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2006年7月

2006年7月31日 (月)

せみしぐれ ~京都・洛東 真如堂~

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梅雨が明けたとたん、せみしぐれが始まりました。蝉たちも雨が上がるのをじっと待っていたのですね。遅れた夏を取り戻そうとするかのように連日懸命に鳴いています。

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ここ、真如堂でもせみしぐれが賑やかだそうです。先日、陽の傾く頃、ヒグラシの声が聞きたくて訪れたのですが、今年の長い梅雨が明ける前だったせいか、残念ながらまだ鳴いていませんでした。今年は花にしろ昆虫にしろ、例年より遅れる事が春からずっと続いていますね。今はちゃんと鳴いているそうなので、そのうちにまた訪れてみたいと思ってます。

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真如堂の本堂の前では、菩提樹の実が沢山落ちていました。この実は苞が羽根になっていて、落ちる時にヘリコプターの様にクルクル舞うのが面白いのですよね。その様子をカメラで見事にキャッチ!と言うのは嘘で、蜘蛛の巣に引っかかってブラブラしていたのを撮ってきました。でも、本当に飛んでいる様に見えなくもないでしょう?

この実を財布に入れておくとお金が貯まるという俗信があるのだそうですね。私もいくつか拾って、早速財布に入れてみました。ところが、よく調べてみると、今の時期に落ちている実は熟したものではなく、付きすぎた実を木が落としているのだそうです。秋に成熟した実を残すために、余分なものを整理しているのですね。その実を拾っても果たして御利益があるかどうかは、微妙な気がしてきました...。

秋には賑わう真如堂も、この時期にはほとんど訪れる人がありません。日暮れ時の静かな境内を散歩がてら歩いてみるのも、風情があってなかなか良いものですよ。

2006年7月30日 (日)

京都・洛中 聚楽第跡 ~功名が辻~

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聚楽第とは、豊臣秀吉が京都に築いた城郭風の邸宅です。着工は1586年(天正14年)2月の事で、当時の秀吉は、その前年に関白に任ぜられて位人臣を極め、この年の1月には最大の懸案であった徳川家康との和睦を果たし、事実上の天下人となったという絶頂期にありました。その秀吉の鋭気を反映したこの邸は壮大な規模と華麗さを誇り、安土桃山期を代表する建造物であったと言われます。また、邸とは言っても周囲には堀を穿ち、平城と変わらない軍事的機能を持っていました。完成は翌年の9月の事で、九州征伐を終えた秀吉が大阪城からこの新邸に移っています。

聚楽第の正確な位置や規模は良く判っていません。漠然と言えば、東は大宮通、西は千本通、北は一条通、南は丸太町通で囲まれた範囲内にあったのではないかと考えられています。写真の石碑はその一角にあたる位置にあり、正親小学校の東北、中立売通と裏門通が交差する場所に建てられています。

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現在聚楽第の跡を訪ねてもほとんど何も残っていませんが、わずかにその痕跡を止めていると思われるのが松林寺です。石碑の場所から裏門通を真っ直ぐ南に下って突き当たった場所にある寺で、別名「やす(安)寺」と呼ばれ、安産祈願の寺として知られています。

聚楽第に繋がるのはこの寺そのものではなく、その境内の地形にあります。ここは写真の様に境内が通りから一段下がった場所にあり、聚楽第を囲んでいた外堀の跡ではないかと考えられています。周辺の地形からしてもここは局所的に低くなっており、堀の跡とする説には説得力を感じますね。

もう一つ、直接聚楽第に繋がるとされる遺跡として梅雨の井があるのですが、残念ながら今回はその場所を探し当てる事が出来ませんでした。(平成18年9月3日追記:「梅雨の井」に関する記事をこちらにアップしました。)

聚楽第は京都における豊臣政権の中心的役割を担い、その周囲には幕下大名の邸が甍を並べていました。1588年(天正16年)には時の後陽成天皇の行幸を仰ぎ、諸大名から天皇とその代理者である秀吉に対して忠誠を誓わせるというパフォーマンスの舞台となっています。1591年(天正19年)、秀吉は跡継ぎと定めた甥の秀次に、関白職と共に聚楽第を譲ります。以後、聚楽第は秀次の居館となったわけですが、その2年後に秀吉の実子秀頼が生まれると、秀吉と秀次との間に溝が生じ始めます。そして、1595年(文禄4年)7月、秀次は謀反の疑いを掛けられ、高野山にて自害して果てました。秀吉は、秀次が生きていた痕跡を全て消し去るがごとくに聚楽第の破却を命じ、稀代の豪邸もわずか9年で地上から姿を消すことになります。

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聚楽第の建物の多くは、当時建設中であった伏見城に移されました。また、伝承として聚楽第から移されたとされる建造物がいくつか残っており、大徳寺の唐門もその一つです。大徳寺唐門は極彩色の装飾で彩られた華麗な門で、別名日暮門と呼ばれています。その門の前に立つとあまりの見事さに見とれて、日が暮れてしまうまで気が付かないというところから来た別名で、日光の陽明門などと同じ由来ですね。その門と関係すると思われる通り名が今も残っています。それがこの日暮通。知恵光院通の一つ東の筋にあたり、かつてこの付近に建っていた日暮門の前から南に続いていた道だとされます。ご覧の通りごく普通の生活道路で、当時を偲ばせるものは何もないのですけどね。

このほか、地名として聚楽第に由来するではないかと考えられるものに、須浜池町、山里町、東堀町、金馬場町などがあります。ハローワークの敷地など数カ所で行われた部分的な発掘調査において、石垣の跡、金箔押しの瓦などが出土しており、このあたりに聚楽第があった事は確かな様です。家屋が連なる現状から見て、近い将来に大規模な発掘調査が行われる可能性は低いでしょうけど、何時の日かその全貌が明らかになる日が来るかも知れません。その日が来るまで、わずかな手掛かりからかつての豪邸の有り様を推理してみるのもきっと面白いと思いますよ。

2006年7月29日 (土)

生麩の和菓子 ~麩嘉・麩まんじゅう~

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笹の葉で刳るんだ、いかにも涼しげな感じがする和菓子、それが麩まんじゅうです。

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麩嘉は生麩の専門店で、江戸時代後期、文化文政の頃の創業と伝えられます。生麩は京料理に彩りを添える存在として欠かせないものであり、また代々御所に生麩を納めて来た事も併せると、京都の食文化の一翼を支えている店とも言えます。その割に暖簾は何ともユニークで、創作和食の店と間違えてしまいそうですね。

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麩まんじゅうは、生麩に青海苔を練り込んだ生地で餡をくるんだ和菓子です。控えめな甘さの餡と生麩の風味、それに独特の食感があいまって、不思議な美味しさを感じさせて呉れるお菓子です。

麩嘉は湯波半と同じく、店の中にはショウケースも何もなく、初めて入るととまどう事と思います。でも、麩まんじゅうを下さいと店先で言えば、ちゃんと出して貰えるから大丈夫。1個200円と少し高めですけど、他には無いユニークなお菓子ですから、おみやげにしても喜ばれると思いますよ。

麩嘉は、京都府庁の近く、西洞院椹木(さわらぎ)町上がるにあります。府庁の正面から一筋西、一筋南と覚えておくと行きやすいかも知れません。


2006年7月28日 (金)

夏のたそがれ時@夏っちゃんぶろぐ

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やっと始まった夏の日のたそがれ時。
これから灼熱の日が続くという予感をさせる色です。

京都・洛東 西雲院の蓮花

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京都・洛東、金戒光明寺の塔頭「西雲院」。ここもまた立本寺と同じく、鉢植えの蓮花が楽しめるお寺です。

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西雲院は会津墓地の西隣に位置し、どちらかと言えば黒谷の本堂より真如堂の方が近い所にあります。町中にある立本寺とはまた違った、ちょっとした山寺の様な静かで落ち着いた風情があるお寺ですね。

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この日は咲いている花が少なく、わずかに2輪だけでした。ちょっと寂しかったのですが、こういう日もあるのでしょうね。ちなみに、この蓮の名は真如蓮。お隣の真如堂にちなんだ花なのでしょうか。

ここに行かれるなら午前中、出来れば朝の蝉時雨を聞きながら、散歩がてらに出かけるのがベストです。まだ涼しいし、花も丁度見頃の時間帯ですからね。

2006年7月27日 (木)

京都御苑 宗像神社のアオバズク@夏っちゃんぶろぐ

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京都御苑の南西隅に宗像神社と呼ばれる社があります。その周辺の楠にアオバズクが居ると知り、訪れて来ました。

アオバズクは、暖かくなると南の国からやって来る渡り鳥です。青葉の頃に現れるミミズクである事から、その名が付いたそうですね。でも、その割にミミズクらしい耳の様な飾り羽根は付いていないのですが...。アオバフクロウでは語呂が悪くて敬遠されたのかな。

京都御苑には4月下旬頃に現れて営巣を始め、10月の中頃には子育てを終えて南国へと帰って行くのだとか。そして、丁度今頃、今年生まれたばかりの雛が巣穴から出てきます。上の写真がその雛で、綿毛が沢山付いているのが判りますよね。

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こちらが親鳥です。見る人が見れば雄か雌かが判るそうですが、私にはさっぱり見分けが付きません...。

どちらも不鮮明な写真で申し訳ないのですが、何しろ遠くて暗いものですから、私の腕と機材では現状こんなものです。周囲には大砲のようなレンズを付けたベテランらしき人達が大勢居ましたから、そういう人達が撮った写真にはもっと綺麗にはっきりと映っている事でしょう。

宗像神社へ行けば沢山のカメラマンが集まっているので、レンズが向いている方向から、おおよそどのあたりに居るかは見当が付きます。ただし、実際に見つけるとなると、かなりの慣れを必要とします。聞くところに依ると今年は2羽の親と3羽の雛が居るそうなのですが、私はこの2羽を見つけるのがやっとでした。慣れた人は、あそことあそこに親鳥、そことそこに雛が居ますよと簡単に言うのですが、私の目には木の葉っぱしか見えませんでした...。

なお、写真を撮るのにフラッシュは御法度です。アオバズクは夜行性ですから、フラッシュの光は強すぎて目が眩んでしまうのですね。なるべく静かに、そしてそっと撮ってあげて下さい。

2006年7月26日 (水)

京都・洛中 立本寺の蓮@夏っちゃんぶろぐ

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京都・北野の地にある立本寺(りゅうほんじ)。日蓮宗48本山の一つで具足山と号し、創建は鎌倉時代に遡るとされます。始めは四条大宮の地にあり竜華院と称していましたが、宗門争いなどにより寺域を転々とし、1708年(宝永5年)に現在の地に落ち着きました。かつては20もの塔頭を有する大寺でしたが、明治の廃仏毀釈以後衰え、現在は4つの塔頭が残っています。

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この立本寺の蓮が見事だと聞いたので出かけてきました。本堂の前に沢山の鉢植えの蓮があり、それぞれに綺麗な花を咲かせています。ここは初めて訪れたのですが、なんだか庶民的な感じのするお寺ですね。境内の一角に児童公園があるせいでしょうか、子供達の姿が多く見られました。どうやら普段から子供の遊び場になっている様子で、地域に密着した良い雰囲気を感じます。

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ここの蓮は、お寺と仏様に親しみを持って貰おうと始められたものだそうですね。この日もカメラ片手の人が次々に訪れており、狙いは一応の成功を収めている様です。鉢植えですからごく近くにまで寄れるため、普通の蓮池では見ることが出来ない花の姿を目にする事が出来ます。

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花の種類もいくつかあって、この花は白をベースに花弁の先端がほんのりと紅色に縁取られるという、なかなか綺麗なものです。

立本寺には、石田三成の家臣・島左近や、名妓・吉野大夫の墓もあるということですが、特に観光化されている訳でもなく、気楽に立ち寄れる、良い感じのするお寺です。

立本寺の位置

2006年7月25日 (火)

梅雨明け間近@夏っちゃんぶろぐ

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夕焼けを見るとなんだかほっとしますね。
ああ、今日も無事に終わったという感じ、かな。

長かった梅雨にも、ようやく終わりが見えてきました。
梅雨明け宣言がでるまであと少しの様です。
頑張れ、太平洋高気圧!

やっと、暑い夏がやって来ます。


2006年7月24日 (月)

魚、いないかな~ 京都・加茂川にて

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長雨で増水した川面をじっと見つめる2羽の鷺。こんな急流で魚が獲れるのかと思いますが、考えてみれば雨が降っていると鳥たちは餌が食べられないのですよね。わずかな止み間は、鳥たちにとって貴重な餌獲りの時間でもあったのです。

あまりに長い雨は鳥たちにとっても死活問題なのですね。この後、この2羽が無事に餌にありつけたかどうか...。


京都・加茂川出町橋にて

(ところで、白鷺の脚に赤と青の輪っかが付いています。個体調査か何かでしょうか。)


2006年7月23日 (日)

京都・洛東 方広寺鐘銘事件 ~功名が辻~

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方広寺の大鐘が鋳造されたのは1614年(慶長19年)4月の事でした。豊臣秀頼が徳川家康の勧めにより行っていた方広寺再建の最後の仕上げとなるもので、8月には大々的に落慶法要が営まれる事になっていました。この鐘は、高さ4.2m、外径2.8m、厚さ0.27m、重さ82.7トンという巨大な規模を持ち、東大寺、知恩院の鐘と合わせて日本三大名鐘の一つに数えられています。さすがに、東大寺大仏殿を凌いだという大寺に相応しい大鐘ではあります。

しかし、この鐘が世に知られているのは、その巨大さ故にではありません。豊臣家を滅ぼした大阪の陣を引き起こすきっかけとなった「方広寺鐘銘事件」の生き証人であるからです。

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「鐘銘」とは鐘に刻まれた銘文の事で、方広寺が如何に素晴らしい出来映えの寺であるかを称え、またこれからは国家鎮護のために役立つであろうと称える漢文が綴られています。この文字を撰したのが東福寺第227世文英清韓長老でした。清韓は、当時都きっての文筆家として知られた人で、学僧として秀吉に重用され、朝鮮の役では加藤清正に従ってかの地を踏んだという経歴を持っています。秀吉の死後、天下の覇権が家康に移った後も秀頼の学僧として豊臣家との関係を保っており、その縁から方広寺の銘文を撰する様に依頼されたのでした。清韓の作った銘文はさすがに素晴らしい出来映えで、きちんと韻を踏んだ名文でした。しかし、そのせっかくの名文が、豊臣家を滅ぼしたいと考えていた徳川家によって、足下を掬うための道具に使われてしまったのです。

事は徳川家の謀臣であった、金地院崇伝、林羅山の手によって進められました。彼等が目を付けたのが、銘文中の「国家安康」と「君臣豊楽」という8文字です。すなわち、「国家安康」とは家康の名を二分して祟りをなそうとする呪いであり、「君臣豊楽」とは豊臣家が主君となり世を楽しむという願いを込めたものだと言い出したのです。驚いた豊臣方は八方陳弁に努めますが、最初から豊臣家を嵌める積もりでいた徳川方が聞き入れる筈もありません。落慶法要が中止となったばかりか、大阪城の明け渡し、秀頼と淀殿の江戸移住といった更なる難題を投げかけられ、遂には開戦する以外に途が無くなりました。そして、大阪冬の陣、夏の陣の二度の戦いを経て豊臣家は滅亡するに至ります。


この事件の余波として、清韓はその地位を追われ、彼が住んでいた天得院は取り壊しとなりました。しかし、問題とされた鐘は鋳つぶされる事無くそのまま残され、現在にまで伝わっています。この事は、鐘銘事件は実は全くの言い掛かりに過ぎなかったという何よりの証拠でしょうね。清韓は豊臣方の高名な人物であり、世間への影響力を考えるとどうしても処分しなければならなかったのに対し、鐘そのものの存在は徳川氏にとってはどうでも良かったという事なのでしょう。本当に呪詛されたと思っていれば、残しておくはずがありませんからね。

方広寺を拝観すれば、この鐘楼の中にも入る事が出来ます。そして、一番上の写真にある問題の8文字も間近に見ることが出来ます。事件の主役であった豊臣秀頼や片桐且元の名も銘文の最後に刻まれているのが判りますよ。

(以下、淀殿の亡霊が出てきます。不気味と思う人はクリックしないで下さい。)

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2006年7月22日 (土)

突然の、夏空 ~京都御苑~

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今年の梅雨はやけに長い。祇園祭の山鉾巡行以来、連日の雨、雨、雨。やっと止み間が訪れた今日、京都に行って来ました。

今朝もどんよりとした曇り空、今にも一雨来そうな気配。念のために傘を用意してのお出かけです。ところが時間が経つに連れて雲が薄れ、昼近くには薄日が差し始めます。そして午後2時頃になると、紛れもない夏空になっていました。天気が回復して良かったと思ったのもつかの間...。

だだっ広い京都御苑の中を自転車で走っていると、段々頭痛がして来るではありませんか。そのうち顔も異様に火照ってきます。どうやら帽子も被らない無防備な姿で炎天下を走り回っている内に、危うく熱中症になりかけていた様でした。

いやー、油断してましたね。本来この時期の京都は、半端じゃなく暑いって事を忘れてました。このところずっと気温が低かったので、暑さ対策には全く気が回っていなかった...。

木陰に入ってお茶をがぶ飲みするとどうにか回復しましたが、下手をすると倒れていたかも知れません。長引く梅雨にすっかり騙された格好になりました。雲の向こうには、夏がちゃんと待っていたのですね。

この好天も今日限りで、明日、明後日とまた雨になる様です。そこを凌げば、いよいよ関西地方も梅雨明け宣言、かな。暑い夏がやっと始まりそうです。

2006年7月21日 (金)

京都・七條甘春堂

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京都・洛東、京阪電車の七条駅のほど近くに、甘春堂という和菓子の老舗があります。鴨川沿いを走る川端通からわずかに側道に逸れた場所にあるので、車で通ると気が付きにくいでしょうね。

店の創業は1865年(慶応元年)と言いますからまさに幕末、京都の町を新選組が闊歩していた頃の事です。以後代を重ねて、現在は六代目の当主が店を継いでいます。家の歴史はさらに古く、豊臣秀吉が方広寺を建てた頃、この家の庭にあった藤を観賞していったという伝承があるそうです。

ここで買ったのが、写真の重箱に入った干菓子と金平糖の詰め合わせ。梅の絵柄が洒落ています。干菓子はほんのりと甘く、お茶請けに最適。金平糖も甘さ控えめでとても食べやすいです。値段は1000円と、ちょっと高めですけどね。他にも、水羊羹などの季節のお菓子、綺麗な上生菓子が店頭に並んでいました。

ここにしかないものが、お菓子で出来たお茶碗である「煎茶器」と「抹茶器」。実際にお茶を入れて飲んだ後、器を割って食べることが出来るという遊び心満点のお菓子です。

近くには三十三間堂智積院、さらには方広寺があります。歴史に触れた後、帰りにちょっと寄り道してみてはいかがですか。

2006年7月20日 (木)

ネムの花@夏っちゃんぶろぐ

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水面を覆い尽くす緑の上に落ちていた赤い色。

ネムノキの花は、舞い落ちた後も鮮やかさを失いません。
あたかもウキクサの中で咲いているかの様でした。


京都御苑 トンボ池にて

2006年7月19日 (水)

京都・鴨川 夕涼み

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暮れなずむ京都・鴨川、三条大橋。7月14日の京都は昼間の雨も上がり、見事な夕景が広がっていました。

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鴨川の床にも灯が入り、岸辺では夕涼みに訪れたカップルの姿が見えはじめています。今はまだまだ数メートル置きの間隔ですが、これが時間と共に数が増え、一番多い時には50cm単位で等間隔に並ぶのですよね。これを称して「50cmのプライバシー」と言ったのは誰でしたっけ。

ここに座っているのは、実はカップルばかりとは限らず、男性同士、女性同士のグループも多いです。休日には家族連れも結構混じっていて、我が家も子供が小さい頃、この中に居た事がありました。

ここに座っている時は、隣の事には関心を持たない振りをするのがルールです。そうやって、お互いのプライバシーを守り合うのですね。ですから、一見混雑している様に見えても、実はなかなか快適な空間だったりするのです。

最初は抵抗があるでしょうけど、思い切ってこの中に入ってみるのもきっと楽しいと思いますよ。ここの空気を壊さない限り、ですけどね。

2006年7月18日 (火)

京都・祇園祭 ~雨中巡行~

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(菊水鉾)

祇園祭山鉾巡行の日は、梅雨が明けて夏晴れになる。かつてはそう言い慣わされていたものですが、何年か前に雨で順延になって以来、この伝統も怪しくなった様です。

2006年7月17日も朝から雨。降水確率は70%となっており、まず止みそうにはありません。この雨の中、巡行が決行されるのかどうか心配になったため、京都市観光協会に確認の電話を入れてみました。すると返事は順延はないとの事。今年を逃すと休日と巡行が重なるのは数年待たなければならないので、思い切って出かける事に決めました。

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(放下鉾。稚児人形に礼をさせていますが、どういう意味があるのでしょう?)

行き先は河原町三条の北東角。ここは少々遅く行っても場所が取りやすいのが取り柄です。到着は午前9時30分頃の事で、その頃には雨も弱くなっていました。少し端の方になってしまったものの、無事に最前列が確保できて一安心です。警備のアナウンスでは、先頭の長刀鉾が四条河原町で辻回しを行っているところとの事でした。

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ところが暫くすると雨脚が強くなり始め、長刀鉾が到着する頃には、まさに土砂降りの雨となってしまいました。アーケードの下に居た私たちも、傘を差さないとずぶ濡れになってしまうほどの降り方です。そんな中で、健気に歩いていた占出山のお稚児さん。これだけ降ると傘もまるで役に立たないですね。

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この日の楽しみの一つが、蟷螂山のカマキリを見る事でした。この人形はカラクリ仕掛けになっていて、羽根を広げたり、鎌を振り上げたりと、ユーモラスな動きを見せてくれるのです。ところが、この日は雨除けの為にビニールが被されており、動きを見るどころか、その姿もはっきりと見えない状況でした。仕方が無いとはいえ、ちょっと残念でした。

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河原町三条に陣取るもう一つのメリットが、この綾傘鉾の棒振り囃子を見られる事です。綾傘鉾は、元治の大火で失われて以来長く途絶えていたのですが、昭和48年に棒振り囃子として復活し、同54年から綾傘を伴って巡行に復帰しました。緩急のリズムに乗ったダイナミックな踊りで、山鉾巡行に華を添えてくれています。

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さしもの雨も、掉尾を飾る南観音山が過ぎていく頃には小降りになっていました。傘を差しながらその後ろ姿を見送る人達です。今年の人出は過去最高を記録した昨年よりも大幅に減ったとの事ですが、この雨ではむしろ良く集まった方だと言えるでしょう。雨の祇園祭は、得難い貴重な体験だったとも言えそうです。

2006年7月17日 (月)

京都・祇園祭 2006山鉾巡行@夏っちゃんぶろぐ

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(放下鉾)

祇園祭の最大の山場である山鉾巡行に行ってきました。朝からの雨でどうなる事かと心配していたのですが、順延されることなく、予定通り実施されました。

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(船鉾)

我が家が陣取ったのは、一昨年と同じ河原町三条の交差点東北角。ここは辻回しを見ることは出来ませんが、比較的場所が取りやすいのが取り柄です。

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(鶏鉾)

今日の雨はかなり激しく、一時はアーケードの下に居ても濡れる程でした。その降りしきる雨の中、傘も差さずにずぶ濡れになって頑張った鉾町の方々、本当にご苦労さまでした。

見物客は、やはり雨のせいでしょう、一昨年よりは少なめでした。でも、気温は23度とこの季節にしては異例の涼しさで、過ごしやすかったのは嬉しかったですね。あちこちに用意されていた団扇には、今日はさすがに誰も手を出していなかったのが印象的です。

とりあえずは速報まで。詳細については明日以降アップします。


2006年7月16日 (日)

京都・洛東 方広寺大仏殿跡 ~功名が辻~

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豊臣秀吉が建立した方広寺は、松永久秀の焼き討ちに遭って焼失した東大寺大仏殿に代わるべきものとして企図されたものでした。そこは気宇壮大な秀吉の事ですから、東大寺を凌ぐ規模の大仏殿を築くべく設計されています。まさに日本史上最大と言うべき木造建築物であり、普請狂と言われる秀吉が築いた数々の建造物の中でも、最たるものの一つでしょう。豊臣家の絶頂期に築かれ、その権勢の象徴ともなった方広寺でしたが、しかし、豊臣家を守護する事なく、かえって破滅の淵に追いやる役割を担う事となってしまいます。

秀吉の築いた大仏殿は、現在の方広寺の東隣にありました。2000年に発掘調査が行われ、南北約90m、東西約55mの規模を持っていた事が確認されています。また、高さは50mと推定され、その中に19mの木造廬舎那仏座像を安置していました。東大寺の大仏は15mですから、木造とは言いながら如何に巨大なものであったかが窺い知れますね。現在その跡地は、遺跡を地下に残したまま「大仏殿跡地緑地」という公園として整備されています。

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1586年(天正14年)に創建された方広寺の大仏でしたが、開眼供養を間近に控えた1596年(慶長元年)に、近畿地方を襲った大地震により崩壊してしまいます。この時、秀吉は倒壊した大仏に向かって、「国家鎮護の為に築かれながら、自分の身も守れなかったのか」と怒気を発し、家来に命じて矢を射させたという伝説が残っています。秀吉は、この倒壊した大仏に代えて、信州善光寺の如来像を本尊として迎える事に決め、大仏殿の完成を急がせませした。そして1598年7月にこの如来像が到着したのですが、秀吉の健康がすぐれなくなったため、その祟りを怖れてすぐに返送されています。しかし、その甲斐もなく8月17日に秀吉が亡くなってしまったのですが、その死は公には伏せられており、方広寺は本尊不在のまま22日に開眼供養を行いました。

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1600年(慶長5年)に、秀吉の子秀頼が亡父の意思を継いで大仏建立を再開します。今度は金銅仏とする事とし、大仏殿の中で鋳造が始められました。しかし、その2年後、鋳造中の大仏から出火し、大仏殿諸共焼け落ちてしまいます。不運続きの方広寺ですが、1610年(慶長15年)に、徳川家康の勧めに従って、秀頼が秀吉の追善供養のために再建を始めます。今度も金銅仏とし、1612年(慶長17年)に高さ19mの大仏が完成しました。現在残っている本尊は、その時の大仏を元に10分の1の大きさに縮小して作られたものだと伝えられています。

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せっかく完成した大仏でしたが、1662年(寛文2年)の地震で小破してしまいます。時の徳川幕府は、世にこれほど無用な存在は無いとして、鋳つぶして寛永通宝にしてしまいました。この時、銭に文の字が刻まれ、文銭、大仏銭と呼ばれたと言います。

その2年後、今度は木造の大仏が建立されたのですが、この大仏もまた1798年(寛政10年)に、落雷による出火によって焼失してしまいました。この時の火災は余程印象に残るものであったらしく、「京の京の大仏つぁんは、天火で焼けてな、三十三間堂が焼け残った、あらどんどんどん、こらどんどんどん、うしろの正面どなた」というわらべうたになって今に伝えられています。

その後、伊勢や尾張の有志によって半身の木造大仏が寄進され、仮殿に安置されていたのですが、これもまた1973年(昭和48年)の火災によって焼失してしまいました。

度重なる不運によりこの世から消滅してしまった大仏ですが、その痕跡はわずかに方広寺に伝えられています。その一つが蓮華座の一部です。この写真は、現在の御本尊の蓮華座ですが、周囲の丸い部分に注目して下さい。

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こちらは御本尊の隣の部屋に置かれている、かつての大仏の蓮華座です。一つ上の写真の蓮華座の丸い部分に相当する訳ですが、両方を比べると如何に巨大な大仏であったかを想像する事が出来ます。

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大仏殿の大きさを窺わせる遺物が、この鉄輪と風鐸です。鉄輪は大仏殿の柱にはめられていたもので、柱の太さを知ることが出来ます。風鐸は屋根の軒下に吊されていたもので、巨大な大仏殿と調和する様に一抱えもあろうかという大きさに作られています。

この鉄輪と風鐸は鐘楼の中置かれており、外からでものぞき見る事は可能です。

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数少ない大仏そのものの遺留品の一つが眉間籠り仏です。これは大仏の眉間に収められていた小さな仏像で、度重なる災難をくぐり抜けて今に伝わる貴重なものです。その受難の歴史を示すように、手足の一部が欠損しているのが痛々しく感じられます。

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この彫刻は、大仏殿を飾っていたという欄間の一部です。左甚五郎作と伝えられる見事なもので、下から見上げる角度で撮ってみました。

方広寺を訪れる事があれば、是非拝観される事をお勧めします。一見して入っても大した事が無いように思えるのですが、拝観料200円でこれだけのものを見ることが出来る上、丁寧な解説もして貰えますよ。鐘楼の中にも入る事が出来ますからね。

次回はその鐘楼を紹介します。

2006年7月15日 (土)

京都・祇園祭 宵々々山@夏っちゃんぶろぐ

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(放下鉾の駒形提灯)

京都に夏の訪れを告げる祇園祭。その夜の祭りである宵山が始まりました。今年は7月14日から16日までの間、各山鉾で祇園囃子が奏でられ、鉾町では秘蔵の屏風を飾る屏風祭が行われます。我が家では、その初日にあたる14日、いわゆる「宵々々山」に出かけてきました。

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普通は京阪にしろ地下鉄にしろ、四条通から行く事が多いのですが、今回は混雑を避ける為に三条通から鉾町へと向かいました。その甲斐あって、普段あまり見ることの無い山と出会う事が出来ました。その一つが黒主山。六歌仙の一人大伴黒主が桜の花を眺める姿を現す人形が飾られている山です。四条通から入ると、あまりの混雑の為に、ここまで北上する前に引き返してしまう事が多いのですよね。

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多くの場合、宵山では山の人形は各鉾町の会所に飾られており、路上で見ることが出来るのは台車だけです。その会所で飾られていた橋弁慶山の人形。右が牛若丸、左が弁慶ですね。五条大橋で二人が出会った場面を表しているのですが、去年の大河ドラマを思い浮かべた人も多かったのではないでしょうか。巡行中には遠過ぎてよく判らない人形も、こうして飾られてあるとその精巧さが窺えてなかなか興味深いです。

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宵山の醍醐味は、何と言っても祇園囃子の生演奏です。この時期、京都を歩けばそこかしこから聞こえてきますが、やはりテープと生とでは大違い。宵山という舞台装置も大切ですね。この音色を聞いただけでもここに来て良かったなと思えます。(写真は北観音山。)

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宵山ならではの光景の一つが、少女達の粽売りです。声を揃えて、「粽どうどすか~。」と呼び込みをする姿は、宵山の風情の一つですね。ここ霰天神山では、路地の奥の会所内に設けた売り場から、スピーカーを通して少女達の声を表通りに流していました。私も可愛い歌声に釣られて入ってみたのですが、お母さん方が背後で見守る中、彼女たちが一生懸命に粽売りに励んでいました。

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ここで買った粽は、一束600円。大体どこで買っても同じ値段の様ですね。ちなみに、この粽は家の入り口に飾って魔除けとするためのもので、中には何も入ってはいません。ところが今年から黒主山で、中身の入った粽を売るようになったそうです。何でも、何も知らずに買って帰った人から「中身が入っていない」と苦情が来る事が多く、その対策らしいですね。粽と言っても普通の「ういろう」ではなく生麩を主体としたものらしいですが、残念ながら今回は買っていません。1本千円と少し高めですが、これから行かれる方、話の種にどうですか。

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そして、こちら南観音山では、粽と共に縁起物のロウソクの呼び込みをしていました。宵山にロウソクの灯火はよく似合いますね。

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写真は、放下鉾周辺の様子です。大通りから一歩入った鉾町の辻は、どこも人波で溢れていました。14日は比較的空いている事が多いのですが、やはり週末に重なった事が大きかったのでしょうね。鉾町の人達が、14日からこんなに混んでいるのは初めてだと囁き合っていたのが印象的でした。

ところで、三条から入った事で困ったのは、南北の室町通と新町通が、共に北行き一方通行になっていた事です。(四条通から北側。南側は今回行っていないので判りません。)一筋違いに南行きにしておいてくれればと思うのですが、実際に南へ向かおうと思えば、烏丸通か西洞院通へ出るしかありません。このため、全ての山と鉾を見て回ろうと思うと、何度となく烏丸通か西洞院通へ出ては南に下るという事を強いられます。このため、これから行こうと思っている人は、あらかじめ地図をよく見て、効率の良いルートを考えて置く事をお勧めします。ちなみに、行き当たりばったりの我が家は、同じ場所を3回も通る羽目に陥りました...。

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宵々々山とあってか、烏丸通はまだ余裕がありました。ほとんどの人が背中を向けていのは、一度鉾町から抜けて、南を目指している人が多いからです。これが今夜、明日ともなれば、人人人で埋まって身動きが取れなくなる事でしょうね。

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こちらは四条通です。さすがに人は多いですが、ここもまだ余裕があります。それでも16日の夜には、きっと人波で埋まってしまう事でしょうね。

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昨年は昼間見た蟷螂山。細工物の人形は見えにくいですが、やはり夜の風情には格別なものがあります。

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屋台のお面を見ると、子供がまだ小さかった頃に買ってやった事を思い出します。当時は一枚800円だったけど、今は幾らになっているのでしょうね。あんまり高くて買う人が少なかったのでしょう、お面を付けて歩いている長男に向かって、そこの「オーグリーン、もう一枚買ってくれ!」と店の人から声を掛けられたのが昨日の事の様です。

人波に押され、汗だくとなった宵山でしたが、やはりその熱気と風情は格別なものがありました。何度行ってもワクワクする、京都を代表するお祭だけの事はありますね。


2006年7月13日 (木)

夏の花@夏っちゃんぶろぐ

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夏の花といえばやっぱりこれ。近くの河原で夕陽を背に撮ってみました。

ん?

と言うことは、ヒマワリが太陽を追っかけて回るという事は無いんですねえ...。

ひと息

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ココログのメンテナンスは無事に終了した様です。とりあえずはサクサク動いてくれてますね。まずは一息と言ったところかな。これがずっと続くと良いのですけどねえ...。

今回のメンテナンスはハードウェアを更新しただけの応急処置で、抜本的な対策であるデータベースの分散化は後日実施するとの事。という事は、また暫くアップ出来なくなる日が来るという事だろうか。その前に、また重くなる可能性があるという事かも...。

色々と不安の種は尽きませんが、とりあえずは復活のご挨拶とさせて頂きます。

2006年7月10日 (月)

更新停止のお知らせ

ココログのメンテナンスに伴い、「ねこづらどき」の更新を停止します。
ここまで概ね日々更新を続けてきたのですが、システム側の都合とあれば仕方がないですね。

最近のココログはほぼ末期症状で、管理画面へのアクセスに時間が掛かるばかりでなく、記事のアップのプロセスがまともに終わる事がありません。プロキシエラーが出た後、暫くして記事がアップ出来ていたら上出来で、トラックバックを送信する事が出来ない状況が続いています。

ココログに依れば、今回のメンテナンスが終了すれば現在起きている様々な不具合は全てが好転するはずとの事です。このメッセージがどこまで信用できるかわからないけれど、今はそれに期待するしかないでしょうね。

メンテナンスの期間は、7月11日(火)14時から7月13日(木)14時までとなっています。この間は、記事のアップ、コメント及びトラックバックの受付が出来ません。

ただ、これまでの例からするとメンテナンスの時間は延長される事が多いので、どうなるかは当日になってみないと判らないでしょうね。それにメンテナンス終了直後はアクセスが集中してエントリーが出来ないという事が通例ですので、「ねこづらどき」の再開は余裕を見て15日(土)からとさせて頂きます。予定では祇園祭の宵々々山のレポートとなるはず。京都の祭りの夜の熱気をお伝えできればと思ってます。

無事に再開できた暁には、また「ねこづらどき」をよろしくお願い致します。

夏の夕暮れ@夏っちゃんぶろぐ

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梅雨の晴れ間の夕暮れ時。
雲の晴れ間に見えた夏色の空です。

京都・洛東 智積院 ~桔梗と蓮~

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昨年もこの時期に訪れた智積院に、今年も行ってきました。目的はやはり桔梗と蓮です。

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参道沿いに咲く桔梗は、そろそろ見頃を迎えています。ここは青と白を主体に薄いピンクの花を見る事が出来ます。ただ、今年は庭園整備の工事中のため、金堂前の一列が無くなっていました。それに、全体として花数が少なくなっている様な気がします。天候不順が影響しているのかも知れませんが、ちょっと残念です。

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でも、やっぱり桔梗の花は良いですね。美しくありながらどこか控えめで、最も日本的な美を秘めている花だという気がします。

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蓮の花は、まだ咲き始めたばかりでした。咲いていたのはこの一輪だけで、ここもやはり開花が遅れている様です。でも、この豪華な花を見ると、やはり夏が来たなと思わずには居られません。

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花は寂しかったですが、代わりに金堂に飾られた幡が風に舞ってなかなか見事でした。

智積院はいつ来ても静かで落ち着ける、とても素敵な場所です。

2006年7月 9日 (日)

京都・洛東 方広寺 ~功名が辻~

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豊臣秀吉が威信を賭けて京都に建築した大仏殿、それが方広寺です。創建は1586年(天正14年)の事で、現在の京都国立博物館の北側に築かれた大仏殿は、奈良の東大寺をもしのぐという巨大な規模を誇りました。豊臣政権は、後白河法皇ゆかりの三十三間堂を「千手堂」という方広寺の山内寺院にしてしまうという程の権勢を示し、東山七条一帯をその寺域としていた様です。その寺域の南限を示すものがこの三十三間堂の南大門。現在は三十三間堂の施設として管理されていますが、元は方広寺の南大門として築かれたものです。
現地に行くと、三十三間堂に隣接はしていますが、境内とはまるで関係のない取って付けたような位置にあり、予備知識が無ければ何のための門なのか理解に苦しむ事でしょうね。この門の西側にはやはり方広寺の遺跡である太閤塀が続いており、今では三十三間堂の南側の土塀としての役割を担っています。

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方広寺南大門は巨大ではあるけれど、その割に質素な感じがするのは、大仏殿が西向きに建っていた事に起因します。すなわち、西こそが正面にあたり、それを示す様に方広寺の西には正面通と呼ばれる通りが残っています。南大門は正門ではなく、脇門だったのですね。では、その西側にあった正門がどうなったかと言うと、今は東寺の南大門になっています。

東寺の元の南大門は1868年(明治元年)に火災にあって焼失してしまい、1895(明治28年)に方広寺の西門を譲り受けて現在の南大門としたのでした。当時の方広寺西門は半ば崩れかけており、崩れ門と呼ばれていたと言いますから、相当な荒れ方をしていたのでしょうね。

方広寺の西門はその南大門と比べると、全体の造りは似ていますが、一回り以上大きく、また意匠も施されていて、正門らしい風格を備えてたと言えそうです。

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方広寺の巨大さを物語る遺跡に、巨石を並べたこの石垣があります。秀吉が配下の大名に命じて運ばせたもので、かつての豊臣家の栄華が偲ばれる遺跡でもありますね。この石垣にも様々な伝説が残っており、その一つとして、「泣き石」があります。

石垣の北の外れにある石は一際巨大で、白い筋があって涙を流している様に見える事から「泣き石」の別名があります。この石は前田利長が運んだのですが、「泣き石」の言われとしてその外見とは別に、負担の重さに利長が泣いたからだとも、あまりの重さに人扶達が泣きながら牽いたからだとも言われています。あるいは、夜中に泣くという伝説もあるそうですね。

今は見る影もなく衰えてしまった方広寺ですが、かつての繁栄を物語る遺跡を尋ねてみるのも面白いですよ。次週は、大仏殿の遺跡と鐘銘事件についてお伝えします。

2006年7月 8日 (土)

京都・洛南 東寺の蓮花@夏っちゃんぶろぐ

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京都の洛南にある東寺を訪れてきました。東寺に来るのは、1月の初弘法以来です。店が無い境内の広い事、広い事。弘法市があると無いとでは、全く印象が異なりますね。

今回の目的は、蓮の花を見る事でした。東寺の蓮池は、大宮通から入ってすぐの宝蔵の周囲にあります。もうそろそろ咲いている頃と思って出かけたのですが、案に相違してこの一輪しか咲いていませんでした。うーん、今年はどこも開花が遅れている様ですね。

東寺の蓮を見るのは初めてなのですけど、ここの蓮は少し小振りで、花びらの数が多い品種なのですね。ぱっと見ると、睡蓮と間違えてしまいそうです。

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本来ならこの角度で沢山の花が咲いている写真が撮れるはずだったのですが、残念ながらつぼみが一つあったただけでした。ここが花で埋まったら、さぞかし見事な景色になるでしょうね。

東寺の蓮を見に行かれるなら、もう少し待ってからにされた方が良いですよ。

2006年7月 7日 (金)

たなばた@夏っちゃんぶろぐ

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今日の大阪の予報は曇りのち雨。でも、なんとか雨は降らずに、夕方にはわずかに夕陽が差していました。このまま天気が回復して、星が見えるかどうかは微妙なところ...。

雲に隠れた天の川の代わりに、桔梗の中に見つけた小さな星をお届けします。

2006年7月 6日 (木)

夏萩 京都・東福寺にて

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緑の苔の上に、誰かがそっと置いたアメジスト...。この宝石の様な花びらは、「夏萩」です。

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萩と言えば秋を代表する花なのですが、夏に咲く種類もあるのですね。これは宮城野萩、なのかな。この季節に萩を見るなんて、何だか不思議な感じがします。

東福寺塔頭・天得院の塀越しに咲いていた可憐な夏の花です。

2006年7月 5日 (水)

祇園囃子が聞こえる@夏っちゃんぶろぐ

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半年ぶりの京都定点観測です。
この季節の京都は、祇園祭一色に染まります。祭りは既に始まっており、1日には吉符入、2日には巡行の行列の順番を決めるくじ取り式が行われました。各鉾町では祇園囃子の練習に熱が入っている様ですね。

この後、10日に神輿洗があり、さらに鉾建が始まります。14日から16日にかけては宵山、そして17日にはいよいよ山鉾の巡行です。今年は宵山が週末に掛かり、さらに17日は海の日で休みになりますから、さぞかし凄い人出になる事でしょう。私も宵山か山鉾巡行に行くつもり。後は天候次第ですね。

祇園囃子の音と共に、京都に本格的な夏がやってきます。


2006年7月 4日 (火)

京都・洛東 東福寺 ~蓮の花~ @夏っちゃんぶろぐ

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京都・東福寺で咲いていた蓮の花。鉢植え故か控えめな花ながら、その美しさは蓮ならではのものです。

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東福寺の伽藍づら。その面目躍如たる重厚な三門とその向こうに見える本堂。三門は室町時代の再建で国宝に指定、本堂は大正から昭和にかけての再建で、その間実に17年もの歳月を費やしました。どちらも見る者を圧倒せずには置かない迫力を有しています。

蓮の鉢はその三門の前に置かれていました。門の巨大さに比べれば、随分と控えめです。修行の邪魔になるからと、境内の桜の木を全て切ってしまったという東福寺ですから、花にはあまり力を入れていないのかも知れませんね。

2006年7月 3日 (月)

京都・洛東 東福寺塔頭 天得院

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「徒然なるままに」のMilkさんに教えて貰った、東福寺塔頭・天得院を訪れてきました。天得院は、四季折々に咲く花で知られる花の寺。この季節には桔梗が見事です。

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天得院の庭は、安土桃山時代に作庭されたという枯山水。でも今は一面の苔に覆われ、すっくとした桔梗が咲き誇る様は、どこか野の原を見ているような野趣を感じます。ここの桔梗でちっょと困るのは、ほとんどの花が南の方角を向いて咲いている事。縁側から見るとみんな後ろ向きなのですよね。そんな中で、やつとこっちを向いている花を見つけて撮らせて貰いました。

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天得院の桔梗は、青と白がほとんどですが、中にはこんなピンクもあります。苔の緑に映えて、なかなかに美しい。

天得院は、実は「功名が辻」縁の寺でもあります。豊臣氏を滅ぼす大阪の陣のきっかけとなったのが、1614年(慶長19年)に起きた方広寺鐘銘事件。問題となった「国家安康」「君臣豊楽」の文字を含んだ銘文を撰したのが、時の天得院住職であった文英清韓でした。これは徳川家を呪詛するものであると激怒した家康は、怒りのあまりに天得院を取り壊してしまいます。方広寺の鐘そのものにはお咎めは無かったのですけどね。現在残っている堂宇は、その後100年以上を経た1789年(天明9年)に再建されたものです。徳川家の怒りを解くには、それだけの年月を必要としたのですね。

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天得院の玄関で咲いていた八重咲きの桔梗。桔梗にも八重咲きがあったのですね。普通の桔梗に比べて花弁が大きく豪華で、それでいて桔梗らしい気品を失っていない、とても見事な花でした。

天得院の「桔梗を愛でる特別公開」は、7月16日まで行われています。受付時間は午前9時30分から午後4時まで、拝観料は300円です。

2006年7月 2日 (日)

京都・洛東 養源院 ~功名が辻・伏見城遺構~

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京都東山七条に、今年3月にオープンしたばかりのホテルハイアットリージェンシー京都があります。そのきらびやかなホテルの南隣に佇む古寺が養源院。今は知る人ぞと知るという存在になっていますが、江戸期には徳川家の菩提寺として隆盛を誇った寺でした。

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養源院は、元はと言えば、豊臣秀吉の側室淀殿が、その父浅井長政の追善の為に建立したのが始まりです。長政の21回忌にあたる1594年(文禄3年)5月の事で、寺名は長政の院号から採られています。豊臣氏が建てた寺が徳川家の菩提寺になったというのは奇妙な気がしますが、これには淀殿の妹、お江(崇源院)の存在が関係しています。

養源院は1619年(元和5年)に火災によって焼失してしまうのですが、これを再建したのが徳川秀忠の妻であった崇源院でした。1621年(元和7年)の事で、既に豊臣氏が滅んだ後の事だったのですが、崇源院にとっても長政は父にあたり、豊臣氏縁の寺と言えども秀忠が拒む理由は無かったのですね。これ以後、養源院は徳川家の菩提寺となり、歴代将軍の位牌を祀る様になりました。

再建にあたっては、伏見城の中御殿を移設して本堂としました。そしてその際、関ヶ原の戦いの折りに伏見城を守備し、落城にあたって自刃して果てた鳥居元忠以下の将兵達が、最期の時を迎えた廊下の床板も運び込み、ここで供養する事になりました。しかし、彼等の血が染みこんだ床板を足で踏みつける事は憚られたため、天井材として用いる事とし、この事から養源院は血天井の寺としても知られる様になります。

いま養源院を訪れると、案内人が竹竿を持って天井の染みの跡を指し示し、これが鳥居元忠の血痕、これが別の武将の手の跡といった具合に説明してくれます。どこまで本当なのかは判りませんが、聞いているとだんだんそんな風に見えてくるのが不思議ですね。

なお、伏見城縁の血天井の寺は京都に5カ所あって、以前に紹介した正伝寺もその一つです。

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養源院には、元忠達の霊を慰めるために描かれた、俵屋宗達筆と伝わる十二面の襖絵と八面の杉戸絵があります。中でも面白いのが杉戸の象や麒麟、獅子の絵で、本物を見たことが無い宗達が聞き伝えの知識を元に想像で描いたものですから、実物とはかけ離れた何ともユーモラスな姿をしています。でもそこは宗達ですから、デフォルメされた中にも計算され尽くした美しさがあり、この絵を見ているだけでいつまでも飽きが来る事がありません。

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江戸期を通して、徳川家の菩提寺としての格式を誇った養源院でしたが、明治以後は急速に衰えます。徳川家の庇護を失った上、寺域の東側は東大路通の建設で削られ、北側もまた賀陽宮邸の建設の為に大きく後退しました。このため、かつてあった大書院、小書院、茶室等が失われ、現在の縮小した姿となっています。

往時の壮大な寺観こそ失いましたが、境内には町中とは思えない程に楓樹や桜が植わっており、春の花や秋の紅葉はなかなか見事です。「功名が辻」で伏見落城が描かれるのは多分秋も深まった頃の事でしょうから、紅葉を見がてら、悲運の武将達を偲びに訪れてみてはいかがでしょうか。

養源院の南は法住寺、西は三十三間堂に隣接しており、さらに東には通りを隔てて智積院もあって、このあたりだけで一日過ごす事も可能ですよ。

(養源院は屋内撮影禁止のため、内部の写真はありません。)

2006年7月 1日 (土)

京都・洛東 無人野菜売り場~白川~

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木戸の前に並べられた野菜と背後に貼り付けられたビニール袋。そして、郵便受けの横に「お金はポストに入れて下さい」と書かれた貼り紙。いわゆる無人の野菜売り場ですね。これがどこかの田舎の畑近くにあるなら珍しくも何ともありませんが、祇園にほど近い京都の町中にあるとしたらどうでしょう?

ここは骨董店街として有名な新門前通から白川へと抜ける道筋です。以前は普通の八百屋さんだったのですが、先日通りかかるとこんな無人の店に変わっていました。祇園の真ん中に比べれば静かな場所とはいえ、地元の人だけでなく誰が通るか判らない道であり、どう見ても不用心な気がします。でも、こうして商品が並んでいる以上、大した事故もなく、ちゃんと商売として成立しているのでしょうね。これだけ堂々と並べてあると、かえって黙って持って行き難いものなのかも知れませんが...。

世知辛い世の中にあっても、まだまだ人の良心は信ずべきものだという事の様ですね。何だかちょっと嬉しい気がします。


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