« 2004年10月 | トップページ | 2004年12月 »

2004年11月

2004年11月30日 (火)

新選組!38の2

新選組! 第47回「再会」その2

土方に、海舟から甲府行きを命じられた事を伝える近藤。何も聞かずに、近藤に付いていくという土方。

ドラマでは海舟から命じられた甲州行きですが、永倉の「浪士文久報国記事」では、かねて近藤が願い出ていたとあります。この頃、近藤と土方は、それぞれ「若年寄格」と「寄合席」に出世しており、それに併せて名前を「大久保剛」と「内藤隼人」に改めています。新選組始末記では、近藤達は甲府城を落とせば100万石が手に入り、近藤が10万石、土方が5万石、副長助勤が3万石と、念願の大名になれると浮かれていたとあります。軍資金は、幕府から2400両、松本良順からも4000両が支給され、大砲が2門、小銃(元込銃)500丁、実弾が一人当たり1000発という武装が整えられました。ただ、隊士が絶望的に少なく、やっとの思いで200名をかき集めたと言います。しかし、寄せ集めで録に訓練もしていない隊士が、どれだけの働きが出来るのか大いに疑問がありました。

新選組の名を改め、自らも名を変えた近藤と土方ですが、その背景には、新選組は鳥羽伏見で戦った事によって朝敵となっており、新政府軍が乗り込んでくればどういう処分を受けるか判らないという事情があったと言われます。また、甲府へ行ったのも、勅使が来る前に江戸を離れたのだと言います。これからすると、100万石の大名になるんだと浮かれていたというより、江戸にはもはや身の置き所が無くなって、やむなく甲府へ向かったという方がより真実に近いのではないかという気もしますね。

京都 南座 まねき上げ@秋味ぶろぐ

minamiza11.jpg

今日から始まった南座の吉例顔見世興行。本当は冬がふさわしいのだろうけど、11月の最後の日という事で秋味ぶろぐにアップします。ぎりぎり秋には違いないもんね。

歌舞伎にはとんと縁が無い私ですが、それでもこのまねき上げを見ると年末が近くなったんだなと思います。京都に年の瀬の訪れを告げる風物詩ですね。

2004年11月29日 (月)

新選組!38

新選組! 第47回「再会」

1868年2月12日、慶喜は謹慎のために、上野寛永寺に移りました。新選組は、その寛永寺の警護を任される事になります。

ドラマでは触れられていませんでしたが、慶喜の謹慎に先立ち、容保と定敬の兄弟に対して江戸城への登城禁止が言い渡されています。本来なら最も徳川家の為に戦った忠臣として称されるべきこの二人だったのですが、常に対薩長の最前線に立ち続けたが為にその恨みを買い、慶喜が謹慎の意を表すためには彼らを処分する必要に迫られたのでした。さらに追い打ちを掛けるように、彼らは江戸からの退去を命じられます。会津に帰る事の出来た容保はまだしも、すでに自領の桑名が官軍の勢力圏内に入っていた定敬は帰る事さえ出来ず、函館で破れるまで放浪を続ける事になります。容保にすれば、就任を拒み続けたにも係わらず、慶喜に無理矢理押しつけられた京都守護職でした。そして、受けた以上は忠実にその職務を執行してきたのですが、それが為に朝敵の汚名を被り、挙げ句の果てには身を挺して守ってきたはずの徳川宗家にまで見捨てられたのでした。なんとも非情極まりない処分でしたが、容保は黙って従ったと言います。

京都 高瀬川 落ち葉模様@秋味ぶろぐ

takasegawa12.jpg

10月の末にはまだ緑だった高瀬川沿いの桜並木。あれから一ヶ月が過ぎ、すっかり色づいていました。川の中にも落ち葉の島が出来ています。

写真では判りにくいですが、川底にも落ち葉があって、モザイク模様を描いていました。高瀬川ならではの秋の風情です。

2004年11月28日 (日)

京都 石塀小路@秋味ぶろぐ

isibeikoji11.jpg

石塀小路で見つけた秋。サイズを落とすと判り難くなってしまいましたが、正面の赤い色が南天、左の生け垣には山茶花が咲いています。あまり華やかな色が無いこの界隈では、はっとするような鮮やかさでした。

別の旅館では、従業員の方が、歯ブラシを使って白木の板壁の隅を一生懸命磨いていました。この風情が保たれているのは、そうした不断の営みがあるからなのですね。

石塀小路。ずっと残って欲しい道の一つです。

京都 興正寺別院@秋味ぶろぐ

tuta11.jpg

三年坂を降りたところにある興正寺別院の石碑。なにやら、赤い模様が入っています。これが何かというと...。

tuta12.jpg

小さなツタの葉が紅葉していたのですね。この写真だと今ひとつ伝わらないのですが、とても綺麗でかわいらしい紅葉でした。

kousyouji11.jpg

興正寺別院は、三年坂のすぐ近くにあるのですが、訪れる人はほとんど居ません。でも、紅葉の鮮やかさは、ご覧のとおり。喧噪を離れてじっくり紅葉を楽しみたい人には、お勧めのスポットです。

2004年11月27日 (土)

京都 清水寺@秋味ぶろぐ

kiyomizudera1127.jpg

11月27日の清水寺。紅葉はまさに見頃です。今がピークじゃないかな。どこを向いても息を呑むような鮮やかさでした。その分、人出も半端じゃなかったですけどね。

ちょっと残念だったのが、夕方まで曇り空だった事。これで青空がバックだったら、どんなに良かったことでしょう...。

京都へ出かけるならお早めに。来週以降だと、盛りが過ぎているかも知れません。

2004年11月26日 (金)

冬のあしおと@越冬ぶろぐ

fuyunoasioto11.jpg

今日、コンビニで見つけた食玩、その名も「冬のあしおと」。なんだか、今の季節にぴったり来ますね。お歳暮、石油ストーブなど全部で8種類あって、シークレットがひとつあるとか。面白いものを考えるものです。

fuyunoasioto12.jpg

で、今回当ったのがこの「中華まんとお菓子のプーツ」。うーん、どちらも年の暮れに向けて街角で見かけるようになりますが、なぜこの組み合わせなんだろうという気もします。このふたつって、一緒に売っているかしらん。

ああ、なんだか、あったかーい中華まんが食べたくなってきたな。

2004年11月25日 (木)

遅ればせながら...

bojyorei11.jpg

配送の関係で、一週間以上遅れてやってきたボジョレーヌーボー。あまりに間が抜けているのが恥ずかしく、網で姿を隠しています。

GALLERYに書かれているように、さほど美味しいと言うものでもなく、その割に高い。ヨーロッパよりも早く新酒が飲めるところが値打ちなワインですから、今頃飲んでる我が家は何やってんだろうと自分でも思っています。

飲んでみたところ、味はヌーボーとしては良いと思います。でも、ワインらしい深みはなく、やはり出来かけのワインという印象ですね。しかし、それを百も承知で毎年買っているのは、世間並のお祭り騒ぎに乗りたいから。やっぱり、ワイワイ言って楽しみたいじゃないですか。

来年は、ちゃんと発売日に手に入るようにしようっと。

新選組!37の4

新選組! 第46回「東へ」その4

江戸城の廊下を歩く近藤。会津候に会いに来たようです。慶喜が恭順する事を教えられ、勝てる戦だと反発する近藤。鳥羽伏見で死んでいったものたちが浮かばれないと言われ、涙を流して悔しがる会津候。

慶喜が恭順に徹するという方針は、大局的に見れば正しい決断でした。これによって、徳川家と官軍の全面衝突という事態は回避され、その後の戊辰戦争も比較的短期間で終了しています。もし、慶喜が徹底抗戦の道を選んでいれば、西と東に分かれた内線が延々と繰り広げられ、国土は荒廃し、外国の干渉を招いて植民地化の道を歩いていたかもかもしれません。しかし、その一方で、徳川の為に戦った者達は、非情にも見捨てられる事になります。その最たるものが会津藩であり、桑名藩であり、新選組でした。このあたりについては、次回のドラマで描かれることでしょうね。

番組の最後で紹介されていた沖田総司終焉の場所ですが、ここに出てきた浅草の今戸神社境内の他に、千駄ヶ谷池尻橋の植木屋平五郎宅とする説もあります。今戸の松本良順宅と書き残しているのは永倉の「同志連名記」で、千駄ヶ谷としているのは子母澤寛の「新選組始末記」です。そして後者の方には、有名な黒猫の逸話が出てきます。この二つの説を併せて、最初は今戸に居て、後から千駄ヶ谷に移ったとする説もあるようですね。どちらを支持するかは、研究者によってまちまちのようです。どちらかというと、子母澤寛の千駄ヶ谷説は、創作っぽいように思えるのですが...。ただ、沖田の最後に黒猫が出てこないと、なんだか物足りないという気もしますね。

ちなみに、沖田の墓は、麻生の専称寺にあります。私は20年近く前に訪れた事がありますが、六本木からほど近く、テレビ朝日通に面していたという記憶があります。にぎやかな環境の中で、寺の周辺は土の臭いがして、この一角だけ武蔵野が取り残されているといった印象でした。今はすぐ近くに六本木ヒルズが出来て、随分と様変わりしている事でしょうね。沖田の墓はあまりにも大勢の人が訪れる事から、年に一度行われる総司忌の日だけ解放されています。他の隊士の墓でそんな事態が起こっているところは無く、彼の人気を如実に物語っていると言えそうですね。

この項は、新人物往来社編「新選組銘々伝」、「新選組資料集」、別冊歴史読本「新選組の謎」、「新選組を歩く」、歴史群像シリーズ「血誠 新撰組」、子母澤寛「新選組始末記」、「新選組物語」、学研「幕末 京都」、木村幸比古「新選組日記」、「新選組全史」、「新選組と沖田総司」、歴史読本「平成10年12月号」、司馬遼太郎「最後の将軍」「王城の守護者」、永倉新八「新撰組顛末記」を参照しています。


2004年11月24日 (水)

新選組!37の3

新選組! 第46回「東へ」その3

江戸城。一足先に帰ってきた慶喜に、勝海舟が拝謁しています。戦わずして大阪から帰った言い訳をする慶喜に、皮肉をもって答える海舟。さらに、まだ新選組が残っていると主張する容保を、「新選組は、ただの時代遅れの剣術屋。時代の波を止める事は出来ない!」と一蹴してしまいます。

海舟は、甥の三浦啓之助が父の佐久間像山の仇を討つべく新選組に入っていた事から、土方から書簡を貰ったり、またその事で新選組に対して礼金を支払うなど決して縁は薄くはなかったのですが、その割に新選組に対して良い感情は持っていなかったようですね。その原因の一つとして、新選組が起こした池田屋事件をきっかけに、海舟が苦労して作った神戸の海軍操練所が閉鎖になった事があったと言います。この事が新選組の運命に大きく係わって来るのですが、それは次回に描かれるようですね。

夜の海を走る富士山丸。甲板で近藤と土方が話をしています。
「もう、刀と槍で戦をする時代は終わった。これからは、鉄砲と大砲だ。刀を振り回す侍の時代じゃない。」
としみじみと語る土方。

これは有名な土方のセリフですが、実際にこれを言ったのは1月16日に近藤に従って江戸城へ登城したときの事でした。彼は、佐倉藩士の依田学海に鳥羽伏見の戦いの様子を尋ねられ、「銃器、砲にあらざれば不可。僕、剣をはき槍を執る。一に用いるところなし。」と答えたと言います。手酷い敗北を喫したにもかかわらず、そこから敗因を見いだして新たな戦いに臨もうとする、過去にこだわらないという土方らしい柔軟さと不屈の闘志を秘めた言葉なのではないでしょうか。

富士山丸の艦橋に現れた榎本武揚。ワイン片手に洋服を着て帽子を被り、髭を生やした容貌は、どこか日本人離れしたものがあります。「開陽丸の艦長だったが、急な船出で乗り遅れたんだ。」と土方達に説明する近藤。

榎本が開陽丸に乗り遅れたのは、事実の様です。あまりに唐突な船出であったため、当時下船していた榎本は置いてきぼりを食ったのでした。それほど、慶喜の脱出は秘密裏に行われ、また艦長を待てない程急を要していたのですね。彼は後続の船で後を追ったとされますが、それが富士山丸だったかとうかは判りません。富士山丸で近藤が実際に会ったのは、榎本対馬守でした。彼は榎本に、「私は、京に上るときもう妻子の顔の見納めだと思って出ましたが、こうして逢うことが出来るとまた嬉しいものです。国家大事に際して、こんな心になるのはお恥ずかしい次第です。」と語っています。これに榎本は、「それが本当の人情です。文武に富んでも人情の無いものは、禽獣と同じです。」と答えたと言います。私、この逸話が結構気に入っていまして、強面の印象の強い近藤の素顔が透けて見えるような気がします。強いばかりでなく、こういう人情味を持っていたからこそ、隊士も彼に付いてきたのでしょうね。

富士山丸の船室で、尾形、島田らと話をしているうちに、いつの間にか息を引き取ってしまった山崎蒸。

山崎がどこで亡くなったかには、大阪とする説と富士山丸の艦内とする説の二通りがあります。さらに後者では、山崎は海軍の礼によって水葬にふされたと伝えられています。これが日本で最初の海軍式の水葬と言われていますが、様々な理由からこれは事実ではないとする説もあります。どちらにしても、新選組を支えてきた有能な隊士がまた一人亡くなった事には代わりがありませんね。ますます寂しくなる新選組です...。

何か様子がおかしい尾形については、以前にも書いたように、新選組の文学師範を努めていた幹部の中で、最後まで新選組に踏みとどまった人物です。尾形の他に文学師範を務めていたのは、伊東甲子太郎、武田観柳斎、毛内有之助、斯波雄蔵の4人でした。このうち、伊東、毛内は油小路で、武田は銭取橋でそれぞれ隊を裏切ったという理由で粛正されています。後一人の斯波は、外国に留学する為に新選組を離脱したという記録が残る異色の隊士で、理由さえあれば新選組を抜ける事が可能であった事を示す事例ともされています。教養のある隊士には、新選組がどんどん時勢に取り残されていくのが見えていたのでしょうね。他の同僚が次々に新選組を離れていく中にあって、尾形だけは新選組を裏切りませんでした。彼は、伊東達とはまた違った世界観を持っていたのでしょうか。そんな彼にも、最後に来て変化が見えるようですね...。

なお、江戸にたどり着いた新選組隊士は44名でした。伏見を守っていたのが150名程で、また戦死した隊士が30名程とされますから、残り80名近くは脱走したという事になります。ただ、伏見を守っていた隊士のうち元々の隊士は66名で後は急遽募集したと言いますから、脱走した隊士の多くはこの新規募集した隊士だったという事のようですね。


慶応4年1月16日、江戸。再び、海舟が慶喜に拝謁しています。慶喜は上座にあって、うろうろ歩きながら海舟に
「今からでも、まだ勝ち目はあるのではないか。」
と、問いかけます。
「駿河でわざと負け、艦隊が待ち伏せしている場所に敵をおびき寄せ、一気に攻撃を仕掛ける。さらに、艦隊を大坂へと進め、西国との繋がりを絶つ。これで敵は逃げ道を失って、総崩れになる。」
と答える海舟。その上で、勝とうと思えば勝てる状況での恭順に意味があるのだと諭します。

海舟が解説した海軍を活用した迎撃策は、実際には小栗上野介が慶喜に進言した策とされます。小栗はこの策で官軍を迎え撃つように慶喜に執拗に迫ったのですが、恭順を決めていた慶喜はこの案を退け、ついには小栗を罷免したと言います。 後でこの策を聞いた倒幕軍参謀の大村益次郎は、「幕府がもし、小栗上野介の献策を取り入れていたら、われわれの首はなかったであろう。」と述べたと伝えられます。

2004年11月23日 (火)

新選組!37の2

新選組! 第46回「東へ」その2

おたふくで、おまさに別れを告げる原田。薩長の世になったら清国に渡り、水滸伝の様に盗賊の頭になると言って、おまさをあきれかえらせます。

原田については、江戸に帰った後、彰義隊に参加して上野で戦死したというのが通説なのですが、清国に渡って馬賊の頭になったという伝承もあります。これは、明治40年頃、原田自身が松山に居た弟や甥に会いに来たという事を、甥の妻が多摩産業新聞社の記者に語った事をきっかけに広まったものです。それによれば、原田は坂本龍馬を暗殺した後間もなく清国へ渡り、馬賊の群れに投じ、やがてその頭となって、日清、日露の両戦役では日本の為に尽くしたと言います。松山の親族を訪ねたのは一晩だけの事で、夜尋ねてきて翌朝には帰って行ったと、そのとき目撃したという姪の長男の証言も残っています。原田の親族は、原田が龍馬暗殺の真犯人だと思っており、原田が生きていると判ったらどんな災いが降ってくるか判らないと考え、ことさら冷たくあしらって引き留める事もしなかったと言います。

この伝承の真偽を確かめる術はありませんが、このドラマの原田なら、馬賊の頭になっていてもおかしくないという気がしますね。ちなみに、長男の茂は後に繁治郎と改名して明治37年に亡くなりますが、婦人との間に6男4女をもうけており、その血筋は今も脈々と続いているそうです。

永倉の腕の中で、宇八郎の名を呼んで息を引き取ったおその。永倉は、おそのを斬った官軍の兵士を見つけ、敵とばかりに斬って捨てます。

史実のおその(小常)は、慶応3年12月11日に亡くなっています。まさに新選組が京都から引き上げるという間際の日の事で、永倉は翌日に聞かされたと言います。小常は薩摩兵に斬り殺されたのではなく、永倉の長女「磯」を産んだ後の肥立ちが悪く、病没したのでした。永倉は引き上げのどたばたの中で身動きが取れず、小者に小常の遺骸の埋葬を頼みます。一方知らせを聞いた「磯」の乳母は、産まれて間もない「磯」を抱いて永倉に会いに来ます。永倉は、屯所の前の八百屋の座敷を借りて、我が娘との対面を果たしました。「磯」はその後、乳母夫妻に磯子として育てられ、長じて尾上小亀という女役者になります。小亀はたいそうな人気役者となり、その噂は東京にいる永倉にまで聞こえ、明治24年頃、京都を訪ねた永倉は生き別れとなっていた娘との再会を果したと言います。ちなみに、小常は島原に出ていた芸妓で、市川宇八郎とはなんの係わりもありません。

間道を探していて、薩摩兵に斬られてしまった山崎。

実際に山崎が倒れたのは、淀または橋本の戦いにおいてと言われます。隊士が残した記録では、横倉甚五郎は「淀にて討死」と記し、島田魁は「橋本にて討死」と書いており、どちらの戦いで傷ついたのかは良く判っていません。新選組始末記では、淀で三カ所に鉄砲傷を受けたとありますね。このとき副長助勤を努めていた程の幹部がどこで倒れたかはっきり判らないほど、当時の戦場は混乱を極めていた事が伺えます。ただ、山崎は記録にあるように戦場で死んだのではなく、川村三郎(近藤芳助)が「大阪の八軒屋「京屋」で見た」と書き残している事から、生きて大阪まで後送された事は確かなようです。

捨助の案内で逃げ込んできた山崎達を、官軍の兵士達から庇う寺田屋のお登勢。

寺田屋騒動をはじめとして、薩摩藩のご用宿として常に危険にさらされながら薩摩と関わってきた寺田屋ですから、お登勢に凄まれて逆らえる薩摩藩士はそうそう居なかった事でしょうね。ただし実際の寺田屋は、鳥羽伏見の戦いによって起こった戦火に巻き込まれて焼け落ちています。現在の寺田屋は、明治に入ってすぐに再建されたもので、幕末当時そのままの建物ではありません。今、寺田屋を訪れると、薩摩との密接な繋がりを示すかのように、敷地に隣接して立派な慰霊碑が建っているのを目にする事ができます。

1868年(慶応4年)1月9日、大阪。大阪城を引き上げる新選組が、隊旗を先頭に大阪の町を歩いて行きます。周りを取り囲む町衆達の反応は冷たいもの。石さえ飛んでくる始末です。

戦いに敗れた新選組に対して、京では「壬生浪を打払い」と書いた瓦版が出回りました。京都の町衆にとって、新選組はどこまで行っても壬生浪だったのですね。大阪でも事情は同じでした。大金の拠出を強要された豪商が多かった分、余計に冷たかったかも知れません。敗者に冷たいのが世の常とはいえ、こうした町衆の反応は、身から出た錆という部分はあったにせよ、町の平安を守ってきたつもりの彼らにとっては辛いものだった事でしょうね。

2004年11月22日 (月)

新選組!37

新選組! 第46回「東へ」

冒頭、千両松の戦い。錦の御旗が上がったとたん、総崩れとなる幕府軍。実際にはもっと果敢に戦いを挑んだのは前回に書いたとおりですが、改めて逃げまどうだけのドラマの幕府軍を見ていると、これは違うよと言いたくなります。

兵を率いて戦闘を指揮していた佐々木に命中する銃弾。堪えきれずに倒れる佐々木。

佐々木が銃弾に倒れたのは、慶応4年1月6日のことで、京都の郊外八幡堤においてでした。前日、千両松で敗退した幕府軍は、淀城に入る事が出来なかったため、八幡橋本まで下がってここを防衛拠点とします。このあたりは淀川が京都盆地から大阪平野へと流れ出るところで、左岸では男山、右岸では天王山が川に迫って隘路となっており、しかも淀川のすぐ下流の両岸、楠葉と高浜には砲台が築かれていて、大阪を防衛するにはうってつけの場所でした。この砲台は、本来、大阪湾から淀川を遡ってくるかもしれない外国船を攻撃するために築かれたものでしたが、この鳥羽伏見の戦いで初めて実戦に使用されたものです。八幡には桑名藩と大垣藩、橋本には新選組のほか会津藩、見廻組、遊撃隊が守備に就いていました。

戦いは朝の7時から始まり、新選組は橋本宿の入り口に胸壁を築いて押し寄せる薩摩軍を迎え撃ちます。このとき、別働隊として永倉と斉藤が一隊を指揮して、男山山中に入りました。戦いは一進一退を続けますが、正午頃、右岸の高浜砲台を守っていた藤堂藩が官軍の調略に乗って寝返り、砲口を対岸の幕府軍に向けて攻撃を始めます。不意に横様に砲撃を受けた幕府軍は浮き足立ち、戦線が崩壊する危機に見舞われますが、土方と原田の指揮によってかろうじてこれを支えます。また会津藩が対岸に渡って藤堂藩兵を追い散らした事から、幕府軍は体制の立て直しの余裕を得て再度攻勢に移ろうとします。このとき、佐々木は川を渡って笹藪に伏兵すると言って船の手配を始めたのですが、そこへ堤防の下へ回り込んだ薩摩兵が現れて大苦戦に陥ります。佐々木が撃たれたのはこの時でした。この薩摩兵の攻撃によって戦線は崩壊し、幕府軍は橋本陣屋まで後退を余儀なくされます。ところが、男山山中で戦っていた永倉と斉藤にはこの連絡が届きませんでした。異変を知った二人が橋本陣屋へ引き上げようとしたときには味方は一人もおらず、途中で敵に囲まれて危機に陥りますが、かろうじてこれを振り切り、橋本陣屋までたどり着いたのでした。総督の松平豊前守、竹中重固らによる軍議の結果、幕府記軍は橋本を放棄して大阪へ引き上げる事となり、ここに鳥羽伏見の戦いは終了します。

ドラマでは大勝利と浮かれていた大久保ですが、実際には官軍にはそれ以上の追撃を掛ける余力はなく、幕府軍の反撃に怯えていたのが実情でした。もしこのとき幕府軍が大挙して反撃に移っていれば、間違いなく勝利を収めていたものと思われます。ただし、長期的に見れば幕府方に勝ち目が無かったであろう事も、前回に書いたとおりです。

選手交代@ドラえもん

すでにいくつかのブログで紹介されているニュースですが、ドラえもんの声優陣が交代するそうです。ドラえもん役の大山のぶ代さん(68)、のび太役の小原乃梨子さん(69)、しずか役の野村道子さん(66)、ジャイアン役のたてかべ和也さん(70)、スネ夫役の肝付兼太さん(69)の5人が、揃って来春に若手と交代するとか。

それにしても、全員が還暦を越えていたんですねえ。テレビを見ている限り、その年齢を全く感じさせないのはさすがにプロの仕事だと思います。絶え間ない精進と長年培ったテクニックのなせる技ですね。しかし、それもとうとう限界に達したという事なのでしょう。

新しい声優についてはまだ決まっていないそうですが、主役クラスが揃って代わってしまうとまるで違ったアニメの様になってしまうでしょうね。同じ長寿番組の「サザエさん」も最初と比べると随分声優が代わっていますが、一人づつ順番に交代しているからか、あまり違和感は感じません。それに、主役のサザエさんが不動なのが大きいでしょうね。

ドラえもんは、我が家のお気に入り。週末の家族の団らんに欠かせないアニメになっています。世代交代はやむを得ないとして、末永く続いく様にクオリティの高い番組を作り続けて欲しいです。

2004年11月21日 (日)

晩秋の公園@秋味ぶろぐ

bansyuu11.jpg

小春日和の休日。天気が良い割には肌寒くて、近所の公園には誰も居ませんでした。落ち葉の絨毯が綺麗なのに、どこか寂しさが漂ってます。そろそろ秋も終わりかな。

2004年11月20日 (土)

赤い鳥、小鳥、なぜなぜ赤い♪@秋味ぶろぐ

kuroganemoti11.jpg

赤い実を食べた♪

赤い鳥ではありませんが、近所の神社のクロガネモチには、沢山のひよどりが来ていました。写真を撮る時にフラッシュが光ると、一斉に飛んで行っちゃいましたけどね。食事の邪魔をして悪かったかな。

とってもきれいな赤い木の実、小鳥にとってはこの上ないごちそうなんでしょうね。

2004年11月19日 (金)

新選組!37の5

新選組! 第45回「源さん、死す」その5

ドラマではほとんど戦いらしい戦いが無かった千両松ですが、実際には鳥羽伏見の戦いにおける最激戦地でした。ここを守っていた幕府軍は、新選組と会津藩、それに遊撃隊でした。ドラマでは全く銃火器を持っていなかった幕府軍ですが、実際には数と質で劣ってはいたものの、やはり小銃と大砲で武装していました。ですから、一方的に薩摩軍(と長州の奇兵隊と振武隊など)から撃たれるままになっていた訳ではなく、最初は双方小銃や大砲を撃ち合う砲撃戦を展開しています。しかし、やはり撃ち合いになると新式の元込銃を使う薩摩軍が有利で、この劣勢を覆すべく新選組と会津藩兵は、残らず銃を捨て敵陣への斬り込みを敢行します。闇夜ならともかく白昼堂々の斬り込みですから当然犠牲も多く出ましたが、それでも薩摩軍の陣地に飛び込む事に成功して暴れまくり、一時的にですが薩摩軍を後退させるに至ります。戦闘は数時間に及び、数度の斬り込みを敢行した結果、薩摩軍側に7人の戦死者と40人の負傷者を出すという大きな損害を与える事が出来ましたが、幕府軍の受けた被害はそれ以上で、ついには戦線を支える事が出来なくなり、八幡まで退却します。

続きを読む "新選組!37の5" »

2004年11月18日 (木)

新選組!37の4

新選組! 第45回「源さん、死す」その4

淀「千両松」。街道脇の祠に屯する隊士達に、山崎が炊き出しの握り飯を配っています。一方、街道上に大きな切り株を置いて胸壁とし、前方を警戒している土方、斉藤、原田達。そこにも井上が差し入れを持ってきます。さらに、会津兵にも分けてやる井上と原田。

千両松とは今の京都競馬場付近にあった淀川堤の事で、かつてそのあたりに豊臣秀吉が植えた松が見事に育ち、素晴らしい景観を形作っていたことから付けられた名称でした。当時は千両松のある淀川の堤の上を京街道が走っている他は川と沼地に挟まれた場所で、京から下ってくる軍勢は狭い街道を縦隊となって進むより無く、迎え撃つ側には都合の良い場所でした。現在は、その後の河川改修によって当時の面影は全く失われており、競馬場の駐車場が広がる殺風景な景色となっています。

井上が行っていた炊き出しについては、当時幕府の勘定方で、鳥羽伏見の戦いにおいては兵糧方を努めた坂本柳佐という人が残した証言があります。坂本は、前年の暮れに大阪城にて、老中の板倉候や会津候から京都へ嘆願の次第があるので、兵糧方の指揮を執るようにという命を受けます。彼は、正月早々に大阪を出発し、淀城にあった糒を受け取って伏見に向かいます。本来の命令は、京都の黒谷まで兵糧を届ける事だったのですが、とうていそこまで進めるような状況ではなかったので、いったん淀へ引き返し、3日に改めて伏見を訪れ、伏見奉行所の役宅に兵糧を届け、また新選組に対して炊き出しを行うべく打ち合わせをしていたところに、戦争が勃発します。坂本は、兵糧を差配するほか、幕府軍の負傷者を収容し、これを淀にまで運ぶという役割も果たしています。翌4日は再び淀から伏見に向かいますが、このとき幕府軍は伏見を捨てて淀に向かっており、彼もまた淀に引き返しますが、淀城が幕府軍の入城を拒否したため、その日と翌日は淀の町中で炊き出しを行ったと言います。そして、5日の夕刻、幕府軍が続々と八幡を目指して落ちていく中で、彼は最後まで淀に残っていました。そして、そこへ新選組の土方が現れます。土方は、既に味方は全て引き上げた、自分の後ろには味方は誰も残っていないと坂本に教えてくれます。それを聞いた坂本は残っている兵糧をまとめて、枚方の楠葉にまで後退しました。そして今度は、楠葉の名主の家に行って炊き出しのための場所を借り、近在の村から米の供出を受けて炊き出しを開始します。その一方で、この日の戦いで出た負傷者や戦死者の世話をするといった仕事もこなしています。このように、混乱を極めたような鳥羽伏見の戦いにおいても、ちゃんと兵糧を確保するための部隊が居て、与えられた任務を懸命にこなしていたのですね。

2004年11月17日 (水)

新選組!37の3

新選組! 第45回「源さん、死す」その3

土方達が伏見奉行所で聞いた砲声は、そこから北西の方角、鳥羽街道が鴨川を渡る小枝橋で、御所へ嘆願に向かうために北上してきた幕府軍とそこを守っていた薩摩軍とが衝突し、通せ通さぬの問答の末、ついに戦闘が開始された時のものでした。慶応4年1月3日、午後4時頃の事です。この砲声は、伏見のみならず、はるか北の御所にまで届き、公卿達を恐怖させたと言います。また、西郷はこの砲声を聞いて、「百万の味方を得るよりも嬉しかりし。」と語り、「まさに新しい歴史の始まり」と感激したと伝えられます。

この砲声を聞いて「出陣じゃ!」と下知を下した林権助は、このとき70歳を越える老齢でした。しかし、彼は会津藩の砲兵部隊を率いて奮戦します。会津藩の砲はわずかに4門、これに対する薩摩軍は御香宮にあった4門のほか、その後方の善光寺などに計10数門の大砲を擁していました。そして、会津藩の砲が旧式の前装式の青銅砲であったの対し、薩摩軍の多くは、新式の後装砲でした。このため、速射能力や命中精度に大差があり、しかも高台を占拠している薩摩軍に、圧倒的に有利な戦いとなりました。林はそうした状況の中でも一歩も引かず、4門の大砲を率いて戦い続け、ついには全身に八発もの銃弾を浴びて戦死するに至ります。

続きを読む "新選組!37の3" »

2004年11月16日 (火)

新選組!37の2

新選組! 第45回「源さん、死す」その2

1868年(慶応4年)1月2日、伏見奉行所。若年寄並陸軍奉行竹中重固を中心に軍議が開かれています。竹中に向かって意見を具申しているのは永倉。隣に土方も座っています。「御香宮を先に押さえるべき。」と進言する永倉に、「こちらは1万5千。向うは4千足らず。薩摩は攻めてこない。」と自信たっぷりな様子で断定を下す竹中。

竹中重固は、戦国時代に豊臣秀吉に仕えた天才軍師竹中半兵衛の子孫で、半兵衛の再来と謳われた俊英でした。鳥羽伏見の戦いでは、幕府歩兵軍を率い、伏見方面の事実上の総大将を努めていました。彼がどんな軍議を開き、どういった指示を出していたのかは判りませんが、常識的に考えれば数で圧倒的に劣る薩摩が軍事的な決戦に及ぶとは考えられない状況であった事は確かです。しかし、決死の覚悟で戦いを決意している薩摩に対して、幕府方は肝心の慶喜の態度が曖昧で、組織だった統制がとれないまま、各部隊がそれぞれの判断で京都に向かって進発していくという状況を考慮すると、幕府方は数だけが頼りで、隙だらけの軍勢だったと言えるのかも知れません。この軍議の描写は、そうした幕府方の油断と奢りを端的に表しているのでしょうね。それに、玄人の軍学者である竹中が、素人集団である新選組に意見を言われるなど、片腹痛いといったところなのでしょう。

永倉が言っていた御香宮は、ドラマの中の地図にも出てきたように、伏見奉行所とは道路一本を隔てた位置にあって、しかも高台にあたる事から奉行所内を俯瞰出来るため、ここから撃たれれば大砲でも鉄砲でも百発百中で命中するであろう事は、素人目にも明らかでした。ここを薩摩軍に押さえられる事はなんとしても防ぐべきだったのですが、実際には薩摩軍が陣を敷き、圧倒的に有利な体勢を築く事に成功しています。

このあたりの事情については、御香宮に「明治維新 伏見の戦跡石碑」というのがあるのですが、その碑文に一つのエピソードが書かれています。

実は、当初は幕府側もここに本営を置く予定でした。幕府側は、徳川氏陣営と書いた木札を門に掲げておいたのですが、これを見た御香宮の宮司は尊王贔屓だったので、直ちにこれを御所に知らせます。薩摩藩では事の重要性に気づき、急ぎ吉井孝助を派遣して御香宮に陣を構えさせ、幕府軍の布陣を防いだのでした。

このエピソードからすると、幕府方も御香宮の重要性には気付いていたようですね。ただし、その後の処置が間が抜けているというか、あまりにも粗雑に過ぎました。平時なら、徳川氏陣営と書いておけば誰もが遠慮をしてそこに陣を敷くなどとは考えなかったでしょうけど、これから幕府と一戦交えようという薩摩が見逃すはずがありません。もしかすると、御香宮は自軍の勢力範囲と勝手に解釈して、幕府内の他の部隊が陣を敷かないようにするための措置だったような気もします。

続きを読む "新選組!37の2" »

2004年11月15日 (月)

新選組!37

新選組! 第45回「源さん、死す」

冒頭、近藤狙撃シーンの再現。近藤が撃たれたのを見て、あたりを見回す島田。民家の窓に人影があるのを認めると、馬の尻を叩いて走らせます。島田は叫び声を上げながら、隊士二人を引き連れて民家に向かって駆け出します。民家から脱出する篠原と加納。倒れ込んだ近藤を乗せたまま街道を疾走して行く馬。

伏見奉行所で、山崎の治療を受ける近藤。近藤の敵を討つと言って立ち上がる土方達。それを必死に止める井上。井上の説得に折れ、近藤と沖田を大阪城に送る事にした土方。

墨染で近藤を邀撃したのは、ドラマにあった篠原と加納のほか、阿部、富山、佐原、内海の計6人だったようです。彼らの役割は、前回書いたように資料によって異なり、篠原の日記では自らが鉄砲を撃ったとし、阿部の証言では撃ったのは富山で、篠原と加納は伏兵として街道脇に居たとなっています。近藤が撃たれた後、島田ら隊士が馬の尻を叩いて走らせたのは阿部の証言にあるとおりですが、そのとき現場に居た島田の日記では、近藤自らが重傷にも屈せず馬に鞭打ったように書かれています。また、ドラマでは島田らが切り込んでいきましたが、実際に切り込んだのは御陵衛士達の方でした。これも、篠原と阿部とでは記述が異なっており、篠原は自ら槍を振るって一人を突いて、加納がこれに留めを刺し、もう一人を阿部と富山が切り伏せたと書いていますが、阿部の証言では二、三人は倒したが、近藤を襲うべく伏せていた篠原と加納は持っていた槍を捨てて逃げてしまい、このために近藤を討ち漏らしたと彼らを非難しています。

さらに、このとき斬られた人物にも何通りかあって、まず永倉の残した「浪士文久報国記事」では、石井清之進が鉄砲に撃たれた後で斬られ、草履取りの文吉もまた討ち死にしたとあります。次いで、「島田魁日記」では、井上新左衛門という隊士と奴の芳介が戦死したと書かれています。さらに子母澤寛の「新選組始末記」では、斬られたのは石井清之進と下僕久吉となっており、それぞれ異なった記述になっています。このうち討たれた隊士については、「京都ヨリ会津迄人数」という隊士名簿に井上新左衛門の名があり石井清之進の名が無いことから、墨染で命を落としたのは石井だったのかも知れないと考えられています。下僕(馬丁)の名前については、残念ながら特定出来ていないようですね。

近藤が伏見奉行所に帰り着いた時の様子は、「新選組始末記」に収録されている「稗田利八翁思出話」に詳しく書かれています。この日非番で門の前にぼんやり立っていた稗田の前を、猛烈な勢いで走りすぎる馬が居ました。時間は午後3時か4時頃だったと言います。稗田はこの頃入って間もない新隊士だったのですが、馬が前を通り過ぎてから乗っていたのが近藤であると気づき、近藤が「誰か居ないか、誰か居ないか!」と叫ぶのを聞いて側へ駆け寄ります。しかし、近藤は彼を無視して馬から降りるとどんどん奥へ入っていき、新入りの稗田は訳も判らずただおろおろするばかりでした。そのうち、お供の連中が集まってきて近藤に従って奥へ入って行き、代わりに永倉が「一番隊、二番隊の者は続け!」と叫びながら飛び出して来て、これに10人ほどの隊士がついて出て行きます。やがて、永倉達が口々に「いまいましい野郎だ。」と言いながら帰って来たため様子を聞くと、現場に急行したものの、そこにはもう誰も残って居なかったという事でした。ドラマでは井上に止められた永倉でしたが、実際には直ちに下手人探しに飛び出して行っていたのですね。そして、重傷にもかかわらず、近藤が自分の足で歩いていたというのは、ドラマにあったとおりのようです。ただ、その日の内に歩けたという事はなさそうで、稗田は、その夜は隊士一堂まんじりともせず心配して過ごしたと書き記しています。

また、近藤が土方に注意していた薩摩藩からの挑発ですが、実際にもあったようです。「浪士文久報国記事」によれば、薩摩、土佐、長州の兵隊が、毎夜奉行所の近辺に現れ、鉄砲を撃ったり、槍で塀を突くなどの挑発行為を行ないましたが、新選組ではこれを無視し、全く騒がなかったとあります。

近藤と沖田が収容されたのは大阪城とするのが一般的ですが、大阪奉行所屋敷に退いたとする説(佐藤彦五郎書簡)もあります。いずれにしても、新選組始まって以来の大戦が始まるというのに、後方で待機していなければならなかった近藤と沖田の無念は、察して余りあるような気がします。二人とも、きっと陣頭に立って戦いたかったことでしょうね。

2004年11月14日 (日)

どんぐりから育ったよ@秋味ぶろぐ

konara11.jpg

我が家のベランダの紅葉シリーズ、今日紹介するのはコナラです。これは、拾ってきたどんぐりから育てているものですが、今年初めて綺麗に色づいてくれました。少し撮るのが遅くて、盛りを過ぎちゃった感じですけどね。

コナラには、もみじとはまた違った、雑木林の紅葉の味わいがあります。

2004年11月13日 (土)

新選組!山崎蒸の日記発見

既に白牡丹のつぶやきさんで紹介されている記事ですが、新選組で諸士取調役兼監察(のち副長助勤)を努めていた山崎蒸の日記が発見されました。慶応元年5月から10月にかけてのもので、近藤勇ら隊士148人の名簿や、歩兵の調練書の書き写しがあるそうです。これまで全く謎に包まれてきた山崎のみならず、新選組監察部の活動の一端が判るかも知れない貴重な発見となりそうで、日記の内容の研究成果が発表されるのが待ち遠しいです。それにしても、まだまだ新しい発見が出てくるものなのですね。

ところで、この記事の影響で私のホームページnatureでも「施山多喜人」の検索経由でアクセスが急増しています。しかし、せっかく来て頂いてもそこには光縁寺に彼の墓があると書いてあるだけなので、詳しい情報を得る事が出来ません。そこで、ここ「ねこづらどき」で施山のプチマイナー隊士紹介をさせて頂く事にします。

施山多喜人は、瀬山滝人ともいい、上州館林の人です。生年は不詳。慶応元年5月に江戸で入隊したと言いますから、土方が伊東、藤堂、斉藤らと共に行った募集に応募したのですね。このとき新選組に入ったのは全部で54名で、新選組が組織として最も充実した時期に隊員となった訳ですが、同時にこの頃は組織内部に対する締め付けが最も厳しくなった時期でもありました。施山についてはほとんど記録が残っていないのですが、西村兼文が著した「新撰組始末記」に「瀬山滝人」として登場します。彼は、同期入隊の真田次郎(石川三郎)と共に、「町家ノ婦ニ密通シタル聞ヘアルヲ以テ、隊規ヲ犯セリト糾弾ノ上、隊中ニ於テ切腹セシメラレタリ。」と記されています。その時期は、光縁寺の過去帳の日付から6月21日とされています。「新撰組始末記」には、その施山の記事の前に、これもやはり彼と同期入隊の田内知が、妾宅で間男に不意を突かれて斬られた上に相手を取り逃がすという失態を犯したために「士道不覚悟」で切腹させられた(慶応3年1月10日)という記載があり、施山の場合と共に隊内の取り締まりが如何に厳重に行われるようになったかという一例に取り上げられています。

背山は、入隊後間もなく、いわゆる「局中法度」の犠牲となった事でその名を後世に留めるという、あまり名誉とは言えない最期を遂げている訳ですが、反面、新選組の峻烈な姿を私たちに伝えるという貴重な役目を果たしたとも言えます。本人にとっては、嬉しい事ではなかったでしょうけどね。ちなみに、彼と共に切腹したとされる石川三郎については、入隊後七番隊に入ったという以外、生国についてすら判っている事はありません。

今回発見された山崎の日記にも、背山ともう一人(おそらくは石川)についてそれぞれ6月21日切腹と書かれているという事ですから、彼らの最期がまた一つ資料によって裏付けられた事になりますね。そして、それは同時に山崎の日記の持つ信憑性が高いと言える根拠ともなりそうです。

この項は、別冊歴史読本「新選組の謎」、新人物往来社編「新選組資料集(新撰組始末記)」、文藝別冊「新選組人物誌」を参照しています。

2004年11月12日 (金)

湯波吉@京都 錦小路

yubakichi11.jpg

ゆばが大好きな我が家が、良く行く店がこの湯波吉。ゆばが美味しいのは勿論ですが、錦市場の東側入り口の近くにあって、便利なところにあるのもポイントの一つです。

yubakitiyuba.jpg

写真は、いくつかある商品の中の一つ大原木ゆば。ゆばを細い昆布で巻いてあるのが特徴です。このほか、生の引き上げゆばも美味しいので良く買います。

yudoufu11.jpg

そして、これが湯豆腐に入れたところ。10個入りなのですが、4人家族で喧嘩にならない様に8個しか入れていないところがポイントです。この大原木ゆばは、普通のゆばの美味しさに加えて昆布の旨味を味わう事が出来ます。歯ごたえもコリコリとして、なかなか良いですよ。

これから鍋が美味しい季節。我が家の食卓に、ゆばの出番が多くなりそうです。

2004年11月11日 (木)

新選組!36の4

新選組! 第44回「局長襲撃」その4

1867年(慶応3年)12月18日。近藤の別宅に居る沖田を、土方が見舞っています。彼もまた、朝鮮人参を土産に持って来ていました。局長や斉藤が同じ物を持ってきたと知り、がっくりする土方。お孝に持ってきた人参を差し出しますが、沖田は、これ以上お孝を元気にしては大変だ、と憎まれ口を叩きます。それを聞いて、お孝はふくれっ面になり、持っていた人参で沖田をつっつきまわします。じゃれる二人の様子はまるで仲の良い姉弟のようです。そんな二人を見て、思わず笑みがこぼれる土方。帰り際お孝に礼を言う土方に、しんみりした口調で、沖田は伏見に行きたい様だと告げるお孝。部屋の中からは、沖田の苦しげな咳が聞こえています。沖田が伏見に来ないように見張っていてくれと土方に頼まれ、黙って頷くお孝です。

続きを読む "新選組!36の4" »

2004年11月10日 (水)

新選組!36の3

新選組! 第44回「局長襲撃」その3

薩摩藩邸。西郷と大久保が囲碁をしながら話をしています。自重論を説く近藤を排除するため、御陵衛士の残党を利用しようとする大久保。単純明快な新選組の近藤に比べて、なんとも老獪な薩摩藩の二人の策士です。

続きを読む "新選組!36の3" »

新選組フィギュア 4

yamanami.jpg

東日本で先行発売されていた「新選組戦場録」シリーズが西日本でも発売され、やっとゲットする事が出来ました。早速箱を開けてみると、なんと一番欲しかった「山南敬助」ではないですか。やったー!

でも、組み立ててみて改めて思ったのですが、このフィギュア、倒れた浪士を踏みつけてそこを拝み撃ちにしようとしている、かなりえげつないシーンなんですね。ドラマの堺「山南」とは随分イメージが異なります。まあ、実戦なんてこんなものなのでしょうけど。

前シリーズは、斉藤一がゲット出来ないままになっています。このシリーズはどこまで揃える事が出来るやら。暫くはコンビニへ行くのが楽しくなりそうです。


2004年11月 9日 (火)

新選組!36の2

新選組! 第44回「局長襲撃」その2

二条城の廊下。甲冑を着た武者が、慌ただしく走って行きます。それを見送って廊下を歩く近藤と島田に、会津候に戦を思いとどまる様進言してくれと頼む広沢と小森。切々訴える小森を、黙って見つめ返す近藤。

続きを読む "新選組!36の2" »

2004年11月 8日 (月)

新選組!36

新選組! 第44回「局長襲撃」

1867年(慶応3年)12月9日、薩摩、土佐、福井、芸州、尾張の5つの藩が御所の守備につきます。その報告を寝室で松平容保から受け、飛び起きる慶喜。慶喜が不在のまま、明治天皇より王政復古の大号令が発せられます。これにより、徳川幕府は正式に廃止され、朝廷を中心とした全く新しい政府が発足したのでした。

近藤を前に、薩長に対する憤懣をぶちまける容保。

薩長の動きは全ては読み筋であるとし、諸外国にとって日本の代表は自分だと余裕を見せる慶喜。

王政復古の大号令とは、摂政・関白や幕府・所司代などの組織をすべて廃止し、総裁・議定・参与の三職をおいて新政府を組織するというものでした。ドラマではこのクーデターを慶喜が知っていたと言っていましたが、手元に詳しい資料が無いので正確には判りませんが、そういう説もあるようですね。しかし、当日の動きをみると、完全に不意を突かれたものでした。まず、前日に長州藩の処分を巡る会議が行われ、これが翌日の朝にまで続きます。この会議において、長州藩親子の罪を解くという決定がなされ、また、岩倉具視の赦免も行われています。これによって、クーデータのために必要な役者が揃った訳ですが、この会議が終わって幕府寄りの公卿である二条摂政らが退席したあと、にわかに御所の諸門が固められられました。このとき朝廷内に残っていたのは薩長寄りの公卿達で、そこに蟄居を解かれたばかりの岩倉が参内し、その場で王政復古の大号令が発せられたのでした。幕府は、頼りとする二条摂政らが参内出来ず、かといって無理に御所に入ろうとして発砲すればたちどころに朝敵にされ、しかもその間、御所の内部で政敵によって一方的に処分が決められてしまうという、政戦共に手出しが出来ない八・一八の政変と丁度反対の立場に置かれてしまったのです。

次に、慶喜は諸外国の総代は自分だと言っていますが、事実このあと慶喜は各外国の大使と会って、「依然として日本の代表は自分が努める。」と宣言しています。これに対する各国の反応は、一言で言ってしまえば局外中立でした。そんな中でもフランスは幕府に肩入れして薩長に勝たせたかったようですが、これは慶喜の方が拒否したようです。この状態は戊辰戦争が終わるまで続き、例えば幕府がアメリカに発注した当時の最新鋭艦「甲鉄艦」という船があったのですが、アメリカは局外中立の立場を堅持して、これを旧幕府にも新政府に引き渡す事を拒否しています。

続きを読む "新選組!36" »

2004年11月 7日 (日)

ヨメナ@秋味ぶろぐ

yomena11.jpg

近所で見つけたヨメナ。家の土台の石垣の間から生えていました。このヨメナは野紺菊との区別が難しく、本当のところは自信が有りません。これは野紺菊じゃないかと突っ込みが来たらどうしよう...。

ヨメナは、若芽が食用とされ、嫁が作る菜という意味なのだそうです。食べた事はないですが、菊菜に似た味がするのでょうか。同じようでも、関東以北に生えるカントウヨメナは食べないそうです。なんででしょうね。堅いとか、まずいとか、何か理由はあるのかな。

秋の夕日に♪@秋味ぶろぐ

momiji11.jpg

「秋の夕日に、照る山もみじ♪」

これは、山ならぬ我が家のベランダにある、鉢植えのもみじ。植えてから5年目になりますが、こんなに綺麗に紅葉したのは初めてです。西のベランダでやや日陰になるのですが、それがかえって幸いして、葉焼けを起こさなかったのが良かったようですね。陽当りの良い南のベランダに置いてある鉢は、残念ながら茶色く縮れてしまって紅葉には至っていません。

このところ、朝晩がめっきり冷える様になりましたが、それで一気に色づいたのですね。部屋の中で楽しむ秋というのも、また良いものですよ。

2004年11月 6日 (土)

新選組!始末@京都

sinkyougoku11.jpg

大河ドラマ「新選組!」も、後残すところわずかに6回となりました。この一年大いに賑わった京都でしたが、白牡丹さんの紹介する記事によると、壬生には例年の10倍の人が訪れたのだとか。うーん、凄いですね。

写真は新京極通りを飾る「誠」の隊旗。ずらりと並んでなかなかの壮観です。真ん中の看板は池田屋騒動を描いたもの。まさに京都はこの一年、新選組騒動に沸きました。でも、このディスプレイももうじき終わりなんですね。

ところで来年の大河の舞台も、再び京都が中心となります。今度は「誠」に代わって、「源氏の白旗」が通りを埋めるのかな。新選組フリークの私としては寂しい限りですが、京都の商店街にとっては2年続けて嬉しい出来事なのでしょうね。気分を変えて、どんなイベントを仕掛けてくれるのか、楽しみに待つとしますか。

七五三@秋味ぶろぐ

sitigosan11.jpg

11月は七五三のシーズン。今日は朝から快晴で、近所の神社にも何組かの参拝客が来ていました。晴れ着を着た子供を中心に、あちらこちらで記念写真をパチリ。やっぱり、女の子は華やかで絵になりますね。

七五三の行事とは、三歳の男女は「髪置き」、五歳男子は「袴着」、七歳女子は「帯解き」のお祝いをするという事なのだそうです。それぞれ、髪をのばし始める、初めて袴をつける、帯を使い始めるという意味があるのだとか。

今はそんな起源はほとんど忘れられてしまっていますが、子供の無事な成長を祝う親の心はいつまでも変わらないようです。

2004年11月 5日 (金)

おぼろ豆腐@京都

kinki11.jpg

京都で美味しいものの一つが豆腐。有名な豆腐屋さんはいくつもありますが、我が家がよく行くのは、ここ「賀茂とうふ 近喜」。木屋町四条下がるという便利な場所にあって、しかも美味しい豆腐を買う事が出来ます。

oborotoufu.jpg

このお店の代表的な豆腐が、この「おぼろ豆腐」。普通の豆腐よりずっと柔らかく、大豆本来の味と甘みが濃厚なのが特徴です。何も付けないでそのまま食べても美味しいし、薬味を添えて醤油を垂らして食べてもやっぱり美味しい豆腐です。一丁320円と豆腐にしてはやや高いですが、値段だけの事はありますよ。

近くにある村上重の漬け物とベアで買って帰るのが、京都へ行く楽しみの一つです。

御陵衛士達の眠る丘

koumeryou.jpg

秋晴れの文化の日、御陵衛士達が眠る泉涌寺へ行ってきました。まず訪れたのが、彼らが守りに就くはずだった孝明天皇陵です。正確には、後月輪東山陵。幕末ぎりぎりになって復活した土葬の墓で、円丘が築かれています。御陵衛士達が居た頃にはまだ完成しておらず、彼らが実際にどのような仕事をしていたのかは不明です。ただ、孝明帝の法要はしばしば開かれていたらしく、本来の衛士としての活動もあったものと思われます。

kaikouji11.jpg

次に、彼らが御陵衛士となるべく朝廷に働きかけたという湛念長老が居た、泉涌寺塔頭の戒光寺です。運慶・湛慶父子の作と言われる身の丈5.4メートル、光背と台座を含め約10メートルの釈迦如来像を本尊としており、この像があることから「丈六さん」の別称があります。首から上の病や悪しきことの身代わりになって下さる身代わり釈迦と言われており、重要文化財に指定されています。この寺は1228年(安貞2年)に創建されており、応仁の乱で焼けた後、一条戻橋からさらに現在地へと移ったとされています。泉涌寺には、山内で完結する泉山七福神巡りがあるのですが、ここには最澄作とされる弁財天像があり、いかなる願いも必ず成就させる融通尊と言われています。

kaikouji12.jpg

そして、御陵衛士達の墓。左から、服部武雄、藤堂平助、伊東甲子太郎、毛内有之助の墓石です。この他、写真には写って居ませんが、佐原太郎、富山弥兵衛、清原清といった御陵衛士、そして守護職屋敷で果てた佐野七五三助、茨木司達の墓もここにあります。油小路事件の放送があってから間もない頃でしたので、多くの人が訪れているかと思っていたのですが、案に相違して我が家の他には誰も居ませんでした。ただ、墓地は綺麗に掃き清められ、花も供えてあった事から、ちゃんと世話をする人が今でも居る事が判ります。勿論、写真を撮る前に手を合わせて、冥福をお祈りした事は言うまでもありません。この墓所は、戒光寺からはずっと離れた泉涌寺の入り口である総門の手前の左側にあるので、訪れるときには注意が必要です。

続きを読む "御陵衛士達の眠る丘" »

2004年11月 4日 (木)

新選組!35の4

新選組! 第43回「決戦、油小路」その4

新選組屯所で、対御陵衛士戦の作戦を、原田、永倉と打ち合わせしている土方。御陵衛士達をおびきよせ、これを待ち伏せすると作戦を示します。さすがに土方は、戦いとなるととたんに冴えてくる様ですね。さっき、伊東の殺害現場周辺を見渡しているうちに、どういう作戦を採るのが良いか既に考えついていたようです。この土方の作戦を聞いて、黙って頷く永倉と原田。そして、藤堂を死なせるなと二人に念を押す土方。

続きを読む "新選組!35の4" »

2004年11月 3日 (水)

新選組!35の3

新選組! 第43回「決戦、油小路」その3

月が群雲に隠れていき、雨が降り出してきました。近藤の別宅で対座している近藤と伊東。強風が部屋の中に吹き込み、今にもろうそくの火を吹き消しそうです。それを見て立ち上がり、開け放した障子から外の様子を窺う近藤。その近藤を背後から見つめる伊東の表情に殺気が宿ります。その気配を察しつつ、近藤は静かに障子を閉めます。

続きを読む "新選組!35の3" »

京都 東福寺@秋味ぶろぐ

tuutenkyou11.jpg

文化の日、秋晴れに誘われて出かけてみました。行き先は京都の紅葉の名所、東福寺です。上の写真は通天橋の様子。段々と色づいて来てはいますが、本番と呼ぶにはまだ少し遠いですね。やっぱり、今月半ば以降が見頃でしょう。

toufukuji11.jpg

そんな中でも、見頃を迎えている木もありました。これなんか、なかなか鮮やかでしょう。緑の木が多い中で、一段と映えてました。人出も普段よりは多いかなといったところ。そろそろ本番を迎えつつある、秋の京都です。

2004年11月 2日 (火)

新選組!35の2

新選組! 第43回「決戦、油小路」その2

高台寺の御陵衛士屯所で、枯山水の庭を前に思い悩んでいる伊東甲子太郎。ついに決心が付いたのか、「加納。」と腹心の部下を呼びます。「斉藤君を呼んでくれ。」と伊東に指示された加納は、無言で頷いて部屋を出て行きます。

1867年(慶応3年)11月18日。斉藤に向かって、指示を出している伊東。「手筈は、こうだ。まず、近藤に書状を送り、新選組に戻りたいと訴える。取り決めにより、御陵衛士から新選組に移る事は出来ない事ななっておるゆえ、密かに会って話がしたいと持ちかけ、近藤を一人で呼び出す。やってくれるね。斉藤君。」と伊東に言われて、無言で小さく頷く斉藤。「同志達の間には、君が新選組の間者ではないかという声が、未だに聞こえてくる。このへんで、疑いを晴らしておき給え。」伊東自身がどう思っているかは判りませんが、斉藤は内心の動揺を隠すように感情を消したまま、「承知。」とだけ答えます。そこに、加納が「斉藤君一人では、心もとない。誰か付けた方が良いのでは。」と伊東に助言し、それを聞いた伊東は試す様に斉藤をじっと見つめます。斉藤はここで初めて表情を動かし、「侮るな。」とぎこちなく笑います。それを見た伊東は厳しい表情になって、「篠原を呼んできなさい。」と加納に命じます。「かしこまりました。」と席を立つ加納。後に残った斉藤はやや上目遣いに伊東を見つめ、伊東は依然としてきびしい目をして斉藤を見据えています。

続きを読む "新選組!35の2" »

2004年11月 1日 (月)

新選組!35

新選組! 第43回「決戦、油小路」

冒頭、龍馬暗殺シーンの再現。龍馬の暗殺によって、時代は武力討幕に向けて動き始めていました。そのうねりの中で、その裏には波に乗りきれない男達の悲劇がありました。岩倉卿を前に集まっている勤王の志士たち。彼らに向かって、岩倉卿が演説をしています。「慶喜が、政権返上して、我らを出し抜いたつもりでおるんやったら、今度は、わしらが慶喜を出し抜く番や。大久保君。」「政権を、返すちいう事は、これまでの失政を認めたちう事。よって、徳川慶喜は、この際、その一切の官職を辞し、領地を返上すべきである。そいに従わん場合は、逆賊として、徳川を討つべし。」大久保の提案に、口々に賛意を示す志士たち。その中で、伊東だけが違う反応を示しました。末席から背を伸ばし、おもむろに声を上げる伊東。「今、日本がなすべきは、富国強兵であります。国を富まし兵力を蓄える。その為には、進んで外国と貿易を行う事が肝要と心得ます。」と彼の持論である大開国策を開陳する伊東ですが、その声は志士たちの雑然とした声に紛れて、ほとんど聞き取れません。その様子を、伊東の背後から気遣わしげに見ている藤堂。あまりに騒然とした様子に、岩倉は「こらっ!一編にしゃべんな!うるそうてかなわん。」と一喝して皆を黙らせ、「よっしゃ、順番に聞いて行こうかいな。」と改めて議事を進行させます。一転して、何も言わなくなる志士たちの中で伊東が立ち上がり、「どうか、私に発言の機会をお与え下さい!」と叫びます。一斉にうさんくさそうに振り返る志士たち。その視線の中で、「御陵衛士、伊東甲子太郎であります。私の唱える大開国策を、是非、岩倉卿にもお聞き頂きたく、参上いたしました。」と堂々と岩倉に向かって演説を始める伊東とそれを頼もしげに見上げる藤堂ですが、当の岩倉は大久保に向かって、「あれは、何者や。」と聞いています。岩倉は以前に伊東と会ったのを覚えていないのでしょうか。岩倉に「新選組におったもんごわす。」と答える大久保。そのやりとりが聞こえていない伊東は、「今、日本がなすべきは、国を富まし、」とさらに声を励まして演説を続けようとしますが、突然岩倉が手を叩いて、伊東をさえぎります。「あんたの話はええ。」と岩倉に言われて、「は?」と絶句する伊東。その伊東に向かって「新選組におったくせに、なんやあ。」と吐き捨てる様に言う岩倉に、微笑みながら「今は離れております。そもそも、この伊東甲子太郎、尊皇の思い強く、」と抗弁を試みる伊東ですが、「ああ、徳川の手先やったもんの話なんか、聞きとうない!」と手酷くやり込められて、言葉を失ってしまいます。さらに続けて「あんたなあ、ここにおられるだけでも、ありがたいと思え。名は、なんやったかいな。」と居丈高に迫ってくる岩倉に、伊東は精一杯の笑みを浮かべて「伊東でごさいます。」と答えますが、岩倉は「ああ?」「伊東。」「後藤?」となんとも意地悪く応対し、それを聞いていた志士たちからも失笑が漏れます。「伊東でございます。」と最後に声を励まして言う伊東ですが、「どっちでもよろしい!隅に控えておれ。」と岩倉にやり込められ、呆然と座り込んでしまいます。その様子を藤堂が痛ましげに見ています。「さあ、皆の意見をきかしてくれ。」と改めて発言を促す岩倉。

続きを読む "新選組!35" »

« 2004年10月 | トップページ | 2004年12月 »

ねこづらどき

最近のトラックバック

無料ブログはココログ