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2006年8月

2006年8月31日 (木)

京都・洛北 大福梅の土用干し~北野天満宮~

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雲一つ無い夏空の下、北野天満宮を訪れてきました。上七軒から境内に入り、本殿で参拝をしていると、どこからともなく甘酸っぱい香りがしてきます。ふと後ろを振り向くと、なにやら赤い絨毯の様なものが...。

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正体はこれ、梅干しでした。

北野天満宮では、梅園を始めとして境内で採れた梅の実を塩漬けにし、年末に大福梅(おおふくうめ)として参拝者に授与しています。梅の実の収穫は全部で2.5トンから3トンあると言いますから、ちょっとしたものですね。

この大福梅は、普通の梅干しと違ってカラッカラに乾いているのが特徴で、7月の下旬から8月一杯にかけて、天日で干し上げられます。そしてこの後再び塩漬けにして熟成を待ち、11月下旬頃にやっと樽から取り出します。取り出された梅は6粒位ずつ、手のひら程度の大きさに切りそろえた裏白を添えて奉書紙で包まれ、これで大福梅の出来上がりとなります。そして、年末の事始めから終い天神の頃まで、一袋500円で社頭にて授与されます。この梅を新年に白湯に入れて戴くと招福息災が叶うとされており、縁起物として喜ばれているのですね。

夏のこの作業を土用干しと言い、毎日朝から夕方まで4週間程度干し続けるそうなのですが、出し入れだけでもかなりの手間でしょうね。今年は夏の訪れは遅かったけれど、その後は晴天続きだったのできっと良く乾いた事でしょう。出来上がった大福梅を頂きに、年末にまた寄ってみようかなと思ってます。


2006年8月30日 (水)

京都・洛東 ムクゲ、花盛り ~真如堂~

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真如堂のムクゲが花盛りを迎えています。まだ暑すぎるのか今ひとつという感じがするのですが、やはり山門前に咲くこの花は、真如堂ならではの景色を見せてくれますね。

これから9月にかけてさらに美しさを増す事でしょう。彼岸花が咲く頃に、一緒に見るのを楽しみにしています。

2006年8月29日 (火)

京都・洛東 つくつくぼ-し ばかりなり ~真如堂~

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つくつくぼーし つくつくぼーし ばかりなり  子規

真如堂の塔頭「吉祥院」の副住職が発信されている「苦沙彌のインターネット僧坊」に、こんな俳句が紹介されていました。何だこれはと思ったのですが、調べてみると子規が自らの病床の日々を綴った「仰臥漫録」に出てくる俳句なのですね。詠まれた日は9月11日となっており、子規庵の庭は、つくつくぼうしの声で溢れんばかりだったのでしょう。

こんな情景に会ってみたいと、真如堂を訪れてきました。昼下がりの真如堂は人影も少なく、聞こえるのは確かにつくつくぼうしの声ばかりです。境内が広いせいか子規が辟易した程ではないですけどね。

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藤棚にはつくつくぼうしの抜け殻がありました。大柄なクマゼミに比べると、随分と可愛らしいのですね。この小さな身体で、よくあれだけ大きな声で鳴けたものです。声がちょっとかん高いから、余計に子規の耳に付いたのでしょう。

つくつくぼうしの鳴き声と共に、夏から秋へと季節は移りゆきます。

2006年8月28日 (月)

京都・洛東 小さな、秋の気配 ~迎称寺~

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真如堂の北隣、萩の名所として知られる迎称寺。門前の萩は夏の日差しを浴びて、花の季節を前に青々と生い茂っていました。

その中に咲いていた紅一輪。夏の終わりに見つけた、小さな秋の始まりです。

2006年8月27日 (日)

北野大茶湯之址 ~功名が辻~

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1587年(天正15年)10月1日、京都の北野天満宮において、豊臣秀吉の主催に依る大茶会が催されました。九州平定と聚楽第造営を記念して開催されたこの茶会は、豊臣政権膝下の大名や公家は無論のこと、町人や農民にまで参加を呼びかけた大規模なものでした。

「茶湯執心においては、また若党、町人、百姓以下によらず、釜一つ、つるべ一つ、呑物一つ、茶なきものは焦がしにても苦しからず」(定御茶湯之事)

こう記された触書が7月28日から洛中・畿内に掲示され、これに応じて各地から茶人が集い、当日は天満宮の境内に1500もの茶席が立ったと伝えられています。

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茶席が立ったのは、この門前に広がっていた松原の中でした。一席あたりの広さは畳二畳分ながら、道の両脇にびっしりと茶席が並んでいました。現在ここには、冒頭に掲げた「北野大茶湯之址」と記した石碑のほか、太閤井戸などが残っています。

秀吉は本殿に大阪城から運んだ黄金の茶室をしつらえ、自ら亭主を務めて800人の家臣に自ら茶を点じたと言います。同時に自慢の茶器が披露され、秀吉の得意も絶頂に達しっていた事でしょう。この茶会は当初は10日間行われる予定でしたが、佐々成政の領国、肥後国で一揆が発生したため、わずか一日で切り上げられてしまいました。

豊臣政権の威光を示すために開催された北野大茶湯でしたが、同時に桃山文化の粋を集めた一大イベントでもありました。後に隆盛を迎える庶民芸術の基調となったとも、また茶道を世に広めるきっかけとなったとも言われます。現在北野天満宮では、この茶会にちなんで毎年12月1日に献茶会が開催されています。

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この茶会は、天満宮の周辺の地にもその名残を止めています。

この上七軒は、室町時代に北野天満宮の修造が行われた時に、余った建材で七軒の茶店が作られた事に起源があります。そして、この北野大茶会の際にみたらしだんごを献上したところ、それが秀吉によって激賞され、日本で最初の公許茶屋として認められる事になりました。以来、京都で最も古い花街として栄え、西陣の繁栄と共に現在に至っています。またこのことから、上七軒ではみたらしだんごを象った5つの団子の紋章が用いられるようになっています。

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北野天満宮の東、千本今出川西入るにある浄土院には、北野大茶湯の時のエピソードが伝えられています。

秀吉が当日の朝北野に向かう途中、この寺に立ち寄り、お茶を所望しました。住職は一杯目のお茶を出したのですが、秀吉は続けて二杯目を所望します。世に知られた茶人でもある秀吉に自分の未熟なお茶を出すのは失礼でもあり、恥ずかしいことであると考えた就職は、いっそこの寺に湧き出る銀水という名水をそのまま味わっていただこうと考え、沸かしただけの白湯を出しました。秀吉はお茶のおかわりを頼んだはずなのに出て来たのは白湯である事に驚き、再度お茶のお代わりを頼みました。ところが出て来たのはまた白湯で、秀吉も意地になって何度もお代わりを頼んだのですが、その都度出来たのは白湯ばかりでした。秀吉はそのうちに住職の想いを悟り、笑いながら「この寺では、お茶を頼んでいるのに白湯ばかり出して、お茶をくれん。湯たくさん茶くれん。」と言いました。以後、この寺は「湯たく山茶くれん寺」と呼ばれるようになったと伝えられています。

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この同じ「湯たく山茶くれん寺」のエピソードを持つ寺は八幡市橋本にもあります。正確にはあったというべきですが、常徳寺という寺がそれで、この寺は秀吉の帰依を受け、20石の領地を受けていました。内容はほぼ同じで、秀吉から茶を所望された住職が、自らの茶の未熟を恥じて白湯を出したところ、秀吉からこの名を頂戴したと言われます。残念ながらこの常徳寺は1813年(文化10年)正月に焼失しており、現在は京阪橋本駅前に石碑だけが残されています。

2006年8月26日 (土)

京都・洛北 黄金色の漣 ~宝ヶ池~

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日暮らしの声を求めての散歩は続きます。鷺森神社を出て、今度は宝ヶ池を目指しました。歩きだと少し遠いですが、そこは自転車だけに機動力があります。池に着いたのは午後5時30分頃。ここに来てやっと日暮らしの声と出会う事が出来ました。林の中に居ると、まさに降るがごとしの蝉時雨。この声を聞くと、如何にも夏の夕暮れという気がするのですよね。

日暮れ時の宝ヶ池には、虫取りに来た親子連れ、ジョギングにいそしむ人々、散歩に来た近所の人達など、大勢の人が訪れていました。ここはとても広いですから、混雑するほどでは無かったですけどね。

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池を一巡りしての帰り際、ふと見ると水面が黄金色に染まっていました。水面を渡る風を感じながら、昼間の暑さも忘れて暫く見入ってしまいます。なぜだか、ほっとするような景色ですね。

2006年8月25日 (金)

京都・洛北 晩夏 ~鷺森神社~

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日暮らしの声を求めての散歩道、曼殊院を出た後は鷺森神社へと向かいます。途中、少しだけ聞こえた日暮らしの鳴き声を背に、神社の境内へと入りました。

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鷺森神社は、周辺に田畑や家並が広がっている中で、その名の通り森としての茂みを残しています。秋には紅葉が綺麗なこの森も、この季節は青々とした緑で溢れかえっていました。ここなら降るような日暮らしの蝉時雨に出会えるはず...。

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ところが案に相違して、聞こえるのはツクツクボウシの声ばかり。まだ少し時間が早いのかしらん?

境内を歩いていると、足下から虫が飛び立ちます。ハンミョウ、別名「道案内」ですね。最近はすっかり少なくなったと思っていたのですが、この境内には沢山のハンミョウが生息していました。逃げない様に、なるべくそっと近づいて撮ってみたけれど、ちょっと暗くて上手く行かなかったですね。でも、綺麗な体色は判るでしょう?

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地面から眼を離し、ふと空を見上げれば秋の雲。夏の終わりを感じた一瞬でした。

2006年8月24日 (木)

キヤノン EOS Kiss Digital X 発表

キヤノン EOS Kiss Digital X が発表になりました。私も使っているEOS Kiss Digital Nの後継機ですからどんな具合になるのかなと注目していたのですが、1000万画素を越えてきたのですね。

キヤノンについては、今年3月の30Dの発表時に、現状の技術においては、APSCフォーマットでは800万画素がベストバランスという事で、前モデルの20Dと同じ画素数に押さえたという経緯があります。しかし、最近のデジタル一眼レフカメラでは、ニコンのD200に始まって、ソニーのα100、ニコンのD80と1000万画素越えが当然の様になっていましたから、キヤノンもそれに追随せざるを得なかったという事なのでしょう。

ここで気になるのが画質ですが、サンプルを見る限り確かに解像度は上がっている様です。細かいところまではっきりと綺麗に映っていますからね。全体の印象としては、現行機と同じ傾向の絵作りと言えそうです。映像エンジンが同じ「DIGIC Ⅱ」ですから、当然なのでしょうけどね。

ただ、他の1000万画素機で問題になっている高感度時のノイズの程度は、どうなったのかは判りません。フルサイズで見られるサンプルは、ISO100か200までしか無いですからね。キヤノンのリリースに拠れば、高感度時にも低ノイズを実現したとありますが、実際はどうなのでしょう?そこが犠牲になってしまったのでは、何のために画素数を上げたのか判らなくなってしまいますね。

個人的には、200万画素の違いは大した魅力には感じません。画像が劇的に綺麗になっていれば別ですけど、それほどの大差は無いという印象ですからね。この点については、次に出てくるであろう「DIGIC Ⅲ」搭載機に期待でしょうか。

EOS Kiss Digital X のもう一つの魅力は、センサーダスト対策「EOS Integrated Cleaning System」ですね。こちらは、デジタル一眼の宿阿とも言うべき撮像素子に付着するゴミを落とすシステムの事です。このゴミ取りについてはオリンパスが先鞭を付け、ソニー、パナソニックがこれに追随していましたが、やっとキヤノンでも実現してきましたね。キヤノンのリリースに拠れば、カメラ内部の機構と素材を見直す事によってゴミの発生を抑え、さらに撮像素子そのものの静電気の発生を抑制したとあります。そして、それでも付いてしまったゴミは超音波振動でふるい落とし、万が一写り込んでしまったゴミの影はソフト的に修正するという、かなり念の入った対策を取ってきた様ですね。

これは、正直言ってうらやましいです。と言うか、これまで放置されて来たのがおかしいと言うべきなのかな。これがあれば、少々風が吹いているくらいなら、レンズを交換する事をためらう必要がなくなりますね。今は風が止むのを待つとか、バッグの中でゴソゴソと代えるとか、かなりの気を遣ってますから...。せめて、ソフトの部分だけでも、ファームウェアと現像ソフトであるDPPのバージョンアップで対応して貰えないものなのかしらん。

オートフォーカス機構は、上級機である30Dと同等になりました。現行機のオートフォーカスが悪いという話をよく聞きますが、私の場合中央一点がほとんどという事もあってか、そんなに酷いと思った事はありません。それでも、弱点と言われたところを改善してくるのは、さすがキヤノンと言うべきなのでしょうね。

あと、背後の液晶も大型化されました。これも見やすくて良さそうですけど、カメラの設定確認と画像再生時の切り替えはどうやるのでしょうね。一々切り替えなければいけないとすれば、ちょっと面倒になった様な気もします。

キスデジの最大の難点であるファインダーの見え具合は、どうやら改善されていない様です。ここが良くなっていれば恐らく最強の入門機と言えるのでしょうけど、9点オートフォーカスの説明ページにある写真を見る限り、従来と変わっていない様です。スペック上の倍率も0.8倍のままですしね。ここはコストパフォーマンスとのかね合い上、どうしようもない部分なのでしょうか。これはやはり大きなマイナスポイントと言わざるを得ないでしょう。

他にマイナスポイントを上げるとすれば、重量が若干増えたこと、電池の保ちが悪くなった事でしょうか。電池に関しては、現行の400枚から360枚に後退していますね。私の現行機では、撮り方にも依るでしょうけど、1日でほぼ1個を使い切っており、予備電源の携行は必須です。ここが悪くなったというのは、あまり頂けない結果ではあります。

さて、これで有力所のデジタル一眼の最新入門機がほぼ出そろった様です。ソニーのα100、ニコンのD80、ペンタックスのK100Dと、面白いところが並びました。ここまではKiss Digital N の圧勝が続いていましたが、これから先はどうなるのでしょうか。カメラとしてのバランスの良さを考えると、再びKiss Digital Xが売れそうな予感がしますけど、どんなものでしょうね。私としては色んな機種があったほうが望ましいので、あまりに極端な寡占状態にはなって欲しくはありません。各メーカーとも頑張って切磋琢磨して欲しいと思ってます。(あとオリンパスは、E500のまんまかなあ...。)

ちなみに、初値は89,800円(ボディのみ)。私は今回は見送りですね。何故って、そんなに予算がありませんから...。節約を重ねて、この次を狙います。

2006年8月23日 (水)

京都・洛北 夏の終わりに~曼殊院~

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日暮らしの声が聞きたくて、夏の午後遅くに訪れた曼殊院。時刻は午後4時25分と、拝観受付の終了直前でした。夕焼けには早いものの、日はすっかり西に傾いています。

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夏の終わりとはいえ、まだまだ暑いですね。この日はレンタサイクルを借りて走って来たのですが、曼殊院に着いた頃には汗だくになっていました。

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曼殊院には、当然ながらエアコンなんてありません。ところが、縁側にじっと座っていると、実に快適な風が吹いて来るのです。開け放した扉から扉へと、部屋の中を風が吹き抜けていくのですね。暫くする内に汗もすっかり引いてしまいました。日本の伝統的な家屋は夏を快適に過ごせる様に作られていると言いますが、それが実感出来た一時です。

日暮らしが鳴き出すには少し時間が早かった様で、聞こえるのはツクツクボウシの声と、梢を鳴らす風の音ばかり。でも、空の色といい、やはり秋の訪れは近い様ですね。

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出来ればもっとゆっくりして行きたかったのですが、残念ながら拝観時間は5時までしかありません。仕方が無いと帰り掛けた玄関には、蓮の花が咲いていました。既に盛りが過ぎているところが多いと思いますが、ここはまだつぼみがいくつか残っていますね。

次に曼殊院に来るのは、やっぱり紅葉の季節かな。去年は少し遅めに来たので、今年は紅葉の盛りの頃に来たいと思ってます。

2006年8月22日 (火)

坂の上の雲の世界 ~子規堂・子規記念博物館・秋山兄弟誕生地~

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「坂の上の雲」の主人公の一人である正岡子規は、俳句や短歌の革新を手がけた事を始めとして、日本文学史上に大きな足跡を残した人物でした。松山において彼の足跡を辿るとすれば、まず子規堂から始める事になるでしょう。

子規堂は、子規の生家の一部を保存復元したものであり、正宗寺という寺の境内に建っています。これは子規の文学仲間であった正宗寺住職の仏海禅師が子規の業績を記念するために移設したもので、実際の生家跡には石碑が建っている様ですね。

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これは子規堂の入り口にある旅立ちの像。子規が松山を発ち東京に向ったのは1883年(明治16年)6月の事で、この時子規は17歳でした。この像はその旅立ちの日の朝に、草鞋を結ぶ子規の姿とされます。この像には元になった写真があり、後年箱根を旅した時の姿の様をモデルにしている様ですね。

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子規堂には多くの資料が展示されていますが、坂の上の雲との関連で言えばこの書斎でしょうか。小説では松山中学において友達となった秋山真之を、子規が自宅に招く場面で登場しています。まだ中学生に過ぎない子規が既に自分の書斎を持っている事に真之が驚くのですが、実際にはわずか三畳に過ぎず、この頃の士族の暮らし向きが窺えるエピソードですね。この部屋で子規は、貸本を借りては写本をし、自らの蔵書を増やして行ったと言います。ここはまさに子規の原点となった場所と言うべきなのでしょう。

子規堂は入場料50円。ここには子規堂の他にも、坊っちゃん列車の客車、子規の遺髪を納めた「子規居士髪塔」などがあります。松山市駅からほど近かく、一度は訪れておきたい場所ですね。

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子規堂以上に子規の資料を豊富に有しているのが「松山市立子規記念博物館」です。ここを訪れれば子規の全てが判ると言っても過言ではないほど、展示の内容は充実しています。仮に細かい資料を読まなくてもビデオがいくつもあって、それを見ているだけでも子規の事、明治の日本の事が判る仕組みになっています。少し時間を多めに取って、じっくり見て回る事をお勧めします。場所は道後公園の一角にあり、道後温泉に立ち寄るついでに訪れるのも良いでしょう。入館料は400円、高校生以下は無料です。休刊日は年末及び月曜日又は休日の翌日。

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こちらは、坂の上の雲の後二人の主人公、秋山好古と真之兄弟の誕生の地です。

好古は日本騎兵の父と呼ばれた人で、日露戦争において当時世界最強と謳われたロシアのコサック騎兵を相手に回し、見事に勝利を納めた事で知られています。陸軍大将にまで昇進し、退役後は故郷の北予中学の校長を務めました。この写真ではちょっと判りませんが、非常に個性的な顔つきで、日本人と言うより中国の大人を思わせる様な独特の風貌の持ち主ですね。いかにも明治の日本に生きたというに相応しい、強靱な人格を持っていた人物という気がします。

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こちらは、弟の真之の像です。真之は、日露戦争における連合艦隊の主任参謀として東郷平八郎を補佐し、日本海軍を勝利に導いた人として知られます。バルチック艦隊発見の報告電報に「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」と加えたエピソードでも知られますが、これは「荒波の為に水雷艇などの小型船舶は出撃出来ず、主力艦だけで出撃する」旨を簡潔に伝えた名文とも言われます。真之の風貌は兄とは違ってとても秀麗で、いかにも参謀にふさわしい明晰な頭脳の持ち主であった事を窺わせます。

秋山兄弟の生家は戦災によって焼失しましたが、平成16年に再建され公開されています。わずか4間がある小さな家に過ぎませんが、下級武士の家に生まれながら大志を抱いて上京して行った秋山兄弟を偲ぶには、丁度良い場所かも知れません。場所は松山城ロープウェイ乗り場からすぐ近く、休館日は年末年始及び月曜日となっています。入館料は大人200円、高校生以下は無料です。

2006年8月21日 (月)

残暑お見舞い申し上げます@夏っちゃんぶろぐ

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8月も20日を過ぎたというのに、相変わらず暑い日が続きますね。それに雨がほとんど降らないから、地面がカラッカラに乾いています。まさに酷暑の夏。

でも、心なしか蝉の声が段々と少なくなって来ている気がします。それに、日々訪れが早くなっている日暮れ時。確実に夏の終わりが近づいているのが判りますね。

ここ淀城では、逝く夏を惜しむかの様にアブラゼミが懸命に鳴いていました。その蝉しぐれの主役もいつしかツクツクボウシとなり、やがて秋風に変わります。過ぎていく夏。

季節が変わろうとする時は、いつもどこか寂しい気がしますね。

2006年8月20日 (日)

淀城跡 ~功名が辻~

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浅井長政とお市の方の娘にして、豊臣秀頼の母となった茶々。その通称である淀殿の名は、京都の南郊にある淀の地に城を賜った事からそう呼ばれる様になりました。

現在目にする事が出来る淀城は1623年(元和9年)に松平定綱によって築かれたもので、淀殿が居た城とは直接関係がありません。京都に対する押さえとして重要な役割を担ったこの城も、明治維新以後、城の建物は全て破却され、現在では堀と石垣の一部を残すのみとなっています。内部は児童公園があるだけで、荒れた感じのする寂しい城跡ですね。これまでも石垣の補修など保存のための手入れはされている様ですが、もう少しどうにかすれば良いのにとここを訪れるたびに思ってしまいます。しかし、どうやら京阪淀駅の立体化工事にあわせて整備する計画が立てられているようですね。どんな具合に生まれ変わるのか、今から楽しみです。

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淀殿が居た淀城は、今の城跡より500mほど北に行った納所(のうそ)という場所にあったと推定されています。城の遺構は全く残されておらず、妙教寺という寺にある石碑だけが、わずかにその存在を伝えています。

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これがその石碑で、現在の淀城と区別するために「淀古城」と呼ばれている事が判りますね。ここには、淀殿の城が築かれる前に、戦国時代に築かれた城がありました。石碑には、戦国時代の初めに細川管領家が築いたとあり、その後三好三人衆の一人である岩成友通の居城となり、さらに淀殿が住んだとあります。実際にはこの間に、山崎の合戦の際に明智光秀が拠点の一つとした事もありました。

淀殿がここに住んだのは1589年(天正17年)の事で、最初の子供である鶴松(お捨)を産むための城として与えられました。豊臣秀長によって修復が行われたとされるこの城は、産所とは言いながらも天守を持つ本格的なもので、近年の調査により城下町も形成されていたらしい事が判って来ました。石碑のある場所は、その本丸があった場所だと伝えられていますが、実際にどうだったかまでは定かではありません。

秀吉の後嗣の母となり淀殿と呼ばれる様になった茶々でしたが、鶴松はわずか3歳でこの世を去り、失意の淀殿は淀城を後にして大阪城へと移り住みました。主を無くした城は1594年(文禄3年)に廃城となり、城の廃材は伏見城の建材として流用されたと言います。

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妙教寺には、幕末の鳥羽伏見の戦いの際に東軍が放った砲弾の弾痕が残る柱などもあり、幕末史のファンにとっても是非押さえておきたい場所でもあります。ちょっと入り組んでいて判りにくい場所にあるのですが、付近には旧鳥羽街道の雰囲気が多分に残っており、昔の旅人気分で散策してみるのも良いと思いますよ。

2006年8月19日 (土)

坂の上の雲の世界 ~愚陀佛庵~

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今松山を訪れると、『「坂の上の雲」を軸とした21世紀のまちづくり』というフレーズを良く耳にします。司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」に登場する3人の松山人、正岡子規、秋山好古、秋山真之の生き様を軸にして、日本一の街作りを目指そうという動きです。具体的には、市内各所にある関連箇所をピックアップし、有機的に関連づける事によって町おこしに繋げようと言うのですね。屋根のないミュージアムというのがキャッチフレーズになっていますが、単なる観光客誘致だけではなく、市民の意識向上から教育環境の改善に至るまでを含んだ、大々的な構想なのですね。これは2008年に放送が予定されているNHKの21世紀スペシャル大河「坂の上の雲」とも連動している様です。

その拠点となるのが松山城周辺のフィールドミュージアムセンターフィールド。松山地方裁判所の東隣に建設されている坂の上の雲ミュージアムが、この構想の中心施設となります。このミュージアムは単なる小説の展示場に止まらず、市内の関連施設に関する情報発信の場として位置づけられている様ですね。総工費30億円と言いますから、さぞかし見事な施設が出来上がる事でしょう。

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このミュージアムに隣接してあるのが「萬緑荘」と「愚陀佛庵」です。「愚陀佛庵」とは、夏目漱石が松山赴任中に下宿していた家の事で、漱石の別号から名付けられたものです。元は二番町という市街地にあり、上野義方宅の離れとして建てられた家でした。漱石は1895年(明治28年)の6月に移って以来、翌年4月に熊本へ転任して行くまでここに住みました。

「愚陀佛は 主人の名なり 冬籠」 漱石

この愚陀佛庵で特筆すべきなのは、漱石と子規が同居していた事実がある事です。子規は明治28年3月から日清戦争の従軍記者として中国に渡っていましたが、その帰りの船中で結核を発病し、兵庫県の須磨の地で療養を余儀なくされていました。そして、わずかに体力の回復を見たため、故郷の松山にて療養生活を続けるべく帰郷します。しかし、すでに子規の実家は人手に渡っていたため、漱石の勧めでその下宿に転がり込んだのでした。同年8月27日の事で、それから52日間に渡る共同生活が始まったのです。

「桔梗生けて しばらく仮の 書斎哉」 子規

愚陀佛庵では、2階に漱石、1階に子規が暮らしていました。この頃すでに子規は俳壇で重きをなしており、松山の俳句結社「松風会」の同人が子規を慕って連日のごとく訪れてきました。そのあまりの賑やかさに漱石は迷惑だった様ですが、次第に自身もその輪の中に入り、俳句の道に目覚めていった様ですね。10月29日、子規は療養生活を切り上げて松山から東京へと向かい、二人の共同生活は終わりを告げました。この間の様子は「坂の上の雲」にも描かれており、親分肌の子規に翻弄されつつも、親友との生活を楽しむ漱石の様子が活写されています。

明治の文壇に偉大な足跡を残した二人が暮らした愚陀佛庵は、残念ながら昭和20年7月の松山大空襲により焼失してしまいました。今の建物は昭和57年に再建されたもので、漱石が最初に下宿した「愛松亭」跡にほど近い現在の位置が選定され、愚陀佛庵に関する各種の資料を駆使して、細部に至るまで忠実に再現されているとの事です。なお、子規記念博物館においても、再現された愚陀佛庵を見る事が出来ます。

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愚陀佛庵が建っているのは、萬翠荘の敷地にあたります。萬翠荘とは、旧松山藩の子孫にあたる久松定謨伯爵が、別邸として建てたものでした。1922年(大正11年)の建築で、愛媛県庁なども手がけた木子七郎という人の設計になります。鉄筋コンクリート造で、地上3階、地下1階、純フランス風という外観はなかなか見事なものがありますね。

現在は愛媛県美術館分館郷土美術館となっており、主として郷土出身の美術家を顕彰する展示会が開かれています。

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館内の一階部分は無料で公開されており、大正ロマンの香りのする洋館の雰囲気を味わう事が出来ます。このステンドグラスは階段の踊り場の壁面に嵌められているもので、ハワイから輸入したものだそうですね。何故ハワイに特注したのかは判りませんが、玄関から入ってすぐのところにあり、一際目を惹く見事なものです。

「坂の上の雲」は司馬作品の中でも傑作の一つで、青年期にあった日本の苦悩と、苦闘の果てにようやくたどり着いた栄光が描かれています。松山も、向上心に溢れる明治の日本の精神にあやかって街作りを進めようとしており、大河ドラマの放映時には大勢の観光客で賑わう事でしょうね。ただ一点、このキャンペーンが戦争賛美の方向に向かわないかだけが気掛かりです。

2006年8月18日 (金)

坊ちゃんの世界 ~五志喜~

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「ある日の晩大町と云う所を散歩していたら郵便局の隣りに蕎麦とかいて、下に東京と注を加えた看板があった。おれは蕎麦が大好きである。東京に居った時でも蕎麦屋の前を通って薬味の香いをかぐと、どうしても暖簾がくぐりたくなった。今日までは数学と骨董で蕎麦を忘れていたが、こうして看板を見ると素通りが出来なくなる。ついでだから一杯食って行こうと思って上がり込んだ。」(夏目漱石 「坊ちゃん」より)

大街道からほど近いところに松山中央郵便局があります。その隣にあるのは蕎麦屋ではなく、五色素麺で知られる「五志喜」という郷土料理の店でした。創業300年近くになるという老舗であり、漱石もきっとここを知っていた事でしょう。同じ麺類から蕎麦屋を連想したと言う説は、ちょっと無理があるかなあ...。

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五色素麺とは白の素麺をベースに、黄(卵)、緑(抹茶)、赤(梅肉)、茶(蕎麦)の色を付けたもので、器によそうと五色が絡み合って、とてもカラフルにかつ涼しげに見えます。正岡子規は、「文月のものよ五色の絲そうめん」と詠んでおり、昔から夏の風物詩として定着していた様ですね。

この日頂いたのは「鯛飯そうめん」の松です。「鯛めし」もまた松山の郷土料理なのですね。宿泊先の古湧園の夕食でも出てきましたが、洗練された味わいの古湧園に対し、こちらはいかにも郷土料理らしい素朴な味わいです。どちらが上と言う訳ではなく、両方が味わえたのはついていたと思います。五色そうめんもまた見た目が美しく、そしてなかなか美味しかったですよ。

ちょっと面白いと思ったのが、「松」「竹」「梅」の3ランクがあった場合、大阪周辺では「松」が一番上に来るのですが、ここでは一番下になるのですね。このランク付けが地方によって違いがあるというのは初めて知りました。

この日は平日だったのですが、五志喜には観光客ばかりでなく、近くの勤め人と思われる人達も昼食を食べに訪れていました。古くから松山に根付いた店らしく、地元の人から今も愛され続けているのですね。

2006年8月17日 (木)

坊ちゃんの世界 ~道後温泉~

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「ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが温泉だけは立派なものだ。せっかく来たものだから毎日はいってやろうという気で、晩飯前に運動かたがた出掛る。」(夏目漱石 「坊ちゃん」より)

漱石をしてこう言わしめた道後温泉本館の夜の佇まいです。この建物が完成したのは1894年(明治27年)の事で、漱石が松山に赴任する前年の事でした。当時の道後温泉町の町長であった伊佐庭如矢が、温泉客の誘致を目的として13万5千円という巨費を掛けて築き上げたです。松山中学一の高給取りであった漱石の月給が80円ですから、いかに巨額であったかが判るというものでしょう。あまりの高額さに周囲は猛反対に転じ、伊佐庭町長は命の危険すら感じたと言いますから相当なものだった様ですね。

いわば現在のテーマパークの走りとでも言うべきものですが、今や松山の顔として誰一人知らない者はないという状況を鑑みれば、伊佐庭町長の賭けは大成功に終わったと言えそうですね。この町長は、本館の建設と併せて松山市内から道後温泉に通じる軽便鉄道を建設しており、道後温泉の繁栄の基礎を築いたと言われています。実に先見の明がある人だった様ですね。伊佐庭如矢が建てた本館は、この日も入浴客で引きも切らないという盛況ぶりでした。

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「温泉は三階の新築で上等は浴衣をかして、流しをつけて八銭で済む。その上に女が天目へ茶を載せて出す。」

現在の道後温泉本館は、大きく神の湯と霊の湯に分かれています。神の湯が銭湯も兼ねた大浴場、霊の湯がこぢんまりとしている分入浴客も少なめで、ゆっくりと楽しめる様になっています。神の湯は附属する脱衣場を利用するコース、2階の大広間で浴衣を借りてお茶とせんべいを頂くコースがあり、霊の湯は大広間で茶菓の接待を受けるコースと3階個室を利用するコースがあります。料金等の詳細はこちらを参照してください。

この大広間というのがくせ者で、男女共同になっているのですね。部屋にはしきりも何もなく、行李箱を一つ貸してくれるだけで、こんなところで服を脱いで浴衣に着替えて良いのかと、初めて来た時にはとまどったものです。女性客にとってはなおさらでしょうね。天目に乗せてお茶を出すという接待は、漱石の当時と変わっていません。

「湯壺は花崗石を畳み上げて、十五畳敷ぐらいの広さに仕切ってある。大抵は十三四人漬ってるがたまには誰も居ない事がある。深さは立って乳の辺まであるから、運動のために、湯の中を泳ぐのはなかなか愉快だ。おれは人の居ないのを見済しては十五畳の湯壺を泳ぎ巡って喜んでいた。ところがある日三階から威勢よく下りて今日も泳げるかなとざくろ口を覗いてみると、大きな札へ黒々と湯の中で泳ぐべからずとかいて貼りつけてある。湯の中で泳ぐものは、あまりあるまいから、この貼札はおれのために特別に新調したのかも知れない。おれはそれから泳ぐのは断念した。」

このエピソードのとおり、神の湯の壁面には「坊ちゃん泳ぐべからず」の木札が貼り付けてあります。確かに深さも広さも十分で、誰も居なければつい泳いでみたくなりますよね。ただ、温泉は熱めで、長く入っているとのぼせてしまうでしょう。

今回入ってみて気付いたのですが、かすかに塩素臭がしており、この点が以前とは違っていました。これは、一時期全国的に騒ぎになったレジオネラ菌対策として、愛媛県の条例で塩素投入を義務づけたせいなのですね。安全性との引き替えとは言え、温水プールに入っている様で、せっかくの風情が壊れてしまう事も事実です。別の殺菌方法を開発するなど、何か良い解決策は無いものなのでしょうか。

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これは道後温泉駅の近くにあるカラクリ時計です。毎正時ごとにせり上がり、中から坊ちゃんの登場人物の人形20体が現れるという仕掛けになっています。一番下は道後温泉の湯船になっており、クルクル回っているので光りの輪の様になっていますね。この時計の側には明治時代のお巡りさんに扮したボランティアの方が居て、面白おかしく解説をしてくれます。最終10時まで残って居られましたから、お疲れ様の一言ですね。

なお、夏休み、春休み及び年末年始には、30分毎にカラクリが動作する様になっています。

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今回泊まったホテルは古湧園。道後温泉本館から少し坂を上ったところにある老舗のホテルです。今回は3連泊をしたのですが、何より良かったのは食事が美味しかった事ですね。以前道後で泊まったホテルの食事が今ひとつで、今回もあまり期待していなかっただけに、とても嬉しい驚きでした。魚を中心としたメニューで、毎回工夫を凝らした料理が出てきます。実は、私は魚系はあまり好きではなかったのですが、ここの料理を食べて認識を改めました。煮魚が美味しいと思ったのは今回が初めてではなかったかしらん?料亭の味と言っても過言では無いと思います。仲居さんを始めとした従業員の対応も良く、このホテルにして大正解でした。

2006年8月16日 (水)

大文字送り火@夏っちゃんぶろぐ

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京都の夏の夜を彩る風物詩、大文字の送り火。お盆の間現世に帰ってきていた先祖の霊を、再び冥府に送るために灯される尊い炎です。

我が家では昨年の岡崎から変わって、今年は京都御苑を訪れてきました。ここも大文字だけしか見えませんが、ほぼ正面からの角度となり、大文字を観賞するには絶好のポイントと言えます。

そして何より広いですから、どんなに大勢の人が集まっても、余裕で観賞出来るのが嬉しい場所ですね。唯一の誤算は、大文字と一緒に御所の建物を写し込めると思っていたのが、上手く行かなかった事ぐらいでしょうか。あれもこれもと欲張らない人にはお勧め出来るポイントです。

大文字が終わると京都の夏も盛りを過ぎ、そこはかとなく秋の風情が感じられる様になります。華やかな中にもどこか寂しい気がする送り火の夜です。

坊ちゃんの世界 ~大街道・銀天街~

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「それから学校の門を出て、すぐ宿へ帰ろうと思ったが、帰ったって仕方がないから、少し町を散歩してやろうと思って、無暗に足の向く方をあるき散らした。県庁も見た。古い前世紀の建築である。兵営も見た。麻布の聯隊より立派でない。大通りも見た。神楽坂を半分に狭くしたぐらいな道幅で町並はあれより落ちる。」(夏目漱石 「坊ちゃんより」)

ここに出てくる大通りというのは、大街道(おおかいどう)の事でしょうか。大街道とは松山きっての繁華街の事で、北は松山城に登るロープウェイ乗り場のあたりから商店街が続き、電車通から南側はアーケード街に変わります。

このアーケード街の特徴は、とにかく道幅が広いこと。それもそのはず、ここはかつて国道だったのですね。坊ちゃんではかなり狭い道の様に書かれていますが、国道時代に拡幅されたという事なのでしょうか。こんなにゆったりとした繁華街は京都にも大阪にも無いので、ちょっとうらやましいですね。オープンカフェの様なテーブルと椅子がそこかしこにあったのですが、全然邪魔になっておらず、休憩には丁度良かったです。

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南北に続く大街道に、東西方向に逆L字型に繋がるもう一つのアーケード街が「銀天街」です。道幅はやや狭くなりますが、その分人通りが多く感じられる賑やかな通りですね。西に抜けると「いよてつ高島屋」に通じており、大街道と共に松山の中心部をなすと言って良いのでしょう。ちなみに、銀天街とは、昭和28年に出来たアーケードの色が銀色だった事から付いた名前だとか。今は半透明の屋根になっており、当時の面影は無い様ですね。

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その銀天街で見つけた四国リーグ「マンダリンパイレーツ」を応援する横断幕です。この四国リーグがどの程度の盛り上がりを見せているか興味があったのですが、この横断幕以外にはこれと言って見つける事が出来ませんでした。タクシーの運転手さんに聞いてもサッカーのJ2に居る愛媛FCの方が人気だという事で、四国リーグに対する注目度はいまいちの様ですね。地域リーグというのは面白い試みと思えるだけに、ちょっと寂しい気がします。

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「それから三日ばかりは無事であったが、四日目の晩に住田と云う所へ行って団子を食った。この住田と云う所は温泉のある町で城下から汽車だと十分ばかり、歩いて三十分で行かれる、料理屋も温泉宿も、公園もある上に遊廓がある。おれのはいった団子屋は遊廓の入口にあって、大変うまいという評判だから、温泉に行った帰りがけにちょっと食ってみた。今度は生徒にも逢わなかったから、誰も知るまいと思って、翌日学校へ行って、一時間目の教場へはいると団子二皿七銭と書いてある。実際おれは二皿食って七銭払った。どうも厄介な奴等だ。二時間目にもきっと何かあると思うと遊廓の団子旨い旨いと書いてある。あきれ返った奴等だ。」

この坊ちゃんが食べた団子を食べてみようと、銀天街のお店でみたらし団子を食べてきました。素朴な味わいで、まずまず美味しいといったところでしょうか。ところが後で知ったのですが、ぼっちゃんが食べたのはあんこを乗せて食べる団子で、みたらし団子ではなかったようですね。私がみたらしと思っていたのは、昔見た映画の影響かしらん?そう言えば、お土産に「坊ちゃん団子」を買って帰るのを忘れたなあ...。

松山は人口50万を誇る大都市なだけに、繁華街も実に賑やかですね。観光を一通り終えた後も、ここに来れば十分に楽しむ事が出来そうです。

2006年8月15日 (火)

坊ちゃんの世界 ~坊ちゃん列車~

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(道後温泉駅にて)

「停車場はすぐ知れた。切符も訳なく買った。乗り込んでみるとマッチ箱のような汽車だ。ごろごろと五分ばかり動いたと思ったら、もう降りなければならない。道理で切符が安いと思った。たった三銭である。」(夏目漱石 「坊ちゃん」より)

坊ちゃんに登場するこの汽車は、三津と松山(現在の松山市駅)を結ぶ伊予鉄道高浜線を走っていました。当時の伊予鉄道は、正規の鉄道に比べて狭い線路幅であるなど簡易な規格で建設出来た軽便鉄道であり、その動力である機関車も後のD51などと比べれば半分程度の大きさしかありません。その頃はまだ日本では機関車は製造されておらず、ドイツのクラウス社から輸入されたもので、当時の貨幣で9700円、現在の価値に換算すると約2億円もしたとされています。開業は1888年(明治21年)の事であり、漱石が松山に赴任する7年前の出来事でした。

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(子規堂にて)

マッチ箱の様だと形容されたのは、この客車の事でしょう。確かにマッチ箱の様に真四角で、機関車と同じくとても小柄に出来ています。開業当時の三津と松山間の料金は3銭5厘(下等)で、所要時間は28分でした。概ね1時間30分ごとに運行されていた様ですね。1954年(昭和29年)にディーゼル化されるまで現役で走っていたと言い、小説にちなんで坊ちゃん列車と呼ばれていました。

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「やがて、ピューと汽笛が鳴って、車がつく。待ち合せた連中はぞろぞろ吾れ勝に乗り込む。赤シャツはいの一号に上等へ飛び込んだ。上等へ乗ったって威張れるどころではない、住田まで上等が五銭で下等が三銭だから、わずか二銭違いで上下の区別がつく。こういうおれでさえ上等を奮発して白切符を握ってるんでもわかる。もっとも田舎者はけちだから、たった二銭の出入でもすこぶる苦になると見えて、大抵は下等へ乗る。」

坊ちゃんでは、主人公が道後温泉(作品中では住田)へ行く場面でも汽車が登場します。こちらは、伊予鉄道とは別に、温泉客の誘致を目的として道後温泉組合が始めた道後鉄道でした。この道後鉄道は漱石が赴任した1895年(明治28年)の8月に開業しており、漱石は真新しい列車に乗って温泉通いをしていたのでしょうね。大街道を始点として道後温泉にまで続いていましたが、現在の城南線は後の松山電気軌道の路線を引き継いだものであり、直接の繋がりは無い様です。また、道後鉄道は開業から5年後に伊予鉄道と合併して姿を消しており、坊ちゃんが発表された当時はすでに伊予鉄道に吸収されていました。

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坊ちゃん列車は1号車が梅津寺パークに保存展示されているほか、復元模型が伊予鉄道本社など数カ所で見ることが出来ます。これは子規記念博物館前に展示されているもので、旅行者にとっては一番見やすい場所にあると言えるかも知れません。

8月19日追記
その後調べて判ったのですが、この子規記念博物館前の坊ちゃん列車は、「坊ちゃん百年展」に合わせて伊予鉄道本社前から移設されたものだったのですね。これからずっと常設される訳ではなく、平成18年9月10日(日)までの特別展示なのだそうです。

現在市内を走っている坊ちゃん列車はかつての機関車を復元したもので、ディーゼルを動力として2両が運行されています。1号車と14号車がモデルになっていますが、それぞれ細かい意匠が異なっている様です。道後温泉と松山市駅及びJR松山駅間を結んでおり、道後温泉、大街道、松山市駅前、JR松山駅前、古町の各駅から乗車が可能です。予約は不要で、各乗車駅から直接乗って料金を払えば良いのですが、一乗車につき300円(小人150円) と通常の電車の倍の料金設定になっていますね。時刻表などの詳細についてはこちらを参照してください。

2006年8月14日 (月)

坊ちゃんの世界 ~ターナー島~

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『「あの松を見たまえ、幹が真直で、上が傘のように開いてターナーの画にありそうだね」と赤シャツが野だに云うと、野だは「全くターナーですね。どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と心得顔である。ターナーとは何の事だか知らないが、聞かないでも困らない事だから黙っていた。...
すると野だがどうです教頭、これからあの島をターナー島と名づけようじゃありませんかと余計な発議をした。赤シャツはそいつは面白い、吾々はこれからそう云おうと賛成した。この吾々のうちにおれもはいってるなら迷惑だ。おれには青嶋でたくさんだ。あの岩の上に、どうです、ラフハエルのマドンナを置いちゃ。いい画が出来ますぜと野だが云うと、マドンナの話はよそうじゃないかホホホホと赤シャツが気味の悪るい笑い方をした。』(夏目漱石 「坊ちゃん」より)

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坊ちゃんに登場したターナー島が現実にあります。それがこの四十島。三津浜の西北、高浜町一丁目横山の沖合150mに浮かぶ無人島です。

一見して、松がわずかに生えているだけで、赤シャツが激賞した風景には程遠い様に映ります。実は、かつてはこの島に見事な松が生えていたのですが、残念なことに枯れてしまったのですね。

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こちらが古写真に見るターナー島。作品に描かれたのはこの光景だったのですね。ところが、昭和50年代の初め頃、全国的に猛威を振った松食い虫の被害によって、この松が枯れてしまったのです。そして、荒波に揉まれる四十島自体もまた、浸食によっていつしかやせ細ってしまったのでした。

一時は四十島には一本の木も無くなってしまっていたのですが、わずかずつながら松の木が蘇りつつあります。これは、地元の篤志家が、長年に渡って努力を積み重ねて来た結果なのですね。土壌の無い岩だらけの島に、土を運んでは苗を植え、台風や渇水による度重なる被害を乗り越えて、やっと現状にまで至っているのです。この努力がやがて実を結び、ターナー島の名にふさわしい姿にまで蘇る日が来るのかも知れません。

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これは、ターナー島を見渡す海岸にあった正岡子規の句碑です。

「初潮や 松に浪こす 四十島」

この句は明治25年に詠まれたもので、明治39年に発表された坊ちゃんよりも14年前の作品です。どうやらこの島は「坊っちゃん」によって有名になるよりずっと以前から、名勝として知られていた様ですね。漱石もそれを踏まえて作品に登場させたのでしょう。あるいは、この句を作った子規から教えてもらったと考えるのが一番自然かも知れないですね。

今回ターナー島を訪れるにあたって、アクセス方法を色々と探してみました。ところが、島を紹介するページはあっても、どうやって行けば良いかを書いたところは皆無なのですよね。それもそのはず、行ってみて判ったのですが、高浜駅から歩いて行くしか方法が無いのでした。距離にして1km弱ですから歩けない距離ではありませんが、案内板もなく、初めての人はきっと迷うと思います。我が家の場合、あまりの暑さに辟易して、JR松山駅からタクシーで訪れたので難なくたどり着きましたが、当初の予定通り電車に乗っていたら、きっと大変な目に遭っていた事でしょう。これからこのあたりを観光の拠点とする計画があるようですが、駅からバスを出すか、レンタサイクルを置いて欲しいところです。自転車なら三津浜とセットで、楽しい時間が過ごせる事でしょうね。

アクセスに難はあるにせよ、瀬戸内を前にした光景は素晴らしいものがありました。まるで船に乗った坊ちゃん達の姿が見える様な気もしましたしね。時間を割いて、わざわざ寄っただけの値打ちは十分にあったと思っています。

2006年8月13日 (日)

豊臣秀次の菩提寺・慈船山 瑞泉寺 ~功名が辻~

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1591年(天正19年)、豊臣秀次は叔父の秀吉から関白の位を譲り受け、豊臣政権の後継者としての地位を確立したかの様に見えました。しかし、その2年後に秀吉の実子秀頼が生まれると、秀次の立場は微妙なものへと変わります。そして1995年(文禄4年)7月15日、秀次は秀吉から謀反の疑いを掛けられ、高野山にて自害して果てるに至りました。

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世にも希な惨劇はここから始まります。秀吉は秀次の一族の抹殺を命じ、秀次の実子のみならず、正室、側室、さらには侍女に至るまで、縁のある人たち全てを処刑してしまったのでした。場所は京都・鴨川の三条河原、秀次の死から半月後、8月2日の出来事です。

刑場には土壇が築かれ、その上に秀次の首が西向きに据えられていました。この日刑場に連れてこられたのは、3人の若君と2人の姫君、そして正室、側室など34人の女性達でした。彼女たちは牛車に乗せられて市中を引き回された後、三条河原へと到着します。そして、変わり果てた秀次に対面した後、次々と惨殺されて行ったのでした。当日は大勢の見物客が訪れ、そのあまりの凄惨さに目を覆ったと伝えられます。彼女たちの死骸は身内の者に引き渡される事は無く、その場に掘られた大穴に次々と放り込まれました。そしてその上に四角推の大きな塚が築かれ、頂上には秀次の首を納めた石櫃が据えられたと言います。秀吉はこの塚を畜生塚と名付け、道行く人達への見せしめとしたのでした。

切腹を命じられた秀次には、殺生関白という汚名が着せられています。例えば、鉄砲の稽古と称して罪もない農民を撃ち殺した、不義の噂がある側室が妊娠するとその腹を割って胎児の顔を確かめた、殺生禁断の地である比叡山において鹿狩りを行った、夜な夜な町に繰り出しては「千人斬り」と称される辻斬りを行った、などの悪行が今に伝えられています。

その一方で、ルイス・フロイスが著した日本史には「(秀次は)若年ながら深く道理と分別をわきまえており、謙虚かつ思慮深かい人物であった。そして良識ある人物と会談することを好んだ。」とあり、殺生関白とは正反対の人物像が浮かび上がります。また、近江八幡を所領としていた頃には、城下の発展に功績があり、後の近江商人勃興の基礎を築いたとも言われています。

最近の研究では、殺生関白の逸話についてはどれも根拠に乏しく、秀吉側によって創作された可能性が高いのではないかとされています。どうやら、秀次もまた勝者によって貶められた敗者の一人と言うべきなのかも知れないですね。

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畜生塚は、その後の鴨川の氾濫によって原型を失い、いつしか人々から忘れられた存在になっていました。1611年(慶長16年)、高瀬川を開削していた角倉了以は、工事がこの地に至ったのを機に畜生塚を訪れました。しかし、そのあまりに荒れ果てた様子に驚き、墓を整備すると共に、秀次一族の菩提を弔う寺を建てる事を思い立ちます。了以の弟は医師として秀次に仕えていたことがあり、その縁もあってか了以は秀次に同情的だった様ですね。

了意は浄土宗西山派の立空桂叔和尚を開山に迎え、寺号を秀次の戒名「瑞泉寺殿高巌一峰道意」から取って瑞泉寺と名付け、また高瀬川を行き交う船の様子から山号を「慈船山」としました。さらにその後も角倉家の寄進によって堂宇が整備されたのですが、1788年の天明の大火で焼け落ち、1805年(文化2年)頃に再建されて現在に至っています。なお、この本堂が建っている場所は、かつて畜生塚のあった跡地であると伝えられています。


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今に残る秀次の墓は了意によって建立されたもので、中央の四角い石が秀次の首を納めたとされる石櫃です。また、秀次の墓を取り囲むようにして五輪の塔がありますが、これらは昭和17年に財団法人豊公会によって建立された側室たちの墓石です。彼女たちは、実に没後350年を経て、ようやく墓を得る事が出来たのですね。

瑞泉寺は三条木屋町という繁華街の中にありながら、あまりその存在を知られていない寺です。境内も狭く、大勢で押しかけるには向きません。しかし、その反面、とても町中にあるとは思えない静かな寺であり、秀次とその一族を襲った悲劇を偲ぶにはふさわしい雰囲気を持っています。京都の三条を訪れる事があったら、少し時間を潰して立ち寄られて見られてはいかがでしょうか。

2006年8月12日 (土)

坊ちゃんの世界 ~松山市三津浜~

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「ぶうと云って汽船がとまると、艀が岸を離れて、漕ぎ寄せて来た。船頭は真っ裸に赤ふんどしをしめている。野蛮な所だ。もっともこの熱さでは着物はきられまい。日が強いので水がやに光る。見つめていても眼がくらむ。」(夏目漱石著「坊っちゃん」より)

これは、小説・坊ちゃんの主人公が、赴任先の四国のとある町の入り口にたどり着いた時の描写です。作品中に明確に書かれている訳ではありませんが、この町は漱石が英語教師として赴任した事がある松山の事だとされています。当時の松山の海の玄関口は三津浜港であり、小説に描かれた光景も三津浜のものという事になりますね。

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三津浜港は、宮前川という川の河口に開けた港で、その歴史は古く、はるか古代にまで遡るとされています。

一説に依れば、万葉集にある額田王の

「熱田津に船乗りせんと月待てば 潮もかないぬ今は漕ぎいでな」

という歌に出てくる熱田津とは、この三津浜の事ではないかとも言われています。以来、伊予の玄関口、あるいは水軍の根拠地として重要視され、江戸期には魚市場が開設されて商業の町として発展しました。現在は主要な港の機能は松山観光港に移されており、本州と四国を結ぶ何本かのフェリーの発着場となっている他は、主として漁船の基地となっている様ですね。

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「見るところでは大森ぐらいな漁村だ。人を馬鹿にしていらあ、こんな所に我慢が出来るものかと思ったが仕方がない。威勢よく一番に飛び込んだ。続づいて五六人は乗ったろう。外に大きな箱を四つばかり積み込んで赤ふんは岸へ漕ぎ戻して来た。」

この艀の光景を彷彿とさせるのが、三津の渡しです。この渡し船の歴史も古く、1469年に、当時この地方を支配していた河野氏の一族河野通春が港山城主であったときに利用したのが始まりとされます。港山城とは三津とは川を挟んだ対岸にある城で、港の警護を目的として築かれていました。江戸期にあっては松山藩の御船手の配下として運行され、三津浜の繁栄を支えています。明治以後もそのまま引き継がれて現在に至っています。

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この渡し船の正式名称は「松山市道高浜2号線」。要するに市道の一部なのですね。このため、松山市の手で運行が続けられており、年中無休で運賃は無料です。運行時間は午前7時から午後7時までとなっており、三津浜に行く事があれば是非乗ってみる事をお勧めします。船上からの景色は風情があって、なかなか良いですよ。

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三津浜には、かつての繁栄ぶりを彷彿とさせるものがそこかしこに残っています。例えば、これは渡し船のすぐ側にあった西性寺という浄土真宗のお寺なのですが、小振りながら非常に洒落た山門を持っていますね。また、司馬良太郎の小説「坂の上の雲」の主人公である明治の青年、正岡子規、秋山好古、真之兄弟達が、大志を抱いて松山から旅立ったのも、三津浜からでした。ここはまだ観光化されておらず、JRの駅でタクシーの運転手に聞いても、いったい何を見に行くのかという反応しか返ってきません。しかし、三津浜を見直そうという動きは始まっており、近い将来観光コースとして脚光を浴びる事になるかも知れません。

2006年8月11日 (金)

丸ポストのある風景@道後温泉

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道後温泉で見つけた丸ポスト二つ。

まずは、道後温泉駅にあった丸ポスト。松山の町を走る路面電車をバックに撮ってみました。夜の電車の灯りに、ちょっとした旅情が感じられません事?

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こちらは道後商店街にあった丸ポスト。湯上がりに土産物を探しがてらそぞろ歩く人達が、丸ポストの前を次々に通り過ぎて行きます。古い温泉街には丸ポストが似合いますね。

黒猫たち。さんの「ポストのある風景:中国・四国編」にトラックバックです。

2006年8月 5日 (土)

京都・洛南 伏見城跡 ~功名が辻~

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豊臣秀吉が聚楽第に続き、自らの隠居所として築いた城、それが伏見城です。

伏見城は当初、宇治川沿いの丘陵地である指月山に築かれました。現在ではかつての面影はまったくありませんが、位置としてはJR桃山駅の南、大光明寺陵の付近であったと思われます。築城されたのは1592年(文禄元年)の事で、全国の大名に命じて25万人を動員し、わずか5ヶ月で完成したと言います。当時の豊臣家の威勢を窺わせるエピソードですね。ところが、この城は1596年(慶長元年)の大地震により倒壊してしまい、秀吉は改めて木幡山への築城を命じました。これが現在に残る伏見城の跡地へと繋がる事になります。

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伏見城の跡地は、主要な部分が現在の桃山御陵とほぼ重なっています。この明治天皇陵がある場所がかつての本丸跡と推定されており、陵墓の奥の山上に天守閣が聳えていたものと思われます。なお、桃山御陵は参道とこの参拝所以外は立ち入り禁止になっており、伏見城の跡地を探索する事は出来ません。

この明治天皇陵は、当時の日本が威信を賭けて築いた陵墓だけに、さすがに立派なものですね。この東隣には昭憲皇太后陵があり、二つを併せて桃山御陵と呼ばれています。塵一つ落ちていないと言うほどに手入れが行き届いており、とても荘厳な雰囲気があたり一帯を覆っています。

また、ここには御香宮神社方面から続く広々とした参道と、明治天皇陵の南に続く230段の石段があり、付近の人達のジョギングやウォーキング、さらには学生達のトレーニングのコースとして利用されている様ですね。この日も、何人ものトレーニング姿の人達とすれ違いました。

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正直なところ、かつての伏見城を偲ばせるものはとても少ないのですが、その中の一つがこの治部池です。桃山御陵から桓武天皇陵へと抜ける道の中程にあり、鬱蒼と茂る山林の中に静まるこの池を、フェンス越しながら見る事が出来ます。

この池は、その名から推測出来る様に石田三成に縁があります。伏見城内において三成の屋敷があった場所は、その官名「治部少輔」から取って治部少丸と呼ばれていました。治部池はこの治部少丸と御花畠山荘の間にあった内堀の跡と推定されている、貴重な伏見城の遺構の一つなのですね。

見るからにいわくのありそうな池ですが、武者の亡霊が出るという伝説もあるそうですね。関ヶ原の戦いで敗れた三成か、あるいは伏見城落城の際に命を落とした武者の霊が未だにこの辺りをさまよって居るのでしょうか。

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ここは、柏原陵と呼ばれる桓武天皇陵です。桓武天皇は言うまでもなく平安京を開いた事で知られ、歴代の天皇の中でも特に強大な権力を有していたと考えられています。その陵墓も11町四方(約1.2km)四方という巨大なもので、鎌倉期までは皇室の尊崇も厚く、広く世に知られた存在でした。しかし、その後の戦乱により次第に荒廃し、江戸期にはどこにあったのか判らないという状況になっていました。現在のこの陵墓は幕末に柏原陵として推定されたもので、確かな根拠に基づくものではありません。おおよそこのあたりにあった事は確かで、江戸期からいくつかの候補地が上げられていますが、確証と言えるほどのものは出ていない様ですね。

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桓武天皇陵の東に聳えているのが、伏見桃山城模擬天守です。この天守は、1964年(昭和39年)に開業した伏見桃山キャッスルランドという遊園地のランドマークとして建てられたコンクリート造のものです。この場所は伏見城の御花畠山荘と呼ばれていた場所にあたり、ここに天守があったという訳ではありません。また、その姿も姫路城になどを参考としており、実際の伏見城を写したものでは無く、建設当時は誤解を与える元だとして不評を買っていました。

キャッスルランドは経営不振から2003年(平成15年)に閉園になり、その際にこの天守も取り壊される事になっていました。まあ歴史的価値が無いものですから仕方が無かったのでしょうけど、長年シンボルとして親しんできた地元から反対の声が上がり、現在は京都市の施設として存続される事に決まっています。

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そのキャッスルランド跡地は京都市の運動公園として再整備され、平成19年度から開園する予定になっています。この天守は今度は公園のランドマークとして、末永く市民に親しまれて行く事でしょうね。

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伏見城は、1600年に起こった関ヶ原の戦いの際に、上方に残った東軍の拠点として、戦乱の渦に巻き込まれました。城を守ったのは鳥居元忠以下800の将兵達。西軍の率いる大軍に包囲された伏見城は衆寡敵せず、落城、炎上してしまいました。その際に将兵達が切腹して果てた廊下の板が、供養の為に正伝寺養源院などに移され、血天井として今に残されています。

戦いに勝った徳川氏は伏見城を再建し、大阪城に依る豊臣氏に対する西の拠点としました。そして、豊臣氏の滅亡と共にその役割を終え、1623年(元和9年)に廃城となっています。その際に城の建物は各地に移され、江戸城伏見櫓、福山城伏見櫓などが現在にまで伝わっています。そして、地元伏見に残っているのが、この御香宮神社の表門です。かつての伏見城の大手門と伝えられており、確かに神社と言うより城にある方がふさわしい、がっちりした構えの無骨な門ではありますね。

伏見城の跡地は江戸期に桃畑として開墾され、花所として有名になり「桃山」と呼ばれる様になりました。安土桃山時代の桃山とはここから来ているのですね。伏見城の遺構は桃山御陵の建設とその後の宅地開発などによって多くが失われており、当時を推測する事は困難です。しかし、ここに掲げたように歴史を楽しむ手掛かりは幾つもあり、また地名にも福島大夫町、毛利長門町、羽柴秀長町など、功名が辻にも出てきそうな大名達縁のものが多く残されています。地図を片手に、当時を偲びながら散策を楽しんでみるのも一興ではないでしょうか。

2006年8月 4日 (金)

京都・洛南 深草山 寶塔寺

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石峰寺から少し南に下がったところにあるのが寶塔寺。深草山と号する日蓮宗の寺です。

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寶塔寺は、元は極楽寺という真言宗の寺でした。関白藤原基経の発願と言いますから、平安時代の前期(9世紀末頃)の起こりという事になりますね。その後、1307年(徳治2年)に時の住持良桂が、日蓮の法孫日像と三日三晩の法論を行った末に帰依し、日蓮宗に改められたのでした。

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寶塔寺の名は、日像が京都に通じる七つの街道の入り口に建てた法華題目の石塔婆の一つを、当寺の日像廟所に奉祀したことに因んだものだとか。確かずっと以前には、地図上では極楽寺と表記されていたように記憶しています。仁王門の向こうに見えている本堂は1608年(慶長13年)の創建ですが、2003年に解体修理を終えたばかりであり、屋根瓦の波も見事な創建当時の姿に蘇っています。堂内には御本尊の十界蔓茶羅を始めとして、釈迦如来立像、日蓮・日像の像が安置されているとのことですが、残念ながら非公開ですので中に入ることは出来ません。

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本堂の南ある多宝塔は、1439年(永享11年)年以前に建立されたと伝えられ、行基葺きという古い形式の瓦屋根を残しています。京都市内では最古の多宝塔と言われ、国の重要文化財に指定されています。

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本堂背後の七面山には、「1666年(寛文6年)に勧請された七福吉祥の七面大明神を祀る七面宮があり、そこからの眺めも素晴らしい」と案内板にあったのですが、この暑さの中長い階段を登る気力は無くて、そのまま引き返してきました。ここも秋に来ると良いかも知れないですね。

寶塔寺を訪れたのは今回が初めてだったのですが、思っていた以上に立派なお寺でした。参道の両側には7つの塔頭が建ち並び、ちょっとした大寺の風格すら漂っています。これだけの寺でありながら観光とは無縁の存在で、名前も知らない人が多い事でしょうね。非公開ですから建物の外観の他は見るべきものはあまり無いのですけど、一度は訪れてみたい寺だと思います。石峰寺とセットで来るのがお勧めですね。

2006年8月 3日 (木)

京都・洛南 五百羅漢の石仏 深草・石峰寺 

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京都・洛南深草の里、稲荷山の山腹に抱きかかえられる様に佇む石峰寺。五百羅漢を始めとする石仏群で知られる寺です。

京阪深草の駅から東に道を取り、本町通、JR奈良線の順に渡って行くと、左手に石峰寺への案内板が見つかります。案内に従って歩いていくと、やがて「百丈山石峰禅寺」と書かれた石碑が見えてきます。さらに石碑から続く石段を登りつめると、ようやくこの中国風の赤い門に出会う事が出来ます。

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石峰寺は宝永年間(1704年~1711年)、万福寺の千呆(せんがい)和尚によって創建されたと伝えられています。当初は黄檗宗の道場として諸堂を備えた大寺だったのですが、相次ぐ災火によってかつての偉容は失われ、現在は昭和60年に再建された本堂を残すのみとなっています。

この寺は、江戸時代の画家・伊藤若冲と深い関わりがあります。若冲は京都の人で、1716年(正徳6年)、錦小路の青物問屋「枡源」の跡取り息子として生まれました。父の死後桝源を継ぎ、家業を営む傍ら狩野派、光琳派や中国の元代、明代の画法を学びました。しかし、特定の師匠に就くことは無かった様ですね。四十歳の時に隠居して家業を弟に譲り、念願の絵画三昧の生活に入りました。以後85歳でこの世を去るまで制作に専念し、写生的、装飾的な花鳥画と水墨画に独自の画風を築き上げています。代表作は「動植綵絵」。30幅からなる大作で、鶏をはじめとする動植物が、独自の画法で生き生きと描き出されています。

この若冲が晩年に住んだ場所が石峰寺でした。若冲は住職の密山と共に当寺の裏山を石仏で埋める事を思い立ち、10年という歳月をかけて完成させています。若冲は石仏のための費用を稼ぐために、絵を描いては米一斗と交換したと言われ、別号の「斗米庵」はその事から来ています。

若冲はその後も妹と共にこの寺の門前に住み続け(妻帯はしなかった様です)、生涯を終えています。墓は境内の東の墓地の中にあり、右に建っている円柱状の石碑が筆塚です。

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石仏に合う為には、境内の裏手の階段を登っていかなければなりません。その行く手には、山門と同じく赤い門が待ちかまえています。

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石仏はただ置かれているのではなく、釈迦の生涯を順に描く為に配置されています。まず取っつきにあるのがお釈迦様が誕生する場面。中央にある小さな石像が生まれたばかりの釈迦を表す釈迦誕生仏。背後に控えているのは来迎菩薩達です。

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石仏は、こうした藪の中に点在するようにも配置されています。この日は朝早く出かけたので、朝日が竹林に差し込んでとても綺麗でした。
ただし、この季節には一つの難点があります。それは、藪蚊の襲来が半端では無い事。受付でとにかく蚊が多いからと注意され、蚊除けのための団扇を貸してくれるだけでなく、虫除けスプレーまで用意してあるという周到さを見ても、いかに凄い状況にあるかが判るというものでしょう。なにしろ、ちょっと立ち止まっただけで、あっという間に蚊にたかられてしまいますから、落ち着いて写真を撮ることも出来ない有様。あまり夏に来るべき所では無いことは確かな様です。

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ここは一番奥の賽の河原。若冲の作とは言っても実際にこの石仏を彫った訳ではなく、下絵を描いて石工に彫って貰っていた様ですね。この写真では判りづらいですが、一つ一つの石仏に、ちゃんと顔まで彫られています。非常に手間の掛かった仕事で、完成まで10年を要したというのも判りますね。

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石仏巡りを終えた人を見送る釈迦三尊像。若冲の残した写実的な絵とは違って、ここの石仏達は独特の諧謔味を持った顔立ちをしています。今回は藪蚊に追われてゆっくりとは見ていないのですが、それぞれの石仏は一つ一つ違った個性を持っており、じっくり見比べると時間が経つのも忘れると思いますよ。

石峰寺の拝観料は、大人300円、子供200円です。ひっそりした境内には四季に渡って花が咲いており、京都の名所巡りが一段落した人が訪れるには、丁度良い場所かも知れません。

2006年8月 2日 (水)

ココログ新アクセス解析サービス開始

今日からココログの新アクセス解析のサービスが開始されました。以前からアクセス解析は行われていたのですが、一気に機能がアップして様々な角度からアクセス状況を知る事が出来る様になっています。その内容は次のとおりです。

訪問者の経路
   リンク元サイト・ページ
   検索ワード・フレーズ
   検索サイト別訪問数
 ・アクセス傾向
   期間毎アクセス推移(今日・昨日・過去7日・過去30日・過去4ヶ月)
   曜日・時間帯別統計
   ページ別アクセス数
 ・訪問者の行動パターン
   移動履歴
   ページ移動ランキング
   IN/OUTページ
   滞在時間ランキング
 ・訪問者の属性
   アクセス日時
   訪問記事
   訪問回数・頻度・周期
   アクセス環境(OS・ブラウザ・プロバイダ・地域)など

(以上、ココログお知らせページより複写。)

いや、あんまり面白くて、つい見入ってしまいました。これだけ項目があると、色々興味深い事実が判るものなのですね。

まず、アクセス数の多い記事はこれまでも知る事が出来たのですが、これに加えて滞在時間という項目が追加されています。要はじっくり読んで貰った記事という事になるのでしょうけど、なかなか面白い結果となりました。過去4ヶ月における、最近の記事の中でのトップは「京都・洛東 養源院 ~功名が辻・伏見城遺構~」だったのですね。アクセス数では18位(102件)なのですが、滞在時間では4位(9時間32分)に入っています。地味な存在と思っていただけにちょっと意外な感じを受けているのですが、それだけ丁寧に読んで頂けたかと思うとなんだかとても嬉しいです。少しはお役に立てたのかな。ちなみに1位はアクセス数及び滞在時間共にカテゴリー「梅酒・梅シロップ」でした。やはり季節がら需要が多かった様ですね。

そして、地域別のアクセスも判るようになったのですが、全都道府県からアクセスを頂いている事が判明しました。このサイトを全国津々浦々で見て頂いているとは何とも有り難い限りですね。東京が1位で全体の25%を占め、以下、大阪、京都と地元が続いています。

さらに、何より嬉しいのが純粋なリピーター数を知ることが出来た事です。これまでも延べ人数では把握していたのですが、今回は重複無しの数字が出ています。その結果、5回以上くり返し来て頂いている方が100人を越えていました。これはもう驚きの一言です。せいぜいこの半分くらいと思っていましたからね。パソコンの向こう側にこれだけの方が居て下さったとは、もはや感謝以外の言葉はありません。本当にありがとうございます。

アクセス数が全てという訳ではありませんが、やはり多くの方に見て頂いていると思うと励みになります。毎日更新している甲斐があるというものですからね。これからも「ねこづらどき」は続いていきますので、引き続きご贔屓のほどよろしくお願い致します。

2006年8月 1日 (火)

京都・洛南 伏水の名水 ~御香宮神社~

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京都の南郊に位置する伏見。今でこそ京都市の一部になっていますが、かつては京都とは別個の、独自の位置を占めていた町でした。その伏見を支えたものは水。一つは淀川の水運、そしてもう一つは豊かな地下水です。

伏見は「伏水」とも呼ばれるほどに地下水に恵まれた土地です。その地下水を生かして盛んになったのが酒造業でした。伏見の酒造りの歴史は古く、起源は弥生時代にも遡ると言われます。本格的に酒造業が始まったのは安土桃山の頃で、豊臣秀吉による築城がきっかけでした。伏見が城下町として大きく発展を遂げるとともに酒造業も盛んになります。最盛期の江戸時代の初期には、83軒もの酒造家が甍を連ねるほどになっていました。その後、兵庫の灘の勃興などに依り江戸の後期から幕末にかけて一時寂れますが、明治に入ると再び勢いを盛り返し始め、明治の終わり頃には全国一の評判を取るにまで回復しました。伏見には今でも30近い酒造業者がひしめいています。主な銘柄を上げると、黄桜、月桂冠、月の桂、松竹梅、日の出盛など、一度は聞いたことがある名ばかりでしょう?

伏見に数ある名水の中で、最も古い由緒を持つのが御香水です。御香宮神社の由来には、863年(貞観4年)に境内から良い香りの水が涌き出し、その水を飲むと病が治ったので、時の清和天皇から御香宮の名を賜ったとあります。かつての名水は明治に枯れてしまったのですが、1982年(昭和57年)に復元され、現在では伏見七名水の一つとして多くの人に親しまれています。

先日、その御香水を飲みに行ってきました。確かに名水と呼ばれるだけのことはあって、柔らかくて癖の無い、とても美味しい水ですね。でも、なんの香りもしなかったというのは要らぬ話し、かな。(ふと思ったのですが、香りの良い水とは、もしかしたらこの地で作られていた酒の事だったのではないかしらん...。)

炎天下を歩き回り沢山汗をかいた後だったので、余計に美味しく感じたのだろうと思います。伏見界隈を散歩した後、御香水で喉の渇きを癒すというのは、究極の贅沢の一つと言えるのかも知れませんね。

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ねこづらどき

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