして、自分の姉も仁王様と呼ばれる程の豪傑だが、いつも楽しそうに笑っていると言いますが、佐那は楽しそうな家族ですねと言い捨て、立ち去ります。」

「土佐藩中屋敷。乙女の手紙を読む龍馬。故郷からの便りに嬉しそうな龍馬ですが、乙女は剣術の修行だけで、広い世間を見るという目標はどうなったと責めてきます。自分は剣術の修行だけで精一杯だとうなる龍馬に、自分が世間を見せてやると誘い出す広之丞。」

「やって来たのは、怪しげな店でした。広之丞は、料理を運んでくる女に金を渡せば、二階で添い寝をしてくれるのだと龍馬に教えます。いわゆる飯盛女でしょうか。しかし、龍馬は父の教えがあると言って、飯を食ったら帰るという事を聞きません。そんな龍馬を置いて、女と二階に上がっていく広之丞。」

「一人残された龍馬に、向こうから声を掛けてくる武士が居ました。女より父の教えを取るとは見上げた者だと褒める男は、なぜか顔に髭か書かれています。自分は千葉道場で修行しているという龍馬に、斉藤道場に居る長州藩士桂小五郎と名乗ります。江戸に来て日本の大きさを知ったという龍馬に、日本より世界の方がずっと大きい、その世界に日本が狙われていると叱りつけ、二階で女と添い寝している暇は無いと演説を打ちます。その二階では広之丞が女と拳を討っていました。負けると顔に墨で落書きをされるのですね。すると、桂は?」

桂は斉藤弥九郎の練兵館で修行をしたと伝わります。彼が江戸に来たのは嘉永5年の事で、龍馬に先立つ事1年ですね。

「江戸城中。老中達が、迫り来るペリー艦隊に対する対策を話し合っています。国の大事を世間に知らせたくなという意見が多い中で、一人阿部老中だけが日本に万に一つの勝ち目もない、アメリカに立ち向かうには広く諸侯にも意見を求めなければならないと主張します。」

「土佐、半平太の道場。真剣で剣舞を舞う半平太と門弟達。半平太には師範としての風格が備わってきた様です。」

「弥太郎の家。父が肩を抜けたと言って働かず、いよいよ食い扶持に困った弥太郎は、塾を開くと宣言します。」

「弥太郎の塾。百姓の倅らしい子供達が数人集まっています。彼等の前で素読を教える弥太郎ですが、満足に字が読める子供は居ません。かんしゃくを起こす弥太郎の前に、佐那が現れました。彼女は縁談を断り、花も一弦琴の稽古も止めた、どうか学問を教えて欲しいと頼みます。思わず、夜明けだと叫ぶ弥太郎。」

弥太郎が道場を開いたという記録は無いはずで、これも創作でしょうね。でも、加尾が習いに来るという設定は荒唐無稽ながら面白く、夜明けだと叫ぶ弥太郎の描写は秀逸でした。

「大道場の近くを通りかかった佐那。太鼓の音と共に楽しげな掛け声が聞こえてきます。佐那が道場を覗くと龍馬が稽古を付けているところでした。佐那に気が付き、子供達が騒ぎます。龍馬は佐那に稽古を付けてやってくれと頼みます。佐那は龍馬と並んで竹刀を振り、子供達に稽古を付けてやります。子供達の楽しそうな様子に、思わず笑顔になる佐那。」

「嘉永6年6月。父の下に稽古着を持ってきた佐那。その佐那に、父は自分が仇だとして斬れるかと問いかけます。とまどう佐那に、では龍馬が相手なら斬れるかと重ねて問いかけます。佐那は自分は誰よりも強い、相手が誰でも斬れると応えますが、父は佐那は龍馬には勝てない、女に戻る時が来たのだと告げます。」

「納得の行かない佐那は、道場に居た龍馬に立ち会いを求め、気が乗らないという龍馬に強引に討って掛かります。竹刀を捨て、素手になった龍馬は、打ち込んできた佐那の腕を捉え、足払いを掛けて倒してしまいます。悔し涙を流し、何故自分は女に生まれてきたのかと言う佐那に、あなたは十分魅力的だ、それは剣術の稽古の賜物ではないかと言い聞かせます。そんな二人を陰から見守る重太郎。」

生き生きとした弥太郎の描写に比べて、龍馬の描写はどうも唐突ですね。修行してわずか三ヶ月で佐那を越えたと言うのでしょうか。これって、ちょっと無理がありすぎませんか。

龍馬は北辰一刀流の免許皆伝と言われていますが、実は直接の証拠はなく、残っているのは長刀の免状があるだけです。それを受けたのは二度目の江戸留学の時であり、正真正銘の免許皆伝者である佐那に、この時期の龍馬が勝てたはずはないと思うのですが。この性急な展開は、次を見据えての事なのでしょうか。

「そこに、浦賀に異国船が現れたと知らせが入ります。思わず駆け出す龍馬。浦賀では黒船が現れたと大騒ぎになり、逃げ出した住民達が右往左往していました。」

次回は黒船の来港が描かれるのですね。予告編によると、アヒルを追いかける家定公も出てくる様子です。篤姫で描かれた家定との対比にも注目ですね。

2010年1月23日 (土)

京都・洛西 冬はつとめて2010 ~嵐山・渡月橋~

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京都の冬景色を求めて、明け方の嵐山に行ってきました。枕草子に「冬はつとめて」とある様に、凍てつく寒さの中で迎える日の出には、さぞかし風情があるだろうと期待していたのです。

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ところが、今日は意外と冷え込みが弱く、思った程寒くはないのですね。川霧が立ちこめている様な情景を期待していたのですが、あてが外れてしまいました。でも、見事な朝焼けを見る事が出来たのは収穫でしたね。

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朝日が昇り始めると、一気に空の色が変わります。それまではどこかくすんだ様な空だったのが、透明感のあるきれいな青空になりました。

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その青空を強調してみました。一日の始まりを迎えるのにふさわしい、爽やかな色ですね。

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水面にきらめく朝日の色です。こうしてみると夕陽と区別が付きませんが、嵐山では西側は山ですので、朝にしか撮れない景色です。

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せっかくの渡月橋なのに、遠くからではほとんど写らないので、近くに寄ってシルエットにしてみました。やはり、この昔ながらの橋は風情がありますね。

この後は、早朝の嵯峨野巡りをしてきました。その様子は月曜日から順次アップして行きますね。

2010年1月22日 (金)

京都・洛北 早春の花2010 ~京都府立植物園~

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それほど雪が降らない京都では、冬景色と言ってまず頭に浮かぶのは、冬枯れの木々の姿ではないでしょうか。中でも私が好きなのは、青空を背景にしたこんな景色ですね。

寒々とはしていますが、不思議と調和の取れたシルエットを見ていると、そこに秘められた生命の躍動を感じたりもします。

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その冬枯れの木々の下では、早くも早春を告げる使者が咲き始めていました。雪にその色を分けてあげたというスノードロップですね。この花が雪の中で咲くところをみたいのですが、なかなかそのチャンスは巡ってきません。

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その近くではスイセンが咲いていました。早春に多いという黄色の花が鮮やかですね。

ところで、この花を見ると、「新選組!」の一場面を思い出してしまいます。

「新選組を抜け出した山南が、明里を連れて山道を歩いていると、斜面一面にこの花が咲いていました。思わずその花を摘んで山南に差し出す明里。彼女は「菜の花!」と言って花を手渡すのですが、山南は花も葉の形も咲く時期も、何もかも違う、これはスイセンだとにべもありません。菜の花も咲いているよと食い下がる明里に、そんなはずはないと言い切る山南。」

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「その山南は壬生の屯所に連れ帰られ、切腹を命じられます。山南に菜の花を見せたい一心の明里は、あたりを駆け回ってひとむらの菜の花を見つけて来ます。死の直前、窓越しに明里からその花を示された山南は、私の負けだと言って、笑って受け取ったのでした。」

菜の花は、この時期確かに咲いていますね。ちょっと意外な感じがしますが、この花期の重なりを上手く取り入れたドラマの見事な演出でした。それにしても、美しくも悲しいシーンでしたねえ。

そんな儚さを湛えたところが、早春の花にはあるのかな。冬独特の斜光線がそんなふうに見せるのかも知れませんね。


2010年1月21日 (木)

京都・洛北 ロウバイ2010 ~京都府立植物園~

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京都府立植物園のロウバイが満開になっています。

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咲いている場所は梅林で、冬枯れの景色の中、この一角だけがほのかに黄色く、ほわっとした暖かさを感じさせてくれます。近づくと爽やかな香りが漂ってきますよ。

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盆栽置き場の前にあるのがソシンロウバイ。こちらはまだ咲き始めで、数輪だけが咲いていました。それでも、ちゃんと香りがするのはさすがと言いましょうか。

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梅林では、早咲きの梅がちらほらと咲いていました。あと半月もすれば、見頃になる木が出てくる事でしょうね。この花を追う日が来るのも、間もなくとなりそうです。

2010年1月20日 (水)

京都・洛北 椿2010 ~京都府立植物園~

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京都府立植物園で椿が咲いています。一口に椿と言っても品種は様々で、早いものは10月下旬から咲き始め、遅いものは4月下旬から5月初め頃まで咲いています。

その中で今は冬の寒さに耐えて咲く品種が花盛りとなっており、この桃色雪中花はその代表格と言って良いのでしょうね。この花に雪が積もると、それは美しい絵になりますよ。

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こちらは菊冬至。その名の通り、冬至前後が盛りとなる花の様ですね。ですから今は、少し時期はずれとなりつつある様です。でも、陽の光に透かした花色は、とても美しいものがありましたよ。

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一輪の花の中に沢山の花を詰め込んだ様に咲くこの椿は、紅唐子。雄しべが変形して花びらになったそうで、見るからにとても豪華な花です。

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こちらは同じ唐子咲きの京唐子。そのあでやかな姿は、舞妓を思わすものがありますね。

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最後は土佐有楽。元はと言えば東京にあった有楽椿を、寺田寅彦の父利正が高知に持ち帰って植えたものだそうですが、後に普通の有楽椿よりも花が大きいという事で別種と認定されたのだそうです。

龍馬伝で高知が注目される今年には、ぴったり来る花かも知れませんね。

2010年1月19日 (火)

第28回都道府県対抗女子駅伝

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平成22年1月16日、年頭の京都を飾る風物詩の一つ、第28回都道府県対抗女子駅伝が行われました。我が家が観戦するのは3年連続の事で、今年も昨年に続いて丸太町橋に陣取ってきました。

まずは往路の4区、トップで走ってきたのは千葉代表の西尾千沙選手。京都代表の派手な記録に隠れていますが、第1回大会で優勝したのは千葉代表なのですね。底力がある事を感じさせるチームです。西尾選手は首位を守り抜き、5区の選手へとたすきを渡しています。

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2位で走ってきたのは、岡山代表の泉有花選手。去年は惜しくも2位に終わった岡山は、今年こそ優勝をと意気込んでいました。そんな中で泉選手は区間3位の好タイムで走り、前を行く千葉との差を17秒も縮めてみせるという頑張りを見せてくれました。

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意外だったのが、京都代表の小崎まり選手。毎年京都の主力として活躍して来た尾崎選手でしたが、今年は区間15位と冴えない記録で、順位を3位から7位へと大きく落としてしまいました。

直に見ていた時には気付かなかったのですが、写真で見ると左足に大きくテーピングをされていますね。もしかしたら、故障を抱えていたのかな。実力のある選手だけに、ちょっと残念でした。

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駅伝の見所は何も先頭争いばかりではありません、中段の争いも面白いですよ。これはたすきを受けた直後の長野と福井の争いです。

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そのすぐ背後に迫る山口、宮城、福岡の各選手。

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奈良対愛媛のデッドヒート。

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やはり女性だけの事はあって、集団で来るとカラフルですね。こういう競り合いの中では、ちょっとした駆け引きが見えたりするのが面白いです。

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今度は復路の7区を力走する京都代表の伊藤紋選手。区間2位の好記録で、7位に落ちたチームを5位にまで引き上げます。

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最下位を走る沖縄代表にも、沿道からは暖かい拍手が贈られていました。たとえ最下位になっても全力を尽くす、これがチームで争う駅伝の一番の素晴らしさでしょう。

さて、激戦を制して優勝を飾ったのは岡山県代表でした。悲願成就と言っても良いのでしょうね。反対に6連覇を狙っていた京都代表は、前半から中盤にかけての落ち込みが激しく、最後の追い上げで3位に入るのが精一杯だった様です。

やはり9人を粒ぞろいに揃えるのは難しく、また実力があっても当日の体調などに左右されるでしょうから、そうそう何時までも勝ち続ける事はできないのでしょうね。優勝を期待されていただけに残念ですけど、また来年の巻き返しに期待する事にします。

2010年1月18日 (月)

龍馬伝3 ~偽手形の旅~

「武市半平太の道場。大勢の門人達と共に、龍馬と半平太が形の稽古をしています。稽古が終わり、仲間に明日旅立つと告げる龍馬ですが、江戸は厳しいところだと脅されると、辞世の句でも用意した方が良いかと途端に弱気になります。そんな龍馬に大きくなってこいと発破をかける半平太。仲間に景気づけとばかりに井戸水をぶっかけられ、笑顔で行って来ると応える龍馬。」

このドラマにおいては、この時点では龍馬はあくまで普通の青年として描かれるのですね。取り柄と言えばまさに剣術だけ、あまり仲間からも尊敬されているとは言えないキャラクターですが、これからどういう風に成長して行くのかが見物です。

「役所とおぼしき屋敷で、自分を江戸に行かせてくれと訴える岩崎弥太郎。しかし、地下浪人の息子に過ぎない彼は、全く相手にされません。」

弥太郎もまた江戸に出て安積艮斎の門下に入る事になるのですが、それはこの年から3年後の事です。ドラマでは自分で秀才と売り込んでいましたが、14歳の時に藩主の前で御進講をしたと伝わっており、彼の秀才ぶりは周知の事だった様です。

「とある神社で、龍馬の無事を祈る加尾。そこに龍馬が現れます。彼は自分も加尾が好きだと告げますが、それが女性としてなのか、妹としてなのかは判らないと言い、自分が何者かを知るために今から江戸に行くと別れを告げます。」

「龍馬の家。父と兄が上座に座り、龍馬に修行中の心得を言って聞かせます。その様子を見守る坂本家の女性達。」

父から龍馬に贈られた修行中心得大意とは3箇条からなるもので、片時も忠孝を忘れず修行第一にせよ、諸道具に心移りし、金銭を無駄に消費するな、色情にうつり、国家大事の事を忘れてはいけない、心得違いをするなと認められていました。署名は老父とあり、龍馬はこれを守と書いた封書に納め、肌身離さず文字通りのお守りとして持っていたと伝わります。

この心得の原本は京都国立博物館にあるそうですが、現在霊山歴史館で開催中の「大龍馬展」においてその複製を見る事が出来ます。それはドラマに出てきたものよりももっと太い字で黒々と書かれており、まさしく父の権威そのものといった風格があります。

龍馬と言えどもそこは江戸時代の人、家長の権威は絶対だったのでしょうね。そしてまた、こうした訓戒状を与える事は、当時の父としての愛情表現でもあったのでしょう。龍馬はそんな父親の愛情を、真っ直ぐに受け入れていたのでした。

「溝渕広之丞と一緒に旅立つ龍馬。ふと振り向くと加尾が見送ってくれていました。」

ドラマでは父の知り合いとなっていた溝渕でしたが、通常は龍馬の旧友とされています。あるいは新しい研究が行われたのでしょうか。溝渕は龍馬よりも8歳年上で、江戸では佐久間象山塾で砲術を習っていました。龍馬と一緒に江戸に行ったというのは溝渕家の子孫に伝わる話であり、二人して下駄履きで歩いた気楽な旅であったとの事です。

なお、この溝渕との旅行きについては異説もあり、溝渕が佐久間門に入った日付などから事実とは異なるという研究もあります。

「祖母を看病する半平太。そんな夫に江戸に行きたいのかと問いかける妻。親を大事に出来ない者は武士ではないとたしなめる半平太。」

「国境の山中を行く龍馬と広之丞。その背後を不審な人物が付けてきます。足下に転がり出て来た男を誰何すると、なんと弥太郎でした。彼は江戸行きの手形は貰ったが金がないと言い、龍馬に同行を願い出ます。広之丞は渋りますが、龍馬は断る事が出来ません。」

弥太郎の江戸行きは前述のとおり3年後の事であり、この下りは完全なフィクションです。しかし、個性的な弥太郎の描写が秀逸であり、ドラマとしてはとても面白い演出ですね。

「最初の番所。広之丞と龍馬はすんなりと通行を認められますが、弥太郎は倉田安兵衛と名乗ります。唖然とする龍馬達を尻目に、平然と受け答えをする弥太郎。」

「弥太郎の持っていた通行手形は、彼が偽造したものでした。ばれたら打ち首だぞと問い詰める広之丞に、誰にも見破られる訳がないと自信たっぷりに応える弥太郎。弥太郎を振り切るべく道を急ぐ二人と、後を追う弥太郎。」

「弥太郎の家。ばくちに勝ったと上機嫌で帰ってきた弥次郎でしたが、弥太郎が家を出たと聞き、飛び出していきます。」

「半平太の道場。激しく撃ち合う岡田以蔵に、見込みがある、修行次第では龍馬にも勝てると声を掛ける半平太。感激の声を挙げる以蔵。」

「城下の橋で上士とすれ違い、膝を付き見送る半平太。龍馬が先に江戸に行った事が悔しくて仕方が無い様子です。」

半平太の江戸行きもまた、この3年後の事です。自己負担での修行だった龍馬とは違い、藩からの命令を受けてのものでした。ドラマでは龍馬に嫉妬する半平太ですが、藩内で剣術の師匠としての地位を固めていた彼と、一介の郷士の次男に過ぎない龍馬とでは立場に違いがありすぎ、ちょっと無理がある設定ですね。これから先の展開のための伏線なのかしらん。

「半平太の道場に弥太郎を探しに来た弥次郎。あまりに居丈高な弥次郎は、門弟達と大げんかになってしまいます。」

「平井の屋敷。一人部屋の中で一弦琴を弾く加尾。そこに帰ってきた兄、収二郎。これから縁談先に話に行くという兄に、この話は断ってくれと懇願する加尾。」

一弦琴を弾くところは始めて見ましたが、たった一本でなかなか深い音が出るものなのですね。以前にも書きましたが、加尾は一弦琴の稽古を通じて乙女と知り合いになったとされており、ドラマの様に素養があった事は確かな様です。

「宿場町。宿に泊まった龍馬達と、その目の前の路上で寝ころび、これ聞こえよがしに皮肉を言い募る弥太郎。可愛そうに思った龍馬は、彼を宿に入れてやります。」

「風呂から上がり、ばくち部屋の前を通りがかった弥太郎に、やくざ者が声を掛けます。やくざ達は弥太郎の父に貸しがあり、それを返せと迫ります。宿の者の注進で、弥太郎の危機を知った龍馬は、斬り掛かってきたやくざ者を軽くあしらい、弥太郎を救ってやります。しかし、感謝の言葉も返さない弥太郎。父の言いつけを守れなかったと悄然とする龍馬。」

「弥太郎の家。喧嘩でぼろぼになった父が帰ってきます。弥太郎が見つからなかったと妻の膝に泣き崩れる父。情けなさを込めて、夫を拳で叩き続ける妻。」

「夜、龍馬の父の書き付けをそっと覗き見る弥太郎。起きていた龍馬は書き付けを大事そうに仕舞い、父は自分をとても大事にしてくれている。この書き付けは宝物だと言い、弥太郎の父の思いもきっと同じだと語りかけます。しかし、地下浪人として辛酸を嘗めてきた弥太郎は、金持ちの家に生まれ育った龍馬に、自分の何が判るのかと毒づきます。何も言い返せない龍馬。」

「多度津の番所。広之丞と龍馬はお咎め無しでしたが、弥太郎の手形に不審を覚える関所役人。何とか弥太郎を通して貰おうと頑張る龍馬ですが、書き付けの文字の風格が違うと言われ言葉に詰まります。その時、突然弥太郎が、龍馬達とは赤の他人、ばくちで負けた金を取り返そうとつけ回されているのだと言い募ります。呆然とする龍馬に、突っかかる弥太郎。暴れる弥太郎は役人達に取り押さえられ、龍馬達はやむなく関所を後にします。」

「瀬戸内海を渡る船に乗った龍馬達。弥太郎の安否を気遣う二人でしたが、その船の向こうの岩場に弥太郎が現れます。どうやら彼は、関所から逃げ出してきた様ですね。御前なんか大嫌いじゃと叫ぶ弥太郎に、御前の志も自分が背負って連れて行くと応える龍馬。」

今回は弥太郎の逞しい性格と、龍馬への複雑な思いが描かれた好編だったと思います。むしろ主役は弥太郎なのかも、と思ってしまいますね。香川照之の演じる弥太郎には、これからも要注目ですね。

参考文献:「龍馬 最後の真実」 菊池 明、「坂本龍馬」 松浦 玲、「坂本龍馬 海援隊始末記」 平尾道雄、「龍馬の手紙」宮地佐一郎、「「武市半平太伝」 松岡 司

2010年1月17日 (日)

ねこづらどき6周年

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本日「ねこづらどき」が6周年を迎えました。

6年なんてあっと言う間に過ぎた気もしますが、過去の記事を読むと時の流れを感じますね。時代背景も随分と変わりましたし、私自身も今とは少し違うなと感じます。それが良い事かどうかは判りませんが、時を重ねるとはそういうものなのでしょう。

ねこづらどきは7年目に入りますが、これからも京都ブログとして変えるつもりはありません。1200年の歴史を積み重ねた京都の厚みはとても6年で尽くせるものではなく、まだまだ知らない部分の方がずっと多いと思われます。訪れる都度になにがしかの発見がある、これが京都の一番大きな魅力ですね。

今年の目標は、もう少し文章力を付ける事かな。なるべくコンパクトに、的確な表現をしようと心がけてはいるのですが、これが意外な程難しい。マンネリ化を防ごうとは思うのだけれど、同じ様なフレーズしか思い浮かばないですね。本職の物書きさんは、凄いものだとつくづく思います。

写真は建仁寺の方丈前にある枯山水の庭園「大雄苑」です。前面に白砂を大きく配したその名の通りの雄大な庭ですが、こうした石と苔の配置を見ると繊細さも同時に有している事が判ります。私が伝えたいのはこうした京都の文化の奥深さなのですが、力不足を感じる事が屡々ですね。もっと精進が必要な様です。

こんな素人の手作りブログではありますが、少しでも前に進んで行けたらと思っています。7年目のこれからも、どうかおつきあいの程よろしくお願いいたします。


2010年1月16日 (土)

京都・洛北 武射神事~上賀茂神社~

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平成22年1月16日、上賀茂神社において武射神事(むしゃしんじ)が行われました。この行事は、平安時代に旧暦の1月15日に宮中で行われていた魔よけの儀式が始まりとされ、現在では毎年1月16日に行われています。

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本殿での神事の後、馬場殿前の芝生で本番が始まります。最初に射られるのが鏑矢で、その独特の音で場を清めるとされます。

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続いて、神職が交代で朱塗りの矢を放ちます。直径1メートル60センチほどの的で距離はおよそ30m、命中率は50%は無かった様な。神主さん達はこの日のために練習を積んでいるそうですが、弓の道はそう甘くはない様です。

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的の裏には鬼と書かれており、魔除けの神事である事が判ります。神職の放った何本かの弓は見事にこの的を射抜き、今年1年の無病息災が祈願されました。

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その後、小笠原流近畿菱友会に拠る「百手式(ももてしき)」が奉納されます。本来は10人の射手が一人10手射るものであるところからこの名があるのですが、今回は奉納神事という事で、7人ずつ3組に分かれた射手が、一人2射ずつ放つという形式になっていました。

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神職の時より的は小さくなっているのですが、さすがに慣れた人達だけあって命中率は高かったです。まあ、競技会に比べれば難易度はずっと低いのでしょうけどね。それよりも、全員が揃った動作をするという様式美が素晴らしかったです。

最後は動画をご覧下さい。

ゆったりとした動作と、放たれた矢のどう猛なまでの勢いの落差が面白いですね。流鏑馬の様なアクションはありませんが、なかなか見応えのある行事でしたよ。それほど混雑もしないし、機会があれば是非ごらんになって下さい。

2010年1月15日 (金)

京都・洛中 フランソア喫茶室

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京都の喫茶店には老舗と呼ばれる所が幾つかありますが、このフランソア喫茶室もその一つです。昭和9年の開業と言いますから、今年で75年目を迎える事になりますね。

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場所は西木屋町四条下がるで、村上重漬物店のすぐ近くですね。ですから、この前は何度も通っているのですが、中に入るのは始めてです。

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店内はイタリアンバロックというのですか、クラシック調に統一されています。この薄暗い雰囲気が、如何にも昭和の喫茶店という風情を感じさせますね。

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純喫茶の店が次々に姿を消してしまった中、残っている店には独自のこだわりがあるようです。徹底したレトロ調、クラシック音楽のBGM、壁に掲げられたモナリザやフェルメールの「真珠の耳飾の少女」といった名画(複製ではありますが)の数々など、芸術サロンを目指したという初代の思想が生きている様ですね。

椅子も含めて、同時期に開業した築地にも似ている気がします。

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この日いただいたのはケーキセットで、これはザッハトルテですね。なかなかしっかりとした味のチョコレートケーキでしたよ。

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そして、肝心のコーヒーはさすがに美味しいですね。ミルク有りで頼むと、ほとんどカフェオレの様にたっぷりと入ってきました。

それにしても、フランソアの人気はとても高いですね。この日は連休の中日という事もあったのかも知れませんが、店内は常時満員で、入りきれずに帰っていった人も多くみかけました。

流行のコーヒーカフェもまた良いものですが、こうした本格派の店が、再び脚光を浴びるのは良い事ですよね。

2010年1月14日 (木)

京都・洛東 冬景色2010~龍馬坂~

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冬の午後、龍馬坂から見た八坂の塔です。曇り空ということもあってか、空は暗いですね。でも、こんな冬の景色もそう悪くはない。喧噪を離れ、凛とした静けさの中に佇む、冬の京都ならではの風情ですね。

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ここ龍馬坂は、近江屋で暗殺された龍馬の葬列が通った道として知られます。この道は本来は正法寺の参道なのですが、その道筋に霊明神社があった事によって龍馬最後の道となりました。

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霊明神社は、徳川幕府の仏教優遇政策に対抗するべく、神道家によって建てられた神社でした。幕末期には、その性格を引き継いだのでしょう、尊皇の志士達の御霊を祀る様になり、霊山はいつしか志士達の聖地と呼ばれる様になったのです。龍馬は紛れもない尊皇の志士であり、その亡骸をこの地に葬るのは自然な流れだったのですね。

龍馬の葬列がここを通ったのは11月18日の午後とされています。大勢の人が涙ながらに英雄の死を見送ったとされますが、実はこれには異説があります。

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海援隊士が残した記録では、17日の夜とされているのですね。それも、懐に短銃や匕首を忍ばせた護衛が付き、月明かりの中を警戒しながら進むという物々しさでした。

大政奉還が行われたとはいえ、まだまだ情勢が流動的だったこの時期、幕府は依然として警察権を握っており、凶状持ちである龍馬の葬礼を表だって出す事は憚られたのですね。そして、葬礼の途中で幕吏に咎められるのを恐れての警戒だったと言われています。

葬列はこの急坂を月明かりの下で登ったのですね。ここまで来れば霊明神社も間近であり、緊張も解けた事でしょう。そして、ほっとしたとたんに、悲しみと寂しさが同時にこみ上げてきた事だろうと偲ばれます。

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そんな龍馬坂を下り切ると、二年坂に出てきます。ここは一年中観光客で溢れていますね。かつて、悲しい葬列が通った事などまるで嘘のようです。

ここを左に折れれば龍馬坂、ほんの少し登っただけで静かな時間が流れる坂道があります。冬の一日、龍馬が最後にたどった道を歩いてみるのも一興ですよ。

2010年1月13日 (水)

京都・洛東 冬景色2010 ~石塀小路~

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石塀小路は路地裏の道。冬のこの時期は、まだ夕方というほどの時間ではなくても、すぐに薄暗くなってしまいます。

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中程にある街灯にも、早くも明かりが灯っていました。空はまだ明るいと言うのにね。

周囲を照らすはずの街灯なのに、かえって暗く感じてしまうのは気のせいでしょうか?寂しさと懐かしさを合わせた様な、ちょっと不思議な景色でした。

2010年1月12日 (火)

京都・洛東 宵ゑびす祭 宝恵かご ~京都ゑびす神社~

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京都のえべっさんも今日までとなってしまいましたが、その華の一つが宝恵かごですね。きれい所が乗った駕籠に吉兆笹などを乗せて市内を練り歩き、商店などに福を授けて回るという行事です。

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この宝恵かごの一行に会ったのは実は偶然でして、9日に祇園えびすにお参りした後、二軒茶屋の前で東映映画村の法被を着た人達を見かけたのです。そして、玄関の中を見ると二丁のかごが並んでいるのを見つけたのでした。

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暫く待っていると、中から一行が出てきました。先導役に口上役、かごかきに芸妓さんですね。この芸妓に扮しているのは東映女優の小畠徳子さんと渋谷めぐみさんのお二人です。

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当然店の前からかごに乗って行くと思いきや、みんなばらばらに歩いて行きます。口上もないので、あれっという感じですね。

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暫くして秋葉さんの前まで来ると、ようやく隊列を整え、女優さんがかごに乗り込みました。まあ、ずっとかごをかき続けていると、体力が保たないということなのでしょう。

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「商売繁昌、笹もってこい」の掛け声と共に、やって来たのは下河原にある浜作さんでした。店の方でも知らせを受けていたのでしょう、玄関でお出迎えです。

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ここで、先導役の口上があり、続いて女優さんによる福笹の授与があります。そして、三三七拍子で締めるのですが、とても賑やかで福々しい雰囲気が漂っていました。

想像ですが、あらかじめ神社の方に宝恵かごが来てくれる様に頼んでおくのでしょうね。どれくらいのお布施が要るのかは判りませんが、年始めの景気づけにはもってこいでしょう。新年早々、面白いものを見せて頂いた次第です。

2010年1月11日 (月)

京都・洛東 十日ゑびす大祭2010~京都ゑびす神社~

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1月10日はえべっさんの本祭り。前日に引き続いて、今度は京都ゑびす神社に行ってきました。

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八坂神社もなかなかの人出だと思いましたが、本えびすという事もあってか京都ゑびす神社は物凄い混み方でした。鳥居の前から並び始めて社前まで約20分程、最後は鈴に付いた紐の奪い合いでしたね。遠慮していたら、とてもじゃないけど鈴は鳴らせないという状態でした。

ちなみに、我が家は禅居庵経由で南側から入ったのでまだ待ち時間が短くて済みましたが、四条通から南下してきたのならもっと長く掛かった事でしょう。

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この日、福笹の授与をしていたのは東映の女優、大石彩未さん。とても綺麗な方で、ずっと愛想良く微笑んでいたのが好印象でしたね。

その背後では巫女さんが笹を持って踊っています。こうして神に捧げた福笹を参拝者に授与するという趣向ですね。

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笹に付ける吉兆は、その並びで買い求めます。見ていると手前は混雑していますが、奥の方はかなり空いていましたよ。時間を節約しようと思えば、奥の方に行ってしまうのが吉なのかも知れません。

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今年も社前には巨大なマグロが供えられていました。鯛ではなくマグロというのは、やはりその巨大さ故でしょうか。景気良く見える事は確かですね。

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縄手通の賑わいは今年も変わりませんね。出店と地元商店街が一体となって、賑やかな事この上なしでした。ここだけを見ていると、不況なんて嘘の様ですね。

ほんと、いいがけん、良い世の中になって欲しいです。

2010年1月10日 (日)

龍馬伝2 ~大器晩成?~

「広い世間が見たいと、江戸留学を父と兄に頼み込む龍馬。しかし、土佐の事も判らぬ者に江戸は早すぎると一蹴され、代わりに堤普請の差配役を命じられます。行った先は久万川、ここで20日以内に堤を完成させよとの命令でしたが、駆り出された二つの村人は仲が悪く、容易な事では作業は進みません。」

「龍馬は懸命に村人に頼み込みますが、下士である龍馬を軽蔑しきっている村人は言う事を聞きません。一計を案じた龍馬は酒を振る舞い、歌を歌って村人達の気を引き立てようとしますが、それも裏目に出てしまいます。」

「その様子を影で見守っていた父は、龍馬の剣術の師である日根野の下を訪ね、龍馬が何者であるかを確かめようとします。返ってきた答えは、剣は強いが何かが足りない、とてつもなく大きいが、その正体は判らない、これまでに見た事が無い人物だという事は確かだという不得要領なものでした。」

「一方で、加尾に縁談が持ち上がっていました。人物、家柄共に申し分のない良縁で、父と兄は乗り気でしたが、加尾は煮え切りません。そして、弁当を作って龍馬の下を訪れます。」

「旨い、旨いと弁当を食べる龍馬に、加尾は自分に縁談がある事を打ち明けました。しかし、龍馬は自分の気持ちを押し殺し、良縁だから嫁に行けば良いと答えてしまいます。私はあなたが好きだったのに、なぜそんな事を言うのか、という言葉を残して走り去る加尾。」

「残された龍馬は、自分は人の心が判らないと気づき、悄然となります。やがて雨が降り出し、村人達は勝手に作業を切り上げて帰って行きます。彼等を引き留める気力もない龍馬でしたが、取り憑かれた様に一人で作業を始めました。」

「しかし、要領の判らない龍馬はすぐに力尽き、泥水の中にひっくり返ってしまいます。そして、わしは一人では何も出来ん!と叫ぶ龍馬の下に村人達が戻ってきました。彼等は龍馬の為ではなく、洪水で命の危険に晒されている者を救うために働くのだと言って、作業を再開してくれました。そして、期日どおりに堤は出来上がったのでした。」

「高知城下に戻った龍馬は、珍しく外で飲んで酔っている父と出会います。そして、自分は一人では何も出来ない、皆に助けて貰ってやっと生きていると判った、だからなおさら世間を知るために江戸に行きたいと懇願します。」

「父はそんなあいまいな理由では江戸行きは認められない、自分を納得させる理由を考えろと言って、日根野から江戸の千葉道場に宛てた紹介状を差し出します。そして、お前の一番得意な剣術を極めるために江戸に行けと言ってくれたのでした。」


龍馬が若い頃、普請の差配に携わった事は史実の様です。ただし、ドラマの様に差配役では無く、父の友人の配下として働いた様ですね。そして行った先は久万川ではなく、幡多郡でした。

久万川とは高知の北方、鏡川の上流にあたる様です。一方、幡多郡とは高知の西部、四万十川のあるあたりですね。龍馬が行った場所を史実と変えたのは、加尾が訪ねて行くという設定を無理なくするためなのかな。

この時の龍馬は19歳(資料によっては16歳)、何の経験もなしにたった一人で差配役を命じられるというのは如何にも不自然ですが、苦悩する龍馬の姿を描きたかったのでしょうか。

史実とされる話では、龍馬の下で働いた工夫が、

「坂本の檀那に使われる時は何の苦もなく仕事が運ぶ。その代わり、仕事が終わった後は疲れ切って五体が利かない。」

と語ったとされています。この頃既に人使いの上手さが顕れていたという逸話であり、ドラマとは随分異なりますね。

ドラマの様に苦悩する龍馬の方が若者らしいという気がしますが、ただ展開があまりにも唐突で、村人がなぜ龍馬を助ける気になったのかが判りません。土木の素人の龍馬に、わずか20日で堤工事を終えよと命令を出すという事も含め、設定自体に無理があり過ぎますね。

まあ、どこにでも居る様な青年が、やがて天翔る龍となるというのがこのドラマのコンセプトと思われるので、このあたりは辛抱して見る所なのでしょう。今後の展開に期待です。

ドラマの主軸とは別になりますが、前回省略されたと書いた継母の伊与が出てきましたね。どちらかというと、龍馬とは仲が悪かったと見る向きが多いのですが、ここでは良き理解者の様に描かれています。伊与の実家に残る資料には、龍馬と乙女がしばしば遊びに来ていたと記されていて、義理の親子の仲は決して悪くはなかったという見方もあり、ドラマではこちらを採るのでしょうか。

また、武市半平太が母の看病をする場面がありましたが、実際にも半平太の看病は心の籠もったもので、見る者の心を打ったと言われます。

次回は江戸に出る龍馬を描く様ですね。そこに弥太郎が偽手形を持って付いてくる様ですが、この設定も創作で無理があるような。まあ、どんな展開になるか、次回を見てみる事にしましょうか。

参考文献:「龍馬 最後の真実」 菊池 明、「坂本龍馬」 松浦 玲

2010年1月 9日 (土)

京都・洛東 祇園えべっさん2010~八坂神社~

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今年もえべっさんの時期がやって来ましたね。京都でえべっさんと言えば京都えびす神社が有名ですが、もうひとつ八坂神社のえべっさんも人気があります。その名も「祇園えべっさん」。

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八坂神社と言っても本殿ではなく、摂社の北向蛭子神社の神事という事になります。一見小さなお社ではありますが、実はこここそえべっさんの原点なのだそうですよ。

八坂神社のホームページに依れば、大阪の今宮戎神社は八坂神社のえびす様をお祀りしたのが始まりで、ここの神様こそえべっさんの本家という事になるのだそうです。うーん、知らなかったなあ。

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ここ独自のサービスとして、参拝の後でお賽銭を備えれば、この巫女さんが鈴を振ってくれます。ちょっと有り難い感じがして嬉しい気分になりますよ。

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福笹は普通に売っています。京都えびす神社だと、ここで派手に踊る様に祈ってから授けていますね。その代わりの鈴なのかな。

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これはお社の手前にあるえびす様の像です。ふくぶくしく、いかにも御利益がありそうな感じですね。

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こちらはえびす船。このあと午後3時から四条通を西へ、七福神を乗せてパレードをしたはずです。

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八坂神社では、えべっさんに合わせて三社詣という行事も行われています。すなわち、商売繁盛の蛭子社、良縁祈願の大国主社、それに厄除けの本殿にお参りし、それぞれ台紙に朱印を押して貰うという趣旨ですね。

昔は無かったと思うのだけど、神社も色々と考え出すものです。でも、3つの朱印がそろうとなかなか霊験がありそうな感じがしますよ。

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ぎおんのえべっさんは9日と10日の二日間です。8日から12日まである京都えびす神社とは大きく異なりますので、お間違えなきように。

2010年1月 8日 (金)

京都・洛北 冬景色2010 ~梅一輪 北野天満宮~

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平成22年1月4日の北野天満宮です。今さらですが、北野天満宮と言えば「牛」ですよね。でも、寅年にはちゃんと寅が出てくるのですね。

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これは江戸時代の名大工、中井正清が奉納した扁額の複製です。全体に雄渾な力強さがみなぎる一方、ちょっとユーモラスな顔つきが面白く、なかなか良い絵ですね。

でも、牛の天満宮に寅の絵を奉納する人も居たんだ、と言うか良かったんだ。

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まあ、そんなに頑なに考える必要もないという事なのでしょう。そう言えば、梅ばかりではなく桜も綺麗でしたしね。

ここで絶対不変なのは学問の神様という所かな。間もなく本格的な受験シーズンに突入するとあって、この日も受験を控えた親子連れらしい人達が大勢参拝していました。

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去年に続いて、今年も梅の咲き始めは早いですね。早い木では、昨年の12月末から咲いていた様ですね。

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ロウバイも咲いていましたが、こちらはなんと昨年の葉が緑のまま残っています。これじゃまるで常緑樹みたいではないですか。黄葉さえしないなんて、いったいどうなっているのだろう?

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後一ヶ月もすれば、また梅を追って回る季節がやって来ますね。今年はどんな梅と出会えるかな。早春の香りと出会えるのが今から楽しみです。

2010年1月 7日 (木)

京都・洛東 両足院鎮守 毘沙門天堂

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両足院の北隣に毘沙門天堂があります。入り口は別なのですが、ここは両足院の鎮守様なのですね。

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お祀りされているのは当然ながら毘沙門天です。元はと言えば、鞍馬寺の毘沙門天の体内仏だったと言われています。信長の比叡山焼き討ちの際に、恐れをなした鞍馬寺の僧が比喜多養清(室町将軍家の茶家)のところに疎開させたのだそうです。

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その毘沙門天を守護するのが寅。ですから、拝殿の前には狛犬ならぬ狛寅が置かれています。寅年に相応しいというので、結構な人気ぶりですよ。

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最後は、阪神タイガース風に撮ってみました。なかなかの迫力ですね。

我がタイガースも寅年にあやかって活躍してくれると良いのですが、果たしてどうなります事やら。ペナントレースの開幕が待ち遠しいやら、不安やらといったところです。

2010年1月 6日 (水)

京都・洛東 建仁寺塔頭 両足院 新春特別公開

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建仁寺の塔頭「両足院」で特別公開が行われています。普段は非公開の寺ですが、年に何度か特別公開があり、中を拝観する事が出来ます。

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今回の特別公開の目玉は、伊藤若冲と長谷川等伯の自筆画ですね。2年前には若冲の「雪梅雄鶏図」のデジタル複製画が公開された事があるのですが、今回はそのオリジナルを見る事が出来ます。

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その複製画もとてもリアルで素晴らしかったのですが、やはり本物の迫力には劣りますね。オリジナルは年月を経ているぶん全体に黒ずんでいるのですが、オーラがあるというのか、底力のある美しさを感じます。鮮やかさだけなら、複製画の方が断然上なのですけどね。

等伯の「竹林七賢人図」もまた奔放な筆使いが見事で、精緻な若冲とは対照的な美しさを見せてくれます。これを見逃す手は無いですよ。

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冬の庭園は、さすがに寂しい感じがしますね。やはり半夏生が咲く頃がこの庭の真骨頂なのでしょう。白い花が咲く頃に、また訪れてみたいと思っています。

なお、今回の特別公開は1月17日まで、拝観料は600円となっています。


2010年1月 5日 (火)

京都・洛北 蹴鞠始め2010~下鴨神社~

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平成22年1月4日に下鴨神社で行われた蹴鞠始めの様子です。4日は本来は仕事始めの日なのですが、今年はお休みをもらって、お正月を一日長く楽しませて頂きました。

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この蹴鞠始めは、神に奉納するための行事です。ですから、最初は神事から始まるのですが、お祓いなどの儀式は社前で行われているため、鞠庭で待っている観客には様子が判りません。実は1時30分開始と言っても、この儀式が始まる時間であって、実際に蹴鞠が始まるまではなお相当の時間があるのですね。

私は去年に二回見ているので大体の進行が判るのですが、大半の人は始めて来るらしく、時間が来ても蹴鞠が始まらない事に苛立ち始めます。このあたり、進行具合をアナウンスしてくれたらと思うのですが、なかなか言ってくれないのはなぜでしょうね。

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社前に備えられていた枝鞠が鞠庭に入ってくるのが午後2時の少し前、それが鞠人の手に渡って鞠解きが行われ、鞠庭の中央に置かれるのが2時2分頃でしょうか。それからやっと鞠人の入場が行われます。

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鞠人が鞠庭に入って来る時は、必ず片膝を付く姿勢を取るのですが、これがなかなか格好良いですね。そして全員が揃ったところで、またこの姿勢になって一礼があります。終わる時はこの逆の順ですね。

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蹴鞠が始まる前には、小鞠と言って一種のウォーミングアップがあります。一人ずつ軽く蹴って、鞠の具合や風の強さなどを調べるのですね。それが終わると、ようやく蹴鞠の開始です。時間は午後2時10分頃でした。

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蹴鞠はまず鞠を受け、その鞠を自分に蹴り上げ、最後に相手に渡すという三足の蹴りが基本となります。でも、実際にはそんな事は言ってられない様子で、1回で返すというパターンが多かったですね。でも、三足の蹴りが成立すると、なかなか見栄えの良いものですよ。

次は動画をご覧下さい。

この回は結構長く繋がった方でして、続けるのはなかなか難しい様です。

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蹴鞠は年に何度か行われていますが、なぜかこの蹴鞠始めが異常な程の人気を集めています。この後、2月11日には上賀茂神社で奉納があるのですが、そこでは寂しいくらいの観客しか集まりません。やっている事は同じなのに、どういう訳でしょうね。やはりお正月の行事という事で、有難味があるのでしょうか。それとも、初詣客が物珍しさで集まって来るからなのか。

見栄えという点では、やはりこの朱塗りの楼門を背景とした蹴鞠始めが一番かな。この雅な装束とあいまって、王朝貴族の遊びを目の当たりにしているという気分はしますね。とても絵になる行事である事は確かです。

2010年1月 4日 (月)

龍馬伝1 ~上士と下士 その2~

今回の龍馬伝の記事を書くにあたって、新選組!や義経の時の様に、ドラマのあらすじを再現しながら進めようとしたのですが、当時とは環境が違いすぎて、とてもじゃないけれども書ききれそうにはありません。なので、2回目にして、早くもスタイルを変えます。ここからは主として、ドラマと史実の関係に絞って進めていこうと思います。

・龍馬の母について

龍馬の母は、坂本家の先代直澄の娘として生まれ、家系に男子が居なかった事から山本家から直足(八平)を養子に迎え、2男3女を産みました。龍馬を産んだ時は38歳で、当時としては相当な高齢出産でした。このため母乳が出ず、龍馬には乳母が付けられたと言います。このあたりは、ドラマでは省略されていた様ですね。

龍馬はこの乳母に良くなついていたらしく、後に手紙の中で南町の乳母の健康を気遣い、寒い季節に向かうので綿入れを送ってやって欲しいと家族に依頼しているという事実から、そのあたりの機微が窺えます。

母が亡くなったのは龍馬が12歳の時で、病死と伝えられていますが、何の病だったかは判りません。ドラマの様に雨の中を上士の家に駆けつけたという事実は無く、あの下りは完全な創作ですね。

そして、これも省略されていますが、実は伊与という継母が居ました。この伊与は2度の結婚歴を持ち、その二人の夫とは死別しています。2度目の夫との間に一子がありましたが他家に養子に行き、伊与自身は夫の実家で暮らしていた様です。美人で聡明、かつ勝ち気な性格である一方、慈悲心が強く義理堅い人であったと伝えられ、八平はそこを見込んで後妻として迎えたのでしょう。

そして、伊与は母としてはとても厳しい人であった様です。ある人の目撃談として、何事かの粗相のあった龍馬に対して、伊与は反省を求めるべく板の間に正座させ、食べ物も与えなかったというエピソードが残っているそうです。

あまりに厳しすぎたせいか、龍馬の手紙には全くその名が出てこないのですが、実母に代わって龍馬を養育した人物である事は間違いなさそうです。

・龍馬と寺子屋について

子供時代の龍馬は、ドラマにあった様に行く末の案じられる存在でした。12歳になっても寝小便の癖が治らず、また寺子屋に行っても周囲にまるでついて行けないばかりか、学友達に勉学の不出来をからかわれて抜刀騒ぎを起こし、退学処分になるという始末でした。このあたり、龍馬は後年に、自分は早くに学問を投げ出してしまったので、無学者になってしまったと自嘲気味に語っています。この無学と言うのは、特に漢籍が読めないという事を指している様ですね。

そんな龍馬が劇的に変わったとされるのが、剣術の稽古を始めた時でした。龍馬は14歳の時に小栗流の日根野道場に入門して修行を始めたのですが、それまでのうつけぶりが一変し、寝小便の癖も泣き虫も一度に吹き飛んでしまったと言われます。そして5年後に目録を得る事が出来、そこから江戸修行へと繋がって行くのですが、そのあたりは次回で描かれる様ですね。

・乙女の教育について

ドラマでは細身の乙女ですが、実際には身長176㎝、体重113キロと伝えられ、文字通り仁王様というあだ名がふさわしい女性でした。剣術、長刀、馬術、水泳、それに学問に至るまで諸人に優れた才能の持ち主であり、不甲斐ない弟の教育係を買って出たのでした。龍馬は沢山の手紙を残していますが、その読み書きの基礎は乙女によって仕込まれたのでした。

また、鏡川での水練は有名ですね。竿の先に付けた縄を腰に結び付けて泳がせ、龍馬が溺れそうになると竿を引き上げて鍛えたというドラマそのままの情景が、龍馬歴史館の蝋人形で再現されています。

後年龍馬は、「親が死んでから後は、乙女姉さんの世話になって大きくなった」と述懐しており、親の恩よりも深い恩があるとまで言っています。実際、乙女宛の手紙が沢山残されており、誰よりも親愛を寄せた存在だった事が窺えます。

・武市半平太について

武市半平太については以前に書いていますので詳細は省略しますが、郷士の中でも白札という特権階級に属していました。城下に道場を開いており、そこに岡田以蔵らが通っていたのはドラマにあるとおりです。

ちょっと意外なのが下戸だったという事で、「龍馬が行く」では酒豪として描かれていました。そこで今回調べなおしたところ、下戸で大の甘党だったというのが正解な様ですね。どうにもイメージが狂って仕方が無いのですが、ドラマの何となくつかみ所のない役作りと言い、龍馬以上に新しい半平太像が描かれていくのかも知れません。

・平井加尾について

加尾は龍馬の初恋の人とされる人で、龍馬の手紙にもその名が出てきます。ドラマにあった様に平井収次郎の妹で、龍馬より3歳の年下でした。平井家と坂本家の間には元から交流があった様ですが、中でも加尾と乙女が一弦琴の稽古仲間であった事が龍馬との縁を結ぶきっかけになった様です。龍馬と加尾の関係がこれからどうなって行くかは、ドラマの展開を待つ事にしましょうか。

参考文献:「龍馬 最後の真実」 菊池 明、「「坂本龍馬」 松浦 玲、「龍馬の手紙」 宮地佐一郎、「龍馬が行く」司馬遼太郎、「坂本龍馬 海援隊始末記」 平尾道雄、「坂本龍馬の妻 お龍」 鈴木かほる

2010年1月 3日 (日)

龍馬伝1 ~上士と下士~

「冒頭、鹿鳴館とおぼしき場所であいさつをする岩崎弥太郎の場面から始まります。その弥太郎の下を訪れたのが土陽新聞の記者、坂崎紫瀾です。彼は土佐の埋もれた英雄、坂本龍馬の事を教えて欲しいと頼みに来たのでした。

弥太郎の答えは意外なものでした。

「わしがこの世で一番嫌いな男やった!」

そう言い放った弥太郎は、しかし、完爾とした笑みを浮かべます。それはすさまじいばかりの愛憎を込めた、骨の髄から絞り出した様な感情の表れでした。」

龍馬伝は、前宣伝のとおり岩佐弥太郎の目線で語られていくのですね。誰よりも龍馬の事績を知り、その人となりを理解し、そして憎みきった相手として物語りを紡いでいくようです。

この語り手の相手として登場した坂崎紫瀾は実在の人で、龍馬の事績を最初に小説「汗血千里の駒」として著した人物として知られます。また土陽新聞も実在した新聞で、政治結社「立志社」の機関誌でした。坂崎はそこの編集長を勤めていました。

ドラマの冒頭は明治15年、汗血千里の駒が土陽新聞に連載されたのが明治16年からの事ですから、上手い具合に史実と絡めているのですね。

「弥太郎の回想。岩崎家は下士よりもなお低い地下浪人でした。幼い弥太郎は父と二人して鳥かごを背負い、野道を行商して歩いていきます。しかし、貧しくはあったものの、弥太郎は頭脳明晰で、時間を惜しんでは漢籍を読むような子でした。」

地下浪人とは、郷士の株を売ってしまった家の事で、藩籍の無い浪人でした。つまり、下士よりもさらに下の階級となる訳ですね。それでも元は武士なのですから農民よりは身分は上であり、弥太郎の父がやたらと威張っていたのは、実質は農家以下でありながら、家格だけは高いという自尊心を守るためだったのでしょう。

「川縁で休んでいた弥太郎は、郷士の子供達が川で遊んでいる姿に気が付きます。その中に唯一人、川に飛び込めない臆病な子供が居ました。それが龍馬だったのです。自分では飛び込めない龍馬を、仲間の子供が川に突き落とします。その姿を見て、臆病者とさげすむ弥太郎。」

「泣いて帰ってきた龍馬を、父の八平と兄の権平が叱りつけます。坂本家は元はと言えば商人の出、郷士の株を得て武士となった家柄であり、誰よりも武士らしくあらねば侮りを招くと言って、弱い龍馬の性根をたたき直そうとします。」

坂本家の祖先は、山城国の出とされます。戦国期に土佐に逃れ、長岡郡才谷村大浜に住み、大浜姓を名乗ったと言います。その4代目が高知城下で質屋「才谷屋」を開き、次の代には城下で並ぶものが無いというほどの豪商にまで成長しました。そして、郷士の株を入手して長男の八平に譲り、郷士坂本家として分家させたのでした。つまりは、岩崎家とは対照的な存在なのですね。

龍馬の父八平はドラマにあったように3代目で、兄権平は21歳の年長でした。坂本家のお役目が御廟所番であったというのは初耳です。私の持っている資料には出てこないですね。そういう研究がどこかに出されているのかも知れません。


どうにも長くなってしまいました。どういう形で書こうかと決め兼ねていたのですが、いざ始めてみると書きたい事が多すぎますね。このペースでは、1年間保たないだろうなあ。

しかし、始めてしまったものは仕方がないので、とりあえず明日に続きます。


京都・洛東 かるた始め式2010~八坂神社~

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2010年の京都始めは、八坂神社のかるた始め式に行ってきました。日本かるた院が主催する毎年恒例の行事で、今年で40回目を迎えたそうです。当ねこづらどきでもすっかり年中行事の一つになっており、これで3年連続、4回目の観覧となりました。

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かるた始め式は神前へのかるたの奉納から始まります。そして、玉串の奉納、権祢宜による祝詞の奏上、そしてかるた姫と平安童子に依る奉納試合までが神事になるのかな。

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奉納試合が済むと、いよいよ初手合わせとなります。大人のかるた姫と子供の平安童子の組に分かれての対戦が始まる訳ですね。

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平安童子達は10歳くらいに見えるのですが、子供とは思えない大した実力ぶりです。上の句が詠まれるやいなや、すぐさま手が出るのは大人顔負けの早さです。

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日本かるた院は、昭和29年に全日本かるた協会と袂を分かつ形で独立した様です。原因は運営を巡る対立らしいのですが、競技性を重んじる協会に対し、かるた院は優美さに重点を置いており、払い手といった派手なアクションはありません。

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ただ、日本かるた院については、ネットで調べた限りではその全容は判りません。わずかに出てくるのは、四条大宮の西に本部があるらしい事、このかるた始め式が最も重要な公式行事になっているらしい事くらいかな。

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まあ、そのあたりの事情はともかくとして、優美である事は確かです。この衣装には払い手は似合わないでしょうし、第一そんなに激しくは動けないのでしょうね。

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それにしても、この衣装の美しい事と言ったら。これが見たくて毎年通っていると言っても過言ではありません。

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でも、競技かるたも見てみたいものです。テレビのニュースでしか知りませんが、あのスピード感は、ほとんど格闘技ですからね。さぞかし面白い事でしょう。

私にはかるた界の内部事情は判らないのですが、優美さと俊敏さ、その両方があっても良いんじゃないかという気はしています。

2010年1月 2日 (土)

京都・洛東 冬景色2010 ~東山界隈~

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2010年最初の冬景色は、東山界隈で見つけた椿のある風景をお届けします。

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二年坂の椿は、今がちょうど満開になっています。正確には阿古屋茶屋さんの椿と言うべきなのでしょうけどね、私的には冬の二年坂には欠かせない花となっています。

でも、人通りが絶えない場所にあるのに、あまり注目する人が居ないのが不思議なのですよね。こんなに綺麗に咲いているのに、何故なのでしょうね。

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三年坂には寒椿が咲いています。冒頭の写真は七味家さんの勝手口、この写真はあけぼの亭井和井さんの入り口ですね。どちらも、寂しい冬の景色にあって、鮮やかな彩りになってくれています。

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その三年坂を上りきった左手にあるのが経書堂。聖徳太子創建という由緒を持つ古寺ですね。その境内では山茶花が綺麗に咲いています。ここも人通りが多いにも係わらず、ほとんど注目する人が居ないという不思議なスポットですね。

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清水寺の境内には、実は椿が沢山咲いています。でもあまり目立たないのは、大半がこんな具合に野放図に巨木化しており、ほんとんど藪の様になっているからでしょうか。

禅寺の庭木の様に間近で見る事が出来ないのが最大の難点で、望遠レンズで撮らない限り花の美しさが見えて来ないのが残念です。でも、彩りになっている事は確かですね。

2010年1月 1日 (金)

あけましておめでとうございます

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あけましておめでとうございます。今年も当ねこづらどきに訪れて頂き、ありがとうございます。

さて、新年の冒頭に登場願ったのは下鴨神社の舞殿に掲げられた寅の絵馬です。如何にも強そうな虎の絵ですが、暗い世相を打ち破ってくれる心強い味方になってくれそうな気がします。寅年は変化の年と聞きますが、明るい展望が開けて欲しいと願わずには居られません。

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こちらは、同じく下鴨神社でみつけたヤブコウジです。十両の名でも知られ、マンリョウ、センリョウと共に正月の縁起物とされています。何とも美しい赤色ですね。

この綺麗な縁起物にあやかって、2010年が良い年でありますように。
今年も当ねこづらどきを、よろしくお願いいたします。


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