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2006年6月

2006年6月29日 (木)

京都・洛東 道の向こう側

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石畳の奥にしつらえられた控えめな石の門。それは入る者を拒むのではなく、ここから先は少し違う街が始まるという印。かえってその奥へと誘われている様な気がします。

石塀小路にて。

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賑やかな通りにぽっかり開いた暗い通路と、その向こうに見える明るい世界。まるで異次元に通じているかのような錯覚を覚えさせる不思議な路地。

三年坂近く、清水山荘への入り口。

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道の奥の白壁に穿たれた円い窓。単純な意匠ですが、あの窓の向こう側には何があるのだろうと、覗いてみたくはなりませんか。

高台寺岡林院にて。

2006年6月28日 (水)

京都・洛東 清水寺~随求堂・胎内めぐり~

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清水寺の仁王門を潜り、鐘楼を横に見ながら階段を登ると、正面に白壁の御堂が見えてきます。これが随求堂で、塔頭「随求院」の本堂です。つい最近解体修理が完了したばかりで、新築同然の姿に蘇りました。長く1718年の再建と伝えられていたのですが、解体修理の際に発見された棟札により、1735年の再建であった事が確定しています。

この随求堂では、胎内くぐりを体験する事が出来ます。御本尊の大随求菩薩は、「信仰者のあらゆる求めに随(したが)い、御利益をくださる万能の菩薩」とされる大変功徳の高い仏様なのですが、残念ながら普段は公開されない秘仏となっています。そこで本堂の地下に通路を巡らし、御本尊の真下にある「ハラ」という梵字が書かれた石に触れる事により、諸願成就を願うというのが胎内くぐりの趣旨です。

胎内(戒壇)くぐりについては先月も得浄明院で体験したばかりですが、今回は息子も一緒とあって親子でくぐられせて頂く事にしました。

階段を下りると、すぐに真っ暗な通路が始まります。そこから既に仏様の胎内に入らせて頂いているという訳ですね。板壁を伝って歩いた得浄明院と違って、ここには大きな数珠の手すりがあり、それに縋って歩を進めて行きます。曲がりくねった通路を暫く行くと、スポットライトに照らされた石が暗闇の中にぽっかりと浮かんでいるのが見えて来ました。写真に撮れなかったのが残念ですが、艶めかしくすら感じるほどに、とても美しい姿でしたよ。石に触れて願い事を唱え、再び歩き始めるとすぐに出口に到着します。かなり短めで、ライトが点いていたぶん判りやすくはありましたが、初めて体験するには丁度良いかも知れません。通路の途中でエアコンのランプが点いていたのはご愛敬というものでしょう...。

この胎内くぐりは割と最近に行われる様になったもので、2000年にあった清水寺の御本尊公開に合わせて始まりました。ごく小規模な施設ですから、信州・善光寺の様な本格的な戒壇巡りを知っている人には物足りないでしょうけど、闇に浮かぶ梵字を見るだけでも値打ちがあると思います。清水寺参拝の折りに試してみられてはいかがでしょうか。

料金は一人100円で、午前9時から午後4時まで行われています。

2006年6月27日 (火)

京都・洛東 紫陽花の道 ~清水寺~

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鮮やかな青色に染まった紫陽花の道。ここは京都・清水寺の境内、奥の院から子安の塔へ向かって少し歩いたあたりです。

それにしても、ここって、こんなに紫陽花が咲いていたっけかな。もしかしたら私が知らなかっただけで、以前からあったのかしらん?

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振り向けば、緑の中に浮かぶ舞台が見えます。舞台からこちらを眺めれば、山の懐に青く染まった帯の様。

この季節の清水寺も、なかなか捨てたものではありません。

2006年6月26日 (月)

京都・洛東 雨の日、清水寺

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突然降り出した雨に、屋根の下へと急ぐ人々。こういう時、屋根のある場所は助かりますね。

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天気予報を信じて傘を持っていない人が多かったのでしょう、さっきまで人混みがしていた舞台も、蜘蛛の子を散らした様に閑散となってしまいました。残ったのは用意の良いカップルだけ。この背後の本堂の軒下には、人垣が出来ていたのですけどね。

急な雨は困るけど、やっぱり雨が降ると緑が濃くなりますね。
新緑から深緑へと、季節は着実に移り変わっています。


2006年6月25日 (日)

京都・洛東 雨の日、石塀小路

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雨が似合う道として、まず思い浮かべるのが石塀小路
石畳も板塀も、雨に濡れるとしっとりとした風情になります。

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この石塀は、傾斜地に宅地を造成する際の土台として築かれました。
そしてまた、石畳と共に高級感を演出するための装置でもあります。
石塀小路の風情は、綿密な計算の上に組み立てられたもの。
決して偶然に出来上がったものではありません。

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かつて映画産業が盛んだったころ、この小路は監督や俳優の隠れ家でした。
その宿の一つ田舎亭は、連続テレビ小説「オードリー」の舞台となった所。
今は片泊まりの宿として、根強い人気を保っています。

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石塀小路は、入るのに少しためらわれる小径。
特にこの入り口では、入ったものかどうかと迷う人をよく見かけます。
東山の隠し里、そんな雰囲気を今もまだ残しているのですね。


2006年6月24日 (土)

京都・洛北 大徳寺塔頭 総見院 ~功名が辻~

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本能寺の変から100日後にあたる1852年(天正10年)10月11日、京都・大徳寺において信長の葬儀が行われました。主催したのは、山崎の合戦で見事主君の敵を討った羽柴秀吉です。

葬儀は11日から15日にかけて行われ、大徳寺のみならず各派の僧侶5千人が参加し、警備の兵力だけでも3万人を動員するという空前の規模のものでした。この大々的な葬儀は彼が信長の後継者たる事を天下に示し、北陸に拠る柴田勝家を牽制するためのものであったと言います。

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信長の遺体は遂に発見される事なく終わっていたのですが、この葬儀にあたって秀吉は香木を刻んで仏像を造らせ、棺に収めました。そして、その棺を「金紗金襴で包み、それを金銀で装飾した御殿に収め、御殿を輿に乗せて」蓮台野にまで運びました。輿を担いだのは信長の4男で秀吉の養子にとなっていた於次丸、それに父が信長と乳兄弟であった池田輝政など縁の人々でした。秀吉は太刀と位牌を持って後に従っています。蓮台野でこの棺が荼毘に伏された時、炎が吹き上がる事に香薫があたりに漂ったと言いますから、心憎いまでに計算され尽くした演出だったのですね。

ただ、秀吉の推挙により織田家を相続し、本来は喪主たるべき地位にある三法師君は叔父の信孝の養育下にあり、その信孝は勝家に擁立されて秀吉と対立関係にあったため、この場には臨席していません。信長の葬儀とは言っても肝心の織田家とは縁の薄いものであり、秀吉の政治的演出のためのものであったと言われる所以ですね。

(この項は司馬遼太郎著「新史 太閤記」を参照しています。)

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総見院は、信長の一周忌に合わせて、秀吉によって建立されました。開祖は千利休の師匠として知られる古渓宗陳であり、当時高僧とされていた一人です。秀吉は信長の木造を刻ませてこの寺に収め、供養料として銭一万貫、米千石、維持費として銀千枚と録50石を寄贈しています。

総見院は大徳寺の中でも壮大な規模を誇った塔頭だったのですが、明治の廃仏毀釈の波を受けて破壊され、一時は廃寺同然となっていました。現在の建物は大正年間に再建されたものですが、正門と土塀、それにこの鐘楼だけは破壊を免れ、創建当時のままの姿で残されているのだそうです。

現在の総見院には、信長の木像のほか織田家の人々の供養塔が現存しているとの事ですが、普段は非公開の寺であるため、私はまだ見た事がありません。毎年春と秋に特別公開が行われているので、機会を見つけて拝観して来ようと思っています。

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秀吉に依る信長の葬儀と総見院の建立の後、大徳寺に塔頭を持つ事が戦国大名達にとってのステータスとみなされる様になり、彼等に依る寄進が相次ぐ様になります。三好氏の聚光院、細川氏の高桐院、小早川氏の黄梅院、黒田氏の龍光院、前田氏の芳春院などがそうで、この三玄院も、浅野幸長、石田三成、森忠政の三大名の寄進によって創建されました。大徳寺は信長の葬儀のおかげで、その後の隆盛がもたらされたのだとも言えそうですね。

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この大徳寺にも日々大勢の参拝客が訪れていますが、修行を重んじる非公開寺院が多い事もあってか俗化を免れ、広い境内は静謐さが保たれています。大徳寺は、公開塔頭の名園を巡りつつ、かつ落ち着いた境内を静かに散歩する事もできる、京都の中でも指折りの素敵な場所の一つです。

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2006年6月23日 (金)

京都・洛東 二年坂

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二年坂で見つけた紫陽花。古い町並みにも良く似合う花です。

二年坂界隈に人が住み始めたのは江戸時代の半ばの事。1785年に桝屋喜兵衛という人が、このあたりを開拓する許可を得て町を拓きました。それゆえ、このあたりを桝屋町と称します。今のような町並が整ったのは大正の始め頃で、竹久夢二がかさぎ屋の隣に仮寓していたのもその頃の事ですね。

そして土産物店がひしめくようになったのはずっと後の事で、昭和の終わりから平成に変わる頃ではなかったかしらん?それまでは仕舞屋がほとんどで、割と静かな道筋だった様に覚えています。

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二年坂は三年坂ほど急ではない、たらたら坂。女性的な優しさを感じます。でも油断は禁物。ここで転ぶと三年坂より1年早く、2年で死んでしまいます。くれぐれも足下にはご注意を。

もし転んでしまったら?うーん、やっぱり三年坂の瓢箪屋さんに駆け込まないといけないのだろうなあ...。

2006年6月22日 (木)

京都・洛東 雨の日、八坂の塔

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今年は空梅雨かと思っていたら、本格的な雨になりました。これから暫くは梅雨らしい天気が続くそうですね。

こういう季節に似合う花と言えばやはり紫陽花。八坂の塔のすぐ下でも紫陽花が鮮やかな色で咲いていました。


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この日(6月17日)は晴れ時々曇りの予報だったのですが、大外れに外れて午後から本格的な雨。予定が狂ってちょっと困ったものの、開き直って雨の風情を楽しむことにしました。

真如堂でもそうでしたけど、古い塔にはなぜか雨が似合いますね。

2006年6月21日 (水)

京都・洛東 白川 行者橋

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比叡山に流れを発し、京都の洛東を流れる白川。その白川が知恩院の西側を過ぎるあたりに、細い石橋が架かっています。その橋が行者橋。延暦寺の千日回峰を行う行者が渡る橋である事から、こう呼ばれる様になりました。

幅はどれくらいでしょう、そう50cmあるか無いかぐらいかな、人一人が歩くのがやっとで、途中ですれ違うのは無理ですね。ぱっと見、渡るのを躊躇したくなる様な橋ではあります。

ところが、この橋の西側には古川町商店街があって、暫く見ていると、買い物帰りの主婦が買い物袋をぶら下げながら、平然と渡って行く姿に出会ったりします。また、地元の子供達は、自転車に乗ったまま、スイスイと渡って行きました。

かと思うと、観光に来たのでしょうか、暫くじっと橋の袂で眺めていた二人連れの女性が、意を決した様におっかなびっくり渡り始めます。おっと、とっと、という感じでいかにも危なげでしたが、なんとか無事に渡りきる事が出来ました。

行者橋は、自分で渡るよりも側で眺めていた方が、色々な光景を見ることが出来てなかなか楽しいですよ。

夏至

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今日6月21日は夏至。

今年は上の子が修学旅行で作って来たロウソクがある事だし、
「100万人のキャンドルナイト」に参加してみようかな、と思ってます。

て、全国一斉のライトダウンは18日だったのか...。

とりあえず今日まではOKの様ですね。消灯まであと少し。

2006年6月20日 (火)

京都・洛東 真葛ヶ原 ~双林寺~

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わが恋は 松を時雨の染めかねて 真葛ヶ原に風さわぐなり  慈円 (新古今和歌集)

京都・円山公園の南、野外音楽堂の東に、公園の飛び地の様な一角があります。ここが真葛ヶ原と呼ばれる所で、鎌倉初期の天台座主慈円僧正が詠んだ歌により、和歌の名所として有名になった場所です。往時の真葛ヶ原は、その名のごとく葛や茅の生い茂る原野であり、東山から流れ出る菊渓川の氾濫原でした。範囲も今よりずっと広く、知恩院の三門のあたりまでの一帯を指していた様です。

その真葛ヶ原にある小さな寺が双林寺。京都屈指の観光ルートの中にありながら今は忘れられた様になっていますが、かつては都屈指の繁栄を誇った大寺でした。

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双林寺の創建は805年(延暦24年)に遡り、伝教大師の開創と伝えられます。(御本尊の薬師如来もまた伝教大師作と伝えられ、重要文化財に指定されています。)延暦寺の建立後はその別院となり、鎌倉期には数万坪の境内に17の子院を有する大寺として栄えました。平安時代末期の歌人として知られる西行法師も、この地で修行を積んだと伝えられています。しかし、南北朝の動乱によって荒廃し、一度は再建されたものの、応仁の乱によって再び灰燼に帰してしまいます。そして、1584年(天正12年)に豊臣秀吉がこの地で花見を催した事を期に、秀吉の手によってやっと本堂が再建されました。

どうにか一息をついた双林寺でしたが、その後は次第に衰退の一途を辿ります。1605年の高台寺の創建、1653年の東大谷廟の造営にあたってそれぞれ寺域が削られ、境内のかなりの部分を失ないます。そして明治になると円山公園の整備によって、さらに大正期には野外音楽堂の建設によって境内が縮小し、現在では本堂と飛び地境内である西行堂を残すのみとなってしまいました。

今はほとんどの人が、真葛ヶ原と聞いてもピンと来ない事でしょうね。東大谷墓地への入り口と言った方が判りやすいかも知れません。双林寺にしても参道に墓石の見本が並べられており、一見して石屋なのか寺なのか判らないといった状況にあります。境内には頓阿法師、西行法師、平康頼の供養塔もあるのですが、ほとんど知る人も居ないでしょう。観光に力を入れる気は無い様に見受けられますが、せっかくの由緒ある寺が埋もれているのは残念な気がします。

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真葛ヶ原は西行法師が、

願わくば 花の下にて春死なん その如月の望月の頃

と詠んだ場所とも言われ、かつては桜の名所として知られていました。また萩の名所だった事もあり、近年これを再現しようとした事もあったのですが、残念ながら失敗したらしく、萩の木は根付いていない様ですね。正直に言って殺風景な場所なのですが、わずかに一群の紫陽花が植えられており、今の季節には見事な花を見せてくれています。

西行堂の前には、いつ頃作られたのかは判りませんが、高台寺から清水寺に向かう人のための道しるべが置いてありました。「左へ左」という面白い案内の仕方ですが、確かにこの場所からなら、ひたすら左の方向に行けば清水寺に行き着きますよね。ただあんまり目立っていないので、どれだけの人にこの道しるべが役に立って来たのかは定かではありません...。

2006年6月19日 (月)

京都・祇園白川 ~紫陽花忌~

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紫陽花忌とは多佳女忌のことなるか あはれあはれと思ひ目つぶる

吉井 勇

京都・祇園白川にある「かにかくに碑」は、昭和30年に吉井勇の古希を記念して建てられました。この石碑のある場所は、この碑に刻まれている「かにかくに」の歌が詠まれたお茶屋「大友」の跡地です。そして、その脇に植えられている紫陽花は、大友の女将で吉井勇と親交のあった磯田多佳が好んだ花でした。

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磯田多佳は1879年(明治15年)に「大友」の次女として生まれた人で、お茶屋の家付き娘として、姉と共に祇園の舞妓となりました。すらりとした美人だった姉と違って、背が低くさほど容貌に恵まれなかった多佳は、三味線などを弾く地方に回る事が多かったと言います。華やかな舞台に立つことが少なかった多佳は、その分俳句や和歌に興味を持ち、やがて自分で詠む様になります。この事が当時の文人達に知られる様になり、多佳は才女舞妓として有名になりました。

多佳は一度は他家に嫁ぎますが、夫に早く先立たれため、実家に戻って大友を切り盛りする様になります。多佳は舞妓時代からの画家や文人とのつきあいを大切にしたため、大友はいつしか文人客が集うお茶屋となり、文芸に造詣の深かった彼女はやがて文芸芸妓と呼ばれる様になりました。多佳の知性と人柄に惹かれて贔屓となった文人・画家達の名を上げれば、吉井勇を始めとして、夏目漱石、谷崎潤一郎、志賀直哉、高浜虚子、浅井忠、横山大観など錚々たる面々が並びます。この事はまた、祇園の名声を高める事にも繋がって行きました。

漱石と多佳の交流については、大正4年に漱石が胃痛の療養の為に京都を訪れた際、漱石のファンであった多佳が木屋町の旅館を訪れ、漱石の身の回りの世話をした事に始まっています。

春の川を 隔てて男女哉

漱石が詠んだこの俳句には、「木屋町に宿をとりて、川向の御多佳さんへ」とのただし書きがあります。これは漱石が泊まっていた木屋町の宿から、鴨川を挟んだ多佳の住む大友の方角を見ながら詠んだものだと言われます。一説には、多佳に北野天満宮へ梅見に行く約束をすっぽかされた漱石が、ちょっと拗ねた気持ちを詠んでみせたものだとも言われています。いずれにしても、二人の心の交流の程が偲ばれる句ではありますね。今は鴨川に架かる御池大橋の西の袂に、この句を刻んだ石碑が建っています。

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「かにかくに碑」の側に植えられた紫陽花は、どういう訳かあまり育ちが良くない様ですね。その代わりという訳でもないでしょうけど、白川沿いにはあちこちに紫陽花が植えられており、この季節の祇園街を鮮やかに彩っています。あたかも、かつて祇園の名声を高めた名女将の在りし日の姿を、慕っているかの様でもありますね。

2006年6月18日 (日)

京都・洛中 六角堂 ~生け花発祥の地~

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京都市中京区烏丸六角西入るという、およそ京都のど真ん中と言うにふさわしい場所にある寺が、紫雲山頂法寺、通称「六角堂」です。

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この寺がいかに京都の中心に位置するかを示すのが、この「へそ石」と呼ばれる六角形の石です。この石はかつての六角堂の礎石とも言われ、次の様な伝説が伝えられています。

六角堂は聖徳太子によって創建されたと伝えられ、平安京よりも古い歴史を持つ寺です。平安遷都にあたって街区を定めたところ、六角堂が道路の中心部にあたる事が判りました。このため、桓武天皇が御堂に向かって遷座を祈願されたところ、俄に一天かき雲って怪しい風が巻き起こり、御堂がひとりでに五丈(約15m)ばかり北へ移動されました。その跡に残ったのがこの石と伝えられ、京都のほぼ中心にあたることから「へそ石」、あるいは「要石」と呼ばれる様になりました。長く六角通の真ん中にあったのですが、明治になってから今の境内の中に移され現在に至っています。

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六角堂は天台宗に属し、聖徳太子の持仏と伝えられる如意輪観世音菩薩を御本尊とします。平安期より洛陽七観音の一つとして信仰を集め、後に西国三十三カ所第18番札所と定められたことから、今も御朱印を求める多くの参拝客で賑わっています。

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六角堂は、その名のとおり六角形をした御堂なのですが、下から見ている限りなかなかその全体像を掴む事が出来ません。ところが、今は有り難い事に西隣にあるWEST18(西国三十三カ所巡りの18番札所の意)というビルの展望式エレベーターが参拝客に解放されており、上からこの御堂の形を見る事が出来る様になっています。枠がちょっと邪魔ですが、確かに六角形をしている事は確認出来ますよね。

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本堂の東北にある赤い御堂が太子堂。六角堂は、聖徳太子が四天王寺建立のための用材を求めてこの地にやって来たとき、持仏のお告げによって六角形の御堂を建てたのが始まりとされています。この太子堂はその故事に因んで建てられたもので、内部には太子御自作とされる南無仏の像(聖徳太子2才の像)が安置されています。

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そしてその西に広がる池が太子が沐浴をしたと伝えられる泉を復元したもので、華道の家元である池坊発祥の地でもあります。

池坊とはこの池のほとりにあった僧坊の事で、聖徳太子から六角堂を守護する様に命じられた小野妹子が建てたと伝えられます。妹子は太子の教えに従って朝夕仏前に花を供え、代々の住職がこれを伝えた事がいけ花の始まりとなりました。

実際にいけ花としての原型が成立したのは室町時代とされ、安土桃山から江戸初期にかけて現在のいけ花の形式が完成しました。

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本堂西側にある「いけ花発祥の地」の石碑の背後には、室町時代に池坊専応が著した「池坊専応口伝書」の冒頭の部分が記されています。この口伝書は「大巻伝」とも言い、初めていけ花理論を確立したものとされ、いけ花の根本を示す「花伝書」として池坊家に相伝されているのだそうです。

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境内とWEST18の間に植えられていたキンシバイは、まだ咲きかけたばかりの様でした。この写真は6月10日に撮ったものなので、そろそろ見頃を迎えている頃かも知れませんね。

六角堂はビルの谷間にあるお寺で、静けさや京都らしい風情といったものとは無縁です。その代わり、境内には石不動や一言願い地蔵、わらべ地蔵などがあり、現世利益を求める町衆の願いが籠もっているような気配が漂っています。何か願い事がある時には、ここを訪れると望みが叶うかも知れませんよ。


参考 「六角堂と池坊」

2006年6月17日 (土)

京都・洛東白川 光秀首塚 ~功名が辻~

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1582年(天正10年)、天正天王山の戦いで羽柴秀吉に敗れた明智光秀は、坂本城を目指して落ちていく途中、小栗栖の藪の中で土民に襲われて命を落とします。光秀の首は秀吉の手に渡り、本能寺に晒されたとも、粟田口の刑場に晒されたとも伝わります。

その光秀を供養するために建てられたのが、三条白川橋を下がったところにある光秀祠です。いつ誰の手で建てられたのかは定かではありませんが、ここには本尊として光秀の木像が祀られており、併せて遺骨も納められていると言います。

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その祠の前にあるこの石塔が光秀の首塚とされるものです。この石塔の言われについては諸説があり、三条粟田口に晒された後、供養の為にこの石碑が建てらていたのを、この地に住んでいた明田氏(明智氏の縁者?)がもらい受け、自宅に移して菩提を弔ったという説、敵の手に渡さぬ為に小栗栖から腹臣が運んで逃げたものの、夜が明けたためにこの地に埋めたとする説などがあります。さらに、当初は今よりもう少し東よりにあったのですが、後に現在の場所に移されたのだとも言います。

光秀の首が晒された場所にも冒頭に記した様に二通りの説があり、また首は偽物という説からさらには生存説まであって、どれが正しいのかはまさしく藪の中です。

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「長存寺殿明窓玄智大禅定門」(光秀の戒名)と記されたこの石碑は、明治36年に歌舞伎役者の市川団蔵によって建てられました。かつてこのあたりに寄席があり、団蔵はそこで光秀の役を演じていた縁から、この碑を建てたのだと言います。役者が実在の人物を演ずるにあたって、あらかじめその人の墓参りをするという話は良く聞きますが、わざわざ墓碑を建てるというのは尋常ではないという気がします。それほど光秀の役に入れ込んでいたのか、余程の大当たりを取ったのかしたのでしょうか。それにしても、こんな場所に寄席があったというのも驚きではありますね。

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この祠を管理されているのが、白川沿いにある餅寅という和菓子屋さんです。祠への道の入り口にあり、横に長い「一」の字を看板にされています。光秀の家臣がこの地に首を埋めたとする伝承は、この店に伝わる資料に記されているものなのだそうですね。

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ここで売っているのが、「徒然なるままに」でも紹介されている「光秀饅頭」。黒糖を使った粒餡を薄皮でくるんだ饅頭で、桔梗の紋所が刻印されています。あっさりとした甘さで、なかなかの美味でした。

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そして、去年に訪れた時から気になっていたのが「みな月」です。6月限定、なのかどうかは判りませんが、白、黒糖入り、抹茶入りの3種類が売られていました。今回食べてみたのがこの黒糖と抹茶。どちらも甘さ控えめなのは光秀饅頭と同じで、もちもちとした食感も良く、今まで食べたみな月の中でもかなり美味しい部類に入ると思います。

光秀祠の場所は判りにくいのですが、この餅寅を目標にすると判りやすいかも知れません。地図はこちらのページを参照して下さい。

2006年6月16日 (金)

京都・洛中 不明門通 ~因幡薬師~

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烏丸松原東入るにある因幡薬師。本尊が日本三大薬師の一つに数えられ、正式には平等寺と呼ばれます。町中の入り組んだ場所にあり、現在は狭くなっていますが、江戸期以前は境内が今よりもずっと広く、歌舞伎を始めとして様々な興業が行われる大層賑わう場所だったそうです。浄瑠璃発祥の地とも言われている様ですね。

新選組ファンにとっては、芹沢鴨が偽物と思って刀を突きつけた虎に吠えられて驚いた場所として記憶されている所です。大河ドラマ「新選組!」で、芹沢が色鮮やかなオウムを洗ってみようと捕まえかけて、反対に「オマエ、アホカ、シヌデ」と鳥にからかわれた場面がありましたが、その舞台になったのもここでした。

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その因幡薬師から南に延びる道は、不明門通(あけずのもんどおり・あかずのもんどおりとも)と呼ばれます。これもまた不思議な通り名ですが、その由来は因幡薬師にありました。

かつて因幡薬師の南門は、ずっと閉ざされたまま開かれる事はありませんでした。その理由は伝わっていないなのですが、その門に面した通りという事から付いた名前なのだそうです。当時は洛中でも有数の賑わった寺でしたから、その寺の門が開かないとなれば、その不思議さ故に通り名になったものなのでしょうね。

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幕末の大火で焼けて以来すっかり衰えてしまった因幡薬師ですが、近年はかつての賑わいを少しでも取り戻そうと、フリーマーケットが開催されているそうです。何時の日か誰でもが楽しめる場所として、復活してくれると嬉しいですね。

2006年6月15日 (木)

京都・洛中 天使突抜通 ~五條天神宮~

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京都の洛中、西洞院松原下がるにある五條天神宮。以前にも義経と弁慶が出会った場所として紹介した事がある神社です。

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その神社の西にある道が、この天使突抜通。「てんしつきぬけどおり」と読むのですが、京都ならではの変わった通り名の一つです。何やら怪しげな気配の漂うこの奇妙な名の由来は、五條天神宮にありました。

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普通、天神社といえば菅原道真公を思い浮かべますが、この神社は平安京遷都の時に弘法大師によって大和国宇陀郡から勧請されたもので、道真公とは関わりがありません。この神社の祭神は少彦名神(スクナヒコナノミコト)であり、少彦名神は別名、手間天神とも天子様とも呼ばれます。そのことから、この神社は創建当初は天使の宮(天使社)と呼ばれ、後に五条天神宮と改められています。往時は東西4町、南北5町という広大な神域を有する大社でした。

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天使突抜通は、豊臣秀吉の京都改造の時に、五條天神宮=天使社の境内を貫通して作られた道です。すなわち、天使社の境内を突き抜ける道だった事からこの名が付けられたのでした。何とも直接的な名付け方で、由来を知ってしまうと味気ない気もしますね、...。

今は天使突抜通と言うより東中筋通と呼ばれる事が多くなっているそうですが、地名として天使突抜1丁目から4丁目までが現存しており、初めて目にする人はやはり驚く事でしょうね。ただし、ロマンを求めて現地を訪れたとしても、民家が密集しているごくありふれた生活道路でしかありませんので、過度の期待は抱かれぬ様にして下さい。

2006年6月14日 (水)

蛍、舞う 京都・洛東 哲学の道

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暗闇に舞う青白い光芒。哲学の道に今年も蛍が舞っていました。(写真をクリックすると大きくなり、蛍の光をはっきり見る事が出来ます。)

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(写真を大きくすると、下の方に蛍が3匹飛んでいるのが判ります。)

場所は法然院橋のすぐ下流。銀閣寺駐車場から歩いた中では、一番数多く見ることが出来た場所です。さらに南禅寺側に行くとどうなっていたのかは判りませんが、集まった人達が話しているのを聞いた限りでは、このあたりが最も見応えがあった様です。

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今月の初めに訪れた時は全く姿を見ることは出来ませんでしたが、今日(平成18年6月14日)は乱舞とまでは行かなかったものの、常時数匹づつが光を放っているという状態でした。これだけ見せて貰えば、十分に満足です。

天気の方も、すぐ近くの百万遍あたりでは夕立の様な激しい雨が降った様ですが、哲学の道周辺ではぱらついた程度で傘を差す必要も無く、わずかの差で助かった様です。見事な蛍の舞が見られた事と併せて、これはかなりツイていたと言えるのかも知れませんね。

2006年6月13日 (火)

京都・寺町二条 八百卯~檸檬の店~

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四条通から三条通にかけてはアーケードに覆われ、寺町京極と呼ばれる賑やかな寺町通も、御池通を越えると急激に細くなり、北行き一方通行の道になっています。その寺町通が東から来た二条通と出会う角に4階建ての小さなビルが建っています。そのビルの一階にある店が八百卯。梶井基次郎の檸檬で有名になった果物屋さんです。

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檸檬の中で八百卯は、「決して立派な店ではなかったが、果物屋固有の美しさが最も固有に感じられた」と紹介されています。しかし、現在はガラスの向こうに果物が並べられているものの、外見からはあまり果物屋らしさは感じられず、うっかりするとそれと気付かずに通り過ぎてしまうかも知れません。2階はフルーツパーラーYAOUになっていて、ここの果物を楽しむ事が出来る様になっています。

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二条通に面したショウウインドウには、檸檬に関連した記事と共に沢山のレモンが飾られており、ここが檸檬の店である事を誇示しています。

梶井基次郎は、1901年(明治31年)に大阪で生まれています。長じて後、京都の三高で5年間を過ごした事があり、その時の経験からでしょう、「檸檬」や「ある心の風景」といった京都が舞台となった作品を残しています。彼は1932年(昭和7年)に31歳の若さで亡くなるまで20編あまりの小編を著しましたが、生前は文壇から大きく認められるには至りませんでした。彼の作品が評価される様になったのはその死後の事で、現在では昭和の古典とまで評され、根強い愛読者を持っています。

「檸檬」が発表されたのは1924年(大正13年)の事でした。当時梶井は東京大学に学ぶ学生で、掲載されたのは「青空」という同人雑誌です。現在では彼の代表作となっているこの作品ですが、残念ながら当時はまるで注目される事はなかった様です。透徹した判りやすい文章でありながら、どこか重苦しい雰囲気が押し包む彼の作品群の中にあって、「檸檬」は比較的軽快に読め、ラストはレモンを爆弾に見立てるというユーモアで締めくくられています。そのあたりの親しみ易さが、今も多くの人から愛されている所以なのかも知れませんね。

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「果物はかなり勾配の急な台の上に並べてあって、その台というのも古びた黒い漆塗りの板だった様に思える。何か華やかな美しい音楽の快速調の流れが、見る人を石に変えたというゴルゴンの鬼面-的なものを押しつけられて、あんな色彩やあんなヴォリウムに凝り固まったという風に果物は並んでいる。」

作品の中でこう描写された果物の陳列は今は見ることが出来ません。その代わりと言う訳でも無いのでしょうけど、こんな華やかなディスプレイがありました。これは本物の果物ではなく、全部作り物のミニチュアなのですけどね。もしかしたら、この一文を意識したコーナーなのかも知れないという気もします。

作品の中で、主人公はレモンを一個だけ買って店を出ます。それを真似する人が多いのでしょうね、店の中には一個づつ丁寧にラップで刳るんだレモンが沢山置いてありました。私もやっぱり買って帰ったレモンが一番上の写真で、1個280円と少し高かったのですが、とても良い香りがする上質なレモンでした。

この後丸善に行けば完璧だったのでしょうけど、残念ながら丸善は昨年で店を閉じてしまっています。書棚にレモンを置く悪戯をしてみたかったのですが、それも永遠に叶わない事となってしまいました。名作の舞台が無くなってしまったのは、やはり寂しい事だと思わずには居られません。

2006年6月12日 (月)

京都・寺町御池 本能寺 ~功名が辻~

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1582年(天正10年)6月2日に起きた本能寺の変で灰燼に帰した本能寺は、その10年後にようやく再建の緒に就きました。しかし、その直後に秀吉から現在の場所への移転を命じられます。これはなにも本能寺だけをねらい打ちにした訳ではなく、秀吉による京都改造の一環として寺町を形成する為だったのですが、棟上式の直前まで漕ぎ着けていた本能寺にとっては大迷惑な話だった様です。

1592年に再建された本能寺でしたが、その後京都を襲った天明の大火、蛤御門の変による大火に遭遇し、二度に渡って炎上してしまいます。現在の本堂が再建されたのは1928年の事で、その最後の再建の際に、能の字の右側に火に通じるヒの字が二つ重なっている事は縁起が悪いとして、「去」に変えて使う事が倣わしとされました。以来、本能寺は火災とは無縁のまま現在に至っているとの事です。

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その本能寺の境内にある信長公廟は、信長の三男である信孝の依頼によって建てられた信長の墓です。信長の遺体は見つからなかった訳ですが、この墓には本能寺の焼け跡から集めた骨が収められていると言われます。

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信長の墓とされているものは、この他にも大徳寺総見院、蓮台阿弥陀寺、大雲院など、数多くの場所に存在しています。それぞれの場所に言われがあり、遺体が見つからなかった以上どれが本物という事は言えないのでしょうけど、一人の人間にこれほど多くの墓があるという事は、やはり織田信長という人物の大きさを物語っているのでしょうね。

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信長は京都に自分の館を持たずに、上洛の都度に市内の大寺を宿としていました。本能寺が宿とされたのは少なくとも4回あったとされ、その為に寺域が広げられたとも言います。信長の一行が来ると本能寺の僧は追い出されたそうで、家財道具一式を持って近在の寺へと身を寄せていました。寺の幹部はともかくとして、一般の僧にとってはかなり迷惑な事態だった様ですね。

本能寺の変が何故起きたのかについては、ドラマの様に光秀の単独犯とする説、信長に危機感を抱いた朝廷が黒幕だったとする説、秀吉との共謀があったとする説、足利義昭の謀略とする説など、古来唱えられてきた説は枚挙に暇がありません。徳川家康との共謀とする説もあり、天王山の戦いの後も生き延びた光秀は家康の元に身を寄せ、南光坊天海と名を改めて謀臣としての辣腕を振るい、「黒衣の宰相」と呼ばれたとも言われます。光秀贔屓の私としては魅力のある説ではありますね。

本能寺の変は日本史上に残る最大の謎の一つとして、真相は解明される事なく、永遠に語り継がれて行くのかも知れません。

2006年6月11日 (日)

京都・洛中 本能寺跡 ~功名が辻~

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大河ドラマ「功名が辻」も、いよいよ前半のクライマックスである「本能寺の変」が放映されます。それに合わせて、かつて明智光秀が織田信長を襲撃した「本能寺」の跡を訪れてきました。

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本能寺は開創以来、幾度も移転を繰り返しているのですが、本能寺の変があった当時は、概ね四条堀川の近くにありました。写真の碑が建っているのは蛸薬師通油小路を少し下がったところで、かつての本能小学校の跡地にあたります。

石碑の位置

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(写真は石碑の近くから北向きに見た油小路通)


この当時の本能寺の位置には諸説あったのですが、本能小学校の廃校に伴う発掘調査により、南は蛸薬師通、東は西洞院通、西は油小路、北は六角通に挟まれた、約120m四方の寺域を持っていた事が確定しました。現在の碑がある場所は、本能寺を含めたこの付近の町を取り囲む惣構えの南の堀の跡だった様です。当時の町は自治体制を取っており、横行する野盗の襲撃や戦の被害から自らの生命と財産を守るために、町の周囲を塀や堀で取り囲んでいたのですね。本能寺の堀や塀と町の惣構えは、事実上一体化していたと見られています。

明智光秀の有名なセリフに、「本能寺の堀の深さは」というつぶやきがありますが、発掘の結果によれば1.5mの深さを持っていた様です。ちなみに、幅は4m以上あったそうで、野盗程度の襲撃を防ぐには十分な規模だった事でしょうね。しかし、1万5千もの本格的な軍勢を相手に防ぐに為には、残念ながら役には立たなかった様です。

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本能小学校の跡地は、現在堀川高校の本能学舎と、京都市の本能特養老人ホームになっています。かつての本能寺は、この北側に広がっていた訳ですが、今では住宅や染色工場、マンションなどが建ち並んでいるだけで、当時を偲べるものは元本能寺町という地名以外には何もありません。

事変があった当時には、このあたりは町はずれで、周囲には田畑が広がっていたと言います。老ノ坂を越えてきた光秀の軍勢は、今よりずっと目標を見つけやすかった事でしょうね。水色桔梗の旗が本能寺を取り囲んだ光景を思い浮かべるには卓越した想像力が必要ですが、ドラマの放映を機に、稀代の魔王・信長が最期を迎えた地を歩いてみるのも面白いかも知れませんよ。

2006年6月10日 (土)

京都・壬生寺 花菖蒲

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芹沢鴨を始めとする新選組隊士達の霊が眠る壬生寺。今年もその壬生塚にある菖蒲池で、見事な花菖蒲が咲き揃っていました。

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この菖蒲池には隊士達の墓参りを兼ねて毎年訪れているのですが、ごく小さな池なので間近で見る事が出来るため結構気に入ってます。それに手入れが行き届いていて、結構色々な種類を見ることができますからね。

壬生寺の花菖蒲は、丁度今が見頃です。

2006年6月 9日 (金)

京都・洛北 宝ヶ池公園

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京都の数ある公園の中でも、最も水と緑に恵まれた公園が宝ヶ池公園です。宝ヶ池は、かんがい用のため池として江戸時代中期に築かれたもので、その名の由来は、池の形が宝の字に似ているからだとも、農地を潤す貴重な水源として宝の様に輝いて見えたからだとも言います。

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62.7haの広大な園内には、子供の楽園、菖蒲園、憩の森、桜の森、北園、野鳥の森など施設が整備されていますが、大半は元の里山がそのまま生かされており、周辺の開発が進む中で貴重な自然が残るゾーンともなっています。池の周囲を歩いても良いし、足こぎボートに乗るのも楽しいのですが、ちょっと山道に逸れると里山の散策を楽しめるのもこの公園ならではの事です。

ところで、今回調べて判ったのですが、この公園の前身は戦前に計画された防空緑地だったのですね。防空緑地とは、都市に対する空襲被害が出た場合の避難場所として、また延焼を防ぐ目的で作られた緑地の事です。戦後はそのまま引き継がれて、京都国際会館の建設をきっかけに、公園としての整備が進められたのでした。今は京都市民の憩いの場として平和この上ない宝ヶ池にも、そんな歴史があったとは意外ですね。

いわゆる京都らしさとは違うかも知れませんが、広々とした公園でのんびりとした時間を過ごすのも気持ちの良いものですよ。四季折々に楽しめる、お勧めの場所の一つです。

2006年6月 8日 (木)

梅雨入り

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関西地方が梅雨入りしたそうです。

昼間は全然雨が降ってなくて、どこが梅雨入りなのかと思ってましたが、夜になって本格的に降り始めました。妙に安心したような気分になるのは何故でしょうね。

ところが、梅雨らしいのは明日の午前までで、その後暫くは好天が続くのだとか。なんでも、今日を逃すと梅雨入り宣言のタイミングを失ってしまうので、気象台では慌てて出したのだと聞きますが、真偽の程は判りません...。

梅雨の頃になると、トンボを多く見るようになる気がします。夏に向けて、羽化する種類が増えて来るのでしょうか。

上の写真は京都の宝ヶ池で飛んでいたヤンマの仲間。みかけはオニヤンマに似ていますが、大きさはギンヤンマ程度でした。ネットで調べてみましたが、どうも良く判りません。うーん、なんという種類なのでしょうね。ご存じの方、居ませんか。


2006年6月 7日 (水)

京都・洛北 上賀茂 やきもちの神馬堂

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上賀茂神社の門前に、大きく「やきもち」と書いた看板を掲げた店があります。一見茶店の様に見えますが、ここが明治5年創業のやきもちの専門店、神馬堂(じんばどう)です。

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このやきもちは、葵祭にちなんでなのでしょうか、「あおいもち」とも言い、柔らかい餅の中に、黒砂糖で煮詰めた程よい甘さの粒あんがたっぷりとくるまっています。とても人気がある店で、この日も先客が何人も順番待ちをしていました。一個、一個が手焼きで作られるために、タイミングが悪いと結構待たされる事もある様です。

1個120円と手軽ですから、おやつにするにも、おみやげにするにも丁度良いですよ。ただ、冷めても美味しいのですけど、一番のお勧めは焼きたてを食べる事ですね。上賀茂神社の芝生に腰掛けてとか、あるいは加茂川を眺めながらとか、観光の合間の一休みにはもってこいです。

2006年6月 6日 (火)

京都・洛北上賀茂 社家町

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京都・上賀茂神社の南に、社家町と呼ばれる町並みがあります。社家町とは、上賀茂神社の神職の屋敷である社家が集まった界隈の事を指し、神社の境内から流れ出たならの小川が明神川と名を変えて道沿いに流れる畔に、橋を掛けた家が建ち並ぶという独特の景観を形成しています。

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社家町は、昭和63年に「京都市上賀茂伝統的建造物群保存地区」に指定され、町並みの保存が図られています。しかし、この景観も、かつては消滅の危機に瀕していたのですね。昭和14年に川を暗渠化して道幅を広げるという都市計画が立てられ、昭和30年代にはその実現に向けた要望書が出されるという展開を見せていました。この時には水路の維持管理が出来なくなるという理由で計画が頓挫したのですが、近年になってようやくこの町並みの貴重さが理解されるようになり、保存に向けた動きに方向が変わったのでした。

この楠は明神川が東から南へと流れを変える辺りにあり、樹齢500年とも言われ、その根元に藤木社と呼ばれる小さな社が祀られています。この社は明神川の守護神とされ、上賀茂神社の末社として、今も地元の人達から大切に守られ、信仰を集めているのだそうです。

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明神川は、元々は上賀茂の農地を潤すために拓かれた農業用水路でしたが、同時に禊ぎをするための神聖な川でもありました。社家ではこの川から水を邸内に引き入れ、遣水として庭を巡らせた後、再び明神川に返すという仕組みを持っています。写真はその取り入れ口で、神職は明神川の水で禊ぎをしてから神社への勤めに出ていたのだと言います。

それほどの川を暗渠化してしまおうとしたのには理解に苦しみますが、社家の維持管理は大変だそうですし、第三者には判らない事情もあったのかも知れません。それに、なにより時代の価値観が違っていたのでしょうね。

今は、困難を承知で、この貴重な景観を残してくれた事に感謝しなければなりませんね。そして、何時までも大切に守っていって欲しいと願うばかりです。


2006年6月 5日 (月)

京都・洛北西加茂 正伝寺

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京都・西加茂の地にある正伝寺は、1282年(弘安2年)に開創された臨済宗南禅寺派の禅寺です。皇室からの尊崇を受け、五穀豊穣国家安泰を祈る道場とされている事から、正確には吉祥山・正伝護国禅寺と称します。

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正伝寺がある場所は京都の西北隅にあたり、最寄りのバス停からでも徒歩15分は掛かるという不便な立地のせいか、ほとんど観光客が訪れるという事はありません。山懐に抱かれた静かな環境にあり、参道の景色は山寺の風情を感じさせてくれます。この日も境内には、ウグイスののどかな声が響き渡っていました。

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正伝寺の見所は、何と言ってもこの借景式の庭園でしょう。圓通寺と同じく、比叡山の遠景を庭の一部に取り入れた形式で、ごく狭い庭園ながら、素晴らしい奥行きを持った景観を見せてくれます。この日は遠霞がかかった様な天気で、残念ながら比叡の山容はごく薄くしか見えませんでした。一番上の写真をクリックして拡大してもらえば、かろうじて比叡山が見えている事が判るかと思います。

庭の形式は、サツキ(寺のパンフレットにはつつじとありますが)の刈り込みで七五三調を表した、獅子の子渡しの枯山水です。サツキが満開である事を期待していたのですが、この日(平成18年6月3日)は見頃まではあと少しというところで、ちょっと惜しかったですね。

この寺はまた、関ヶ原の戦いの際に、伏見城に立て籠もって玉砕した鳥居元忠以下の徳川方の家臣が切腹をして果てた廊下の床板を天井板に使っている、いわゆる血天井の寺としても知られています。実際に方丈の縁側の天井を見上げればどす黒い血の跡がありありと残っており、手形さえ見ることが出来ます。ちょっとなまなましい光景ではありますが、400年間に渡る日々の供養のせいでしょうか、あまりおどろおどろしさは感じません。

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正伝寺は私のお気に入りの場所で、学生時代以来何度となく訪れて来ました。当然晴れていて比叡山が見える日がお勧めなのですが、雨の日の静かな風情もまた格別なものがあります。誰も居ない縁側に座って、雨だれの音を聞きながらぼんやりと庭を眺めていると、いつしか時の経つのも忘れてしまいます。

ここはまだ俗化されていない、京都の中でもとっておきの場所の一つです。

2006年6月 4日 (日)

京都・洛北 圓通寺

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(写真をクリックすると大きくなります。)

京都・洛北、幡枝の地にある圓通寺。比叡山を借景とした庭園を持つ事で知られます。

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圓通寺は、1639年(寛永16年)に後水尾天皇の幡枝離宮として造営された事に始まります。その後修学院離宮の完成に伴い、幡枝離宮は臨済宗妙心寺派の禅宗寺院に改められました。門前に「不許酒肉五辛入門」(修行の妨げとなる、酒、肉、五辛(ニラ、ニンニク、ネギ、ショウガ、ラッキョウ)を入れてはならないの意)と刻んだ石柱が立ち、ここが禅寺である事を示しています。

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圓通寺は、京都市内と岩倉を隔てる山中にあり、ちょっとした山寺の風情があります。檜皮葺の門の屋根には苔が乗り、時の流れを感じさせてくれます。

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この日(平成18年6月3日)は晴れてはいたものの、快晴とはいかない霞が掛かったような空でした。借景の比叡山もうっすらとした山容でしたが、代われに深い緑が私たちを迎えてくれました。

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この庭園の見所は、比叡山のほかに見事な苔と、この時期はサツキの花があります。ただ、残念な事に、サツキはまだ咲きかけの状態で、満開には至っていませんでした。

この寺を訪れたのは、実は20年ぶりになります。この間訪れなかった主な理由は、小学生以下は拝観お断りになっているからで、子供が大きくなるまでは家族で来る事が出来なかったという訳です。静かな環境を乱されたくないからでしょうけど、ちっょとどうかなという気はしますね。

そして、その20年の内に、周辺の環境はすっかり変わっていました。寺のすぐ近くまで宅地化され、庭に面した竹藪も開発の手が入る事になっているのだそうです。寺では少しでも多くこの景色を残してもらおうと、かつては禁止だった撮影を解禁されました。これだけの名園が損なわれてしまうのは、時の流れとは言え、なんとも残念な事ですね。

2006年6月 3日 (土)

ハナショウブ まだつぼみ ~京都・洛北 宝ヶ池~

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京都・洛北にある宝ヶ池公園は、農業用のため池とその周辺の里山がそのまま公園化されているという、自然味たっぷりのエリアです。野鳥や昆虫の宝庫であり、また池の周遊道はジョギングのメッカとなっています。市外の人には京都国際会議場に隣接した公園と言った方が判りやすいかも知れませんね。

その公園の一角にあるのが菖蒲園。時期が来れば色とりどりの花が咲くのですが、今日(平成18年6月3日)はまだちらほらと咲き始めたばかりでした。大半の株は蕾が上がっている状態で、もう暫くすると咲き揃うものと思われます。

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そして、少し前まで盛りだったと思われるのがキショウブ。この写真の様にまだ咲いている株もありましたが、ほとんどは咲き終わってしまっていました。一面に咲いていた頃は、さぞかし綺麗だった事でしょう...。

つまり今の宝ヶ池の菖蒲園は端境期という事で、昨日の蛍といい、今年は盛りの時期を見極めるのがなかなか難しい様ですね。

2006年6月 2日 (金)

京都・哲学の道の蛍 未だです

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(写真は昨年(平成17年)6月3日に撮影したものです。)

初夏の風物詩と言えば蛍。今年も各地から蛍の便りが届き始めています。
我が家で毎年訪れている京都・哲学の道もそろそろかと思い、今日(平成18年6月2日)出かけてみました。昨年は6月3日に訪れて沢山の蛍に出会う事が出来たので今年もと期待していたのですが...。

結果は、全くの空振り。午後7時30分ごろから8時30分頃まで粘ってみたものの、一匹も見ることは出来ませんでした。今年の天候不順が蛍にまで影響しているのでしょうか。

我が家と同じように蛍を求めて来ていた人が大勢居たけれど、どの人もがっかりして帰って行きました。なんとも残念な結果だっただけに、このままでは悔しいので再来週にもう一度行ってみようと思ってます。昨年は6月の初めに飛び始め、月の半ば過ぎまで舞っていた様なので丁度良いかもと期待しているのですが、考えが甘いかな...。取らぬ狸にならなければ良いのですけどね。


(平成18年6月6日追記。その後の情報として、6月5日ごろからホタルが飛び始めたそうです。これからが見頃になってきそうですね。)

(平成18年6月14日追記。6月14日には、少なくとも10数匹のホタルが確認出来ました。その様子はこちらにアップしてあります。)

2006年6月 1日 (木)

夏の始まり

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一気に梅雨入りするるのかと思いきや、このところ好天が続いています。南の海上には前線が停滞しており、きっとつかの間の晴れ間なのでしょうけど、やっぱり青空を見るのは嬉しいですね。それにしても、日差しの強さはすっかり夏。何時の間に、春が過ぎていたのやら...。

ベランダでは、今年もユキノシタの花が咲きました。日陰にもかかわらず、沢山の花を付けています。この清楚な色がなんとも言えずに良いですね。

我が家に夏の始まりを教えてくれる、小さな花の使者です。

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ねこづらどき

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