« 2006年9月 | トップページ | 2006年11月 »

2006年10月

2006年10月31日 (火)

京都・洛東 秋模様 ~大豊神社~@秋味ぶろぐ

Ootoyo0610288

哲学の道沿いにある大豊神社で見つけた秋模様。

鳥居の前で咲いていたこの花は、たぶんヨメナ。道端で咲いているとあまりぱっとしませんが、伸び伸びと育つとなかなか綺麗になるものなのですね。


Ootoyo06102810

そのヨメナに来ていた虻。この虻は未だに活動しているところを見ると、このまま成虫で越冬するのでしょうか。だとすれば、迫り来る冬を前に懸命に最後の餌を採っているところなのでしょうね。

Ootoyo0610283

哲学の道界隈で、一番鮮やかな紅葉だったのがこの蔦です。小さな葉ですけど、とても印象的な色彩でした。

Ootoyo0610282

そして、最後の花を咲かせていた秋明菊。大豊神社は、野趣に富んだ素敵な境内ですね。狭いながらも、そこかしこに秋が溢れていました。

2006年10月30日 (月)

京都・洛東 秋の哲学の道@秋味ぶろぐ

Tetugakunomiti0610281

哲学の道の旬は、やはり桜の咲く春でしょうか。南禅寺から銀閣寺まで延々と続く桜並木は、それは見事なものです。でも、その桜が色付く秋もまた捨てたものではありません。秋の哲学の道は、枯れ葉の舞う素敵なプロムナードです。

桜時分には、花に心を奪われて気もそぞろになり勝ちですが、この季節は静かに秋を感じながらの散歩が楽しめます。10月28日の哲学の道は、暑くもなく寒くもなく、丁度良い散歩日和でした。

Tetugakunomiti0610283

紅葉の具合はというと、こんな感じです。桜はかなり色付き、早いものは半ば以上散っています。もみじは真如堂と同じくまだ色付き始めたばかりですね。また、ところどころで山茶花が咲いていて、季節を感じさせてくれます。

Tetugakunomiti0610282

道沿いで一番綺麗だったのが、このハナミズキでした。一際鮮やかなこの色に、道行く人はみな感嘆の声を上げていましたよ。

これから紅葉が本格化すると、南禅寺と銀閣寺の間を行き交う人達で、ここも混雑する事でしょうね。静かに歩きたいと思うなら、12月上旬頃まで待った方が賢明かも知れません。もしかしたら、紅葉もその頃が最盛期かも知れませんよ。

2006年10月29日 (日)

京都・洛東 秋の深まり ~真如堂~

Sinnyodou0610281

2002年の「そうだ、京都行こう」のキャンペーンの舞台となって以来、紅葉シーズンは人混みでごった返す様になった真如堂ですが、今の時期はまだまだ静かなものです。それに、全山燃える様な紅葉こそありませんが、そこかしこで深まりつつある秋を感じる事が出来ます。

Sinnyodou0610282

10月末のもみじの状況はと言うと、ほんのりと色付き始めた木があるという程度です。こういう枝先に色付きかけた葉が見られますね。秋空に透かしてみると、なかなか綺麗なものですよ。

Sinnyodou0610287

三重の塔の前では、スポットライトを浴びた様な紅葉が見事でした。ほんの部分的に色付いているに過ぎませんが、間もなく訪れる本格的な紅葉を予感させて呉れるには十分です。

今年の真如堂の紅葉の盛りは11月の末頃、もしくは12月の上旬にまでずれ込むかも知れないと言われています。これからの気温の冷え込み加減によって変わってきますから、「苦沙彌のIntrent僧坊」の情報をチェックしておかれると良いですよ。

Sinnyodou0610285

今の真如堂で鮮やかなのは、桜の紅葉です。落葉が盛んで、枝にはあまり綺麗な葉は残っていないのですが、一番上の写真の様に落ち葉にはなかなか風情があります。すぐに掃き清められてしまうので、境内ではあまり見ることが出来ないのですけどね。

Sinnyodou0610283

もう一つ、三重の塔の前にある花の木が、上の方から段々と色付いてきていました。本堂の前にある花の木は、まだ全然変化が無いのですが、同じ境内にあっても陽当たりなどの条件が違うからでしょうか。

Sinnyodou0610286

この花の木も、下から見上げると光線の加減かあまり綺麗に見えないのですよね。少し離れて見るか、こうして落ち葉を見つけた方がその美しさが判ります。

Sinnyodou0610288

塔頭・吉祥院の前では、秋明菊が咲いていました。つぼみはほとんど残っていなかったので、この花の季節もそろそろ終わりなのでしょう。間もなく11月、仲秋から晩秋へと、季節は着実に動いている様ですね。

2006年10月28日 (土)

京都・洛東 木陰の花・ツワブキ ~南禅寺~

Tuwabuki0610281

京都・洛東の古刹、南禅寺。紅葉の名所として知られますが、平成18年10月28日現在では、ほんのりと色付いた木がある程度で、まだまだ本番は先の様です。

そんな南禅寺で見頃だったのはこのツワブキ。三門から聴松院にかけての木陰で、綺麗に咲いていました。

Tuwabuki0610282

もみじの下にあって、日光はほとんど当たらない様なのですが、ツワブキはちゃんと花を付けるのですね。ガーデニングの世界では、日陰でも育つ花として重宝されている様です。

Tuwabuki0610283

これから寒くなるにつれて、野外の花も少なくなってくるのでしょう。蝶や虻といった昆虫が、最後の採餌に懸命でした。この写真にも2匹の蝶が写っているのですが、判るかな?

南禅寺のツワブキは、見た限りではほぼ咲き切っていた様で、今が盛りの様ですね。薄暗い木立の中に浮かんだ鮮やかな花色がとても印象的てした。

2006年10月27日 (金)

京都・洛東 建仁寺

Kenninji0610226

建仁寺は、臨済宗建仁寺派の大本山。建仁2年(1202年)に、栄西禅師を開山、源頼家を開基として開創されました。寺号はその時の年号に依っています。始めは天台・密教・禅の三宗兼学でしたが、第十一世蘭渓道隆が出るに及んで、純粋な禅道場として生まれ変わりました。

Kenninji0610222

ざっと紹介しただけでも、日本史上に名を残す人物がきら星のごとく並ぶ建仁寺ですが、今は祇園の奥座敷としてひっそりと静まりかえっています。その建仁寺では、法堂の特別公開が行われており、天井に描かれた双龍図を見たさに、本坊を拝観してきました。

Kenninji0610223

方丈裏にある潮音庭です。建仁寺管長である小堀泰厳老大師の作で、正方形の形をしています。その特徴を生かして、どこから見ても絵になるという四方正面の庭となっています。

Kenninji0610225

同じ庭を東側から見たところです。手前の石が座禅石、中央の3つの石が三尊石と呼ばれています。なるほど、この位置から見てもちゃんと絵になりますね。狭いながらも石と苔、さらには周囲の楓樹が見事な調和を見せており、名園と言っても良いのでしょうね。

Kenninji0610227

方丈の南から西にかけて広がる枯山水の庭「大雄苑」。その名のとおり、広々としてゆったりとした気分になる庭ですね。そして、その奥に見える七重の石塔は、織田有楽が兄の信長を供養するために建てたものです。有楽は建仁寺の子院「正伝院」を再建して晩年をそこで過ごしましていますから、建仁寺との縁も浅からぬものがあったのですね。また、戦国時代の絡みで言えば、安国寺恵慧の墓もまたこの境内の一角にあります。

Kenninji0610221

建仁寺と言えば、まず思い浮かべるのがこの「風神雷神図」でしょう。美術や日本史の教科書に必ずと言って良いほど登場するこの屏風絵は、俵屋宗達晩年の傑作とされています。ただし、国宝に指定されている本物は京都国立博物館に寄託されており、展示されているのは複製です。でも、複製にしろ、写真を自由に撮らせてくれるとは、建仁寺も随分と太っ腹ですよね。

Kenninji0610228

こちらは、橋本関雪作の襖絵「松韻」。建仁寺の襖絵は、元は海北友松の手によるものでしたが、昭和9年の室戸台風で方丈が倒壊したのを機に京都国立博物館に寄託されました。そして、昭和15年に方丈が再建された時に橋本関雪作の襖絵が取り付けられて現在に至っています。橋本関雪もまた、昭和の京都画壇を代表する日本画家であり、素晴らしい風韻がありますね。この絵もまた自由に撮って良いとは正直驚きました。

さて、法堂はと言いますと、残念ながら双龍図は撮影禁止であり、写真は撮っていません。しかし、畳108枚分の大きさがあるという龍の図は迫力満点で、圧倒される思いがしました。2002年に描かれたばかりですが、古い法堂にも良く調和しており、後から追加されたものとはとても思えないですね。この龍を見るだけでも、拝観料を払う値打ちはあると思います。

このほか、私が行った時には、海北友松の七林賢人図、雲竜図が特別公開されていました。この展示については時々入れ替えがある様なので、何が見られるかは行ってみなければ判りません。

建仁寺の拝観時間は午前10時より午後4時30分(午後4時にて受付終了)まで、拝観料は500円(修学旅行生および小学生以下不要)となっています。

2006年10月26日 (木)

京都・洛東 茶の花 ~建仁寺~

Cha0610261

建仁寺の境内でみかけた茶の花。一見して山茶花と良く似ていますが、それもそのはず、同じ椿科の植物なのですね。

Cha0610262

山茶花よりもずっと地味ですけど、この黄色い雄しべはかなり印象的ですね。

建仁寺は、日本に喫茶の習慣を持ち込んだとされる栄西を開山とする禅寺です。それだけにお茶を大切にしているのですね、境内には珍しい茶の生け垣がしつらえられています。今の季節、建仁寺の境内を歩くと、この白と黄色の花と出会う事が出来ますよ。観賞価値は低いですが、お茶の花なんて普段目にする事はないでしょうから、東山界隈に来られたら、ちょっと足を曲げて建仁寺に立ち寄ってみる事をお勧めします。

2006年10月25日 (水)

京都・洛東 山茶花の咲く寺~建仁寺・禅居庵~

Marisiten0610256

建仁寺の塔頭の一つ禅居庵。この寺は二つの顔を持っており、建仁寺の境内に面しては非公開寺院として門が閉じられているのですが、八坂通に回ると「摩利支尊天」を祀るお堂として、実に開放的な境内になっています。とても同じ寺とは思えない落差がありますね。

「摩利支尊天」とは陽炎を神格化した女神の事で、密教においては大日如来の前に立ち、如来の光を地上に届ける役目を果たすとされています。日本においては護身、蓄財、開運の神として信仰を集めてきました。

Marisiten0610251

この禅居庵には京都ゑびす神社から圓徳院に向かう途中に立ち寄ったのですが、思いがけず境内で咲いていた山茶花と出会いました。お寺の人も今年は随分と早いと驚いていましたから、春から狂い放しの今年の気候が山茶花にも影響したという事でしょうか。

Marisiten0610252

それにしても綺麗な山茶花です。このほんのりとピンク色に染まった上品な花色に惹かれて、思わぬ長居をしてしまいました。

Marisiten0610253

「摩利支尊天」は三面六臂の姿をしており、猪の背に立つとされています。このため、境内には猪の石像が沢山置かれており、猪年の人には特に守護神ともされている様ですね。

Marisiten0610255

その猪の石像の間にあった何とも可愛らしいお地蔵様です。「摩利支尊天」は武士の間で信仰が厚く、六本の手に武器を持つ恐ろしい姿で描かれる事も多いのですが、こういう石仏を見るとイメージが変わりますね。山茶花の花と言い、やはり本来は女神様なのかなとも思ってしまいます。

禅居庵は建仁寺の南西隅にあります。観光ルートからは外れており、訪れるのは観光客より地元の参拝客の方が多い様ですね。立派な庭があるという訳でもないですが、この山茶花を見るだけでも立ち寄る値打ちはあると思いますよ。その上にご利益まで頂けたら、もう言うことなしですよね。

2006年10月24日 (火)

京都・洛東 秋・石塀小路@秋味ぶろぐ

Isibei0610251

今の季節、石塀小路で秋を感じさせてくれる花は萩。そこかしこの生け垣に植えられたこの花が綺麗に咲いていました。

Isibei0610253

控えめなこの花は、石塀小路の風情そのもの。このさりげなさは、奥ゆかしくすらありますね。

Isibei0610255

もう一つ、秋を感じさせてくれるのが南天。朱く染まった実と葉が、秋空に映えて見事です。

Isibei0610256

花は、そこに住む人の心映えとも言えるかも知れません。玄関に生けられた百合の花に、心が和む思いがしました。

2006年10月23日 (月)

北政所終焉の地 圓徳院 ~功名が辻~

Entokuin0610228

高台寺は豊臣秀吉の妻、北政所が建てた寺。そして、その山内で彼女の住んでいたのが、塔頭の一つである圓徳院の地とされています。

北政所は、1605年(慶長10年)に、伏見城から化粧御殿とその前庭を移築して、この地に移り住みました。普段はこの圓徳院の地で暮らし、秀吉の菩提を弔う時には台所坂を上って、霊屋に詣でたのですね。北政所は77歳で亡くなるまでの19年間をこの地で過ごし、そして終焉の場所となりました。

ここに住んでいる間、北政所は身辺に芸人達を好んで招いたと伝えられ、そのため高台寺周辺には芸達者が数多く住む様になったと言います。江戸期には高台寺から下河原にかけては祇園と並ぶ花街として栄えたのですが、芸の確かさを誇りにした「山猫芸者」と呼ばれる芸妓達が妍を競っていました。そのルーツは北政所が集めた芸人達にあると言われ、北政所の道楽が一つの花街を作ったとも言えるかも知れないですね。

Entokuin0610222

一方、圓徳院とは北政所の甥にあたる木下利房の法名です。北政所の死の9年後、利房が北政所の居館を木下家の菩提寺と改め、自らの法名を取って名付けたのが、現在の圓徳院という訳です。

当時の建物は残念ながら焼失してしまっており、現在はこの北庭だけが残されています。桃山期の代表的な庭とされ、当時活躍していた作庭家である賢庭の作と言われています。巨石を多用した、非常に豪快な印象を受ける庭ですが、一方では緻密な計算が施されており、名庭と言われる所以でしょうね。賢庭の師匠にあたる小堀遠州が、後に手を入れたともされています。

Entokuin0610225

こちらは、方丈の前にある南庭。平成6年に方丈が解体修理された際に整備されたもので、ごく新しい庭です。簡素ですが白砂に緑が良く映えており、好感の持てる庭ですね。

Entokuin0610227

圓徳院に入ってまず目に付くのが、このツワブキです。門から方丈へと続く通路のそこかしこに植えられており、黄色い綺麗な花を咲かせていました。これから11月半ばにかけてが見頃になるでしょうね。

Entokuin0610223

圓徳院はまた、紅葉の名所でもあります。平成18年10月21日現在は、まだ紅葉は序の口といったところ。ところどころに色付いた葉が見える程度です。でも、そういった葉が印象的でもあるのですよね。

Entokuin0610221

南庭の奥には、一枝だけ色付いたもみじがありました。ここの紅葉の盛りも11月の半ば以降の事でしょう。庭一面が真っ赤に染まった景色は、さぞかし見事でしょうね。夜にはライトアップも行われており、どの時間帯に行っても綺麗な紅葉に出会える事でしょう。

2006年10月22日 (日)

京都・洛東 二十日ゑびす ~京都ゑびす神社~

Ebisu0610221

京都ゑびす神社で行われているという「二十日ゑびす」に行ってきました。実は「二十日ゑびす」という行事は「徒然なるままに」の記事で始めて知ったのですが、調べて見ると京都ゑびす神社独自の行事の様ですね。

Ebisu0610222

行ったのは平成18年10月21日の事で、20日のゑびす講大祭が終わった後の「のこり福」の日でした。さぞかし賑わっているだろうなと思っていたのですが、豈図らんや、何とも静かな境内です。社務所で吉兆は売っていたものの数は少なく、正直拍子抜けでした。まだ午前中という事もあったでしょうけど、やっぱり、1月の十日ゑびすほどは知られていないのでしょうか。20日の大祭の時なら、もっと人出もあったのかな...。

Ebisu0610223

お祭りという雰囲気ではありませんでしたが、秋晴れにも恵まれ、とても気持ちの良い境内でした。社前にはシコンノボタンの鉢植えが置かれ、えびす様の前のススキも花が咲いていました。桜の葉も色づき、京都ゑびす神社はすっかり秋の装いです。

2006年10月21日 (土)

たかくらハロウィン2006@秋味ぶろぐ

Takakura0610211

京都の中心部に、突如として現れたジャック・オー・ランターンの群れ。たかくらハロウィン2006が開幕したのですね。

Takakura0610213_1

たかくらハロウィンは今年で3回目を迎える行事で、四条高倉から高倉錦までの道路を歩行者天国にして、50個のジャックが展示されています。高倉通商店街が主催しており、実際にジャックを作ったのは地元の高倉小学校の生徒達の様ですね。

Takakura0610215

この大きなカボチャの中身を刳り出して顔を作るのは、結構な手間が掛かった事でしょう。どれも力作揃いで、特に小さい子供には受けていましたね。ハロウィンの行事が少ない京都にあって、貴重なイベントとも言そうです。

Takakura0610212

今日21日夜はジャックに灯りが灯され、明日22日午後13時からは仮装行列が行われるそうです。時代祭と重なりますが、合間を見て高倉通に出かけてみるのも一興ですよ。

2006年10月20日 (金)

秋の空@秋味ぶろぐ

Wakuraba0610201

見事に葉脈だけになった桜の葉っぱ。やっぱり虫も柔らかい部分が好きなのかしらん?
虫食い葉の隙間から見上げる青空も、やっぱり秋の景色です。


京都・梨木神社にて

2006年10月19日 (木)

京都・洛東 暮れなずむ頃 ~八坂の塔~

Yasakanotou0610191

日が西山に傾く頃、影絵と化した八坂の塔。この景色を見ると、理屈抜きでどこか懐かしい気分になります。故郷っていう、感じがしません?

(クリックして大きくすると、塔の向こう側に京都タワーが写っているのが判ります。だからどうだという事もないのですけどね。)

2006年10月18日 (水)

京都・洛中 蛸薬師堂 ~永福寺~

Takoyakusi0610181

新京極を歩いていて、錦天満宮と共に目に付くお堂がこの蛸薬師堂でしょう。これだけ提灯が吊されていれば嫌でも目に付きますし、何より通り名の元となっているのですから余計ですね。

蛸薬師堂の正式な名称は、「浄瑠璃山 林秀院 永福寺」と言い、その開創は平安時代の末期、源平の合戦が華やかな1181年(養和元年)に遡ります。室町に住んでいた林秀という富者が比叡山の根本中堂に籠もり、老いた自分には山登りはきつい、どうか自分の側に薬師如来様を一体与えて下さいと願いました。すると霊夢に如来様が現れ、「伝教大師が私の姿を彫った石仏が山内に埋められている、これを持ち帰るが良い」と告げました。林秀がお告げのあった場所を掘ると、お告げの通りに薬師如来様が埋まっていました。林秀は喜んでこれを持ち帰り、お堂を建てたのが永福寺の始まりとされます。

Takoyakusi0610182

永福寺に蛸薬師堂の名が付いたのは、少し時代が下がってからの事です。

鎌倉時代の中頃、建長年間(1249年~1256年)に善光と言う僧がこの寺に住んでいました。ある時、善光の母が病気になったため、寺に引き取って看病をしたのですが、一向に様態は良くなりませんでした。病み衰えた母は、「子供の頃から好きだった蛸を食べれば病が治るかもしれない。」と善光に頼みます。しかし、善光は僧侶の身であり、蛸を買うことは憚りがありました。散々に思い悩んだあげく善光は、病弱な母の願いを叶えてやるべく、箱をかかえて市場に出かけ、蛸を買い求めます。

ところが、この様子を見ていた町の人々は僧侶が蛸を買った事に不審を抱きました。そして、善光の後をつけて寺の門前まで来た時、彼を取り巻いて箱の中を見せよと責め立てました。追いつめられた善光は、「この蛸は、母の病気を治す為に買ったものです。どうか、この難をお助け下さい。」と一心に薬師如来様に祈り箱を開けました。すると蛸の八本の足が八軸の経巻となり、霊光が四方を照らしたではありませんか。この光景を目の当たりにした人々は合掌し、南無薬師如来と称えます。すると不思議なことに、この経巻が再び蛸に戻り、門前にあった池に入りました。そして瑠璃光を放って善光の母を照らすと、病気はたちまち回復したのでした。以来、人々は尊崇の念を込めて、この薬師如来を蛸薬師と呼ぶようになったのです。

永福寺は、始め二条室町の地にありました。そして、豊臣秀吉の命により現在の地に移ったのは、寺町の他の寺と同じ経緯ですね。蛸薬師通は平安京の四条坊門小路にあたり、蛸薬師堂が信仰を集めるに従って、いつしか蛸薬師通と呼ばれる様になったのです。

Takoyakusi0610183

この蛸薬師堂の右手には通路があって、奥へと続いています。ここの壁にホワイトボードが吊されているのですが、ここに願い事を書く様になっているのですね。現代版絵馬という事なのでしょうか。ただ、イレイサーも置いてあり、次々に願い事は更新されて行くようです。どういうルールなのかは判りませんが、勝手に前に書いてある願い事を消してしまっても良いものなのかしらん?

Takoyakusi0610185

そして、突き当たりには、妙心寺と扁額の掛かったお堂があります。あれっと思いますが、これは永福寺とは別の、かつて三河岡崎にあった松平氏縁の寺です。経緯を書くとややこしいのですが、概略次のとおりです。

永福寺の南隣には、幕末の頃まで円福寺という寺がありました。この円福寺から開祖を招いて松平氏が開いたのが三河の妙心寺です。幕末の大火で円福寺は焼けてしまうのですが、永福寺の「前立て薬師如来」を譲り受け、これを本尊として妙心寺に納めました。そして、山号の交換を行って、三河の妙心寺を円福寺とし、それまでの妙心寺の本尊を永福寺境内に立てた仮本堂に移し、妙心寺と号したのです。円福寺は浄土宗深草派の総本山、妙心寺は同派の中本山であり、焼けてしまった総本山を中本山の伽藍を使って復興したという訳なのですね。

なんともややこしいのですが、要するに永福寺が隣のよしみで、妙心寺に境内を提供しているという事ですね。

この妙心寺を蛸薬師としている向きがある様ですが、一つの境内に二つの寺がある事から来た誤解の様ですね。

蛸薬師堂を訪れる事があれば、この右手の通路にも入ってみて下さい。新京極の一角とは思えない別の世界が広がっている事に、きっと驚かれると思いますよ。

2006年10月17日 (火)

京都・洛中 落語発祥の地 ~誓願寺~

Seiganji0610171

新京極六角のあたりはちょっとした広場になっていて、ロックンプラザという名前で呼ばれています。そのロックンプラザの東北隅にあるのが誓願寺。落語発祥の地として知られる寺です。

Seiganji0610172

誓願寺の起源は古く、飛鳥時代に遡ります。天智天皇の勅願寺として今の奈良市西の京のあたりに開創されたと言われ、平安遷都に伴って京の地へと移ってきました。当初は堀川今出川を少し下ったあたりにあり、元誓願寺通という名にその名残を止めています。寺町の多くの寺がそうであるように、この寺もまた豊臣秀吉の京都改造計画によって、現在の地へと移転しました。

かつては寺町有数の大寺で、18の塔頭を有し、境内には三重の塔まであったと言います。今からは想像も付かないのですが、MOVIXの裏手にある墓地が誓願寺のものである事を考えると、おおよその規模が見えてくるかも知れません。度重なる火災と明治維新の廃仏毀釈、新京極通の開削などによって寺運が衰え、現在の寺域にまで縮小しました。昭和7年の火災で本堂が焼け落ちた後、昭和39年に現在の本堂が出来るまでの間は、仮本堂のまま放置されていたと言いますから、受難の時代は長かった様ですね。

この寺には、平安時代の二人の才女が係わりを持っています。その一人が清少納言。
清少納言の晩年はよく判っていませんが、一説によるとこの寺で菩提心を起こし、尼となったと伝えられています。そして、本堂の側に庵を結んで念仏三昧の日を過ごし、やがて極楽往生を遂げたと言われます。無論、元誓願寺通にあった頃の事で今の場所ではないのですが、枕草子を通してしか知らない才女が、なんだか急に身近な存在になった様な気もします。

もう一人は和泉式部。彼女は娘の死を悲しむあまり、当寺に籠もって48日の間、念仏を唱え続けていました。すると、霊夢に老尼が現れて、「念仏をとなえれば女人の往生は疑いなし」とのお告げがあり、尼となります。そして藤原道長から一庵を譲り受け、やがて極楽往生を遂げたと伝えられます。この庵が現在の誠心院である事は、昨日紹介したとおりですね。

Seiganji0610173

この写真は扇塚。この塚に扇子を奉納すると、芸事が上達するとされています。塚の側にある解説文に依れば、「世阿弥の作と伝えられている謡曲「誓願寺」は、和泉式部と一遍上人が誓願寺の縁起と霊験を物語ります。この謡曲の中で和泉式部が歌舞の菩薩となって現れることから、能楽や舞踏家の間に和泉式部信仰が生まれ」たとあります。この塚はその伝承に基づいて建てられたものですが、比較的新しいものの様ですね。

この塚に関連して、この寺は扇子と縁が深い落語発祥の地でもあります。

誓願寺第五十五世安楽庵策伝上人(1554~1642)は、戦国時代を生きた僧侶でした。上人は戦乱の世に布教をするにあたり、難しい法話ではなく、もっと庶民にとって親しみやすい説教をしようと考え、庶民の間にあった笑い話に教訓を込めた、面白おかしい話を作り出しました。それを千あまり集めた「醒睡笑」八巻は後に多くの落語の種本となったため、策伝上人は「落語の祖」と言われています。落語発祥の地である誓願寺では、毎年10月初旬の日曜日に「策伝忌」を営み、奉納落語会を開催しているほか、数々の落語会の会場として場を提供しています。最近では「六代目柳家小さん襲名記念」の奉納落語の会がこの寺で開催されました。

毎年、年末になると年賀状の出張販売がこの寺の門前で行われています。風物詩と言う程では無いにしろ、ちょっとした景色にはなっていますね。コンクリート造の寺で、一見すると今出来の寺かと思ってしまいますが、調べてみると実に由緒のある寺なのですね。買い物や映画の帰りに、一度寄り道してみてはいかがでしょうか。特に、習い事をしている人にはお勧めですね。

 

2006年10月16日 (月)

京都・洛中 和泉式部寺 ~誠心院~

Izumisikibu0610126

京都の代表的な繁華街の一つ新京極は、今でこそ観光客で賑わう近代的な街ですが、元はと言えば豊臣秀吉によって形成された寺院街の一部だったところです。明治維新以後、衰退の一途を辿っていた京都の街に活気を取り戻すため、寺々の境内を整理して新しく開かれたのが新京極でした。

元々このあたりの寺の境内では縁日が開かれ、また芝居小屋や見せ物小屋などもあって、人が集まる素地はあった様です。ところが、廃仏毀釈の影響により、この寺院街が急速に荒廃してしまったのですね。その荒れた寺町を再開発して、新しい街路に作り替えたのが明治5年の事でした。しかし、そうすぐに賑やかな街になるはずもなく、明治10年頃になってようやく街の体裁が整った様です。ですから、今でも新京極を歩いていると、思わぬところに寺があったりするのですね。

この誠心院もその一つで、六角通から少し下がった東側にある寺です。寺にしては派手な外観ですが、新京極を歩いていても、気付かずに通り過ぎている事が多いのではないでしょうか。

Izumisikibu0610121

この誠心院は、通称「和泉式部寺」と呼ばれています。この寺の初代住職が和泉式部であるからで、藤原道長が建立した法成寺の中の一庵を彼女に与えたのが始まりとされています。寺号は彼女の法名である「誠心院専意法尼」から取られたもので、当時は御所の東、荒神口の辺りにありました。

和泉式部は、「和泉式部日記」で知られる平安時代の女性で、道長の娘である中宮彰子に仕えていました。為尊親王や敦道親王との熱愛から恋多き女性と言われる一方、「拾遺集」を始めとする勅撰集に246首の和歌を残し、「拾遺集」では最多入集歌人となるという、歌人としても当代一流の人でした。

その娘の小式部内侍もまた歌人として知られる才女でしたが、残念ながら若くして亡くなってしまいます。和泉式部は娘の死を悲しみ、仏に帰依して念仏三昧の内にこの世を去ったと、誠心院には伝えられています。

この石塔は、和泉式部の墓とも言われ、謡曲「誓願寺」の舞台にもなっている法篋印塔で、1313年(正和2年)に改修建立されたと伝わるものです。高さ約4m、幅約2.4mという立派なもので、江戸名所図絵にも描かれており、古くから信仰を集めていた事が判ります。

Izumisikibu0610123

この石仏群は、「二十五菩薩来迎の像」で、和泉式部が往生を迎えた時の様子を再現したものとされています。元は天正時代に建立されたものですが、その後破損が進み、近年になって再建整備が行われました。阿弥陀如来を中心に、手に手に楽器を持った菩薩が居並んでおり、極楽浄土へと誘う音楽が聞こえてくるかの様な気がします。

Izumisikibu0610125

「水かけの行者・神変大菩薩像」、いわゆる「役の行者」の像です。誠心院は真言宗に属しており、修験道の開祖とされる役の行者とも縁があるのですね。元は木像だっのですが、幕末の大火によって焼けてしまい、近年石仏として復元された様です。水かけの由来はよく判りませんが、開運隆盛とありましたので、一かけさせて頂きました。

誠心院は、以前は確か出入り出来なかったと思うのですが、今は自由に境内に入る事が出来る様になっています。一歩中に入ってしまうと、新京極の賑わいが嘘の様な静けさが広がっていて、別世界に居る様な気がしますよ。由緒ある石塔と近代的なビルのコントラストも面白く、是非一度立ち寄って見られる事をお勧めします。


2006年10月15日 (日)

京都・洛中 駒止地蔵 ~蓮光寺~

Renkouji0610155

世継地蔵のある上徳寺の近くに、長曽我部盛親の墓がある蓮光寺があります。住所で言えば、「富小路通六条上る本塩竈町」となりますから、上徳寺と同じ町内とも言えますね。

Renkouji0610156

蓮光寺は、1492年(明応元年)に天台宗の寺として開創されました。当初は新町高辻の地にあり、高野山の苅萱堂を模した事から、萱堂と称していたと言います。その後、1591年(天正19年)に豊臣秀吉の命で現在の地に移り、玉譽光順上人によって浄土宗に改められています。そして、盛親と親交があったという二世順譽蓮光上人のときに、寺号を蓮光寺と改称しました。

Renkouji0610153_1

蓮光寺は「負別山」(ふべつさん)と号しています。何のことだかすぐには意味が判りかねるのですが、これは御本尊の「負別如来」(おいわけにょらい)の由緒に由来しています。

この御本尊は仏師快慶の作とされているのですが、始めは東国の寺からの依頼で彫られた仏像でした。しかし、あまりに会心の出来であったために一旦は引き渡したものの手離すのが惜しくなり、引き取りに来た東国の僧の後を追って、山科の追分にまで来ました。そこで追いついた快慶は相手に訳を言い、引き取って帰ろうとしたのですが、その時、突然仏像を入れた笈が輝きだし、辺りに紫雲が漂います。不思議に思って笈の蓋を開けてみると、中の仏像が瓜二つの二体の仏像に別れていました。そこで、それぞれが一体づつを背負い、東と西に持ち帰ったのです。この奇瑞からこの仏像を「負別如来」と称し、この仏像を本尊としたこの寺を「負別山」と号する様になったのでした。

ちなみに東国に行った仏像は「笈分如来」と称し、今でも仙台市の阿弥陀堂に安置されているそうです。何だか、「日本昔ばなし」にでも出てきそうな話ではありますね。

Renkouji0610151

また、この寺には「駒止地蔵」が祀られています。この地蔵は弘法大師作と伝えられ、六条河原の刑場に祀られていたと言われます。一時、鴨川の氾濫によって埋もれてしまっていたのですが、1158年(保元3年)に近くを通った平清盛の乗馬が急に動けなくなったので、あたりを掘ってみると、この地蔵尊が出て来ました。以来、駒止地蔵尊と呼ばれ、信奉を集めるようになっています。また、盗賊に襲われた信奉者の身代わりとなって首を切られたという伝説もあり、首切り地蔵とも呼ばれています。

この駒止地蔵は昨年の大河ドラマ「義経」の義経紀行で紹介された事もありますので、覚えている方も多いのではないでしょうか。

興味深い寺伝と御本尊、駒止地蔵、長曽我部盛親の墓と、見所が沢山ある蓮光寺ですが、訪れる人はあまり居ない様です。ホームページはあるものの、観光化の波には乗っていない様ですね。一見して入りにくい門のせいもあってか、中はとても静かな境内が広がっています。物思いに耽るにはもってこいの環境とも言え、歴史好きな人にはお勧めの寺だと思いますよ。

2006年10月14日 (土)

前の土佐太守 長曽我部盛親の足跡 ~功名が辻~

Renkouji0610157
(京都市上京区柳図子。相国寺の西、烏丸通を西に渡り、上立売通の一筋北にあたります。)

巧妙が辻を駆け抜け、遂には土佐24万石の太守となった山内一豊。その一豊と明暗を分けたのが前の土佐の太守長曽我部盛親でした。

盛親は1575年(天正3年)に、一代で四国を切り従えた英雄、元親の4男として生まれました。元親には4人の男子があり、嫡男の信親が跡取りと定められていたのですが、島津氏と戦った戸次川の戦いで信親が戦死してしまいます。元親は新たな跡継ぎに、次男親和と三男親忠を差し置いて、末の息子である盛親を指名しました。四男を跡継ぎにすることについては家中においても反対が多かったのですが、元親は反対派の処罰を断行し、強引に盛親を跡継ぎに据えてしまいます。

1599年(慶長4年)に豊臣秀吉が亡くなってから間もなく、元親もまたこの世を去りました。秀吉亡き後の混沌とした世相の中、俄に長曽我部氏の当主となった盛親は、たちどころに困難な局面に直面します。大阪方と徳川方に別れた双方の陣営にとって、土佐24万石はどうしても味方に引き入れたい勢力であり、盛親の元には様々な誘いの手が伸びて来ました。そんな中で盛親が下した決断は、徳川方に味方するというものでした。土佐24万石は長曽我部氏が独力で切り従えた領地であり、豊臣氏の軍門に下ったとはいえその恩顧を受けた訳ではなく、大阪方に与する積極的な理由は何も無かったのですね。対する徳川家は、かつて小牧・長久手の戦いの際に一度は同盟を結んだ相手であり、また、戦になれば徳川氏の方に分があると盛親なりに見極めたのでしょう。

徳川氏に味方すると決めた盛親は、出陣に先立ち、家康の下へ使者を派遣します。このまま行けば土佐24万石は安泰のはずでした。ところが、この使者が近江路に設けられた大阪方の関所で怪しまれ、行く手を阻まれてしまったのです。家康との連絡手段を失った盛親は、やむなく大阪方に荷担する事になります。千代から一豊に向けて放った使者が無事にこの関所をくぐり抜け、千代のもたらした大阪方決起の知らせが一豊第一の戦功の元となり、さらには土佐の太守たらしめた事に比べると、何とも歴史の皮肉としか言い様がありません。

盛親は土佐6300の軍勢を引き連れ、大阪方の一将として伏見城、安濃津城攻めの主力として働きます。しかし、肝心の関ヶ原においては、同じ南宮山に陣取った毛利勢に行く手を阻まれ、戦況を傍観している間に敗軍の将になってしまいました。命からがら土佐に逃げ帰った盛親は、井伊直政を通して謝罪を申し入れます。直政は、謝罪するなら盛親自らが大阪に出てこなければ駄目だと告げ、盛親はこれに従いました。

ところが、盛親が土佐を発つ直前に、兄の親忠が自害してしまいます。これは、藤堂家とつながりのあった親忠が、徳川家の威光を背景に盛親に取って代わろうとするのではないかと疑われ、盛親自らが手を下したとも、盛親の預かり知らぬところで家臣が手を回したのだとも言われますが、定かではありません。しかし、このことが盛親にとっては命取りとなってしまいます。

大阪において八方陳弁に努めた盛親でしたが、家康はその兄殺しを限りなく不快に思い、土佐の国主にあるまじき振る舞いであるとして、盛親を追放してしまったのです。その実、家康は組下大名に対する恩賞を必要としており、どのみち盛親を許すはずも無かったのでしょうけどね。しかし、土佐を取り上げるための格好の口実を与えてしまった事は事実でした。

Renkouji0610158
(柳図子から東を望む。正面に見える緑は相国寺の森。左の壁は室町小学校。図子(ずし)とは辻子とも書き、京の町の再開発の中で生まれた道で、平安京に由来する東西、あるいは南北の通りを結ぶ連絡道として付けられた細道を指します。多くの場合はその道沿いにも町が成立し、町名ともなっています。)

土佐を追放された盛親は、名を大岩祐夢と改め、京都の柳図子に住まう事になりました。彼は天下の罪人であり、その身辺には常に京都所司代の監視の目が光っていたといいます。彼には元より収入は無く、わずかに旧臣からの仕送りで息を繋いでいました。しかし、その仕送りも途絶え勝ちで、やむなく彼はこの地で寺子屋を開く事にします。土佐24万石の大名だった盛親が、子供相手の寺子屋の師匠として露命を繋いだのでした。落ちぶれ果てたその姿は、しかし、徳川方の監視の目を誤魔化すには都合が良かったと思われます。

盛親が柳図子に住んで10余年の月日が流れました。天下は徳川家のものになったとは言え、まだ大阪城には豊臣氏が健在であり、争乱の種が消えた訳ではありませんでした。さらには大名の改易が相次ぎ、世間には主家を失った浪人が溢れ、世情は混迷の度合いを深めていました。かつて秀吉の死によって天下が乱れた様に、今度は家康の死と同時に天下が動くと予測されていたのです。この事を誰よりも知っていたのは家康自身でした。彼は自らの命が果てる前に徳川家の未来を盤石のものとするため、豊臣家を滅ぼしに掛かったのです。

家康は、豊臣家の莫大な財産を消費させる為に、秀頼に対して、長く続いた戦国の間に荒れ果てた神社仏閣を、その私費でもって修復する様に持ちかけていました。豊臣氏の名を高めるためという名目でしたが、今でも秀頼が修復したとされる社寺が各地に残っているのはこの為です。そしてその一つに、秀吉が開いた方広寺がありました。地震で崩れたまま放置されていた大仏殿の再建が成り、後は開眼法要を待つばかりになっていました。家康はその開眼法要に合わせて鋳造された鐘に刻まれた鐘銘に因縁を付け、豊臣氏に対して大阪城からの退去を迫まったのです。(方広寺鐘銘事件。)豊臣氏がこの要求を受け入れる筈もなく、東西の手切れが確実のものとなりました。

天下の権は徳川氏にあるものの、豊臣氏には秀吉が築いた大阪城と莫大な財産が残されており、天下に充満する浪人を集めれば、十分に対抗しうるだけの戦力にはなります。京都にあった盛親の下にも、豊臣方から誘いの手が伸びました。前の土佐太守という存在は大きく、彼が立てば長曽我部の遺臣が馳せ参じるであろうと期待されたからです。盛親は遂に決意し、豊臣氏に与する事に同意します。

彼は京都所司代の目を誤魔化すために、東西手切れにあたっては徳川方の陣を借り、功名手柄を立てたいと言って戦支度を始めました。そして、柳が図子を発って南に下り、そのまま大阪城に入ってしまったのでした。途中、彼の旗の下に長曽我部の遺臣が次々に集まり、大阪に着いた頃には数千もの軍勢に膨れあがっていたと言われます。

Renkouji06101510_1

1614年(慶長19年)11月に行われた大阪冬の陣は主として籠城戦であり、盛親の持ち場ではほとんど戦らしい戦はありませんでした。そのまま講和となり、一旦は戦は収まります。しかし、徳川方は約定を違えて大阪城の堀を全て埋めてしまった上で、豊臣氏に対して、浪人の追放か、あるいは国替えかの選択を迫りました。豊臣方は勝ち目が無くなったと知りつつ、再度の戦いを選びます。

翌1615年(元和元年)4月に始まった大阪夏の陣においては、盛親は5300の軍勢を率いて八尾方面の戦線を受け持ちました。そして、藤堂家の軍勢を相手に奮戦し、9分どおりまでこれを破ったのですが、あろう事か同じ戦線に居た木村重成の軍勢が井伊勢に敗れてしまいます。背腹に敵を受ける事となった長曽我部勢は戦線を支える事が出来ず、一敗地にまみれてしまったのでした。かろうじて大阪城に逃げ帰った盛親でしたが、手勢のほとんどを失っており、もはや戦う事はできませんでした。

盛親は大阪落城の際にも自害せず、脱出を試みています。いつか再起の日が来る事を信じて、落ち延びようとしたのですね。しかし、八幡にまで来た時に蜂須賀勢に捕らえられ、彼の身柄は二条城へと移されます。そして、見せしめの為に城外に晒された後、六条河原において斬首されたのでした。最後まで罪人扱いで、武士らしい切腹は認められなかったのですね。

Renkouji0610152

彼の身体は河原に放置され、首は三条河原に晒されました。この首を引き取って供養したのが当時の蓮光寺の住職であった蓮光和尚です。彼は寺子屋時代の盛親と親交があり、その縁で供養を申し出たのですね。写真はその蓮光寺に残る盛親の墓です。波乱の人生を送った盛親でしたが、今では境内の隅でひっそりと静かに眠っていました。

一豊とは対照的な運命を辿った盛親ですが、土佐においては今でも彼を慕う人が多いと聞きます。土佐人にとっては、長曽我部氏こそ誇るべき郷土の英雄なのですね。ドラマにおいては描かれる事は無いでしょうけれども、一豊の陰に回った盛親の足跡を辿ってみるのもまた一興ではないかと思います。


2006年10月13日 (金)

わくら葉@秋味ぶろぐ

Wakuraba0610127

そろそろ木々の葉も色づき始めてきましたが、本格的な紅葉までにはまだ早い。そこで一足先に、夕陽の色で染めてみました。

まだ緑が残るわくら葉も、こうしてみると晩秋の葉の様に見えません事?

2006年10月12日 (木)

京都・洛中 世継地蔵 ~上徳寺~

Yotugijizou0610111

河原町五条を下ったあたりには数多くの寺が集まり、周辺とは雰囲気が異なるちょっとした寺院街を形成しています。これはいわゆる寺町の南端にあたるからで、都市化が著しい五条以北の寺町通と違って、比較的往時の境内をそのまま維持している寺が多いためなのでしょう。

そんな中に、世継地蔵で知られる上徳寺があります。この寺は豊臣秀吉によって強制移動させられたという訳ではなく、1603年(慶長8年)に徳川家康によって建てられています。つまり、当時の都市計画に沿って最初から寺町の一角に寺域を定めて建立されたのですね。

この寺は塩竈山(えんそうざん)と号し、浄土宗に属しています。塩竈とは平安時代に源融の別荘であった河原の院に由来し、毎月30石の海水を難波から運んでは、奥州塩竈の塩焼きの風情を楽しんだという故事に因んでいます。この寺の墓地は周囲から一段低くなっており、池の跡とも言われている様ですね。ちなみに、ここの住職の名字も「塩竈」さんと言うのだそうです。

Yotugijizou0610112

寺伝によれば、家康の息女泰栄院とその生母上徳院(阿茶の局)の菩提を弔うため、伝誉蘇生上人を開山に請じて建立した寺と言われています。本堂は1753年(宝暦3年)建立の永観堂の祖師堂を移築したものとされ、堂内には江州矢橋の鞭崎八幡宮から移したといわれる阿弥陀如来像を安置しています。

しかし、この寺を有名にしているのはこの地蔵堂です。江戸時代の初め頃、この寺の信者が世継ぎ誕生を願って御堂に籠もったところ、その夢枕に地蔵が現れ「我を石に刻み祈念せよ」というお告げを下しました。信者がそのとおりにすると見事に世継ぎに恵まれたため、以後世継地蔵として世に知られる様になりました。現在の御堂は1871年(明治4年)の再建で、高さ二メートル余の石地蔵を安置しています。

Yotugijizou0610113

地蔵堂の周囲には数多くの絵馬が奉納されており、子宝に恵まれる事を願う人々の信仰を今も集めている事が窺えます。普段は静かな境内ですが、2月8日の「世継地蔵尊大祭」には各地から参拝者が数多く集まり、柴灯護摩供が修されて賑わうとの事です。

Yotugijizou0610115

山門を潜ってすぐ右側に、江戸時代の冠句の唱道者堀内雲鼓の句碑がありました。

「日のめぐみ うれしからずや 夏木立」

冠句とは俳句と同じ形式ですが、あらかじめ上の五文字が決められているという縛りがあり、江戸中期に庶民文芸として親しまれていました。堀内雲鼓はその冠句を広めたリーダーの一人だった人です。

その句碑の背後には柘榴の木が植えられてありました。ほとんど幹が枯れているという老木に見えますが、青々と葉が繁り、立派な実も成っています。傍らに延命長寿、吉相息災の柘榴という立て札があり、きっと昔から大切にされてきたのでしょうね。柘榴には子孫繁栄をもたらすという俗信があり、世継地蔵がある寺にはふさわしい木とも言えそうです。

2006年10月11日 (水)

京都・洛中 女人厄除け ~市比賣神社~

Ichihimejinjya0610111

河原町五条から下ったところに、女人厄除けという案内板があります。その案内板の下に御札下げ所があるのですが、神社そのものではない様です。ちょっと珍しいですが、神社の出店なのですね。では神社の在処はというと、通りから少し中に入った、ビルの谷間の様な場所にありました。

Ichihimejinjya0610112

市比賣神社(いちひめじんじゃ)に祀られている神様は全部で五柱(神大市比賣命、市寸島比賣命、多岐都比賣命、多紀理比賣命、下照比賣命)あるのですが、このどれもが女性なのですね。このことから、この神社は女性の守り神とされ、「女人厄除け」の神社として信仰を集めています。厄払い、良縁、子授け安産などに御利益があるそうですね。

小さな神社なのですが、女性からの人気はかなり高い様です。ここに居たのは15分足らずの間だったのですが、その間、次々と女性の参拝客が訪れて来ました。息子と二人だった私は、完全に周囲から浮いていましたっけ...。

ここで一番の人気を呼んでいるのが、この姫みくじだそうです。一体一体が手書きで作られた小さなダルマ型の人形で、中におみくじが仕込まれているのだそうです。そして、おみくじを見た後は願い事を書いて、ここ「天之真名井」の上に奉納する様ですね。一体600円ですが、女性の方、お一ついかがですか。

Ichihimejinjya0610113

市比賣神社はまた、市場の神様でもあります。平安時代には、この神社は堀川七条の辺りにあり、そこには官設の市場である「東市」があったことから、市場の守り神とされる様になったとの事です。こうした由緒から、昭和2年に日本で初めて京都に「中央卸売市場」が開設されたとき、構内に市比賣神社の分社「市姫神社」が祀られています。

Ichihimejinjya0610115

「天之真名井」(あめのまない)とは天安河(あめのやすかわ:高天原を流れる河)の中にあるとされる井戸の事で、ここではそれほどに神聖な井戸という意味でしょうね。皇室に御子が誕生した時は、この井戸の水を汲んで産湯に使ったと伝えられています。また、水を飲んで一つだけ願いをかけると叶うという、一願成就の井戸とも言われている様ですね。私も一口飲んでみたのですが、なるほど癖のない美味しい水でした。でも、せっかくなのに願い事をするのを忘れてましまった...。

ここの水は京都の七名水の一つとされ、マナー遵守を呼びかける掲示が大きく貼ってあるところを見ると、結構混み合う事がある様ですね。

市比賣神社
は、京阪五条駅から歩いて少しのところにあります。清水寺の帰りにでも、少し足を伸ばしてみてはいかがでしょうか。

2006年10月10日 (火)

京都・洛北 吉野大夫ゆかりの寺・常照寺

Jyousyouji0610101

鷹峯の地にある常照寺は、1616年(元和2年)に、本阿弥光悦による土地の寄進とその子光瑳の発願により、身延山第二十一世日蓮宗中輿の祖といわれる日乾上人を招いて、「鷹峯壇林」として開創されました。「壇林」とは学寮の事で、日蓮宗の僧侶が学ぶ学校という事ですね。最盛期には36もの堂宇が並び、数百人の学僧で賑わったと伝わります。日蓮宗徒としての光悦の本領が発揮された光景とも言えそうですね。

常照寺はまた、江戸初期の名妓とされる吉野大夫ゆかりの寺として知られます。吉野大夫は六条三筋町(東本願寺の北のあたり)にあった郭(島原の前身)にあって、和歌、連歌、俳句、書、茶湯、囲碁、双六など諸芸に秀で、また唐の国にまで聞こえるほどの美貌に恵まれたという才色兼備の人でした。大夫は光悦の縁故で日乾上人と出会い、その学徳に触れて門下に帰依します。そして23歳の時、自らの私財を投じて朱塗りの山門を寄進しました。その門が今に残るこの吉野門です。

Jyousyouji0610103

大夫は京都の豪商、灰屋紹益に身請けされ、その妻となりました。二人のロマンスは井原西鶴の「好色一代男」などに取り上げられ、世に知られる様になっています。大夫は38歳でこの世を去り、遺言によって常照寺に葬られました。

一方、夫の紹益は西陣にある立本寺に葬られています。二人の墓が離れ離れにある事を哀れに思った歌舞伎俳優の片岡仁左衛門らによって、昭和46年に二人の名を刻んだ比翼塚が建てられました。

また、境内には吉野大夫が好んだという吉野窓を配した茶席「遺芳庵」があります。残念ながら写真が上手く撮れてなかったのですが、同じ趣向の茶席が高台寺にもありますので、そちらを参考にして下さい。

Jyousyouji06101010

境内には、大夫を偲んで植えられた吉野桜が沢山あり、花の季節には見事な景色を見せてくれます。また、4月の第3日曜日には、吉野大夫の供養のために島原の大夫道中に依る墓参が行われ、また境内の各所に野点の席が設けられるという「花供養」が実施されています。宮本武蔵さえ諭したとされる吉野大夫は、今の世にあっても慕われ続けているのですね。

Jyousyouji0610108

吉野門を入ってすぐ右にある塚が「帯塚」です。昭和44年に築かれたもので、女性の心の象徴である帯に感謝するため、吉野大夫ゆかりのこの地に建立されてました。毎年5月には、帯供養や帯の時代風俗行列が営まれてます。

Jyousyouji0610107

常照寺はまた花の寺でもあるのですね。春の桜、初夏の紫陽花が有名ですが、今の季節は萩やコムラサキが見頃になっています。そんな中で見つけたのがこのシロバナホトトギス。普通のホトトギスの様に斑点が無いのでそれと判りにくいですが、花や葉の形を見ると確かに同じですね。吉野桜の林の下で、ひつそりと静かに咲いていました。

常照寺が一番賑わうのはまさにこれから、紅葉の季節ですね。境内には落葉樹が沢山植わっており、最盛期にはそれは見事な景色となる事でしょう。紅葉を求めて、光悦寺源光庵と合わせて訪れるには絶好のポイントだと思います。

2006年10月 9日 (月)

京都・洛北 仲秋の光悦寺

Kouetuji0610092
(参道)

源光庵から歩いてすぐのところに光悦寺があります。その名が示すように、桃山から江戸初期にかけて活躍した芸術家・本阿弥光悦ゆかりの寺です。

Kouetuji06100915
(大虚庵 光悦終焉の地と伝わる 大正4年の再建)

本阿弥家は代々刀剣鑑定、研磨、浄拭を生業とする家柄で、光悦は1558年(永禄元年)に光二の子として生まれました。幼名を次郎三郎と称し、長じてからは加賀前田家から200石の扶持を受け、禁裏を始め、将軍家、諸大名の御用を勤めてきました。その一方で、芸術に並々ならぬ才能を発揮し、作陶、書画、蒔絵、彫刻など幅広い分野において、いずれも一流の境地に達しています。中でも書家としては「寛政の三筆」として称えられるほどの能筆家で、その独特の書風は光悦流の名を今に残しています。

Kouetuji06100916
(光悦垣)

総合芸術家ともいうべき光悦は茶の湯にも通じ、織田有楽斎、千宗旦、古田織部などに師事し、その道を極めました。1615年(元和元年)に、その師の一人である古田織部が、大阪の陣において豊臣方に内通していたとの嫌疑を受けて切腹を命じられたことが、光悦の人生に大きな転機をもたらします。光悦は徳川家康より、鷹峯の地に九万坪の土地を拝領し、そこに一大芸術村を開いたのです。織部に連座して都から遠ざけられたとも、禁裏を初めとして都に多大な勢力を持っていた事を怖れられたとも言われますが、定かではありません。以後、亡くなるまでの20数年間、光悦は鷹峯の地にあって、創作三昧の日々を送ったのでした。

Kouetuji06100917
(本阿弥亭)

光悦の芸術村には、金工、陶工、蒔絵師、画家、筆屋、紙屋、織物屋などが結集し、実に56もの屋敷が並んでいたと言います。そこで培われた芸術は琳派として受け継がれ、俵屋宗達、尾形光琳、尾形乾山などによって元禄文化の中で花開く事になります。

Kouetuji06100918

光悦は1637年(寛永14年)に80歳の生涯を閉じました。その死後、光悦の屋敷は日蓮宗の光悦寺となり、現在に至っています。光悦は熱心な日蓮宗徒でもあったのですね。

境内には、茶の湯に通じた光悦の屋敷跡らしく七つの茶席が残されており、毎年11月10日から13日にかけて光悦忌茶会が開かれ、光悦の威徳が偲ばれています。

Kouetuji06100910

光悦の墓は、境内の一隅にありました。これだけの人物でありながら、その墓は実に質素なものなのですね。富商の家に生まれながら、決して私利私欲に走ることは無かったとされる光悦の人柄が偲ばれる様な気がします。

Kouetuji0610096

光悦寺を訪れたのは一昨日、平成18年10月7日の事で、そこかしこで深まりつつある秋の気配を感じる事が出来ました。大虚庵を巡る光悦垣の前には、小さな萩が綺麗な花を付けていました。膝丈ほどにしか伸びていませんでしたが、まだ苗だからなのか、こういう種類なのかどちらなのでしょうね。

Kouetuji06100911

こちらは、宝物館の前で咲いていた秋明菊です。八重咲きの花もあるのですね。花に止まっていた虻は、気温が低かったせいか、カメラのレンズを近づけても逃げようともしませんでした。

Kouetuji0610095

光悦寺はまた紅葉の名所として知られています。さすがにこの時期はまだほとんどの木が紅葉しておらず、緑のままでした。

Kouetuji0610091

そんな中で、既に色付き始めている木もありました。この木は参道の入り口にある木で、道路からも見ることが出来ます。染まり始めたばかりのオレンジ色が、何とも言えずに綺麗ですね。

Kouetuji06100912

境内の中では、光悦垣のあたりの木が染まり始めていました。緑の葉の中に赤い色があると、より一層鮮やかに感じます。

Kouetuji0610098

鷹峯を背景に色付いていたもみじです。この周辺ではこの木が一番綺麗に色付いていました。最盛期には背後の山も色付き、素晴らしい景色になる事でしょうね。

Kouetuji0610097

この日の天気は晩秋を思わせる不安定なもので、雨が降り出したかと思えば、わずか10分後には青空が広がるといった具合でした。男心と秋の空と言いますが、これほど目まぐるしく天気が変わる日も珍しいでしょうね。

Kouetuji06100913

光悦寺のもみじが本格的に紅葉するのはまだまだ先、11月に入ってからの事と思われます。それでもわずかながら見せて貰った紅葉は、素晴らしいシーズンの訪れを予感させるには十分なものでした。こういう色を見せられると、やはり心が騒ぎますね。

光悦寺の拝観料は300円。ただし、11月10日から13日までの間は拝観出来ませんので注意が必要です。


2006年10月 8日 (日)

京都・洛北 源光庵

Genkouan0610081

京都の北西隅、鷹峯の地にある源光庵。長く修理の為に拝観停止が続いていましたが、この10月1日より再開されたと聞いたので、早速出かけてきました。

Genkouan0610082

源光庵は1346年(貞和2年)に、臨済宗の大本山、大徳寺二代徹翁国師によって開創されました。その後一時衰えていた様ですが、1694年(元禄7年)に、加賀国の大乗寺二十七代卍山道白禅師によって再興され、これ以後曹洞宗に改まっています。

Genkouan0610083

本堂は元禄7年の創建で、卍山禅師に帰依した金沢の豪商、中田静家居士によって建立されたものです。端正な佇まいの本堂に、姿の良い赤松の巨木が見事に調和していますね。

Genkouan0610085

源光庵の境内には楓樹が多く、紅葉の名所として知られています。平成18年10月7日現在では、ほとんど木は緑のままでしたが、秋冷の空気の中で見る苔むした緑というのもまた良いものでした。

Genkouan06100811

源光庵の見所の一つは、本堂から庭に面して開けられたこの二つの窓にあります。本堂の廊下にはこの窓を観賞するための椅子が並べられており、正座が苦手な人でもじっくりと見ることが出来るように配慮されています。

Genkouan06100810

この四角い窓が「迷いの窓」。人間の生涯を象徴し、正老病死の四苦八苦を現しているとされます。

Genkouan0610088

こちらが「悟りの窓」。禅と円通の心を表し、円は大宇宙を表現するとされます。

これらの窓を見て何を感じるかは人それぞれでしょう。どちらもとても素敵な窓で、いつまで見ていても飽きないということは確かです。紅葉の頃にはさらに見事でしょうね。

Genkouan0610087

源光庵の廊下には、「血天井」があります。これまでにも正伝寺養源院と紹介して来ましたが、関ヶ原の戦いの際に家康によって捨て石にされ、伏見城で無惨にも命を落とした鳥井元忠以下の将兵の霊を慰めるため、切腹した彼等の血が染みこんだ板を寺の天井板に用い、日々読経によって供養されているのですね。廊下の奥には彼等のための祭壇がしつらえられています。

Genkouan06100812

源光庵は鷹峯の山裾にあって、野趣に富む寺です。その一方で、こんな練り塀の片隅に紅葉を散らすという、粋な演出もしているのですね。

源光庵に行くには市バスに依るしかなく、北大路バスターミナル発の北1号又は四条大宮発の6号に乗り、源光庵前で下車する事になります。正直言ってかなり不便で、多人数ならタクシーを利用するのが便利でしょう。一番のお勧めはレンタサイクルを利用することでしょうか。坂道が多いですけど、京都の郊外を風を切って走るのは、なかなかに楽しいものですよ。

2006年10月 7日 (土)

斉藤道三縁の寺 妙覚寺 ~功名が辻~

Myoukakuji0610071

織田信長の岳父にして、美濃の蝮と怖れられた斉藤道三。その道三が若い頃に修行に励んだとされるのがこの妙覚寺です。

Myoukakuji0610073

妙覚寺は日蓮宗の寺で、1378年(永和4年)に日実上人によって創建されました。初めは四条大宮、後に二条衣棚に移り、さらに秀吉の命により現在の地へと移転しています。ですから道三が修行したのは、二条衣棚にあった時代という事になりますね。

もっとも、最近の説では美濃の蝮は二人居たと言われ、妙覚寺で修行し、美濃国へ渡って累進したのは父の秀龍、その後を受けて美濃の国主となったのが秀龍の子道三であったとされます。法蓮坊と呼ばれたのは、果たして父と子のどちらだったのでしょうね。

信長は道三との縁があった故でしょうか、本能寺と共にこの妙覚寺を京都における宿所としていました。本能寺の変の際にはその嫡子信忠が宿にしており、信忠を狙った明智軍に襲撃されて焼き払われるという災難に見舞われています。

Myoukakuji0610077

道三・信長と縁のあった妙覚寺ですが、秀吉との縁もあって、この大門は聚楽第の裏門であったとも伝わっています。これだけ多くの戦国時代の英雄豪傑達と深く関わった寺というのも、そう多くはないでしょうね。

Myoukakuji0610076

これだけの歴史を持つ妙覚寺も、今は訪れる人もほとんど居ない様です。広大な境内はほとんどが駐車場か空き地になっており、がらんとした印象を受けます。名のある寺だけに、ちょっと寂しい光景ですね。そんな中でも庭木や花は手入れされており、由緒ある寺らしさをわずかに伝えていました。

Myoukakuji0610075

妙覚寺の拝観料は500円、ただし事前の予約が必要です。塀越しに見る客殿には楓の木が多く、紅葉時分にはさぞかし綺麗に色付く事でしょうね。洛中にあって紅葉が楽しめる貴重な寺とも言えそうです。

2006年10月 6日 (金)

京都 この秋限定の生八つ橋

Otabe0610061

今年も生八つ橋の秋期限定商品を、そこかしこで見かける様になりました。今年ゲットした限定品は、紫芋とつぶつぶ栗です。

Otabe0610062

つぶつぶ栗の方は、その名のとおり小さくクラッシュした栗が、餡の中に沢山入っています。程よい甘さで、栗の粒の歯触りが何とも言えずに良いです。万人に受ける味ですね。

特徴的なのは紫芋の方で、ぱっと見、餡が紫色をしています。それだけでも腰が引けてしまうのですが、思い切って食べてみると本当に芋なんですね、これが。見た目の奇抜さとは違って、味わいは素朴そのものでした。薩摩芋とはまた違う風味と食感があり、それでもちゃんと洗練された味になっているのはさすがと言えますね。

どちらも一度は食べてみる価値があると思いますよ。

2006年10月 5日 (木)

京都・洛中 巴の庭 ~本法寺~

Honpouji0610051

寺之内界隈には、素敵な花や素晴らしい庭があるのに、なぜかあまり世に知られていないという寺が幾つも存在します。この本法寺もその一つで、「巴の庭」という名庭を持ちながら、観光コースからは全くと言って良いほど外れてしまっている寺です。

Honpouji0610057

本法寺は日蓮宗の寺で、1436年(永享8年)に、東洞院綾小路の地において、日親上人によって開創されました。この日親上人という人は実に激しい人で、時の将軍足利義政の治世を非難し、さらには禅宗を捨てて日蓮宗に改宗する様に直談判を仕掛けたと言います。しかし、このことはかえって義政の逆鱗に触れてしまい、寺を焼かれた上に上人は投獄されてしまいした。義政の上人に対する怒りはすざまじく、焼けた鍋を頭に被せるという、ちょっと考えられないような刑罰をも与えています。それでも上人は屈することがなかったため、畏敬を込めて「鍋かむり上人」という別名で呼ばれる様になりました。

義政の死後日親上人は許され、御花園天皇から四条高倉の辺りに官地を賜って、1455年(康正元年)に本堂が再建されました。その後、寺域には変遷があって、一時は晴明神社のある場所に移転した事もあったようです。そして、1587年(天正15年)に豊臣秀吉の帰依を受け、現在の寺域と寺領千石を賜り、大寺と言って良い堂塔伽藍が整備されました。残念な事に、この頃の建物は天明の大火によってそのほとんどが失われており、現在見ることが出来る建物はその後に再建されたものです。

Honpouji0610058

この巴の庭は、江戸時代初期の芸術家として知られる本阿弥光悦の作と伝わります。光悦の作とされる庭はここ以外には無く、本阿弥家と本法寺との深い関わりを物語っています。本阿弥家とこの寺の縁は日親上人の代にまで遡り、上人が投獄された時、同じ獄に光悦の祖父にあたる本光が繋がれていました。獄中で上人に帰依した本光は、本法寺の檀家となり、寺の再建に力を尽くすようになったと言います。その孫である光悦もまた、その父光二と共に私財を投じて伽藍を建立し、さらにはこの庭を築いたのでした。

「巴の庭」とは、この石組みのあたりに築かれた三つの築山が、過去・現在・未来を象徴し、三つ巴に渦を巻くとされるところから来ています。(この事から「三つ巴の庭」とも呼ばれています。)石組みは滝を象っており、縦に白い筋が入った青石が水の流れを表しているとされます。

Honpouji0610056

庭の中央に丸い石がありますが、実はこれは半円形の石を二つ組み合わせたものなのですね。このため真ん中に筋が通っており、日蓮聖人の日の字を表したものとも言われます。そして、その背後にある蓮池と合わせて、「日蓮」と読ませるのだという説もありますが、いくら何でもそれはちょっと穿ちすぎの様ですね。

Honpouji0610053

この蓮池は10本の切石で囲まれており、地獄界から仏界までの十界を表すとされています。実のところ、滝の石組みは樹木の陰になっていてあまり目立たず、予備知識が無ければこの蓮池が庭の中心の様に思ってしまう事でしょうね。

また、本法寺には、長谷川等伯が描いた「仏涅槃図」があります。この絵は早世した等伯の息子の供養の為に描いたものとも言われ、縦約8m、横約5.3mという巨大なものです。普段は写真複製したものが飾られており、毎年3月15日から4月15日までの間だけ本物が公開されます。私が見たのは複製の方ですが、とにかくその巨大さに圧倒されてしまいました。そして落ち着きを取り戻して子細に見ていくと、釈迦の入滅を悲しむ人や動物の姿が克明に描かれているのが判ってきます。これを本物で観賞出来れば、どんなにか素晴らしい事でしょうね。

本法寺には優美な多宝塔もあるのですが、残念ながら解体修理中で、その姿を見る事は出来ませんでした。また機会を設けて、紅葉の頃か、あるいは桜が咲く頃にもう一度訪れてみたいと思っています。

拝観料500円。
拝観時間 午前9時から午後17時まで。


2006年10月 4日 (水)

京都・洛中 秋明菊の咲く寺 ~妙顕寺~

Myoukenji0610052

寺之内界隈の一角を占める妙顕寺は、1322年(元亨元年)に日像上人が後醍醐天皇から寺地を賜り、京都における日蓮宗の最初の道場として創建した寺です。1334年(建武元年)に勅願寺となり、同時に「四海泰平の精祈をこらすべし」との綸旨を賜ったことから、門前に「門下唯一勅願寺」、本堂に「四海唱導」と誇らしげに掲げられています。

Myoukenji0610055

妙顕寺は、以前は二条西洞院にあったのですが、豊臣秀吉の命によって現在の地に移転してきました。その後、天明の大火で堂塔伽藍を焼失し、現在見る事が出来る建物はその後に再建されたものです。

この本堂は15間四面の大きさを持つ立派なもので、1830年(天保元年)の上棟と伝えられます。左にある巨木はカイズカイブキ。刈り込みをしないと、こんなに立派に育つのですね。この木は京都市の銘木に指定されているとの事です。

Myoukenji0610051

妙顕寺に寄ったのは実は偶然の事で、門前に貼られた「門内の秋明菊が満開です」という告知文が目に付いたからでした。触れ込みに惹かれて門内に入ってみると、なるほど参道の両脇にはびっしりと秋明菊が植えられてあります。ただ、残念なことに満開と言うには程遠く、数輪の花が咲いている程度でした。

Myoukenji0610053

秋明菊の優しい色は、静かなお寺の雰囲気にはぴったりときますね。平成18年9月30日現在ではほとんどがつぼみの状態でしたから、これから暫くは見頃が続く事でしょう。恐らくは秋明菊の名所とは知られていないと思いますので、この花が好きな人にはお勧めの場所ですよ。

2006年10月 3日 (火)

京都・洛中 芙蓉の寺 ~妙蓮寺~

Myourenji0610031

京都で寺が連なる町並みと言えば、寺町通がまず思い浮かびます。この寺院街は豊臣秀吉に依る京都改造の際に形作られたのですが、実はこの時もう一つの寺院街も形成されていました。それが寺之内通と呼ばれる街路です。

Myourenji0610035

妙蓮寺は、その寺之内通にある日蓮宗の寺院の一つです。日蓮聖人の孫弟子にあたる日像聖人によって1294年(永仁2年)に開創された寺で、五条西洞院に始まり、四条堀川、堺、さらには大宮西北小路へと寺域を転々として来ました。ところがこの寺域も秀吉の聚楽第造営のために移転を余儀なくされ、現在の場所へと移ってきたのです。

Myourenji0610033

妙蓮寺は花の寺として知られ、この時期には沢山の芙蓉が咲き乱れています。これは一重の酔芙蓉。この写真を撮った時には昼近くになっていたのですが、花はまだ白いままでした。

Myourenji0610032

こちらは、ちょっと珍しいかも知れない八重の酔芙蓉です。この花はほんのりと色付き始めていますね。

この寺の芙蓉は門前から始まって、本堂の周辺を中心に、境内一円に咲き乱れていました。まさしく芙蓉の寺と呼ぶに相応しい光景でしたよ。

今回は芙蓉の観賞をメインに訪れたのですが、この寺には十六羅漢の庭という名庭があります。今回は時間が無くて拝観する事は出来なかったので、今度はその庭の観賞を主題として訪れてみたいと思っています。

(写真は全て平成18年9月30日の撮影です。)

2006年10月 2日 (月)

京都・洛中 相国寺塔頭・大光明寺

Daikoumyouji0610023_1

相国寺の方丈の西隣に建つ大光明寺。塔頭とは言いながら、相国寺とは別の歴史を辿ってきた寺です。

Daikoumyouji0610026_1

大光明寺は、1339年(暦応2年)に、後伏見天皇の皇后である広義門院によって開創されました。門院は夢窓疎石国師に深く帰依され、禅学を修されていました。そして帝が薨去されると落飾され、国師を開山に迎えて一堂を建立し、自らの法号をもって大光明寺と名付けられたのでした。

大光明寺は、当初は伏見桃山の地にあって伏見家の菩提寺とされていたのですが、応仁の乱によって荒廃してしまいます。その後、豊臣秀吉の手によって復興し、さらに1614年(慶長19年)に徳川家康によって現在地に移され、相国寺の塔頭となり現在に至っています。

Daikoumyouji0610025_2

大光明寺の門には柵がされており、一見して拝観拒絶の寺の様に見えます。しかし、右にある潜り戸が開いており、中に入ることが出来る様になっています。そして、建物の中は拝観する事が出来ませんが、二つある庭は自由に見ることが許されています。

門の中に入ってすぐにある庭が峨眉山の庭。黒々とした石と老松からなる枯山水の庭で、峨眉山の険しさと、禅の修行の厳しさを表しているとされます。

Daikoumyouji0610021_1

中門を入ると「心字の庭」が広がっています。「心字」とは、石組みの配置が心の文字を象った様に見えるところから名付けられましたもの。苔に縁取られた石が白砂の中に点在する、とても落ち着いた風情のある庭で、修行を経た後の悟りの境地を表すとされています。

Daikoumyouji0610022_1

「心字の庭」は、竜安寺の石庭にも似た枯山水の庭で、名庭と言えると思います。これだけの庭を自由に拝観出来るところは他には無いと言って良く、しかも如何にも門内に入りにくいからでしょうか、訪れる人はほとんど居らず、まさに穴場中の穴場ですね。

Daikoumyouji0610027_1

門を出て塀沿いに歩いていると、土塀越しに酔芙蓉が咲いていました。まだ朝のうちだったので、花は白いままですね。秋空に映えてとても綺麗でしたよ。

大光明寺は静かな寺で、方丈の縁側に座っていると聞こえてくるのは風の音と鳥の声だけです。時間の経つのも忘れ、何時までも眺めていたくなるような本当に素敵な庭でした。

拝観時間は6時から17時まで。拝観料は無料です。

2006年10月 1日 (日)

ねねの寺 高台寺 ~功名が辻~

Koudaiji06100111

豊臣秀吉亡き後、その菩提を弔うために北政所(ねね)が建てた寺が高台寺です。開創は1606年(慶長11年)の事で、大阪城に拠る淀殿~秀頼ラインに対する牽制の意味があったのでしょう、徳川家康が大規模な財政援助を行ない、壮大な規模を誇る寺に仕立て上げました。

その後の度重なる火災で多くの堂宇が失われ、かつ明治以後は税金対策の意味もあって境内地を次々に手放した為に現在の寺域にまで縮小してしまいましたが、石塀小路のあたりまでを含めて付近一帯が全て高台寺の境内であったと言えば、おおよその見当が付くことでしょう。

Koudaiji0610013

高台寺は、最初は曹洞宗の寺として始まったのですが、1624年(寛永元年)7月に建仁寺の三江紹益を中興開山に招聘し、臨済宗へと改宗しました。これは、北政所の兄である木下家定が三江紹益と親交があった事が関係していると考えられています。

Koudaiji0610012

北政所は秀吉の死後に出家し、「高台院湖月尼」と号しました。高台寺の名はここから来ている訳ですが、三江紹益を迎えたその年の9月に高台院は亡くなり、亡骸は境内の一角にある霊屋の下に葬られました。

この霊屋は1605年(慶長10年)の建立で、内部には中央の厨子に大随求菩薩を祀り、向かって右の厨子に秀吉像、左の厨子には北政所が片膝立座法をしている木像が安置されています。この膝を立てて座る姿は当時の高貴な女性の正式な作法とされていたものですが、そうとは知らない人がこれを見て「北政所は下賤の出であるが故に不作法な人だった」と言い立てて、一時期話題になった事もあります。なお、北政所は、この自身の木造の下に葬られているとの事です。

また、厨子や須弥壇には秋草や松竹などの華麗な蒔絵が施されており、安土桃山時代の漆工芸の粋を集めた傑作として、高台寺蒔絵の名で呼ばれています。

Koudaiji0610011

高台寺には、いくつかの茶室が現存しています。この遺芳庵は現在の見学コースでは最初に目にすることになる茶室で、安土桃山期の豪商である灰屋紹益が、その夫人の吉野太夫をしのんで建てたものと伝えられます。正面の壁全面に開けられた大きな丸窓が特徴で、婦人の名にちなんで吉野窓と呼ばれています。

Koudaiji0610016

こちらは、東の高台に立つ傘亭。千利休の意匠による茶席であり、伏見城から移築したと伝えられます。天井が竹で放射状に組まれており、その形が唐傘の様に見える事から傘亭と呼ばれています。正確には安閑窟といい、重要文化財に指定されています。

Koudaiji0610017

傘亭と並んで建っている時雨亭です。傘亭と同じく利休作と伝えられ、伏見城から移築したものとされています。茶室にしては珍しく2階建てになっており、茶席は2階にしつらえられています。茶会の時は写真の様に扉を全て開き、自然の風や音を感じながらお茶を頂くという趣向になっています。重要文化財。

Koudaiji06100110

実は、高台寺の中に入ったのは20年ぶりの事なのですが、すっかり観光化されているのには驚きました。以前は非公開が原則で、特別公開がある時にだけ入る事が出来たのです。常時公開になったのは10年ほど前からの事でしょうか。以来、周辺が急速に整備されて来たのは知っていましたが、内部も随分と手が入っていたのですね。優れた文化財に触れられるのは嬉しいのですが、あまりにも俗化されてしまうのもどうかなと思ってしまいます。

Koudaiji0610018

とは言え、庭園の素晴らしさには変わりなく、秋の紅葉シーズンを迎えれば、どんなにか見事だろうと思わずには居られません。もみじの色付く頃、もう一度ここを訪れてみようかなとも思っています。


« 2006年9月 | トップページ | 2006年11月 »

ねこづらどき

最近のトラックバック

無料ブログはココログ