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2007年5月

2007年5月31日 (木)

初夏・京都 比叡借景~圓通寺~

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比叡山の借景庭園で知られる圓通寺を訪れてきました。比叡山に対する角度は正伝寺と同じなのですが、こちらの方がずっと近いため、長い稜線がくっきりと見えます。さすがに後水尾天皇が選び抜いたという比叡の山容だけの事はありますね。

この景観が危機に瀕したのは平成14年頃の事でした。周辺の開発が進み、この庭のすぐ向こう側の竹藪も切り開かれる事になったのです。寺では為す術もなく、せめて少しでも数多くの記録に残してもらおうと、それまで禁止していた写真撮影を解禁されたのでした。

今年に至り、京都市が市内からの眺望景観を保護すべく、市眺望景観創世条例を制定しました。この規制の対象としてこの圓通寺の庭園も想定されていると聞いているのですが、果たしてどれだけの実効性を持っているのでしょうね。

この素晴らしい景観は京都の持つ財産です。どうか条例の趣旨に則って、この借景庭園が無事に護られることを願いたいです。

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この圓通寺もまた皐月の名所として知られる寺です。しかし、残念ながら訪れた日(平成19年5月26日)には、まだほとんど開花していませんでした。

代わりに見つけたのが「竹の秋」。ほぼ古い葉を落とし終えた様で、新しい葉が生えそろうまでは、どことなく竹がやせ細った様に見えますね。間もなく青々とした葉が伸びて来て、あたりを深い緑の景観に変える事でしょう。

2007年5月30日 (水)

雨の日・桜~知恩院~@桜花ぶろぐ

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桜花ぶろぐも5月一杯で終了。今年の桜は咲いている期間が長く、例年以上にあちこちで楽しめました。そんな中で、記事にするタイミングを逃した一枚をアップします。

この花は、知恩院の三門の下で咲いていた桜です。この日は満開だったものの生憎の雨で、桜らしい華やかさはありませんでした。でもモノトーンの中にもほんのりと桜色が残り、透明感のある様は、やはり桜ならではの美しさと言えるでしょう。

また来年、桜花ぶろぐで各地の桜と出会えるのを楽しみに待ってます。

(平成19年4月7日撮影)

香りの花・フリージア @青春ぶろぐ

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お世話になった青春ぶろぐも5月31日で終了です。その最後に向けて、出しそびれていた写真を一枚アップ。

この花は我が家のベランダで咲いたフリージア。数年前に寒波に遭って大半の株が枯れてしまって以来、球根の数的には回復したものの、ずっと花は付けていませんでした。ところが、今年は暖冬だったせいか、久しぶりにベランダを埋め尽くす様に咲いてくれたのです。

春は黄色の花が多いですが、フリージアの色は濃い中にも透明感を感じます。それに素晴らしい香りもありますしね。この花が上手く咲いてくれると、その春はとっても幸せな気分に浸れます。

2007年5月29日 (火)

初夏・京都 黄菖蒲 ~宝ヶ池~

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京都の洛北に位置する宝ヶ池。京都の中にあって観光地というより、文字通り市民のための憩いの場所として親しまれています。

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その池の北西隅にあるのが菖蒲園。先週の土曜日(平成19年5月26日)には、もう間もなく咲き始める花菖蒲に先立ち、黄菖蒲が満開になっていました。

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私が黄菖蒲と聞いてまず思い浮かべるのが、「となりのトトロ」の一シーンです。さつき達が引っ越してきた時、カンタの家の庭先で咲いていた花がこの黄菖蒲でした。この映画を見て以来、さりげなく農家の庭先で咲く花というイメージがあったのですが、これだけの群落になるとまるで印象が違ってきますね。

この写真を撮ってから四日目になりますが、まだ萎れずに咲いているかどうか。この優しい色合いの花は、ヨーロッパ原産の帰化植物ながら、日本の初夏に良く似合っています。

2007年5月28日 (月)

初夏・京都 水辺の緑 ~上賀茂・社家町~

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明神川沿いに上賀茂神社の神職の家が建ち並ぶ社家町です。この季節は溢れる様な緑と水の組み合わせがすばらしいですね。

帰り道で通りかかった太田神社の杜若はまだ咲いていました。2番花か3番花なのでしょうか、もう終わったと思っていただけに意外です。残念ながら時間が無かったので写真は撮ってませんが、最盛期ほどではにないにしろ、太田の沢一面に咲く様は見応えがありましたよ。来年は満開の時を狙って訪れたいと思ってます。

(平成19年5月26日撮影)

2007年5月27日 (日)

初夏・京都 比叡遠景 ~正伝寺~

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借景式庭園で知られる正伝寺。ここの庭園もまた皐月の刈り込みが見事で、その花を楽しみに訪れたのですが、残念ながらまだ早すぎました。昨年は6月3日に訪れて満開には少し早い程度だったのですが、今年も似た様な開花状況の様です。(撮影日は平成19年5月26日です。)

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参道は新緑で溢れていました。この参道で人と行き交う事はまれで、静かな山寺の風情を感じながら階段を登る事になります。

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入り口には銅鑼があって、拝観に訪れた人は2度叩く事になっています。これまではいつも受付に人が居たのでこの銅鑼には縁がなかったのですか、今回はじめて叩くことになりました。案外音がしないもので、かなり強く叩かないと奥まで聞こえない様ですね。

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この日は晴れていたのですが、あいにくの黄砂現象にみまわれ、今ひとつすっきりした青空にはなりませんでした。それでも比叡山がこれだけ見えたのだから、まずまずの条件だったと言えるでしょう。

この皐月と白壁、そして比叡山の組み合わせは、私にとっては初夏に欠かせない光景の一つです。

2007年5月26日 (土)

初夏・京都 皐月 ~詩仙堂~

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京都の皐月の名所とされる場所はいくつかありますが、そのうちの一つに数えられるのが詩仙堂です。庭園には皐月の大刈り込みがあり、花時にはそれは見事な景観が見られると聞きます。

と伝聞調で書きましたが、ここには何度となく来ているものの、皐月が満開の時には一度も当たった事が無いのです。今年こそはと思って訪れてみたのですが、残念ながらまだ咲き始めたばかりでした。見頃まではもう数日掛かる様ですね。

平成19年5月26日現在では、この写真の右の株が一番開花が進んでいました。とりあえず今日は速報まで。季節の花が咲く庭園内の様子は後日アップします。


2007年5月25日 (金)

京都・洛北 ~わら天神~

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金閣寺の南に位置するわら天神。天神と言っても菅原道真公をお祀りしているとは限りません。

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わら天神は正式名を敷地神社といい、衣笠の地の産土神として古くから信仰されてきました。神社の由緒には、北山の神として衣笠村に降臨された天神地祇とあり、いわゆる八百万の神々だった様ですね。わら天神の天神とはここから来ており、道真公とは何の関わりも無いのです。

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後に変遷があって木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祭神とする様になり、安産の神様として信仰を集める事になりました。面白いのが安産祈願の御札に藁が入っている事で、その藁に節があれば男の子、なければ女の子を授かると言われています。話の種に買ってみようかと思いましたが、今のところ我が家は安産とは縁がないので思いとどまりました。いつか孫でも出来たら試してみようかと考えています...。

この藁の御札の元をたどれば、お供え物をする時に藁で編んだ器を用いたのですが、その藁を村人が持ち帰って大切にお祀りした事から始まっているらしいですね。

そういう地元に根ざした神社だからなのか、とても質素で素朴な印象を受けます。境内もどこかがらんとしており、開放感があって良いですね。時代劇のロケ地としても良く使われるらしく、初めてなのに以前に来たことがあるというデジャブに襲われるかも知れませんよ。


2007年5月24日 (木)

初夏・京都 雨宿り~平野神社~

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梅雨の走りの様なにわか雨に降り込められて、雨宿りに立ち寄った平野神社。桜の名所と知られるだけに、紋所も桜なのですね。

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平野神社の由来は平城京にまで遡り、平安遷都と共にこの地に遷りました。さすがに由緒のある古社なだけに、佇まいに落ち着きがありますね。それに、折からの雨に濡れて新緑も濃く感じられます。

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境内ではシャクヤクが咲いていました。桜時分とは比べものにならないものの、やはり花がある景色は華やかで良いものです。

華と言えば、この日は神前で結婚式が行われていました。ホテルや結婚式場の様な派手さはないものの、しっとりと落ち着いた良い雰囲気の式でしたよ。分刻みのスケジュールに追われることもなく、ゆったりとした時間が流れていました。こういう場所での式にも、一度参列してみたいものですね。

2007年5月23日 (水)

初夏・京都 緑の小径 ~妙顕寺~

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妙覚寺と同じく寺之内にある妙顕寺。春先は桜が見事でしたが、この時期は特に花はありません。その代わりに、本堂の隣に緑の小径が出来ていました。

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そして緑の中に光る黄金色。金閣寺ほどではないにしろ、緑と金色は不思議と相性が良い様ですね。

2007年5月22日 (火)

初夏・京都 紫露草 ~妙覚寺~

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今の季節、あちこちで見かける露草。ここ京都・寺之内にある妙覚寺の門前にても、綺麗に咲いていました。

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ただ、露草と言っても、これは紫露草ですね。北米原産の植物で、園芸品種として入ってきた様です。その中でもこれは花の大きさから見ると大紫露草でしょうか。

妙覚寺門前には数株の紫露草が植えられていました。これは無論栽培されているのでしょうけれども、一部では既に野草化しているところもあって、何度か道ばたで見かけた事もあります。何しろ大きくて目立ちますから、そのうち露草と言えばこの花を差す様になるかも知れません。

在来の露草のはかなげな風情も捨てたものでは無いのですけどね。

2007年5月21日 (月)

初夏・京都 緑陰 ~京都御苑~

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初夏と言えば爽やかな気候であるはず。でも現実の京都は、まもなく訪れる梅雨の季節を先取りしたような、蒸し暑い日が続きます。特にこの日(5月19日)は朝から雨模様だったのが、昼過ぎから日差しが戻ったからたまらない。

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道行く人が手にする傘と全体に白ぽっい服装が、この日のうっとうしさを物語っています。みんなどこかげんなりとしているでしょう?

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そんな中、京都御苑の緑もすっかり濃くなり、新緑とは呼べなくなってきました。少し早い気もしますが、緑陰という言葉がぴったりと来る様に思えます。

この青々と茂った葉は、清水谷家の椋。幕末の動乱を見届けた樹齢300年の木とは思えないほどの瑞々しさですね。蒸し蒸しとした昼下がりに出会った、一服の清涼剤でした。


2007年5月19日 (土)

新選組血風録の風景 ~鴨川銭取橋その8~

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(新選組血風録概要)

(慶応2年9月28日の夕、観柳斎は近藤の自室に呼ばれた。部屋に入ると、土方を始め、伊東、沖田、藤堂、原田、それに斉藤が居た。)

(既に酒宴が始まっており、観柳斎は今日の正客であるとして上座に座らされた。近藤は観柳斎に向かって、近くこの屯所を去って薩摩屋敷に入られるそうである。めでたい事だと言い、隊士に命じて酒を注がせた。観柳斎は驚き弁解に努めたが、近藤は節を変ずるにはよほどの存念があったのであろうと言って聞かない。)

(観柳斎は覚悟を決めた。そこは新選組の一手を担ってきた男である。腹を据えてしまえば、人変わりがしたと思うほどに見事であった。さされる杯はことごとく受け、酔ったと思う頃合い、近藤が斉藤に声を掛けた。酔った観柳斎を薩摩屋敷にまで送る様にと命じる。観柳斎は手を振って断ろうとしたが、先に斉藤が部屋を出てしまっている。)

(屯所を出ると、良い月夜だった。小者が差し出す提灯を見て、斉藤が要るまいと観柳斎に笑いかける。観柳斎も渋い顔をして要らぬだろうと言って歩き始めた。)

(観柳斎は下京の街中を東に向かって歩いた。やがて河原町通に至り、これを北に向かえば薩摩藩邸だった。ところが、観柳斎はなおも東へと歩き続ける。ついに鴨川に架かる銭取橋にまで来た。これを渡れば竹田街道へと繋がる。)

(斉藤は業を煮やし、どこへ行くと声を掛けた。観柳斎は、故郷の出雲へ帰ると答える。斉藤は意外に思ったが、すぐに武田君、よろしいかと刀の柄に手を掛けた。心得ていると言うなり、抜き打ちで斬りかかる観柳斎。しかし、斉藤の刀の方が一瞬速く、観柳斎の逆胴を斬って、数間向こうに飛んでいた。観柳斎、即死。)

・観柳斎の死

「観柳斎が近藤に招かれ、酒宴の座上で薩摩への寝返りを暴かれたという筋書きは、新撰組始末記にあるとおりです。そして、送り狼となったのは作品中では斉藤一人ですが、始末記においては篠原泰之進も一緒だったとされています。篠原は観柳斎と懇意の仲でしたが、観柳斎を油断させるために同道させたのでした。」

「観柳斎は篠原を信頼しており、いざというときには助けてくれると思っていました。しかし、既に近藤から意を含められていた篠原にはその気はなく、斉藤がいつ手を下すかと注意深く見ていたのでした。そして、銭取橋で斉藤が観柳斎に斬りつけると、自らも観柳斎に一刀を浴びせています。」

「帰り道、斉藤と篠原は、それぞれの心中を語り合い、微笑しながら引き上げました。筆者の西村兼文はこの有様をして、親友であっても頼みに出来ない薄情さを嘆き、恐るべき時勢であったと振り返っています。」

「しかし、この観柳斎の最期は、同時代資料である「世態誌」の発見によって、大きく訂正される事になったのは以前に書いたとおりです。繰り返しになりますが、観柳斎が殺害されたのは慶応3年6月22日の事でした。この時、斉藤と篠原はすでに御陵衛士として分離しており、近藤の命を受けて観柳斎を殺害するという筋書きはいかにも不自然という事になるのです。」

「世態誌に拠れば、下手人は新選組の仲間、場所は銭取橋でした。この時観柳斎だけでなく、彼の死体をもらい受けに来た3人の人物もまた斬られています。さらにもう一人の同士が枚方で切腹し、5日後には観柳斎と意を通じていた善応という僧侶が殺害されています。」

「観柳斎が新選組を離脱してから半年あまりの間、どこで何をしていたのかは全く記録にありません。したがって想像するしか無いのですが、小さいながらも徒党を組んで勤王活動を行い、それが近藤の知るところとなって、裏切り者として始末されたのではないかと推測されています。」

「ここで、西村が記した慶応2年9月28日という日付に着目してみると、その前日と前々日は、伊東と篠原が近藤と土方を相手に分離論を説いたとされる日です。この時、近藤は渋々ながら分離を認めたといわれますが、実は時局論を戦わせただけだとする説もあります。」

「一方、新撰組金談一件の記述により、観柳斎の新選組の離脱はこの年の10月であったことが判っていますが、実は同じ時期に勘定方であった酒井兵庫もまた新選組を脱退しているのです。伊東一派が分離する事を明確にしたとされる慶応2年9月から10月にかけては、実は新選組が大きく揺らいでいた時期でもあったのです。」

「観柳斎や酒井の離脱が、伊東の分離論と関わりがあるのかどうかは判りません。もしかすると、伊東の御陵衛士と同じく、観柳斎もまた局外から新選組に協力するという名目で離脱したのかも知れません。そう考えると、伊東と近藤の談判の場には、観柳斎も同席していたのかも知れないですね。」

「ものすごく穿った見方をすれば、広島において近藤は新選組の限界を悟りました。その壁を打ち破るべく二人のブレーンを局外に独立させてフリーの立場に置き、勤王方に食い込んで情報を探らせる構想を立てた、という解釈も出来なくはないですね。(これはあくまで私見であって、何の根拠もないただの空想です。)いずれにしても9月28日という日付は偶然ではなく、その日に何かがあった事を示しているものと思われます。」

・作品の舞台の紹介

「銭取橋は実在した橋で、公設されたものではなく私設のものでした。文字通り通行銭を徴収した橋で、集めた金は伏見稲荷に寄進されていたと言われます。現在の橋名である勧進橋は、その事から来ているのでしょうね。」

「今は国道24号の橋として立派な4車線の道路となっています。しかし、幕末当時は追いはぎが出るという、きわめて治安の悪い場所でした。薩摩藩の飛脚が襲われて辛くも逃げ切ったと言いますから、相当なものだった様です。」

「その様な場所に観柳斎が一人で出向くというのも不自然であり、やはり新選組による作為があったのでしょうね。ここで思い出されるのが伊東の場合で、彼もまた近藤の妾宅に呼ばれ、酒宴の帰り道を襲撃されて命を落としました。西村の描く観柳斎の最期と見事に符号しており、これが新選組の常套手段だったという事なのでしょう。ついでに言えば、芹沢鴨もまた、酒宴の後に殺害されています。」

「こう考えると日付や斬った人物に錯誤こそあれ、観柳斎の最期の情景は西村が描いたものと大差がなかったのかも知れません。死体を受け取りに来た仲間を殺害したというのも、油小路事件と符号していますね。もしかしたら、油小路事件は、観柳斎とその一派を粛正した事を下敷きにして計画されたのかも知れません。」

「最後に、ここでも作品中の地理はおかしな事になっています。屯所から東に向かって河原町通にまで至るところまでは良いのですが、銭取橋に行くにはそこから南下しなければなりません。そのまま東に向かえば七条大橋に至る事になり、この下りを素直に受けて、銭取橋は七条大橋の事だと勘違いしている人も多いのではないでしょうか。」

「繰り返しますが、銭取橋は現在の勧進橋であり、九条通よりもさらに南に位置しています。近くには伏見稲荷大社、さらには高校ラグビーで有名な伏見工業高校があります。きっと知らないうちに通り過ぎている人も多いことでしょうね。」

参考文献

新人物往来社「新選組銘々伝」、「新選組資料集」(「新撰組始末記」)、子母澤寛「新選組始末記」、伊東成郎「閃光の新選組」

2007年5月18日 (金)

新選組血風録の風景 ~鴨川銭取橋その7~

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(新選組血風録概要)

(噂を聞いて驚いたのは観柳斎である。観柳斎は薩摩人に一人の知り合いもない。つまり全くの濡れ衣であったが、内心ぎくりとするところもあった。薩摩人を知りたい、そう思って薩摩の事情に明るいらしい伊東に慇懃を通じ始めたばかりである。)

(観柳斎は噂の出所を究明しようともしなかった。新選組にあっては噂が出てしまえばそれが最後である。間違いなく斬られる。)

(観柳斎は行動に出た。河原町四条にある薩摩藩御用達、薩摩屋善左衛門方を訪ねたのである。観柳斎は店に入るや両刀を脱して土間の隅に置き、あるじに会わせて頂きたいと、卑屈なまでに下手に出た。)

(善左衛門は簡単に会ってくれた。腹の据わった男らしく、観柳斎が新選組五番隊長であると知っても顔色すら変えない。観柳斎は懐から手紙を取り出して、これを中村半次郎殿に取り次いでもらいたいと、すがる様に頼み込んだ。善左衛門はそんな観柳斎の様子を哀れみ、通りを隔てた向かい側にある薩摩屋敷まで手紙を届けてくれた。)

(程なく善左衛門は戻って来て、屋敷まで来て欲しいという半次郎の伝言を伝えた。観柳斎は太刀を薩摩屋に預け、脇差だけを差して薩摩藩邸へと赴いた。)

(藩邸の長屋の一室で半次郎は会ってくれた。初対面のあいさつを交わすなり、半次郎は佩刀をどうされたと聞いた。初めての対面ゆえ、向かいの薩摩屋に置いてきたという観柳斎の言葉に、半ばあきれる半次郎。)

(観柳斎の手紙には、勤王の志を忘れた新選組とは相容れなくなったから今後薩摩藩に通謀したい、ついては幕府方の情報をもたらす代わりに、露見した暁には貴藩邸にてかくまってもらいたいと認めてあった。)

(半次郎は手紙を一読し、委細判かりましたと答えた。しかし、それ以上の事は言わない。観柳斎は気を揉んで、大小となく隊のことを語った。その都度、半次郎は興深げに相づちを打つ。別れ際、半次郎は時々遊びに来る様に、ただし、佩刀の事は気遣いは無用、それほど新選組を恐れてはいないからと言って、小さく笑う。痛烈な皮肉であったが観柳斎には判らない。天にも昇る気持ちで休息所へと帰った。)

(翌日、薩摩屋における観柳斎の振る舞いが山崎の下にもたらされた。餅屋治兵衛の女房が、たまたま餅を納めに薩摩屋を訪れていたのである。偶然に得た情報なだけに生々しく、観柳斎の挙動が手に取る様に判った。)

(山崎は観柳斎が罠にかかったとは言わず、ただ事実でしたと土方に報告した。やはりそうだったろうと、顔色も変えずに答える土方。)

・観柳斎転落

「観柳斎が転落する様子は、西村兼文の「新撰組始末記」に詳しく記されています。それに拠れば、観柳斎は近藤・土方の寵愛を受けていたものの、幕府がフランス流の調練を取り入れたのに倣い、新選組もまた長沼流軍学を廃した事を恨みに思っていました。」

「自らの地位が危うくなったと感じた観柳斎は、一転して伊東甲子太郎一派に接近を試みます。しかし、伊東は普段の言動から観柳斎を怪しみ、これを受け入れませんでした。そこで観柳斎は薩摩藩邸への通謀を試みたのです。」

「観柳斎のこうした動きはよほど目立ったのでしょう、彼に恨みを持つ者が近藤に密告したため、全てが白日の下に晒される事になります。」

「以上が西村が記す観柳斎転落の経過ですが、実は同時代資料と照らし合わせると、必ずしも真実を伝えているとは言えない様です。前出の「新撰組金談一件」には、観柳斎は慶応2年10月に新選組を出走したとあり、隊を抜けていた事を伝えています。」

「尾張藩士が残した世態誌にも観柳斎は元新選組と記されており、何らかの理由で脱退していた事は確実と思われます。その理由とはやはり長沼流軍学の廃止と関係があるのでしょうか。」

「新選組が洋式調練を取り入れた時期というのは、実は明確にはなっていません。西本願寺において大砲の調練を行い、その音に驚いた門主が腰を抜かしてしまったという記録がある事から概ね慶応2年の春から夏頃と考えられていますが、慶応3年に入ってからだとする説もあります。」

「以前から疑問だったのですが、洋式調練を取り入れたのは良いのですが、誰が指揮を執っていたのでしょうね?観柳斎に代わる人材が新選組に居たのでしょうか。順当に考えれば、観柳斎が洋式調練の研究をし、そのまま指揮にあたっていたと思われるのですが、どんなものなのでしょう?それとも教官が幕府から派遣されて来ていたのでしょうか?そんな記録は無いと思うのですが...。」

「観柳斎の脱退が円満なものであったのか、それとも出奔と呼ぶべきものだったのかは判りません。金談一件には出走とあり、脱走に近いものだった様な語感が感じられますが、これも確実なものではありません。」

「この様に観柳斎が新選組を離れる経過については疑問符ばかりが並ぶのですが、少なくとも「新撰組始末記」の記述には、西村の創作がかなり混じっている事は間違いない様です。」

・小説の舞台について

「「新選組血風録」には、薩摩藩河原町藩邸という記述が何度か出てきます。これを読むとあたかも河原町四条に薩摩藩邸があったかの様に思ってしまうのですが、実際の薩摩藩邸はずっと西の四条高倉の地にありました。河原町にあったのは土佐藩邸ですね。」

「なぜ司馬氏が河原町に藩邸を置いたのかは良く判りません。誰でもすぐに思い浮かぶ場所を出して、小説の世界に入り込みやすくしたのでしょうか。あるいは本当に勘違いをしていたのか。いずれにしても紛らわしい記述ではありますね。」


2007年5月17日 (木)

新選組血風録の風景 ~鴨川銭取橋その6~

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(新選組血風録概要)

(花が帰った後、誓願寺裏の床与の主人がやってきた。残念ながら当夜の藩邸の出入りは判らないと言う。しかし、その日の夕暮れ時、彼の女房が祇園石段下で中村半次郎とすれ違っていた。中村は安井天神の方角に歩いていったという。方角とすれば、三年坂に向かったとも言える。)

(これで狛野を斬ったのは中村で間違いないと言って良い。しかし、実は山崎にとっては狛野殺しの下手人が誰であるかはどうでも良かった。彼は観柳斎と薩摩藩を結びつける証拠が欲しいのである。)

(狛野は壬生墓地に埋められ、卒塔婆が石塔に変わった。彼の一件については何も進展がないまま、時間だけが過ぎていった。しかし、その間に時勢は大きく変わった。薩長同盟の締結をきっかけに流れは勤王派に傾き始め、第二次長州征伐における敗北によって幕府の屋台骨は大きく傾いた。京都政界もまた、勤王派が力を取り戻し始めたのである。)

(土方はこの情勢を眺めながら、必ず隊内から通敵する者が出て来ると見ていた。通敵する人物は始めから判っている。時勢に敏感な教養派である。名を挙げるとすれば二人しか居ない。伊東甲子太郎と武田観柳斎である。これは早めに始末する事だと土方は考えた。)

(しかし、この二人はなおも近藤の信頼を得ている。例えば、去年の暮れに近藤が広島に出張したとき、帯同したのは他ならぬこの二人だった。長州藩と交渉を行うにあたって、彼らの教養を頼りにしたのである。土方としては一工夫が必要だった。)

(山崎が長い大阪の探索から帰って来ると、土方に呼ばれた。土方は三年坂の一件を忘れてはいないかと山崎に問いかける。山崎があの狛野千蔵のと言いかけると、土方は武田観柳斎の一件だと巧みにすり替えてしまう。)

(山崎は、狛野殺しに観柳斎は無関係だと報告したはずだった。しかし、土方は最近別の噂を耳にしたという。やはり観柳斎は薩摩屋敷に出入りしているらしい。その噂が事実がどうかを五番隊士から聞き取るようにと山崎に命じた。しかし、監察である山崎が直接隊士の間を聞いて回るのは差し障りがある。そこで、土方は実際に聞き取りにあたるべき隊士を指名した。その名を藻谷連という。)

(山崎は不審に思った。藻谷は槍が少々使えるだけの、どこと言って取り柄の無い隊士である。おそらく、土方は直接藻谷と話した事も無いであろう。)

(不審を抱いたまま、山崎は藻谷を部屋に呼んだ。監察に呼ばれた藻谷はひどく怯えていた。普段は大言荘語する人物であるくせに、根は至って小心者らしい。そうと気づいた時、山崎は土方が藻谷を指名した理由を理解した。山崎は藻谷に観柳斎に関する噂を伝え、それとなく身辺を見張っていてもらいたいと命じた。)

(それから2、3日経った頃、観柳斎が薩摩藩に通じているという噂が隊内に広まった。中には薩摩藩邸から出てくる所を見たという者まで居るという。山崎は土方が仕掛けた罠の効果に驚いた。)

(小心な藻谷は事の重大さに耐えきれず、同僚に秘密を漏らしたのである。のみならず、大言荘語癖のあるこの男は、自慢げに隊内にその噂を広めて歩きさえした。このため、燎原の火のように噂が広まったのである。こうなる事を見越して、土方は藻谷を指名したのであった。)

・近藤の広島行

「近藤勇が広島へ赴くべく京都を発ったのは、慶応元年11月4日の事です。この頃幕府は第二次征長の軍を起こし、各大名に出陣を命じていました。しかし、朝廷の意向によってすぐに開戦とは行かず、まずは長州藩の言い分を聞いてから処分案を決めるという段取りになっていました。その長州藩への尋問使として派遣されたのが大目付の永井尚志です。近藤はその永井の従者という名目で同道し、広島で永井と分かれて長州に潜入して様子を探るという役目を帯びていました。」

「この時近藤は、「馬上ながら啓上致し候」で始まる有名な書簡を故郷に送っています。その中で近藤は、今度のお役目は萩城下にまで潜入するという大仕事を命じられたのであるが、長州人にとって自分は仇敵であり、とうてい生きては戻れそうにはないという見通しを語っています。その上で、自分は長州藩に対し青天白日の論議を仕掛けるつもりであり、それでも斬られてしまったのなら長州藩は余計に罪を重ねる事になるのだと、決死の覚悟である事を示しました。」

「さらにこの手紙の追伸において、後のことは全て土方に託してある事、自分に万一の事があれば天然理心流の宗家は沖田総司に譲りたいと考えている事などを認めています。この広島行きに賭ける近藤の意気込みは、並大抵のものではなかった事が窺える内容ですね。」

「この大切な広島行きに帯同した同士は8名であり、その筆頭に武田観柳斎の名前が出てきます。これは、軍師としての観柳斎に対する近藤の信頼の現れと言っても良いのでしょうね。以下、伊東甲子太郎に続いて山崎の名が3番目に記されており、彼もまた監察としての腕を見込まれいた事が窺えます。」

「これほどまでに意気込んでいた近藤でしたが、長州方にすぐに素性を見破られ、萩城はおろか、長州藩内に踏み込む事すら出来ずに終わってしまいます。近藤は失意の内に京都へと帰るのですが、山崎は吉村貫一郎と共に、探索の為に広島に残されました。以後、山崎達は周防方と呼ばれる事になります。」

「京都へ帰ってからひと月後、近藤は再び広島へと赴きます。ところが、今度は観柳斎は同道しませんでした。理由は良く判りませんが、観柳斎に変えて篠原泰之進に同道を命じたのです。」

「このあたり、先の広島行きに際して、観柳斎に何か失策があったのではないかと推測されています。しかし、三井家の「新選組金談一件」に拠れば、慶応2年9月の時点で、なおも観柳斎は新選組の中で有力者としての地位を保っていた様子です。このあたり、観柳斎がなぜ二度目の広島行きからはずされたのかは、全くの謎としか言い様が無い様です。」

「一方の山崎はその後も広島に滞在しつづけ、慶応2年6月に開戦した第二次長州征伐の戦況を京都に伝えています。山崎は7月に一度京都に戻った後再び広島に向かっていますので、この年の大半は京都に居なかった事になります。作品中で大阪での探索とあるのは、実は広島での探索と言うのが正しい様ですね。」

・作品の舞台の紹介

「中村半次郎が密偵の妻に目撃されたのは祇園石段下でした。彼は安井天神に向かって歩いて行ったと言いますから、現在の石段下でその様子を再現すると冒頭の写真の様な景色になります。この写真は、無論この小説の場面を想定して撮ったものですが、ご覧の様に特に絵になるものではないので、周囲の人からは何を撮っているのだろうと不思議そうに見られていたのを覚えています...。」

「ところで、ここで気になるのが安井天神という名称です。素直に受け止めれば現在の安井金比羅宮の事を指していると思えるのですが、しかし金比羅様と天神様は同一の神様ではありません。」

「普通「天神」と言えば菅原道真公の事を指します。京都なら北野天満宮が有名ですよね。では安井金比羅宮に道真公が祀られているかというと、そういう事実はありません。」

「安井金比羅宮の起源をたどれば、藤原鎌足が創建した、藤の花が美しかったという「藤寺」に至ります。のち、この藤を愛した崇徳天皇が堂宇を改修して寵姫烏丸殿を住まわせました。」

「保元の乱で破れた崇徳天皇が配流先の讃岐の地で崩御されたとき、烏丸殿は観音堂に自筆の御尊影を祀られました。下って後白河法皇の時代に、崇徳天皇が姿を現して往事の盛況を示すという奇瑞があり、法皇の詔によって光明院観勝寺が建てられました。この寺が今の神社の起源とされています。」

「その後変遷を経て、讃岐から金比羅宮をお招きして鎮守の神とし、明治以後は寺が廃されて鎮守だけが残り、安井神社となりました。安井金比羅宮と改称したのは戦後の事で、この様に神社の歴史をたどってみても天神と呼ばれた時期は無いのです。」

「では安井天神と呼ばれる神社は無いかと探してみると、大阪にありました。大阪夏の陣で活躍した真田幸村の最期の地として知られるところで、当然司馬遼太郎氏も知っていた事でしょう。(確か城塞という小説の中にも出てきたと思うのですが、今はその本が見つからないので確かめられません。)恐らくはこの小説を書くにあたって、京都の安井金比羅宮と大阪の安井天神の名称を混同したものと推測されます。」

「重箱の隅を突く様な話ではあるのですが、こういうディテールにこだわってみると、意外な事実が判ったりして結構面白いのですよね。あと天神=道真公とは限らないという話題もあるのですが、長くなりますのでまた機会を見つけてアップしたいと思います。」

(参考文献)

新人物往来社「新選組銘々伝」、子母澤寛「新選組始末記」、伊東成郎「閃光の新選組」、松浦玲「新選組」


2007年5月16日 (水)

新選組血風録の風景 ~鴨川銭取橋その5~

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(新選組血風録概要)

(山崎の踏んだとおり、下手人は薩摩人と見て間違いなさそうだった。あの凄まじい切り口は、薩摩御流儀である示源流のものである。)

(示源流は何よりも太刀行きの速さを尊ぶ。敵の出方には委細構わず、一瞬でも速く相手を斬撃する。見事にその初太刀が決まれば、相手は間違いなく即死する。新選組では、近藤、土方がこの剣法を研究し、初太刀だけは何としてもはずせ、はずしてしまえば二の太刀からは他流儀の方が勝っていると隊士に教えた。)

(事件から3日目に、山崎は土方の部屋を訪れた。この日も土方は餅を焼いていた。山崎が下手人は薩摩人であるらしいと報告すると、土方はやはりそうかと答えた。土方の見方も山崎と同じだったらしい。しかし、そのあと土方は驚くべき事を口にした。下手人は観柳斎だという。直接手を下したのは薩摩人でも、手引きをしたのは観柳斎だと断定するのである。)

(山崎は驚いた。ただし、観柳斎に対する同情からではなく、監察の知らないところで副長が新たな証拠を手に入れたかと、自らの失策が気になったのである。証拠はと訊ねる山崎に、土方は観柳斎の人柄そのものが証拠だと答える。)

(武田は天才的な阿諛屋で、近藤、土方には猫がじゃれる様な接近の仕方をするくせに、同僚や下僚に対しては氷のように冷たい男だった。傍目には近藤も土方も観柳斎におだてられて良い気になっている様に見えた。しかし、どうやら土方は違っていたらしい。)

(土方は山崎に観柳斎の調査に対する方針を尋ねた。山崎は内心、観柳斎は薩摩藩に内通しているのではないかと疑っていた。その線に沿って調べを進めるつもりではあったが、山崎なりの考えがあってあえて言わなかった。果たして土方は観柳斎は薩摩藩に通じていると山崎に助言した。この言葉に、山崎はわざと驚いて見せた。山崎なりの土方に対する阿諛である。)

(その日の午後、花が山崎を訪ねてきた。話を聞いてみると、観柳斎はあけぼの亭の古くからの馴染み客であり、一元客として薩摩人に連れられてきたというのは花の勘違いであったという。花は奥勤めであり、常連客の事は実は良く知らないと言うのである。)

(しかし、そのあけぼの亭に来た薩摩人の事は、同僚から聞き出してくれていた。その男とは中村半次郎であるという。その名を聞いて山崎は驚いた。名うての人斬りである。)

(その上、かつて新選組を襲うという計画を立てた事もある男であった。当時は薩摩藩としても会津藩との協調を必要としていた時期であったため西郷が止めたが、倒幕色を露わにし始めた今となっては、中村をして新選組の切り崩しをさせたとしても不思議は無いのである。)

(山崎は花に念を押して確かめたが、観柳斎と中村が一緒に来た事は一度も無いと言う。これで観柳斎の薩摩臭は抜けた事になる。観柳斎が下手人であると決めつけている土方に何と言えばよいかと山崎は途方に暮れた。)

・観柳斎の評価

「観柳斎が近藤の信頼を得ていた事は既に触れたとおりですが、単なる阿諛の徒ではなく、確かな腕と頭脳に裏打ちされた一廉の人物だったからでした。阿諛だけの人物を重用するほど近藤はお人好しではありません。」

「ただ、観柳斎が尊大な人物であった事も確からしく、その事が観柳斎の後世の評価を曇らせている様ですね。また、何かと芝居がかった演出をする傾向があり、永倉はそのあたりが気に入らなかった様子です。一介の浪人が世に出るためには自らを大きく見せる必要があったのでしょうけれども、そのせいでせっかくの才能が評価される事無く埋もれてしまったのは惜しい気がしますね。」

・あけぼの亭について

「現在の明保野亭は三年坂の中程にあり、この小説でも狛野が斬られていた場所から推測すると、今の明保野亭を念頭に置いて書かれた様です。しかし、当時のあけぼの亭は現在の清龍苑の付近にあり、冒頭の写真にある茅葺きの門が当時の面影を今に伝えているとされています。」

「このあけぼの亭と観柳斎との間には深い因縁があります。池田屋事件から程ない時期に起こった「あけぼの亭事件」の時、新選組を率いていたのが観柳斎だったのです。この事件では罪無き土佐藩士と会津藩士が切腹して果てるという痛ましい結末を迎えるのですが、指揮官であった観柳斎は会津藩士柴司の葬儀に参列し、一首の弔歌を残しています。」

「司馬氏がこの事件の事を知らなかったはずは無いと思うのですが、あえて触れる事無くスルーしていますね。主題とは関わりないと判断したものか、この事件を踏まえてあけぼの亭を舞台としたのかは判りません。龍馬が行くでもあけぼの亭は出てきますから、司馬氏が幕末の主要な舞台として捉えていた事は間違いない様ですね。」

「歴史的には関係が無いとはいえ、三年坂と明保野亭は絶好のロケーションにあり、維新史を語るにはこの上ない舞台装置であると言えそうです。」

(参考文献)

新人物往来社「新選組銘々伝」、子母澤寛「新選組始末記」、伊東成郎「閃光の新選組」、永倉新八「新撰組顛末記」

2007年5月15日 (火)

新選組血風録の風景 ~鴨川銭取橋その4~

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(新選組血風録概要)

(翌日、山崎は誓願寺裏の髪結「床与」の主人と河原町四条の餅屋治兵衛を呼び出し、事件当夜に河原町の薩摩藩邸で人の出入りがあったかどうか調べる様に命じた。二人とも新選組の密偵を勤める人物である。)

(夕刻、三年坂で調査を命じた同心から2つの報告があった。一つは当夜三年坂の界隈では武士の会合は一件も無かった事、もう一つは死んだ狛野のなじみであったらしい女が居る事であった。女の名は花といい、高台寺下の借家で暮らしているという。)

(山崎は花の家を訪ねた。花は30を過ぎたばかりの京美人であった。突然の山崎の訪問にしばらく呆然としていた花だったが、問われるままに狛野との馴れ初めを語り始めた。)

(花は三年坂近くにあるあけぼの亭という茶屋に手伝いに通っているのだが、狛野はそこの客であった。狛野ははじめ観柳斎に連れられて来たのだが、次は一人で現れたという。どうやら花が目当てであったらしい。花も狛野を憎からず思っており、二人は自然と結ばれる事になった。)

(山崎は観柳斎の事を訊ねた。花の話に拠れば観柳斎も一元の客だったらしい。彼を案内して来た人物は誰かと重ねて聞くと、彼女は店の奥に勤める下働きだからはっきりとは知らないが、大男で目鼻立ちのくっきりとしたいい男だという。そして、男は薩摩なまりを持っていた。)

・新選組の密偵

「新選組が使っていた密偵の消息については、新選組物語に登場する床伝のエピソードが知られています。床伝は東本願寺近くで床屋を営んでいたとされる人物で、天才的と言われた剃刀の腕を生かして、勤王派の根拠地であった東坊に髪結いとして出入りする事に成功します。そして、巧みな話術を駆使しては勤王派の情報を聞き出していました。」

「床伝の娘「みの」もまた、父を助けて密偵として活躍していました。彼女は女としての体を張って志士達に近づき、寝物語に情報を聞き出していたのです。床伝がもたらす情報は新選組にとって大いに利益になるりものばかりでした。」

「しかし、ある日ついに床伝の素性が知れる日が来ました。勤王派の間でも、みのに近づいた志士達から機密が漏れているらしい事に気づいたのです。彼らは罠を張り、わざと偽りの情報をみのに漏らしました。その情報どおりに幕府方が動いた事を確認した志士達は、すぐに床伝を襲ってその首を刎ねました。そしてみのを河原に呼び出し、みのの眼前に彼女と関係した志士達が勢揃いしてこれを辱めたのです。」

「この話を後世に伝えたのは、東房の住職の娘であり篠原泰之進の二度目の妻となったチマだとされます。このエピソードは長く創作された物語だと思われていたのですが、床伝は和泉屋伝吉という実在の人物だった事を示す資料が見つかり、意外にも事実を伝えているらしい事が判りました。この話をすべて鵜呑みには出来ないでしょうけれども、新選組が髪結いを密偵として使っていたという事実はあったと考えても良いのでしょう。」

・物語の舞台について

「花が住んでいたとされるのは、高台寺下の長屋とされています。高台寺は広大な境内を持っていた大寺でしたが、明治以後は廃仏毀釈の洗礼を受け、さらには土地に課せられる税金を逃れるために、次々と土地を手放して行きました。その土地が民間の手に渡って開発され、貸家などが多く建てられています。その一つが石塀小路で、料亭や貸座敷を念頭に置いた高級貸家街として、計画的な開発が行われました。」

「庶民に向けた長屋も建てられており、その面影は維新の道への登り口付近に残っています。「暗夜行路」で描かれた貸し家を巡る情景は、このあたりを舞台にしていたものと思われます。こうして明治から大正にかけて開発が進み、今の町並みが形成されました。」

「花が住んでいた幕末はというと、二年坂界隈(桝屋町)は江戸時代の半ばに開発されており、また古写真を見ると下河原あたりにも家が建ち並んでいた事が判ります。高台寺の周辺は明治以前においても相当に開発が進んでいた事が窺えるのですが、明治以後はそこに高台寺の境内であった土地が加わって、さらなる広がりを見せたという事なのでしょう。」

「これからすると、花が住んでいたのは下河原界隈という事になるでしょうか。現在の景観から石塀小路や祇園閣、霊山観音や護国神社の鳥居などを除いていくと、当時の情景が浮かび出てくるかも知れないですね。むろん道はアスファルトではなく地道だったでしょうけど、狭い道を挟んだ低い町並みの向こう側に八坂の塔が見えている情景は、今とさほどの違いは無かったものと思われます。」

(参考文献)
子母澤寛「新選組物語」、歴史読本2004年12月号「新選組をめぐる女性たち」

2007年5月14日 (月)

新選組血風録の風景 ~鴨川銭取橋その3~

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(新選組血風録概要)

(観柳斎が5番隊の隊士を連れて出発した後、山崎は土方の部屋に呼ばれた。土方は餅を焼きながら、狛野を頭から一太刀で惨殺したという相手の腕に感心してみせる。そして、この件について手を出してみろと謎の様な言葉を吐く。不審に思いながらも、観柳斎より先回りをしろという土方の命に従って、三年坂まで馬を飛ばす山崎。)

(三年坂の現場では、二人の奉行所同心が番をしていた。彼らに向かって新選組の山崎蒸であると名乗り、馬から飛び降りる山崎。彼は同心達に必要な質問をしつつ、死体の傷口をあらためた。その切り口を子細に検分すればするほど、相手の剣の凄まじさが判る。)

(山崎は同心達に向かって、この付近の料亭を調べ、今夜は武士の会合がなったか確かめる様に指示した。併せて、近くに若い女が住んでいないか、居れば狛野が通っていなかったかも調べるようにも命じた。さらに、この事は奉行所の同僚にも、また後から狛野の死体を引き取りに来る新選組の隊士にも内密にするようにと釘を刺した。)

「山崎が三年坂に着いたのは、小説の流れからすると午後10時頃の事になるでしょうか。現在の三年坂は、花灯路などの特別のイベントがある時を除いて、清水寺の門が閉まると同時に人気が無くなり、夜はごく寂しい場所になります。人知れず隊士が殺されていたとしても、不思議では無い場所ですね。」

「一方、幕末の頃はどうだったかと言うと、このあたりには清水新地と呼ばれる遊郭がありました。二年坂にある阿古屋茶屋が当時の面影を残していると言われますが、このあたりの町並みが全体として雅なのは、かつて花街であった名残なのでしょう。」

「ですから夜に関して言えば今よりもずっと賑やかでした。そんな場所で斬り合いがあれば、きっと大騒ぎになった事でしょうね。今から見れば事件の舞台としてふさわしく見える三年坂ですが、時代をさかのぼってみると今とはまるで違った貌を持っていたのですね。」

2007年5月13日 (日)

新選組血風録の風景 ~鴨川銭取橋その2~

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(壬生寺)


(新選組血風録概要)

(山崎は狛野の所属隊長である武田観柳斎の部屋に駆け込んだ。部屋ではすでに知らせを受けていたらしい観柳斎が、外出の支度をしていた。)

(山崎は観柳斎に、狛野は外出届を出していたかと確かめた。しかし、観柳斎は知らぬと言う。山崎はそれではあなたの隊士取り扱いの不行き届きになると追求したが、観柳斎は隊士が勝手に抜け出していく先をいちいち見張る事などできないと切り返す。)

(実はこの二人は仲が良くなかった。二人は8・18の政変後、新選組が公式に発足した直後に行われた募集に応じて採用された同期である。この時採用された者は71名いたが、この二人は群を抜いて出色の方であった。山崎が諸士取締役兼監察に抜擢されたのに対し、観柳斎は五番隊長に登用されている。特に観柳斎については長沼流の軍学の素養があり、その事で近藤の信任を得て隊士一同に調練を施す立場に立った。)

(観柳斎は近藤のために軍配を誂えて、これを献上した。そしてその軍配を調練の為に必要であると言って借り受け、同士に向かっては近藤の権威の象徴として最大限に利用した。観柳斎は隊士一同を壬生寺の境内に集めて調練を行い、その軍配を振るっては近藤の下知であると言って、同格の隊士達をびしびしと叱りつけたのである。)

(ほどなく観柳斎は兵学師範に登用され、隊内での地位は揺るぎのないものとなった。しかし、やがて彼の権威が墜ちる時が来た。幕府がフランス流軍学を取り入れた事に倣い、新選組でも長沼流軍学を廃止したのである。隊士一同はざまを見ろと溜飲を下げたが、しかし観柳斎は依然として五番隊長として隊の大幹部であり、巧みに近藤に取り入っては隊士の告げ口を行うため密かに恐れられていた。)

「武田観柳斎の経歴については、以前にまとめた記事があるのでそちらを参照して頂く事として、今回は詳細を省きます。ここではその後知り得た情報として、「新選組金談一件」において記述されている観柳斎について紹介したいと思います。この資料は「新選組血風録の風景 ~長州の間者その5~」においても引用していますが、この中に観柳斎の人物像を知る上で興味深い記述があるのです。」

「新選組金談一件は、新選組からの借金を申し入れられた三井家が、苦心惨憺の末にこれを回避するまでの経緯を綴った記録です。その過程において、三井の組頭が本願寺の寺侍である西村兼文(新撰組始末記の作者)に、新選組の隊内に協力を依頼出来る人物が居ないかと打診を行っているのですが、それに対する西村からの回答の中に観柳斎の名前が登場してきます。」

「西村は、まず観柳斎が伊東甲子太郎と並ぶ武芸の達人である事、そして弟子まで持っていると紹介しています。伊東は北辰一刀流の免許皆伝者であり、道場まで開いていた一流の剣客であった事は周知の事実ですが、観柳斎がその伊東と並び称される程の武芸者であったことは、これまでほとんど知られていませんでした。観柳斎が実戦で剣を振るった事は、池田屋事件で一人の浪士を斬った事などいくつかの事例が確認出来ますが、それが彼の剣の評価とは結びついていなかったのです。これはちょっと意外な事実ですね。」

「そして、西村が観柳斎を近藤への仲介者としての候補に挙げているという事は、とりもなおさず隊内での発言力を有していた、とりわけ近藤への影響力が大きかったという事を裏付けています。彼が近藤の広島行きへの随行者として選ばれたのは、伊達ではなかったのですね。」

「その一方で西村は、もし観柳斎に頼んだとしたら、彼は欲深な性格なので多額の礼金が必要となるであろうとも警告しています。後年になって著した「新撰組始末記」の中で、観柳斎を「すこぶる世智に賢い」と評した西村は、当時(慶応2年9月頃)からあまり快くは思っていなかった様ですね。」

「これらを総合すると、剣の達人にして軍学者という優れた一面を持つ一方で、世智に長けていて欲深い性格を持つという、なかなか複雑な人物像が出来上がります。「武田観柳斎」という通称名(本名は福田広)からしてはったりの臭いがしており、実際に会えばその素養に惚れ込むか、うさん臭さを感じて敬遠するか、評価が二分してしまう様な人物だったのかも知れません。」

以下、明日に続きます。

(参考文献)

新人物往来社「新選組銘々伝」、「新選組資料集」(「新撰組始末記」)、子母澤寛「新選組始末記」、伊東成郎「閃光の新選組」

2007年5月12日 (土)

新選組血風録の風景 ~鴨川銭取橋~

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(新選組血風録概要)

(五番隊士、狛野千蔵が斬られた。出羽庄内の脱藩で、心形刀流の達人と言われた男だった。斬られた場所は清水産寧坂。時刻は酉の下刻(午後7時頃)と思われる。寒い夜で、うっすらと霜が橋板に降りていた。狛野の血がその霜を溶かしていた。)

(狛野の死体は辻番によって見つけられ、町奉行所を通して新選組に知らされた。その時には、発見から一刻(2時間)を経過していた。)

(不動堂村の屯所でこの知らせを受けたのは、月番に当たっていた監察の山崎蒸であった。月番とは6人の監察がひと月ごとに2人づつ宿営する宿直の事を指す。隊内でも十指に入るという狛野の腕を知る山崎は、彼が斬られたと聞いて驚きを隠せなかった。)

・三年坂の板橋

「この作品の冒頭に登場する狛野千蔵という隊士ですが、現存するどの名簿にも該当する名前は無く、司馬氏によって創作された架空の人物です。しかし、型破りな事に「狛野千蔵」という名前だけが冒頭の一行に掲げられており、読み手は強烈な存在感を持って意識させられる事になります。これは司馬氏が持つ、一流の小説のテクニックですね。」

「架空と言えば監察の月番という制度もそうで、いかにもありそうではありますが、資料からは確認する事はできません。恐らくは大阪や江戸にあった、東西町奉行の月番制度から思いついた虚構ではないかと思われます。でも、きっとこれも事実と信じている人が多い事でしょうね。」

「さらに屯所の場所が不動堂村となっているのですが、新選組が不動堂村に移ったのは慶応3年6月の事で、その頃には後で登場する武田観柳斉は脱退した後で、隊には在籍していませんでした。そして、その半年後には新選組そのものが伏見奉行所へと退いているので、この小説の様な長い展開があるはずも無いのです。」

「この様に最初から虚構で始まっているのが今回の作品なのですが、意外なところで思わぬ事実を伝えています。それが三年坂の板橋です。」

「現在の三年坂は冒頭の写真の様に石畳から石段へと続いており、どこを探しても板橋など存在していません。ではこれも虚構かと言うと、実はこの坂の登り口にかつて板橋が存在していた可能性が高いのです。その鍵となるのが道の真ん中にあるマンホール。」

「以前「近藤勇の首塚考その3」で、清水川という川が存在する事をお伝えしましたが、その川が三年坂を横切るのが丁度この場所にあたるのです。それを示しているのがマンホール(暗渠化した川のメンテナンス用と思われます)というわけで、直接的な証拠はありませんが、幕末期に板橋があったとしても不思議ではないのです。」

「司馬氏がこの事実を知っていたのか偶然なのかは判りません。でも、霜が降りた板橋の描写によって、狛野惨殺の光景がありありと浮かび上がってくるのですよね。虚構の中に事実を混ぜるのが小説に真実味を持たせる技法の一つなのですが、およそ誰も気づかないであろうこの板橋を持ってきた事に、正直驚きを隠せないでいます。もしかすると古図の中に板橋を描いたものがあったのかも知れませんね。」

以下、明日に続きます。

(参考文献)
子母澤寛「新選組始末記」、伊藤成郎「閃光の新選組」

2007年5月11日 (金)

京都新緑散歩 ~梅宮大社~

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GWの一日、京都の洛西にある梅宮大社を訪れてきました。ここは四季折々の花が咲くことで知られる花の名所ですが、訪れるのは初めてです。なにしろ京阪沿線からは遠く離れているものですから、なかなか行く機会がなかったのです...。

なお、この写真を撮ってからすでに一週間が経過していますので、花の様子は今とは違っているものとあらかじめご了承ください。

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平成19年5月4日現在では、ツツジが一番見事でした。映画「千と千尋と神隠し」でハクと千尋がシャクナゲの咲き誇る通路を通り抜けるシーンがありましたが、まさにあの世界さながらの光景が現出していました。

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この日一番楽しみにしていたのがキリシマツツジだったのですが、残念なことに盛りは過ぎていました。咲き終わった花が盛んに散っており、池の水面を赤く染めていたのが印象的でした。

これはキリシマツツジで染まった園路です。こうしてみると、ちょっとした秘密の小道の様でしょう。

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うれしい出会いもありました。ヒトツバタゴ、通称ナンジャモンジャの木がここにもあったのですね。そしてラッキーな事に、満開の花を咲かせてくれていました。これまでこの花を見たさに真如堂に通っていたのですが、時期が遅かったり雨に祟られたりで、じっくりと見ることはできなかったのです。それが絶好のタイミングで、雪が積もった様だという開花の様子を堪能させていただきました。

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もう一つ見事だったのは藤の花ですね。規模としては小さな藤棚なのですが、長く房が伸びたきれいな花を見ることができました。

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季節が確実に巡っている事を教えてくれるサクランボです。たぶんカラミザクラだと思いますが、艶やかでなかなか美味しそうでしたよ。あ、もちろん取って食べる様な罰当たりな事はしていませんからね。

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そして、次の季節の主役となるアジサイも咲き始めていました。この間桜が咲き始めたと話題になっていたと思うのにもうアジサイが咲き始めるとは、本当に時間が経つのは早いですよねえ。

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初夏の花が咲き乱れていた梅宮大社でしたが、これからは冒頭に掲げたカキツバタが主役となる事でしょう。それを追いかけて花菖蒲が咲き始める頃には、アジサイも見頃となっている事でしょうね。ここは少し交通の便が不便な場所にあるのですが、時間を掛けてでも行ってみる値打ちのある場所だと思います。

2007年5月10日 (木)

京都・洛東 平成19年度蹴上浄水場一般公開

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京都市の蹴上浄水場は琵琶湖疎水を水源とし、明治45年に初の急速濾過式浄水場として開設されたという歴史を持つ施設です。今でも現役の浄水場として稼働しており、東山一帯から山科北部、それに左京区の南部に水道水を供給しています。

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その敷地内には約4700本のツツジが植えられており、毎年一般公開が行われています。公開日は開花状況によって決められるため年によって異なるのですが、今年は5月5日から8日まででした。

公開にあわせて、浄水処理施設の見学、上下水道相談コーナー、パネル展示などが行われていました。またクイズラリーに参加して全問正解すると、記念品としてエコバックがもらえましたよ。さらに、災害用備蓄飲料水「京の水道 疏水物語」(490mlアルミボトル缶)の配布(中身はただの水道水ですが)もあり、暑い中喉を潤すのに助かりました。

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我が家が訪れたのは公開初日にあたる5月5日です。この日は昼から雨が降るかもしれないという予報だったのですが、幸いなことに薄く雲が掛かっただけの好天となり、気持ちのよい花日よりとなりました。

浄水場は東山の山裾にあり、斜面に沿ってツツジが植えられています。園路は坂道になっているため、歩きやすい靴を履いて行かれる事をお勧めします。

園路からは南禅寺の三門も遠望できます。東山の点景として景色に良くなじんでいますね。

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ツツジは街中のそこかしこに植えられているごく身近な花ですが、これだけ密植されている場所はそう多くはないでしょうね。普段見慣れているだけに見落としていた美しさに、改めて気づいたような気がします。

2007年5月 9日 (水)

京都新緑散歩 柳並木 ~白川~

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柳の新緑も鮮やかな京都白川。知恩院の総門近くにある一本橋は、行者橋とも呼ばれる石橋です。その橋を渡る二人の人影は、実は我が家の息子達。本当は橋の上に立ってこっちを向く様にと言ってあったのですが、ブログに載せられてはたまらないと駆け足で渡ってしまいました。ほんとにもう、言う事を聞かないのだから。

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暫くすると、息子達の真似をしたのでしょう、小さな女の子が走って渡っていきました。行者橋は叡山の千日回峰を行う行者が渡るという由緒のある橋。でも子供にとっては、小さな冒険心をくすぐられる楽しい橋なのですね。


2007年5月 8日 (火)

京都新緑散歩 曼殊院

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京都の洛北、修学院の地にある曼殊院。四季それぞれに趣のある寺ですが、初夏には参道に咲くツツジが出迎えてくれます。

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玄関を入ってすぐのところにある坪庭では、シランが手水鉢に生けられていました。もてなしの心遣いが感じられる風景ですね。

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そして、この季節のメインは霧島ツツジです。庭に植えられた数本のツツジが咲き誇る様は、さながら炎が燃えさかるかのよう。ただ残念な事に、我が家が訪れた平成19年5月5日には、満開の1本を残して後の木は盛りが過ぎてしまっていました。4月の末では1本が満開になり、残りはまだつぼみという情報を得ていたのですけどね、数日遅かった様です。

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それでも、新緑で溢れるかえる曼殊院は素晴らしいの一言です。夏の蝉時雨も、秋の紅葉も良いですけれども、生命力に満ちた景観は、この季節ならではのものですね。

2007年5月 7日 (月)

戒壇めぐりと一初鑑賞会 ~得浄明院~

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知恩院の境内の一角にある得浄明院に行ってきました。普段は非公開の寺ですが、現在は「戒壇めぐりと一初鑑賞会」として一般公開が行われています。

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得浄明院は信州にある善光寺の別院です。昨年の記事で、ここの本堂は善光寺をそのまま縮小した造りになっていると書いてしまいましたが、今年聞いた話に依ればそうでもない様ですね。同じなのは本堂下にある戒壇めぐりの距離だそうで、途中の経路の形は違うけれども、鍵を見つけるまでの困難はどちらも変わらないという事なのだそうです。

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この花が昨年は見る事が出来なかった一初です。他のアヤメに先駆けて咲く事からこの名があるとされる花で、花びらの中央にひだひだがあるのが特徴ですね。(写真をクリックして拡大するとよく判ります。)

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こちらは白の一初です。ここでは沢山咲いているのですが、世間的には白花というのは結構めずらしいのだそうですね。本堂の横にある坪庭の様な場所で咲いており、狭い空間にある石塔とあいまって、清楚な世界を形作っています。

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一初に続いて咲くジャーマンアイリスは、まだちらほらと咲き出したばかりでした。控えめな感じのする一初と違って、こちらは豪華そのものです。開期が進むにつれて主役はこの花になっていく事でしょう。

得浄明院の一般公開は平成19年5月13日(日)までとなっています。ただし、一初が見たいと思うのなら、早めに行かれる事をお勧めします。今日あたりそろそろ盛りが過ぎている頃かも知れません...。

(撮影は平成19年5月5日です。)

2007年5月 6日 (日)

京都新緑散歩 比叡山延暦寺

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比叡山山頂から延暦寺までは、シャトルバスで10分足らずで着きます。そのわずかな時間と距離の移動だったのですが、延暦寺バスセンターに着いた頃には、さしもの雷雨も収まってきました。そして暫く休憩している内に、天候も回復して薄日が差すほどになりました。山の天気は変わりやすいと言いますが、比叡山でこれほど極端な目に遭った事はあまり無いですね。

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延暦寺の境内は桜こそ終わっていましたが、新緑に満ちあふれ、そしてそこかしこでシャクナゲが咲き乱れており、まさに春そのものです。

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延暦寺の境内には、紅い葉の種類のもみじが多く植えられています。これは多分、新芽が紅から緑へと変化する出猩々だと思われ、今は緑へと変わる途中なのでしょう、茶色っぽく見えますね。

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さて、我が家を襲った最後のハプニングは、バス乗り遅れ事件です。

延暦寺の閉門時間は午後5時となっています。いつもならもう少し早い時間に出門するのですが、この日は雷雨から無事に逃れたという余韻もあって、のんびりと散策を楽しんでいました。バス停に着いたのが午後4時50分頃、京都駅行きのバス乗り場の前には、長蛇の列が出来ていました。我が家は往復切符を買っていたので、一度山頂に戻り、ロープウェイ~ケーブルカー経由で帰らなければなりません。

山頂行きのシャトルバスの乗り場には、なぜか誰も並んでいませんでした。先のバスが出たばかりなのだろうと思っていたのですが、何だか様子が変です。念のためと思って係の人に聞いてみると、なんと山頂行きの最終バスは出てしまった後だったのでした。繰り返しますが、延暦寺の閉門時間は午後5時です。それより先にバスの方が無くなってしまうとは、思ってもみなかった事態でした。思わずタクシーはとあたりを見回しましたが、こんな山の上に居る訳もありません。ロープウェイ乗り場まで歩いて行けなくもないが、山道を50分は掛かると言われ、頭の中は真っ白になってしまいました。

そうこうするうちに京都駅行きのバスが到着し、係の人はとにかくこれに乗れと言います。見ているとあっと言う間にバスは満員になり、立っているのがやっとという状態でした。比叡山から京都市内へ通じる道は急カーブの連続であり、立っていたのでは大変な目に遭うのは判っています。そこで次のバスは何分後かと聞いたのですが、次が最終便だが既に山頂駅から満員になっており、とても乗れそうに無いとの事でした。もはや迷っている暇は無く、目の前のバスに乗り込むより他に選択支は無いのでした。

それ以後は予想通りの展開でした。まあ、揺れる事、揺れる事。つり革と手すりにつかまって、倒れない様に踏ん張るのがやっとです。山を下りきるまでの約40分間、苦闘の連続でした。市内に出てからは渋滞に捕まることなく、出町柳駅を経由してくれた事がせめてもの幸いでした。連休で混雑する市内を、あのまま京都駅まで連れて行かれたら、たまったものではないですからね。

結局、ロープウェイとケーブルカー、それに叡山電鉄の復路分の運賃が無駄になり、出町柳までのバス代を余分に支払うという散々な結果に終わりました。まあ、元々割り引き切符だったので、ストレートに切符を買ったと思えばこれでも損はしていないのですけどね。それにこのバスに遅れていれば、坂本ケーブル~浜大津経由という遠回りをして帰る事になり、さらに時間と費用の損失が重なっていた事でしょう。

酷い目に遭った一日でしたが、振り返ってみれば得難い体験ではありました。困難を共にして、家族の絆は一層強くなったという気がしています。まあこれも家族が無事だったから脳天気にも言える事なのですけどね。何かにつけて判断が甘かったと、反省する事しきりです。


2007年5月 5日 (土)

京都・洛北 春色・比叡山

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この季節、比叡山頂にあるガーデンミュージアム比叡は、春の色で溢れています。その主役はやはりチューリップ。背が高いだけに目立ちますね。

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中でも印象的だったのがパープルのチューリップ。派手な原色が多い中で、シックな色がかえって目立っていました。

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ビオラもまた春を代表する花です。これはハンギング仕立てになっていましたが、色のコーディネイトが素晴らしいですね。

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小雨の中、撮って回ったのがシャクナゲです。雨に濡れてしっとりしたシャクナゲを、柔らかい光の中で撮れるとこの時は喜んでいました。

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我が家を襲った本当のハプニングは、この雨に濡れたツヅジを撮った後に起こりました。雨が止んで日差しまで戻っていた空が、再び真っ黒な雲で覆われ出したのです。今度降り出したのは大粒の雨であり、小さな傘では対応できそうにはありません。やむなく、ガーデンミュージアムの中にあるテントの中で雨宿りを始めました。

ところが暫くするとミュージアムのスタッフの人がやってきて、すぐに展望台か乗ってきた車の中に避難しろと呼びかけて回るのです。良く聞いてみると、上空に雷雲が発生していて、屋外に居ると危険だと言っているのでした。確かに雷鳴は聞こえ始めていましたが、まだほんの小さなものです。テントの下なら大丈夫じゃないかとも思ったのですが、とりあえず言に従って、出入り口のあるゲートにまで行く事にしました。

我が家は電車とケーブルカーを利用して来ていたので、乗るべき自家用車はありません。暫くはゲートの下で雨宿りをしていたのですが、そのうち山内を回るシャトルバスが来たので、延暦寺に移動する事にしました。延暦寺なら土産物センターで雨宿り出来るし、いざとなったら御堂の中に入れば良いのですからね。

ところが、停留所は長蛇の列であり、我が家のすぐ前でバスは満員になってしまいました。そのまま次のバスを待つ事にしたのですが、これが間違いの元だったのです。バス停には屋根はあるものの吹きさらしであり、ガーデン内にあるテントと大差が無かったのですね。そこで待っている内に、雷鳴が次第に大きくなり始めました。

吹きさらしのバス停で、大粒の雨に降られながら、雷鳴を聞いている状態を想像してみて下さい。雷はいよいよ激しさを増し、上空のそこかしこで稲妻が走ります。これだけ盛大に稲妻を見たのは何年ぶりだったでしょうね。これが屋内に居たのなら大喜びでカメラを構えていたでしょうけど、今はとてもそんな余裕はありません。空を見上げて、雷が通り過ぎるのを待つばかりです。

そのうち、一度雷鳴が止みました。やっとこれで終わりかと思った次の瞬間、閃光と共に辺り一帯を揺るがす大音響が鳴り響いたのです。すぐ近くに落雷したのですね。いや~、本当に驚きました。屋外で聞く落雷の音がこれほど迫力に満ちていたとはね。昔の人が最強の神として雷神様を想像したはずです。文字通り肝を冷やす思いがしました。

この落雷で、ここに居るのはとても危険な事ではないのかと気付いたのですが、さっきのゲートも、近くにある売店も人で一杯で、とても入れそうにはありません。そんな不安な気持ちをあざ笑うかの様に、稲妻はきらめき続けます。これは大変な事になったと思う内に、やっと次のバスの姿が見えました。ドアが開くと共に車内に飛び乗ったのは言うまでもありません。シートに座ったとたん、どっと疲れが来ました。

得難い経験をした我が家でしたが、この先ハプニングはまだ続きます。


2007年5月 4日 (金)

京都・洛北 比叡山・桜

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この時期に比叡山に登る魅力の一つが、平地ではとっくに終わってしまった桜と再び出会える事です。比叡山の標高は848mと決して高山という程ではありませんが、それでも気候は京都盆地のそれとは大きく異なっています。

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ただ、今年は桜の開花が例年より早かったのでしょうね、ほとんどの場所で終わっていました。桜が咲いていたのはロープウェイ乗り場の大島桜と山頂の山桜など数本だけで、延暦寺の境内も葉桜になっています。

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この枝垂れ桜はガーデンミュージアム比叡の中で咲いていたもので、丁度満開を迎えています。一重にしては濃い桜色をしていますね。

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そして、その近くで咲いていたハナカイドウです。このあたりの咲き方を見ると、下界では4月の上旬の頃と同じですね。比叡山の春は京都市内から約1ヶ月遅れで訪れ、北東北に近いと見て良い様です。

さて、我が家を襲った最初のハプニングは、このハナカイドウを撮っている時に起こりました。それは何かというと、突然の雨です。この日は昼過ぎまで日差しが暑く感じられるほどの快晴でした。それが午後2時前くらいから俄にかき曇り、ぽつりぽつりと雨が降り出したのです。幸いな事に緊急時用の傘を持っていたおかけで濡れずには済み、雨も大したことはなく一旦止みました。この時はまだ涼しくなって良かったぐらいに考えていたのですが、本当のハプニングはこの後に起こります。


2007年5月 3日 (木)

京都・洛北 春・比叡山

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連休後半の初日、比叡山を訪れてきました。標高800mにあるガーデンミュージアム比叡では、平地から約1ヶ月遅れの春の花が満開です。

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咲いていたのはチューリップを始め、ムスカリ、アゲラタム、水仙、パンジーなど色とりどりの花々です。さらがら、一度に春が来るという北国を訪れたかの様ですね。

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とても綺麗な春の休日だったのですが、ハプニングの連続で、穏やかな一日という訳には行きませんでした。それでも、結果的には楽しい経験だったと言えるのですけどね。

どんな事があったのか、詳しいレポートは明日以降アップします。

2007年5月 2日 (水)

京都新緑散歩 ~東山霊山~

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維新の志士達の霊が眠る東山・霊山を訪れてきました。この季節、霊山もまた新緑で覆われています。

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霊山での一番人気と言えばやはり坂本龍馬ですね。いつ来ても参拝の人影が絶えた事はなく、彼の人気ぶりが窺えます。

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その墓の前に立つ龍馬と中岡慎太郎の銅像です。円山公園にある銅像と同型のものですが、こちらは縮尺のうんと小さいミニチュア版。彼等が見ている先には、冒頭の京都の景色が広がっています。

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この霊山に眠る志士達の中でも、最も有名な人物の一人である桂小五郎の墓です。一番奥まった場所にあるせいか、龍馬の墓に比べると訪れる人は少なめですね。

今、霊山歴史館では春の特別展示「桂小五郎と幾松」展が開催されています。二人に縁のある品々が展示されているのですが、中でも桂が出石に潜伏していた時期の出来事を綴った「木戸孝允公出石潜伏中之記」は必見です。著者は桂の潜伏を助けた広戸甚助で、側で見ていた人物でしか書き得ない描写が興味深いです。ざっと読んだところでは、桂は出石で落ち着いた後、京都から幾松を呼び寄せて一緒に住んでいたとあり、通説とは違う記述がある様です。このあたり研究者の見解を知りたいところですね。

今回の特別展は5月6日までですから、興味のある方はお早めに。

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ここには何度も訪れていますが、今回初めて気が付いた板倉(淡海)隗堂の石碑です。隗堂は近江の人で、京都において薬店を経営する傍ら多くの志士達と交流し、その一方で文人としても知られていました。新選組!をご覧になっていた方は、「龍馬暗殺」の回で龍馬に誕生日の祝いとして掛け軸を贈った人物を覚えておられるでしょうか。龍馬の血染めの掛け軸の作者と言えば通りが良さそうですね。

この石碑は「旌褒碑」とありますから、墓ではなく隗堂の功績を称えるためのものなのでしょう。建てたのは琵琶湖疎水の建設を推進した京都府知事として知られる北垣国道です。北垣と隗堂の間にどういう繋がりがあったのかは判りませんが、隗堂の存在を示す数少ない史跡と言えるでしょうね。

こういう思わぬ人物と出会えるのも、霊山ならではの楽しみの一つです。

2007年5月 1日 (火)

京都・洛東 妙法院 春期特別拝観

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妙法院は、東山七条の北東角に位置する古刹です。南隣の智積院が至って開放的な境内であるのに対し、この寺は常に門を閉ざしており、中に入ろうとする者を拒んでいます。そのため、あるいはこの寺の存在そのものを知らない人も居るかも知れませんね。

その妙法院がこの連休中に特別公開されています。これまで、この寺の前の道(東大路通)を通った事は数え切れないほどありますが、中に入るのは初めての事でした。

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残念ながら内部の撮影は許可されていないため、外から見える範囲内だけの写真しかありません。そこがちょっと残念ですが、それでも行っただけの値打ちは十分にありました。

妙法院とは平安時代に起源を遡るという天台宗の寺で、代々の住職を皇族が勤めた門跡寺院の一つです。現在でこそ東山七条の一隅に逼塞している妙法院ですが、かつては三十三間堂から方広寺までをも含む広大な境内を有する大寺でした。明治初年の廃仏毀釈などにより寺域が縮小されてしまったのですが、今でも三十三間堂と方広寺は、この妙法院の飛び地境内として位置づけられています。

この写真は庫裏で、豊臣秀吉が方広寺の千僧供養を行った際の遺構と伝えられています。さすがに秀吉の手になったというだけの事はあって、とにかく巨大で豪壮な建物です。一歩中に入れば、まずは巨木の丸木で組まれた梁に驚く事でしょう。そして頭上を見上げれば、複雑な木組みで出来た吹き抜けに目を奪われる事になります。この吹き抜けは竈の煙を排出する大煙抜きに繋がっており、普段はこの煙抜きが明かり取りの窓にもなっている様ですね。長年の間使い込まれた庫裏だけあって真っ黒に煤けていましたが、それが何とも言えない風格を醸し出していました。さすがに国宝に指定されるだけの事はありますね。

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妙法院の見所はまだまだあって、狩野派によって描かれた障壁画や、数多の寺宝が展示されています。特に茶道の心得のある人は、茶道具の見事さに惹かれる事でしょうね。

そんな中で今回の展示の目玉とされているのが「ポルトガル国印度副王親書」です。インドシナ半島にあったポルトガル領ゴアの副王から秀吉に宛てた親書で、羊皮紙に書かれた極彩色の絵が今もなお鮮やかに残っています。内容は秀吉に対してキリシタンに対する弾圧を緩和する様に求めたものとされ、親愛を示すためでしょうか、五七の桐の紋章が冒頭に描かれています。

そして、妙法院に行って意外に思うのは、本堂が思いのほか小さい事ですね。庫裏や書院、そして宸殿はそれぞれ立派な建物なのですが、本殿は上の写真の右にある建物で、妙法院の中では一番小さいかも知れません。門跡寺院にとって大事なのは、天皇が寝泊まりする宸殿であって本堂ではないという説明だったのですが、それにしても驚きです。

妙法院の本尊は普賢延命菩薩で、象に乗った姿が特徴的です。千本閻魔堂の普賢象桜の名前の由来となった仏様でもありますね。平安朝末期の作と伝えられる、とても優美なお姿でした。

また妙法院と言えば、幕末史ファンにとっては、八・一八の政変の際の七卿落ちの舞台となった場所として、忘れてはならない史跡でもありますね。御所を追われた三条実美ら七人の尊攘派公卿は、毛利の軍勢に守られながら、一旦この妙法院に入りました。そして都の情勢を見極めて、西国へ落ちる事を決意した場所が宸殿だったと伝わります。その場面を描いた絵も展示されているのですが、当然ながら現実の建物と同じ配置であり、素晴らしい臨場感のある展示となっています。

また、当日の妙法院を描いた屏風絵も飾られているのですが、細かく見ると馬に乗った武者や鉄砲を担いだ兵士達、そこかしこで大かがり火を焚いて警戒にあたる部隊などが描き込まれており、七卿落ちが単なる撤退ではなく、一触即発の臨戦態勢にあった事が窺える貴重な資料になっています。

特別公開であるため、拝観料は大人800円とやや高めの設定になっています。でも、今回の展示に関して言えば見応え十分であり、この料金は決して高くはありません。特に幕末ファンにとっては必見ですよ。

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