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2007年6月

2007年6月30日 (土)

2年10ヶ月ぶりの、ブルームーン

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ひと月のうち二度目に来る満月の事をブルームーンと呼びます。前回は2004年8月30日だったのですが、台風の襲来で見えず仕舞いだったのですね。あれから2年と10月、しつっこく覚えておいた日がやってきました。

今日も月の出の頃には雲が広がって駄目かなと思っていたのですが、9時を過ぎた頃から見えてきました。で、早速撮った写真がこれです。ちょっと手抜きをして手持ちで撮ったので微妙にブレているのですけどね、とりあえずは満月に写ってます。

ブルームーンを見ると幸運になれるというのは俗信で何の根拠もないのですが、数年に一回という珍しい現象には違いないのでやっぱり嬉しいですね。

何だか良い事が起こりそうな気がします、なんてね。

2007年6月29日 (金)

京都・洛中 立葵 ~相国寺~

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御所の北に位置する相国寺は、境内の中央を公共の道路である上立売通が横断するという、ちょっと珍しい寺です。このため、車こそ入れませんが(時々は通ってますが)境内には人や自転車の通過交通が耐える事がありません。

近所の人が買い物帰りに立ち話をするという光景も珍しくなく、お寺の境内なのにどこか街角の雰囲気が漂うという不思議な空間です。

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そんな相国寺に立葵が咲いていました。梅雨の時期、つかの間の青空を背景にすっくと立った姿には、夏の到来を予感させるに相応しい風情がありますね。


2007年6月28日 (木)

京都・洛西 6月の青空 ~妙心寺~

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梅雨の晴れ間に差す日差しは、既に強烈な夏のそれでした。未だに日に焼けた腕がヒリヒリしています。でも青空なのに筋雲が入るところが、いかにも梅雨の谷間らしさを表していますね。

そんな6月の週末に訪れた妙心寺では、塔頭の東林院で沙羅の花を愛でる会が催されていました。ここは普段は非公開寺院なのですが、庭園に11本の沙羅の木が植わっており、毎年6月の半ばから後半にかけて特別公開が行われています。

出来れば見て行きたかったのですが、残念ながら時間が無かったので参道の紫陽花だけを撮って引き上げてきました。公開は明後日の30日までですから、興味のある方はまだ間に合いますよ。ただし、拝観料は1575円とかなり高めなので注意しておいて下さい。

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妙心寺では平成21年の遠諱650年を前に、沢山の信者の方がお参りされていました。さすがに臨済宗における最大宗派だけの事はありますね。

向こうに見える法堂に五色の幡がはためいているのは、その法要の為です。

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でも、この寺はとにかく広いですから、少し歩くとすぐに誰も居ない場所に出ます。あけだけ沢山居た人がどこへ行ってしまったのか、ちょっと不思議ですね。

真如堂と同じく、ここでも雨水をたっぷりと吸った緑が、青空に映えて輝いていました。

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そして、新選組!ファンなら、この白壁を見てピンと来られるのではないでしょうか。そう、オープニングで隊士達が駆け抜けていた石畳の道がここなのですね。周囲には誰も居なかったもので、思わずテーマ曲を口ずさんでしまいましたよ。

今にもこの道の向こうから、浅葱色の羽織を着た隊士達が駆けて来るような錯覚を覚えた一瞬でした。

(平成19年6月23日撮影)

2007年6月27日 (水)

京都・洛東 梅雨の晴れ間に ~真如堂~

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梅雨の晴れ間のもみじは、たっぷりと雨水を浴びたせいか、とても生き生きとしています。一年のうちで植物が最も生気を放つのは、この季節かも知れませんね。

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その木陰では紫陽花が咲いていました。梅雨と言えばやはりこの花ですよね。

真如堂で紫陽花が咲いている場所はいくつかあるのですが、この三重の塔の南側は比較的まとまった数が咲いてます。塔を背景に撮ってみたのですが、明暗差が大きすぎてあまり上手く行かないですね。

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少し奥まっていてあまり目立たない場所なのですが、鐘楼の東側にも沢山の紫陽花が咲いています。塔の近くの花とはまた違った種類らしく、木陰の中、濃い青色がとても鮮やかでした。

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こちらは、紫陽花の前で咲いていたムラサキカタバミです。どこにでもある雑草ですけど、何とも上品で美しい花色ですね。

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今日は会えないかと思っていたら、帰りがけにやっと姿を見せてくれたミーコちゃん。梅雨のじめじめにばてたのか、ちょっとお疲れモードに見えました。遊んで貰おうと追いかけたのですが、さっさと茂みの中に消えてしまいました...。

夏になると、石灯籠の火袋の中で涼を取るという真如堂付きの猫。その灯籠の中の姿をいつか撮ってみたいと思ってます。

(平成19年6月23日撮影)

2007年6月26日 (火)

京都・洛東 沙羅と菩提樹 ~真如堂~

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「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」

釈迦入滅のとき、その四方を囲んで植えられていたのが沙羅双樹で、入滅と同時に枯れ、鶴の羽根の様に白くなったと伝えられます。そのため仏教では聖木とされ、大切にされてきました。

その沙羅の花が真如堂で咲いています。正確には夏椿といい沙羅とは別の種類の木なのですが、朝に咲いて夕べに散るというはかなさから、仏教の無常観を表す花とされています。平家物語でいう沙羅双樹は、この夏椿の様ですね。

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本物の沙羅双樹は熱帯産のため、日本の屋外では育たない様です。夏椿とは葉の形が似ていると言われますが、京都府立植物園の観覧温室にある本物の木を見ると、相当にごつくて大きな葉であり、とても間違え様がないと思うのですが...。ちなみに、京都府立植物園のサイトにある沙羅双樹の紹介ビデオはこちらです。

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もう一つの仏教の聖木である菩提樹の花も真如堂で咲いていました。これも本物のインド菩提樹とは別種なのですが、日本では中国からもたらされたこの木が菩提樹とされています。

訪れた時には花の最盛期は過ぎていたのですが、独特の香りはまだ健在でした。咲いてすぐの花は、もっと綺麗なクリーム色をしています。

そして、花が散ってすぐだと言うのに、もう実が成っているのですね。一夏かけて熟すと、秋にはプロペラの様に舞いながら落ちてくる光景が見られます。この実を見ていると、季節が巡るのは本当に早いなあという気がしてきますね。

(平成19年6月23日撮影)

2007年6月25日 (月)

新選組血風録の風景 ~虎徹その7~

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(新選組血風禄概要)

(刺客に襲われた翌日、近藤は斉藤を部屋に呼んだ。そして、鴻池虎徹を見せて、これは銘も切ってあって本物の様に見えるが、実は偽物だと言った。しかし斉藤が見るところでは、堂々たる真性の虎徹である。)

(近藤が言うには、斉藤が清麿と言った刀は骨に吸い込む様に切れたが、この刀は切れない。ゆえに清麿こそ虎徹で、この刀は偽物であるという。)

(近藤にすれば、彼の虎徹は既に京都の浮浪の間で知られ始めている。その宝剣が今さら切れないとあっては困るのである。だからこそ、清麿こそ虎徹であるという奇論を展開しているらしい。)

(斉藤はもう一度虎徹を見せてもらい、天眼鏡を取り寄せて子細に調べてみた。すると、小さな刃こぼれが無数に見つかった。)

(斉藤が、どうやら鎖を着た相手を斬られた様だと指摘すると、近藤はみるみる不機嫌になり、本来の虎徹ならば、鎖ごと切れるはずだと言い切った。)

(その後、近藤は日陰町虎徹と鴻池虎徹を交互に使った。しかし、なぜか鴻池虎徹を持っていると事故が多い。)

(近藤は土方に、やはり鴻池のは虎徹ではないと言った。土方は微笑で答えた。)

(これが近藤の思考法であった。虎徹が信仰であり、通常なら清麿の方が虎徹より切れるというところを、何が何でも切れる方を虎徹にしてしまわなければならないのである。)

(近藤の時勢眼もこれであった。徳川が信仰であり、その価値観を損なう者は容赦なく切り捨てる。)

(芹沢派が粛正され近藤が隊の実権を握った頃、土方は隊士募集のために江戸に戻った。)

(ある日、土方は相模屋伊助を呼んだ。使いを受けた伊助は仰天した。実は、あの刀は虎徹ではないと知りつつ、どこか姿が似ていると思い、客の無智につけ入って売り込んだのである。)

(伊助はすっかり覚悟を決め、家族と水杯を交わして土方の下を訪れた。ところが、意外な事に土方は良い刀を売ってくれたと礼を言い、伊助を酒肴でもてなしたばかりか、5両の礼金すら払った。)

(それから数日の内に、近藤の虎徹の雷名が江戸中に轟いた。広めたのは伊助である。彼は自家の宣伝の為に広めたのであるが、同時に新選組の宣伝にもなっている。土方はそこまで見抜いて芝居を打ったのであった。)

(土方が京都へ帰ると、斉藤が見慣れぬ刀を差していた。聞いてみると虎徹だという。)

(彼が言うには、二十日ばかり前に御旅所の前の夜店で見つけたらしい。錆は浮いているが、ただものでは無いと感じ、5両と言うところを3両にまで値切って買ったという。そして研ぎ屋に鑑定を依頼したところ、紛れもない虎徹であるという返事があった。)

(土方はその刀を近藤に渡す様に頼んだ。新選組の武威を高めるには、利剣虎徹は一つであった方が良いという判断からである。斉藤は素直に土方の依頼に従った。)

(近藤の虎徹は3本になったが、土方の助言により、斉藤の虎徹は鴻池虎徹と共に死蔵した。)

(元治元年6月5日の夜、新選組は三条小橋にある池田屋を襲撃した。この時、真っ先に屋内に飛び込んでいったのが近藤である。彼は浪士達が二階に居るとみるや、階段を一気に駆け上った。)

(この音に最初に気付いたのが土佐の北添佶磨であった。彼が何気なく階段を覗いた時、駆け上がってきた近藤と鉢合わせをしそうになった。次の瞬間、近藤の日陰町虎徹が一閃した。北添は頭を切られて、血まみれの肉塊となって階段を転げ落ちた。)

(斬れる、そう感じた近藤はさらに奥へと突き進んだ。彼は虎徹には憑きものがあると信じている。)

(池田屋事件の後で、近藤が故郷に送った手紙の一節にこう記されている。)

(永倉新八の刀折れ、沖田総司の刀は帽子折れ、藤堂平助の刀はささらのごとく、倅周平は槍を切り折られ、下拙刀は、虎徹故にや無事に御座候。)

・近藤の時勢眼

「この下りは、近藤ファンにはいささか評判が悪い様ですね。あたかも、近藤が少し脳の足りない愚物の様に見えなくもないからです。しかし、実際の近藤はそんなに単純な人物ではありませんでした。」

「この作者の一連の作品を読んでいると、新選組を引っ張っていたのは土方であったかの様な印象を受けますが、実際に大きく力を振るっていたのは近藤でした。尊皇攘夷派集団として出発した新選組は、やがて幕府護持のための尖兵へとその性格を変えていきますが、その流れを作ったのは他ならぬ近藤自身の思想的変化です。」

「池田屋事件を経て、新選組の地位は公武合体派の中において飛躍的に高まりました。当時はまだ単純攘夷の思想を捨てていなかった近藤でしたが、やがてそれが不可能である事を悟ります。しかし、そこで新選組を捨て去る事は許されない程に、彼と隊の地位は重みを増していました。新選組を維持していくためには、公武合体派の重鎮として、その尖兵たらざるを得なかったのですね。」

「近藤は佐幕派の最たる者と言われます。しかし、彼にすれば将軍を任命したのは朝廷であり、幕府に忠義を尽くす事は、同時に朝廷の権威を守る事でもありました。すなわち、誰にも増して尊皇派でもあったのですね。それは奇矯な思想でも何でもなく、当時としては筋の通った正論でした。彼は決して時勢が見えない愚か者ではなく、高潔な常識家であったと言うべきなのではないでしょうか。」

・斉藤の虎徹

「斉藤が近藤に虎徹を譲ったという下りは、新選組始末記にある記述に沿って書かれたものです。では、その記述の根拠となったものは何かと言えば、斉藤自身が語り残したものでした。明治43年から44年にかけて東京毎日新聞に掲載された「剣侠実伝 近藤勇」という読み物があるのですが、その第30回に斉藤の回想録が収録されているのです。」

「そこには、斉藤が古道具屋で買った無銘の刀を近藤に譲ったところ、その切れ味の良さから近藤自信が虎徹と鑑定し、愛用していたと記されています。新選組始末記とは微妙に異なりますが、虎徹の由来に諸説ある中で唯一出所がはっきりとしており、最も信憑性が高い様な気がします。大名道具と言われた虎徹を、近藤が持っていた理由も無理なく説明出来ますからね。」

・池田屋と虎徹

「北添の階段落ちについては、「池田屋異聞その15」で書いたとおり、全くのフィクションです。新選組は何十人もの志士を斬った様に言われますが、実際に確認出来るのは10数人に過ぎません。その中でも、出会い頭に問答無用で切り捨てたという例は皆無です。」

「池田屋事件における虎徹の無事を伝えるのは近藤の有名な書簡ですが、実は彼の刀も又、激戦に晒された結果、ささらのごとくになっていたという説もあります。真偽の程はともかく、この書簡の一節によって近藤の虎徹が有名になった事は確かでしょうね。」

「冒頭の写真は、平成18年の祇園祭の宵々々山における池田屋跡です。文久三年6月5日の夜、近藤はこの池田屋において、虎徹と共に勝敗不明の戦いを続けていたのでした。祭りの夜にこの地に立つと、今にも近藤の気合いが空から聞こえてくる様な気がします。」

(参考文献)
伊東成郎「閃光の新選組」、松浦玲「新選組」、子母澤寛「新選組始末記」、木村幸比古「新選組と沖田総司」

2007年6月24日 (日)

新選組血風録の風景 ~虎徹その6~

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(新選組血風禄概要)

(近藤が鴻池虎徹を始めて実戦で使ったのは、文久3年の夏であった。)

(その頃、近藤は祇園石段下の茶屋「山絹」に通う様になっていた。たいていは、お忍びで一人で行く。)

(帰路は駕籠である。四条橋に差し掛かったとき、前方に人影がさした様に思えたが、姿は確かめられない。近藤は念のために刀の鯉口を切った。)

(当時の四条橋は現在の様な大橋ではなく、土橋程度の小橋が中洲を中心に2つ架かっていた。)

(駕籠が中洲に差しかかったとき、にわかに人の気配が動いた。近藤はとっさに駕籠の左に転げ落ち、立ち上がった時には虎徹を抜いている。)

(相手は10数人の剣客だった。壬生の近藤であると名乗ったが、黙殺されている。)

(近藤は逃げようとした。逃げながら目の前の相手の一人を袈裟懸けに斬った。ところが、手応えがおかしい。のみならず、相手は転がりもせずに刀を振り回して向かってくる。近藤は再度同じ肩を斬った。今度は相手は倒れたが、すぐに起き直って逃げ出した。)

(斬れぬと、近藤にしてはめずらしく逆上した。)

(敵の一人が槍で突いてきた。近藤はよけ損ない着物の袖がちぎられたが、巧みに相手の手元に付け入り、激しく相手の胸を突いた。しかし、相手は転ぶばかりで、死にはしない。)

(実は相手は鉢金を被り、鎖襦袢を着ていたからに過ぎないのだが、逆上している近藤にはそれが判らなかった。なぜ切れ味の鋭い日陰町虎徹を佩用しなかったかと悔いた。物切りの良さで知られる虎徹が切れないはずがない。とすれば、日陰町虎徹こそが本物で、鴻池虎徹は偽物という事になる。)

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(西の橋を渡り終わった時、最後の敵が襲ってきた。近藤は彼ならではの気組みで相手を圧倒して相手を怯ませ、その隙に土手を駆け上がった。土手の下は先斗町である。先斗町を駆け抜けて町会所に入った時には、いつもの近藤に戻っていた。)

(近藤は町役人に、壬生まで行って馬を寄越す様に言ってくれと頼み、自らは会所の奥で横になった。側には抜き身の刀が放り出してあった。)

(町役人が恐る恐る挨拶に来た時、近藤は珍しく冗談めかして、刀が鞘に嫌われて中に入れて貰えない、野立ちだと言ったという。しかし、やがて屯所に戻った頃には曲がった刀も元に戻り、鞘の中に収まっていた。)


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・山絹と近藤

「山絹という御茶屋については、「新選組始末記」にその名が見えます。真偽不明としながら、病死したはずの深雪太夫が実は生きていて、近藤勇の研究家であった鹿島淑男という人物に語り残したという話が掲載されており、その中に山絹の事が記されています。」

「山絹は祇園石段下にあり、近藤のみならず新選組幹部が出入りし、まるで寄り合いの様になっていました。その中で、近藤は山絹の養女であったお芳と良い仲になり、子供までもうけたと記されています。」

「余談ながら、近藤の女性関係については、島田魁の証言などから、三本木の駒野、植野、島原の金太夫、さらには深雪太夫の妹お孝などと関係があったと事が知られています。」

「新選組始末記に収録されている深雪太夫の逸話に依れば、これらの女性のうち、お芳、駒野、お孝に子供が出来、駒野の子は出家して僧侶に、お孝の子は芸者となって馬関に行き、伊藤博文などの贔屓を受けたとあります。」

「さらに余談になりますが、近藤の娘が晩年の永倉新八と出会ったという話も伝わっています。娘は女義太夫「山田音羽」といい、近藤の娘であると名乗って、永倉の下を訪れました。彼女は永倉が近藤の写真を所持していると聞き、その写真を接写させてもらうべく訪ねてきたのです。」

「音羽が近藤の娘であるという証拠は何も無かったのですが、永倉はその面差しが近藤と似ていた事からその話を信じ、写真を貸し与えました。後に音羽から写真が返却された時に自分の写真も同封していたらしく、今も杉村家(永倉の家系)に残されているそうです。この写真が平成16年8月19日付けの東京新聞に掲載されているのですが、確かにその目鼻立ちは近藤勇とよく似ていますね。」

「音羽の母親が誰であったかは不明とされていますが、もしかすると唯一消息の知れない山絹のお芳の子だったのかも知れません。ただ、深雪太夫の逸話そのものが真偽不明であるため、あくまで想像の域は出ないのですけどね。」

(作品の舞台の紹介)

・四条橋

「作品中では、四条橋は中洲を挟んだ二つの橋からなるとあります。確かに文久二年の古地図を見ると四条あたりの鴨川には大きな中洲があり、橋は二つに分かれています。たぶん作者はこの地図を見て、この作品に反映したのでしょうね。」

「しかし、調べてみると四条橋はその5年前の安政4年に架け替えられており、その時の絵図を見ると立派な一本の橋になっていて、中洲はありません。また、別の文久三年と記された古地図を見ると、やはり四条大橋は一本の橋として記されており、ここでも中洲は見あたりません。」

「どうやら文久二年の地図がちゃんと改訂されておらず、架け替え前の四条橋をそのまま載せていた可能性が高い様ですね。江戸時代のちょっとした手違いが後世の小説に影響を与えた訳ですが、場面設定としては非常にドラマチックになっており、好結果を産んだと言えそうです。そのぶん誤解も与えてしまっているので、結果オーライとも言い切れないのですけどね。」

・先斗町

「先斗町(ぽんとちょう)は元は鴨川の河原だった場所で、1670年(寛文十年)に護岸が築かれた事をきっかけに宅地化しました。東山を望む絶景の地であった事から水茶屋が建ち始め、やがて非合法の歓楽街となって行きます。何度となく取り締まりが行われたのですが、1859年(安政6年)に至って芸妓家業の公許が下り、晴れて花街として認められました。この作品の舞台となっている文久三年はその4年後にあたり、きっと華やかな新興歓楽街として賑わっていた事でしょうね。」

「先斗町の語源には諸説があるのですが、最もよく知られているものとしては、ポルトガル語で「先端」を意味するポンタから来ているとする説があります。すなわち、元は中洲で先が尖った様な地形であったことからポンタ町と呼ばれ始め、後にそれが先斗町になったと言います。」

「この町の特徴は道幅が狭い事にあり、他の花街とは際だって異なる先斗町独自の風情を形作っています。また、木屋町との間をつなぐ路地もあり、ちょっとした隠れ家気分も味わえますよ。ただこれだけ狭いと、大規模な災害が起こった時には、二次被害が怖い様な気もしますね。」

(参考文献)

子母澤寛「新選組始末記」、歴史読本2004年12月号「特集 新選組をめぐる女性たち」、光村推古書院「京都時代MAP」

2007年6月23日 (土)

新選組血風録の風景 ~虎徹その5~


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(新選組血風禄概要)

(その日の午後、鴻池京都別邸から使いが来て、主人の善右衛門が御礼をしたいという。大名ですらあいさつに出向くという鴻池の主人が、わざわざ京都まで足を運んで来るというので近藤も悪い気はしなかった。)

(近藤は、土方、山南、沖田、山崎、それに平隊士数人を供代わりにつれて鴻池別邸を訪れた。宴は無事に済み、なお大阪にてというあいさつだったから、近藤は日を改めて大阪に下った。)

(振る舞い茶屋にて饗宴に興じたあと、本邸に呼ばれた。鴻池では近藤に対し、刀を贈るという。続々と運ばれてくる刀にしきりと目移りしていた近藤だったが、箱書きに長曽禰虎徹入道興里と書かれた一本に眼が止まった。)

(抜いてみると、なるほど斉藤が言った様に、刀身に丸い数珠玉が浮かんでいる。近藤は天にも昇る気持ちで、この刀を受け取った。)

(こののち、新選組と鴻池の縁が深くなり、数度に渡り多額の献金が贈られた。近藤と鴻池の繋がりの深さを示すエピソードとして、後藤象二郎との逸話がある。)

(大政奉還の直前に後藤と会った近藤は、すっかり後藤の人柄が気に入り、天下の財物を動かす気概があるのなら、大阪の富商に面識があるので、周旋してあげても良いと語った。後藤はまさか新選組局長からそんな言葉を聞くとは思わなかったから、内心ひどく驚いたという。)

・鴻池と虎徹

「近藤が鴻池に押し入った不逞浪士を斬り、その御礼として虎徹を貰ったという話には幾つかの類型があります。以下、主なものを並べてみます。」

・新選組始末記

「土方(あるいは沖田)と共に大阪の夜を巡察中だった近藤は、鴻池本邸に押し入った4人の浪士を斬った。鴻池はその御礼として、ありったけの刀を並べ、好きな物を選んで欲しいと言った。近藤は武骨な虎徹を選び、武州生まれの武士が、武州の刀を差して奮闘するのは本懐であると喜んだ。」

・両雄士伝

「浪士から強請られた鴻池は巧みに日延べをし、その間に新選組に助けを求めた。近藤は土方と山南を大阪に派遣したところ、彼らは見事に期待に応えた。鴻池からは感謝の印として、各自に名刀一振りづつが贈られた。」

・剣侠実伝・近藤勇

「近藤と山南は、鴻池京都別邸に押し入った5人の賊を相手に戦った。このとき、山南は刀を折られてしまったまのだが、小刀を抜いて応戦し、見事に相手を倒した。たまたま京都に来ていた鴻池の主人は、二人に厚く礼を言って供応した。そして、山南の刀が折れた事を気の毒に思い、蔵から洗いざらいの刀を出して、好きな物を選ぶ様にと言った。このとき、近藤の目に止まったのが虎徹であった。どうしてもこの刀が欲しくなった近藤は、自分の差料を山南に与え、自らは虎徹を受け取った。」

・聞きがき新選組

「(近藤と山南が鴻池京都別邸で賊と戦ったところまでは前記と同じ。)後日、近藤は鴻池に招かれて供応を受けた。そのとき、山南の刀が折れた事が話題に上り、鴻池が刀を贈る事になった。(以下前記に同じ)。」

「この作品が下敷にしたのは、舞台と敵の人数が一致する「剣侠実伝・近藤勇」あたりでしょうか。ただ、これらの記述はすべて後年になってから書かれたもので、そのまま事実として認めるには無理があります。」

「では同時代資料ではどうかというと、「聞集録」にこの話の原型となったと思われる事件の記述がありました。」

「文久3年6月下旬に、尽忠報国の士と偽る石塚岩雄という人物が、大阪の鴻池を相手に3千両の押し借りを働こうとしました。鴻池では5両を出して石塚を追い返したのですが、石塚はそのまま長町の旅館に引き上げます。これに気付いた鴻池では、丁度大阪に来ていた壬生浪士組に通報しました。これを受けた浪士組では隊から3名の隊士を派遣し、見事石塚を召し捕らえたとあります。(7月2日)」

「この事件に呼応する様に、壬生浪士組は30両を鴻池から借りています。後の新選組と鴻池の繋がりは、この事件をきっかれに始まったと言えるでしょう。ただ、この事件からは虎徹のエピソードが出てきません。」

「実はこの鴻池事件とほぼ同じ時期に起こったと思われるもう一つの事件があります。それが岩城升屋事件と呼ばれる事件で、山南が愛刀「赤心沖光」を折った事で知られています。」

「岩城升屋は大阪船場高麗橋にあった呉服太物商で、江戸にも支店を持つという大店でした。多摩の小島家に残る記録に依ると、山南はこの店に押し入った浪士と戦い、佩刀を折られながらもこれを討ち取り、会津候から褒美として八両を受け取ったとあります。」

「鴻池と岩城升屋で相次いで起きた事件を合わせると、先に紹介したいくつかの虎徹のエピソードとほぼ重なる形ができあがります。恐らくはこの二つの事件が混同されて、山南の折れた刀の代わりとして、鴻池から虎徹が贈られたというストーリーが形作られたのではないでしょうか。」

「そうなると虎徹は実は岩城升屋からの贈り物だったという可能性が出てきますが、残念ながらそこまで証明できる資料はありません。」

(作品の舞台の紹介)

「作品によると鴻池京都別邸は、四条烏丸西入る南側にあった事になっています。しかし、古地図を見ると、その区画には阿波蜂須加藩邸が位置しており、とても巨邸が入るだけの余地はありません。一方、やはり虎徹のエピソードを伝える資料として大正時代に発行された維新史蹟図説があるのですが、そこには鴻池京都別邸は四条烏丸西入る北側にあったと記されています。」

「冒頭の写真は現在(と言っても1年前ですが)の四条烏丸の様子です。烏丸通は明治以後に大幅に拡幅されており、江戸期には現在の東の歩道幅程度の道であったろうと思われます。それを念頭に置くと、四条烏丸西入る北側とは現在の交差点の西北隅にあたり、写真の右側のビルの位置がそれにあたると考えられます。」

「ここはかつて三和銀行(鴻池銀行の後身)京都支店があった場所であり、鴻池京都別邸の跡地と考えるには最も無理の無い場所と言えそうですね。史実としては壬生浪士組が戦ったのは大阪である可能性が高いのですが、文久三年の春の夜に、月明かりを頼りに近藤、沖田、山南がここで戦った、そしてそこには虎徹があったと想像してみるのも一興かも知れません。」

(参考文献)
子母澤寛「新選組始末記」、新人物往来社「新選組銘々伝」、光村推古書院「京都時代MAP」


2007年6月22日 (金)

新選組血風録の風景 ~虎徹その4~

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(新選組血風禄概要)

(新選組を結成してから程なく、斉藤一が江戸から駆けつけて来て、加盟した。)

(斉藤は試衛館の食客で抜群に腕が立ち、流派こそ違ったが、近藤は沖田と共に直門同然に可愛がった。)

(父が明石浪人であった事から、自らも明石浪人と称している。入隊後は三番隊隊長を務め、新選組の主な戦闘のほとんどに参加した。近藤の死後は土方に従って函館まで行き、敗勢確実となった時、土方の説得を受けて脱出した。維新後は山口五郎と改名して、お茶の水師範学校の剣術教師を勤めた。)

(この斉藤は刀剣に目が利き、しょっちゅう古道具あさりをしていた。鴻池の事件の後、近藤は斉藤を自室に呼び、上機嫌で虎徹を見せた。)

(斉藤は手にとって、鞘から刀を抜いた。なるほど、近藤が惚れ込むだけあって、持っているだけでもぞくぞくしてくるほど使い心地が良さそうな刀である。しかし彼が見るところ、この刀は虎徹ではなさそうであった。)

(斉藤が言うには、虎徹ならば数珠玉と呼ばれる丸い焼刃が出ているはずだが、この刀にはそれがない。おそらくは源清麿だろうという。)

(清麿とは幕末きっての名工と言われた刀鍛冶で、つい数年前の嘉永末年に死んでいる。この人物は尊皇思想を持っており、幕臣のためには刀を打たなかったと言われている。一時長州に身を潜めていた事があり、尊攘派志士の間ではこの刀を持つ事が流行しているらしい。)

(近藤は内心騙された事に気が付いた。しかし、表情は変えずに、これは虎徹だと言い切った。)

(近藤が言うには、この刀はすでに新選組の虎徹として世間に広まりつつある。日ならずして、誰一人知らぬ者は居ないという事になるだろう。いわば新選組の宝刀であり、虎徹ではないかも知れぬが、虎徹として生き始めている。要は生かし方である。)

(そう語る一方で、尾張藩邸の松井老人を思った。あの老人は刀の知識はあっても、生かし様を知らない。)

・斉藤一について

「斉藤一は江戸で結成された浪士組には参加しておらず、京都で加盟したものと考えられています。では作品にある様に新選組(壬生浪士組)結成直後に江戸から駆けつけたのかとういうと、そうでも無いようです。彼は近藤達よりも先に京都に来ていた可能性が高いと考えられています。」

「斉藤が試衛館の食客であったらしい事は、浪士文久報国記事にその旨が記されていることから、ほぼ間違いないとされています。流派については一刀流、無外流、太子流などの諸説があり、残念ながら断定出来るほど明確にはなっていません。」

「出自については、彼の父は元は明石藩の足軽だったのですが、その家督を妹婿に譲り、自らは江戸に出て御家人株を買い、幕臣となっています。ですから、明石浪人というのは半ば本当、正しくは御府内浪人というべきなのでしょうか。」

「斉藤家に伝わる文書に依ると、彼は19歳の時に誤って旗本を殺してしまい、ほとぼりを冷ますために京都へ逃れたとあります。京都では父親のしるべであった吉田という人物が経営する道場に寄宿し、その腕を買われて代稽古などをしていた様です。」

「京都にあっても江戸との文通があったのか、近藤達の京都残留が決まるや、すぐに同志として加盟した様です。このあたりの事情があいまいなのですが、それ以後は三番隊組長として活躍した事は周知のとおりです。」

「この作品において、斉藤に関する略歴がメモ書き程度に記されているのですが、その中にある函館まで行ったとする記述は明らかな誤りです。同じ作者の小説「燃えよ剣」でも同様の設定になっているのですが、斉藤が新選組と行動を共にしたのは会津までであり、蝦夷地には渡っていません。」

「恐らくこれは、斉藤一諾斎という良く似た名前の別人をヒントに、作者が創作したストーリーではないかと考えられます。一諾斎は慶応4年に江戸で加盟した人で、一説には土方に従って会津から蝦夷にかけて転戦し、最後は松前藩主夫人を護送する様に土方から命じられて江戸に戻ったと言われています。実際には蝦夷には渡っておらず仙台で捕らえられた様なのですが、作者はこのエピソードを元に、斉藤一が改名して土方に従ったというストーリーを創作したものと思われます。あるいは単純に両者を混同していただけなのかも判りませんが...。」

「燃えよ剣の中に面白い一説があります。土方に斉藤が改名の由来を説明するのですが、「何でもあんたの言う事を聞く、だから一諾斎」と付けたとあります。これなど、事実を下敷きにした見事な創作というべきでしょうね。」

「一方、斉藤がその晩年に東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)に奉職していたという事は事実です。ただし、役職は剣術教師ではなく、庶務係兼会計係でした。およそ新選組副長助勤当時からは想像も付かない、恐ろしく地味なポストですね。斉藤のデスクワーク姿というのはちょっと想像出来ないのですが、さぞかし融通の利かない、恐ろしい事務方だった事でしょう...。」

・源清麿について

「源清麿は信州の人で、本名を山浦環と言いました。郷士の次男として産まれた環は、理想の刀を造ろうとする兄の影響を受けて、自らも刀を打つ様になり正行と名乗ります。やがて江戸に出て幕臣の窪田清音の後援を受け、自立を果たしました。そして、清音が主催した武器講(刀一振りにつき三両という触れ込みで出資者を募って資金をプールし、その資金を元に正行が打った刀をくじ引きで出資者に渡すという仕組み。)に従事しますが、なぜかこの武器講を突然中断して、一時長州に逃れました。」

「武器講を中断した理由は様々に語られますが、

・武器講の金を飲みつぶしてしまった。

・芸術家肌の正行には武器講という量産体制は耐えられなかった。

・出資者や後援者が勤皇家であり、その影響で長州に走った。

などが主な説です。ただ、この時期の長州にはまだ勤皇思想という流行は無く、最後の説は後世のこじつけである可能性が高そうですね。現在では、天保の改革による倹約令の影響で、武器講そのものが成り立たなくなったのではないかとする説が有力視されている様です。」

「やがて江戸に帰った正行は清音にわびを入れて許しを乞い、清麿と名乗りを改めています。そして四谷正宗の異名を取るほどに腕を上げたのですが、1854年(嘉永7年)に謎の自殺を遂げ、その短い一生を終えました。時に42歳の働き盛りでした。」

「この自殺の原因として、従来は彼は過激な尊皇思想を持っており、幕府の厳しい追求を受けたためと言われていましたが、安政の大獄よりも遙かに前の時期であり、ちょっとあり得ない説ですね。」

「現在では清麿=勤皇家説そのものが否定されている様です。有力な説としては、彼は大酒家であり、そのせいで体が不自由になって、思う様に刀が打てなくなった事を苦にしたのではないかと言われています。」

「現代においてもっとも人気がある刀工は、実はこの清麿だそうですね。これは吉川英治や隆慶一郎の小説によってその波乱に富んだ人生が紹介された事が一因だそうですが、もしかするとこの作品もその人気の一翼を担っているのかも知れません。」

(参考文献)
新人物往来社「新選組銘々伝」、赤間倭子「斉藤一の謎」、司馬遼太郎「燃えよ剣」

2007年6月21日 (木)

新選組血風録の風景 ~虎徹その3~

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(新選組血風禄概要)

(巡察は続く。蛸薬師の筋を一巡し、尾張藩邸で休息した。藩邸では公用人の間に通され、酒肴でもてなされた。接待に出たのは公用方の松井助五郎という老人である。)

(老人は刀の鑑定が出来た。自然、話題は刀剣の事になる。老人の話では、薩長土の尊攘過激派の間では村正が流行しているらしい。村正は代々徳川家に不吉な事件をもたらした妖刀として忌まれてきたが、ことさらにこれを買い求めて腰に帯びているという事実は、彼らが内心倒幕の意思を持っている証に他ならないという。)

(近藤は村正には興味が無かった。自分の佩刀を老人に渡し、虎徹ですが鑑定願いたいと言った。老人は受け取り刀身を一瞥したが、眼福ですと言っただけで特に批評を漏らさなかった。近藤も何も言わなかったが、腹の中では何の評語も言わない老人の不遜な態度を憎悪した。)

(藩邸を出ると、東山の上に十五夜の月が出ていた。4人は月に向かって歩いた。烏丸筋にまで出たとき、あちこちで犬が鳴き始めた。その声を聞いて沖田は妙だと言う。一匹だけ必死な声がするという沖田の言葉に、一同は烏丸筋を南に歩き始めた。)

(四条通にまで来たとき、沖田は四ツ辻に立ち止まった。西の角の二軒入った南側に土蔵造りの巨邸がある。鴻池の京都別邸である。犬は鴻池の邸内で鳴いているという。)

(近藤は山南を屋敷の西角、沖田を東角に潜ませ、自らは門前に立ち、ご用改めである、開門されよと呼ばわった。三度目の声に応じる様に、塀の内側から人影が現れた。全部で五つ。最初の二人が路上に飛び降りたとき、近藤は何者かと言いながら詰め寄った。)

(相手は、攘夷御用金を受け取り退散するところだ、邪魔立てするなと言う。近藤は新選組であると名乗り、不審があるから屯所まで同道せよと命じた。相手は応じるはずもなく、一斉に斬り掛かって来る。近藤はたちまちの内に二人を倒した。近藤の刀の切れ味は素晴らしく、ほとんど手応えさえ無かった。撃ちの凄まじさは胴田貫に似ている。)

(沖田と山南もそれぞれ一人づつを倒したが、この後山南の刀は刀身が曲がって鞘に収まらなかった。新選組が洛中で人を斬り始めたのはこの事件が最初である。)

・村正について

「村正と言えば、刀に興味の無い人でもその名を知っているという程有名な刀です。ロールプレイングのゲームにおいても高性能のアイテムとして登場する事があり、その世界で知った人も多いのではないでしょうか。そういえば、名探偵コナン「迷宮のクロスロード」において、服部平次が土壇場で手にした刀も村正でしたね。」

「村正は美濃出身の刀鍛冶で、後に伊勢に移って一流を開きました。村正は三代続き、特に二代が優れているとされますが、名工ではあるものの、他を押しのけて第一席に擬されるという程ではない様です。ではなぜ村正が有名かと言えば、妖刀という伝説に彩られて来たからに他なりません。」

「村正が妖刀と忌み嫌われてきたのは、別にこの刀が摩訶不思議な出来事を起こしたという訳ではなく、一重に徳川家にまつわるエピソードに因ります。」

「まず、家康の祖父清康と父の広忠は共に家臣の謀反によって殺害されているのですが、この時使われた刀がどちらも村正でした。次いで、家来が槍を落とした拍子に家康が怪我をした事があったのですが、この時の槍が村正でした。そして、嫡男信康が信長から謀反の嫌疑を掛けられ死罪となった時に、介錯に使われた刀がまた村正でした。この様に村正は家康にとって不吉をもたらす、忌み嫌うべき刀となったのですね。」

「以来、諸侯においても村正を所持する事は徳川家に逆意を持つ印と疑われかねないため、これを手放すか、銘を削って所有するという慣習が出来たのです。もっとも、中には在銘のまま所有していた鍋島氏の様な例外もあったようですね。」

「逆に、家康に敵対する武将にとっては、またとない差料となりました。その代表格が大阪の陣で豊臣方の武将として活躍した真田幸村です。また、幕末期には西郷隆盛が所有していたそうですね。しかし、それぞれ非業の最期を遂げており、かえって村正妖刀説を裏付けてしまっているのかも知れません。」

・同田貫とは

「また、胴田貫とあるのは、これも刀の名の一つです。正しくは同田貫といい、肥後の刀鍛冶の集団が作った刀の事を指します。この同田貫という名は地名から来ているそうで、幅広く堅牢な造りであり、実戦向きの刀として知られていました。一般には時代劇「三匹が斬る」で知られる様になり、さらに劇画「子連れ狼」の拝一刀の愛刀(胴田貫)として有名になっています。」

「胴田貫の名の由来として、死体を田圃に横たえてこれを斬ると、死体を両断した後もなお田を切り下げるという程の切れ味を示す事に因るという俗説があります。これは後世のこじつけらしいのですが、それほど強烈な威力を持った刀として世間に認識されていたという事なのでしょうね。」

「抜群の切れ味を示す同田貫ですが、美術的にはさして優れているとは言えず、現在の刀剣界ではあまり人気が無いそうです。子連れ狼の刀といえば売れそうなものですが、それは素人が考える事なのかも知れないですね。」

(作品の舞台の紹介)

「尾張藩京都藩邸は、作品中ではあたかも蛸薬師通に面しているかの様な印象を受けますが、実際には一筋南の錦小路に面していました。京都風の地名で言えば錦小路室町西入るの場所にあり、四方又は二方を通りで囲まれた大きな藩邸が多い中、一つの区画の3分1程度しかないという比較的小規模な藩邸だった様です。」

「現在で言えば、祇園祭の霰天神山がある界隈といえば比較的通りが良いでしょうか。付近に尾張藩邸があったという石碑の類は一切見あたりませんが、祇園祭に行く事があれば、近藤達が松井老人と話しをしたのはこのあたりだったのかなと思い浮かべてみて下さい。もっとも、あまりに賑やかすぎてとても小説の様な雰囲気にはなれないでしょうけどね...。」

光村推古書院「京都時代MAP」、新人物往来社「新選組を歩く」、子母澤寛「新選組始末記」

2007年6月20日 (水)

新選組血風録の風景 ~虎徹その2~

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(新選組血風禄概要)

(新選組が幕府の公認でかつ官製によらない団体(松平肥後守御預浪士組)として発足したのは、文久3年3月の事である。発足当時局長は3名で、筆頭が芹沢で新見がこれに次ぎ、近藤はさらにその次席であった。この頃には近藤の立場も軽く、また隊士も少なかったので、自ら隊士を連れて市中巡察に出る事も多かった。)

(この日の巡察には、山南、沖田、それに下僕の忠助が従っていた。夕刻、祇園会所で町役人から付近の出来事を聞き、河原町御池の長州藩邸の前を通って河原町通を南下し、土州藩邸前まで来たとき、町が昏くなった。)

(忠助が提灯に灯を入れようと燧石を打ったが、どうした訳か上手くいかない。そこで沖田が土州屋敷のはす向かいにある寿司屋で火を貰おうと、格子戸を開けて店の中に入った。)

(店の中には5人の武士が居た。彼らはいきなり入ってきた沖田に驚いたらしく、一斉に振り向いた。沖田は表の蒸籠にはすでに火が無いのに、5人の武士が寿司の出来上がりを待っている事に不審を抱いた。)

(彼らの内の一人が居丈高に沖田に誰何した。沖田が提灯の付け火を貰いに来ただけですと答えると、さらに何藩だと畳みかけて来る。やむなく新選組副長助勤沖田総司と答えると、彼らは一斉に刀を引きつけた。沖田は店の迷惑になるから表で相手をすると言うと、5人の中の年がしらの人物が仲間を眼で押さえ、御無礼したと頭を下げた。判って貰えばそれで良いですと言い捨てて、店を出る沖田。)

(沖田は路上で提灯に灯を入れつつ、たった今の一件を近藤に報告した。そして、近藤に近くの辻番所で待つ様にと言い、自らは彼らの動向を見張るべく後に残った。近藤は錦小路の辻番所へと入った。)

(間もなく沖田が駆け戻ってきて、散ったらしいですと報告した。今夜こそ浮浪を狩れるかと思っていた近藤は、不快な顔をしてみせた。まだ京に上って日が浅く、これまで人を斬る機会に恵まれていなかったのである。)

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・御預の意味とは

「新選組発足当時の法的位置づけはかなり曖昧なもので、松平肥後守御預というものでした。松平肥後守とは京都守護職である松平容保の事ですが、彼が近藤達の身柄を預かるとはどういう意味なのでしょう。」

「松浦玲氏の「新選組」に依れば、御預の「御」とは将軍に対する敬語であり、将軍が集めた浪士組の一部を松平容保が預かるという意味であるとあります。つまりは法規に基づく官製の部隊である浪士組から外れた近藤達を、容保が法規に依らずに預かり置くという理解になるのでしょうか。すると、作者が記した公認ではあるが官製ではないという表現は、初期新選組(壬生浪士組)の微妙な法的地位を端的に表した言葉と言えるのかも知れません。」

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・壬生浪士組の任務

「近藤達が京都に残るに当たって容保にまで提出した建白書に依れば、彼らは将軍警護の為に残るのであり、当面の役割として二条城周辺の夜回りでも申しつけて貰えればありがたいと記されていました。これに対して守護職からは、奸物を誅戮する様にという内命を受けたと近藤の書簡にあり、非公式ながらも彼らが市中巡察を行う根拠となっています。ただし、彼らが正式に市中巡察を命じられるのは8・18の政変以後の事であり、それ以前にどこまで権限を委ねられていたかは定かではありません。」

「記録に残るこの時期の警察活動としては、大阪において不逞浪士を捕縛したという事件があります。6月2日に大阪に天下浪士と称する者が乱暴を働いているとの報に接した壬生浪士組はさっそく下阪し、翌3日朝に二人の浪士を捕らえて大阪町奉行所に引き渡しています。この後、大阪角力とのけんか騒ぎを引き起こすのですが、その詳細は「芹沢鴨の暗殺その10」に記したとおりです。」

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(作品の舞台の紹介)

「新選組初期の巡察区域は判っていませんが、見廻組発足以後は主として四条通から南側を担当していました。この作品における巡察区域は作者によって創作されたものですが、4人で廻るにはかなり広いですね。」

・祇園会所跡

「写真は作品中に出てくるポイントを追ったもので、最初の一枚は祇園会所跡です。いわゆる祇園石段下にあたり、正面の通りが四条通、左右の通りが東大路通になります。会所があったとされるのは交差点の左上隅のあたりで、この写真だとローソンの看板が目立ちますね。その向こうの三角屋根が交番で、そこから隣の弥栄中学にかけての範囲に会所があったのではないかと考えられています。」

「町会所とは町の自治のために設けられた施設であり、町内の会合などに使われるほか、普段は管理人として町用人が詰めていました。官設ではないものの町内共有の公の場所であり、その後に交番や学校を作ったというのは、まさにふさわしい跡地利用だったと言えそうですね。」

・長州藩邸跡

「次いで、近藤達は長州藩邸の前を南下しています。祇園から河原町御池までは距離がありすぎて描写が不自然なのですが、縄手通あるいは木屋町通を北上して二条にまで至ったものなのでしょうか。いずれにしてもこのあたりは尊攘派の巣窟と言われた地帯であり、巡視経路としてはふさわしいものの、たった四人で巡察を行うのはかなり危険な行為だった様に思われます。」

「長州藩邸跡は現在の京都ホテルオークラが建つ場所にあたり、現地には写真の石碑と共に長州藩邸の概要を記したプレートが設置されています。ただ、この石碑は植え込みの中に埋もれているので、むしろ桂小五郎の銅像の方が目印としては向いているかも知れないですね。」

・土佐藩邸跡

「土佐藩邸跡は旧立誠小学校にあたり、木屋町通に石碑があります。あたりの地形は全く変わっていますが、当時を偲ばせるものとして、かつて藩邸内にあったとされる土佐稲荷・岬神社があります。」

「作品に描かれた河原町通の現状は最後の写真のとおりで、京都きっての繁華街となっています。当時の道幅は現在の東の歩道程度であったと推定されており、この写真の車道部分はすべて家屋が建っていたものと思われます。」

・寿司屋の蒸籠

「この作品中に寿司屋が出てきますが、現状に当てはめるとすると「ひさご寿司」がそれに該当します。無論、これは作者による創作であり現実の店とは無関係であるとは思われますが、もしかすると実際に河原町通を歩いたときにひさご寿司に気づいていて、作品に取り入れたのかも判りません。」

「この中で寿司屋の店先に蒸籠があると描写されているのですが、これは関西特有の蒸し寿司のための蒸籠と思われます。おそらく関東の人にはぴんと来ないでしょうけど、蒸籠で蒸して暖ためてから食べる「ぬくずし」というものがあって、主として寒い季節の食べ物として好まれます。今でもひさご寿司のメニューの中に、冬季限定ながらちゃんと残っていますね。」

「でも京都に来て間もない沖田が蒸籠の火が落ちている事に不審を抱いた訳ですから、もしかしたら関東にも普通にあるものなのでしょうか。このあたりは私にとってちょっとした謎です。」

(参考文献)
松浦玲「新選組」、光村推古書院「京都時代MAP」、新人物往来社「新選組を歩く」、木村幸比古「新選組日記」

2007年6月19日 (火)

新選組血風録の風景 ~虎徹~

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(新選組血風録概要)

(文久3年正月のある日、愛宕下の日陰町にある相模屋伊助の店に、一人の武士が入ってきた。年は30前後、丸に二ツ引両の紋所の羽織を着たその武士は、虎徹はないかと訊ねてきた。あいにく店には置いてなかったが、伊助は取り寄せるつもりで、その武士の心積もりを聞いてみた。武士は20両と言う。いまどき20両で虎徹があるはずも無かったのだが、伊助は顔には出さずに注文を受けて届け先を聞いた。武士は試衛館の近藤と名乗り、火急にと念を押して去った。)

(伊助はすぐに同業者に手配して、虎徹を探し始めた。しかし、その値頃の虎徹は容易に見つからない。)

(虎轍は、正しくは長曽禰虎徹入道興里といい、越前の人である。元は優れた甲冑師であったが、大阪の陣が終わって甲冑の需要が無くなると、甲冑師に見切りを付けて刀鍛冶に転向した。これが50歳の時で、それから亡くなる70余歳までの間に前人未踏の境地を開いて、名人と呼ばれるまでに至っている。)

(虎轍の姿は、実はあまり良くない。しかし、鋭利な事では平安・鎌倉の古鍛冶も及ばないとされ、中でも「石灯籠切」と呼ばれる名品は、石灯籠を切っても刃こぼれ一つ起こさなかったと言われている。)

(江戸期を通じて虎轍の評判は高く、心掛けのある武士は争って虎轍を求めた。その需要の高さにつけ込んだ偽物も多く作刀され、今の世に至るまで横行している。)

(近藤が虎轍を求めたのは、浪士組に応募した事がきっかけであった。その支度金としてあてがわれた20両を使って、名のある名刀を買おうとしたのである。近藤に虎轍を勧めたのは山南であった。山南は虎轍の試し切りの話を伝え聞いており、その切れ味の凄まじさを近藤に教えたのである。)

(正月も半ば過ぎた頃、伊助が虎轍と称する刀を持ってきた。鞘から抜くと、二尺三寸五分という近藤の為に誂えた様な寸法である。朴強な中に、骨までかじりつきそうな凄みを秘めたその刀は、どこか近藤に似た感じがした。すっかり気に入った近藤は伊助に20両を与え、その刀を携えて上洛の途についた。文久3年2月8日の事である。)

・近藤家の紋所

「この作品は、冒頭からおかしな事が書かれています。それは近藤の紋所の事で、丸に二ツ引両とあるのですが、実際には丸に三つ引き(又は丸の内に三つ引き)でした。新選組始末記の記述にあるのですが、天寧寺の墓には丸に三つ引き、竜源寺の墓には丸の内に三つ引き(丸の内側に縁が付いている)の家紋が刻まれており、間違いはないと思われます。この部分は作品の伏線という程のものでもなく、恐らくは作者の単純な思い違いなのでしょうね。」

・虎徹について

「長曽禰虎轍入道興里は、正確には近江国佐和山の生まれで、幼少期に関ヶ原の戦いがあり、戦乱を逃れて越前(金沢とも)に移りました。作品にあるとおり、始めは甲冑師として身を立てていたのですが、50歳の時に刀鍛冶を志して江戸に出たとされます。」

「当時としては老齢と言うべき年齢での転向でしたが、元々甲冑師として鉄の鍛錬の技術を持っていたからでしょう、刀鍛冶として次第に頭角を現し、遂には名人と謳われる境地にまで達します。彼は古い鉄を溶かして刀の原料としたことから、始めは古鉄と名乗ったとされます。さらに年を追うごとに虎徹(はねとら)、乕徹(はことら)と銘に使う文字を変えています。」

「虎徹は、公儀御様御用(刀の試し切り役)の山田朝衛門が定めた刀鍛冶のランキング「懐宝剣尺」において、最上大業物の筆頭とされた事から人気が沸騰し、需要が逼迫したため偽物が多く作られました。虎徹を見たら偽と思えとは作品中にもある言葉ですが、今でも市場に出回る虎徹の多くは贋作なのだそうですね。」

「近藤が虎徹と称する刀を使っていた事は、池田屋事件を伝える彼の書簡の一節にある事から事実と思われますが、一介の道場主に過ぎなかった近藤が大名道具に等しい本物の虎徹を買えるはずもなく、おそらくは偽物であったろうと言われています。このあたりは物語が進むにつれて触れていく事になります。」

・浪士組の支度金

「ところで、作品中では浪士組の支度金が20両となっていますが、実際には10両であったと言われています。これは当初50両の支度金で50名を集める予定で2500両の予算を組んでいたところ、実際に集まったのは250名に達したためでした。予定の5倍の人数になってしまったために、支度金も5分の1にせざるを得なかったという訳ですね。」

「これには異説もあり、当初から10両の予定だったとする説もあります。坂本龍馬が勝海舟の談話として伝えたもので、2人扶持で金10両を支給するとして浪人を募集したところ、たちまち4、50人が集まったとあります。ちなみに同じ談話の中で海舟は浪士組の結成に反対しており、これは松平春嶽の大失策であるとまで批判しています。海舟は新選組に対してあまり好意的とは言えなかったのですが、その感情は浪士組結成の当初から萌芽していたと言えるのかも知れません。」

(作品の舞台の紹介)

「浪士組が江戸を出立したのは文久3年2月8日の事でした。それから中山道を通って京都に着いたのは2月23日の事です。当時、京都に入って最初に渡るのがこの三条大橋でした。」

「この日の前日、等持院にある足利将軍家の木像の首が持ち去られ、翌23日の未明に三条河原に晒されるという「足利三代木像梟首事件」が起きています。」

「新選組!では、近藤達が入京した時に三条大橋でこの事件を目撃するという設定になっていましたが、浪士組はその日の朝に大津を出立しており、タイミング的にはそういう事があってもおかしくはなかったのですね。」

「この事件は在京浪士による関東浪士団に対する挑発とも言われており、さらに言えば幕府側に付いたとも受け取れる清河八郎に対するメッセージだったのかも知れません。」

「一方で、松平容保がそれまでの穏健路線を捨てて浪士弾圧に乗り出したのはこの事件が引き金になったとされており、その意味では新選組誕生のきっかけの一つとなった事件でもありました。もしもこの事件が無かったらまだ暫くは容保の穏健路線が続いており、新選組の誕生も無かったかも知れません。近藤達がこの木像と出会っていたとしたら、極めて運命的なシーンだったと言えるのでしょうね。」

(参考文献)

木村幸比古「新選組全史」、「新選組と沖田総司」、子母澤寛「新選組始末記」

2007年6月18日 (月)

京都・洛東 灯ともし頃~祇園~

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料亭の明かりに灯が入ったばかりの祇園切り通しです。夜の客を迎えるための仕込みが終わったのでしょう、そこかしこから美味しそうな臭いが流れてきますが、歩いている人はまだ観光客が主流です。

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祇園における記念写真のメッカとなっている巽橋。この橋の上に立ち止まる人が居なくなると、道行く人の姿が変わってきました。これから店を開けるママさんや、出勤してきたホステスさんらしき人達が、次々とこの橋を渡って行きます。

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灯籠に明かりの入った辰己大明神。ここに舞妓さんや芸妓さんを立たせたら、さぞかし絵になる事でしょうね。

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辰己大明神が闇に包まれる頃、祇園は管弦の音がさざめく夜の街へと変貌して行きます。

(撮影日 平成19年6月9日)

2007年6月17日 (日)

京都・洛東 初夏の宵~八坂神社~

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夕闇迫る八坂神社。門前の二軒茶屋中村楼では提灯に灯りが入り、夜の客を迎えるための打ち水がされていました。

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境内の木々は午前中の雨を受けてでしょう、深い緑に沈んでいました。ほとんど話題になる事はありませんが、本殿の裏には相当な巨樹が並んでいます。恐らくは樹齢100年を超える木も珍しくないのではないかな。

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西楼門の前は、皐月の名所として知られています。この日は満開で斜面一杯に咲いた花は見事の一言でした。ただ西楼門が修理中であるため、門を入れた定番の角度では撮れなかったのが残念でしたね。この写真を撮ってから一週間が過ぎており、さすがに花は終わっているだろうな。

(撮影日 平成19年6月9日)

2007年6月16日 (土)

京都・洛東 ~東景寺~

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京都・下河原、八坂鳥居前にある東景寺。門前の石碑に刻まれている「秋葉原三尺大権現」と言った方が通りが良いでしょう。山門の中に鳥居がある、ちょっと不思議な小さなお寺です。

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秋葉原三尺大権現は、信州に起源を持つ火除けの神様として知られ、観音菩薩の化身としてこの世に産まれたとされます。すなわち神仏混交であり、山門と鳥居が同居するこの寺は、神仏分離以前の形態を残しているという事になるのでしょうか。

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東景寺は曹洞宗。かつて存在した秋葉寺が曹洞宗であった事から、秋葉原三尺大権現とはセットになっていたのでしょうね。東景寺の詳しい寺歴は判りませんが、恐らくは火除けの神様としての信仰が盛んであった江戸期に、この地に勧請されて来たものではないかと思われます。

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その狭い境内には、四季の花が植えられています。今の季節は皐月と紫陽花が見事でした。

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夏には門前のサルスベリが鮮やかな花を付け、冬から春にかけては椿の花が彩りを添えます。ほとんど注目される事はない寺ですが、東山散策の折に、ふらりと立ち寄ってみるのも良いかも知れませんよ。

(撮影日 平成19年6月9日)

2007年6月15日 (金)

京都・洛東 高台寺界隈・黄昏時

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夏至が近いこの時期は、店に明かりが入りかけても、黄昏時はずっと続きます。薄暮の中の景色は一層情緒が増しますよね。そんな高台寺界隈を散歩してみました。

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平成19年6月9日の東山界隈は、どこも皐月が見頃でした。4月にはコデマリが咲いていた春光院でも、皐月が見事に咲いていました。同じように八坂の塔をバックにしてみたのですが、ちょっと無理がある角度でしたね。

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石塀小路で咲いていた皐月です。後ろに見えているのは祇園祭の粽ですね。そろそろ八坂神社の境内で、祇園囃子の稽古の音が聞こえる季節になって来ました。

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田舎亭の前には打ち水がされていました。濡れた石畳はやはり美しいですね。その小径をこれから旅館に向かうのでしょうか、大きなバックを持った二人連れが足早に歩いて行きました。

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石塀小路とは背中合わせになる住本寺です。普段は前を通り過ぎるだけの寺なのですが、この日は鮮やかな皐月に目を奪われてしまいました。

東山界隈は特に名所と言うわけでも無いのに、少し歩いただけで沢山の皐月と出会えます。それだけこの花が愛され、大切にされているという事なのでしょうね。

2007年6月14日 (木)

京都・洛東 皐月満開 ~円山公園~

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平成19年6月9日の円山公園は、皐月が満開でした。

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この生け垣はいもぼうで有名な平野家本店の前です。ここってこんなに綺麗だったっけかなあ。

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東山は深い緑に覆われていました。手前の枝は枝垂れ桜。やっぱりあまり元気が感じられませんねえ...。

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池の畔の皐月は、少し盛りを過ぎ掛けていました。今頃は、そろそろ終わりかけている頃かな。

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本当は冒頭に持って行きたかった写真なのですが、ブレてしまったのでこっそりと最後に置きました。もっと気合いを入れて撮っておけば良かったなあ...。

長楽寺の門前では、紅葉庵さんの皐月がとても見事に咲いていました。無粋な街灯が無ければ、もっと風流なのですけどね。このあたりは花見時分でもほとんど混む事が無い、円山公園の奥座敷です。

2007年6月13日 (水)

京都・洛東 夏の気配 ~岡崎界隈~

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平安神宮の応天門を出ると、そこは岡崎。美術館や図書館が並び立つ、京都の文化ゾーンです。

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この日は午前中に雷雨、昼からは曇りから一時晴れ、夜にまた雨がぱらつくという何とも不安定な天気でした。その中で一瞬見えた夏空です。大文字の上に現れた入道雲が夕立を予感させますね。

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上の写真でも少し見えているキンシバイ。地下駐車場の入り口と道路に挟まれた空き地を埋める為に植えられたと思われるのですが、あまり手入れされていないのでしょう、ほとんど野生化していました。でも、日に透けた花色は、とてもきれいでしたよ。

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京都市美術館の前では、一本の木が白く染まっていました。まるで雪が積もったかの様ですね。

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近づいてみると、ヤマボウシの花でした。春に咲くハナミズキの別名をアメリカヤマボウシと言いますが、なるほどよく似てますね。でも、花の様に見える総苞の先が尖っており、ハナミズキとは違う事が判ります。また花の時期も一ヶ月程度遅いですね。

また、ハナミズキは葉よりも花が先に咲きますが、ヤマボウシは葉の後から花が咲きます。その分華やかさでは劣りますが、緑とのコラボレーションはいかにも初夏らしい爽やかさで溢れていると言えますね。

(平成19年6月9日撮影)

2007年6月12日 (火)

京都・洛東 栖鳳池 ~平安神宮~

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平安神宮の神苑を順路に従って歩いていくと、最後に出会うのが東神苑の栖鳳池です。池としては一番大きく、中程に太平閣と呼ばれる橋殿があります。

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桜の頃には西神苑と共にもっとも見所となる場所ですが、この時期は睡蓮も花菖蒲も無く、ちょっと寂しいですね。それでもところどころに皐月が咲いていて、緑の中に彩りを添えていました。

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皐月の他に紫陽花もあるのですが、まだ咲き始めたばかりのようで、花はほとんど緑色でした。でも、水面に目を移すと、それなりに綺麗でしたよ。

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池の畔で咲いていた夏萩です。秋の萩の様な華やかさには乏しいですが、やがて来る季節を感じさせてくれる貴重な花ですね。

(平成19年6月9日撮影)

2007年6月11日 (月)

京都・洛東 睡蓮 ~平安神宮~

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平安神宮の神苑で睡蓮が咲いているのは、昨日紹介した西神苑の白虎池と中神苑の蒼龍池です。今の時期は白虎池は花菖蒲が花盛りで睡蓮は脇役なのに対し、蒼龍池は杜若の花が終わっており、睡蓮が主役になっています。

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蒼龍池の良いところは、飛び石伝いに池を渡る際に睡蓮を間近に見られる事ですね。岸辺から遠目で見る花も良いですが、やはりすぐ近くで見た方が綺麗ですよ。

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同じ睡蓮とは言っても咲き方は様々で、水面ぎりぎりに咲く花と、水面から飛び出して咲く花がある様ですね。蓮との違いを説明するときに水面から出ているのが蓮と言ったりしますが、必ずしもそれだけでは十分な説明では無い様です。

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見比べれば蓮の方がはるかに大きく、何より中心に花托があるので見分けが付きますが、色的にはまぎらわしいものもありますね。写真を撮っていると、どっちだろうと迷っている人が結構居ました。

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もう一つ、蓮との見分け方は、葉が大きく水面から飛び出しているのが蓮というのもあります。睡蓮の葉は水面に浮いており、基本的に水面から出ている事はありません。なお、オニバスは水面に浮くタイプですが、これは睡蓮の仲間で、蓮とは別種になります。

などと判ったような事を書いてますが、私もブログを始めてから知った事で、以前は区別が付きませんでした。これもブログの効用の一つではありますね。

(平成19年6月9日撮影)

2007年6月10日 (日)

京都・洛東 花菖蒲見頃です ~平安神宮~

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平安神宮の西神苑にある白虎池にて、花菖蒲が見頃を迎えています。ここにある花菖蒲は200種、2000株と言われ、睡蓮と共に夢の様な景観を見せてくれていました。

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花菖蒲には江戸系、伊勢系、肥後系という流れがあるのですが、正直言ってほとんど区別が付きません。この白い花は江戸系と見たのですが、もしかしたら違ってるかな。

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改めて写真を整理していると、私が居た池の東側には江戸系が多い様な気がします。今度行くときは、品種の違いにも気をつけて見て来ようと思ってます。

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今回はちょっと狙いすぎて、あまり良い写真は撮れていません。その代わりという訳でもありませんが、いけこさんの東山雑記に綺麗な写真が沢山ありますので、どうぞそちらも合わせてご覧になって下さい。

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もう一つこの池で見頃だったのがコウホネです。大きな葉に隠れていて見えにくいのが難点ですが、鮮やかな黄色の花を付けていました。でも、ほとんどの人が花菖蒲に目を奪われてこの花に気づいておらず、ちっょともったいない気がしましたね。

(撮影日 平成19年6月9日)

2007年6月 9日 (土)

京都蛍事情 2007.6.9 ~哲学の道~

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先週に続いて、哲学の道の蛍の鑑賞に行ってきました。先週はまだ飛び始めたばかりでしたが、今週は前日と当日の午前に雨が降ったばかりなので、大量発生が期待されました。

が、しかし、数的には少し増えた程度で、群舞と呼べるほどにまでは至っていません。一体どうしたのでしょうねえ。寒気の影響で、ちっょと肌寒いのが影響しているのかしらん?

でも、居ることは確実に居ますので、ここ暫くは行って空振りだったという事は無いと思います。

それにしても人出の多い事。新聞に出たのかどうかは判りませんが、花見時分を彷彿とさせる人波でした。情緒という意味では今ひとつではありますが、反面、これだけ賑やかだと夜でも物騒と言う事はなく、安心して見ていられるというメリットもあります。

ただし、少しでも哲学の道から外れるととたんに人通りが無くなりますから、女性の一人歩きなどは禁物ですよ。

2007年6月 8日 (金)

京都・洛中 京都ハリストス正教会

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京都御所のほど近く、柳馬場通二条上がるの地に、京都ハリストス正教会があります。ハリストスとはキリストの事。日本正教会では、イエス・キリストをイイスス・ハリストスと呼ぶそうですね。

正教会が日本に伝えられたのは幕末の事でした。1861年(文久元年)、東京のニコライ聖堂にその名を残す聖ニコライが函館の地に降り立ったのです。以来、着実に日本の中に根を下ろし、信徒も増えていったのですが、前途には幾多の苦難が待ち受けていました。その始まりが日露戦争で、ロシアから伝わった正教会は、敵性宗教として白眼視されることになります。

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この生神女福音(せいしんじょふくいん=受胎告知)聖堂が建設されたのは丁度その頃で、日露戦争が始まる1年前(明治36年)の事でした。この事から容易に想像出来る様に、この聖堂の歩みは決して平坦では無かった様です。日露戦争の次にはロシア革命によって本国の教会が壊滅状態になり、日本の正教会は孤児となってしまいます。さらには日本の軍国主義化が追い打ちを掛け、正教会はほとんど滅びる寸前にまで追い詰められました。この生神女福音聖堂もまた強制疎開の対象となり、取り壊される予定になっていたのですが、終戦によって危ういところを逃れています。

戦後は正教会も序々に勢力を回復し、現在の信徒は約1万人と言われています。生神女福音聖堂もまた京都市の有形文化財に指定され、昭和62年に大修理が施されて往年の姿を取り戻しました。ロシア・ビザンチン様式のこの聖堂は異国情緒に溢れていますが、その一方で意外なほどに京都の町並みに溶け込んでいます。

ここは現役の教会なので、観光目的で内部に入ることは出来ないようです。日曜日の朝の聖体礼儀参祷時にのみ拝観が可能ですが、あくまで宗教的行為として入館が許される様ですね。ただ、外回りは見学自由ですから、この素晴らしい聖堂を堪能する事が出来ますよ。


2007年6月 7日 (木)

京都・洛中 だるま寺~法輪寺~

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京都・円町、竹林寺の向かいに法輪寺があります。臨済宗妙心寺派に属する寺で、通称「だるま寺」と呼ばれます。

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法輪寺が創建されたのは1718年(享保13年)の事で、両替商の荒木氏の発願により開創されました。武家の開基が多い妙心寺派の中にあって、町衆が開基となっているこの寺は異色の存在と言われます。

だるま寺と呼ばれる所以はこの起き上がりだるま堂にあり、法輪寺中興の祖というべき第十代伊山和尚によって建てられました。

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伊山和尚が法輪寺に入ったのは昭和8年の事で、それまで衰えていた寺運を一気に高めました。和尚は起き上がり小坊師をもって禅を広めようとし、その精神を大いに説かれたのだそうです。起き上がりだるま堂はそれを具現化するためのもので、戦後に建てられました。内部はご覧のとおりで、大小様々なだるまであふれかえっています。

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だるまは起き上がりだるま堂に限らず、境内の至る所で見られます。これはだるま堂の前にある石の達磨禅師像。とてもリアルな顔つきで、だるまの原型はこうだったのかも知れないと思わせる石像ですね。

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こちらは衆聖堂。1階には樟一木造り大達磨立像を始めとして8000体の達磨が納められています。それはバラエティに富んでおり、こんなだるまもあるのかと驚く事請け合いですよ。2階には時間が無くて行けなかったのですが、仏涅槃木像が安置されているほか、映画関係者の霊を祀るキネマ殿があります。マキノ省三や大河内伝次郎といった往年の映画人から、石原裕次郎、藤山寛美といった比較的最近のスターまでの位牌が並んでいるそうです。

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本堂の前には枯れ山水の庭が広がっています。立派な石組みもあるのですが、今の時期はどう見てももみじが主役ですね。秋には見事に紅葉するらしく、隠れた名所の様ですね。今年の秋には、一度訪れてみたいと思ってます。

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境内には達磨ばかりではなく、こんな可愛らしいお地蔵様も居られます。その前では柏葉紫陽花が咲き始めていました。

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このだるま寺が一番にぎわうのは節分の時なのだそうですね。厄除け開運の縁起達磨を求める多くの人でにぎわうのだそうです。さらに境内が達磨で埋まるのだとか。訪れた日にはひっそりとしていたのですが、この日ばかりは世界が変わる様ですね。

商人が開基となった寺らしく、禅宗とは思えないほど世俗的で、とても親しみやすい寺ですよ。

(平成19年6月2日撮影)

2007年6月 6日 (水)

京都・洛中 志士達の眠る寺~竹林寺~

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京都の西、円町のほど近くに竹林寺があります。開基は1279年(弘安2年)と伝えられ、現在は浄土宗西山禅林寺派に属する寺です。本尊は阿弥陀如来ですが、それとは別に写真の右の階段を上がったところに観音堂があり、藤原時代初期の作と伝えられる十一面観世音菩薩が祀られています。

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この寺は、以前に「近藤勇の首塚考その2」で触れた事がある様に、「平野國臣外三十餘士之墓」がある事で知られています。

平野国臣は福岡の人で、京都において西郷隆盛と知り合った事をきっかけに志士活動に身を投じました。安政の大獄によって西郷が京都を追われた際はこれを助けて共に鹿児島に入り、さらに前途を悲観して錦江湾に身を投げた西郷の命を救っています。

その後、井伊大老の暗殺の謀議に加わったと言われ、さらには清河八郎が画策した京都挙兵にも参加しようとしましたが、寺田屋事件によって頓挫してしまいます。一時は藩の牢に投獄されていたのですが、文久3年に許されると再び京都へ向かいます。そして学習院出士となり、その志士活動の古さから尊攘志士達の中でも重んじられる様になりました。

文久3年8月、大和行幸に呼応して兵を挙げようとした天誅組に対し、三条実美の命を受けて挙兵を思いとどまるようにと説得に向かいます。しかし8・18の政変によって政局が一変し、尊攘派は京都から一掃され、平野は天誅組と共に大和の地で孤立してしまったのでした。

平野は事態の打開を図るべく、長州に走って七卿の一人澤宣嘉を担ぎ出し、但馬国生野にあった天領にて兵を挙げます。当初の予定では天誅組と呼応して南と北から京都を挟撃する手筈だったのですが、兵を挙げたときには既に天誅組は壊滅した後でした。幕府の対応は早く、周辺の諸藩の追討を受けた挙兵軍は四散し、平野もまた捕らえられ、京都の六角獄舎に投じられてしまいます。

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元治元年7月19日、長州藩が京都に攻め入り、蛤御門の変が勃発します。勝敗不明の戦いが続く中、戦火が六角獄舎へと迫ってきました。平野の裁きはまだ終わって居らず、通常なら後日の出頭を条件に召し放つべきところだったのですが、幕府の役人は彼の逃亡を恐れて、未決のまま彼を処刑してしまいます。この時、平野と共に36人の未決囚が処刑されており、後日これを聞いた松平容保もさすがに立腹したと伝えられています。

37人の中には池田屋事件の発端となった古高俊太郎も含まれており、彼の口を塞ぎたかった新選組の画策ではないかとする向きもあります。しかし、当日は新選組も出陣しており、それどころでは無かった事でしょう。それに池田屋事件の後とはいえ、この時期の新選組にそれほどの政治力があったとは思えませんからね。やはり、平野ら名うての志士達を野に放つ事を恐れた町奉行所の役人達の独断だったと思われます。

明治10年、西の仕置き場跡から平野の名を記した瓦と同時に人骨が見つかり、六角獄で斬殺された志士達の遺骨であるとしてこの竹林寺に改葬されました。現在の碑文には平野国臣を筆頭に36名の名が記されています。ちなみに先日紹介した「足利三代木像梟首事件」に関与した石川一もまた、この中に含まれています。

竹林寺があるのは、西の仕置き場から紙屋川を少し遡った場所になります。現在の西の仕置き場の跡は西大路通に沿った賑やかな場所になっており、かつての処刑場の跡とはとても思えません。わずかに墓場が当時の面影を伝えていると言われますが、それも通りからはブロック塀で遮られており、ほとんどの人はそれと気づかずに通り過ぎてしまっていることでしょう。でも、そんな場所で「ついて来て!」という声を聞いたら、本当に怖いでしょうね...。

この寺はとても小さな寺で、山門には柵がしてあって一見入ることは出来ない様に思えます。しかし、潜り戸の上に自由に参拝して下さいと記されており、中に入る事が出来る様になっています。円町からなら歩いて行ける距離にあり、幕末史に関心がある人なら一度は訪れておきたい寺ではないでしょうか。

2007年6月 5日 (火)

京都・洛東 たそがれ~哲学の道~

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6月は一年で一番日が暮れるのが遅い時期。蛍が飛び出す時間まで、長い黄昏が続きます。その薄暗い光の中で見る景色は、いつもとは違った表情をしていました。

咲き始めたばかりの紫陽花は、日の光の下で見るよりもずっと色濃く見え、なぜか立体的に見えるのが不思議ですね。

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もみじの緑もまた暗く沈み、奥深い森の中に迷い込んだかのような錯覚を覚えます。

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蛍の光を期待しながら道行く人々。哲学の道はやがて暗がりに包まれ、淡い光が飛び交う幽玄の世界へと変わっていきます。

2007年6月 4日 (月)

京都・洛西 ~法金剛院~

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双ケ岡の東、丸太町通に面して法金剛院があります。花の寺として知られ、四季折々に咲く花や紅葉で境内は常に彩られています。

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法金剛院は、唐招提寺の律宗に属するという、ちょっと珍しい寺なのですね。開創は平安時代の初めにまで遡り、最初は双丘寺と呼ばれていました。その頃から既に珍花奇花が植えられていたと言い、花の寺としての歴史は半端なものではないのですね。

その後、文徳天皇が伽藍を建てて天安寺という寺にしたのですが一時期寂れ、平安時代の末期になって待賢門院(鳥羽天皇の中宮、崇徳、後白河両天皇の母)によって復興されました。その際に法金剛院と改称され、堂塔伽藍が整備されて、面目を一新しています。

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しかし、その堂宇も応仁の乱や度重なる地震の被害によって失われ、現在では池だけが当時の面影を残しています。その一方で、花の寺としての系譜は健在で、春の桜、初夏の菖蒲、紫陽花、夏の蓮、秋の紅葉など、花の名所として人々に親しまれています。

今の時期は皐月が見頃になりつつあり、紫陽花もかなり咲いていました。花菖蒲は咲き始めたばかりで、これからが楽しみなところです。

7月になれば蓮が咲き始めるでしょうし、法金剛院はこれから見頃が続きそうですね。

(平成19年6月2日撮影)

2007年6月 3日 (日)

京都・洛西 ~等持院~

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京都・洛西、御室の地にある等持院を訪れてきました。等持院は1341年(暦応4年)に足利尊氏によって開かれた寺で、夢窓疎石を開山としています。尊氏の死後その墓所となった事で、足利家歴代の菩提寺となりました。

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等持院は花の寺としても知られ、この時期は皐月がメインになります。その皐月が見たくて訪れたのですが、残念ながら見頃だったのはこの玄関前の株ぐらいでした。全体として、まだ見頃までには時間が掛かりそうです。(平成19年6月2日現在。)

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玄関を入るとまず方丈に向かうのですが、そこで出迎えてくれるのがこの祖師像です。要するに達磨大師なのですが、非常にインパクトのある絵で、あちこちで紹介されていますから、見たことがある人も多いでしょうね。

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方丈の南に広がる枯山水の庭です。広々としていて、とても開放感がありますね。中央に植わっているのはもみじの大木で、きっと秋には紅葉が見事な事でしょう。

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等持院は応仁の乱など幾度も戦乱の被害に遭っており、現在残っている建物は江戸期以降に整備されたものです。この方丈は1616年(元和2年)に福島正則によって、妙心寺塔頭海福院から移築されたものされたものと言われています。廊下はいわゆる鶯張りの廊下で、今でも歩くときゅっきゅっと音がしますよ。

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等持院には足利家の菩提所らしく、歴代将軍の位牌と木造が安置されています。(義量と義栄は除く。)肖像画等を参考にしたのかそれぞれ姿形は異なっており、流れていたナレーションに拠れば、それぞれの事績に応じたイメージになってるとの事です。なるほど、政治より文化に力を注いだ義政は線の細い感じになっていますし、足利家最大の栄華を築いたこの義満は、一際貫禄に満ちた姿をしています。

また、幕末史において転換点をもたらしたと言われる「足利三代木像梟首事件」の木像とは、まさにこの像だったのですね。

1863年(文久3年)2月22日、この義満と尊氏と義詮を合わせた3体の像の首と位牌が寺から持ち出され、斬奸状と共に三条河原に晒されました。それまで浪士に対して言路洞開を唱えて融和的政策を採っていた松平容保でしたが、この事件以後武力での取り締まりに方針を変えます。子供のいたずらにも等しい様な事件ではありましたが、容保は浪士に依る将軍家に対するあからさまな挑戦と受け取ったのですね。新選組誕生のきっかけの一つになった事件でもあり、歴史の生き証人とも言うべき木像です。

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方丈の北側に広がる庭は無窓礎石の作と伝わり、大きく東と西に分かれます。東の庭は心の字を象った心字池を中心とした庭ですが、樹木が鬱蒼と茂っており、良く言えば野趣に富む、端的に言えばちょっと捕らえどころが無い状態になっています。かつては中之島に観音閣があったと言われ、それがあればまた違った印象になるのでしょうね。

対する西の庭は芙蓉の花を象ったとされ、皐月などの花木で覆われています。ここが花で埋まった様を見たかったのですが、ちょっと早かったですね。

左の奥に見えているのが清漣亭と呼ばれる茶室で、尊氏公百年忌の際にこの庭に加えられたとされ、義政好みと言われています。

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寺で流しているナレーションに依れば、この庭は衣笠山を借景としており、その優美な姿が見事であるとされているのですが、実際に見えるのは隣接する立命館大学の建物群です。説明と現実のギャップが面白いのですが、パンフレットにおいても触れているところを見ると、寺としては大学のキャンパスの現状が余程悔しいのでしょうね。大学との間にどういういきさつがあったのかは判りませんが、この庭を前にすると、背景に衣笠山を見たかったなと思う事は確かです。

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等持院はまた、黎明期の日本映画と深く関わっていたのですね。日本映画の父と言われるマキノ省三がスタジオを構えたのが、ここ等持院の境内でした。1919年に開設され1933年に閉鎖されるまでの間、先駆的な時代劇映画がここで制作され、また後の日本映画を支える幾多の人材を育成したと言われます。

今等持院に行くと山門と境内の間が不自然に開いており、その間は墓地と民家が混在するエリアになっています。この民家がある場所がかつてのスタジオの跡であり、撮影所が閉鎖された時に売却され、宅地として再開発されたのでした。

恐らくは、明治の廃仏毀釈によって等持院が荒廃し、その空き地を利用して撮影所が建てられたのでしょうね。今の方丈なども撮影に使われたと言われ、ふすま絵などもずいぶんと痛んだのだそうです。たぶん、荒れた寺を守る事よりも、最新の映画を撮る事の方が、当時としては意義のある事だったのでしょう。衣笠山の借景についても、その流れが続いていた様な気がします。

この像はマキノ省三の功績を称える為に造られたもので、当初は太秦にあったのですが、後に撮影所のあった現在の地に移されました。この像が無ければここに映画の撮影所があった事など、誰も思い浮かべたりはしないでしょうね。そういう意味では、この像もまた文化史における貴重な証人であると言えそうです。

2007年6月 2日 (土)

京都蛍事情2007 飛び始め~哲学の道~

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哲学の道の蛍が飛び始めたと聞き、早速行ってきました。確かに蛍は居ましたね。ただし、まだ発生し始めたばかりらしく、一カ所につき数匹づつ光っている程度です。

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哲学の道の蛍の発生時期は毎年異なるためなかなかタイミングを合わせるのが難しく、昨年は一日後に行って空振りでした。これから先の発生の仕方も予想が難しいのですが、次の週末あたりにはもう少し増えているものと思われます。雨が降った翌日に多いと聞きますから、天気次第かも知れないですね。

なお、今日蛍を確認したのは法然院橋から銀閣寺駐車場にかけてで、ところでころで1~2匹程度づつ光っていました。法然院橋から南は行ってないのでどんな具合だったのかは判りません...。

2007年6月 1日 (金)

京都・洛北 初夏の花~詩仙堂~

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詩仙堂に行くたびに思うのが、この小有洞という門の素朴さです。詩仙堂と言えば京都でも有名な名所の一つ。その入り口が、うっかりすると見落としてしまいそうな質素な門である事に驚かざるを得ません。

詩仙堂そのものが中国の聖賢の侘び住まいを模した隠居所であり、その入り口にふさわしく簡素な造りになっていると思われますが、それと気づかずに通り過ぎてしまった人も結構多いのではないでしょうか。

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門をくぐるとすぐに竹林になっています。丁度落葉の季節で、竹の枯葉が地面を覆っていました。

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詩仙堂の庭の周囲は、鬱蒼とした感じの樹木で覆われています。その木々の間からこぼれる木漏れ日が、スポットライトの様に白菊を照らしていました。

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この日は快晴だったのですが、前日に降った雨が木々の上に残り、しずくとなって下草の上に降り注いでいました。すっかり濃くなった緑がしっとりと濡れて、なかなか良い感じでしたよ。

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池の畔で咲いていたウツギです。この花も雨のせいでちょっと重たげ。愁いを含んだ様な表情になっていました。

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この花は、一番奥にある十峰名月閣の玄関で咲いていました。たぶん小坊主弟切ではないかと思います。庭の手入れをしていた人が茶花とおっしゃっていたのですが、茶室にしつらえられるのはこの花か、それとも7月には赤く色づくという実の方なのか、どちらなのでしょうね。

詩仙堂を訪れたのは2年ぶりなのですが、庭への降り方が変わっていました。以前は詩仙の間の前の縁側から備え付けのスリッパに履き替えていたのですが、今は一度玄関に戻って、そこから庭に回る様になっています。久しぶりに訪れる人は、ちょっととまどうかも知れませんね。

(撮影日 平成19年5月26日)

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