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2006年11月 5日 (日)

京都・洛東 本因坊の寺 ~寂光寺~

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仁王門通は琵琶湖疎水縁の道。動物園や美術館が建ち並ぶ文化ゾーンに沿い、緑と水が調和した素敵な道です。その通りを西に向かって東大路通を越えると、今度は幾つもの寺院が建ち並ぶ界隈に変わります。あたかも東の寺町と言えるくらいの密集度ですが、これにはちゃんと理由がありました。

話は江戸時代の中期に遡ります。1708年(宝永5年)3月8日、京都は宝永の大火と呼ばれる大火事に見舞われます。およそ当時の街の北半分を焼き尽くした火事は、京都御所をも焼き払いました。当時、御所の周辺には公家屋敷が建ち並んでいたのですが、御所の再建をするにあたって幕府は、公家屋敷と御所の間の通りを拡幅し、防火の役に立たせる事を考えました。そして、その道幅分だけ御所の区域を拡大するため、周辺にあった寺院や町屋を立ち退かせ、代わりの地として鴨東の地を与えたのです。その時、寺町にあった寺院群が集団で移転してきたのが、現在の仁王門通の界隈だったという訳です。

この御所の拡幅とそれに伴う町屋の移転はその後も行われ、元の町にちなんだ新高倉通、新富小路通などの通り名が今もこの界隈に残されています。

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寂光寺もまた、寺町からこの地へ移転してきた寺の一つでした。創建は1578年(天正6年)の事で、日淵によって開かれた日蓮宗の寺です。始めは室町出水の地にあり、秀吉の命によって寺町二条に移転しました。

日淵の甥、日海は碁の名手として知られた人で、当時無敵の強さを誇り、20歳の時に織田信長から「まことの名人」と称され、信長の上洛の都度に出仕する様になります。本能寺の変の前夜も信長の御前で対局しており、滅多に出来ないとされる三劫が生じ、不吉を予感したと伝えられます。信長の死後は秀吉に仕え、囲碁の法度を任せるという朱印状を受けました。1598年(慶長3年)に日海は日淵から寂光寺を譲り受け、塔頭の本因坊を得ます。そして、江戸幕府の成立後、家康の招きに応じて江戸に移り、これ以後本因坊算砂と名乗る様になりました。算砂は名人碁所となり、以後本因坊家が囲碁の家元として続いていく事になります。

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今も囲碁のタイトル戦の名称として残る本因坊とは、この寺の塔頭の名称だったのですね。残念ながら本因坊という塔頭は現存していませんが、境内には「第一世本因坊報恩塔」という石碑があり、この寺が囲碁興隆と深い因縁を持つ事を伝えています。また、墓地には一世算砂、二世算悦、三世道悦の三人の家元の墓があり、囲碁に興味のある人は、一度は訪れておきたい寺ではないでしょうか。


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